●由紀草一〔著〕 ●洋泉社 ●740円+税
本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。
本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。
もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。
人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。
マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。
(1)政治体験
具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。
著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。
そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。
グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。
ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。
政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。
日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。
革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。
団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。
(2)歌ったのは「団塊」だけではない
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。
形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。
団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。
(3)世代批判の不毛性
繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。
たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。
何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。
「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。
団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。
メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。