●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●514円(+税)
最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。
まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。
粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。
本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。
そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。
これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。
その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。
81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」
印象を書きとめておこう。
起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。
『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。
本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。
『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)