2006年5月20日土曜日

『英霊の聲』

●三島由紀夫〔著〕 ●河出文庫 ●683円+税

FI2566211_0E.jpg 『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬 豊饒の海(三)』に結実する。

『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。

神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。

この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。

「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。

以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。

二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。

死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。

三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。

三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。

底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。

『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。

本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->