●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●620円(+税)
物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。
勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。
ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。
ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。
時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。
第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。
本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。
このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。
本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。
結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。