●小阪 修平〔著〕 ●ちくま新書 ●735円(税込)
団塊世代特殊論と全共闘世代が混同して語られる論調が多い中、本書は、全共闘運動をまともに扱った数少ない書だ。本書によって、団塊世代と全共闘運動家の相違点が世間に了知されたはずだ。そればかりではない。著者(小阪修平)は、全共闘の思想的課題に対して、倫理的に向き合った数少ない元全共闘活動家であると言えよう。
しかし、本書の全共闘論すなわち著者(小阪修平)の運動歴が全共闘のすべてではない。著者(小阪修平)は全共闘と真正面から向き合ってはいるが、その全共闘体験は限られたものだ。著者(小阪修平)はセクトに属さない(当時、ノンセクトラディカルと呼ばれた)、つまり、市民運動として、全共闘に関わった学生のようだ。だから、著者(小阪修平)の<思想>もそこに縛られている。本書は全共闘運動をノンセクトラディカルとして担った者の総括という枠組みに限定されている。
本書の指摘を待つまでもなく、同世代の学生(つまり団塊世代)がすべて全共闘運動に流れたわけではない。著者(小阪修平)が言うとおり、時代の潮流に絡め取られた人もいれば、そうでない人もいた。同じ団塊でも、後者にとって全共闘は、大学生活を混乱させた許し難い存在だった。
全共闘運動の時代とは、一言で言えば変革期だった。第二次世界大戦後成立した東西冷戦構造から20年余を経て、東側ではスターリン主義の見直しが始まっていたし、西側では公害問題、ベトナム戦争、市民社会の拡張・高度化といった、転換期を迎えていた。全共闘運動は、このような世界史的変革を背景にして起こった。
近代以降の日本における大衆反乱、政治的動乱は、もちろん、全共闘運動だけではない。その代表的なものとして、まず、維新直後(1870年ごろ)、各地で起こった士族反乱が挙げられる。最も大規模なものが「西南の役」だった。
二度目は、昭和初期(19300年代)、青年将校を中心とした、天皇制原始社会主義を目指したクーデターがあった。「5.15事件」「2.26事件」として、現代史に刻まれている。アジア太平洋戦争直後(1950年前後)には、日本共産党の武装闘争があり、「血のメーデー事件」が名高い。そして、1960年の「安保闘争」を経て、1970年前後の全共闘運動に至る。
全共闘運動は、それ以外の運動と比べると、体制に与えた影響、反乱の規模等の観点からして、最も「弱い」運動だったと考えられる。たとえば、全共闘運動の直前にあった60年安保闘争の方が、参加した階層の多様性、闘争参加者の数量において、全共闘運動を圧倒している。全共闘運動は学生(一部に反戦青年委員会の参加をみたが)に限られていたという面で、極めて限定的運動だった。旧左翼は、全共闘運動を学生による、プチプル急進主義と批判した。旧左翼の指摘は一面の真理をついていた。全共闘運動は、左翼少数派の運動にすぎなかった。
本書にあるとおり、全共闘運動と新左翼(反代々木、反スターリニズム)運動との関係は、微妙に入り組んでいて、截然と分けにくい。全共闘運動参加者の一人ひとりの参加意識によって、とらえ方が異なっている。
たとえば、新左翼各派に属する専門的運動家からみれば、学内全共闘は大衆組織と位置付けられていたから、全共闘の下に結集した学生たちを自陣に引き込もうと努力したはずだ。その一方、著者(小阪修平)のように、全共闘運動=無党派・非政治組織を目的意識的に担った学生にとっては、新左翼各派の政治運動と全共闘運動はきちんと峻別されていた。しかも、全共闘運動参加者各人の参加意識は、わずか数年の差異によって微妙に変化している。著者(小阪修平)はそれを「何年に大学に入ったか、その入射角によって、反射角が異なる」と表現している。
本書にあるとおり、著者(小阪修平)が参加した「べ平連」(=ベトナムに平和を市民連合)は、全共闘運動とほぼ同時期に活動していた市民団体だが、「べ平連」参加者は、実力行使を伴わないカンパニアデモに、全共闘として参加する場合もあれば、「べ平連」として参加する場合もあった。
全共闘運動が幕を引くことになった1969年秋――新左翼にとってまさに「決戦」のときだったのだが――、闘争の第一の山場、佐藤訪米阻止闘争には、「べ平連」の運動家たちの多くは、「べ平連」の実質的上部学生組織であるプロレタリア学生戦線(フロント)に吸収され、「プロレタリア戦士」として、「決戦」に臨んだ。フロントの上部団体は統社同(統一社会主義者同盟)だった。
統社同は、1960年代初頭まで、構造改革を綱領とする修正主義政党だったのだが、同党に限らず、構造改革主義党派は、全共闘運動とともに活性化したマルクス・レーニン主義の新左翼各派の影響を受け、構造改革の綱領を書き直して路線変更をし、マルクス・レーニン主義政党になった。彼らのスローガンはいつのまにか「構造改革」から「プロレタリア世界戦争勝利」に変わっていた。
「べ平連」は、1969年秋の「決戦」直前、新左翼敗北前に、党派に吸収されるという形で自然消滅した。そして、組織としての全共闘も「べ平連」と同じように、このとき吸収・解体・消滅した。「べ平連」のような無党派市民団体は、新左翼各派の表向きの大衆動員装置であった。表向き無党派で高校生を中心に組織された反戦高協は、中核派の高校生組織だった。
学内全共闘は、著者の分析に従えば、1968年の東大・日大闘争から1969年「4.28沖縄闘争」までの短期間、無党派の自然発生的学生集団だった。しかし、先述した「決戦」が近づくに従い、新左翼各派の下部大衆組織に様変わりした、という見方は正しい。
全共闘が新左翼各派に吸収されていった力学は、新左翼各派の組織戦術の成果に還元できるものではない。新左翼運動は、統社同の変容を例外とせず、原理主義に純化していった。本書にもあるように、全共闘運動は学生運動という大衆の枠組みからスタートしながら、運動を重ねるごとに、原理主義化した。
原理主義の1つは戦術論レベルに現れた。新左翼各派は大雑把に言えば、ロシア革命どおりに日本に革命を起こすことを自らの任務と自覚した。他党派がロシア革命という「原理」から逸脱していれば、「修正主義」として批判した。原理主義の帰結は武装蜂起だ。この流れが共産同(共産主義者同盟)赤軍派結成につながる。
ロシア以外の共産主義革命の方法として、毛沢東主義を取り上げたセクトもあった。毛沢東主義を原理主義的に純化した党派としては、共産主義者同盟ML派や、後に共産同赤軍派と連合した日共革命的左派=京浜安保共闘があった。
組織論レベルの原理主義もはなはだしかった。党形成、大衆の組織化の方法だ。革命的マルクス主義の自覚の論理という主体の思想形成を第一とする党派と、大衆運動で党を量的に拡大する運動方針を唱えた党派は、双方に非妥協的な対立を生んだ。
先述した構造改革派は、学園内における他党派との論争過程で修正主義として退けられるか、あるいは、党内の突き上げにあって、原理主義的マルクス・レーニン主義への路線転換を余儀なくされた。武装蜂起を革命の方法に据えなければ、原理主義で理論武装した新左翼各派との理論闘争に勝てなかった。
革命の方法論としては、次第に、「ロシア革命」さえも乗り越えなければならなくなった。「ロシア革命」の不完全性が「一国革命主義=スターリン主義国家=ソヴィエト連邦」の成立に至ったという歴史認識だ。「ロシア革命」の限界は、一国革命にとどまったことだと。新左翼各派は、世界革命、永続革命を夢想した。世界一国同時革命、プロレタリア世界戦争といった、勇ましいスローガン=原理主義が登場した。
全共闘運動の中のノンセクトラディカル活動家は、党派から原理主義的批判に晒された。“君らの運動には限界がある、世界革命が成功しなければ、だれも解放されない”と。こうした問いかけにまともに応対した「べ平連」活動家らの多くは、1969年秋の「決戦」前にフロント戦士に自己変革を遂げ、党派の一員となったように、学内全共闘活動家の多くが新左翼各派に吸収されていった。こうして、組織としての全共闘は解体・消滅した。
かりに、全共闘のノンセクトラディカルが党派の勧誘を断り、ノンセクト独自の思想と運動論を用意していれば、1969年秋の「決戦」を越えて、全共闘運動は思想=組織として、持続した可能性もあった。それができなかったということが、全共闘の思想としての限界だった。政治を回避していたノンセクトラディカルも、1969年秋の決戦における敗北以降に始まった政治的退潮に抗すことはできなかった。それが全共闘の組織としての限界だった。
本書にあるとおり、全共闘運動・新左翼運動の退潮の後、セクトの原理主義はますます急進化し、ハイジャック、連合赤軍事件、内ゲバ殺人、爆弾闘争、世界赤軍(国際的テロリズム)へと急旋回した。また、後世の脱イデオロギー化した時代状況の中、1990年代のオウム真理教によるサリンテロにまでエスカレートしたことになる。この帰結を、全共闘運動に帰するのか、それとも、新左翼運動に帰するのかは定かではない。
さて、1980年代以降の日本の方向性を行政風に表現すると、▽都市化▽情報化▽国際化の3点に集約できる。ところが、1960年代後半から1970年代初頭にかけて活性化したムーブメント、すなわち、革命運動・ヒッピー運動・サブカルチャーの隆盛等のムーブメントは、この3点を先取りしたものだった。
第一に、著者(小阪修平)のような地方から東京に出てきた学生の多くは、東京において既に進められてきた「都市化」に対し、著しい違和を感じたようだ。全共闘運動は、多くの学生が抱いた違和をバネに急進化したともいえる。急激な都市化によって、学生達が旧来の共同体的存在から分離され、実存を強く意識したと換言できる。新左翼が初期マルクスの疎外という概念を持ち出したものは、「疎外された労働」という初期マルクスの概念を借用しながら、都市化した環境に適合しにくかった地方出身学生の心情(疎外感)を代弁した可能性もある。
第二の「情報化」については、当時はまだIT化を意味しないけれど、マスメディアとくにテレビの普及発達、そして、それと並行して生まれたメディアの多様化現象が適合する。たとえば、全共闘運動活動家の愛読書は朝日新聞社から刊行された『朝日ジャーナル』、ファッション情報を満載した『平凡パンチ』、そして漫画『少年マガジン』といったサブカルチャーの雑誌類だった。さらにそのころ、ロック専門誌、映画専門誌、ライフスタイル専門誌等々の新雑誌が刊行され、若者に読まれるようになった。こうした急激な「情報化」の進展は、全共闘運動と無縁ではない。
第三の「国際化」については、新左翼各派がロシア(ソ連)及び中国といった、既成の社会主義国家以外――南米、北朝鮮、中東、アメリカ、ヨーロッパなどに関心を抱いたことで明確だ。もちろん、社会主義運動は「第3インター」「コミュンテルン」「第4インター」といった国際組織が世界各地をつなげてはいたけれど、そうした流れとは別個に、ゲバラ(=南米を拠点とした革命家)、マルクーゼ(アメリカの新左翼思想家)、サルトル(フランスの実存主義哲学者)、キング牧師(アメリカの公民権運動活動家)、アメリカの学生運動、ヒッピー運動、マルコムX(アメリカの黒人革命家)、「フランス5月革命」、中国文化革命などの影響を受け、実質的ではなく意識的に連帯した。
さらに、旧左翼からは異端とされた、ローザ・ルクセンブルク(ドイツの革命家)、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの社会運動家)らの復権もあった。
これまで、外国といえばアメリカ、共産主義運動といえばソ連、中国――といった世界観から、この時期、日本人が抱いていた「世界」という概念が爆発的に拡大したことが認められる。
全共闘運動――新左翼運動を含めて――は、政治思想としては、今日世界中を席巻している原理主義およびテロリズムを先取りしたものだった。それが日本における30数年の経過で失敗と証明されている以上、原理主義は国を選ばず滅びる。とは言え、全共闘運動の失敗が、現状に対する異議申し立てすべての失敗を意味するわけではない。全共闘運動は、「観念の遊戯」であったがゆえに、持続性も普遍性も持ち得なかった、ということだ。そこを反省の核とするならば、これから先、なんらかの形で異議申し立てが必要な局面において、全共闘運動体験が生かされる可能性がまったくないとは言えない。