2006年8月21日月曜日

『靖国神社「解放」論』

●稲垣久和〔著〕 ●光文社 ●952円+税

靖国問題の最終解決方法

靖国問題の背景には、戦没者という霊的存在と、遺族という世俗的存在がある。このたびの靖国問題の発端は、小泉首相が靖国参拝を後者に公約したことから始まり、現在に至っている。

手続き的には、小泉首相の靖国参拝はそれなりに、多数決原理に適っている。国民が小泉首相の公約に「ノー」ならば、自民党は先の総選挙で大勝するはずがない。先の総選挙で、小泉靖国参拝は、信任されたのだ。

だから、靖国参拝を民主的に解決する方法はただ一つ、「靖国」で民意を問うこと以外ない。

もっとも至近にある選挙が来年の参院選ならば、野党である民主党等は、先の小泉首相が採用した、「郵政民営化、イエスかノーか」を倣って、「靖国参拝イエスかノー」のワンイッシ一選挙を仕掛けるしかない。

靖国問題は、けして枝葉末節の問題ではない。少なくとも、・日本の戦争責任について、▽国民国家のあり方、・戦争か平和か、▽自衛隊違憲か合憲か、▽日本の外交のあり方・・・もっといえば、維新後の日本を是と見るか非と見るかであり、戦後日本国憲法を認めるか否かまでも包括した問題なのだ。

自民党が靖国参拝を打ち出せば、自民党政権の本質が見える。来年の参院選は、今般の諸問題を総合的に争点とするよりも、靖国一本に絞ることのほうが、はるかに国民にとって有益な選挙となる。

〔公共〕という第3項では解決できない

さて、本書の批評に戻ろう。本書は、靖国神社問題を〔私-公-公共〕という3元的位相の設定で解決を図ろうという試みだ。一般には、私(個人)と公(国家等)という対立項があるが、著者(稲垣久和)は、それ以外に公共という位相を設定する。ただし、公共というのは容易に理解し難い概念である。著者(稲垣久和)の定義を解釈すると、公共とは〔市民原理〕と換言できるように思う。〔市民原理〕は、私(個人)及び公(国家)より、先験的に上位にあるもののようだ。

靖国問題の場合、私人=小泉純一郎、公=国家=内閣総理大臣が参拝を志向し実践しているが、それは公共に反する、しかも、靖国参拝に限らず、公共原理に反する行為等については、〔公共原理〕が自動的にそれを禁止・制御できる、というのが著者(稲垣久和)の論理構成のようだ。著者(稲垣久和)の結論は、公共(=市民原理)から導き出された無宗教の戦死者慰霊施設を公共的組織が造営・管理し、宗教を問わずに戦死者を慰霊すればいいとなる。

しかし、世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「支持する」と回答した人の割合はおよそ40%超を占め、「支持しない」とほぼ同率で拮抗している。著者(稲垣久和)のように、〔公共原理〕が世論の40%超を無原則的に切り捨てていいのだろうか。それが民主主義なのだろうか。靖国の問題は、〔公共原理〕を持ち出せば解決できるほど、易しい問題ではない。

帝国憲法、日本国憲法を問わず、国家が遂行した戦争犠牲者は、国民の負託を受けた国家がそれを管理してきたが、〔市民原理〕が国家を越えて管理できるというのが著者(稲垣和久)の主張だ。

しかし、市民社会が国家から自由である法的根拠をどこに求めたらいいのか。戦争犠牲者を国家の手から奪い返して、市民が独占するとは、どういうことなのか。それは、市民社会が国民国家を廃絶するか、国民国家を市民社会原理に基づき統治する、新たな統治機構が存在しなければ、国民から負託された国家行為を禁止したり無視したりできないのではないか。市民社会が国民国家を廃絶すること及び新たな統治機構を設立することは、靖国問題解決より、はるかに難しいことではないのか。結局、国民国家の枠組みにある以上は、国民が国家を制御するしか方法がない。

靖国神社の建立目的と機能

靖国参拝は心の問題、すなわち「私」の領域に属することだから、公人という立場は存在しない、というのが首相見解である。一方、憲法は個人(私人)の宗教の自由を保障するものの、国家が特定の宗教を保護することもその反対に弾圧することも禁じている、つまり、首相(公人)という立場で特定の宗教施設に出入りし、参拝、祈祷、祈念することは憲法違反だという見解がある。もちろんいま現在、双方の見解が対立したままだ。

靖国神社が日本に数ある宗教施設の中の1つで、分類すれば神道(神社)に属することは言うまでもない。19世紀の建立だから極めて新しい。その目的は、国家が遂行した戦争で戦った犠牲者(=戦士)の魂を祀ることだとされている。

先のアジア太平洋戦争中、日本政府は戦死者を顕彰した。お国のためによくぞ戦ってくれた、死んでくれたというわけだ。靖国神社は日本の帝国主義戦争を補完する装置の1つだった。これをもって、靖国神社は帝国主義戦争のシンボルであり、日本国憲法の反戦平和主義と相容れないという主張もある。もちろん、靖国には戦死した兵士を顕彰する目的・機能があったが、しかし、反戦平和の論理だけでは、靖国問題は解決を見ない。

靖国神社建立は、靖国に限らず、日本の古代からの為政者が行ってきた宗教的実践、すなわち、御霊信仰に基づく。

日本人は、不慮の死を遂げた者の魂は安寧することがなく荒ぶり、生きている者に災厄をもたらすと考えた。最もよく知られているのが天神信仰で、天神様こと菅原道真は、政争に巻き込まれ志半ばで流刑され、死後、その霊は災厄をもたらすものと恐れられた。道真の政敵たちは道真の霊の祟りを恐れ、道真を神として祀りその霊を鎮めた。

維新政府は、自らが遂行した帝国主義戦争――その発端は、国内における維新戦争(戊辰の役)――において、心ならずも散った軍人たちの霊が荒ぶる霊として自らに禍をもたらさないよう、中央に神社を建立した。御霊信仰そのものだ。

維新後の日清戦争からアジア太平洋戦争までの間、わが子を戦地に送り出した「靖国の母」たちも、同様に、亡くなったわが子の荒ぶる霊が自らに禍をもたらすことを恐れた。戦争遂行者と土俗的母性は、御霊信仰=鎮魂という目的において、図らずも一致した。ここで「靖国の母」を政治的に責めることなどできない。維新政府(日本帝国)というのは、土俗の宗教を国民国家形成に巧みに取り込んだ共同体だったからだ。だから、遺族会と靖国神社の関係は、平和の論理=市民的論理だけでは見直されることがない。

「A級戦犯」として処刑された者こそ、荒ぶる霊の代表にほかならない。同じ「A級戦犯」の中には後に公職に復帰し、首相に昇りつめた者もいるのだから、歴代の首相が「A級戦犯」として処刑された荒ぶる霊を鎮めることはその責務の1つだと考えられる。「A級戦犯」合祀は、御霊信仰からみれば、当然の措置となる。

靖国神社は、為政者の論理と土俗の民衆の論理が、鎮魂(御霊信仰)という宗教的実践において生まれた施設であるがゆえに、一国の宰相が、そして一般生活者が、等しく靖国を訪れていいのかどうか――問題はここからだ。

国民の安寧を祈念するとはどういうことか

心ならずも命を落とした者の霊が荒ぶる霊となって人々に災厄をもたらす、と考える信仰をだれも批判・否定できない。そういう信仰を神社が受け容れ、霊を祀り、関係者が参拝することは自然だ。わが国に限らず、護国・救国が宗教の存在意義の1となっている。

ただ、それはそう信じる人々がそうすればいい、という話にすぎない。いま現在、国家は宗教に関与しないことが原則なのだ。遺族が靖国神社に関心を示すかどうかが基本であって、特定の神社が英霊を独占することは、信仰の自由原則に反する。

荒ぶる霊の存在は、かつての兵士の者にとどまらない。先の大戦では生活者の犠牲者の方が圧倒的に多かった。さらに今般では、交通事故、犯罪被害者などなど、多くの国民が非業の死を共有している。そうした死者を特定の宗派が管理することができないばかりか、管理すべきでない。国民の死を特定の宗教施設に集め、特定の宗教の儀式に基づき祀るという制度は明らかに憲法違反だ。簡単に言えば、靖国に祀られている霊については、一度、靖国管理から解き放ち、遺族に任せるべきなのだ。

御霊信仰を信じ、非業の死者として靖国神社に祀ることを望む方々は、靖国合祀を選択すればいい。そうではなく、わが子の戦死を、靖国を含めた日本帝国主義の犠牲者だと考える方々は、靖国ではなくその意思に基づき、自らの手で、その霊が安らぐ方法を選択すればいい。

御霊信仰は日本の古い信仰(おそらくその起源は8世紀前後に遡れると思う)だけれど、いま現在、国民すべてがそれを共有していない。死後の霊の存在を信ずるかどうかという基本的命題がある。いま、死者と生者が向き合う方法としては、墓参が一般的になった。人々は神社に死者を祀る信仰があることすら知らない。ましてや、非業の死者が人々に災厄をもたらすと信ずることは稀だ。

靖国がいまなお、戦死者を顕彰するのであれば、それは帝国主義戦争の正当化にほかならないという意見を否定できない。また一方、靖国が死者の魂を安らかに眠らせるためのものであるのならば、靖国かそうでないかの選択は、遺族の選択にまかせるべきだと言える。靖国を真に「解放する」という意味は、靖国神社が遺族の意思を確認するところから始まるのではないか。

戦死者への思いは千差万別だ。肉親の戦死から、反戦平和を学ぶ遺族もいるし、国家のための名誉の死と受け取る遺族もいる。靖国は、後者にとって必要欠くべからざる施設だと思う一方、前者にとっては、肉親を無益な死に追いやった憎むべき施設と映るだろう。さらにアジアの戦争被害者にとっては、靖国こそ日本帝国主義の象徴であり、侵略を補完した施設として、嫌悪の対象ともなろう。

わが国には、いまだにアジア太平洋戦争肯定論が絶えない。肯定論を弾圧することはできないと同じように、靖国を否定することもできない。だが靖国神社が遺族の意思を確認しないまま戦没者を管理するとなると、靖国神社はアジア太平洋戦争を肯定している、と見られても仕方がないではないか。

国民に決定権

冒頭に戻るが、靖国問題とは、戦死者を管理するのは特定の神社か、国家か、あるいは著者(稲垣和久)が言うところの、抽象的公共か、遺族か・・・という問に収斂する。さらに、戦死者とは何かがより重大な問題となる。少なくとも、アジア太平洋戦争だけで、日本国民350万人以上、アジア各国を合わせると数千万人ともいわれる戦争犠牲者が存在する。それに日清、日露戦争等々を含めれば、どのくらいの戦死者がいるのだろうか。戦死者の慰霊とは、日本人に限ることもない。戦争によって命を亡くした方々の霊を祀るにとどまらず、反戦平和祈念のための慰霊施設はいるのかいらないのか、いるとすればだれが、どこにつくればいいのか――それらを決めるのは、国民以外いない。国民が次の選挙において、各政党が掲げる靖国問題に対する政党見解を選択するしかない。各政党は靖国見解を明瞭にまとめて国民の前に掲げる義務がある。それは法制化を意味しない。政党の「考え方」でいい。国民の総意が判明すれば、靖国神社はそれを受けて自主的に国民の総意に従うことが重要となる。