2010年9月13日月曜日

叔父を見舞う

先日(11日)、癌で入院しているK叔父を見舞った。筆者は、この叔父に対して、筆者の親戚のなかで、最も親しさを感じている。その理由は、筆者の父母の兄弟姉妹の中で、筆者と唯一、まともな会話が成立した相手だからだ。それ以外の親戚が悪人であるわけもなく、もちろん善人なのだけれど、みな説教くさくて、うっとうしさが先にたった。

K叔父は戦後、東京都庁に就職し、組合運動に熱中した。日本の産別組合の中では、もっとも組織力があるといわれた自治労の専従で、社会主義協会(向坂派)の同盟員だった可能性が高い。向坂派は、かつての日本社会党の最左派といわれていた。しかし、日本の組合幹部は党派を問わず、その実態は労働貴族に変わりがない。

組合大会で全国を飛び回ることが多かったようで、出張の帰り、とりわけ、K叔父が若かったころは、筆者の家に泊まることが多かった。筆者の母はK叔父の姉に当たる。

家には友人を連れてくることが多く、酒を飲んで酔っ払い、軍歌、寮歌、労働歌などを歌った。筆者が大きくなってからは、筆者も酒宴に加わり、ときに、社会主義協会についての論争となった。筆者はK叔父を「スターリニスト」と呼び、K叔父は筆者を「極左冒険主義」と呼んだ。でも、論争は遊戯に等しく、なれあいで、本当に相手をやつけるつもりがない。K叔父は甥の生意気な成長を喜び、若かれしころの筆者は、知識のひけらかしで満足した。論争は結局のところ、「代々木が悪い」という落としどころで決着したものだ。

やがて、K叔父はなぜかわからないが、組合運動から足を洗い、都心で喫茶店を始めた。喫茶店の開店祝いに出かけた記憶があるが、開店からあまり時間のたたないうち、店をやめたことを母から聞いた。組合運動を止めた理由も喫茶店を閉めた理由も聞いていないが、聞くだけ野暮というものだ。

その後、中国専門の旅行社の役員、東京都の外郭団体等の顧問等をしていたようだが、数年前、癌を発病し、治療に専念した。治療はT大病院だったような気がするが、訪れた入院先は、K叔父の自宅(東京都A市)近くのA病院だった。

筆者がK叔父に親しみを感じるのは、左翼だったからではない。筆者の古いアルバムに、幼いころの筆者と、若いときのK叔父、そして、若い女性の3人が写っている写真がある。セピア色に変色しているが、女性は、K叔父にはもったいないくらいの美女だ。でも、その女性は、K叔父の奥さんではない、別の女性なのだ。

「この人、だれだっけ」と、筆者が母に聞いた。そのとき、母は「○○さんよ」と答えた。でも、いまに至っては、その名前を思い出せないし、筆者の母はすでに他界している。K叔父が結婚を意識して姉である筆者の母に紹介した女性なのか、ただの友達なのか定かではないが、筆者は、こんな美人とつきあうことができたK叔父をなお、尊敬してやまない。