谷中にはいろいろな種類の花が、民家・寺院の庭先や路地に咲いている。
@Yanaka
2013年6月30日日曜日
ヒマラヤ杉が危ないか
谷根千のなかで最も驚異的な景観の一つであるヒマラヤ杉が伐採の危機にあるかもしれないという。
伐採はよくない、保存してほしい。
これは、一本の大木を伐採するというエコロジー的な問題にとどまらない。
人々はこの杉の木の存在に生態象徴的な意味を見出してたからだ。
そこに詩的に住まうことの意味を重ねていたからだ。
このような景観は、人間が人為的にいくらつくり出そうとしてもつくりだせない。
長い年限にわたる人と自然の調和がなければ成立しないのだ。
都心・谷中におけるヒマラヤ杉は、誠に稀有な現象なのだ。
@Yanaka
伐採はよくない、保存してほしい。
これは、一本の大木を伐採するというエコロジー的な問題にとどまらない。
人々はこの杉の木の存在に生態象徴的な意味を見出してたからだ。
そこに詩的に住まうことの意味を重ねていたからだ。
このような景観は、人間が人為的にいくらつくり出そうとしてもつくりだせない。
長い年限にわたる人と自然の調和がなければ成立しないのだ。
都心・谷中におけるヒマラヤ杉は、誠に稀有な現象なのだ。
@Yanaka
自己責任論の倒錯
「保守派」を気取るテレビタレント(自称「ニュースキャスター」)・辛坊治郎がテレビ番組の企画のため、ヨットで太平洋横断を試みたが、ヨットが浸水して失敗。海上自衛隊に救助された。辛坊治郎はかつてイラクで人質にされた日本人を日本国が救済したことに腹を立て、「自己責任論」をもちだして、人質にされた人物及び救済した日本国を声高に非難した“前歴”があったようなのだ。今回は「救済される側」にまわった辛坊治郎、立場が逆転して、お前を助けるために税金を使ったぞ、と非難されている。
人質救済に税金を使うのは間違っていると主張した側が、こんどは海難事故で救助される側に逆転したわけだ。しかも、ヨット旅行はテレビ番組の企画のため、つまり、事業活動の一環なのだ。タレント活動中のタレントを救助するために多額の税金を使ったぞ、どうするつもりか、弁済するのか、と納税者の一部から非難されている(笑)
このような非難の声は気持ちとして了解できるし、辛坊治郎に反省を求めるという意味でわからないではないが、基本的には間違っている。
おもしろい、実におもしろい。国家が危機にある国民を救済すること(理由の如何を問わない)は、国家の機能の一つ。税金をそこに使わずして、いつ使うのか。自分はいつもタックスペイヤーであって、タックスイーターを見るたびに腹が立つ。しかし、今回のように己がタックスイーターになったとき、腹を立てた自分はいったいなんだったのかと、反省しなければならなくなる。情けない話だ。生半可な「自己責任主義者」の虚像が崩壊したにすぎない。哀れな「保守派・自称ニュースキャスター君」。
さて、それはそれとして、わが国では「自己責任」という概念が倒錯しているので、整理をしておこう。日本で「自己責任論」を声高に叫ぶ人物の多くは保守陣営、愛国主義者、国家主義者のグループに属している場合が圧倒的だ。彼らの多くは、国家主義を強く貫く者だ。このタレントもそのような立場の発言を繰り返しているという。
ところが、本来、自己責任を貫く立場というのは、究極的には国家の廃絶を望む思想でなければおかしい。本来の自己責任主義者は国家が、たとえば警察、軍隊、裁判所、その他救助組織を税負担によって保有することを嫌悪する。警察に己を守ってもらうのではなく、自己もしくは民間が自らを守るという立場をとる。よって、人民武装が必須となり、銃規制は考えられない。彼らはその共同の敵については、民間武装組織(自警団もしくは民兵)によって対する。争いごとの解決に国家が介入することを排し、よって訴訟を否定し、当事者同士が(結局は暴力的手段によって)決着をつけることを望む。犯罪者は私刑によって裁かれる。
それだけではない。国家が経済、文化、思想、宗教、性差等に対して介入することを嫌う。だから、国家等が人種差別、性差別、学歴差別等を制度化することにも反対する。あらゆる分野において、人種・宗教・身体性を超えた自由競争(=自己責任)が前提となる。このような思想は、米国ではリバタリアニズムと呼ばれ、共和党の超右派勢力として現存する。
自己責任という言葉は、リバータリアンとして、少なくとも以上述べた如くの覚悟がなければ、唱えてはいけない。犯罪者に対しては警察に、国防に対しては軍隊に、天災に対しては行政、消防、軍隊に依存しておいて、他者の災難に対してのみ自己責任を声高に叫ぶというのは、いかにも情けない。普段、国家(警察、軍隊、行政組織等)に依存する者に「自己責任論」を唱える資格はない。
さて、自衛隊に救助されたテレビタレント・辛坊治郎は、「(悪天候の中、自分を助けてくれた優秀な救援部隊を有する)日本に生まれてよかった」と涙ながらにコメントしたという。辛坊治郎よ、君はどこまでお調子者なのか、リバータリアンが国家を礼賛してどうする。
辛坊治郎は海難事故にあってから、タレント活動は休止中のようだが、己の「自己責任論」の浅はかさを反省して、おもしろいタレントとして出直してほしいものだ。
人質救済に税金を使うのは間違っていると主張した側が、こんどは海難事故で救助される側に逆転したわけだ。しかも、ヨット旅行はテレビ番組の企画のため、つまり、事業活動の一環なのだ。タレント活動中のタレントを救助するために多額の税金を使ったぞ、どうするつもりか、弁済するのか、と納税者の一部から非難されている(笑)
このような非難の声は気持ちとして了解できるし、辛坊治郎に反省を求めるという意味でわからないではないが、基本的には間違っている。
おもしろい、実におもしろい。国家が危機にある国民を救済すること(理由の如何を問わない)は、国家の機能の一つ。税金をそこに使わずして、いつ使うのか。自分はいつもタックスペイヤーであって、タックスイーターを見るたびに腹が立つ。しかし、今回のように己がタックスイーターになったとき、腹を立てた自分はいったいなんだったのかと、反省しなければならなくなる。情けない話だ。生半可な「自己責任主義者」の虚像が崩壊したにすぎない。哀れな「保守派・自称ニュースキャスター君」。
さて、それはそれとして、わが国では「自己責任」という概念が倒錯しているので、整理をしておこう。日本で「自己責任論」を声高に叫ぶ人物の多くは保守陣営、愛国主義者、国家主義者のグループに属している場合が圧倒的だ。彼らの多くは、国家主義を強く貫く者だ。このタレントもそのような立場の発言を繰り返しているという。
ところが、本来、自己責任を貫く立場というのは、究極的には国家の廃絶を望む思想でなければおかしい。本来の自己責任主義者は国家が、たとえば警察、軍隊、裁判所、その他救助組織を税負担によって保有することを嫌悪する。警察に己を守ってもらうのではなく、自己もしくは民間が自らを守るという立場をとる。よって、人民武装が必須となり、銃規制は考えられない。彼らはその共同の敵については、民間武装組織(自警団もしくは民兵)によって対する。争いごとの解決に国家が介入することを排し、よって訴訟を否定し、当事者同士が(結局は暴力的手段によって)決着をつけることを望む。犯罪者は私刑によって裁かれる。
それだけではない。国家が経済、文化、思想、宗教、性差等に対して介入することを嫌う。だから、国家等が人種差別、性差別、学歴差別等を制度化することにも反対する。あらゆる分野において、人種・宗教・身体性を超えた自由競争(=自己責任)が前提となる。このような思想は、米国ではリバタリアニズムと呼ばれ、共和党の超右派勢力として現存する。
自己責任という言葉は、リバータリアンとして、少なくとも以上述べた如くの覚悟がなければ、唱えてはいけない。犯罪者に対しては警察に、国防に対しては軍隊に、天災に対しては行政、消防、軍隊に依存しておいて、他者の災難に対してのみ自己責任を声高に叫ぶというのは、いかにも情けない。普段、国家(警察、軍隊、行政組織等)に依存する者に「自己責任論」を唱える資格はない。
さて、自衛隊に救助されたテレビタレント・辛坊治郎は、「(悪天候の中、自分を助けてくれた優秀な救援部隊を有する)日本に生まれてよかった」と涙ながらにコメントしたという。辛坊治郎よ、君はどこまでお調子者なのか、リバータリアンが国家を礼賛してどうする。
辛坊治郎は海難事故にあってから、タレント活動は休止中のようだが、己の「自己責任論」の浅はかさを反省して、おもしろいタレントとして出直してほしいものだ。
2013年6月16日日曜日
猫が来てから2年が経った
窓の外、寺の屋根に群がるカラスの大群にかたまった二匹 |
2011年6月といえば、東日本大震災の直後。家人の心境に変化が生じ、猫を飼いたいと思うに至ったようだ。筆者は動物、すなわち生き物に煩わしさを感じていて、猫に限らず犬も鳥も飼うことに反対をしていた。
ところが、家人がいきなり猫を連れてきた。正直、驚いた。しかも、その直後、1月も経たないうちに、二匹目を連れてきた。こんどは驚きを通り越して、呆れかえってしまった。
しかし、猫を追い出すわけにはいかない。飼い始めてしまった以上、飼い主かペットのどちらかがくたばるまで、一緒にいなければならない。それが定めというものだ。覚悟を決めてペットを飼い始めたのではなく、ペットがいるから覚悟を決めた、というわけだ。
あれから2年も経った、早い、とにかく早い。
2013年6月14日金曜日
加藤良三NPBコミッショナーはサイテー男
日本野球機構(NPB)が「統一球問題」で不祥事を起こした。“飛ぶボール”から“飛ばないボール”、そして今シーズンから、再び“飛ぶボール”に逆戻りをしたのだ。そのことを、NPBは選手にもファンにも告知しなかった。むしろ、秘密にしていたようだ。
ところが、先般、選手会から使用球に関する質問が正式にあり、隠し切れなくなって、とうとう6月12日、加藤良三NPBコミッショナーが会見を開き、変更を認めた。この 問題の核心は、①変更した事実を隠したこと、②さらに、変更を隠蔽するよう指示したトップが、隠蔽の罪を部下に負わせようとしたこと――の2点にある。
公式球の仕様を変えることは、そのことを事前に告知しておれば、問題にするに値しない。プロサッカーにおいても、公式球の変更は少なくない。最近では、日韓W杯から導入された無回転シュートが可能なボールの導入や、ぶれておちるシュートが可能になったボールへの変更が記憶に新しい。NPBと異なるのは、公式球への変更について、現場もファンも事前に知っていて、その対策を十分にしていたことだ。だから、ファンは新しい公式球がもたらすスリルを楽しむことができた。現場も十分な対策という技術向上が果たせた。そこが今回のNPBの姿勢と著しく異なる点だ。
加藤コミッショナーは「知らなかった」と事務局内の意志の疎通を欠いたことは認めたが、責任については「不祥事ではない」と突っぱねた。その姿は惨め極まりない。加藤コミッショナーは、聞けば国家公務員上がりだという。日本の役人特有の自己保身、責任逃れの体質を丸出しにしている。しかも、告知しなかった責任を部下(事務局長)に負わせようとしている。“この問題に私は関与していない、報告も受けていない、関係ない、部下が勝手に・・・”という、逃げの姿勢を記者会見で露わにした。TV映像の態度から、この人の人品の卑しさがにじみ出ていた。
報道によると、NPBは公式試合で使用する公式球のすべてに、加藤良三コミッショナーの名前を入れているという。いわば、コミッショナー自身が、公式球として認める判をついたようなものではないか。それでも、自分は知らない、というつもりなのか。
さらに言えば、プロ野球にいくらか関心のある人ならば、今シーズンはホームランが多いな、と感じていたのではないか。スポーツ番組でも使用球の変更の疑惑については、しばしば話題になっていた。昨シーズンの1試合当たりのホームラン数を今シーズンのそれと比較してみれば、使用球が変わったことは容易に想像がつく。それをコミッショナー自身が「知らなかった」というのならば、そもそもプロ野球そのものを「知らない」か、もしくは「見ていない」のではないのか。
なんでこんな人物をプロ野球業界はトップに迎え入れたのだろうか、と不思議に思わずにいられない。プロ野球に限らず、プロスポーツ業界というのは、結果責任を厳しく問われる世界ではないか。打てない打者、打たれる投手は給料が下がり、トレードされ、それでも成績低迷が続けば解雇される。勝てない監督はくびになる。言い訳は許されない。その潔さに、ファンは喝采を送る。スポーツの競技の内容以外の「人事」にも、ファンは関心を寄せる。プロ野球の監督は、チーム成績低迷に係る言い訳は一切しない(中にはコーチに責任をとらせる者もいるようだが)、概ね、自身の責任をまっとうし、それでもだめならば、シーズン途中であっても辞める。ファンは、その姿に男の美学、ロマンを感じとる。それがファンというものだ。それが、スポーツの広がりのある文化というものだ。
今回のNPB加藤良三コミッショナーの態度は、プロ野球選手及びその指導者が示してきた潔さと、真逆のものだ。醜悪な自己保身、責任逃れ、言い訳、開き直り・・・おそらく、日本プロ野球史上、最悪、最低の出来事だ。こんな最低男をコミッショナーに仰ぐなんて、プロ野球の現場にとって、悲劇にほかならない。社会がこういう態度を許してしまえば、スポーツマンシップを子供に教える立場がないではないか。
ところが、先般、選手会から使用球に関する質問が正式にあり、隠し切れなくなって、とうとう6月12日、加藤良三NPBコミッショナーが会見を開き、変更を認めた。この 問題の核心は、①変更した事実を隠したこと、②さらに、変更を隠蔽するよう指示したトップが、隠蔽の罪を部下に負わせようとしたこと――の2点にある。
公式球の仕様を変えることは、そのことを事前に告知しておれば、問題にするに値しない。プロサッカーにおいても、公式球の変更は少なくない。最近では、日韓W杯から導入された無回転シュートが可能なボールの導入や、ぶれておちるシュートが可能になったボールへの変更が記憶に新しい。NPBと異なるのは、公式球への変更について、現場もファンも事前に知っていて、その対策を十分にしていたことだ。だから、ファンは新しい公式球がもたらすスリルを楽しむことができた。現場も十分な対策という技術向上が果たせた。そこが今回のNPBの姿勢と著しく異なる点だ。
加藤コミッショナーは「知らなかった」と事務局内の意志の疎通を欠いたことは認めたが、責任については「不祥事ではない」と突っぱねた。その姿は惨め極まりない。加藤コミッショナーは、聞けば国家公務員上がりだという。日本の役人特有の自己保身、責任逃れの体質を丸出しにしている。しかも、告知しなかった責任を部下(事務局長)に負わせようとしている。“この問題に私は関与していない、報告も受けていない、関係ない、部下が勝手に・・・”という、逃げの姿勢を記者会見で露わにした。TV映像の態度から、この人の人品の卑しさがにじみ出ていた。
報道によると、NPBは公式試合で使用する公式球のすべてに、加藤良三コミッショナーの名前を入れているという。いわば、コミッショナー自身が、公式球として認める判をついたようなものではないか。それでも、自分は知らない、というつもりなのか。
さらに言えば、プロ野球にいくらか関心のある人ならば、今シーズンはホームランが多いな、と感じていたのではないか。スポーツ番組でも使用球の変更の疑惑については、しばしば話題になっていた。昨シーズンの1試合当たりのホームラン数を今シーズンのそれと比較してみれば、使用球が変わったことは容易に想像がつく。それをコミッショナー自身が「知らなかった」というのならば、そもそもプロ野球そのものを「知らない」か、もしくは「見ていない」のではないのか。
なんでこんな人物をプロ野球業界はトップに迎え入れたのだろうか、と不思議に思わずにいられない。プロ野球に限らず、プロスポーツ業界というのは、結果責任を厳しく問われる世界ではないか。打てない打者、打たれる投手は給料が下がり、トレードされ、それでも成績低迷が続けば解雇される。勝てない監督はくびになる。言い訳は許されない。その潔さに、ファンは喝采を送る。スポーツの競技の内容以外の「人事」にも、ファンは関心を寄せる。プロ野球の監督は、チーム成績低迷に係る言い訳は一切しない(中にはコーチに責任をとらせる者もいるようだが)、概ね、自身の責任をまっとうし、それでもだめならば、シーズン途中であっても辞める。ファンは、その姿に男の美学、ロマンを感じとる。それがファンというものだ。それが、スポーツの広がりのある文化というものだ。
今回のNPB加藤良三コミッショナーの態度は、プロ野球選手及びその指導者が示してきた潔さと、真逆のものだ。醜悪な自己保身、責任逃れ、言い訳、開き直り・・・おそらく、日本プロ野球史上、最悪、最低の出来事だ。こんな最低男をコミッショナーに仰ぐなんて、プロ野球の現場にとって、悲劇にほかならない。社会がこういう態度を許してしまえば、スポーツマンシップを子供に教える立場がないではないか。
2013年6月7日金曜日
『終わらないオウム』
●上祐史浩・鈴木邦夫・徐裕行 ●鹿砦社 ●1500円+税
本書に登場する徐裕行は、1995年、オウム真理教最高幹部の一人だった村井秀夫を殺害した人物だ。彼は2007年に刑期を満了し出所。そしてこうして、同じくオウムの最高幹部の一人であった上祐史浩と顔を合わせ、第三者(鈴木邦男)を挟んで対峙している。いかにも奇異な組合せというほかない、というよりも、本書の広告を見たとき、強い違和感を抱いた。 というのは、徐裕行と上祐史浩という、かつての「敵同士」が面談することではない。ほかでもない、あの村井を殺(やっ)た犯人がもう出所したのか――というそれだ。殺人者が刑に服する期間が12年とはなんと短いものなのか。
村井は徐裕行に殺されなくとも、サリン事件の主犯格として死刑判決を受けた可能性は高い。だが、村井が殺されたときには、もちろん村井は逮捕もされていなければ、有罪判決も受けていない。事件当時、村井はマスコミ報道等から推察する限り、かなり怪しく思えたが、証拠があったわけではない。いわば、村井は当時、一介の教団幹部の一人にすぎなかった。ゆえに、徐裕行の犯行が免罪される根拠はない。情状酌量の余地もない、徐裕行は第一級の殺人者だ。そういう者が12年という短期間の服役で済むものなのか――という違和感だ。法律上の人間の生命の軽さに、改めて愕然とした次第だ。殺された側はたまらない。殺された者の人生は絶対に二度と、もどることがないのだから。
もう一つの違和感は遺族への配慮についてだ。殺された村井に妻子があったのかどうかは知らない。だが、村井に限らず親は絶対にいるはずだ。徐裕行が村井の遺族にどういう態度をとったのかはわからないが、残された村井の遺族は徐裕行を無条件で許したのだろうか。村井の両親は息子を殺害した徐裕行をどう思っているのだろうか。
このような観点に立つとき、殺人を犯した者が刑期を終えからといって、公の場で発言することへの違和感は拭えない。もしも自分の肉親が殺害されたとしたら、刑期を終えた元殺人犯の公での発言をどのような気持ちで受け止めるのかについては、想像しにくい。刑期を全うしたということは更生したことを意味する、と頭の中で了解し得たとしても、感情のレベルで納得がいかない。もちろんだからといって、殺人犯をすべて死刑に処せと言っているわけではない。更生した証として懺悔を聞きたいわけでもない。殺害された被害者とその遺族への同情のほうに感情が傾くことを避けられないだけなのだ。
徐裕行の発言は内容的にも量的にも貧しすぎる
その一方、徐裕行の犯行には組織的背景があったのではないか、という疑念がずっと世間を支配していた。村井殺害の犯行の過程を振り返ると、疑惑・疑念をもつことのほうが自然な部分もあった。だから、徐裕行がそのことを全部話さないまでも、なにか暗示するところはないのかどうか、本書に期待する面があった。かりに、村井殺害の“真相”の一端が明らかになれば、遺族への配慮を超え、徐裕行の本書の発言が歴史的重要性をもつとも思えたからだ。だから、違和感を振り払って本書を読んでみた。
本書において、徐裕行は犯行の組織的背景を否定し、単独犯であることを強調した。そのうえで、村井を標的にしたことも否定した。徐裕行は、村井・上祐・青山(オウム教団の顧問弁護士)のうち、(殺す対象は)だれでもよかった、と発言している。つまり、サリン事件の主犯格であり、教団のサリン関与の全貌を知る(であろうと世間が想像した)村井を狙って殺害したという疑惑を全面否定している。徐裕行は村井を殺害したのは偶発的だった、という意味の発言をしている。そして、「あの時、本当に殺そうとしたのは上祐さんだった」とも。
徐裕行の発言は、その公判記録等に当たれば明白なのだろうが、裁判ではなく、私的な発言として、事件当時の生々しい“真実”がわかるのではないか――という“ウブな期待”は裏切られた。
本書において、世間が期待する徐裕行による“真相告白”もしくは“新しい事実”の露呈はない。というよりも、徐裕行の発言そのものの分量が少ない。この期に及んで村井殺害に関し、語るべきものはなにもない、というのが徐裕行のスタンスなのだろう。
上祐史浩が展開する「オウム論」
では、本書200数十ページにわたる本文にはどのような内容で占められているのかと言えば、かつてオウム教団の幹部の一人であった上祐史浩の発言ということになる。
上祐史浩は、地下鉄サリン事件当時ロシアに滞在しており、同事件への関与なしとして、別の軽微な罪科で刑に服した後、出所後は麻原を積極的に否定し、麻原の路線を継承すると言われているアレフ教団と袂を分かった。そして現在、「光の輪」というサークルを立ち上げ宗教的活動を続けている。
なぜ、オウムは巨大化したのか
本書において、上祐はオウム教団がなぜ、1990年代中葉、かくもあのように活発な宗教活動、非合法活動そして無差別テロまでを展開し得たのかについて、かなり分析的な発言を繰り返している。オウムを生んだ社会状況にも切り込んでいて、オウムは日本の合わせ鏡だともいう。彼なりの日本の現代社会の病理・病巣への危惧もある。また、「陰謀説」の危険性にも警鐘を鳴らしているし、当時もいまも日本のマスコミの危険性に対する指摘も的確だ。そういう意味で上祐は、怪しげな陰謀説を振りまくメディアに出没するコメンテーターよりは良質だ。教団に深くかかわっていた者であるだけに、彼の「オウム論」に耳を傾ける価値はある。
(一)「カルト的なもの」を社会に浸透させたマスメディア
当時、オウム真理教が台頭し始めた1990年代を振り返ると、「カルト的なもの」を容認する社会的風潮があった。それまでにも、「ノストラダムスの大予言」に代表される終末論が紹介され、終末論をテーマにしたアニメが流行り、UFO・スプーン曲げ、超能力等に人々の関心が集まっていた。当初、それらはマイナーな専門雑誌で紹介される程度だったのだが、TV等のマスメディアがエンターテインメントのひとつのコンテンツとしてそれを積極的に取り上げることにより、世代を超えて「カルト的なもの」が日本社会に浸透した。この潮流は、オウム教団の台頭の基盤となった。
これらの現象は世界的な潮流であり、ワイマル共和国の研究者であるウルリヒ・リンゼは、カール・クリスティアン・ブライの『偽装された宗教』から引用して、次の項目を挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。
また、マスメディアはオウム教団を興味本位に取り上げた特別番組や教団批判番組を多数、お茶の間に届けた。その結果、多くの若者がオウム教団に興味を示すと同時に、オウム信者は過剰な自己防衛感情を高ぶらせ、組織の硬化を促進させた。マスメディアが、オウムの膨張及び組織強化を助長したことに異論はなかろう。オウムはメディアが大きくした、と言って過言ではない。
また一方、バブル経済が崩壊した当時、人々は「経済的な価値」に失望し、「精神的な価値」を求めるようにもなっていた。ここでいう「精神的価値」というのは、即席で安易な癒し(ヒーリング)効果であり、理屈を排除した非合理的・直感的神秘主義の類だ。ヨーガ、瞑想、風水身体論、似非チベット仏教、霊媒師、ニューエイジ思想、オルタナティブなエコロジー思想、日本の縄文信仰などを適当に組み合わせた新宗教(新宗教教団の具体名は省略する)が立ち上げられた。その中の一つがオウム教団だった。こうした新宗教を積極的に取り上げたのもマスメディアだった。
なお、「カルト」について体系的に把握されたい方は、『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 (S. フォン・シュヌーアバイン 著、恒星社厚生閣)を参照されたい。
(二)バブル経済の隆盛と崩壊、そしてマルクス主義の衰退
オウム教団を取り巻くもう一つの大状況としては、バブル経済の崩壊を挙げておく必要がある。バブル経済崩壊は、人々の価値観を大きく変えた。とりわけ、日本社会において長らく厚い信任をおかれた大手銀行の企業としての、あるいはそこに従事する者の、数々のモラルハザードの発覚は、人々の社会観を変容させるに十分だった。不良債権処理問題、闇社会との癒着、公的資金導入は、とりわけ若者の純粋な正義感を刺激した。
なかで特筆すべきは、マルクス主義の衰亡ではないか。1970年代までの日本社会においては、若者の正義感の発露と反体制意識の受け皿は左翼思想が受け持っていた。とりわけ知的大衆(学生)が社会の諸矛盾に鋭く反応する場合、彼らの急進的思想と行動主義を吸収したのはマルクス主義組織であった。多くの学生が一時(いっとき)、おのが人生を「共産主義革命」に賭けようとした。「世直し」のために。
しかし、1990年代になると、日本の左翼陣営はほぼ組織的に壊滅していた。学生を中心とした若者が、バブル崩壊の衝撃とそれに付随して生起したモラルハザードに対して純粋に怒りを感じたとしても、マルクス主義政治組織は機能し得なかった。その結果として、オウム真理教がマルクス主義に代わって、彼らの怒りの受け皿となった。マルクス主義もオウム真理教も「千年王国」を標榜する点で差異はない。両者はともに「革命」を志向する点で共通する。それゆえ、その台頭と暴力主義的運動論及び運動実態、それを支える厳格かつ禁欲的組織形態とその運営実態、さらには、官憲の追及に窮して行った内部粛清から崩壊に至る過程は、「連合赤軍」と共通する部分も多い。
そんな中、マルクス主義に代わるモダニズム、すなわち、ニューアカデミズムの旗手の一人として登場したのが中沢新一だった。中沢は、いまや「反原発」の理論的指導者の一人として多くの支持者をあつめているが、当時はオウム教団の理解者であり、彼がチベット密教を体験修業してまとめた『虹の階梯』はオウム教団のポアの思想と同質のものであった。いま現在、中沢は、当時、自分がオウム支持者であったことについて一切ふれようとしない。このような中沢の姿勢に対する思想的攻撃は宗教学者・大田俊寛が繰り返し行っているところなので、その内容に興味がある方は、『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)等の著作を当たることをお奨めする。
さて、オウムを取り上げた代表的TV番組の1つとして、本書司会役の鈴木邦男は、1991年に放映された『朝まで生テレビ!』について、次のように話している。
オウムをオウムたらしめたもの
以上指摘してきた事項は、大きな社会状況である。こうした社会背景の下、数多くの新宗教、神秘主義的集団が日本社会に群生した。これらの事項は、新宗教等が群生する根拠にはなるが、だからといって、それらのすべてがオウム教団のような暴力主義、革命主義、テロリズムに走ったわけではない。オウムがオウムになった個別的要因はなんだったのか。
(一)麻原の父権的カリスマ性
(二)麻原の世界観
オウム問題の現代社会における意義
(一)オウム問題の根源
オウム問題の根源について、上祐史浩は次のように本書終章でまとめている。
上祐のオウム問題の根源についての発言は間違っていない。しかし、オウム問題の根源は、暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題というよりも、宗教がもつ根源の問題だと言いなおした方がいい。彼は宗教の本質がわかっている。以下、鈴木とのやりとりを書き抜いておこう。
オウムに限らず、宗教というものが地上に天国を建設する運動である限り、その本質として、現実社会の基本的な仕組みに対して軋轢を生じせしめ、現実のシステムに対し、非妥協的姿勢を取らざるを得なくなるものだ、ということを了解しあってくれれば、上祐に対する信用は高まった。さらに言えば、世界史的成功とされる宗教運動の裏側には、無数の殉教と迫害――弾圧され消滅した教団とその信者の命が――あったのではなかろうか。宗教指導者のちがいとは現実への対応能力の結果ではなく、民衆がその宗派に注いだ宗教的情熱と現実のエネルギーがどれだけの力量で融合したかのちがいだけだと思われる。
上祐が現在行っている光の輪の活動は、西洋の学者が釈迦の教えを「これは宗教じゃない。これは自己訓練の哲学だ」と評したことを援用し、宗教というよりも「宗教的な知恵の学習・実践センター」のイメージだと力説している。しかし、地上に天国を築くことを諦めれば、そこに宗教的求心力は生じない。上祐の目指す光の輪がこれからも持続的に知恵の実践センターであり続けるのかどうか。光の輪については、もう少し時間をかけて注視する必要がある。
(文中敬称略)
本書に登場する徐裕行は、1995年、オウム真理教最高幹部の一人だった村井秀夫を殺害した人物だ。彼は2007年に刑期を満了し出所。そしてこうして、同じくオウムの最高幹部の一人であった上祐史浩と顔を合わせ、第三者(鈴木邦男)を挟んで対峙している。いかにも奇異な組合せというほかない、というよりも、本書の広告を見たとき、強い違和感を抱いた。 というのは、徐裕行と上祐史浩という、かつての「敵同士」が面談することではない。ほかでもない、あの村井を殺(やっ)た犯人がもう出所したのか――というそれだ。殺人者が刑に服する期間が12年とはなんと短いものなのか。
村井は徐裕行に殺されなくとも、サリン事件の主犯格として死刑判決を受けた可能性は高い。だが、村井が殺されたときには、もちろん村井は逮捕もされていなければ、有罪判決も受けていない。事件当時、村井はマスコミ報道等から推察する限り、かなり怪しく思えたが、証拠があったわけではない。いわば、村井は当時、一介の教団幹部の一人にすぎなかった。ゆえに、徐裕行の犯行が免罪される根拠はない。情状酌量の余地もない、徐裕行は第一級の殺人者だ。そういう者が12年という短期間の服役で済むものなのか――という違和感だ。法律上の人間の生命の軽さに、改めて愕然とした次第だ。殺された側はたまらない。殺された者の人生は絶対に二度と、もどることがないのだから。
このような観点に立つとき、殺人を犯した者が刑期を終えからといって、公の場で発言することへの違和感は拭えない。もしも自分の肉親が殺害されたとしたら、刑期を終えた元殺人犯の公での発言をどのような気持ちで受け止めるのかについては、想像しにくい。刑期を全うしたということは更生したことを意味する、と頭の中で了解し得たとしても、感情のレベルで納得がいかない。もちろんだからといって、殺人犯をすべて死刑に処せと言っているわけではない。更生した証として懺悔を聞きたいわけでもない。殺害された被害者とその遺族への同情のほうに感情が傾くことを避けられないだけなのだ。
徐裕行の発言は内容的にも量的にも貧しすぎる
その一方、徐裕行の犯行には組織的背景があったのではないか、という疑念がずっと世間を支配していた。村井殺害の犯行の過程を振り返ると、疑惑・疑念をもつことのほうが自然な部分もあった。だから、徐裕行がそのことを全部話さないまでも、なにか暗示するところはないのかどうか、本書に期待する面があった。かりに、村井殺害の“真相”の一端が明らかになれば、遺族への配慮を超え、徐裕行の本書の発言が歴史的重要性をもつとも思えたからだ。だから、違和感を振り払って本書を読んでみた。
本書において、徐裕行は犯行の組織的背景を否定し、単独犯であることを強調した。そのうえで、村井を標的にしたことも否定した。徐裕行は、村井・上祐・青山(オウム教団の顧問弁護士)のうち、(殺す対象は)だれでもよかった、と発言している。つまり、サリン事件の主犯格であり、教団のサリン関与の全貌を知る(であろうと世間が想像した)村井を狙って殺害したという疑惑を全面否定している。徐裕行は村井を殺害したのは偶発的だった、という意味の発言をしている。そして、「あの時、本当に殺そうとしたのは上祐さんだった」とも。
徐裕行の発言は、その公判記録等に当たれば明白なのだろうが、裁判ではなく、私的な発言として、事件当時の生々しい“真実”がわかるのではないか――という“ウブな期待”は裏切られた。
本書において、世間が期待する徐裕行による“真相告白”もしくは“新しい事実”の露呈はない。というよりも、徐裕行の発言そのものの分量が少ない。この期に及んで村井殺害に関し、語るべきものはなにもない、というのが徐裕行のスタンスなのだろう。
上祐史浩が展開する「オウム論」
では、本書200数十ページにわたる本文にはどのような内容で占められているのかと言えば、かつてオウム教団の幹部の一人であった上祐史浩の発言ということになる。
上祐史浩は、地下鉄サリン事件当時ロシアに滞在しており、同事件への関与なしとして、別の軽微な罪科で刑に服した後、出所後は麻原を積極的に否定し、麻原の路線を継承すると言われているアレフ教団と袂を分かった。そして現在、「光の輪」というサークルを立ち上げ宗教的活動を続けている。
なぜ、オウムは巨大化したのか
本書において、上祐はオウム教団がなぜ、1990年代中葉、かくもあのように活発な宗教活動、非合法活動そして無差別テロまでを展開し得たのかについて、かなり分析的な発言を繰り返している。オウムを生んだ社会状況にも切り込んでいて、オウムは日本の合わせ鏡だともいう。彼なりの日本の現代社会の病理・病巣への危惧もある。また、「陰謀説」の危険性にも警鐘を鳴らしているし、当時もいまも日本のマスコミの危険性に対する指摘も的確だ。そういう意味で上祐は、怪しげな陰謀説を振りまくメディアに出没するコメンテーターよりは良質だ。教団に深くかかわっていた者であるだけに、彼の「オウム論」に耳を傾ける価値はある。
(一)「カルト的なもの」を社会に浸透させたマスメディア
当時、オウム真理教が台頭し始めた1990年代を振り返ると、「カルト的なもの」を容認する社会的風潮があった。それまでにも、「ノストラダムスの大予言」に代表される終末論が紹介され、終末論をテーマにしたアニメが流行り、UFO・スプーン曲げ、超能力等に人々の関心が集まっていた。当初、それらはマイナーな専門雑誌で紹介される程度だったのだが、TV等のマスメディアがエンターテインメントのひとつのコンテンツとしてそれを積極的に取り上げることにより、世代を超えて「カルト的なもの」が日本社会に浸透した。この潮流は、オウム教団の台頭の基盤となった。
これらの現象は世界的な潮流であり、ワイマル共和国の研究者であるウルリヒ・リンゼは、カール・クリスティアン・ブライの『偽装された宗教』から引用して、次の項目を挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。
また、マスメディアはオウム教団を興味本位に取り上げた特別番組や教団批判番組を多数、お茶の間に届けた。その結果、多くの若者がオウム教団に興味を示すと同時に、オウム信者は過剰な自己防衛感情を高ぶらせ、組織の硬化を促進させた。マスメディアが、オウムの膨張及び組織強化を助長したことに異論はなかろう。オウムはメディアが大きくした、と言って過言ではない。
また一方、バブル経済が崩壊した当時、人々は「経済的な価値」に失望し、「精神的な価値」を求めるようにもなっていた。ここでいう「精神的価値」というのは、即席で安易な癒し(ヒーリング)効果であり、理屈を排除した非合理的・直感的神秘主義の類だ。ヨーガ、瞑想、風水身体論、似非チベット仏教、霊媒師、ニューエイジ思想、オルタナティブなエコロジー思想、日本の縄文信仰などを適当に組み合わせた新宗教(新宗教教団の具体名は省略する)が立ち上げられた。その中の一つがオウム教団だった。こうした新宗教を積極的に取り上げたのもマスメディアだった。
なお、「カルト」について体系的に把握されたい方は、『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 (S. フォン・シュヌーアバイン 著、恒星社厚生閣)を参照されたい。
オウム教団を取り巻くもう一つの大状況としては、バブル経済の崩壊を挙げておく必要がある。バブル経済崩壊は、人々の価値観を大きく変えた。とりわけ、日本社会において長らく厚い信任をおかれた大手銀行の企業としての、あるいはそこに従事する者の、数々のモラルハザードの発覚は、人々の社会観を変容させるに十分だった。不良債権処理問題、闇社会との癒着、公的資金導入は、とりわけ若者の純粋な正義感を刺激した。
なかで特筆すべきは、マルクス主義の衰亡ではないか。1970年代までの日本社会においては、若者の正義感の発露と反体制意識の受け皿は左翼思想が受け持っていた。とりわけ知的大衆(学生)が社会の諸矛盾に鋭く反応する場合、彼らの急進的思想と行動主義を吸収したのはマルクス主義組織であった。多くの学生が一時(いっとき)、おのが人生を「共産主義革命」に賭けようとした。「世直し」のために。
しかし、1990年代になると、日本の左翼陣営はほぼ組織的に壊滅していた。学生を中心とした若者が、バブル崩壊の衝撃とそれに付随して生起したモラルハザードに対して純粋に怒りを感じたとしても、マルクス主義政治組織は機能し得なかった。その結果として、オウム真理教がマルクス主義に代わって、彼らの怒りの受け皿となった。マルクス主義もオウム真理教も「千年王国」を標榜する点で差異はない。両者はともに「革命」を志向する点で共通する。それゆえ、その台頭と暴力主義的運動論及び運動実態、それを支える厳格かつ禁欲的組織形態とその運営実態、さらには、官憲の追及に窮して行った内部粛清から崩壊に至る過程は、「連合赤軍」と共通する部分も多い。
そんな中、マルクス主義に代わるモダニズム、すなわち、ニューアカデミズムの旗手の一人として登場したのが中沢新一だった。中沢は、いまや「反原発」の理論的指導者の一人として多くの支持者をあつめているが、当時はオウム教団の理解者であり、彼がチベット密教を体験修業してまとめた『虹の階梯』はオウム教団のポアの思想と同質のものであった。いま現在、中沢は、当時、自分がオウム支持者であったことについて一切ふれようとしない。このような中沢の姿勢に対する思想的攻撃は宗教学者・大田俊寛が繰り返し行っているところなので、その内容に興味がある方は、『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)等の著作を当たることをお奨めする。
さて、オウムを取り上げた代表的TV番組の1つとして、本書司会役の鈴木邦男は、1991年に放映された『朝まで生テレビ!』について、次のように話している。
鈴木 ・・・『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でやった「激論 宗教と若者」(91年)でのオウムと幸福の科学との対決とかもすごかったですね。あれでオウムはすばらしいと思った人たちもいたし、ぼくもそれを見てオウムは本物だと思いました。そのオウムに熱狂していく過程を知らずに今の結果だけを見れば、なんであんなバカらしいものにかぶれるのだろうと思うだけですよね。(P102)鈴木のこの発言は、テレビがものごとの本質を伝えにくい媒体であることの恐ろしさをついているという意味で貴重だ。“本物”という意味は、本気で殺人・無差別テロをするまでの覚悟があるように見えた、という意味ならば、鈴木の慧眼に恐れ入るのだが、鈴木はTV討論番組に出演した麻原をはじめとするオウム教団の幹部の正体をつかめなかった。そのことを鈴木は、もっと率直に反省・懺悔すべきなのだ。おそらく、鈴木を含めて、多くの視聴者は、オウムを宗教団体として“本物”だと感じたのだ、テレビを通じて。幸福の科学は、金儲けの似非宗教だが、オウムは違う、宗教団体としてしっかりしていると。この感覚がオウムを膨張させた主因の一つではないのか。
オウムをオウムたらしめたもの
以上指摘してきた事項は、大きな社会状況である。こうした社会背景の下、数多くの新宗教、神秘主義的集団が日本社会に群生した。これらの事項は、新宗教等が群生する根拠にはなるが、だからといって、それらのすべてがオウム教団のような暴力主義、革命主義、テロリズムに走ったわけではない。オウムがオウムになった個別的要因はなんだったのか。
(一)麻原の父権的カリスマ性
上祐 気という霊的なエネルギーというのがあって、それを感じ取って操ったりする、つまり相手のエネルギーを感じたり、相手に自分のエネルギーを入れるという力は、麻原にかぎらず、多くの人が経験しています。そういった力は、麻原には、かなりあったなと思います。(P116)
上祐 われわれの麻原への狂信の下、麻原からの誘導があるんです。麻原が親族をやれと言う場合があったとすれば、その親族がかなり教団を攻撃していて、このままではその親族は将来地獄に落ちてしまうから、お前は親族を救うために形としての親族を殺せ、親族の魂を救ってやるために殺せと言うでしょうね。親族への愛を使って殺すように仕向けるのです。(P117)
鈴木 上祐さんは麻原に父親を見たと言ってましたよね。カリスマ的宗教実践者については、「精神病質者」と規定する見方もある。詳しくは、『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』(ウルリヒ・リンゼ[著]、ミネルヴァ書房)を参照されたい。
上祐 オウムに入る人には、親との関係が悪い者が少なくなく、麻原に理想の父親像を見たというのは私以外にも多分にあると思います。(P119)
上祐 私は、麻原は真実を自覚したら生きていけないから、サリン事件をやったと考えています。サリン事件に合理的な利益はないのに、それをやった理由は、そうしなければ、彼が信じ込んだ、自分は弾圧と戦って勝利する救世主であるという虚構のアイデンティティが崩れるからだと思います。その虚構の維持は、彼をコンプレックスの強い不遇な一人の男から、彼を救世主と信じる教団の教祖にした根源ですから、彼にとって命よりも大切なことであり、それを守るためには、社会と妥協しないでしょう。(P124)
上祐 私は、教祖型の精神病理というのがあると思います。教祖型の人格障害、超自己愛型の人格障害・・・人格障害とは、社会生活が送れない精神病とはちがって、非常に高い能力やカリスマ性を持つ場合があるとされています。けれど、一方で狂気も持っているわけです。わかりやすく言えば、ヒトラーですよね。ですから、カリスマ型人格障害という心理学的な理論が必要ではないでしょうか。研究が足りないと、社会に免疫も生まれませんしね。(P125)
(二)麻原の世界観
上祐 ・・・麻原の世界観の本質はなんだったのかと考えた結果、これは過去の日本の暗部の亡霊ではないかと感じました。自分たちの教団を神の集団とし、そのトップを生き神とし、米国を悪魔と位置づけ、日米決戦に勝って正しい世界ができるといった予言など。そういう誇大妄想に加え、被害妄想や陰謀説も組み込んでいった。それが国家規模で起こるのがナショナリズムなんでしょうね。自己存在価値に飢えているから、自分たちは正しくて相手が悪いと思いたい。(P168)
鈴木 麻原彰晃という人が内乱を起こそうとした。そこまではまだわかるんです。ところが、このままだと自滅すると思った時に、麻原一人が自決するとか、あるいは南米の人民寺院事件のように集団自殺するというのは悲惨な結果だけれども、まだ理解できるんですよ。ところがそれが、なぜ外に暴力が向いてサリンをまいてしまったのか?
(略)
上祐 それは自分たちは神の集団だから勝てるはずだ、それをやらないといけないんだという麻原の思考が根底にあるんです・・・麻原は神から戦う救世主だという予言を、啓示を受けていた、と思い込んでいた。彼は自分の存在価値が戦うことにあったのだから、立ち止まって考え直すことなくやり続けるということなんです。
鈴木 でも、殉教の宗教者だと思い込んでいたわけでしょう?
上祐 殉教というか、彼には戦う救世主というイメージ・アイデンティティがあって、それをどうしても手放せなかったのではないかと思うんです。(P156~157)
オウム問題の現代社会における意義
(一)オウム問題の根源
オウム問題の根源について、上祐史浩は次のように本書終章でまとめている。
オウムの危険な要素の中で、今や社会全体に感染していると思われるものは、陰謀説の流行や、右傾化、排外主義だけではない。スピリチャアルブームの一部も同様である。そのすべてが悪いわけではないが、中には妄想的な性質のものもあるように見える。
問題は、これらの傾向の背景に、同一の根本原因があると思われることだ。それは、現実的に健全に自尊心・自己価値の充足ができないために、一種の妄想を抱き、その中で自尊心を満たすことだ。そこで、自分たちこそが正しく、他は悪であるという善悪二元論が出てくる。(P234)
(オウムの問題の根源は)暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題であり、誇大妄想的な自己特別視、被害妄想的な排外主義の問題である。さらに、その背景には、現代社会に広がった、未熟な妄想的な自己愛、間違った自尊心の充足という問題である。それによって、世界を善と悪に二分化し、自分こそが善だと思い込む未熟な精神の問題だと思う。(P241)(二)宗教とはなにか
上祐のオウム問題の根源についての発言は間違っていない。しかし、オウム問題の根源は、暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題というよりも、宗教がもつ根源の問題だと言いなおした方がいい。彼は宗教の本質がわかっている。以下、鈴木とのやりとりを書き抜いておこう。
鈴木 カルヴァンは宗教改革を行った正義の人なんです。そして、自分に厳しいだけじゃなく他人にも厳しい。だから、スイスで権力を握ると、神についてこれない人、自分についてこれない人を徹底的に弾圧するんです。また、ルターも宗教改革をやって、100%正義の人ですけれども、その後、ドイツ農民戦争なんかを徹底的に批判して、自分についてこれない人を殺してもいい、そういう反乱を鎮圧することが神の意志だとする。そういう意味で、カルヴァンもルターも正義の人なんだけれども、妥協しない怖さというものがありますよね。このやりとりは、見事にすれちがっている。鈴木は宗教が天国を地上化する運動である以上、内部に粛清を、外部に弾圧を伴うものであると言いたかったのに対し、それを受けた上祐は、宗教家が独善的だというふうに論旨をそらし、しかも、「現実への対応能力」という世界史的な成功と失敗という結果にちがいを求めてごまかした。上祐の論点のすり替えは巧みだ。
(略)
上祐 ルター、カルヴァンと麻原の共通性は、自分こそが善で、他は悪だという考え方ですね。一方、両者のちがいは、現実への対応能力だと思うんです。麻原は、小規模な一教団で革命を起こすという妄想に陥って自滅した。ルターやカルヴァンは現実に相当の支持者を得て、宗教戦争を戦い抜く力を持ち、自滅することはなかった。(P151)
オウムに限らず、宗教というものが地上に天国を建設する運動である限り、その本質として、現実社会の基本的な仕組みに対して軋轢を生じせしめ、現実のシステムに対し、非妥協的姿勢を取らざるを得なくなるものだ、ということを了解しあってくれれば、上祐に対する信用は高まった。さらに言えば、世界史的成功とされる宗教運動の裏側には、無数の殉教と迫害――弾圧され消滅した教団とその信者の命が――あったのではなかろうか。宗教指導者のちがいとは現実への対応能力の結果ではなく、民衆がその宗派に注いだ宗教的情熱と現実のエネルギーがどれだけの力量で融合したかのちがいだけだと思われる。
上祐が現在行っている光の輪の活動は、西洋の学者が釈迦の教えを「これは宗教じゃない。これは自己訓練の哲学だ」と評したことを援用し、宗教というよりも「宗教的な知恵の学習・実践センター」のイメージだと力説している。しかし、地上に天国を築くことを諦めれば、そこに宗教的求心力は生じない。上祐の目指す光の輪がこれからも持続的に知恵の実践センターであり続けるのかどうか。光の輪については、もう少し時間をかけて注視する必要がある。
(文中敬称略)
2013年6月5日水曜日
サッカー日本代表に構造改革必要
サッカー日本代表は4日、オーストラリアとホームで引き分け、W杯ブラジル大会出場を決めた。ザッケローニは、代表監督として、最低限のミッションを果たした。
試合内容は、全体として日本やや優位で試合を進めたものの、後半36分、相手クロスがゴールインという不運な失点でオーストラリアに先行された。しかし、タイムアップ直前、相手選手のハンドの反則でペナルティーキックを得、本田が落ち着いて決めドローとした。日本は1998年フランス大会以降、自国開催の2002年日韓大会を含め、5大会連続のW杯出場を果たした。
日本はW杯アジア予選B組において1試合を残しているが、日本のW杯出場決定により、少なくともアジアでベスト4に入ることを証明した。A組では韓国、ウズベキスタン、イランがしのぎを削っていて、3チームのうちどこが勝ち残るか予断は許されない状況だ。一方、B組の残り1枠は、勝ち点2差で2位オマーン(18日・アウエーでヨルダン戦)、3位オーストラリア(11日・ヨルダン戦、18日・イラク戦いずれもホーム)の争いになっている。残り2試合をホームで戦うオーストラリアが優位にあることは間違いなさそう。オマーンがアウエーのヨルダン戦に勝って勝ち点3を積み上げても、最終の勝ち点は12までしか伸ばせない一方、オーストラリアは2勝すれば勝ち点を最終13まで伸ばすことができる。
日本はアジアの4強にすぎない。課題は多い。第一に、オーストラリアとは2試合戦って2試合ともドロー、つまり勝っていない。当コラムで何度も書いていることだけれど、オーストラリアはドイツ大会の代表選手がいまだ主力を構成する、ロートルチーム。若手育成に失敗していて、どの試合も後半、運動量がガクッと落ちる。それでも、日本は勝てない。パワーで劣る相手に、日本は勝ちきれない。オーストラリア戦の前の親善試合に0-2で負けたブルガリア戦からもその傾向は明らかだ。ブルガリアはW杯欧州予選では2位を確保できない欧州の中堅クラス。このクラスとアウエーで五分に渉りあえるくらいでないと、W杯ベスト8の常連国にはなれない。
課題の第二は、アウエーにおける試合の進め方がうまくないことだ。アウエーではオーストラリアと引き分け、オマーンに勝ち、ヨルダンに負けた。格下のヨルダンに競り負けるようでは、この先、アジアでベスト4の地位を確保できるとは限らなくなる。日本には、ここ一番のアウエー戦に負けないような自力はついていない。
課題の第三は攻撃力の弱さだ。パスサッカーが日本の進む道だとは思うが、ゴール前で相手を完全に崩し、GKと1対1をつくって決めるというイメージが強すぎるのではないか。世界レベルのサッカーでは、とにかくまず、“シュートありき”ではないか。強いストライカーの不在が日本の最大の弱点の1つだ。
課題の第四は、とにかく“本田頼み”の日本代表だということ。課題の四にしたけれど、第一番目かもしれない。精神的にもボールキープという面でも、本田不在の日本代表はあらゆる面での「弱さ」が目立つ。
ザッケローニは、W杯予選の全過程を通じて、固い選手起用をしてきた。それが、予選突破という最低限の目標達成の最善手だったことを否定しない。結果が示す通り、ほかに打つべき手はないかのように思える。グローバルに選手が分散する今日のサッカー状況においては、代表チーム強化の手法としては、これしかないのかもしれない。しかし、日本代表が海外から呼ばれて試合ができるようになれば、いろいろな選手を起用できるのかもしれない。キリン(カップ)に縛られた国内親善試合を消化するだけでは、代表選手の発掘も実戦において果たされないのではないか。日本代表のあり方、進め方を構造改革する時期に来ている。
試合内容は、全体として日本やや優位で試合を進めたものの、後半36分、相手クロスがゴールインという不運な失点でオーストラリアに先行された。しかし、タイムアップ直前、相手選手のハンドの反則でペナルティーキックを得、本田が落ち着いて決めドローとした。日本は1998年フランス大会以降、自国開催の2002年日韓大会を含め、5大会連続のW杯出場を果たした。
日本はW杯アジア予選B組において1試合を残しているが、日本のW杯出場決定により、少なくともアジアでベスト4に入ることを証明した。A組では韓国、ウズベキスタン、イランがしのぎを削っていて、3チームのうちどこが勝ち残るか予断は許されない状況だ。一方、B組の残り1枠は、勝ち点2差で2位オマーン(18日・アウエーでヨルダン戦)、3位オーストラリア(11日・ヨルダン戦、18日・イラク戦いずれもホーム)の争いになっている。残り2試合をホームで戦うオーストラリアが優位にあることは間違いなさそう。オマーンがアウエーのヨルダン戦に勝って勝ち点3を積み上げても、最終の勝ち点は12までしか伸ばせない一方、オーストラリアは2勝すれば勝ち点を最終13まで伸ばすことができる。
日本はアジアの4強にすぎない。課題は多い。第一に、オーストラリアとは2試合戦って2試合ともドロー、つまり勝っていない。当コラムで何度も書いていることだけれど、オーストラリアはドイツ大会の代表選手がいまだ主力を構成する、ロートルチーム。若手育成に失敗していて、どの試合も後半、運動量がガクッと落ちる。それでも、日本は勝てない。パワーで劣る相手に、日本は勝ちきれない。オーストラリア戦の前の親善試合に0-2で負けたブルガリア戦からもその傾向は明らかだ。ブルガリアはW杯欧州予選では2位を確保できない欧州の中堅クラス。このクラスとアウエーで五分に渉りあえるくらいでないと、W杯ベスト8の常連国にはなれない。
課題の第二は、アウエーにおける試合の進め方がうまくないことだ。アウエーではオーストラリアと引き分け、オマーンに勝ち、ヨルダンに負けた。格下のヨルダンに競り負けるようでは、この先、アジアでベスト4の地位を確保できるとは限らなくなる。日本には、ここ一番のアウエー戦に負けないような自力はついていない。
課題の第三は攻撃力の弱さだ。パスサッカーが日本の進む道だとは思うが、ゴール前で相手を完全に崩し、GKと1対1をつくって決めるというイメージが強すぎるのではないか。世界レベルのサッカーでは、とにかくまず、“シュートありき”ではないか。強いストライカーの不在が日本の最大の弱点の1つだ。
課題の第四は、とにかく“本田頼み”の日本代表だということ。課題の四にしたけれど、第一番目かもしれない。精神的にもボールキープという面でも、本田不在の日本代表はあらゆる面での「弱さ」が目立つ。
ザッケローニは、W杯予選の全過程を通じて、固い選手起用をしてきた。それが、予選突破という最低限の目標達成の最善手だったことを否定しない。結果が示す通り、ほかに打つべき手はないかのように思える。グローバルに選手が分散する今日のサッカー状況においては、代表チーム強化の手法としては、これしかないのかもしれない。しかし、日本代表が海外から呼ばれて試合ができるようになれば、いろいろな選手を起用できるのかもしれない。キリン(カップ)に縛られた国内親善試合を消化するだけでは、代表選手の発掘も実戦において果たされないのではないか。日本代表のあり方、進め方を構造改革する時期に来ている。
2013年6月2日日曜日
6月の猫(Zazie, Nico)
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