2013年6月7日金曜日

『終わらないオウム』

●上祐史浩・鈴木邦夫・徐裕行 ●鹿砦社 ●1500円+税

拭えぬ違和感

本書に登場する徐裕行は、1995年、オウム真理教最高幹部の一人だった村井秀夫を殺害した人物だ。彼は2007年に刑期を満了し出所。そしてこうして、同じくオウムの最高幹部の一人であった上祐史浩と顔を合わせ、第三者(鈴木邦男)を挟んで対峙している。いかにも奇異な組合せというほかない、というよりも、本書の広告を見たとき、強い違和感を抱いた。 というのは、徐裕行と上祐史浩という、かつての「敵同士」が面談することではない。ほかでもない、あの村井を殺(やっ)た犯人がもう出所したのか――というそれだ。殺人者が刑に服する期間が12年とはなんと短いものなのか。  

村井は徐裕行に殺されなくとも、サリン事件の主犯格として死刑判決を受けた可能性は高い。だが、村井が殺されたときには、もちろん村井は逮捕もされていなければ、有罪判決も受けていない。事件当時、村井はマスコミ報道等から推察する限り、かなり怪しく思えたが、証拠があったわけではない。いわば、村井は当時、一介の教団幹部の一人にすぎなかった。ゆえに、徐裕行の犯行が免罪される根拠はない。情状酌量の余地もない、徐裕行は第一級の殺人者だ。そういう者が12年という短期間の服役で済むものなのか――という違和感だ。法律上の人間の生命の軽さに、改めて愕然とした次第だ。殺された側はたまらない。殺された者の人生は絶対に二度と、もどることがないのだから。

もう一つの違和感は遺族への配慮についてだ。殺された村井に妻子があったのかどうかは知らない。だが、村井に限らず親は絶対にいるはずだ。徐裕行が村井の遺族にどういう態度をとったのかはわからないが、残された村井の遺族は徐裕行を無条件で許したのだろうか。村井の両親は息子を殺害した徐裕行をどう思っているのだろうか。 

このような観点に立つとき、殺人を犯した者が刑期を終えからといって、公の場で発言することへの違和感は拭えない。もしも自分の肉親が殺害されたとしたら、刑期を終えた元殺人犯の公での発言をどのような気持ちで受け止めるのかについては、想像しにくい。刑期を全うしたということは更生したことを意味する、と頭の中で了解し得たとしても、感情のレベルで納得がいかない。もちろんだからといって、殺人犯をすべて死刑に処せと言っているわけではない。更生した証として懺悔を聞きたいわけでもない。殺害された被害者とその遺族への同情のほうに感情が傾くことを避けられないだけなのだ。 

徐裕行の発言は内容的にも量的にも貧しすぎる 

その一方、徐裕行の犯行には組織的背景があったのではないか、という疑念がずっと世間を支配していた。村井殺害の犯行の過程を振り返ると、疑惑・疑念をもつことのほうが自然な部分もあった。だから、徐裕行がそのことを全部話さないまでも、なにか暗示するところはないのかどうか、本書に期待する面があった。かりに、村井殺害の“真相”の一端が明らかになれば、遺族への配慮を超え、徐裕行の本書の発言が歴史的重要性をもつとも思えたからだ。だから、違和感を振り払って本書を読んでみた。

本書において、徐裕行は犯行の組織的背景を否定し、単独犯であることを強調した。そのうえで、村井を標的にしたことも否定した。徐裕行は、村井・上祐・青山(オウム教団の顧問弁護士)のうち、(殺す対象は)だれでもよかった、と発言している。つまり、サリン事件の主犯格であり、教団のサリン関与の全貌を知る(であろうと世間が想像した)村井を狙って殺害したという疑惑を全面否定している。徐裕行は村井を殺害したのは偶発的だった、という意味の発言をしている。そして、「あの時、本当に殺そうとしたのは上祐さんだった」とも。

徐裕行の発言は、その公判記録等に当たれば明白なのだろうが、裁判ではなく、私的な発言として、事件当時の生々しい“真実”がわかるのではないか――という“ウブな期待”は裏切られた。 

本書において、世間が期待する徐裕行による“真相告白”もしくは“新しい事実”の露呈はない。というよりも、徐裕行の発言そのものの分量が少ない。この期に及んで村井殺害に関し、語るべきものはなにもない、というのが徐裕行のスタンスなのだろう。 

上祐史浩が展開する「オウム論」 

では、本書200数十ページにわたる本文にはどのような内容で占められているのかと言えば、かつてオウム教団の幹部の一人であった上祐史浩の発言ということになる。  

上祐史浩は、地下鉄サリン事件当時ロシアに滞在しており、同事件への関与なしとして、別の軽微な罪科で刑に服した後、出所後は麻原を積極的に否定し、麻原の路線を継承すると言われているアレフ教団と袂を分かった。そして現在、「光の輪」というサークルを立ち上げ宗教的活動を続けている。 

なぜ、オウムは巨大化したのか  

本書において、上祐はオウム教団がなぜ、1990年代中葉、かくもあのように活発な宗教活動、非合法活動そして無差別テロまでを展開し得たのかについて、かなり分析的な発言を繰り返している。オウムを生んだ社会状況にも切り込んでいて、オウムは日本の合わせ鏡だともいう。彼なりの日本の現代社会の病理・病巣への危惧もある。また、「陰謀説」の危険性にも警鐘を鳴らしているし、当時もいまも日本のマスコミの危険性に対する指摘も的確だ。そういう意味で上祐は、怪しげな陰謀説を振りまくメディアに出没するコメンテーターよりは良質だ。教団に深くかかわっていた者であるだけに、彼の「オウム論」に耳を傾ける価値はある。

(一)「カルト的なもの」を社会に浸透させたマスメディア 

当時、オウム真理教が台頭し始めた1990年代を振り返ると、「カルト的なもの」を容認する社会的風潮があった。それまでにも、「ノストラダムスの大予言」に代表される終末論が紹介され、終末論をテーマにしたアニメが流行り、UFO・スプーン曲げ、超能力等に人々の関心が集まっていた。当初、それらはマイナーな専門雑誌で紹介される程度だったのだが、TV等のマスメディアがエンターテインメントのひとつのコンテンツとしてそれを積極的に取り上げることにより、世代を超えて「カルト的なもの」が日本社会に浸透した。この潮流は、オウム教団の台頭の基盤となった。  

これらの現象は世界的な潮流であり、ワイマル共和国の研究者であるウルリヒ・リンゼは、カール・クリスティアン・ブライの『偽装された宗教』から引用して、次の項目を挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。  

また、マスメディアはオウム教団を興味本位に取り上げた特別番組や教団批判番組を多数、お茶の間に届けた。その結果、多くの若者がオウム教団に興味を示すと同時に、オウム信者は過剰な自己防衛感情を高ぶらせ、組織の硬化を促進させた。マスメディアが、オウムの膨張及び組織強化を助長したことに異論はなかろう。オウムはメディアが大きくした、と言って過言ではない。 

また一方、バブル経済が崩壊した当時、人々は「経済的な価値」に失望し、「精神的な価値」を求めるようにもなっていた。ここでいう「精神的価値」というのは、即席で安易な癒し(ヒーリング)効果であり、理屈を排除した非合理的・直感的神秘主義の類だ。ヨーガ、瞑想、風水身体論、似非チベット仏教、霊媒師、ニューエイジ思想、オルタナティブなエコロジー思想、日本の縄文信仰などを適当に組み合わせた新宗教(新宗教教団の具体名は省略する)が立ち上げられた。その中の一つがオウム教団だった。こうした新宗教を積極的に取り上げたのもマスメディアだった。 

なお、「カルト」について体系的に把握されたい方は、『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 (S. フォン・シュヌーアバイン 著、恒星社厚生閣)を参照されたい。

(二)バブル経済の隆盛と崩壊、そしてマルクス主義の衰退  

オウム教団を取り巻くもう一つの大状況としては、バブル経済の崩壊を挙げておく必要がある。バブル経済崩壊は、人々の価値観を大きく変えた。とりわけ、日本社会において長らく厚い信任をおかれた大手銀行の企業としての、あるいはそこに従事する者の、数々のモラルハザードの発覚は、人々の社会観を変容させるに十分だった。不良債権処理問題、闇社会との癒着、公的資金導入は、とりわけ若者の純粋な正義感を刺激した。

なかで特筆すべきは、マルクス主義の衰亡ではないか。1970年代までの日本社会においては、若者の正義感の発露と反体制意識の受け皿は左翼思想が受け持っていた。とりわけ知的大衆(学生)が社会の諸矛盾に鋭く反応する場合、彼らの急進的思想と行動主義を吸収したのはマルクス主義組織であった。多くの学生が一時(いっとき)、おのが人生を「共産主義革命」に賭けようとした。「世直し」のために。  

しかし、1990年代になると、日本の左翼陣営はほぼ組織的に壊滅していた。学生を中心とした若者が、バブル崩壊の衝撃とそれに付随して生起したモラルハザードに対して純粋に怒りを感じたとしても、マルクス主義政治組織は機能し得なかった。その結果として、オウム真理教がマルクス主義に代わって、彼らの怒りの受け皿となった。マルクス主義もオウム真理教も「千年王国」を標榜する点で差異はない。両者はともに「革命」を志向する点で共通する。それゆえ、その台頭と暴力主義的運動論及び運動実態、それを支える厳格かつ禁欲的組織形態とその運営実態、さらには、官憲の追及に窮して行った内部粛清から崩壊に至る過程は、「連合赤軍」と共通する部分も多い。  

そんな中、マルクス主義に代わるモダニズム、すなわち、ニューアカデミズムの旗手の一人として登場したのが中沢新一だった。中沢は、いまや「反原発」の理論的指導者の一人として多くの支持者をあつめているが、当時はオウム教団の理解者であり、彼がチベット密教を体験修業してまとめた『虹の階梯』はオウム教団のポアの思想と同質のものであった。いま現在、中沢は、当時、自分がオウム支持者であったことについて一切ふれようとしない。このような中沢の姿勢に対する思想的攻撃は宗教学者・大田俊寛が繰り返し行っているところなので、その内容に興味がある方は、『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)等の著作を当たることをお奨めする。  

さて、オウムを取り上げた代表的TV番組の1つとして、本書司会役の鈴木邦男は、1991年に放映された『朝まで生テレビ!』について、次のように話している。
鈴木 ・・・『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でやった「激論 宗教と若者」(91年)でのオウムと幸福の科学との対決とかもすごかったですね。あれでオウムはすばらしいと思った人たちもいたし、ぼくもそれを見てオウムは本物だと思いました。そのオウムに熱狂していく過程を知らずに今の結果だけを見れば、なんであんなバカらしいものにかぶれるのだろうと思うだけですよね。(P102)
鈴木のこの発言は、テレビがものごとの本質を伝えにくい媒体であることの恐ろしさをついているという意味で貴重だ。“本物”という意味は、本気で殺人・無差別テロをするまでの覚悟があるように見えた、という意味ならば、鈴木の慧眼に恐れ入るのだが、鈴木はTV討論番組に出演した麻原をはじめとするオウム教団の幹部の正体をつかめなかった。そのことを鈴木は、もっと率直に反省・懺悔すべきなのだ。おそらく、鈴木を含めて、多くの視聴者は、オウムを宗教団体として“本物”だと感じたのだ、テレビを通じて。幸福の科学は、金儲けの似非宗教だが、オウムは違う、宗教団体としてしっかりしていると。この感覚がオウムを膨張させた主因の一つではないのか。

オウムをオウムたらしめたもの

以上指摘してきた事項は、大きな社会状況である。こうした社会背景の下、数多くの新宗教、神秘主義的集団が日本社会に群生した。これらの事項は、新宗教等が群生する根拠にはなるが、だからといって、それらのすべてがオウム教団のような暴力主義、革命主義、テロリズムに走ったわけではない。オウムがオウムになった個別的要因はなんだったのか。

(一)麻原の父権的カリスマ性
上祐 気という霊的なエネルギーというのがあって、それを感じ取って操ったりする、つまり相手のエネルギーを感じたり、相手に自分のエネルギーを入れるという力は、麻原にかぎらず、多くの人が経験しています。そういった力は、麻原には、かなりあったなと思います。(P116)
上祐 われわれの麻原への狂信の下、麻原からの誘導があるんです。麻原が親族をやれと言う場合があったとすれば、その親族がかなり教団を攻撃していて、このままではその親族は将来地獄に落ちてしまうから、お前は親族を救うために形としての親族を殺せ、親族の魂を救ってやるために殺せと言うでしょうね。親族への愛を使って殺すように仕向けるのです。(P117)  
鈴木 上祐さんは麻原に父親を見たと言ってましたよね。
上祐 オウムに入る人には、親との関係が悪い者が少なくなく、麻原に理想の父親像を見たというのは私以外にも多分にあると思います。(P119)

上祐 私は、麻原は真実を自覚したら生きていけないから、サリン事件をやったと考えています。サリン事件に合理的な利益はないのに、それをやった理由は、そうしなければ、彼が信じ込んだ、自分は弾圧と戦って勝利する救世主であるという虚構のアイデンティティが崩れるからだと思います。その虚構の維持は、彼をコンプレックスの強い不遇な一人の男から、彼を救世主と信じる教団の教祖にした根源ですから、彼にとって命よりも大切なことであり、それを守るためには、社会と妥協しないでしょう。(P124)

上祐 私は、教祖型の精神病理というのがあると思います。教祖型の人格障害、超自己愛型の人格障害・・・人格障害とは、社会生活が送れない精神病とはちがって、非常に高い能力やカリスマ性を持つ場合があるとされています。けれど、一方で狂気も持っているわけです。わかりやすく言えば、ヒトラーですよね。ですから、カリスマ型人格障害という心理学的な理論が必要ではないでしょうか。研究が足りないと、社会に免疫も生まれませんしね。(P125)
カリスマ的宗教実践者については、「精神病質者」と規定する見方もある。詳しくは、『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』(ウルリヒ・リンゼ[著]、ミネルヴァ書房)を参照されたい。

(二)麻原の世界観
上祐 ・・・麻原の世界観の本質はなんだったのかと考えた結果、これは過去の日本の暗部の亡霊ではないかと感じました。自分たちの教団を神の集団とし、そのトップを生き神とし、米国を悪魔と位置づけ、日米決戦に勝って正しい世界ができるといった予言など。そういう誇大妄想に加え、被害妄想や陰謀説も組み込んでいった。それが国家規模で起こるのがナショナリズムなんでしょうね。自己存在価値に飢えているから、自分たちは正しくて相手が悪いと思いたい。(P168)

鈴木 麻原彰晃という人が内乱を起こそうとした。そこまではまだわかるんです。ところが、このままだと自滅すると思った時に、麻原一人が自決するとか、あるいは南米の人民寺院事件のように集団自殺するというのは悲惨な結果だけれども、まだ理解できるんですよ。ところがそれが、なぜ外に暴力が向いてサリンをまいてしまったのか?
(略)
上祐 それは自分たちは神の集団だから勝てるはずだ、それをやらないといけないんだという麻原の思考が根底にあるんです・・・麻原は神から戦う救世主だという予言を、啓示を受けていた、と思い込んでいた。彼は自分の存在価値が戦うことにあったのだから、立ち止まって考え直すことなくやり続けるということなんです。
鈴木 でも、殉教の宗教者だと思い込んでいたわけでしょう?
上祐 殉教というか、彼には戦う救世主というイメージ・アイデンティティがあって、それをどうしても手放せなかったのではないかと思うんです。(P156~157) 

オウム問題の現代社会における意義

(一)オウム問題の根源

オウム問題の根源について、上祐史浩は次のように本書終章でまとめている。
オウムの危険な要素の中で、今や社会全体に感染していると思われるものは、陰謀説の流行や、右傾化、排外主義だけではない。スピリチャアルブームの一部も同様である。そのすべてが悪いわけではないが、中には妄想的な性質のものもあるように見える。
問題は、これらの傾向の背景に、同一の根本原因があると思われることだ。それは、現実的に健全に自尊心・自己価値の充足ができないために、一種の妄想を抱き、その中で自尊心を満たすことだ。そこで、自分たちこそが正しく、他は悪であるという善悪二元論が出てくる。(P234)
(オウムの問題の根源は)暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題であり、誇大妄想的な自己特別視、被害妄想的な排外主義の問題である。さらに、その背景には、現代社会に広がった、未熟な妄想的な自己愛、間違った自尊心の充足という問題である。それによって、世界を善と悪に二分化し、自分こそが善だと思い込む未熟な精神の問題だと思う。(P241)
(二)宗教とはなにか

上祐のオウム問題の根源についての発言は間違っていない。しかし、オウム問題の根源は、暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題というよりも、宗教がもつ根源の問題だと言いなおした方がいい。彼は宗教の本質がわかっている。以下、鈴木とのやりとりを書き抜いておこう。
鈴木 カルヴァンは宗教改革を行った正義の人なんです。そして、自分に厳しいだけじゃなく他人にも厳しい。だから、スイスで権力を握ると、神についてこれない人、自分についてこれない人を徹底的に弾圧するんです。また、ルターも宗教改革をやって、100%正義の人ですけれども、その後、ドイツ農民戦争なんかを徹底的に批判して、自分についてこれない人を殺してもいい、そういう反乱を鎮圧することが神の意志だとする。そういう意味で、カルヴァンもルターも正義の人なんだけれども、妥協しない怖さというものがありますよね。
(略)
上祐 ルター、カルヴァンと麻原の共通性は、自分こそが善で、他は悪だという考え方ですね。一方、両者のちがいは、現実への対応能力だと思うんです。麻原は、小規模な一教団で革命を起こすという妄想に陥って自滅した。ルターやカルヴァンは現実に相当の支持者を得て、宗教戦争を戦い抜く力を持ち、自滅することはなかった。(P151)
このやりとりは、見事にすれちがっている。鈴木は宗教が天国を地上化する運動である以上、内部に粛清を、外部に弾圧を伴うものであると言いたかったのに対し、それを受けた上祐は、宗教家が独善的だというふうに論旨をそらし、しかも、「現実への対応能力」という世界史的な成功と失敗という結果にちがいを求めてごまかした。上祐の論点のすり替えは巧みだ。

オウムに限らず、宗教というものが地上に天国を建設する運動である限り、その本質として、現実社会の基本的な仕組みに対して軋轢を生じせしめ、現実のシステムに対し、非妥協的姿勢を取らざるを得なくなるものだ、ということを了解しあってくれれば、上祐に対する信用は高まった。さらに言えば、世界史的成功とされる宗教運動の裏側には、無数の殉教と迫害――弾圧され消滅した教団とその信者の命が――あったのではなかろうか。宗教指導者のちがいとは現実への対応能力の結果ではなく、民衆がその宗派に注いだ宗教的情熱と現実のエネルギーがどれだけの力量で融合したかのちがいだけだと思われる。

上祐が現在行っている光の輪の活動は、西洋の学者が釈迦の教えを「これは宗教じゃない。これは自己訓練の哲学だ」と評したことを援用し、宗教というよりも「宗教的な知恵の学習・実践センター」のイメージだと力説している。しかし、地上に天国を築くことを諦めれば、そこに宗教的求心力は生じない。上祐の目指す光の輪がこれからも持続的に知恵の実践センターであり続けるのかどうか。光の輪については、もう少し時間をかけて注視する必要がある。

(文中敬称略)