またまたネットが、注目すべき研究論文に係る疑惑を指摘した。疑惑を指摘されたのは、なんと、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発者でノーベル医学生理学賞を受賞した京都大の山中伸弥教授。山中が、2000年に欧州の専門誌に発表した論文の画像に不自然な加工した形跡があるという。
これを受けて山中教授が所長を務める京大iPS細胞研究所が調査したところ、山中教授の実験ノートなどから、実験は1998年ごろ行われたことを確認した。論文で発表した細胞は現在も使われており、再現性に問題がない点から「論文の内容が正しいことは明らか」と判断。切り貼りの跡がないことも確認した。
しかし、調査を担当し、その結果を公表したのが京大iPS細胞研究所の森沢真輔副所長。部下が上司の不正を問題視するはずもなく、この調査が公正に行われたかどうかは疑わしい。しかも、実験の生データは山中教授のノートでは確認できなかったという。共に研究の中心となった中国出身の研究者のノートに記録されている可能性もあるが、連絡が取れないという。
あれあれ、山中といえば、あの小保方の論文不正について、「実験ノートが重要・・・」とかなんとかご高説を垂れた者ではなかったか。
山中は会見で論文と同様の結果を示す実験の生データと図を示し、「学生に厳しく指導している私と昔の自分(の違い)を思い、恥ずかしい」と話したという。また、山中は不正を否定した上で、論文共著者の実験ノートが手元に保管されておらず、自分のノートにも実験の生データがなかったとして「日本の科学に対する信頼が揺らいでいる状況でこのようなことになり、誠に申し訳ありません」と陳謝したという。
ここで小保方の論文不正問題である。小保方は先の記者会見でも「論文に不正はない」を繰り返していた。そういえば、小保方の理研の上司で、小保方の論文不正の調査委員長を務めた石井にも論文不正が発覚したばかり。山中、石井といった小保方を上回るキャリアと実績をもった研究者が論文不正を行っていたことから「画像の差し替え、加工は不正に入らない」というコードが日本の科学界に常態化していると想像できまいか。
山中の疑惑は時効だという説もある。だが、山中の研究者倫理はどうなのだ、ノーベル賞をもらい、論文の正しさが証明されているから、山中はシロなのか。ならば、小保方も、「STAP細胞」の実在が証明されれば、シロということになる。となると、理研の調査と調査結果は無効に近い。つまり、「STAP細胞」の実在が証明されるまで小保方は処分されないでよいことになる。
となれば、論文に不正があっても、仮説の正しさが結果において証明されれば、不正を問わないでいい、というコードが科学界を出発点として、社会に敷衍することになる。科学者、研究者の退廃はとどまるところを知らない。小保方劇場は、ドロ沼ならぬ底なし沼状態に陥った。
2014年4月29日火曜日
2014年4月26日土曜日
ドロ沼化する小保方劇場
論文不正の調査委員長に論文不正が発覚
小保方晴子のSTAP細胞に関する論文に改ざんやねつ造があったと結論付けた理化学研究所の調査委員会で委員長を務めている石井俊輔・理研上席研究員が、委員長と委員を辞任することになった。その理由は、石井が責任著者になっていた論文に対して、ネット上で画像の切り貼りが指摘されたためだ。指摘された部分については、すでに訂正の手続きを行っているというのだが、石井は、小保方の「真正な画像データが存在している」という主張を「不正の認定は『論文投稿時にどういう行為が行われたか』なので、それは関係ない」と一蹴した経緯がある。
論文不正の調査委員長がねつ造の常習者だったというのだから、理研という組織が腐りきったそれだということを立証したようなものだ。筆者が拙Blogにて繰り返すとおり、小保方もクロだが理研もクロなのだ。理研を舞台とした小保方劇場は、これでますます先の読めないドロ沼状態に陥った。
小保方問題で後れを取る日本のマスメディア
石井の論文不正がネットからの指摘であったように、そもそも小保方論文不正問題の「報道」については、ネットがマスメディアに先行していた。小保方の学位論文、海外の科学専門雑誌に掲載されたSTAP論文について、コピペ、画像の切り貼り等を指摘したのはネットから発信されたものだ。また、「STAP細胞」そのものに疑義を発したのもネットからだった。
日本のマスメディア(新聞・TV・雑誌)はまるで不正を見抜けなかった。ネットが不正を発信していたにもかかわらず、日本のマスメディアは理研の広報戦略にのせられ、小保方を「リケジョ」ともてはやし、その割烹着姿を嬉々として垂れ流していたわけだ。
日本のマスメディア(新聞・TV・雑誌)はまるで不正を見抜けなかった。ネットが不正を発信していたにもかかわらず、日本のマスメディアは理研の広報戦略にのせられ、小保方を「リケジョ」ともてはやし、その割烹着姿を嬉々として垂れ流していたわけだ。
だからいまだに小保方擁護、「STAP細胞実在」を声高に叫んでいるのが、日本のマスメディア、とりわけ、TVなのだ。自分たちが論文不正に気付かず、まんまと理研に騙されていた愚かさを帳消しにしてくれるのは、「STAP細胞が存在すること」だからだ。それさえ存在してくれれば、自分たちのバカさが消えるという論理構成だ。小保方は正しかった、だから俺たちの報道姿勢に誤りはなかった、と納得したいのだ。一方、雑誌メディアは、小保方の論文不正発覚後、得意の下半身報道に舵を切り替えた。小保方と笹井芳樹の不倫報道に基軸を取り、そのことで販売部数増を図った。
小保方論文不正問題の核心を外す日本のマスメディア
日本のマスメディアは、論文不正が発覚したのちも、小保方問題が内包している2つのポイントを敢えて外して報道しているように思える。2つのポイントとは、
- 論文不正というルール違反、科学者倫理の逸脱について、それを批判する姿勢をもつのかもたないのか
- 理研という巨大組織の腐敗を批判するのかしないのか
日本のマスメディアが、衆人にとっていかにも明確なこの2つのポイントを敢えて避けようとしているのは、ネットが論文不正に係る報道を先行させた悔しさからだけではない。もう一つは、理研のボスがノーベル賞受賞者であること、いわゆる「ノーベル賞タブー」だ。
小保方・理研批判は安倍「成長戦略」のまやかしの批判
小保方・理研批判は安倍「成長戦略」のまやかしの批判
日本のマスメディアがこの問題の核心を敢えて外す理由は、彼らの自己正当化や理研のボスに対する忖度だけではない。理研が、安倍政権が進める「成長戦略」と不可分の関係にあることだ。安倍政権の広報部隊である日本のマスメディアは、小保方も理研も本気で批判報道できない。
なぜならば、STAP細胞論文が発表された背景には、安倍が掲げた「成長戦略」があるからだ。安倍の「成長戦略」を「実体化」する象徴的分野が再生医療だ。「成長戦略」では再生医療が国を挙げた重点投資の目玉になっている。「STAP細胞」はだれにもわかりやすい再生医療分野だ。第二に、「成長戦略」が掲げる「女性の活用」だ。小保方は「女性の活用」を象徴するまさに「看板娘」というわけだ。第三が理研を予算額が大きい「特定国立研究開発法人」に指定することだ。
(以上の指摘は、Blog「世に倦む日日」から引用した。)
(以上の指摘は、Blog「世に倦む日日」から引用した。)
われわれはもはや、ネットに期待するしかない
[安倍の「成長戦略」-理研-STAP細胞-小保方晴子]の虚構の構造は、論文不正で一気に瓦解した。安倍の「成長戦略」をシンボライズするはずだった理研及び小保方は、論文不正で挫折すると同時に、その内部腐敗が次々と明るみに晒されてきた。だが、日本のマスメディアはその核心に目をつぶり続ける。日本のマスメディア、TV・新聞の現場は科学に暗く、雑誌が得意なのは下半身報道、そしてそのどちらの幹部も安倍政権の圧力に縛られて手も足も出ない。われわれはもはや、ネットに期待するしかないのである。
2014年4月25日金曜日
『遊動論』――柳田国男と山人
●柄谷行人[著] ●文春新書 ●800円(+税)
本題となっている「遊動」とは何かから始めたい。著者(柄谷行人)が本書あとがき(P198)にて説明しているように、本書は後半に収録されている付論「二種類の遊動性」を先に読んだほうがわかりやすい。
著者(柄谷行人)は「交通(移動・戦争等)」及び「交換」といった観点から人類史を問う方法論を用いていて、本書もその方法が駆使されている。本書は人類の社会の始原から、現代の国家と資本の原理を超える道筋を「遊動」という観点から明らかにしようという試みである。社会の始原とは“人類が定住する前の社会のありよう”と換言できる。
定住以前の狩猟採集民社会
著者(柄谷行人)によれば、原初の社会を推論するには、人類学が扱ってきた漂泊的バンド社会の考察から可能だという。
次に、著者(柄谷行人)はこのことを贈与論の観点からみる。
著者(柄谷行人)によれば、人類の定住は農耕技術を習得したことによって開始されたのではない、つまり、定住があって、その後、農耕と牧畜=遊牧が二極に分化したという。その証拠となるのが日本列島の縄文時代で、縄文文化は新石器文化であり、縄文人は簡単な栽培や飼育を行っていたのだが、それは彼らが定住することにより、その結果、自然に生まれてきたものだという。
著者(柄谷行人)の立論の際立った特色は、定住から国家へと進む中間に、定住する以前の遊動民社会が有していた社会システムを維持した集団を措定することにあり、そこに国家を超える可能性を見いだそうとしていることだ。このことは後で詳述する。
農耕と牧畜は「原都市」で出現した
著者(柄谷行人)は、一般に定説だと思われているゴードン・チャイルドが唱えた「新石器革命」について、ジェイン・ジェイコブズの『都市の経済学』を引用しつつ否定する。
著者(柄谷行人)はそのことを踏まえて、流動民(ノマド)の概念を拡大するとともに、二種類に峻別する。
ノマドは、(一)焼畑農民。多くの場合、彼らは狩猟採集も行う。(二)漂泊的商人・手工業者。彼らが交換様式C(商品交換)を担った。(三)遊牧民。だが、遊牧民が焼畑農民、漂泊的商人・手工業者と異なるのは、しばしば結束して農耕民を征服し従属させるということである。それによって国家が形成された。
ノマドといえば、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』(1980年)が思い浮かぶ。著者(柄谷行人)は、このノマドロジーに対して、以下のとおり批判する。
ここで柳田国男である。著者(柄谷行人)は、柳田は日本で遊動民に注目した思想家だという。しかも重要なのは、柳田が二種類の遊動性を弁別したことだという。
では柳田が日本列島の遊動民として実態的に見たものはだれだったのか。著者(柄谷行人)は柳田の『九州南部地方の民風』という論文を引用する。
それは、前出のとおり、定住した狩猟採集民のことだ。彼らは定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性がありながら、つまり、国家の形成にいたる道がありながら、それを斥けた民であった。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステム=贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)を維持した民であった。定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てを行った民であった。
著者(柄谷行人)の柳田国男論を大雑把にまとめれば、柳田は、人々の自治と相互扶助、つまり協同組合あるいは「協同自助」の問題を追及し続けた思想家(民俗学者)であった、ということになる。柳田は山人からはじまって山民に出会い、そこに国家と資本の原理を超える社会主義の原理を発見したということになろうか。
本題となっている「遊動」とは何かから始めたい。著者(柄谷行人)が本書あとがき(P198)にて説明しているように、本書は後半に収録されている付論「二種類の遊動性」を先に読んだほうがわかりやすい。
著者(柄谷行人)は「交通(移動・戦争等)」及び「交換」といった観点から人類史を問う方法論を用いていて、本書もその方法が駆使されている。本書は人類の社会の始原から、現代の国家と資本の原理を超える道筋を「遊動」という観点から明らかにしようという試みである。社会の始原とは“人類が定住する前の社会のありよう”と換言できる。
定住以前の狩猟採集民社会
著者(柄谷行人)によれば、原初の社会を推論するには、人類学が扱ってきた漂泊的バンド社会の考察から可能だという。
そこ(漂泊的バンド社会)から、定住以前の狩猟採集民社会について、ある程度推測できるだろう。・・・バンドの凝集性は、共同寄託や供食儀礼によって確保される。バンドの結合は固定的ではなく、いつでも出ていくことができる。バンドは概ね、25-50名ほどの小集団である。その数は、食料の共同寄託(平等な分配)が可能な程度以上に増大せず、また、共同での狩猟が可能である程度以下にも減少しない。また、バンドが固定的でないだけでなく、家族の結合も固定的ではない。・・・家族と家族の間の関係は、もっと不安定である。ゆえに、親族組織は未発達であり、また、バンドを超える上位の集団を持たない。(P181)
狩猟採集によって得た収穫物は、不参加者であれ、客人であれ、すべての者に、平等に分配される。これは、この社会が狩猟採集に従事しているからではなく、遊動的だからである。彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。ゆえに、それを所有する意味もないから全員で均等に分配してしまうのだ。(P182)著者(柄谷行人)は定住以前の社会について、きわめて自由度の高いものとしてイメージする。自分たちが狩猟採集したものを平等に分配できる範囲の定員が保たれ、そこから出るのも入るのも自由、家族の結合も緩やかで、バンドを超える集団、すなわち支配権力層をもたない。柄谷によると、このような社会形態を規定するのは狩猟採集という生産形態ではなく、遊動的生存という条件によって強いられたものだという。つまり、狩猟採集とは獲物となる動物や食料となる植物等を求めて遊動する必要があるから、それを可能とする社会として、前出のようなイメージの社会集団が形成されていたということになる。
次に、著者(柄谷行人)はこのことを贈与論の観点からみる。
(この全員均等分配は、)「純粋贈与」であって互酬的ではない。収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということであり、昨日のことを覚えていないということである。したがって、贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になった時からだといえる。そうすると、定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである。」(P182)国家を回避する互酬制原理
著者(柄谷行人)によれば、人類の定住は農耕技術を習得したことによって開始されたのではない、つまり、定住があって、その後、農耕と牧畜=遊牧が二極に分化したという。その証拠となるのが日本列島の縄文時代で、縄文文化は新石器文化であり、縄文人は簡単な栽培や飼育を行っていたのだが、それは彼らが定住することにより、その結果、自然に生まれてきたものだという。
・・・たとえば、縄文時代は新石器文化である。もちろん、そこで始まった栽培・飼育が、農耕・牧畜へと発展する可能性はあった。また、定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性があった。それは早晩、国家の形成にいたるだろう。しかし、そうならなかったのは、定住した狩猟採集民がそれを斥けたからである。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステムを創りだした。それが贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)なのである。ゆえに、農耕・牧畜と国家社会の出現を「新石器革命」と呼ぶのであれば、われわれは、それを阻止することをむしろ革命と呼ぶべきであろう。その意味で、私はこれを「定住革命」と呼ぶ。
一般に、氏族社会は国家形成の前段階として見られている。しかし、むしろ、それは定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てとして見るべきである。その意味で、氏族社会は「未開社会」ではなく、高度な社会システムだといえる。それは、われわれに或る可能性、つまり、国家を超える道を開示するものとなる。
くりかえすと、定住とともに、集団の成員は互酬性の原理によって縛られるようになった。贈与を義務として強いることによって、不平等の発生を妨げたからである。もちろん、これは人々が相談して決めたことではない。それはいわば「神の命令」として彼らに課せられたのである。(P183-P184)
著者(柄谷行人)の立論の際立った特色は、定住から国家へと進む中間に、定住する以前の遊動民社会が有していた社会システムを維持した集団を措定することにあり、そこに国家を超える可能性を見いだそうとしていることだ。このことは後で詳述する。
農耕と牧畜は「原都市」で出現した
著者(柄谷行人)は、一般に定説だと思われているゴードン・チャイルドが唱えた「新石器革命」について、ジェイン・ジェイコブズの『都市の経済学』を引用しつつ否定する。
・・・チャイルドが唱えた新石器革命(農業革命)という概念によれば、農業・牧畜が始まり、生産力の拡大とともに、都市が発展し、階級的な分解が生じ、国家が生まれてきた。・・・(その一方、ジェイコブズによれば)・・・その逆に、農業は「原都市」で始まったのである。「原都市」は、共同体と共同体の交易の場として始まった。そこでは、さまざまな情報が交換、集積された。農耕はその結果として生じた、と彼女はいう。私は、この仮説を支持する。(P186-187)著者(柄谷行人)は加えて牧畜についても、それは原都市で発明されたもので、その後、農耕民と遊牧民の分化が生じたと考える。狩猟採集民の後に出現した遊牧民も遊動性が高い生活様式を維持しているが、遊牧民の遊動性と、狩猟採集民のそれとは異質だという。
農耕と牧畜は原都市で出現した。とともに、それらの分化、いいかえれば、農耕民と遊牧民の分化が生じた。遊牧民は、原都市を出て遊動するようになる。彼らはある意味で、遊動的狩猟採集民にあった遊動性を回復した。しかし、彼らは狩猟採集民とは異質である。遊牧は農耕と同様、定住生活の中で開発された技術であり、また、遊牧民は農耕民と分業関係にある。彼らは農耕民と交易するだけでなく、商人として共同体との間の交易をになう。(P188)二種類の遊動民
著者(柄谷行人)はそのことを踏まえて、流動民(ノマド)の概念を拡大するとともに、二種類に峻別する。
ノマドは、(一)焼畑農民。多くの場合、彼らは狩猟採集も行う。(二)漂泊的商人・手工業者。彼らが交換様式C(商品交換)を担った。(三)遊牧民。だが、遊牧民が焼畑農民、漂泊的商人・手工業者と異なるのは、しばしば結束して農耕民を征服し従属させるということである。それによって国家が形成された。
この場合、国家を形成するのは、たんなる暴力ではない。それは、服従すれば保護する、というかたちでの「交換」である。私はこのような交換のあり方を、交換様式Bと呼ぶ。すると、遊牧民は、交換様式Cとともに、交換様式Bの発展を担ったということができる。・・・・・・国家あるいは王権が成立するためには、外部からの征服という契機が不可欠である。それが遊牧民である。とはいえ、すべての国家が征服によって形成されるわけではないし、また、つねに征服が遊牧民によってなされるわけでもない。ただ、征服が現実になくても、遊牧民に対する防衛という動機が、首長制国家を集権的な国家に変容するのである。(P188-189)著者(柄谷行人)によれば、原都市=国家で生まれた農耕・牧畜、あるいは農耕民と遊牧民があいまって、国家を形成したことになる。遊牧民の遊動性はしたがって、遊動的狩猟採集民のそれとは似て非なる。遊牧民は共同体の間にあり、商業ないし戦争を通して、共同体の中に浸透、侵入、支配するにいたる。遊牧民の遊動性は、交換様式でいえば、Aではなく、BとCに導かれるという。さらに、遊動民の中に、遊牧民に似た者として、(四)山地民を加える。
遊動民一般をノマドと呼ぶとすれば、その中には、狩猟採集遊動民、遊牧民、山地民(焼畑狩猟民)が入る。また、遊動性という観点からみれば、漂泊する商人や手工業者を入れてもよい。定住農耕民からみれば、ノマドは不気味な存在である。彼らは非農耕民を軽蔑するが、それに依存するほかない。なぜなら、彼らとの交換がなければ、共同体の自給自足的経済はなりたたないからだ。一方、ノマドも、定住農民の生き方を軽蔑していると同時に、さまざまな意味で、後者に依存している。このように、各種のノマドが、交換様式C(商品交換)の発展を担ったし、また、しばしば交換様式B、すなわち国家形成に関与してきたのである。(P190)ドゥルーズ&ガタリの“ノマドロジー”は帝国を創り出す
ノマドといえば、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』(1980年)が思い浮かぶ。著者(柄谷行人)は、このノマドロジーに対して、以下のとおり批判する。
このノマドロジーは、定住性やそれに伴う領域性や規範を超えるとしても、国家と資本を超える原理ではない。それどころか、国家や資本を飛躍的に拡張する原理である。たとえば、戦争機械としての遊牧民は、国家を破壊するが、より大きな国家(帝国)を創り出す。資本も同様である。たとえば、金融資本は、脱領域的であり、領域化された国家経済を破壊する。著者(柄谷行人)は、ドゥルーズ&ガタリのノマドロジーを否定しつつ、資本=ネーション=国家を超える手がかりとして、遊動性を掲げる。著者(柄谷行人)のそれは、遊牧民的遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性だ。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。
米ソの冷戦体制が揺らぎはじめた1970年代以後、ノマドロジーは、この冷戦構造を解体する脱領域的・脱構築的な原理と目された。しかし、ソ連邦が崩壊し、資本主義のグローバリゼーションが生じた90年代以後、それは「資本の帝国」、あるいは新自由主義を正当化するイデオロギーに転化した。・・・90年代に入ると、それは新自由主義のイデオロギーと区別できなくなる。(P191-192)
定住以前の遊動性を高次元で回復するもの、したがって、国家と資本を超えるものを、私は交換様式Dと呼ぶ。それはたんなる理想主義ではない。それは交換様式A(互酬)がそうであったように、「抑圧されたものの回帰」として強迫的に到来する。いわば、「神の命令」として。したがって、それは最初、普遍宗教というかたちをとってあらわれたのである。だが、交換様式そのものは宗教ではない。それはあくまで経済的な交換の形態なのである。柳田国男は先住民(山人)と遊動民(山民・芸能的漂泊民)を区別した
交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(P193)
ここで柳田国男である。著者(柄谷行人)は、柳田は日本で遊動民に注目した思想家だという。しかも重要なのは、柳田が二種類の遊動性を弁別したことだという。
先ず、彼は「山人」の存在を主張した。山人は、日本列島に先住した狩猟採集民であるが、農耕民によって滅ぼされ、山に逃れた者だという。ただ、山人は山民(山地人)とは違って、その実在を確かめることができない。彼らは多くの場合、天狗のような妖怪として表象されている。さらに、柳田は、移動農業・狩猟を行う山民、および、工芸・武芸をふくむ芸能的漂泊民に注目した。しかし、柳田はそのような遊動民と山人とを区別していた。つまり、遊動性の二種類を区別したのである。(P194)次に網野善彦である。網野に代表される柳田民俗学批判は、後期の柳田がその関心を、遊動民から定住農耕民に向けるようになったため、定住農民と国家を超える視点を無くしたというものだ。網野に代表される柳田批判は、商人・職人・芸人のような遊動民を重視し、そこに、定住農民による国家権力(天皇制)を超える契機を見い出だそうとした。
しかし、このような芸能的遊動民は山人とは異質である。遊牧民が定住農民の社会の間にあって、それらを交易などで媒介しつつ、時には定住農民支配する国家を形成するように、芸能的遊動民は定住農民共同体の間にあって、それらを媒介することによって生きつつ、他方では、定住農民を支配する国家(王権)と、直接・間接的に結びつく。つまり、彼らは一方で定住民に差別される身でありながら、他方で、定住民を支配する力をもったのである。柳田は山民の中に「社会主義の理想」を見た
一方、根本的に「国家に抗する」タイプの遊動民は、山人である。しかし、山人は当初から実在するとはいいがたい存在であった。山人の存在を唱えた柳田は嘲笑され、次第に自説を後退させた。が、けっして放棄することはなかった。定住農民(常民)に焦点を移しつつ、彼は「山人」の可能性を執拗に追及したのである。最終的に、彼はそれを「固有信仰」の中に見出そうとした。彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未来的なものである。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、交換様式Dである。(P194-195)
では柳田が日本列島の遊動民として実態的に見たものはだれだったのか。著者(柄谷行人)は柳田の『九州南部地方の民風』という論文を引用する。
彼(柳田国男)はこの論文に、「社会主義の理想の実行さるる椎葉村」という小見出しを付した。
・・・此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の出現で、一つの奇跡であります。併し実際住民は必ずしも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居るため、何等の面倒もなく、斯かる分割方法が行わるるのであります。(『九州南部地方の民風』)(P68)柳田国男が生きた時代、椎葉村では焼畑農業と狩猟が人々の生計を支えていた。柳田国男はそこに伝えられていた資料を使って『後狩詞記』を書いた。椎葉村の人びとは、伝承となって妖怪化した山人ではなく、実際に生きている山民であった。著者(柄谷行人)は、柳田は椎葉村の暮らしの中に「稲作農耕民以前の狩猟採集民」の生活形態をみた、と考える。
それは、前出のとおり、定住した狩猟採集民のことだ。彼らは定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性がありながら、つまり、国家の形成にいたる道がありながら、それを斥けた民であった。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステム=贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)を維持した民であった。定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てを行った民であった。
著者(柄谷行人)の柳田国男論を大雑把にまとめれば、柳田は、人々の自治と相互扶助、つまり協同組合あるいは「協同自助」の問題を追及し続けた思想家(民俗学者)であった、ということになる。柳田は山人からはじまって山民に出会い、そこに国家と資本の原理を超える社会主義の原理を発見したということになろうか。
2014年4月18日金曜日
保身と裏切り――理研副センター長笹井芳樹会見
毒が溜まった
先の拙Blogにて「小保方劇場閉幕、以降、このことに言及しない」と宣言しておきながら、前言を撤回する。その理由は、16日、小保方晴子の新型万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の共著者で理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹(52)の記者会見をLIVE中継で見てしまったからだ。TV映像で笹井とメディア関係者とのやりとりを見聞きしているうちに身体中に毒が充満し、その毒をどうしても吐かないではいられなくなったからだ。笹井の登場によって、「小保方劇場」第二幕が上がった。
ヒール笹井の登場
笹井はいわば「ヒール」。小保方の上司にあたり、小保方と情を通じていたとされている。にもかかわらず、理研の論文不正問題調査結果で笹井はシロ、小保方はクロ。小保方の「単独犯」と判定された。調査結果公表後、笹井は姿を消し、小保方を擁護するような発言を一切しなかった。そのため、笹井は世間から、上司でありながら部下(小保方)に責任をなすりつけ、姿をくらませた卑劣な男として評価されていた。そんな男が会見するのだから、世間の注目が集まって当然だ。
保身のため小保方を裏切った笹井
会見は退屈だった。質問者も回答者も核心に迫らない。会見において笹井にメディアが尋ねるべきポイントは以下の2点、それ以外はどうでもよかった。その2点とは、(一)笹井は理研の調査結果を受けいれるのか否か、(二)なぜ、論文不正が起きたのか――に尽きる。
(一)で笹井が「受けいれる」と明言するのならば、それは小保方に対する裏切りを意味する。つまり、“自分は理研において保身する、小保方さん、サヨウナラ”というわけだ。笹井と小保方がどのような感情で結ばれていたのか、例えば肉体関係まであったのかどうかまでは筆者はわからない。ただ十分言えるのは、(A)先輩研究者と若手研究者同士、師弟的及び同志的絆で結ばれていたか、あるいは、(B)互いに利用しあう打算的関係だったか――のどちらかだ。(A)(B)どちらでも、それが男女の関係に移行することは大いにあり得る。
もちろん、会見で笹井が小保方との私的関係を明言するはずもなく、うやむやな答弁で終始しただろうから、そんな質問は時間の無駄だという見方もある。だが、このたびの理研の不祥事の根幹には、小保方が理研でユニットリーダーの地位を得、海外の研究雑誌に不正論文を発表してしまった主因の一つとして、笹井と小保方の間の緊密な関係という事項があったことだけはまちがいないのだから、少なくとも、このたびの論文不正問題を注視する世間の目を代表して、メディアはそのことをこの会見で笹井にぶつける義務があった。
笹井は会見において、筆者が掲げたような直接的質問形式に対してではないが、小保方について言及した。笹井の心情を意訳すれば、“君は研究者として未熟である。幹部の僕は理研で生き残る、論文不正のすべての責任を君にとってもらう”ということが一つ。笹井のこのような態度は、日本のエリート特有のものだ。保身と責任転嫁で一貫している。部下の成果はわがものとし、部下の失敗は部下のものとする――という姿勢だ。このような姿は、上司に部下とともに呼び出された部長が「お前のことは俺が守る」と言いながら、上司に詰問されるなり「そんなことは知りません」と言って責任を部下にかぶせるlotoのCMそのものではないか。
しかし、笹井はそれだけに終始したわけではない。彼は“STAP細胞は有力な仮説として存在する”と言い続けた。そうすることで、“間接的に小保方を擁護する”姿勢を滲ませた。だが、そう言い続けることは、小保方のみならず自身を弁護し続ける最良の言説である。笹井はそのことをよく知っている。まったくもって、煮ても焼いても食えない男だ。
笹井と小保方――あまりにも悲惨な男女関係の結末
論文不正は研究者にとって罪だ。その責任はとらねばならない。その一方で、笹井と小保方が理研という組織内部で交わした男女の関係性という面で見れば、これほどの悲劇を大衆に晒した場面をしらない。会見中継とは無慈悲なものだ。一組の男女のあまりにも残酷な結末がメディアを通じて世間に晒された。男女間の結末が、しかも芸能人でなく一般人の関係が、全国に中継配信されたのだ。このような異常な状況がこれまでにあっただろうか、筆者の記憶にはない。笹井と小保方の関係が(A)なのか(B)なのかはわからない、(A)でも(B)でもないかもしれないにしても、“哀れ”という言葉以外が見つからない。
責任回避に終始した笹井
第二点目の「論文不正が起きた」主因について――この論点については、すでに理研の野依理事長が「いくつかの複合的な要因が重なって、本件のような問題が発生してしまった」という意味の答弁をしており、その通りだと思う。笹井もこの複合的要因について会見で詳しく述べているので繰り返さないが、彼が展開する論旨を大雑把に言えば、STAP細胞論文の主要な実験とデータ収集等は若山研で終わっており、自分(笹井)はそれについて疑義をはさむことができなかった――ということに尽きる。つまり、笹井に言わせれば、問題は若山と小保方がコンビを組んでいた時期に仕組まれた、と言ったのだ。
この笹井の認識は、理研の調査委員会の調査結果とシンクロする。これもまた世間の常識から見れば、奇怪というほかない。調査委員会(笹井も同様だが)は、小保方を管理する者はシロ(建前上は、「責任はある」という表現だったが)、小保方はプレーヤーだからクロという認識で一致している。
このような主張が通るならば、理研は管理者を高給で雇用する必要はなくなる。理研は管理者=功労者という位置づけなのか。不祥事において当事者のクロは当たり前だが、管理者に管理責任が生じないという業務規程ならば、理事長以下全員がプレーヤー(ユニットリーダー)というフラットな組織で十分だ。プレーヤーが研究成果に応じて給与を決定するシステムでいい。理研には同類の法人及び官庁と似たような職制が構築されていて、管理者がその責任の度合いに応じて高額給与を受け取る給与規程が具備されているはずだ。笹井のように自分に管理責任はないという「逃げ」が許されるのならば、理研は笹井の給与の管理分に該当する額を削るべきだ。本件を契機に、笹井を管理職から外し、プレーヤーに戻したらいい。併せて、理研の組織をプレーヤー型に改組し、スリム化すればいい。
当たり前の民間企業ならば、管理者は「責任は俺がとるから、お前ら、思いっきりやれ」と言って、若手を前線に送り出すのではないのか。若手はそんな管理者の意気に感じて成長し、力をつけていくのではないのか。
論文不正の主因は理研幹部が小保方に情を働かせたこと
さて、本件の主因について、実のところ筆者は、まったく別次元の因子を考えている。まず理研が小保方を採用したことに始まり、若山との共同研究に起用し、彼女をユニットリーダーに抜擢し、さらに、一度不採用になった『Naitur』論文を笹井が手直しをして再投稿し、それが採用されるまでに至った過程で、小保方の不正をだれも指摘できなかった要因ということになる。換言すれば、その全過程で理研に客観的・科学的知見が働かなかった理由ということになる。このことは、理研という優秀な、頭脳明晰な研究者の集団の内部で、いかにも不自然な話なのだが、次のような観点に立てばその謎は解ける。つまり、理研内部の関係者すべてが、小保方という若い女性の魅力に情が働いていたと。
そのように考えるならば、すべて辻褄が合う。笹井は、小保方を採用したのは人事委員会及び前任者だと会見で話していたから、その採用責任者も含め、理研内部が小保方という若い女性研究者を前にして、正常な判断が働かなくなったのだ。理研の管理職にある幹部研究者が、小保方の前でのぼせ上っていたのだ。それくらい、小保方に魅力があったかどうかはわからない。が、理研が不正を発見できずにこのような不祥事を起こしてしまった要因は、複合的なものである以上、まったくそのとおりで、複合的な要因の、しかも大きなそれは、小保方に対して小保方の上司たちが情を働かせたことで説明できる。
科学の問題というよりも人間の問題
つまり、こういうことだ。理研は、科学者、研究者の聖域ではないということ。理研に生じる問題は、ほかの、たとえば営利追求組織で起こることと同じレベルなのだ。男女関係、嫉妬、足の引っ張り合い、派閥争い・・・不正まで。そのことは官庁、警察組織、企業、教育機関、軍隊・・・と変わらない。そう考えれば、理研における小保方の不正は、組織(人間集団)において惹起する問題の一つに過ぎないとも言える。(だから仕方がないというわけではない。)
不正が起こる背景を男女関係にのみに還元することはよろしくない。だが、複合的要因を科学や研究上の技術という領域に絞って考えるのも正しくない。“Love is Blind”というではないか。小保方を採用した者を含め、若山も笹井も小保方を巡る理研の幹部級研究者すべてが小保方に対し、Blindの状態だったのだ。このことは結果において、認めざるを得まい。
小保方はクロ、理研は解体
ここまでいささかシニックに、敢えて本件について斜に構えてコメントしてきたが、今回の論文不正事件の本質は、理研という適正な競争を伴わない、税金によって運営される巨大組織が必然的に孕む問題と、すべての組織に共通する問題の二面が絡み合っていることだ。
繰り返せば、競争を伴わない組織には恣意性が働き、それが人事も研究内容も左右するということだ。恣意性とは本件においては男女関係、すなわち情だ。それが(笹井の表現を借りれば)研究を俯瞰する立場の目を曇らせ、客観性を失わせてしまったのだ。この先の笹井の選択は理研を辞めることだ。あの会見で笹井を信頼する者は理研内には存在しないだろう。研究者はロボットではない。笹井は一人の女性を公衆の面前で裏切るという重い十字架を、事件のあった理研という「聖域」で背負って行くつもりか。
そのことと同じように、理研という適正な競争を伴わない組織では、この先、新たな「小保方事件」が発生することは間違いなかろう。小保方もクロ、理研もクロなのだ。本件を機に、小保方ほか理研幹部は理研を辞し、その後、理研は解体へと向かうのが筋というものだ。
先の拙Blogにて「小保方劇場閉幕、以降、このことに言及しない」と宣言しておきながら、前言を撤回する。その理由は、16日、小保方晴子の新型万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の共著者で理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹(52)の記者会見をLIVE中継で見てしまったからだ。TV映像で笹井とメディア関係者とのやりとりを見聞きしているうちに身体中に毒が充満し、その毒をどうしても吐かないではいられなくなったからだ。笹井の登場によって、「小保方劇場」第二幕が上がった。
ヒール笹井の登場
笹井はいわば「ヒール」。小保方の上司にあたり、小保方と情を通じていたとされている。にもかかわらず、理研の論文不正問題調査結果で笹井はシロ、小保方はクロ。小保方の「単独犯」と判定された。調査結果公表後、笹井は姿を消し、小保方を擁護するような発言を一切しなかった。そのため、笹井は世間から、上司でありながら部下(小保方)に責任をなすりつけ、姿をくらませた卑劣な男として評価されていた。そんな男が会見するのだから、世間の注目が集まって当然だ。
保身のため小保方を裏切った笹井
会見は退屈だった。質問者も回答者も核心に迫らない。会見において笹井にメディアが尋ねるべきポイントは以下の2点、それ以外はどうでもよかった。その2点とは、(一)笹井は理研の調査結果を受けいれるのか否か、(二)なぜ、論文不正が起きたのか――に尽きる。
(一)で笹井が「受けいれる」と明言するのならば、それは小保方に対する裏切りを意味する。つまり、“自分は理研において保身する、小保方さん、サヨウナラ”というわけだ。笹井と小保方がどのような感情で結ばれていたのか、例えば肉体関係まであったのかどうかまでは筆者はわからない。ただ十分言えるのは、(A)先輩研究者と若手研究者同士、師弟的及び同志的絆で結ばれていたか、あるいは、(B)互いに利用しあう打算的関係だったか――のどちらかだ。(A)(B)どちらでも、それが男女の関係に移行することは大いにあり得る。
もちろん、会見で笹井が小保方との私的関係を明言するはずもなく、うやむやな答弁で終始しただろうから、そんな質問は時間の無駄だという見方もある。だが、このたびの理研の不祥事の根幹には、小保方が理研でユニットリーダーの地位を得、海外の研究雑誌に不正論文を発表してしまった主因の一つとして、笹井と小保方の間の緊密な関係という事項があったことだけはまちがいないのだから、少なくとも、このたびの論文不正問題を注視する世間の目を代表して、メディアはそのことをこの会見で笹井にぶつける義務があった。
笹井は会見において、筆者が掲げたような直接的質問形式に対してではないが、小保方について言及した。笹井の心情を意訳すれば、“君は研究者として未熟である。幹部の僕は理研で生き残る、論文不正のすべての責任を君にとってもらう”ということが一つ。笹井のこのような態度は、日本のエリート特有のものだ。保身と責任転嫁で一貫している。部下の成果はわがものとし、部下の失敗は部下のものとする――という姿勢だ。このような姿は、上司に部下とともに呼び出された部長が「お前のことは俺が守る」と言いながら、上司に詰問されるなり「そんなことは知りません」と言って責任を部下にかぶせるlotoのCMそのものではないか。
しかし、笹井はそれだけに終始したわけではない。彼は“STAP細胞は有力な仮説として存在する”と言い続けた。そうすることで、“間接的に小保方を擁護する”姿勢を滲ませた。だが、そう言い続けることは、小保方のみならず自身を弁護し続ける最良の言説である。笹井はそのことをよく知っている。まったくもって、煮ても焼いても食えない男だ。
笹井と小保方――あまりにも悲惨な男女関係の結末
論文不正は研究者にとって罪だ。その責任はとらねばならない。その一方で、笹井と小保方が理研という組織内部で交わした男女の関係性という面で見れば、これほどの悲劇を大衆に晒した場面をしらない。会見中継とは無慈悲なものだ。一組の男女のあまりにも残酷な結末がメディアを通じて世間に晒された。男女間の結末が、しかも芸能人でなく一般人の関係が、全国に中継配信されたのだ。このような異常な状況がこれまでにあっただろうか、筆者の記憶にはない。笹井と小保方の関係が(A)なのか(B)なのかはわからない、(A)でも(B)でもないかもしれないにしても、“哀れ”という言葉以外が見つからない。
責任回避に終始した笹井
第二点目の「論文不正が起きた」主因について――この論点については、すでに理研の野依理事長が「いくつかの複合的な要因が重なって、本件のような問題が発生してしまった」という意味の答弁をしており、その通りだと思う。笹井もこの複合的要因について会見で詳しく述べているので繰り返さないが、彼が展開する論旨を大雑把に言えば、STAP細胞論文の主要な実験とデータ収集等は若山研で終わっており、自分(笹井)はそれについて疑義をはさむことができなかった――ということに尽きる。つまり、笹井に言わせれば、問題は若山と小保方がコンビを組んでいた時期に仕組まれた、と言ったのだ。
この笹井の認識は、理研の調査委員会の調査結果とシンクロする。これもまた世間の常識から見れば、奇怪というほかない。調査委員会(笹井も同様だが)は、小保方を管理する者はシロ(建前上は、「責任はある」という表現だったが)、小保方はプレーヤーだからクロという認識で一致している。
このような主張が通るならば、理研は管理者を高給で雇用する必要はなくなる。理研は管理者=功労者という位置づけなのか。不祥事において当事者のクロは当たり前だが、管理者に管理責任が生じないという業務規程ならば、理事長以下全員がプレーヤー(ユニットリーダー)というフラットな組織で十分だ。プレーヤーが研究成果に応じて給与を決定するシステムでいい。理研には同類の法人及び官庁と似たような職制が構築されていて、管理者がその責任の度合いに応じて高額給与を受け取る給与規程が具備されているはずだ。笹井のように自分に管理責任はないという「逃げ」が許されるのならば、理研は笹井の給与の管理分に該当する額を削るべきだ。本件を契機に、笹井を管理職から外し、プレーヤーに戻したらいい。併せて、理研の組織をプレーヤー型に改組し、スリム化すればいい。
当たり前の民間企業ならば、管理者は「責任は俺がとるから、お前ら、思いっきりやれ」と言って、若手を前線に送り出すのではないのか。若手はそんな管理者の意気に感じて成長し、力をつけていくのではないのか。
論文不正の主因は理研幹部が小保方に情を働かせたこと
さて、本件の主因について、実のところ筆者は、まったく別次元の因子を考えている。まず理研が小保方を採用したことに始まり、若山との共同研究に起用し、彼女をユニットリーダーに抜擢し、さらに、一度不採用になった『Naitur』論文を笹井が手直しをして再投稿し、それが採用されるまでに至った過程で、小保方の不正をだれも指摘できなかった要因ということになる。換言すれば、その全過程で理研に客観的・科学的知見が働かなかった理由ということになる。このことは、理研という優秀な、頭脳明晰な研究者の集団の内部で、いかにも不自然な話なのだが、次のような観点に立てばその謎は解ける。つまり、理研内部の関係者すべてが、小保方という若い女性の魅力に情が働いていたと。
そのように考えるならば、すべて辻褄が合う。笹井は、小保方を採用したのは人事委員会及び前任者だと会見で話していたから、その採用責任者も含め、理研内部が小保方という若い女性研究者を前にして、正常な判断が働かなくなったのだ。理研の管理職にある幹部研究者が、小保方の前でのぼせ上っていたのだ。それくらい、小保方に魅力があったかどうかはわからない。が、理研が不正を発見できずにこのような不祥事を起こしてしまった要因は、複合的なものである以上、まったくそのとおりで、複合的な要因の、しかも大きなそれは、小保方に対して小保方の上司たちが情を働かせたことで説明できる。
科学の問題というよりも人間の問題
つまり、こういうことだ。理研は、科学者、研究者の聖域ではないということ。理研に生じる問題は、ほかの、たとえば営利追求組織で起こることと同じレベルなのだ。男女関係、嫉妬、足の引っ張り合い、派閥争い・・・不正まで。そのことは官庁、警察組織、企業、教育機関、軍隊・・・と変わらない。そう考えれば、理研における小保方の不正は、組織(人間集団)において惹起する問題の一つに過ぎないとも言える。(だから仕方がないというわけではない。)
不正が起こる背景を男女関係にのみに還元することはよろしくない。だが、複合的要因を科学や研究上の技術という領域に絞って考えるのも正しくない。“Love is Blind”というではないか。小保方を採用した者を含め、若山も笹井も小保方を巡る理研の幹部級研究者すべてが小保方に対し、Blindの状態だったのだ。このことは結果において、認めざるを得まい。
小保方はクロ、理研は解体
ここまでいささかシニックに、敢えて本件について斜に構えてコメントしてきたが、今回の論文不正事件の本質は、理研という適正な競争を伴わない、税金によって運営される巨大組織が必然的に孕む問題と、すべての組織に共通する問題の二面が絡み合っていることだ。
繰り返せば、競争を伴わない組織には恣意性が働き、それが人事も研究内容も左右するということだ。恣意性とは本件においては男女関係、すなわち情だ。それが(笹井の表現を借りれば)研究を俯瞰する立場の目を曇らせ、客観性を失わせてしまったのだ。この先の笹井の選択は理研を辞めることだ。あの会見で笹井を信頼する者は理研内には存在しないだろう。研究者はロボットではない。笹井は一人の女性を公衆の面前で裏切るという重い十字架を、事件のあった理研という「聖域」で背負って行くつもりか。
そのことと同じように、理研という適正な競争を伴わない組織では、この先、新たな「小保方事件」が発生することは間違いなかろう。小保方もクロ、理研もクロなのだ。本件を機に、小保方ほか理研幹部は理研を辞し、その後、理研は解体へと向かうのが筋というものだ。
2014年4月11日金曜日
小保方劇場の閉幕――会見で論文不正がより明確に
小保方問題を楽しんだ国民
STAP細胞の論文が不正と認定された問題で、理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダー(30)が9日に大阪市内で記者会見した。この問題についてはずいぶんと楽しませてもらった。小保方の不正はもちろん、理研のいい加減さ、研究機関としてふさわしくない実態が暴露され、そのことも人々を楽しませた。小保方と男性上司との不倫報道まであって、“研究所というと固そうだが、なんだ、うちの会社と変わんないな”なんて面白がった人も多かったかもしれない。
だが、理研はエンターテインメント・コンテンツを国民に提供する機関ではない。税金で科学的研究を行い、研究成果をもって世に資することが求められている。だから、このたびの不祥事における理研の責任は追及されるべきだ。税金を返せ、こんなことやっているのなら廃止しろというのが重税にあえぐ国民の声だ。
筆者も理研小保方騒動を楽しんだ者の一人だが、今回をもってこの問題に関する発言を打ち止めにする。昨日(9日)の会見にサプライズはなく、小保方の強度の思い込み、はったり、願望、希望を再確認したからだ。小保方は人間性に著しく欠陥を抱えた、思い込みが激しく、善悪の判断及び倫理性に欠けた人格を有した者であることが明確になったからだ。その小保方は理研に未練たらたらで、会見内容は筆者の予想したとおりだった。
会見は異端審問のような様相
会見風景は、あたかも西欧中世の異端審問所審査の様相を呈していた。小保方はSTAP細胞作製の方法として、コツとレシピだという。中世の錬金術師か魔術師のようだ。科学の実験なのだからその方法も客観的に記述するべきだろうが。「私にしかできない」STAP細胞というのは、いったいなんなのだ。秘伝の味か?あるTV番組で、「小保方一人を魔女狩りにしてはならない」とコメントした知識人がいたが、小保方信者のお一人だろうか。小保方は「STAP細胞」をあやつる、現代の魔女ともいえるのだ。
さらに小保方は「STAP細胞は存在しま~す」と悲痛な叫びをあげた。この絶叫はガリレオが異端審問にかけられたときに発した「それでも地球は回っている」を自己に投影させたものか。自分は無知な宗教者(理研)によって理不尽な審判をくだされたけれど、ガリレオがそうであったように、真理は私にあるのよ、というつもりだったのか。
STAP細胞の存在の有無と論文不正は別の問題
小保方はSTAP現象の「真実性」を無媒介に訴えた。しかも以下のとおり、見え見えの虚言を吐いた。▽その作製には200回以上成功していること、▽複数の研究者がその存在を認めていること、▽別の研究者が再現実験に成功していること――を公言した。一方、論文の不正については故意(悪意)ではなく不注意によるミスだと強調した。つまり、不正については一切口をつぐみ、ことさら「STAP細胞」の発見と作製の成功を強調する戦術だ。小保方の「発見し製作したもの」については後述する藤沢数希のBlogの説明が筆者にはわかりやすい。
けっきょくのところ、小保方及びその弁護団は「STAP細胞」はあるぞ、だから、論文不正を見逃せ、見逃さなければ法廷闘争だぞ、と理研を暗に恫喝し、涙の小保方を見せメディアを味方にし、小保方にこの先も理研で研究活動を続けさせる戦術のようだ。
小保方の研究については、管見の限り前出の藤沢数希のBlogがきわめて的確で、純文系の筆者の参考となった。小保方は本人が言うとおり研究者として未熟で、思い込みが激しく、思い込みを論文にする過程で研究者としては信じられない不正を働いた。研究者としては技術的にも倫理的にも欠格だ。だから、この件に関しては、理研が理研の規程に基づき、粛々と小保方を処分することを要望する。再調査の必要もない。その結果、訴訟に至るのならば受けて立って、シロクロをつけてほしい。不正を見逃すような妥協だけは困る。
なお、小保方が主張する「STAP細胞」の発見と作製の真偽については、小保方側は国民の前に、STAP細胞研究に係るすべての研究ノートを提出すべきであろう。小保方は理研の調査では手元にあった2冊の実験ノートを調査委に渡しただけだ、といった。ならば入手可能なすべての実験ノートを提出すべきだ。いまからでも遅くない。また、小保方が言うSTAP細胞を確認した第三者の存在を公にし、その証言も公表すべきだ。もちろん、そのときの実験ノートの記載が裏付けとして必要だ。
理研を舞台とした小保方劇場はあの会見をもって閉幕した。STAP細胞は仮説であり、日本の科学界は、STAP細胞という仮説を証明する努力を続けることとおなじくらい、日本の科学史上最大・最悪の不正事件である小保方を許容しないよう、声を上げていただきたい。STAP細胞があるかないかわからないのだから、小保方はシロだという小保方弁護団及び日本のマスメディアの誘導を科学的見地から阻止してほしい。
この先、他の研究者がSTAP細胞の作製に成功したとしても、それは小保方の功績ではない。小保方の「STAP細胞」は、論文に不正があった時点で、アウトなのだ。このことを日本のマスメディアははっきりと報道してほしい。
成果の上がらない研究者を税金で雇用し続けることは不可能
若い研究者に研究機会を与えることは重要だ。だが、成果の上がらない研究者を長期間、税金で雇用し続けることはできない。それは研究者に限らない。ましてや研究不正を働いた研究者を税金が投入された研究機関が雇用し続けるのは、著しいモラルハザードに当たる。小保方弁護団と小保方擁護のメディアの連合軍の恫喝に、理研は屈してはならない。筆者は、理研については廃止・解体が筋だとは思っているし、理研の肩を持つ気にはならないが、理研はこと小保方の不正についてだけは妥協しないで闘い続けてほしい。“小保方、理研で研究続行”という、理研と小保方の談合に至らないことだけを祈っている。
STAP細胞の論文が不正と認定された問題で、理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダー(30)が9日に大阪市内で記者会見した。この問題についてはずいぶんと楽しませてもらった。小保方の不正はもちろん、理研のいい加減さ、研究機関としてふさわしくない実態が暴露され、そのことも人々を楽しませた。小保方と男性上司との不倫報道まであって、“研究所というと固そうだが、なんだ、うちの会社と変わんないな”なんて面白がった人も多かったかもしれない。
だが、理研はエンターテインメント・コンテンツを国民に提供する機関ではない。税金で科学的研究を行い、研究成果をもって世に資することが求められている。だから、このたびの不祥事における理研の責任は追及されるべきだ。税金を返せ、こんなことやっているのなら廃止しろというのが重税にあえぐ国民の声だ。
筆者も理研小保方騒動を楽しんだ者の一人だが、今回をもってこの問題に関する発言を打ち止めにする。昨日(9日)の会見にサプライズはなく、小保方の強度の思い込み、はったり、願望、希望を再確認したからだ。小保方は人間性に著しく欠陥を抱えた、思い込みが激しく、善悪の判断及び倫理性に欠けた人格を有した者であることが明確になったからだ。その小保方は理研に未練たらたらで、会見内容は筆者の予想したとおりだった。
会見は異端審問のような様相
会見風景は、あたかも西欧中世の異端審問所審査の様相を呈していた。小保方はSTAP細胞作製の方法として、コツとレシピだという。中世の錬金術師か魔術師のようだ。科学の実験なのだからその方法も客観的に記述するべきだろうが。「私にしかできない」STAP細胞というのは、いったいなんなのだ。秘伝の味か?あるTV番組で、「小保方一人を魔女狩りにしてはならない」とコメントした知識人がいたが、小保方信者のお一人だろうか。小保方は「STAP細胞」をあやつる、現代の魔女ともいえるのだ。
さらに小保方は「STAP細胞は存在しま~す」と悲痛な叫びをあげた。この絶叫はガリレオが異端審問にかけられたときに発した「それでも地球は回っている」を自己に投影させたものか。自分は無知な宗教者(理研)によって理不尽な審判をくだされたけれど、ガリレオがそうであったように、真理は私にあるのよ、というつもりだったのか。
STAP細胞の存在の有無と論文不正は別の問題
小保方はSTAP現象の「真実性」を無媒介に訴えた。しかも以下のとおり、見え見えの虚言を吐いた。▽その作製には200回以上成功していること、▽複数の研究者がその存在を認めていること、▽別の研究者が再現実験に成功していること――を公言した。一方、論文の不正については故意(悪意)ではなく不注意によるミスだと強調した。つまり、不正については一切口をつぐみ、ことさら「STAP細胞」の発見と作製の成功を強調する戦術だ。小保方の「発見し製作したもの」については後述する藤沢数希のBlogの説明が筆者にはわかりやすい。
けっきょくのところ、小保方及びその弁護団は「STAP細胞」はあるぞ、だから、論文不正を見逃せ、見逃さなければ法廷闘争だぞ、と理研を暗に恫喝し、涙の小保方を見せメディアを味方にし、小保方にこの先も理研で研究活動を続けさせる戦術のようだ。
小保方の研究については、管見の限り前出の藤沢数希のBlogがきわめて的確で、純文系の筆者の参考となった。小保方は本人が言うとおり研究者として未熟で、思い込みが激しく、思い込みを論文にする過程で研究者としては信じられない不正を働いた。研究者としては技術的にも倫理的にも欠格だ。だから、この件に関しては、理研が理研の規程に基づき、粛々と小保方を処分することを要望する。再調査の必要もない。その結果、訴訟に至るのならば受けて立って、シロクロをつけてほしい。不正を見逃すような妥協だけは困る。
なお、小保方が主張する「STAP細胞」の発見と作製の真偽については、小保方側は国民の前に、STAP細胞研究に係るすべての研究ノートを提出すべきであろう。小保方は理研の調査では手元にあった2冊の実験ノートを調査委に渡しただけだ、といった。ならば入手可能なすべての実験ノートを提出すべきだ。いまからでも遅くない。また、小保方が言うSTAP細胞を確認した第三者の存在を公にし、その証言も公表すべきだ。もちろん、そのときの実験ノートの記載が裏付けとして必要だ。
理研を舞台とした小保方劇場はあの会見をもって閉幕した。STAP細胞は仮説であり、日本の科学界は、STAP細胞という仮説を証明する努力を続けることとおなじくらい、日本の科学史上最大・最悪の不正事件である小保方を許容しないよう、声を上げていただきたい。STAP細胞があるかないかわからないのだから、小保方はシロだという小保方弁護団及び日本のマスメディアの誘導を科学的見地から阻止してほしい。
この先、他の研究者がSTAP細胞の作製に成功したとしても、それは小保方の功績ではない。小保方の「STAP細胞」は、論文に不正があった時点で、アウトなのだ。このことを日本のマスメディアははっきりと報道してほしい。
成果の上がらない研究者を税金で雇用し続けることは不可能
若い研究者に研究機会を与えることは重要だ。だが、成果の上がらない研究者を長期間、税金で雇用し続けることはできない。それは研究者に限らない。ましてや研究不正を働いた研究者を税金が投入された研究機関が雇用し続けるのは、著しいモラルハザードに当たる。小保方弁護団と小保方擁護のメディアの連合軍の恫喝に、理研は屈してはならない。筆者は、理研については廃止・解体が筋だとは思っているし、理研の肩を持つ気にはならないが、理研はこと小保方の不正についてだけは妥協しないで闘い続けてほしい。“小保方、理研で研究続行”という、理研と小保方の談合に至らないことだけを祈っている。
猫は寒がり
冬が終わり春になったにもかかわらず、猫は寒がり。
夜、ベッドの上に2匹が次々と上がってくる。
最初はNico。筆者がベッドに入るや否や、足元で寝つく。
深夜、寝静まった頃、なんだか重いなと感じて目を覚ますと、Zazieがやはり脚の上にいる。
狭いシングルベッドに、人間1人と猫2匹がひしめきあって寝ているというわけだ。
そんな状況をカメラに残せないのは残念だが、就寝中なので仕方がない。
猫がベッドを離れるころは、きっと季節は夏へと変わっているにちがいない。
夜、ベッドの上に2匹が次々と上がってくる。
最初はNico。筆者がベッドに入るや否や、足元で寝つく。
深夜、寝静まった頃、なんだか重いなと感じて目を覚ますと、Zazieがやはり脚の上にいる。
狭いシングルベッドに、人間1人と猫2匹がひしめきあって寝ているというわけだ。
そんな状況をカメラに残せないのは残念だが、就寝中なので仕方がない。
猫がベッドを離れるころは、きっと季節は夏へと変わっているにちがいない。
Zazieは、筆者がテレビを見ているとき、胸元にあがって寝付く。
一方のNicoは、せいぜい足元にあがるくらい。
2014年4月8日火曜日
小保方晴子と『罪と罰』
理研の発生・再生科学総合研究センター研究ユニットリーダー・小保方晴子が引き起こした、このたびの論文不正問題について、整理をしておこう。小保方(STAP細胞論文筆頭著者、責任著者)ほか3名(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=共著者)は、刺激惹起性多能性獲得細胞(STAP細胞)を発見しその作製に成功した旨の論文を外国の科学雑誌に発表した。この研究発表を大雑把に言えば、「万能細胞」の発見というものだろうか。この論文が本当だとすれば、これまでの科学的常識を覆す大発見だった。
ところが、この論文についていくつかの瑕疵が指摘され、それを受けた理研は内部調査を行い、小保方の論文にいくつかの不正があると結論付けた。理研は、不正を行った小保方に対し処分の可能性を示唆したが、共著者の笹井、若山に対しては重大な責任があるという指摘にとどまり、また、同じく丹羽は免責され、STAP細胞の有無を検証する研究の責任者に任命した。すなわち、小保方はクロ、ほかの3人はシロという判定だ。
理研と争う小保方
これを受けた小保方側から理研の調査結果に対して不服申し立てがあり、明日(4月9日)、小保方本人が反論の記者会見を開く予定だという。小保方の主張は「STAP細胞は存在する」という根拠に基づくものとなる見込みだが、前出の小保方の上司にあたる丹羽は4月7日の謝罪会見で、「STAP細胞は仮説の段階に戻った」と発言した。
小保方は「STAP細胞は存在する」と主張し、理研は「STAP細胞は仮説だ」と主張する。おいおい、そういう論争を研究所でいくども繰り広げ、仮説を本説に磨き上げていくのが科学者・研究者というものなのじゃないのかい、庶民ならばだれしもそう思う。少なくとも、発表する前に内部で徹底的に議論すべきじゃないの、と言いたくなる。理研の職員(研究者)及び理研という組織は、まったくもってどうしようもない、とだれもが思うだろう。税金を使って若い女性に割烹着を着せて、遊んでいるんじゃないよ、というのが正直なところだ。
理研がへまをやらかした主因(理研の動機)
この問題を動機という観点で考えてみよう。まず、理研である。小保方の「STAP細胞」に検証もなしで飛びついた動機は何なのか。これについては、Blog「世に倦む日日」が次のように指摘している。
筆者はこのBlogの著者の指摘に全面的に同意する。すなわち、理研というところは、いかにも研究機関にふさわしくない組織なのだ。安倍政権の政策が実現しつつあるかのような仮象性を人々に与える機関。そして政府に気に入られて組織を拡大し、莫大な予算を獲得して天下りを受け入れ、その予算を使って関連業界と癒着する機関。このことは拙blogで繰り返し指摘した。だから結論もまた明白で、理研を廃止する方向で整理すればいい。少なくとも、研究機関として存続すべきではない。
小保方晴子の動機――夢の実現という己の無謬性信仰
次に小保方晴子である。彼女の不正の動機は何なのか。本人は現時点で反省していない。少なくとも、STAP細胞はあると主張している。つまり、万能細胞の存在を信じていて、しかも論文に不正はないという。
小保方の主張は一見無茶苦茶な論理だが、まったく否定されるべきもの、一笑に付されるべきものでもない。科学は仮説から――換言すれば夢からスタートする。人類が空を飛びたいという願望を擁いたのがいつのことだったかは知らないが、人類はそれをおそらく気の遠くなるほどの長い年限をかけて実現した。月に行きたい、ペストを克服したい…いくらでもそういった科学の勝利を挙げることができる。だから万能細胞、夢の若返り細胞の発見という夢を信じることは科学の第一歩だ。
しかし、問題はそこからだ。信ずることは結構なことだけれど、それを作製したと宣言することは簡単ではない。たとえば万能型ロボットのドラえもんの作製可能性を信ずることは勝手だけれど、そのことはそれを実現することとはまったく次元が異なる。ドラえもんを作製したと言って、その画像を模造したり、画像を切り貼りしたり、コピーペーストしたりしてドラえもん研究論文を発表したとしたら笑いものだが、STAP細胞ならば、その発見と作製を信じることができる。直近にips細胞(誘導多能性幹細胞)の発見があったからだ。だから筆者は、小保方の論文不正の動機は、自分の仮説(夢)を実現したいという一念だったのだと推論する。
普通の精神の研究者ならば、論文作成に不正をしてまで夢の実現を急がない。ところが小保方は論文に偽造を施し科学雑誌に公表した。その後ろ盾になったのは、理研という日本では権威のある研究組織の中で認められ、共同研究者のお墨付きまでもらったことだろう。理研の後ろ盾は小保方の自信になったのではないか。ところが、論文発表後、各所から不正を指摘され、心の支えだった理研内部から不正と断じられた。 それでも、小保方は己の夢にしがみついている。万能細胞は存在するのよ、私の夢はだれも否定できないのよ、(それが仮説であっても)私にはあるのよ、そうでしょう、だから不正ではないのよ――と叫び続けるつもりだ。こんな幼稚な精神をもった研究者が存在すること自体が奇跡だ。
小保方とラスコーリニコフ
筆者は小保方の精神構造の中に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフをみる。「選ばれし者は、より大局的な正義をなす為ならば、既存の法や規範を超越する資格を持つ」というわけだ。「選ばれし研究者の正義(=夢)の実現のためならば、既存の論文作成の手法を超越する資格をもつ」という論理構造だ。「目的のためならば手段を選ばず」という論法ではない。万能細胞は世の中に必要だ、これが実在すれば多くの人が救われる。わたしは理研という日本で有数な研究機関でそれを研究している。あとは発見するばかり。そして発見した(と錯誤した)。残る作業はそれを証明するだけ。そのためには発見したと思わせる「見やすい」画像を流用しましょう、コピペだって正義よ…だって、万能細胞は人類の発展に貢献するもの、人の命をすくうものなのだから…という具合だ。
小保方はオウム信者に似ている
この心的構造は、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の信者とよく似ている。彼らも人類救済を夢見た。そして、オウムに敵対する人々(悪霊にとりつかれた人々)を救済するためには、ポアが必要だった。つまり悪霊に取りつかれた人を殺害し、この世からあの世=天国に向かわせることが必要だった。それが人類を救う神の節理、神の教えだと。大局的な正義、人類を救済するための行為は、すべて正当化されるという論理だ。
このような自己に対する無謬性=自己絶対化はどこから生ずるのか。それは若者にありがちな傾向だとも言えるが、自己相対化の訓練を怠ってきたことから生ずる場合が多い。ラスコーリニコフの場合は高利貸しの老婆を殺害したのちに、己の信じた絶対正義の貫徹の思想の相対化を迫られた、すなわち苦悩が始まったのだ。ラスコーリニコフは行為の後に、人間の当たり前の思想的営為を取り戻した。だが、小保方には、いまだそれが訪れていない。
おそらく小保方という人間は、自己絶対化のなかでここまで生きてきたのだろう。夢の実現の連続の人生だったのではないか。その道はおそらくここまで順風満帆だったのかもしれない。だから小保方はラスコーリニコフと同じように、「法と規範を超越した行為」に挫折なく行き着いてしまったのではないか。
懐疑せよ、小保方的不幸人間になる前に
この先、小保方と理研が裁判で争うことになるのだろうが、不毛だ。今度は倫理(規範)を超えた近代法の争いになる。理研には解体という可視的な措置が可能だが(もちろん、理研解体を唱えているのは筆者だけだが)、小保方にはそのような具体的措置はくだらない。人間性の問題だから、だれかが小保方の精神を糺すこともできない。理研が勝訴すれば、理研の規程に基づいた処分が小保方にはくだるのだろうが、せいぜい戒告程度だろう。小保方はおそらくドストエフスキーを読まないだろうから、ラスコーリニコフの苦悩をわがものとすることも生涯あり得ない。小保方はまことにもって狭隘不幸な人生をこれからも歩むことになろう。だから、若い研究者にあっては、自己が信じた仮説を信ずることとおなじくらいそれを疑うことをすすめたい。第二、第三の小保方にならないために。
繰り返せば、夢を実現する、己の信じる道を歩む、正義を実現する――といった正論に誤りがあるはずがないのだが、そう盲信する前に、自然科学、社会科学を問わず、立論=仮説を得ることよりも、その実証、証明に至る道の方がはるかに困難だということを思い返してほしい。
小保方は理研と争う姿勢である限り、小説の後半のラスコーリニコフであることに至らず、物語の始まりの「老婆殺し」の「大局的正義」に立ち戻ろうという気でいる。不幸な人間だ。筆者は彼女に対しいま、哀れみすら感じている。
ところが、この論文についていくつかの瑕疵が指摘され、それを受けた理研は内部調査を行い、小保方の論文にいくつかの不正があると結論付けた。理研は、不正を行った小保方に対し処分の可能性を示唆したが、共著者の笹井、若山に対しては重大な責任があるという指摘にとどまり、また、同じく丹羽は免責され、STAP細胞の有無を検証する研究の責任者に任命した。すなわち、小保方はクロ、ほかの3人はシロという判定だ。
理研と争う小保方
これを受けた小保方側から理研の調査結果に対して不服申し立てがあり、明日(4月9日)、小保方本人が反論の記者会見を開く予定だという。小保方の主張は「STAP細胞は存在する」という根拠に基づくものとなる見込みだが、前出の小保方の上司にあたる丹羽は4月7日の謝罪会見で、「STAP細胞は仮説の段階に戻った」と発言した。
小保方は「STAP細胞は存在する」と主張し、理研は「STAP細胞は仮説だ」と主張する。おいおい、そういう論争を研究所でいくども繰り広げ、仮説を本説に磨き上げていくのが科学者・研究者というものなのじゃないのかい、庶民ならばだれしもそう思う。少なくとも、発表する前に内部で徹底的に議論すべきじゃないの、と言いたくなる。理研の職員(研究者)及び理研という組織は、まったくもってどうしようもない、とだれもが思うだろう。税金を使って若い女性に割烹着を着せて、遊んでいるんじゃないよ、というのが正直なところだ。
理研がへまをやらかした主因(理研の動機)
この問題を動機という観点で考えてみよう。まず、理研である。小保方の「STAP細胞」に検証もなしで飛びついた動機は何なのか。これについては、Blog「世に倦む日日」が次のように指摘している。
小保方晴子とSTAP細胞の発見は、安倍晋三の進める「成長戦略」のプロモーション・シンボルだった。その中味は三つあって、第一に、再生医療への国家を挙げた重点投資が「成長戦略」の目玉になっていたことに関わっている。安倍晋三とマスコミが「成長戦略」を宣伝するときは、必ず再生医療が引き合いに出され、「成長戦略」を正当化し訴求する看板商品になっていた。第二に、「女性の活用」がある。1/20に産業競争力会議が出した「成長戦略進化のための今後の検討方針」では、その第一の課題項目が「女性の活躍推進」になっている。第三に、教育の分野での研究開発投資の戦略的重点化で、「特定国立研究開発法人」を設置して巨額の予算を投入し、年収1億円以上の研究者をゴロゴロ出すことが策定されていた。つまり、安倍晋三の「成長戦略」の柱であるところの、再生医療、女性、研究開発重点投資の三つのキーワードが結節したところに、「小保方晴子のSTAP細胞」の花火の打ち上げあったということになる。実際に、安倍晋三は1/11に理研を視察し、笹井芳樹から説明を受ける場面をマスコミに撮影させて宣伝報道させていた。(2014/3/25)
筆者はこのBlogの著者の指摘に全面的に同意する。すなわち、理研というところは、いかにも研究機関にふさわしくない組織なのだ。安倍政権の政策が実現しつつあるかのような仮象性を人々に与える機関。そして政府に気に入られて組織を拡大し、莫大な予算を獲得して天下りを受け入れ、その予算を使って関連業界と癒着する機関。このことは拙blogで繰り返し指摘した。だから結論もまた明白で、理研を廃止する方向で整理すればいい。少なくとも、研究機関として存続すべきではない。
小保方晴子の動機――夢の実現という己の無謬性信仰
次に小保方晴子である。彼女の不正の動機は何なのか。本人は現時点で反省していない。少なくとも、STAP細胞はあると主張している。つまり、万能細胞の存在を信じていて、しかも論文に不正はないという。
小保方の主張は一見無茶苦茶な論理だが、まったく否定されるべきもの、一笑に付されるべきものでもない。科学は仮説から――換言すれば夢からスタートする。人類が空を飛びたいという願望を擁いたのがいつのことだったかは知らないが、人類はそれをおそらく気の遠くなるほどの長い年限をかけて実現した。月に行きたい、ペストを克服したい…いくらでもそういった科学の勝利を挙げることができる。だから万能細胞、夢の若返り細胞の発見という夢を信じることは科学の第一歩だ。
しかし、問題はそこからだ。信ずることは結構なことだけれど、それを作製したと宣言することは簡単ではない。たとえば万能型ロボットのドラえもんの作製可能性を信ずることは勝手だけれど、そのことはそれを実現することとはまったく次元が異なる。ドラえもんを作製したと言って、その画像を模造したり、画像を切り貼りしたり、コピーペーストしたりしてドラえもん研究論文を発表したとしたら笑いものだが、STAP細胞ならば、その発見と作製を信じることができる。直近にips細胞(誘導多能性幹細胞)の発見があったからだ。だから筆者は、小保方の論文不正の動機は、自分の仮説(夢)を実現したいという一念だったのだと推論する。
普通の精神の研究者ならば、論文作成に不正をしてまで夢の実現を急がない。ところが小保方は論文に偽造を施し科学雑誌に公表した。その後ろ盾になったのは、理研という日本では権威のある研究組織の中で認められ、共同研究者のお墨付きまでもらったことだろう。理研の後ろ盾は小保方の自信になったのではないか。ところが、論文発表後、各所から不正を指摘され、心の支えだった理研内部から不正と断じられた。 それでも、小保方は己の夢にしがみついている。万能細胞は存在するのよ、私の夢はだれも否定できないのよ、(それが仮説であっても)私にはあるのよ、そうでしょう、だから不正ではないのよ――と叫び続けるつもりだ。こんな幼稚な精神をもった研究者が存在すること自体が奇跡だ。
小保方とラスコーリニコフ
筆者は小保方の精神構造の中に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフをみる。「選ばれし者は、より大局的な正義をなす為ならば、既存の法や規範を超越する資格を持つ」というわけだ。「選ばれし研究者の正義(=夢)の実現のためならば、既存の論文作成の手法を超越する資格をもつ」という論理構造だ。「目的のためならば手段を選ばず」という論法ではない。万能細胞は世の中に必要だ、これが実在すれば多くの人が救われる。わたしは理研という日本で有数な研究機関でそれを研究している。あとは発見するばかり。そして発見した(と錯誤した)。残る作業はそれを証明するだけ。そのためには発見したと思わせる「見やすい」画像を流用しましょう、コピペだって正義よ…だって、万能細胞は人類の発展に貢献するもの、人の命をすくうものなのだから…という具合だ。
小保方はオウム信者に似ている
この心的構造は、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の信者とよく似ている。彼らも人類救済を夢見た。そして、オウムに敵対する人々(悪霊にとりつかれた人々)を救済するためには、ポアが必要だった。つまり悪霊に取りつかれた人を殺害し、この世からあの世=天国に向かわせることが必要だった。それが人類を救う神の節理、神の教えだと。大局的な正義、人類を救済するための行為は、すべて正当化されるという論理だ。
このような自己に対する無謬性=自己絶対化はどこから生ずるのか。それは若者にありがちな傾向だとも言えるが、自己相対化の訓練を怠ってきたことから生ずる場合が多い。ラスコーリニコフの場合は高利貸しの老婆を殺害したのちに、己の信じた絶対正義の貫徹の思想の相対化を迫られた、すなわち苦悩が始まったのだ。ラスコーリニコフは行為の後に、人間の当たり前の思想的営為を取り戻した。だが、小保方には、いまだそれが訪れていない。
おそらく小保方という人間は、自己絶対化のなかでここまで生きてきたのだろう。夢の実現の連続の人生だったのではないか。その道はおそらくここまで順風満帆だったのかもしれない。だから小保方はラスコーリニコフと同じように、「法と規範を超越した行為」に挫折なく行き着いてしまったのではないか。
懐疑せよ、小保方的不幸人間になる前に
この先、小保方と理研が裁判で争うことになるのだろうが、不毛だ。今度は倫理(規範)を超えた近代法の争いになる。理研には解体という可視的な措置が可能だが(もちろん、理研解体を唱えているのは筆者だけだが)、小保方にはそのような具体的措置はくだらない。人間性の問題だから、だれかが小保方の精神を糺すこともできない。理研が勝訴すれば、理研の規程に基づいた処分が小保方にはくだるのだろうが、せいぜい戒告程度だろう。小保方はおそらくドストエフスキーを読まないだろうから、ラスコーリニコフの苦悩をわがものとすることも生涯あり得ない。小保方はまことにもって狭隘不幸な人生をこれからも歩むことになろう。だから、若い研究者にあっては、自己が信じた仮説を信ずることとおなじくらいそれを疑うことをすすめたい。第二、第三の小保方にならないために。
繰り返せば、夢を実現する、己の信じる道を歩む、正義を実現する――といった正論に誤りがあるはずがないのだが、そう盲信する前に、自然科学、社会科学を問わず、立論=仮説を得ることよりも、その実証、証明に至る道の方がはるかに困難だということを思い返してほしい。
小保方は理研と争う姿勢である限り、小説の後半のラスコーリニコフであることに至らず、物語の始まりの「老婆殺し」の「大局的正義」に立ち戻ろうという気でいる。不幸な人間だ。筆者は彼女に対しいま、哀れみすら感じている。
2014年4月7日月曜日
2014年4月4日金曜日
理研を廃止せよ――民主党政権の事業仕訳けは正しかった
小保方はクロ、しかも「単独犯」――理研最終調査結果
新型万能細胞「STAP細胞」の論文問題で、理化学研究所(神戸)は最終調査結果を発表し、そのなかで小保方晴子研究ユニットリーダー(30)が論文を捏造、改ざんしたと断じた。理研は小保方をクロと断定したわけだが、小保方以外の3人の調査対象者(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=以下論文共著者)に研究不正は認められなかったと結論付けたが、うち、山梨大学の若山照彦教授と理研発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長については、データの確認などを怠ったとして「責任は重大」とした。「責任は重大」という調査結果の文言は、3人の行為が同研究所の定めるなにがしかの規程のどの部分に該当し、それが処分対象になるものなのかならないものなのかについては報道されていないのでわからない。責任は重大だけど、処分には当たらないよ、という解釈でいいのだろうか。しかも、STAP細胞論文の共著者で、理研において同研究で小保方にもっとも近い位置にいる丹羽仁史の責任が免責されているのは不可解極まる。
理研は小保方の不正の動機を明らかにせよ
そればかりではない。不祥事に係る最終調査結果を発表する場合、不祥事を起こした本人が調査結果に納得していることが一般的だ。調査結果を受容し、その結果に基づいて今後行われる処分に潔く従います、というのが筋だ。そこに反省の気持ちが見られれば、処分が軽微に及ぶことも多々あろう。当事者が若く未熟である場合、再起の機会を与えることを滲ませる処分もあるだろう。その度合いを斟酌するのは、当事者の動機次第というものだ。今回の場合、小保方はなんのために捏造をしたのか、それこそが調査の肝に当たる。小保方は、理研の記者会見を受けて、理研に不服申し立てをするという。小保方は反省していない。理研と争うつもりだ。これには驚いた。(この件については後述する。)
今回の最終調査結果では、画像のすり替えや等、論文を構成する部材にばかり焦点が当たっていて、小保方の精神性――不正や捏造に至った精神の現象性について触れていない。理研の調査委員会は小保方にヒアリング調査をしたというが、ヒアリングをしたのならば、そのことを通して、小保方の具体的反論や論文作成の過程が明らかになったはずだ。調査委員はそれを受けて、小保方に非のある部分を示し、小保方に指導をし、反省を促すべきではなかったのか。小保方の精神性をスルーして調査が進んだのはなぜなのだろうか。そもそも、小保方が反省をしないというのは小保方のどのような精神構造からなのか。
問われるべきは理研の体質
理研は小保方の「単独犯」で幕引きを図ろうとしているようにみえる。しかし、理研には税金が投入されている。一人の「未熟な研究者」が論文を捏造して世間を騒がせて申し訳ない、ですまされる問題ではない。理研においては、小保方のような「未熟な研究者」が自由気ままに研究を続け、その輩に税金を使って給与を払い続けているのではないか。小保方の件は世間に知られたけれど、われわれが知らない「未熟な研究者」による捏造や無駄な研究がほかにもたくさんあるのではないか。この先、理研から第二第三の小保方が出てくる可能性は皆無なのか――そう考えて当然だろう。本件を契機として、理研の管理責任こそが問われなければならない。 再発防止策が求められる。
もっとも同調査結果は小保方の論文に不正があったかどうかを判定するものだから、再発防止や組織管理の問題については触れない、という観点は正しい。ならば、なおのこと、理研のあり方を糺す第三者機関による理研解体作業に着手しなければならない。理研の中に、「未熟な研究者」を野放しにする体質が内在しているのではないか。「未熟な研究者」の研究結果を検証する科学的能力が不足しているのではないか・・・本件を契機として、理研の問題点をさまざまな角度から問う、理研解体のための調査委員会設置が望まれよう。
理研は税金の無駄遣い機関
さて、ネオリベラリストの経済学者ミルトン・フリードマンが生きていてこの問題を知ったならば、理研不要論を声高に唱えたことだろう。フリードマンらの市場原理主義の視点からすれば、政府が科学研究に税金を投入することは悪なのだから。
フリードマンはその著『資本主義と自由』のなかですぐさま廃止すべき政府の政策・制度として、▽農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度、▽輸入関税または輸出制限、▽家賃統制、全面的な物価・賃金統制、▽法定の最低賃金や価格上限、▽細部にわたる産業規制、▽連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制、▽現行の社会保障制度、▽事業・職業の免許制度、▽公営住宅、▽平時の徴兵制、▽国立公園、▽営利目的での郵便事業の法的廃止、▽公有公営の有料道路――を挙げている。
税金が投入された政府機関には自由な競争原理が働かない。理研はその典型だ。今回のように、「未熟な研究者」(小保方)が勝手気ままに不正を行えたのは、理研という政府が税金を投じた研究機関だからだ。そこでは正しい競争が行われないから、大きな研究成果を期待することは難しい。ミルトン・フリードマンならば、理研という存在にすぐさま廃止すべき政府の機関を見たに違いない。研究成果を促進するのは、自由な競争原理が働く民間の研究機関においてだ、と断じただろう。
小保方側の提訴で理研に裁判費用が
筆者は市場原理主義者ではないけれど、このたびの理研の不祥事の報道を見聞きするたびに、フリードマンに賛同したくなってくる。その気持ちさらに強くさせたのが、理研の最終報告の直後、クロと断じられた小保方が、理研の見解に「とても承服できません」と憤り、2日には「論文の撤回に同意したことは一度もなく、取り下げるつもりはない」とのコメントを出し、週明けに理研に不服申し立てをする意向で、8~9日を念頭に会見を開く予定でいるという報道があったことだ。
つまり、小保方は理研を相手取り、訴訟をおこす構えなのだ。小保方が訴訟をするとなると、理研もそれに応じて弁護士を立てることになる。その金はどこから出るのかといえば、理事長のポケットからではなかろう。当然、税金の一部が訴訟費用に充てられる。おいおい、たいした研究成果もあげていない、しかも不祥事を起こした研究所が、こんどは訴訟費用なんかで税金を使うのかよ、というのが庶民の正直な気持ちだ。
民主党政権下の「事業仕訳け」は正しかった
理研といえば、2009年、当時の民主党政権が行った「事業仕分け」において、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことについて、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判したことが思い出される。
理研理事長であるノーベル賞受賞科学者・野依良治は、事業仕分け結果について、まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈した。
当時、事業仕分けチームが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、独立行政法人の理研が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。
当時、理研のスパコン開発は利権がらみ。それだけではない。理研は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だった。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、理研に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはないような「研究機関」なのだ。理事長の野依良治は当時、「歴史の法廷」という言葉を吐いた。今回の不祥事を前にして、「歴史の法廷」に立つのは、「未熟な研究者」小保方晴子及び「その無能な管理者」野依良治の両名なのだ。
新型万能細胞「STAP細胞」の論文問題で、理化学研究所(神戸)は最終調査結果を発表し、そのなかで小保方晴子研究ユニットリーダー(30)が論文を捏造、改ざんしたと断じた。理研は小保方をクロと断定したわけだが、小保方以外の3人の調査対象者(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=以下論文共著者)に研究不正は認められなかったと結論付けたが、うち、山梨大学の若山照彦教授と理研発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長については、データの確認などを怠ったとして「責任は重大」とした。「責任は重大」という調査結果の文言は、3人の行為が同研究所の定めるなにがしかの規程のどの部分に該当し、それが処分対象になるものなのかならないものなのかについては報道されていないのでわからない。責任は重大だけど、処分には当たらないよ、という解釈でいいのだろうか。しかも、STAP細胞論文の共著者で、理研において同研究で小保方にもっとも近い位置にいる丹羽仁史の責任が免責されているのは不可解極まる。
理研は小保方の不正の動機を明らかにせよ
そればかりではない。不祥事に係る最終調査結果を発表する場合、不祥事を起こした本人が調査結果に納得していることが一般的だ。調査結果を受容し、その結果に基づいて今後行われる処分に潔く従います、というのが筋だ。そこに反省の気持ちが見られれば、処分が軽微に及ぶことも多々あろう。当事者が若く未熟である場合、再起の機会を与えることを滲ませる処分もあるだろう。その度合いを斟酌するのは、当事者の動機次第というものだ。今回の場合、小保方はなんのために捏造をしたのか、それこそが調査の肝に当たる。小保方は、理研の記者会見を受けて、理研に不服申し立てをするという。小保方は反省していない。理研と争うつもりだ。これには驚いた。(この件については後述する。)
今回の最終調査結果では、画像のすり替えや等、論文を構成する部材にばかり焦点が当たっていて、小保方の精神性――不正や捏造に至った精神の現象性について触れていない。理研の調査委員会は小保方にヒアリング調査をしたというが、ヒアリングをしたのならば、そのことを通して、小保方の具体的反論や論文作成の過程が明らかになったはずだ。調査委員はそれを受けて、小保方に非のある部分を示し、小保方に指導をし、反省を促すべきではなかったのか。小保方の精神性をスルーして調査が進んだのはなぜなのだろうか。そもそも、小保方が反省をしないというのは小保方のどのような精神構造からなのか。
問われるべきは理研の体質
理研は小保方の「単独犯」で幕引きを図ろうとしているようにみえる。しかし、理研には税金が投入されている。一人の「未熟な研究者」が論文を捏造して世間を騒がせて申し訳ない、ですまされる問題ではない。理研においては、小保方のような「未熟な研究者」が自由気ままに研究を続け、その輩に税金を使って給与を払い続けているのではないか。小保方の件は世間に知られたけれど、われわれが知らない「未熟な研究者」による捏造や無駄な研究がほかにもたくさんあるのではないか。この先、理研から第二第三の小保方が出てくる可能性は皆無なのか――そう考えて当然だろう。本件を契機として、理研の管理責任こそが問われなければならない。 再発防止策が求められる。
もっとも同調査結果は小保方の論文に不正があったかどうかを判定するものだから、再発防止や組織管理の問題については触れない、という観点は正しい。ならば、なおのこと、理研のあり方を糺す第三者機関による理研解体作業に着手しなければならない。理研の中に、「未熟な研究者」を野放しにする体質が内在しているのではないか。「未熟な研究者」の研究結果を検証する科学的能力が不足しているのではないか・・・本件を契機として、理研の問題点をさまざまな角度から問う、理研解体のための調査委員会設置が望まれよう。
理研は税金の無駄遣い機関
さて、ネオリベラリストの経済学者ミルトン・フリードマンが生きていてこの問題を知ったならば、理研不要論を声高に唱えたことだろう。フリードマンらの市場原理主義の視点からすれば、政府が科学研究に税金を投入することは悪なのだから。
フリードマンはその著『資本主義と自由』のなかですぐさま廃止すべき政府の政策・制度として、▽農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度、▽輸入関税または輸出制限、▽家賃統制、全面的な物価・賃金統制、▽法定の最低賃金や価格上限、▽細部にわたる産業規制、▽連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制、▽現行の社会保障制度、▽事業・職業の免許制度、▽公営住宅、▽平時の徴兵制、▽国立公園、▽営利目的での郵便事業の法的廃止、▽公有公営の有料道路――を挙げている。
税金が投入された政府機関には自由な競争原理が働かない。理研はその典型だ。今回のように、「未熟な研究者」(小保方)が勝手気ままに不正を行えたのは、理研という政府が税金を投じた研究機関だからだ。そこでは正しい競争が行われないから、大きな研究成果を期待することは難しい。ミルトン・フリードマンならば、理研という存在にすぐさま廃止すべき政府の機関を見たに違いない。研究成果を促進するのは、自由な競争原理が働く民間の研究機関においてだ、と断じただろう。
小保方側の提訴で理研に裁判費用が
筆者は市場原理主義者ではないけれど、このたびの理研の不祥事の報道を見聞きするたびに、フリードマンに賛同したくなってくる。その気持ちさらに強くさせたのが、理研の最終報告の直後、クロと断じられた小保方が、理研の見解に「とても承服できません」と憤り、2日には「論文の撤回に同意したことは一度もなく、取り下げるつもりはない」とのコメントを出し、週明けに理研に不服申し立てをする意向で、8~9日を念頭に会見を開く予定でいるという報道があったことだ。
つまり、小保方は理研を相手取り、訴訟をおこす構えなのだ。小保方が訴訟をするとなると、理研もそれに応じて弁護士を立てることになる。その金はどこから出るのかといえば、理事長のポケットからではなかろう。当然、税金の一部が訴訟費用に充てられる。おいおい、たいした研究成果もあげていない、しかも不祥事を起こした研究所が、こんどは訴訟費用なんかで税金を使うのかよ、というのが庶民の正直な気持ちだ。
民主党政権下の「事業仕訳け」は正しかった
理研といえば、2009年、当時の民主党政権が行った「事業仕分け」において、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことについて、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判したことが思い出される。
理研理事長であるノーベル賞受賞科学者・野依良治は、事業仕分け結果について、まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈した。
当時、事業仕分けチームが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、独立行政法人の理研が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。
当時、理研のスパコン開発は利権がらみ。それだけではない。理研は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だった。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、理研に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはないような「研究機関」なのだ。理事長の野依良治は当時、「歴史の法廷」という言葉を吐いた。今回の不祥事を前にして、「歴史の法廷」に立つのは、「未熟な研究者」小保方晴子及び「その無能な管理者」野依良治の両名なのだ。
2014年4月1日火曜日
平成26年度、スタート
4月新年度のスタート。
メディアは「消費税」狂想曲。
税率アップの是非は問われない。
さて、猫の体重測定結果を記しておく。
Zazieは4.3㎏、前月比300g減った。
Nicoは6.1㎏、同400g減った。
2匹とも増えたり減ったり・・・
メディアは「消費税」狂想曲。
税率アップの是非は問われない。
さて、猫の体重測定結果を記しておく。
Zazieは4.3㎏、前月比300g減った。
Nicoは6.1㎏、同400g減った。
2匹とも増えたり減ったり・・・
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