2014年4月8日火曜日

小保方晴子と『罪と罰』

理研の発生・再生科学総合研究センター研究ユニットリーダー・小保方晴子が引き起こした、このたびの論文不正問題について、整理をしておこう。小保方(STAP細胞論文筆頭著者、責任著者)ほか3名(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=共著者)は、刺激惹起性多能性獲得細胞(STAP細胞)を発見しその作製に成功した旨の論文を外国の科学雑誌に発表した。この研究発表を大雑把に言えば、「万能細胞」の発見というものだろうか。この論文が本当だとすれば、これまでの科学的常識を覆す大発見だった。

ところが、この論文についていくつかの瑕疵が指摘され、それを受けた理研は内部調査を行い、小保方の論文にいくつかの不正があると結論付けた。理研は、不正を行った小保方に対し処分の可能性を示唆したが、共著者の笹井、若山に対しては重大な責任があるという指摘にとどまり、また、同じく丹羽は免責され、STAP細胞の有無を検証する研究の責任者に任命した。すなわち、小保方はクロ、ほかの3人はシロという判定だ。

理研と争う小保方

これを受けた小保方側から理研の調査結果に対して不服申し立てがあり、明日(4月9日)、小保方本人が反論の記者会見を開く予定だという。小保方の主張は「STAP細胞は存在する」という根拠に基づくものとなる見込みだが、前出の小保方の上司にあたる丹羽は4月7日の謝罪会見で、「STAP細胞は仮説の段階に戻った」と発言した。

小保方は「STAP細胞は存在する」と主張し、理研は「STAP細胞は仮説だ」と主張する。おいおい、そういう論争を研究所でいくども繰り広げ、仮説を本説に磨き上げていくのが科学者・研究者というものなのじゃないのかい、庶民ならばだれしもそう思う。少なくとも、発表する前に内部で徹底的に議論すべきじゃないの、と言いたくなる。理研の職員(研究者)及び理研という組織は、まったくもってどうしようもない、とだれもが思うだろう。税金を使って若い女性に割烹着を着せて、遊んでいるんじゃないよ、というのが正直なところだ。

理研がへまをやらかした主因(理研の動機)

この問題を動機という観点で考えてみよう。まず、理研である。小保方の「STAP細胞」に検証もなしで飛びついた動機は何なのか。これについては、Blog「世に倦む日日」が次のように指摘している。
小保方晴子とSTAP細胞の発見は、安倍晋三の進める「成長戦略」のプロモーション・シンボルだった。その中味は三つあって、第一に、再生医療への国家を挙げた重点投資が「成長戦略」の目玉になっていたことに関わっている。安倍晋三とマスコミが「成長戦略」を宣伝するときは、必ず再生医療が引き合いに出され、「成長戦略」を正当化し訴求する看板商品になっていた。第二に、「女性の活用」がある。1/20に産業競争力会議が出した「成長戦略進化のための今後の検討方針」では、その第一の課題項目が「女性の活躍推進」になっている。第三に、教育の分野での研究開発投資の戦略的重点化で、「特定国立研究開発法人」を設置して巨額の予算を投入し、年収1億円以上の研究者をゴロゴロ出すことが策定されていた。つまり、安倍晋三の「成長戦略」の柱であるところの、再生医療、女性、研究開発重点投資の三つのキーワードが結節したところに、「小保方晴子のSTAP細胞」の花火の打ち上げあったということになる。実際に、安倍晋三は1/11に理研を視察し、笹井芳樹から説明を受ける場面をマスコミに撮影させて宣伝報道させていた。(2014/3/25)

筆者はこのBlogの著者の指摘に全面的に同意する。すなわち、理研というところは、いかにも研究機関にふさわしくない組織なのだ。安倍政権の政策が実現しつつあるかのような仮象性を人々に与える機関。そして政府に気に入られて組織を拡大し、莫大な予算を獲得して天下りを受け入れ、その予算を使って関連業界と癒着する機関。このことは拙blogで繰り返し指摘した。だから結論もまた明白で、理研を廃止する方向で整理すればいい。少なくとも、研究機関として存続すべきではない。

小保方晴子の動機――夢の実現という己の無謬性信仰

次に小保方晴子である。彼女の不正の動機は何なのか。本人は現時点で反省していない。少なくとも、STAP細胞はあると主張している。つまり、万能細胞の存在を信じていて、しかも論文に不正はないという。

小保方の主張は一見無茶苦茶な論理だが、まったく否定されるべきもの、一笑に付されるべきものでもない。科学は仮説から――換言すれば夢からスタートする。人類が空を飛びたいという願望を擁いたのがいつのことだったかは知らないが、人類はそれをおそらく気の遠くなるほどの長い年限をかけて実現した。月に行きたい、ペストを克服したい…いくらでもそういった科学の勝利を挙げることができる。だから万能細胞、夢の若返り細胞の発見という夢を信じることは科学の第一歩だ。

しかし、問題はそこからだ。信ずることは結構なことだけれど、それを作製したと宣言することは簡単ではない。たとえば万能型ロボットのドラえもんの作製可能性を信ずることは勝手だけれど、そのことはそれを実現することとはまったく次元が異なる。ドラえもんを作製したと言って、その画像を模造したり、画像を切り貼りしたり、コピーペーストしたりしてドラえもん研究論文を発表したとしたら笑いものだが、STAP細胞ならば、その発見と作製を信じることができる。直近にips細胞(誘導多能性幹細胞)の発見があったからだ。だから筆者は、小保方の論文不正の動機は、自分の仮説(夢)を実現したいという一念だったのだと推論する。

普通の精神の研究者ならば、論文作成に不正をしてまで夢の実現を急がない。ところが小保方は論文に偽造を施し科学雑誌に公表した。その後ろ盾になったのは、理研という日本では権威のある研究組織の中で認められ、共同研究者のお墨付きまでもらったことだろう。理研の後ろ盾は小保方の自信になったのではないか。ところが、論文発表後、各所から不正を指摘され、心の支えだった理研内部から不正と断じられた。 それでも、小保方は己の夢にしがみついている。万能細胞は存在するのよ、私の夢はだれも否定できないのよ、(それが仮説であっても)私にはあるのよ、そうでしょう、だから不正ではないのよ――と叫び続けるつもりだ。こんな幼稚な精神をもった研究者が存在すること自体が奇跡だ。

小保方とラスコーリニコフ

筆者は小保方の精神構造の中に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフをみる。「選ばれし者は、より大局的な正義をなす為ならば、既存の法や規範を超越する資格を持つ」というわけだ。「選ばれし研究者の正義(=夢)の実現のためならば、既存の論文作成の手法を超越する資格をもつ」という論理構造だ。「目的のためならば手段を選ばず」という論法ではない。万能細胞は世の中に必要だ、これが実在すれば多くの人が救われる。わたしは理研という日本で有数な研究機関でそれを研究している。あとは発見するばかり。そして発見した(と錯誤した)。残る作業はそれを証明するだけ。そのためには発見したと思わせる「見やすい」画像を流用しましょう、コピペだって正義よ…だって、万能細胞は人類の発展に貢献するもの、人の命をすくうものなのだから…という具合だ。

小保方はオウム信者に似ている

この心的構造は、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の信者とよく似ている。彼らも人類救済を夢見た。そして、オウムに敵対する人々(悪霊にとりつかれた人々)を救済するためには、ポアが必要だった。つまり悪霊に取りつかれた人を殺害し、この世からあの世=天国に向かわせることが必要だった。それが人類を救う神の節理、神の教えだと。大局的な正義、人類を救済するための行為は、すべて正当化されるという論理だ。

このような自己に対する無謬性=自己絶対化はどこから生ずるのか。それは若者にありがちな傾向だとも言えるが、自己相対化の訓練を怠ってきたことから生ずる場合が多い。ラスコーリニコフの場合は高利貸しの老婆を殺害したのちに、己の信じた絶対正義の貫徹の思想の相対化を迫られた、すなわち苦悩が始まったのだ。ラスコーリニコフは行為の後に、人間の当たり前の思想的営為を取り戻した。だが、小保方には、いまだそれが訪れていない。

おそらく小保方という人間は、自己絶対化のなかでここまで生きてきたのだろう。夢の実現の連続の人生だったのではないか。その道はおそらくここまで順風満帆だったのかもしれない。だから小保方はラスコーリニコフと同じように、「法と規範を超越した行為」に挫折なく行き着いてしまったのではないか。

懐疑せよ、小保方的不幸人間になる前に

この先、小保方と理研が裁判で争うことになるのだろうが、不毛だ。今度は倫理(規範)を超えた近代法の争いになる。理研には解体という可視的な措置が可能だが(もちろん、理研解体を唱えているのは筆者だけだが)、小保方にはそのような具体的措置はくだらない。人間性の問題だから、だれかが小保方の精神を糺すこともできない。理研が勝訴すれば、理研の規程に基づいた処分が小保方にはくだるのだろうが、せいぜい戒告程度だろう。小保方はおそらくドストエフスキーを読まないだろうから、ラスコーリニコフの苦悩をわがものとすることも生涯あり得ない。小保方はまことにもって狭隘不幸な人生をこれからも歩むことになろう。だから、若い研究者にあっては、自己が信じた仮説を信ずることとおなじくらいそれを疑うことをすすめたい。第二、第三の小保方にならないために。

繰り返せば、夢を実現する、己の信じる道を歩む、正義を実現する――といった正論に誤りがあるはずがないのだが、そう盲信する前に、自然科学、社会科学を問わず、立論=仮説を得ることよりも、その実証、証明に至る道の方がはるかに困難だということを思い返してほしい。

小保方は理研と争う姿勢である限り、小説の後半のラスコーリニコフであることに至らず、物語の始まりの「老婆殺し」の「大局的正義」に立ち戻ろうという気でいる。不幸な人間だ。筆者は彼女に対しいま、哀れみすら感じている。