2014年6月27日金曜日

サッカー日本代表をめぐる危機的言語空間

サッカーW杯ブラジル大会グループリーグ(GL)が終了した。日本は1分け2敗の勝ち点1で、C組の最下位に沈んだ。十分予測されたこととは言え、残念な結果である。勝負に勝ち負けはつきものだから、負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手、関係者の今後の一層の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。

「自分たちのサッカー」という超主観主義

「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。

ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。

選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。

この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。

戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの

「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。

オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。

逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。

サッカーはフィギュアスポーツとは異なる

「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。

また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。

フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。

現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間

結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。

本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。

本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。

親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手

日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。

とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。

日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。

そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。

大手代理店主導の「代表バブル」の終焉

日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。

日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。