2019年1月18日金曜日

つくられた横綱(稀勢の里)の悲劇


大相撲の横綱、稀勢の里が引退した。テレビを筆頭としたメディアは、このニュースをトップで伝えた。ニュース番組、情報番組、ワイドショー等ではかなりの時間を「稀勢の里引退」に割いた。筆者は大相撲をスポーツだと思っていないので、メディアの格別の反応に驚いた。それほどのことなのだろうか。厚労省の統計不正、JOC竹田会長の贈賄疑惑、辺野古をめぐる県民投票・・・政権にとって“不都合な真実”の目くらましかと。

大相撲は伝統芸能、スポーツではない

大相撲がスポーツでないことについては拙Blogで何度も書いた。繰り返せば、大相撲とは、伝統芸能の興行なのだ。だからといって、力士が弱いわけではない。プロレスラーが常人に比して著しく強いのと同様、力士も強い。彼らは稽古に励み、肉体を極限まで強化する。

その実力は稽古場で計られ、各力士のおおよそのレベルが非公式に査定される。角界と呼ばれる大相撲業界の内側で各力士の実力のほどが認識される。本場所、真剣勝負で戦った結果が公式記録だ。白星、黒星。その結果、トップに上り詰めた者が横綱の地位を得る。

この過程はスポーツだが、本場所の公式記録が必ずしも真剣勝負の結果を反映していない、というのが筆者の推測だ。人気が出そうな力士を番付上位にあげる力学が働いているのではないかと。

スター性のある力士が幕内にいなければ、興行としてマイナスだ。近年、ハワイ、モンゴル出身の力士が横綱の地位を占めた結果、興行に悪い影響が出た。そこで、日本人横綱を、と稀勢の里は横綱になった。角界幹部及び全力士が、“稀勢の里は横綱”で合意した。

「奇跡の逆転優勝」を信じるか信じないか

稀勢の里のピークは、横綱としての初の場所となった2017年3月(春)場所。そのときの状況を、Wikipediaで参照してみる。
(横綱・稀勢の里は)初日から12連勝と好調であったが、13日目に日馬富士に寄り倒された際に左肩を負傷。14日目の鶴竜戦は一方的に寄り切られ、この時点1敗で並んでいた照ノ富士に逆転優勝を許してしまう可能性が高まった。
千秋楽、稀勢の里は、その左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップの照ノ富士との直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて2連勝することが必要な稀勢の里の優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、引き続いての優勝決定戦では、もろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての一発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めた。
照ノ富士との勝負はいまでも語り草になっていて、奇跡の逆転優勝として相撲ファンの記憶に残っている。稀勢の里の代名詞でもある。

しかし、筆者は“奇跡の逆転優勝”に疑念を抱いている。稀勢の里のケガは尋常ではなかった。大胸筋の筋断裂という、大ケガだった。大胸筋を痛めれば、まず、腕が上がらなくなる。痛みをこらえて無理にあげたとしても、力が出ない。筋断裂ならば余計だ。それでも稀勢の里は勝った。

この取組は八百長として仕組まれたものではない。おそらく、対戦相手が忖度したのだと思う。相撲界繁栄のため、「優勝」を稀勢の里に譲った、と筆者は考えている。

「奇跡」後に厳しい現実がやってくる

奇跡は、稀勢の里に2度は訪れなかった。周囲の忖度もここまでだった。彼は後遺症に悩まされ、以降、休場が続いた。横綱昇進後の稀勢の里の成績は36勝36敗97休、2017年5月の夏場所から8場所連続で休場。年6場所制となった1983年以降のワースト記録。さらに昨年11月の九州場所で初日から4連敗、今年の初場所で初日から3連敗を喫して、昨年9月の秋場所千秋楽からは8連敗となった。1場所15日制が定着した1949年夏場所以降のワースト記録を更新した。

それでも、2018年秋場所は、10勝5敗で15日間務めあげた場所もあった。だが、筆者はこの場所の成績が怪しいと思っている。このことは後述する。

稀勢の里は「史上最弱」横綱

公式記録が物語るように、稀勢の里は、「史上最弱横綱」と呼ばれて不思議ではない。以下、稀勢の里の横綱昇進後の場所ごとの成績をみておこう。

・2017
春場所=13勝2敗(優勝)、夏場所=6勝5敗4休、名古屋場所=2勝4敗9休、秋場所=全休、九州場所=4勝6敗5休
・2018
初場所=1勝5敗9休、春場所=全休、夏場所=全休、名古屋場所=全休、秋場所=10勝5敗、九州場所0勝5敗10休
・2019
初場所=0勝4敗-引退

なんとも無残な成績だ。ところで、不自然なのが2018年秋場所の10勝5敗ではなかろうか。推測だが、周囲の引退勧告を鎮めるため、角界が時間稼ぎをしたのではないか。勝敗は他の力士の忖度の結果だろう。稀勢の里の復調を待ったのではないか。

「奇跡」は2001年にも起こっている(貴乃花の逆転優勝)

本割で負傷して、決定戦で逆転優勝するという「奇跡の優勝」のパターンは、稀勢の里の場合だけではない。なんと、あの貴乃花も同じような「奇跡の優勝」をはたしていた。そして、その後、低迷して引退するという稀勢の里と似たような進路を辿った。そのときの貴乃花の状況をWikipediaで再現してみよう。
(横綱・貴乃花は2001年)、5月(夏)場所初日から13連勝して完全無敵の強さだった。しかし14日目の武双山戦で土俵際での巻き落としを喰らって、右膝半月板を損傷する大けがを負った。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであった。二子山親方ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。千秋楽はテーピングをせずに、横綱土俵入りを披露した。しかし本割りの仕切り最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないことは明らかであった。その悲惨な状況に審判部として土俵下に座る九重は仕切りの最中にも「貴乃花、痛かったらやめろ!」と忠告したほどである。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、武蔵丸の立合いの変化に全くついて行けず一瞬で勝負がつく様な敗退で武蔵丸と相星となった。
続く優勝決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信せざるを得なかったが、大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った。勝利を決めた直後の鬼の形相と奇跡的な優勝に小泉純一郎は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!!おめでとう!!!」と貴乃花を賞賛した。後世相撲史に語り継がれる大一番となった。貴乃花が怪我を押して出場した背景には「休場すれば本割、優勝決定戦と不戦勝で武蔵丸が優勝をさらう史上初の事態になった」という状況があり、この優勝の際のスポーツ新聞の記事で貴乃花は「横綱としてというより、1人の力士としてやろうと思った。ひざがダメになったらという不安?そうなったらそうなったときですから」と言っていた。
この「奇跡の逆転優勝」を境に貴乃花はケガや体調不良に悩まされるようになる。そして、2001年7月(名古屋)場所から2002年7月(名古屋)場所まで休場。次の9月(秋)場所に12勝3敗の成績を残すも、2002年11月(九州)場所を休場、そして2003年の1月(初)場所、4勝3敗1休の成績をもって引退している。

貴乃花と稀勢の里の引退パターンはウリフタツ

貴乃花、稀勢の里、両者の共通点は、①場所中大ケガを追いながら、優勝争いをしていた力士に「奇跡的に勝利」し優勝する、②奇跡の優勝後、休場を続ける、③休場明けの場所でそれなりの成績を残す、④それなりの成績を残したその次の場所から再び休場を繰り返す、⑤休場明けに再度登場した場所で負け続け、引退に至る――という、①~⑤のプロセスが寸分たがわず同一だということだ。場所中のケガ→強行出場→相手の忖度→奇跡の優勝→故障休場→復活→故障休場→再々登場→大負け・引退というパターンだ。

大相撲は興行である

冒頭に筆者の大相撲に係る見解を開陳したとおり、「奇跡の逆転優勝」も角界の管理者、演技者が共同で仕込んだ物語にすぎない。対戦相手同士が阿吽の呼吸で感じ合い、勝負を演じた結果だろう。だからこれを八百長とは呼ばない。

それを「名勝負」として受け止めるナイーブ(うぶ)なファンや愛好家がいる限り、大相撲の「名場面」がこの先、再現され続けられるだろう。そのことは悪いことではない。江戸時代に確立された歌舞伎が今日まで愛され続けられているように、大相撲もこの先、いつまでも愛され続けられることだろう。