●白井聡〔著〕 ●講談社 ●1700円+税
著者(白井聡)の悲憤、義憤に満ち満ちた書だ。1945年の敗戦直後から今日の安部‐菅政権に至る日本国の欺瞞性が次々と暴かれていく。そのさまに小気味良さを覚えるとともに不安に駆られる――いったいこの国はこのさき、どうなるのだろうかと。
〈否認〉の戦後史
著者(白井聡)の論点はおよそ〈否認〉という一言に集約できる。戦後日本はなにを否認してきたのか。時代順に記せば、敗戦の、戦争責任の、平和憲法の(再軍備)、米国従属の、米軍基地容認の、沖縄同胞の苦難の、米国の侵略戦争加担の、3.11(福島原発事故)の、新型コロナによる災厄の・・・否認である。
その否認も安倍政権終期(モリカケ・サクラなど)においては、極めて姑息な否認に堕した。国会における事実隠蔽、虚偽答弁のあげく、安部本人の自己防衛、安部一派の組織防衛のために、ついには公文書改ざん・廃棄という〈否認〉を糊塗する犯罪が白昼堂々、中央官庁において常態化するに至った。
安部‐菅政権及び政権与党のありようを端的に称するならば、〈否認〉が否認しきれないまま自己破綻した――にもかかわらず、醜くも政権にしがみつく――政治屋たちが、腐臭を放ちながら、国会、行政機関をわがもの顔で跋扈している状態だといえよう。
〈否認〉の根源は敗戦の総括にあった。著者(白井聡)はそれを永続敗戦レジームという概念で結んでいる。戦争末期、敗色濃厚となった日本帝国は国体護持(天皇制の継続)にふくみを持たせ戦争終結を先延ばしにした。そのため、沖縄地上戦、都市大空襲、広島・長崎原爆投下、シベリア抑留等の悲劇を生んだ。こうした国民の多大な犠牲を経てけっきょく無条件降伏を受け入れ、天皇が「玉音放送」というかたちで国民に敗戦を終戦と言い換えて告知した。進駐米軍は天皇の戦争責任を免責し、少数の軍人を処刑するにとどめた。その背景には、進駐米国軍人の安全確保と、東西冷戦激化の予想の二つの要素が混在していた。1950年、後者は朝鮮戦争勃発として現実化し、そのことを契機として、米軍は戦犯を解放し、平和憲法を〈否認〉し再軍備を進め、戦犯を使って日本国を東アジアにおける反共の砦として再生しようと企図し、成功した。
本来、戦争犯罪者として裁かれるべき者が国政に復帰することが現実化したということは、戦争責任者の側から見れば、敗戦ではなく終戦である。その筆頭が、統帥権をもった天皇であり、天皇に仕えた政治家、役人である。天皇の責任が問われないのならば、天皇にとっても敗戦ではなく終戦である。平和憲法が軍隊をもたないと明記しながら、警察予備隊という名称で、平和憲法が〈否認〉され(再軍備)されたのだから、軍人にとっても敗戦ではなく終戦である。こうして、総力戦(国民総動員の戦争)に参加した国民ひとりひとりにも戦争責任はなくなる。日本国および日本国民は、敗戦を〈否認〉した。
星条旗はためく戦後の国体
敗戦を否認した後に訪れた繁栄の時代、為政者・国民を問わず強固に形成された新しい国のありよう――永続敗戦レジームの基盤となった新しい日本のかたち――こそ、対米従属にほかならなかった。そのことを著者(白井聡)は、かつての最高権力者である天皇の代わりにアメリカが君臨する構造だと看破し、それを〈戦後の国体〉と命名した。菊の上に星条旗がはためくというわけだ。白井はそれを『国体論 菊と星条旗』としてまとめた。
東西冷戦の激化によって占領軍から戦争責任を免責された者が戦後の日本の進路決定者となり、国を事実上、動かしてきた。彼らは「親米保守派」と呼ばれるのだが、その最終ランナーが安倍晋三(とその傀儡・菅義偉)であった。なぜ安部が最終走者なのかといえば、東西冷戦の終焉から米国の対日政策も変化し、米国の傘の下でのうのうと金儲けに専念することが難しくなったからだ。安倍政権下で次々に立法化された安保法制(集団的自衛権行使容認等)、特定秘密保護法成立、「共謀罪」の構成要件を改める「改正組織犯罪処罰法」成立などは、平和憲法否認の枠を超えた解釈改正にほかならない。国際情勢が、〈否認〉ではすまされない事態に親米保守派を追い込んでいる。
否認とはなにか
著者(白井聡)は〈否認〉について、以下の通りの論を展開する。
現代デモクラシーが、再階級社会化した新しい階級構造における「下流」「B層」「ヤンキー」に依拠するようになったという主張に賛同(『日本をダメにしたB層の研究』適菜収著ほか)しつつ、これらの新しい階級は、いずれもスペクタクルな消費者、反知性的存在として措定されるという。そして、その傾向は資本主義のネオリベ化の結果であり、それを促進するとし、政治権力は、「下流」「B層」「ヤンキー」らを最も重要な票田とし、経済権力にとっては最も重要な購買層になるとする。
その一方で、ネオリベ化の進行のなかでの反知性主義を啓蒙主義の物語の放棄と定義する。この〝啓蒙主義の物語の放棄″という白井の論点を頭の中に入れていただきたい。白井は、今般の日本社会を覆う反知性主義の跳梁の根本には、「人間とは何か」というイメージの著しい変化を読み取ることができるという。こうした状況の総体を「ネオリベ的文化状況」と名付け、前出のように反知性主義がデモクラシーの基盤化することと並行して啓蒙主義のプロジェクトがなかば公然と捨てられようになったという。このことは、アドルノ=ホルクハイマーが警鐘を鳴らした「道具的理性による自然支配の進行=近代的な野蛮」(『啓蒙の弁証法』)、すなわち、一切の束縛から解放されて全面化へ向かう事態である。
『啓蒙の弁証法』にはどんなことが書かれているのか。未読なのだが、概要をつかんでみよう。
ホルクハイマーとアドルノは、人間が啓蒙化されたにも関わらず、ナチスのような新しい野蛮へなぜ向かうのかを批判理論によって考察しようとした。その考察を開始するために、啓蒙の本質について規定した。啓蒙は、人間の理性を使って、あらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは、人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。したがって、理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。ホルクハイマーとアドルノは、このような事態を「啓蒙の弁証法」と呼んだ。(中略)人間は、外部の自然を支配するために、内面の自然を抑制することで、主体性を抹殺した。また、論理形式的な理性によって、達成すべき内容ある価値は、転倒してしまう。さらに、芸術においても、美は、規格化された情報の商品として、大衆に供給される。ホルクハイマーとアドルノは、反ユダヤ主義の原理に啓蒙があったと考えており、啓蒙的な支配によってもたらされた抑制や画一化の不満が、ユダヤ人へと向けられたと位置づける。啓蒙の精神は、自らの本質が支配にあると自覚することで、反省的な理性を可能にするものでもある。この反省によって、啓蒙における理性と感性の融和が、可能となりうると考えられる。(Wikipedia)
啓蒙主義の後になぜ、ヒトラーのファシズムのような野蛮が出現したのか。また、そのヒトラーと戦った、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカはどうなのか。『啓蒙主義の弁証法』のなかの「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。新しい技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。(「知の快楽-哲学の森に遊ぶ」河合政之著)
今般のアカデミアで起きている反知性主義の流れについて、学問における啓蒙主義の公然たる放棄は、直接には、学問に課せられた「人間の完成」という理念をアカデミアから追放することを意味するという。19世紀末においてすでに、自然支配に役立つ技術的な学と啓蒙主義以来の理念を保持している学との解消困難な分離が、哲学者のあいだで痛切に意識されていた。それでも啓蒙主義のプロジェクトを公然と否定することは憚れてきた。しかし、代表制民主主義が、治者が被治者に敬意を持ち、被治者が治者を信頼するという理想を半ば公然と捨て去ったとき民主制が愚衆性を基本モードとする状態に落ち込んでゆくのと同様に、学問の制度が「綺麗事」から解放されたとき、その中身は必然的に変化する。そうした変化は、例えば人文主義的学問伝統の抑圧として現れるという。「人間とは何か」を問う学問の代わりに、「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めることになる、と続けている。これらを踏まえ、白井の論考の展開を追うと、以下のように進展する。
新しい人間(=今日出現した新しい主体、精神なき主体)は、現代の反知性主義の担い手であると推論し、啓蒙派の精神分析学者フロイドの精神分析方法と対比しつつ、ラカン派精神分析医の立木康介(ついき・こうすけ)の論を援用する。
立木によると、新しい主体の在り方の核心には「否認」があるとする。精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防衛機制の一つであり、外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、現実の一部または全部を、それを現実と認知することを拒絶するところにあるという。また、主体の基本モードが「抑圧」から「否認」へと移り変わることには、人間像のトータルな変化が含まれている。フロイトの措定した近代的人間像が「抑圧」をベースとしていた、すなわち、エディプス・コンプレクスによって自らの原初的欲望を「抑圧」した後、「抑圧されたものの回帰」と折り合いをつけることによって主体化(成熟)するという基本的な精神発達史の物語を背負っていたのに対して、「否認」をその心的生活の基礎に置いたポスト啓蒙主義時代の主体は、このような主体化のドラマを持たず、母子一体の段階において経験される(そしてやがて失われるはずの)幼児的万能感を手放そうとしない、と。
ではそれは、どのような主体であり、具体的行為としては何をするのか。そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語をもたない。いいかえれば過去や祖先や系譜にたいして引き受けるべき負債(ラカンの言う「象徴的負債」)をもたない。ネオ主体はだから、なんでも自分を基準に選びたがる。たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない(わが国でいわゆるキラキラネームが流行る一因もこれだ。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)
白井は次のように結論する。
ここで語られている「ネオ主体」の姿が、今日の歴史修正主義的欲望を噴出させている人々のそれに重なるのは偶然ではあるまい。無暗矢鱈と「愛国」が振りかざされているにもかかわらず、そこには伝統への真剣な参与や歴史の奥行きある思い入れも徹底して欠けている。それらの代わりに彼らは、「自分を基準に選んだ」都合の良い歴史の語りを好む。彼らは、自分たちの歴史における不都合ないし不名誉な要素を認めてそれを乗り越えるという苦行に一切耐えられない。つまり、ここにおいて、ナショナリズムの心情は、あけすけな自己肯定のための、幼児的万能感を維持するためのネタとして利用されているにすぎない。(P127-129)
主権者の復権--東京オリパラ中止を決定する者
今般、コロナ禍におけるオリンピック・パラリンピック東京大会の開催の是非が議論されている。現状(2021.05.03)のまま、新型コロナの変異種の感染が進めば、日本の大都市に医療崩壊が訪れるのは目に見えている。現に大阪はその状態にある。そこに何万単位の外国人が訪日し、選手団、関係者、外国メディアが集団生活に入れば、常識的に考えて東京は地獄と化す。ここにきて、プロ野球球団の集団感染が次々と発覚するようになってきた。選手を隔離しても感染は防ぎきれない。いわんや関係者、メディアの行動を制限することは不可能だ。彼らは日本国の検疫を通過した者なのだから。彼らが日本中を歩き回れば、東京のみならず感染拡大は必至だ。ところが、大会の返上を申し出るような空気は感じられない。
この期に及んで中止を決定できないのは、日本の総理大臣がこれまで重要事項の決定に与ってこなかったからだろう。戦前までは天皇が、戦後は星条旗が総理大臣に指示を出してきた。オリパラの最高権力者は欧州のバッハという興行師であって星条旗とは関係ない。星条旗もオリパラに関与はできない。
親米保守派がお手上げだからといって、中止の決定を下せる者がいないわけではない。それこそが、本書にある「主権者」にほかならない。天皇でもなく星条旗でもない、まさにあたりまえの主権者が中止の意思表示をすれば、オリパラごときの中止はわけもない。オリパラ中止は、「主権者のいる国」であることを証明する絶好の機会ではないか。