●適菜収〔著〕 ●祥伝社新書 ●860円+税
本書はコロナ禍が、日本社会の真の危機を明らかにしたことを、――また、それまで不可視だった社会矛盾を可視化したことを、――そして、劣化した日本社会を正常に戻す政治的手段の選択を――われわれひとり一人に迫る最適な書の一つである。
さて、著者(適菜収)は、本書最終章〝「保守」の劣化″の冒頭で、「保守主義はフランス革命に端を発します(P205)」と書き、次のように続ける。
急進派のマクシミリアン・ロベスピエールは、理性によって社会を合理的に設計することを目指しました。結果、自由の名のもとに大量虐殺が行なわれました。これに対して異を唱えたのが保守主義です。彼らは近代啓蒙思想をそのまま現実社会に当てはまることを批判しました。彼らは理念(抽象)ではなく現実(常識)に立脚していました。(同)
ニーチェに傾倒する適菜が、啓蒙主義批判を展開することは自然だ。ポスト啓蒙主義として台頭したのが国家、民族、全体を重視する潮流であり、「保守主義」もその一つである。さらに、「フランス革命において理性は神格化されましたが、新型コロナ下においても理性を妄信するマッド・サイエンティストたちが大活躍したわけです」(P207)と締めくくる。
今般のコロナ禍日本の混乱ぶりは、果たして啓蒙主義的理性の暴走なのだろうか。日本のコロナ対策に欠けているのはむしろ、啓蒙主義的態度(絶対化ではない)ではないのだろうか。そのことを換言すれば、最新の科学技術に基づいた感染症対策ではないのだろうか。正確な感染者数の把握、感染源の特定、変異株の遺伝子解析、治療薬開発、ワクチン開発、ワクチン接種の体制づくり、コロナ用医療機器の充実・提供、PCR検査に係る実施及び判定技術の高度化・・・
マスメディアで報道されている現下の医療崩壊は、コロナの広がりから一年以上経過した今日(2021.05.08)までのあいだいに、更新・改善するに足る事柄であった。にもかかわらず、「日本はコロナに打ち勝った」云々の権力者側の驕り、非科学的認識によって、打ち勝ったのではなく「打ち捨てられた」とみるべきだ。適菜がいうマッド・サイエンティストが具体的にどこのだれを指すのか不明だけれど、「私は医者でも感染症の専門家でもありません・・・だから新型コロナウイルス自体やこの先の見通し、対策の在り方を論じるつもりはありません」(P3)と、冒頭で宣言しながら、最期に及んで日本のコロナ対策の在り方について、保守主義擁護の観点から批判し自戒を解いてしまったのは残念だ。
だがしかし、新型コロナは「バカ発見器」、反日売国奴=安部批判、陰湿なチンパンジー=菅批判、以下、肥大化した自己愛=小池百合子、イソジン詐欺師=吉村洋文、デタラメな政治家=麻生太郎、トランプ、小泉進次郎、黒岩祐治、三原じゅん子、新型コロナ流行下でデマを流した言論人=ネトウヨ、橋下徹、高須克弥、三浦瑠璃らのぶった切りは痛快だ。
併せて、第4章の「社会不安に乗ずるデマゴーグ」において、〈インフルエンザのほうが死者が多い?〉というデマを飛ばした者はやはり、前出のとおり、科学を無視した態度であり、啓蒙主義に反する感情的、情緒的、非合理的な発言の結果だと思われるがどうか。
コロナ禍が明らかにしたのは、なんといっても、日本の権力者の無能ぶり、日本の科学技術の遅れ、大衆の民度の低下、マスメディアの無力--だ。そのことをもっとも顕著に反映するのが、東京オリパラ開催・中止に係る関係者のビヘイビアだろう。筆者はもちろん太平洋戦争を体験していないが、今般の状況はおそらく、降伏、敗戦に至る過程と相似形なのではないだろうか。日本の危機は経済指標よりも、著者が第6章でとりあげた、▽生活の変化、▽正常なリーダーの不在、▽言葉が軽くなりすぎた、▽「保守(常識)」の劣化――といった社会現象として生活過程に滲み出てくるように思われる。
著者(適菜収)には、この先、コロナ禍と「啓蒙主義の弁証法(ホルクハイマー/アドルノ)」を論じていただきたいと思う。