演説するレーニン |
革命後、たとえば、いまロシアと戦争状態にあるウクライナの人たちは、自分の国をソ連と思っていたのかそれともウクライナと思っていたのか、あるいは、スターリンの生誕地であるグルジア(現ジョージア)の人はどうだったのか。いまそのことを確認するすべを持っていない筆者の想像にすぎないのだが、ソ連という抽象名詞が連なった国家名は、ロシア各地に住む人々にとって、重圧だったのではなかったかと。
各共和国の人々がその重圧から解放され、USSRの民としてアイデンティティーを獲得したのは、WW2における対ナチス戦争勝利だったのではないか。その「偉業」はナポレオンの東進を阻んだロシア帝国の偉業に匹敵したと考えたかもしれない。そこから新しいソ連という国家の邁進が期待されたのだと思う。しかし、その夢はわずか40年弱でついえた。ソ連は崩壊し、前出の15のソヴィエト社会主義共和国は連邦形成から離脱し、独立し今日に至っている。ソ連の崩壊は1988-1991にかけてであった。かつての共和国は独立し、それぞれが、ゆかりのある固有名詞を冠した国名を名乗った。USSRは70年余で消滅した。
さて、USSR崩壊後から30年余りののちに勃発したウクライナ戦争である。筆者が注目していた南部戦線マウリポリ。ウクライナ軍の別動隊アゾフ連隊が立てこもっていた巨大製鉄所が陥落し、アゾフ連隊兵士100名ほどが投降し捕虜となった。ロシア軍がネオナチ=アゾフ連隊との戦いに勝利したことで、プーチンが目的としたこの戦争のミッションの最低限を完了したことになる。この先の戦争の行方は、メディア報道にあるように、正面戦から陣地戦へとかたちを変え、東部・南部におけるウクライナ・ロシア国境付近における消耗戦に入るものと思われる。
アメリカのヘゲモニーが揺らぎ始めたのは、1970年代からです。そして、それを揺るがしたのが(中略)日本とドイツでした。その後に、アメリカから新自由主義が出てきたのです。すなわち、新自由主義という「経済政策」は、アメリカがヘゲモニー国家として没落し始めた段階、そして新たなヘゲモニーをめぐる争いが生じる段階、すなわち、帝国主義的な段階に固有のものです。ゆえに、新自由主義は、自由主義とはまったく異なるものです。また、それはたんに諸国家が任意に選択するような経済政策ではありません。それは「歴史的段階」です。すなわち、ヘゲモニー国家が不在であるような段階です。(前掲書P50)
帝国主義的段階における特徴的な表出について柄谷は次のように指摘する。
資本主義的な市場経済が進むと、階級格差や対立が生じます。それを、ネーション=国家が課税と再分配によって解消する。資本=ネーション=国家は、そのように、資本主義経済を永続させる装置です。1990年ごろ、ソ連の崩壊とともに流行した「歴史の終わり」とは、そのような装置の完成を意味します。
しかし、実は、まさにそのころから、資本=ネーション=国家はうまく機能しなくなったのです。なぜなら、このような装置がよく機能するのは、自由主義時代、すなわち、資本の蓄積が順調である場合だけだから。(中略)1970年代以降、資本の蓄積が困難になった。簡単にいえば、一般的利潤率が低下しました。そうなると、福祉や労働者保護といった要素は切り捨てられる。いいかえれば、「ネーション」の部分が切り捨てられて、資本=国家が剥き出しになる。そこから、新自由主義的な政策が出てくるのです。ネーションが回復されても、それは空疎で排他的なナショナリズムにしかならない。それは相互扶助的なものではありません。
だから、1990年において〝終わった”のは、ソ連社会主義だけではありません。自由主義段階で可能であった社会民主主義ないし福祉国家もそうです。(同P51~52)
柄谷が「1990年代の動向」を著わしたのが2014年4月のこと。なかに次のような予言めいた言説が含まれているので紹介しておく。《ここ(120年周期説)から、今後にどうなるかも予測することができます。現在が、ヘゲモニー国家が没落しつつある帝国主義的時代だとすると、どこが次のヘゲモニー国家となるか、あるいはそこにいたるまでに何があるか・・・放っておけば、もちろん世界戦争です。》
プーチンが現段階で世界的ヘゲモニー国家をめざしているのかどうかは不明だが、少なくとも、旧ソ連時代の版図におけるヘゲモニー国家でありたいと望んでいることは確かであり、ウクライナ戦争もその帰結であろう。そしてプーチンが信じる過去に遡った神話の再生は、「空疎で排他的なナショナリズム」にほかならない。
いま日本においては、帝国主義的段階の局地戦争を背景として、「空疎で排他的なナショナリズム」を標榜する右派ポピュリストと、かつての自由主義時代の福祉国家の再来を望む左派ポピュリストが先鋭な対立姿勢を大衆的にして、選挙戦の梃子としようとしている。選挙では左派に投票するしかないのだが、よしんば左派が勝利したとしても、そこから先の展望はない。 (了)