2023年9月9日土曜日

『福田村事件』

  ●辻野弥生〔著〕 ●五月書房新社 ●2000円+税 

 福田村事件のことを知ったのは高校時代の友人との久々の飲み会だった。それはいまから一年半前位くらいだっただろうか、いまとちがって「関東大震災100年」の機運はなく、もちろん映画の公開もなかったころのことだ。現在(2023年9月)とは情況を異にしていたにもかかわらず、旧友二人がなぜ、当該事件のことを知っていたのだろうか。その答えを当人たちに直接聞く前に、本書を読んでみてその回答を得たような気がした。その理由については後述する。
 さてその福田村事件とは、1923年(大正12年)9月6日、関東大震災(同年9月1日)直後の混乱時において、香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名(8名という記録がある)が殺害された事件である。 


 福田村・田中村事件 

 ここからの記述は東京在住者でないとわかりにくいかもしれないが書く。筆者が高校生の頃、東京都立高校は学区制をしいていた。筆者が属していた学区は中央・台東・荒川・足立の4区で構成されていた。筆者の世代が高校を卒業し所帯をもつようになると、都心より不動産価格が低い東京近郊に新居を構えることになる。なかでも東葛(船橋市・市川市・松戸市・野田市・柏市・流山市・我孫子市・鎌ケ谷市・浦安市)とよばれる地域のうち、松戸、柏、流山、鎌ヶ谷の戸建住宅を求めた者が多かった。東葛とは旧東葛飾郡の略称で「トウカツ」と発音される。現在では、常磐線・千代田線による複々線化で都心と結ばれ、都心へのアクセスはいっそう良くなっている。その後、地価高騰と宅地開発の進行により、野田、安孫子、浦安も東京近郊住宅地へと変容した。なお、同じ東葛でありながら、市川、船橋に居を求めた同窓生は管見の限り、見当たらない。
 当該事件の福田村は現在の野田市だが、本書によると、福田村に隣接する田中村(現・柏市)の住民も殺害にかかわっていたというから、当該事件は正確には、「福田村・田中村事件」と呼ぶべきであるという。偶然かもしれないが、前出の当該事件を知っていた二人は柏市に家を買いいまなお在住である。一人はリタイア後民生委員を務め、もう一人は高校卒業後にドロップアウトして絵描きをしている。時間的余裕がでてきたところで在住する「柏市史」を紐解くようになり、そこに記録された当該事件にふれた気がしてならない。 

北総鉄道と朝鮮人 

 当該事件当時における東葛の政治的中心都市は松戸だったが、産業的にはキッコーマン醤油を擁する野田だった。現在の東武野田線は当時、北総鉄道(現在の北総線とは別経営、別路線)といい、醤油運搬の足として陸路による鉄道が求められ、その敷設のため朝鮮人労働者が駆り出されていた。また、醤油工場建設に従事していた朝鮮人もいたし、近隣河川の土木工事に従事する者もあり、野田周辺に在住する朝鮮人の数は少なくなかった。 


事件の背景

 

(一)朝鮮人虐殺と並行して行われた社会主義者、アナーキスト虐殺

 大震災に乗じて朝鮮人虐殺が引き起こされる要件については、本書第一章に叙述されている。その要件を整理する前に、震災に便乗して国家権力が行使した不法弾圧を認識しておく必要がある。震災の混乱のなか、①社会主義者十数人を殺害した亀戸事件(9月3~4日)、②中国人留学生王希天殺害事件(9月12日)、③アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕事件(9月16日)などが挙げられる。①③はよく知られているが、②については本書の脚注を引用しておく。 

※中国人労働者が多く住んでいた東京府南葛飾郡大島町(現在の東京都江東区大島)で在日中国人を助ける運動をしていた中国人留学生の王希天が、軍隊によって殺害された事件。(本書P22) 

 つまり、大震災直後の混乱の中、民間による朝鮮人大量虐殺と並行して、国家によるアナーキスト、社会主義者等への虐殺が敢行されていた事実を踏まえておく必要がある。この事実は、ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』のとおりであり、惨事に便乗して国家権力がふだんでは行うことのできない不法・不当かつ暴力的・強権的権力を行使したのである。 

(二)日本帝国権力者たちの〝恐怖″ 

 日本帝国は震災後すぐに戒厳令を発した。復興よりも「治安」を優先した。なぜか――震災前の日本帝国をとり巻く内外の情況がそうさせたのだ。
 まず韓国併合(1910)から9年後の1919年に朝鮮で起こった独立運動、「三・一運動」である。これに対して日本帝国は現地の朝鮮人7,500人を殺害し、負傷者1万6千人、4万6千人を検挙した。
 国内では1918年、富山から米騒動が起こり、全国に波及した。この時期、社会主義運動、労働運動、普選運動、部落解放運動、婦人運動などの民衆運動の盛り上がりがあった。
 その根源が1917年、ボルシェヴィキによるロシア革命だった。この拙稿においては、ロシア革命が与えた日本帝国と日本の革命運動、社会運動への影響の詳細を省略し、革命後のロシア帝国・ロマノフ家の処刑にふれるにとどめる。
 革命を成功させたボルシェヴィキは、ロシア皇帝ニコライ2世の妻と5人の子供、そして皇帝家族の幽閉先に同行することを選んだ人すべてを、1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で銃撃・銃剣突き・銃床で殴るなどによって殺害した。
 天皇を頂点とする日本帝国の権力者は、ロマノフ家の処刑にショックを受けたように筆者は思う。震災直後に無産者革命(在日の植民地人民、国内の労働者・農民が大同団結した)が起り、それが成功すれば自分たちは惨殺されるのだと。日本帝国権力者がそう思うのも自然なのである。なぜなら、1909年、明治維新の元勲であり初代首相の伊藤博文が満州ハルビンの駅頭にて朝鮮人安重根(アンジュンクン)によって暗殺されていたからだ。伊藤は朝鮮人からすれば、朝鮮侵略の張本人である。日本帝国の権力者は、殺(やら)れるときは殺れるのだ、と警戒心を強めたに違いない。 

民衆の自然発生的暴力か政府により組織された暴力か 

 今般、大震災後100年という節目の年を迎えたことを機に、当該事件の知名度が高まり、併せて朝鮮人虐殺に対する関心も高まった。そのことを悪いとは思わないが、筆者は一抹の不安を感じている。当該事件は、震災の混乱によって、日本人が日本人を朝鮮人と誤認して殺戮したという論調があることが気がかりなのだ。日本人が日本人を殺戮する=A級殺戮、日本人が朝鮮人等の外国人を殺戮する=B級殺戮という等級づけをしていないか。誤認であれ同調圧力であれ、被害者の国籍を問わず私刑による殺戮はすべて悪なのであって、当該事件を含む惨事便乗型の暴力の根源を探らなければならない。その結論をまずもって申せば、震災直後に起きた人民殺戮事件は、国家権力により準備され、民衆がそれにこたえた組織された暴力である。その理由を次に述べる。 

戒厳令、自警団、デマ情報 

 当該事件があった東葛地域は大震災の被害を受けたものの、帝都・東京に比べればそれほどではなかった。東葛は人口が密集する東京に比べれば、田園地帯が広がり人口密集が低く、大規模火災を免れた。その反面、東葛に居住する朝鮮人は少なくはなかった。前出のとおり、震災当時、《(千葉)県内には北総鉄道建設や利根川第三期改修工事などに当たる土木工夫、飴の行商など、390名の朝鮮人が居住していたが、その多くが東葛飾郡に居住していた(本書P189)》という。
 当該地域の住民を恐怖に陥れたのは、《帝都の大火災とともに発生した強風にあおられ、貯金通帳、株券、教科書、畳表などの消失片が松戸近郊まで飛んできた(本書P189)》ことだという。だが、そればかりではないのである。消失片とともに飛んできたのは「デマ」であった。だが間違えてはいけない。ここでいう「デマ」とは自然発生的に人の口から口へと伝えられる、いわゆる流言蜚語の伝達の類ではない。帝都中心部から東葛の野田までは、徒歩でおよそ9時間を要する。大惨事のさなか、わざわざ自家用車等の交通手段を用いて帝都から野田まで「デマ」を口伝えすることはありえない。帝都からの避難民がデマを飛ばしたという可能性もあるが、筆者は口伝えではない情報伝達手段が「デマ」の源泉だと考える。その論拠となる内務省が発出した「デマ」(の打電の原文)が本書に掲載されているので転載する。 

呉鎮副官宛打電 九月三日午前八時十五分了解 

 各地方長官宛             内務省警保局長 出 

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。 

(姜徳相・琴秉洞編『現代資料6 関東大震災と朝鮮人』所収「船橋送信所関係資料文書」より) 

  九月三日午前、通信網が絶ち切れたなか、内務省警保局長の名で、全国にこのようなデマを次々と打電したのは、行田の船橋海軍無線送信所だった。この電文は、内務省が単なる流言を流言としてではなく、事実と認めたことを物語っており、朝鮮人による暴動説はがぜん真実性を帯び、さまざまに尾ひれをつけながら、またたく間に全国にひろがった。一日の午後には早くも流言が発生しており、警視庁や警察各所がとらえたものから拾ってみると、次のようなものがある。 

  • 社会主義者及び鮮人の放火多し 
  • 昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものである 
  • 鮮人二百名、神奈川県寺尾山方面の部落に於いて、殺傷、掠奪、放火等を恣にし、漸次東京方面に襲来しつつあり 
  • 鮮人約三千名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延付近に来襲し、今や住民と闘争中なり 

(本書P49~50)》 

 このような流言蜚語をうけて、地域の在郷軍人、消防団、青年団が自警団を組織し、刀剣、竹槍、鳶口などで武装し、朝鮮人などに暴行を加え、ついには殺戮に及ぶという狂気の行為が随所で繰り広げられた。前掲した流言の発生源を特定できないものの、筆者は内務省の意を受けた者たちによる意図的なものではないかと推測する。 

千葉県内における殺戮の記録 

 本書に記された千葉県内における自警団・民衆により虐殺された記録を転載すると以下のとおりである。 

①9月3日・東葛浦安町(1名=日本人)、②東葛馬橋村馬橋停車場(6名=朝鮮人)、➂葛馬橋村新作地内(1名=朝鮮人)、④東葛浦安町(2名=朝鮮人)、⑤3~4日・東葛安孫子町(3名=朝鮮人)、⑥4日・東葛八幡町(2名=日本人)、⑦千葉市(2名=朝鮮人)、⑧東葛葛飾村(4名=日本人)、⑨印旛郡成田町(2名=日本人)、⑩香取郡滑川町(2名=朝鮮人)、⑪香取郡佐原町(1名=日本人)、⑫東葛流山町(1名=朝鮮人)、⑬東葛浦安町(2名=日本人)、⑭東葛船橋町警察署付近(10数名=朝鮮人)、⑮海上郡三川村(1名=日本人)、⑯東葛船橋町九日市非難病院前(3名=朝鮮人)、⑰東葛船橋町九日市(38名=朝鮮人)、⑱東葛中山村(13名=朝鮮人)、⑲5日・東葛行徳村(3名=日本人)、⑳東葛中山村(3名=朝鮮人)、㉑千葉郡検見川町(3名=日本人)、㉒6日・東葛福田村(8名=日本人)

〔※東葛=東葛飾郡、カッコ内は殺された人数。福田村の殺害者数は実際は9名(胎児を含めると10名)だがこの記録では8名〕(本書P105~108)

 こうして見ると、日本人が殺害された数はけして少なくない。無差別殺戮とは 言えないものの、自警団・民衆の常軌を逸した行動がうかがえる。また、4日以降、殺害者の数が格段と多くなっていることから、前出の内務省の「デマ情報」の発出(打電)が3日であったことから、虐殺行為を誘発した可能性がないとは言えない。 

「新たな戦前」 

 「新たな戦前」とはタレントのタモリがいま現在の世情をとらえた、いかにもエスプリの利いた表現である。タモリの表現を借りて、当該事件が起きた当時を想像すると、その当時もまた「新たな戦前」ではなかったのか。関東大震災(1923)は、【明治維新後の戦争の時代/1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第一次大戦参戦】と【昭和期におけるアジア・太平洋戦争=日中戦争/1937年・太平洋戦争/1941年】の狭間に当たる時期に発生した自然災害だった。つまり、当時においては、次なる大戦争を目前に控えた、まさに「新しい戦前」に起きたと惨事だと言える。

(一)惨事の中、大衆は戦争を準備し戦った

 大惨事のさなか、大衆の心は新たな戦争を準備していた。彼らの「敵」は、日本帝国が侵略を計画していた東アジアの中国という外国であり、そこに住まう東アジアの民にほかならなかった。帝国の兵士として海をわたる前に、まず国内の不逞外国(人)を実体的な「敵」とみなし、殲滅するべく武装し、仮想「敵国人」として朝鮮人を標的にして戦争を仕掛け、そして、暴力的に勝利した。その過程で誤って日本人も殺害したのである。
 この草根の暴力を組織したのは内務省であり、その意を受けた地域のリーダーたちだった。彼らに率いられた地域住民は自警団に参加し、武勲をあげるべく「勇敢」に行動した。その蛮勇と蛮行を恐怖心によるパニックあるいは同調圧力で片づけるわけにはいかない。在郷軍人、消防団、青年団の参加者は「戦争」として、自発的に殺戮に参加した。そして、このような野蛮なパトスが、その後のアジア・太平洋戦争時において、戦場となった中国、東南アジアの民(非戦闘員)に対する残虐行為へと引き継がれた。 

(二)事件の顛末 

 著者は、福田村事件の裁判について書いている。殺害に関与した村民の被告に対する判決は、 以下のとおりである。 

東葛飾郡田中村  

 懲役十年 一人  

 同 三年 二人  

 同 八年 一人  

東葛飾郡福田村  

 同 六年 一人  

 同 十年 一人  

東葛飾郡田中村  

 同 三年 一人  

(「東京日日新聞」大正十三年九月四日付/本書P185)  

 著者は《震災時における他の殺戮事件では執行猶予が多いなかで、収監という重い刑が処せられた》と、そして続いて、《1926年12月25日、大正天皇の死去により、福田村事件の被疑者8名も、第二審から2年5カ月後に全員恩赦で無罪放免になっている。》と書いている。そして、このような結果の主因は、殺戮された被害者が被差別部落の人だからだと結論づけている。「敵」は外国人ばかりではなく、国内の被差別部落の民をも含んだものだった。
 本書に掲載された当該事件の公判記録には、《不逞鮮人のために国家はどうなることかと憂への余りやったような次第です〔後略〕》という被告の証言があるのだが、筆者はこの証言がとても気にかかった。続けて、著者は、《(また公判を)取材した記者は、「訊問に対して答える被告たちの答弁内容や態度を「他事の様に冷々淡々と」「呑気なもの」「勇壮活発なもの」「演説口調」といった語句で批判的に伝えている。(本書P183)》と書いている。
 そんな加害者たちを地元民は支援し、なかには刑期を終えた後に地方議会の公職に就いた者さえいたというのである。福田村事件の被害者は、福田村民と日本帝国により二度にわたって殺害されたのである。

(三)殺害対象は自分たちと異なる「敵」 

 福田村事件においてしばしば議論になりながら、その解を求められないアポリアの一つが、①香川の行商団を誤って朝鮮人だと認識し殺害に及んだのか、それとも、②日本人と知りながら殺戮に及んだのか――という設問である。当該事件はながらくタブーとされ、当事者は口を閉ざし、行政もふれずに記録もおざなりでこんにちに至ってしまったため、決定的証言を得られないままである。だから、本書のような力作を世に出した著者(辻野弥生)もその結論を出さずにいる。
 前出の公判記録で村民の被告は「不逞鮮人」と証言しているから、朝鮮人だと誤認したように思えるが、香川の行商団だと認識していたと証言したら、意図的に同朋を殺したことを自白するようなものだから、この発言を頭から信用することはできない。真相を解明することは困難となった。 

(四)憂国 

 よくよく考えてみるに、このアポリアの解を求めることは、あまり意味をなさないのかもしれない。朝鮮人と間違えられて日本人が殺された例は、この福田村事件のほかにも、震災直後の政府調査「鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」の中で、日本人死傷者は関東地方(福島1件を含む)で89名、うち死者は東京25名、千葉20名など、計58名とされている(本書P3および前掲のP105~108)。
 ようするに、民衆は惨事にあって自分たちと異なる外形、話し言葉、態度を示す者を暴力的に排除することを優先してしまったのだ。過剰な防衛意識が前出の「国のため=憂国」へと変異し内面に形成されたのであり、それを増幅したのが内務省発の不逞鮮人の暴動警戒を呼び掛ける「デマ」情報だった。そこから、人々は日本刀、竹槍、鳶口で武装し、「敵」を暴力的排除すべく邁進した。
 繰り返しになるが、それを草の根レベルで組織化したのが在郷軍人、消防団、青年団であった。おそらく彼らは善意の地域貢献団体だったのだろう。善意の集団が暴力的殺人集団、すなわち「軍隊」にいともたやすく変容したのである。福田村事件から学ぶべきは、その変容過程の検証と確認であり、変容を止める対策である。換言すれば、規律権力の内面化のメカニズム解明であり、そこに介在する憂国のパトスといかに抗うかということに尽きる。 

幻想の共同体から距離をおく 

 当該事件を含む「敵」の排斥から殺戮にいたるような悲劇を繰り返さないために必要なのは、一にも二にも、国家という幻想の共同体から距離をおくこと以外に思いつかない。「憂国」ではなく、もっと普遍的な価値と立場に自己を置くこと以外にない。大震災直後の大混乱のなか、自己及び家族、そして国家を防衛するという意識が醸成されることは避けがたいように思う。がしかし、自身と家族の安全確保とともに、他者の救命・救援、復興への献身を優先する方向に自身を導けば、当該事件のような暴力への加担を免れるばかりか、蛮行を阻止する側にまわることができる。そのことは、惨事に対して無防備でいいということではない。〔完〕