2025年8月30日土曜日

『精神分析の四基本概念 上下』

●ジャック・ラカン〔著〕 ●岩波文庫 ●780円・1010円(+税)


  ラカンは以下のように切り出して、講義を始める。 

主体の心理は、主体が主人の立場にいるときでも、主体そのものの中にあるのではありません。〔中略〕それは対象の中に、隠された本性を持つ対象の中にあります。この対象を現れさせること、〔後略〕。
このことこそ、ここで指摘するにふさわしい、しかも私がそれについて証言できる場所から指摘するにふさわしいと思われる次元です。(本書上巻P18)

 主体の心理が隠された本性をもつ対象の中にあるのは、本題にある四基本概念――「無意識」「反復」「転位」「欲動」から求められ、結論を言えば、それは〈他者〉ということになる。 

意識哲学と間主観性 

 ところで、〈他者〉については、哲学において深められていった。バーバーマスである。彼はハイデガーの『存在と時間』の影響を受け、デカルトから始まった「意識哲学」を「間主観性」の方向に先験的に克服しようと試みる。ここでいう「意識哲学」とは、ヨーロッパの近代哲学の主流である、意識や自我を中心とする哲学のことである。
 デカルトは「精神」が人間の本質であると考えた。精神は思考するものであり、自分以外のすべてをカッコに入れることができる。身体や他の精神との関係はさしあたって問題にならない。カントにおいても、「自我」は世界の中に存在するのではなく、世界を超越し、自分の側から世界を「構成」するという面をもつ(超越論的自我)。「意識哲学」とは、このように、世界や他者から孤立した主観を起点とする思想である。 
 ハーバーマスはそれに対して、「間主観性」という二十世紀になってから誕生した哲学の新しい流れに注目する。それは、フッサールの現象学の創始を嚆矢とする。フッサールは、わたしたちが「生活世界」において他の人々との交流の中で生きていること、この他者との関係性がまっさきにあるのであって、わたしたちの認識はこの関係性のなかではじめて生まれ、分節化されることを指摘する。これが「間主観性」の思想である。しかし、フッサールには、超越論的主観による世界構成という発想がまだ残っていた。ハイデガーは『存在と時間』で、わたしたちは「世界内存在」であり、つねにあれこれのものに「関心」を持ちながら生きているのだと明らかにした。これには「間主観性」の思想を押し進める意味があった。
 ところが、ハイデガーの『存在と時間』は、他方では、むしろ人間の単独性を強調するアピールをも含んでいた。それによると、わたしたちは日常的には世界や他人の中に埋もれて「非本来的」な生き方をしているが、自分が「死への存在」であることを知り、それをばねに、他人となれあうことのない「本来性」にめざめなければならないと。第一次世界大戦の衝撃から、近代的理性の限界を思い知らされたヨーロッパの人々に、このハイデガーの実存論の哲学は、力強くアピールした。
 しかし、ハーバーマスは、『存在と時間』のこの部分については、後期のハイデガーの思想に対すると同じく、否定的である。というのは、近代の疎外ないし物象化は、ハイデガーのような「本来性」へ向けての英雄的脱自の呼びかけによっては解決できないからである。『存在と時間』は結局のところ、近代の主観主義を克服していないどころか、それが保っていた個人の「責任」の自覚を捨て去ってしまう点で、いっそう危険でさえあったのである。
 ハーバーマスは「間主観性」から出発し、ハイデガーを乗り越えようとコミュニケーション論を自身の思想の集大成として完成する。彼はコミュニケーション的合理性を実践する場として、討議を提案する。たとえば社会規範の正当性が疑問視されたとき、討議が開催される。討議においては、当事者すべて参加し、それまで経験的に妥当してきたものの効力を停止し、各人が妥当要求を掲げて自己主張し、より良き論拠だけを権威として認める。討議には、理論的討議、実践的討議、治療的討議の三種がある。そして、ポスト慣習的で多文化社会において、普遍性をめざす道徳は、行為規範の内容を直接的に規定することはできず、普遍の規範を決定するための手続きなど、間接的な側面についてだけかかわる。規範を決定するのは、すべての当事者が対等な立場で参加する、実践的討議においてである。最後にすべての参加者が同意しうる規範だけが、妥当なものとして認められる。(『増補 ハーバーマス コミュニケーション的行為』中岡成文〔著〕より抜粋)

ラカンとデカルト 

 ラカンはこの講義でデカルトについて論じている。 

デカルトが確信という概念を初めて使用したとき、この確信は思惟の「我思う」に全面的に由来しており、似たものでは決してない二つのもの、すなわち懐疑論と知の消滅との間にあって、出口を持たないという特徴を持っているのですが、彼の間違いは、それこそが知であると信じたところにある、と言えるでしょう。つまり、この確信について何か知っていると言ったこと、「我思う」をたんなる消滅の点にしなかったことにある、と言えるでしょう。反対に彼は別のものを作り出しました。それは、徹底的な宙づり状態に置かれなければならないと彼が述べたあらゆる知が彷徨っている領野、彼の名づけていない領野に関わるなにものかです。彼はこれらの知をより広い主体、知っていると想定された主体、神の水準に位置づけます。ご存じのように、デカルトは神の現前を再び導入せざるをえなかったのです。しかしなんという奇妙な仕方でしょう。
そこでこそ、永遠の真理という問いが立てられます。彼の面前に騙す神が決していないことを確かめるために、彼はある神という媒介を経由しなければなりません。ちなみに、そもそも彼の領域で問題になっているのは完全な存在というよりも、むしろ無限の存在です。彼以前の誰もがそうであったようにデカルトもここで次のような要請にとらわれているのでしょうか。つまり、すっかり顕在的となった科学知がどこかに実在するということによって――どこに実在するかというと、それは神と呼ばれる実在する存在にですが――すなわち神は知っていると想定することによって、科学研究全体を保証しようという要請です。(本書下P231~232) 

 そのうえでラカンは、デカルトが主意主義によって、つまり永遠の真理というものが、神の意志に与えられた優位性をもったもの――科学知――によって求められるのだと言う。「永遠の真理が永遠であるのは、神がそう望むからだ」と、それがデカルトの永遠の真理の深淵であると。 

(デカルトは)真理のある部分を、特に永遠の真理を神に任せてしまう・・・デカルトが言いたいのは、そして言っているのは、もし2足す2が4であるとすると、それはただたんに神がそうのぞむからだ、ということです。それは神の業だ、と・・・(本書下P223)》

 以下、ラカンはデカルトが導入した幾何学と屈折工学について述べる。ラカンによると、デカルトは彼の代数学のa、 b、 c などの小文字を、大文字に代えて導入するという。大文字は神が世界をそれを用いて創ったというヘブライ語のアルファベットのことで、それぞれの文字に裏面があり、数が対応しているという。デカルトの小文字と大文字の差異、それはデカルトの小文字は数を持たず、相互に交換可能であり、ただ置き換えの順番だけがその操作を決定する、という。 

〈他者〉が現前することで含意されているものが数の中にはすでにあることを説明するには、数列は潜在的な仕方であれともかくゼロを導入しなければ描くことができない、ということを指摘しておけば十分でしょう。ところでこのゼロ、これこそが主体の現前です。主体というのは、この水準では合算している者です。ゼロを、主体と〈他者〉との弁証法から引き出すことなどできません。この領野の見かけ上の中立性が欲望の現前そのもを覆い隠しているのです。(本書下P235) 

精神分析、宗教、科学 

 ラカンはこの講義の終盤で、精神分析について語っている。精神分析がどこまで科学に還元でき、どこからできないかと。そしてこの問題の曖昧さが、精神分析が含んでいる、ある種の科学の彼岸に気づくことによって説明されるという。ある種の科学の彼岸とは、それを超えたもの、つまり、前出のデカルトのそれ、近代的な意味での科学「なるもの」のことである。
 この彼岸ゆえに精神分析は、形式と歴史のうえでしばしば似ているといわれる、教会さらには宗教の中に分類されかねない、とラカンはいう。 

人間が、この世界の中での、そしてその彼岸での己の実存について問いを立てる諸々の様式の中で、宗教、つまり自らを問いに付す主体の存在様式としての宗教は、それに固有の、しかも忘却の印を帯びたある次元によって区別される、ということです。宗教という名に値する宗教はどれも、操作的なあるものを保存することをその本質とするような重要な一つの次元があります。そして、それは秘蹟と呼ばれています。(本書下P318)

 秘蹟とは目に見えない神の恵みを、特定の儀式という「しるし」を通して信者に与えるものであり、カトリック教では教会をとおして行われ、7つの秘蹟が定められている。①洗礼(せんれい):罪が赦され、神の子として生まれ変わる儀式、②聖体(せいたい):パンとぶどう酒(キリストの体と血と信じる)を分かち合う儀式で、神と信者の結びつきを深める。③堅信:神の恩寵を受け、信仰心を強め、神の愛を実感する儀式、④ゆるし(告解・悔悛):犯した罪のゆるしを与える儀式、⑤病者の塗油:聖なる油を塗って、信者の身体と心の病の痛みや苦しみを和らげ、癒す。⑥結婚:一組の男女が互いに助け合い、生涯にわたる愛を約束する儀式。⑦叙階:司教、司祭、助祭になるための儀式で、教会を導く役割を授かる。
 ラカンは宗教がもつ秘蹟という操作性を「魔術的な刻印を見いだす」とさえいう。そして秘蹟という操作性の次元こそが、宗教の内部で、我われの理性や我われの有限性の無力、あるいは分離という完璧に定義された理由のために、忘却の刻印を押されたものでることに気づかされるという。精神分析がもしも自身のおかれている状況の基礎づけとの関係で宗教と同じように忘却を被っているのであれば、精神分析はセレモニー(儀式)という形で、宗教と同じ空虚な局面とでもいうべき刻印を押されることになるだろうと。そして、精神分析を以下のように位置づける。 

精神分析は宗教ではないのです。〔中略〕精神分析は、主体が自らを欲望として経験する中心的欠如の中に身を投じています。精神分析は、主体と〈他者〉の弁証法の中心に開いた裂け目の中に、危うい懸け橋のような境位を持っているとさえ言えます。精神分析はなにも忘却すべきものを持っていません。なぜなら精神分析は自分がそのうえに操作を加えていると主張しなければならないような、そういった実体を認める必要性を有していないからです。(本書下P317)

2025年8月23日土曜日

映画『教皇選挙』

 ●エドワード・ベルガー〔監督〕 ● ピーター・ストローハン〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 


カトリック教についてしっていることは少ない。全世界14億人以上の信徒を誇るキリスト教最大の教派であり、ローマ教皇と呼ばれる宗教上の最高指導者が教団のトップにいて、信徒ばかりか世界にそれなりの影響力を与えていることくらいか。教皇は、神と信徒のあいだいにあり、神の代理人のような存在なのかもしれないし、イエスのそれかもしれない。カトリック教においては、神-イエス―教皇-信徒という垂直的位階があるのかどうか・・・ 


東京カテドラル

カトリック教についてもう一つ、その財力が桁違いに大きいことを知っている。プロテスタントの教会を預かる牧師は、とりわけ教会員が少ない日本では、教会を維持することは難儀だという話を聞いたことがあるが、カトリック教会にはその心配がないという。同派の総本山ローマから潤沢な支援金が送られてくるからだと。カトリック東京大司教区の司教座聖堂・東京カテドラル(聖マリア大聖堂)は荘厳な建築で知られている。

※   ※

さて、この映画は、カトリック教の最高指導者教皇が亡くなり、次の教皇が選ばれる過程を描いた物語だ。新教皇を決める教皇選挙「コンクラーベ」に世界中から100人を超える候補者たちが集まり、新教皇は投票で決められる。投票は別名、選挙である。つまり、選挙ならば、「コンクラーベ」も例外ではなく、選挙のシステムが稼働する。新教皇を目指すもの、多数派に属して、新教皇から受けられる利益を追求するもの、いくつかの派閥が形成され、票が割れる。陰謀、差別、スキャンダルを互いに暴き合い泥仕合となる。

「コンクラーベ」は、選挙を執り仕切る者(ローレンス枢機卿/映画の主人公)が候補者であることもできるという不思議な選挙制度である。「民主主義」の選挙ならば、中立の立場にある選挙管理者が選挙事務を取り扱うのが普通であるのだが。

「コンクラーベ」は厳格な選挙規約があり、候補者は外部から遮断された建物に宿泊し、夜間は厚い壁で仕切られた部屋に缶詰め状態にされる。もちろん携帯電話等は取り上げられ、世間の情勢、情報は遮断される。だが、ローレンス枢機卿は選挙の仕切り屋という立場から、派閥の仲間と密談ができ、前教皇が残した秘密文書にアクセスすることができ、恐るべき陰謀等を知る・・・結末はネタバレになるから書けない。 

※   ※ 

ローマ法王庁は組織であり、それを構成する教皇、枢機卿等も私利私欲にかられたただの人間。神の代理人という権威・権力を求めつつ、世間(全世界)からのスキャンダルをおそれる俗人であることを映画を通じて知ることができる。〔完〕 


2025年8月19日火曜日

映画『ゆきてかへらぬ』

  


●根岸吉太郎 〔監督〕 ●田中陽造〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 

 天才詩人・中原中也(1907~1937)、鬼才の批評家・小林秀雄(1902~1983)という、日本文学史に残る巨星二人を愛し、愛された長谷川泰子。この映画はそんな三人を描いた物語だ。 

 三人の関係については、日本の近現代文学に関心がある者たちにはよく知られている。泰子は駆け出しの大部屋女優。中原と同棲していたが、中原の親友、小林に出会い、中原を捨てる。中原は親友と恋人に裏切られた「口惜しき人」となる。しかし、泰子と小林の生活は長続きせず、泰子は神経症を患い小林は彼女をおいて出て行く・・・ 

 泰子を媒介として、中原と小林の資質のちがい――詩人と批評家という文学に対する向き合い方――が、泰子との接し方の違いとなって彼女を苦しめる、というのが映画の基軸となっている。創作者(中原)と批評家(小林)を定型的・図式的に性格付けをしたうえで、泰子の愛が中原にも小林にも届かぬ不可能性として描かれる。創作と批評の弁証法は止揚されることのない絶望的関係であることを暗示する。 

 創作者と批評家は対立的だ、というのは思い込み――クリシエなナラティブだ。映画のように、詩人(中原)と批評家(小林)が対照的であることもあるし、そうでない場合もある。中原と小林の場合は、たまたま、詩人(創作者)が直情的、破滅的、主観的であり、批評家が分析的、常識的、客観的であったにすぎない。この映画ではそう性格付けされているのだが、両者の資質の違いは、性格(人間性)の違いでしかない。わかりやすくいえば、中原と小林の性格付けと真反対な、つまり常識的詩人もいれば、破滅的批評家もいる。たまたま、破滅的中原と常識的小林が、詩人と批評家だった。 

 中原は、映画のとおりの性格だったようだ。そのことは当時、中原のまわりにいた友人・知人の多くが証言を残している。その一方で、小林については管見の限りだが、その人となりを知るような情報が一般化していない。映画では、自惚れ屋、自信家である一方、繊細で外見を気にする性格の持ち主として描かれている。 

 筆者の邪推にすぎないが、地方出身の中原には、東京人に対するコンプレックスがあったのではないか、と思う。都会人は本音を隠し、軋轢を避け、自己防衛的な傾向がある。田舎の裕福な家庭に育った中原は、都会人の率直でない態度に苛立ち、激しい口論や喧嘩をふっかけ、彼らから隠された本心を引き出そうと労苦したのではないか。東京に生まれ育った小林は、都会人として、対人関係に距離をおく習性を身につけていたのかもしれない。1920~1930年代の地方と東京のギャップはいま以上に大きかっただろう。 

 泰子はどうなのか。映画女優を目指す当時としてはモダンで自立した女性という一面をもちながら、独りではいられない。そして、中原と小林を求めながら、両者に安住することはできなかった。中原と小林は否定的関係にあるが、両者を止揚する男は見つからない。不可能な愛を求めた彼女は独りとなった。 

 この映画のすぐれた視点は、泰子が中原と同棲中、小林が中原宅を訪れ、二人が文学論に熱中して楽し気な様子を見たところで、泰子が不機嫌になるシーンだ。そのとき、中原は「嫉妬しているのか」と泰子をなじる。泰子はまちがいなく嫉妬していたのだ。男同士の恋愛ではない友情というか、ある主題(ここでは文学)について理解しあう者同士の関係に嫉妬したのだ。そのような関係は泰子が永遠に築けないものだからだ。泰子は中原の詩を読み感動したことはあったかもしれないが、小林の評論を読んだことはなかっただろう。難しくて読む気にならなかったかもしれない。中原と小林の関係を壊すには、中原を捨て小林の下に行くしかない。それが中原と小林を超える唯一の手段のように彼女には、思えたのかもしれない。

※   ※

長谷川泰子を演じた広瀬すずが圧倒的存在感を見せ、すばらしかった。木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じたが、二人とも風貌が現代的過ぎて、1920~1930年代の日本人の貌ではない。〔完〕  

2025年8月17日日曜日

お祝いで イタリアン

東大大学院留学生のLuoさん、
修士論文に合格。
おめでとう。



























2025年8月12日火曜日

広陵高校野球部暴力事件に思う

暴力事件発覚までの経緯

 広陵高校野球部内における暴力事件発覚の経緯を確認しておこう。
 今年1月下旬、広陵高校野球部・当時2年生の部員4人による、1年生の部員にたいする暴行や不適切な指導事案(といわれているが、集団暴力事件である)があった。3月上旬、日本高野連は同校野球部にたいし厳重注意処分を発出した。広陵高校は当時、加害対象部員に対し、1ヶ月の公式戦出場を停止とした。その一方、被害部員は3月の夏に転校し、今回の夏の予選の前に、被害部員の方は被害届を警察に提出している。
 今回の「事案」は公表はされていなかったが、8月5日の夏の「甲子園」開会式の前に、SNSなどで部内で暴行があったという情報が飛び交う状況になった。今月6日、「甲子園」の開会式の翌日、学校は暴行不適切「事案」の詳細を公表した。
 ここまでのところで、だれもが疑問に思うのは、なぜ情報が公表されなかったのか、ということに尽きる。高野連はこのことについて、厳重注意処分を原則公表しないという立場をとっているからだと説明する。高野連は公表しない理由について、SNSで個人攻撃をむやみに煽らないため。過ちを犯した未成年を守るためだと。
 広陵高校の対応を振り返ると、前出の今年1月の暴力「事案」に関しては、広陵高校としては調査の結果、関係者に対する指導及び再発防止策を策定して、高野連に報告し1ヶ月の公式戦出場を停止とした。また、高野連はこのような対応があったこともあって、出場を差し止める状況ではなかったと判断したという。
 一方、暴行を受けた被害部員側は、夏の予選前に警察に被害届を提出していたが、警察・広陵高校側は捜査も調査もしていない。高野連も出場を差し止める状況ではなかった、と勝手に判断している。
 ところが、広陵高校野球部内の暴力事件はそれにとどまらなかった。別の暴力事件が、SNSなどで取り上げられ表面化した。この別件とは、去年3月に元部員から「2023年に監督・コーチ・部員から暴力行為を受けた」という申告があったにもかかわらず、広陵高校は調査をしたものの、確認できなかったと結論づけたことだ。申告した元部員は今年2月、高野連にも情報を提供したものの、高野連は、学校側が再調査をした結果、確認はできていなかったと結論づけた。これに対して元部員側は再度要望し、学校側は6月に第三者委員会を設置したというものの、現在調査中で結果の公表の見通しは「不明」なままとなっている。

暴力事件は隠蔽された

 広陵高校野球部暴力事件の真相ははうやむやのまま、同校はどこからもなんら咎められることなく、「無事」、「甲子園」出場を果たし、1回戦に勝利した。
 ところがである、突如、出場辞退を公表した。辞退の理由は、SNSの誹謗中傷などが理由だと広陵高校は表明しているが、筆者はこの辞退理由に納得していない。SNS上による、いわゆる行き過ぎた広陵高校批判は容認できないが、SNSを沸騰させたのは、広陵高校と高野連の暴力容認姿勢にあり、加えて、隠蔽体質が輪をかけた。常識的に考えれば、学校内(校舎、教室、学生寮ほか諸施設)で集団的かつ組織的暴力事件が発生した場合、被害者および学校管理者は警察に届け出て、警察が捜査のうえ加害者が特定されれば逮捕、取り調べを受けるのがふつうだ。部活動の監督・コーチは教員に準じる、教育者ならなおさらのことだ。かりにも彼らが暴力事件を起こしたならば、捜査のうえ逮捕され拘留されることは免れない。加害者が未成年者ならば、処分は少年法に準ずるだけだ。かつて大学体育会内の大麻事件の際、警察は当該大学を捜査し、検察は学生首謀者を起訴している。
 広陵高校側が発した辞退理由もおかしい。広陵高校は出場辞退した理由について、「生徒が登下校で誹謗中傷を受けたり、追いかけられたり、寮への爆破予告などSNS上で騒がれている。生徒らの人命を守ることを最優先し辞退した」という。SNSでは生徒の写真などの投稿も行われているというから、SNS投稿者が悪質化し違法状態にまで沸騰したことはもちろん容認できないが、大衆が怒りを抱いたのは、広陵高校と高野連による事件の隠蔽にある。自分たちの不正を棚に上げ、反省もなければ謝罪もない。〝辞退はSNSのため″とうそぶくのは許しがたいし、責任転嫁がはなはだしい。大衆の怒りを増幅するだけだ。「暴力事件を起こし、それを隠蔽して甲子園に出場するなんて、なんてこった」というのが大衆の怒りの根底にある。 大会辞退は暴力を起こしたことではなく、SNSにあるという「すり替え」が高野連・広陵高校の一貫した姿勢である。

「甲子園」という興行

 「甲子園」という高校生の部活動のひとつである全国野球大会が春夏の全国的規模の風物詩になったのは、主催者の朝日新聞社、毎日新聞社及びその周辺に位置する日本放送協会(NHK)などのマスメディア(新聞、テレビ等)の力だ。
 そもそも高校生のスポーツ大会としては夏のこの時期に開催されるインターハイがある。全国高等学校総合体育大会のことで、全国高等学校体育連盟が主催する高校生を対象とした日本の総合競技大会だ。毎年8月を中心に開催されるが、野球はインターハイの参加競技に入っていない。なぜならば、公益財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)が「甲子園」大会として独立した全国大会を興行しているから。高野連は日本の男子高校野球の統轄組織で、47都道府県の高等学校野球連盟が加盟している。
 高野連の設立と甲子園大会開催の経緯は以下のとおり。
 先の大戦前、全国中等学校野球大会は朝日新聞社、選抜中等学校野球大会は大阪毎日新聞社がそれぞれ単独で主催していた。戦後に再開するにあたって、両新聞社とは別の運営組織が必要になったため、朝日新聞社元社長が毎日新聞社取締役大阪本社代表を誘って、全国中等学校野球連盟を立ち上げた(1946年発足)。その後、戦後改革の一環として、学制改革が実施され、旧制中学が高校、国民学校高等科が新制中学へ改組されると、中等学校野球連盟は新制高校を対象とすることになり、全国高等学校野球連盟(高野連)と改称した(Wikipediaによる)。
 春夏「甲子園」大会を独自のスポーツ興行として目をつけた朝日新聞・毎日新聞の興行者(商売人)としての眼力はそうとうなものだ。第一に、青春を代表する高校生の大会に絞り込んだことが挙げられる。第二が、高校生の野球レベルは低くないことを見抜いたことだ。見るに堪え得るのだ。昔から、高校卒業後、職業野球で通用する高校生を数多く輩出している。
 野球ファンが多い本邦だが、高校野球と大学野球を比較すると、前者が後者を圧倒する。大学野球の早慶戦が世間の注目を集めたのは遠い過去の一時(いっとき)のこと。いまでは大学野球は見向きもされない。大学野球がダメで高校野球が人気を博しているのは、高校が最後の学園生活となる人びとのノスタルジーを誘うことによる。2024年の大学進学率は6割(59.1%)に達する。高いと思うか低いと思うか、受け止めはさまざまだが、専門学校等に進学する者がいるものの、本邦の4割近くは高校で学園生活を終える。年齢層が高くなればなるほど、高卒で社会に出た人の割合は高くなる。「高校」は大学と違って地域に根ざす。大衆のノスタルジーを喚起するに十分すぎる条件を備えている。
 代表校が県単位というのもそのことを象徴する。甲子園夏の大会では、東京・大阪には2校の出場枠が与えられ予選が行われるが、他の道府県の枠は1校だ。一見平等に見える出場枠制度であるが、東京・世田谷区(915,437人)の人口は、都道府県別人口数第47位の鳥取県(553,407人)の1.5倍を超える。東京都の一つの区の人口が一県のそれの1.6倍を超えているのだから、東京都の出場枠が2しかないのは不合理だと思うが、そんなことは気にしないのが「甲子園」大会なのだ。なにより、「甲子園」は郷土(道府県)の代表であることが重要なのだ。
 大学野球は大学が立地する地域に立地する大学間のリーグ戦(たとえば「東京六大学リーグ」)で開催されることが多いから、大学OBや現役大学生等が関心を持つにすぎない。大学野球の人気が凋落したのはそのことのほかに、マスメディアである大新聞が開催に関与しなかったことだ。ただし、マスメディアが興行に関与しながら、高校サッカー(別称「国立」)は「甲子園」ほど全国的人気を博すことができない。なぜならば、NHKが中継放送をしないからだ。つまり、マスメディアとNHKが組まなければ、「甲子園」に至らない。 

「甲子園」の弊害

 マスメディアの報道が「甲子園」という興行を加熱することで、弊害が顕著となっている現実は見過ごせない。なによりも、学校経営者が「甲子園」を生徒集めの経営戦略と位置づけていることだ。本邦の人口減少に歯止めがかからないのは自明のこと。生徒数は減少する。学校経営は苦しくなる一方だから、「甲子園」で知名度を上げ、多くの入学希望者を確保したいと思うのは学校経営者としては当然のように思える。だが、高等学校は言うまでもなく、教育の場だ。野球部を強くすることと、一定の教育水準を維持することが両立できれば問題はないが、そうはいかない。野球の上手い少年を全国レベルで調査し入学させ、寮に閉じ込めて野球に専念させるようでは、そのような高校を教育機関と呼ぶことは難しい。統計的裏付けを必要とするが、甲子園大会出場常連高校とそれ以外の高校の入学出願数を比較したとしたら、おそれく前者の方が圧倒的に後者を凌ぐのではないか。
 こうして「甲子園」の夏の大会出場の予選を勝ち抜くこと、春の大会に選抜されること――すなわち郷土代表校になることが、野球名門校経営者から野球部にたいする至上命令となる。指導者(監督・コーチ)と呼ばれる専門職が確立され、著名な指導者が職業野球並みの鍛錬を高校生に強いる高校もあるようだ。名門校を乗り越えんとする新興高校もそれに負けない対策を講じる。こうして、「甲子園」の名の下に、高校野球は特殊な発展をみせるようになる。 

広陵高校事件の主因

 今回発覚した広陵高校集団暴行およびその隠蔽事件の根っこには、勝つためにはすべてが許されるという、スポーツとは無縁の歪んだ勝利至上主義がはびこる現実がある。この歪みを醸成したのが、前出の朝日・毎日という大新聞、日本公共放送および周辺のマスメディアだ。高校生の部活動を興行として成功させるため、新聞紙、電波、映像を駆使して大衆を洗脳する。高校生の純真なスポーツだと印象操作するその裏には、歪んだ大人の事情があって、集団的・組織的暴力事件すら隠蔽してしまう。「甲子園」は主催者・関係者にとって利益が上がる優良コンテンツであり、かつ高校経営者が生徒を集めるための経営戦略の一環にすぎない。高校の野球部のどこが強かろうが、弱かろうが、高校教育とは、一切、関係がない。

 筆者は、「甲子園」が日本の野球レベルを向上させているか否かの判断を保留する。筆者は、「甲子園」を通過しない道程、すなわち、インターハイの競技に野球が追加され、インターハイ程度の報道のされ方のまま、高校生が自由に野球というスポーツに取り組めるような環境が整備された方が、スケールの大きな野球選手が輩出されるような気がしてならない。もちろん、高校生が大人の金儲けの犠牲にならないことがなによりだと思う。
 高校生が学業の余暇時間に野球というスポーツに自然体で取り組めるよう、周囲が静かに見守れるような状況を本邦においてつくりあげること、カネ儲けから離れたふつうの部活動としての高校野球を確立すること――はかなり難しかろうが、あきらめてはいけない。〔完〕

2025年8月9日土曜日

2025年8月8日金曜日

短歌008

 


2025年8月5日火曜日

短歌007