●ジャック・ラカン〔著〕 ●岩波文庫 ●780円・1010円(+税)
ラカンは以下のように切り出して、講義を始める。
主体の心理は、主体が主人の立場にいるときでも、主体そのものの中にあるのではありません。〔中略〕それは対象の中に、隠された本性を持つ対象の中にあります。この対象を現れさせること、〔後略〕。
このことこそ、ここで指摘するにふさわしい、しかも私がそれについて証言できる場所から指摘するにふさわしいと思われる次元です。(本書上巻P18)
主体の心理が隠された本性をもつ対象の中にあるのは、本題にある四基本概念――「無意識」「反復」「転位」「欲動」から求められ、結論を言えば、それは〈他者〉ということになる。
意識哲学と間主観性
ところで、〈他者〉については、哲学において深められていった。バーバーマスである。彼はハイデガーの『存在と時間』の影響を受け、デカルトから始まった「意識哲学」を「間主観性」の方向に先験的に克服しようと試みる。ここでいう「意識哲学」とは、ヨーロッパの近代哲学の主流である、意識や自我を中心とする哲学のことである。
デカルトは「精神」が人間の本質であると考えた。精神は思考するものであり、自分以外のすべてをカッコに入れることができる。身体や他の精神との関係はさしあたって問題にならない。カントにおいても、「自我」は世界の中に存在するのではなく、世界を超越し、自分の側から世界を「構成」するという面をもつ(超越論的自我)。「意識哲学」とは、このように、世界や他者から孤立した主観を起点とする思想である。
ハーバーマスはそれに対して、「間主観性」という二十世紀になってから誕生した哲学の新しい流れに注目する。それは、フッサールの現象学の創始を嚆矢とする。フッサールは、わたしたちが「生活世界」において他の人々との交流の中で生きていること、この他者との関係性がまっさきにあるのであって、わたしたちの認識はこの関係性のなかではじめて生まれ、分節化されることを指摘する。これが「間主観性」の思想である。しかし、フッサールには、超越論的主観による世界構成という発想がまだ残っていた。ハイデガーは『存在と時間』で、わたしたちは「世界内存在」であり、つねにあれこれのものに「関心」を持ちながら生きているのだと明らかにした。これには「間主観性」の思想を押し進める意味があった。
ところが、ハイデガーの『存在と時間』は、他方では、むしろ人間の単独性を強調するアピールをも含んでいた。それによると、わたしたちは日常的には世界や他人の中に埋もれて「非本来的」な生き方をしているが、自分が「死への存在」であることを知り、それをばねに、他人となれあうことのない「本来性」にめざめなければならないと。第一次世界大戦の衝撃から、近代的理性の限界を思い知らされたヨーロッパの人々に、このハイデガーの実存論の哲学は、力強くアピールした。
しかし、ハーバーマスは、『存在と時間』のこの部分については、後期のハイデガーの思想に対すると同じく、否定的である。というのは、近代の疎外ないし物象化は、ハイデガーのような「本来性」へ向けての英雄的脱自の呼びかけによっては解決できないからである。『存在と時間』は結局のところ、近代の主観主義を克服していないどころか、それが保っていた個人の「責任」の自覚を捨て去ってしまう点で、いっそう危険でさえあったのである。
ハーバーマスは「間主観性」から出発し、ハイデガーを乗り越えようとコミュニケーション論を自身の思想の集大成として完成する。彼はコミュニケーション的合理性を実践する場として、討議を提案する。たとえば社会規範の正当性が疑問視されたとき、討議が開催される。討議においては、当事者すべて参加し、それまで経験的に妥当してきたものの効力を停止し、各人が妥当要求を掲げて自己主張し、より良き論拠だけを権威として認める。討議には、理論的討議、実践的討議、治療的討議の三種がある。そして、ポスト慣習的で多文化社会において、普遍性をめざす道徳は、行為規範の内容を直接的に規定することはできず、普遍の規範を決定するための手続きなど、間接的な側面についてだけかかわる。規範を決定するのは、すべての当事者が対等な立場で参加する、実践的討議においてである。最後にすべての参加者が同意しうる規範だけが、妥当なものとして認められる。
ラカンとデカルト
ラカンはこの講義でデカルトについて論じている。
デカルトが確信という概念を初めて使用したとき、この確信は思惟の「我思う」に全面的に由来しており、似たものでは決してない二つのもの、すなわち懐疑論と知の消滅との間にあって、出口を持たないという特徴を持っているのですが、彼の間違いは、それこそが知であると信じたところにある、と言えるでしょう。つまり、この確信について何か知っていると言ったこと、「我思う」をたんなる消滅の点にしなかったことにある、と言えるでしょう。反対に彼は別のものを作り出しました。それは、徹底的な宙づり状態に置かれなければならないと彼が述べたあらゆる知が彷徨っている領野、彼の名づけていない領野に関わるなにものかです。彼はこれらの知をより広い主体、知っていると想定された主体、神の水準に位置づけます。ご存じのように、デカルトは神の現前を再び導入せざるをえなかったのです。しかしなんという奇妙な仕方でしょう。
そこでこそ、永遠の真理という問いが立てられます。彼の面前に騙す神が決していないことを確かめるために、彼はある神という媒介を経由しなければなりません。ちなみに、そもそも彼の領域で問題になっているのは完全な存在というよりも、むしろ無限の存在です。彼以前の誰もがそうであったようにデカルトもここで次のような要請にとらわれているのでしょうか。つまり、すっかり顕在的となった科学知がどこかに実在するということによって――どこに実在するかというと、それは神と呼ばれる実在する存在にですが――すなわち神は知っていると想定することによって、科学研究全体を保証しようという要請です。(本書下P231~232)
そのうえでラカンは、デカルトが主意主義によって、つまり永遠の真理というものが、神の意志に与えられた優位性をもったもの――科学知――によって求められるのだと言う。「永遠の真理が永遠であるのは、神がそう望むからだ」と、それがデカルトの永遠の真理の深淵であると。
(デカルトは)真理のある部分を、特に永遠の真理を神に任せてしまう・・・デカルトが言いたいのは、そして言っているのは、もし2足す2が4であるとすると、それはただたんに神がそうのぞむからだ、ということです。それは神の業だ、と・・・(本書下P223)》
以下、ラカンはデカルトが導入した幾何学と屈折工学について述べる。ラカンによると、デカルトは彼の代数学のa、 b、 c などの小文字を、大文字に代えて導入するという。大文字は神が世界をそれを用いて創ったというヘブライ語のアルファベットのことで、それぞれの文字に裏面があり、数が対応しているという。デカルトの小文字と大文字の差異、それはデカルトの小文字は数を持たず、相互に交換可能であり、ただ置き換えの順番だけがその操作を決定する、という。
〈他者〉が現前することで含意されているものが数の中にはすでにあることを説明するには、数列は潜在的な仕方であれともかくゼロを導入しなければ描くことができない、ということを指摘しておけば十分でしょう。ところでこのゼロ、これこそが主体の現前です。主体というのは、この水準では合算している者です。ゼロを、主体と〈他者〉との弁証法から引き出すことなどできません。この領野の見かけ上の中立性が欲望の現前そのもを覆い隠しているのです。(本書下P235)
精神分析、宗教、科学
ラカンはこの講義の終盤で、精神分析について語っている。精神分析がどこまで科学に還元でき、どこからできないかと。そしてこの問題の曖昧さが、精神分析が含んでいる、ある種の科学の彼岸に気づくことによって説明されるという。ある種の科学の彼岸とは、それを超えたもの、つまり、前出のデカルトのそれ、近代的な意味での科学「なるもの」のことである。
この彼岸ゆえに精神分析は、形式と歴史のうえでしばしば似ているといわれる、教会さらには宗教の中に分類されかねない、とラカンはいう。
人間が、この世界の中での、そしてその彼岸での己の実存について問いを立てる諸々の様式の中で、宗教、つまり自らを問いに付す主体の存在様式としての宗教は、それに固有の、しかも忘却の印を帯びたある次元によって区別される、ということです。宗教という名に値する宗教はどれも、操作的なあるものを保存することをその本質とするような重要な一つの次元があります。そして、それは秘蹟と呼ばれています。(本書下P318)
秘蹟とは目に見えない神の恵みを、特定の儀式という「しるし」を通して信者に与えるものであり、カトリック教では教会をとおして行われ、7つの秘蹟が定められている。①洗礼(せんれい):罪が赦され、神の子として生まれ変わる儀式、②聖体(せいたい):パンとぶどう酒(キリストの体と血と信じる)を分かち合う儀式で、神と信者の結びつきを深める。③堅信:神の恩寵を受け、信仰心を強め、神の愛を実感する儀式、④ゆるし(告解・悔悛):犯した罪のゆるしを与える儀式、⑤病者の塗油:聖なる油を塗って、信者の身体と心の病の痛みや苦しみを和らげ、癒す。⑥結婚:一組の男女が互いに助け合い、生涯にわたる愛を約束する儀式。⑦叙階:司教、司祭、助祭になるための儀式で、教会を導く役割を授かる。
ラカンは宗教がもつ秘蹟という操作性を「魔術的な刻印を見いだす」とさえいう。そして秘蹟という操作性の次元こそが、宗教の内部で、我われの理性や我われの有限性の無力、あるいは分離という完璧に定義された理由のために、忘却の刻印を押されたものでることに気づかされるという。精神分析がもしも自身のおかれている状況の基礎づけとの関係で宗教と同じように忘却を被っているのであれば、精神分析はセレモニー(儀式)という形で、宗教と同じ空虚な局面とでもいうべき刻印を押されることになるだろうと。そして、精神分析を以下のように位置づける。
精神分析は宗教ではないのです。〔中略〕精神分析は、主体が自らを欲望として経験する中心的欠如の中に身を投じています。精神分析は、主体と〈他者〉の弁証法の中心に開いた裂け目の中に、危うい懸け橋のような境位を持っているとさえ言えます。精神分析はなにも忘却すべきものを持っていません。なぜなら精神分析は自分がそのうえに操作を加えていると主張しなければならないような、そういった実体を認める必要性を有していないからです。(本書下P317)