2025年8月19日火曜日

映画『ゆきてかへらぬ』

  


●根岸吉太郎 〔監督〕 ●田中陽造〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 

 天才詩人・中原中也(1907~1937)、鬼才の批評家・小林秀雄(1902~1983)という、日本文学史に残る巨星二人を愛し、愛された長谷川泰子。この映画はそんな三人を描いた物語だ。 

 三人の関係については、日本の近現代文学に関心がある者たちにはよく知られている。泰子は駆け出しの大部屋女優。中原と同棲していたが、中原の親友、小林に出会い、中原を捨てる。中原は親友と恋人に裏切られた「口惜しき人」となる。しかし、泰子と小林の生活は長続きせず、泰子は神経症を患い小林は彼女をおいて出て行く・・・ 

 泰子を媒介として、中原と小林の資質のちがい――詩人と批評家という文学に対する向き合い方――が、泰子との接し方の違いとなって彼女を苦しめる、というのが映画の基軸となっている。創作者(中原)と批評家(小林)を定型的・図式的に性格付けをしたうえで、泰子の愛が中原にも小林にも届かぬ不可能性として描かれる。創作と批評の弁証法は止揚されることのない絶望的関係であることを暗示する。 

 創作者と批評家は対立的だ、というのは思い込み――クリシエなナラティブだ。映画のように、詩人(中原)と批評家(小林)が対照的であることもあるし、そうでない場合もある。中原と小林の場合は、たまたま、詩人(創作者)が直情的、破滅的、主観的であり、批評家が分析的、常識的、客観的であったにすぎない。この映画ではそう性格付けされているのだが、両者の資質の違いは、性格(人間性)の違いでしかない。わかりやすくいえば、中原と小林の性格付けと真反対な、つまり常識的詩人もいれば、破滅的批評家もいる。たまたま、破滅的中原と常識的小林が、詩人と批評家だった。 

 中原は、映画のとおりの性格だったようだ。そのことは当時、中原のまわりにいた友人・知人の多くが証言を残している。その一方で、小林については管見の限りだが、その人となりを知るような情報が一般化していない。映画では、自惚れ屋、自信家である一方、繊細で外見を気にする性格の持ち主として描かれている。 

 筆者の邪推にすぎないが、地方出身の中原には、東京人に対するコンプレックスがあったのではないか、と思う。都会人は本音を隠し、軋轢を避け、自己防衛的な傾向がある。田舎の裕福な家庭に育った中原は、都会人の率直でない態度に苛立ち、激しい口論や喧嘩をふっかけ、彼らから隠された本心を引き出そうと労苦したのではないか。東京に生まれ育った小林は、都会人として、対人関係に距離をおく習性を身につけていたのかもしれない。1920~1930年代の地方と東京のギャップはいま以上に大きかっただろう。 

 泰子はどうなのか。映画女優を目指す当時としてはモダンで自立した女性という一面をもちながら、独りではいられない。そして、中原と小林を求めながら、両者に安住することはできなかった。中原と小林は否定的関係にあるが、両者を止揚する男は見つからない。不可能な愛を求めた彼女は独りとなった。 

 この映画のすぐれた視点は、泰子が中原と同棲中、小林が中原宅を訪れ、二人が文学論に熱中して楽し気な様子を見たところで、泰子が不機嫌になるシーンだ。そのとき、中原は「嫉妬しているのか」と泰子をなじる。泰子はまちがいなく嫉妬していたのだ。男同士の恋愛ではない友情というか、ある主題(ここでは文学)について理解しあう者同士の関係に嫉妬したのだ。そのような関係は泰子が永遠に築けないものだからだ。泰子は中原の詩を読み感動したことはあったかもしれないが、小林の評論を読んだことはなかっただろう。難しくて読む気にならなかったかもしれない。中原と小林の関係を壊すには、中原を捨て小林の下に行くしかない。それが中原と小林を超える唯一の手段のように彼女には、思えたのかもしれない。

※   ※

長谷川泰子を演じた広瀬すずが圧倒的存在感を見せ、すばらしかった。木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じたが、二人とも風貌が現代的過ぎて、1920~1930年代の日本人の貌ではない。〔完〕