ランチはトルコ料理
2023年3月4日土曜日
2023年2月17日金曜日
『古代都市』
●フェステル・ド・クーランジュ〔著〕 ●白水社 ●6800円(本体6602円)
印欧語族の宗教
クーランジュ(1830 - 1889)は、原初の宗教のあり方が死者(祖先)崇拝として始まり、それを基盤として家族宗教が成立したと考えた。祖先崇拝とは、死者の肉体は朽ちても魂(霊)は埋葬された地下世界で生前と同じような暮らしを続けるという信仰に基づく。霊魂にたいして家族が尊敬と崇拝をつづけるかぎり、霊魂は家族を守り、かつ、安寧、幸福、富を約束する。ゆえに残された家族は、祖先にむけて、生前同様、御馳走、酒、そして祖先がめでた品々をそなえ続ける。家族の祈りの場は、家族の生命を維持する神聖な場所=竈(かまど)であり、火(聖火)と水(聖水)も併せて祈りの対象となる。そればかりではない。祖先が眠る場所は家族の聖なる領域であり、隣人等が侵入することが許されない。なぜならば、隣の家族にはその祖先すなわち別の神が住んでいるのだから、隣人との境界はおかすべからざる区分線として、それを監視する神もいた。
この宗教はヨーロッパ人の祖先とされる印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)すなわちアーリア人と呼ばれるものの信仰である。なお、アーリア人は中央アジアを原郷とし、やがて西のヨーロッパと東のインドに移動した部族と、イラン高原あたりにとどまった騎馬民族だとされる。現在ではインド・イラン・ヨーロッパ語族という言い方に変わりつつあるようだが、本稿では従来の印欧語族もしくはアーリア人の表記で統一する。 フランス人のクーランジュにしてみれば、印欧語族は遠い祖先にあたる。またフランスは古代ガリアと呼ばれたローマの属領であった。本書はクーランジュが自らのルーツを探し求めながら認めた可能性もなくはない。
父は祭司である
印欧語族の家族宗教を執り行う者すなわち司祭は父の役割とされた。家族はいうまでもなく、父・母・子どもで構成される。子供は母から産まれるのであるから、母親が家族の中心となって不思議はない。ところが、クーランジュが研究対象とした前出のアーリア人においては母ではなく父が家族の主権者(男系)であり、最初に生まれた男児に家族宗教の主権が引き継がれる。その理由について次のように説明する。
・・・注意しなければならないひとつの特長がある。それは家族宗教が男系にしかつたえられなかったことである。これは、うたがいもなく、男子だけが子孫を生産するという思想に関連していたにちがいない。[….]原始時代の信念では、生殖力は父だけに属すとおもわれていた。父だけが生命の神秘な原質を有し、生命の火花をつたえると信じていた。このふるい思想の結果として、一家の祭祀はつねに男系にだけつたえられ、女は父や夫の仲介によってこれにあずかるにすぎない。死後でさえ、女は祖先崇拝と神殿の儀式において、男子と同じ待遇をあたえられないことが規定されていた。この思想はさらにまた私法や家の構成にも種々の重要な結果をまねいたが、それは章をおってのべることにしよう。(P72)
引用のとおり、著者クーランジュが、本書第一編「古代の宗教」第四章「家族宗教」の最後に予告した、父そしてその長男へと引き継がれる家族宗教の構造こそが本書を貫く基本概念であることに注目する必要がある。
父が家族宗教の司祭となった理由はなんなのだろうか。常識的には、父=成人男性は体力にすぐれ、外敵から女子供を守ることができる、あるいは、獲物を狩る能力が高いためと解釈されるかもしれないが、そうではなく、あくまでも祭祀の中心すなわち宗教的権威が備わっていたからだという。
古代家族の成員を結合したものは、血統や感情や体力よりもさらに強力な […] 竈と祖先との信仰である。そしてこの信仰は、全家族を現世生と他界とを通じて一体となるにいたらせた。古代の家族は自然の結合である以上に、宗教的な結合であった。(P77)
父による宣誓の言葉という儀礼的行為
産まれてきた子供は、もともと女性の胎内に宿り、やがて出産する。子供の親は母であることは疑いようがない。にもかかわらず、父のほうが母よりも親権において優先する。ここが本書の肝にあたると筆者には思えるのだが、この部分に関するクーランジュの説明はじゅうぶんではない。「宗教的な結合」で片づけてしまった感を否めない。そこを大胆に解釈したのが大田俊寛である。大田は次のように書いている。
・・・母親と子供の関係が誰の目にも明らかであるのに対して、父親と子供の関係は、実はきわめて不確かなものである。しかし […] 宗教の「発明」とは言わば、このような「父の不確かさ」を、融通の利く制度性へと巧みに転化させることであった、と考えらえることができるだろう。
古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立するとされたのである。(『グノーシス主義の思想』(P38)
さてここで、アーリア人の家父長制(パターナリズム)と、日本の天皇制を含む世界規模の男系君主制との共通性を思い浮かべることが避けられない。また、2000年代初頭から始まった、現代日本における戦前の家父長的家族制度回帰へのバックフラッシュ(日本会議、統一教会等)を関連づけたい誘惑にかられるわけだが、その関係を考察・検証するに足る能力・知力を筆者はもちあわせていない。よって本稿では見送ることとする。
古代の社会と宗教
クーランジュは古代人の時代を次のように想像する。「おのおのの家に祭壇があり、その周囲に家族が集う。竈の周囲に、家族は毎朝、毎夕祈りをあげるためにあつまる。昼は一同竈をかこんで祈祷と灌祭ののちに経験なきもちで神と食事をともにする。そして、家族はどんな宗教上の儀式にも、祖先から伝承する賛歌をうたう。」
古代人にとって正規の社会を建設することがどんなに困難であったかをおもわなければならない。きわめて雑多で気ままで移り気なこれらの人類のあいだに、社会的な関係を確立することは容易ではなかったであろう。彼らに共通の規則をあたえ、命令を発し、服従を承諾させるためには、また、情念を理性に屈服させ、個人の理性を公共の理性に服従させるためには、物質的な力よりもさらにつよく、利害関係よりもさらにとおとく、哲学的理論よりもさらに確実で、因襲そのものよりも不変ななにものかがなければならなかった。それはあらゆる人の心の底に根をおろして、全能な権力をもって支配するものであるべきであった。
このなにものかが、すなわち信仰であった。人の霊魂に対してこれより強力なものはない。信仰はわれわれの精神の所産であるが、随意に変更することはできない。信仰はわれわれの創造になるものであるが、われわれは、そのことにすら気づかない。信仰は人間的なものではあるが、われわれはこれを神であると信じている。信仰はわれわれの力の結果であるが、われわれよりもはるかに強力である。信仰はつねに心の中にあって決してはなれることなく、たえずわれわれにはなしかける。信仰が服従を命ずるときはこれにしたがい、義務を指示するときはこれに服する。人類は自然を征服できるが、自分の思想には奴隷のように屈従する。
さて、古代の信仰は祖先崇拝を人類に命じた。祖先崇拝は家族をひとつの祭壇の周囲にあつめた。これから最初の宗教や最初の祈願、義務の観念および道徳が生じ、所有権が設定され、相続順位が確定したが、あらゆる私法と家族制度のすべての規則もここから派生したのであった。ついで、信仰が大きくなり、人々の結合もこれにならって大きくなった。人類はめいめいのあいだに共通の神があることを知るにしたがって、ますます大きな団体に結合する。家族内で発見され設定された諸規則が順次に支族や都市に適用されていった。(P193~194)
古代人の宗教の特質とその効果とは、人知を絶対の観念にまで向上させることでもなく、あくなき人間精神に光明の道をひらいて、そのはてに唯一の神を瞥見させることでもなかった。この宗教は小さな信仰とめんどうな宗礼とわずらわしい儀式との不調和な集合であった。それは意味をもとめるべきものでもなく、反省し理解すべきものでもなかった。宗教という言葉の意味は、現在とはまったくちがっていた。この言葉によって、われわれは一連の教理と神についての教義とわれわれの内部や周囲にある神秘に対する信条とを意味するが、古代人にあっては、義務となって絶大の権力をふるった。宗教は奴隷をつなぐ鎖のような、実質的な紐帯であった。人間はみずから宗教をつくって、かえってそれに拘束された。そして極度に宗教をおそれて、これを推理することも議論することもできず、また正視することさえかなわなかった。神々や神人や死者は人間に物質的な礼拝を要求したので、人々は小心翼々として負担をはらい、そして神々の友情を維持しようとした。というよりむしろ、神々から敵視されないように心をくだいた。(P247)
家族から支族、部族への拡大 古代都市の成立
こうした時代が何年、何世代、何世紀続いたのかはわからない。やがて同じ祖先の神を祀る家族はおおきな集団を形成し、氏族から支族、そして部族へと拡大する。部族は一カ所に集住し、共通の祭壇(竈)を据え、都市を建設する。都市のなかに祭壇と竈を中心とした神殿(聖域)を築く。クーランジュはそこを「都会」と呼ぶ。この訳語はなじみにくいのだが、「都会」の意味する内容を理解するしか仕方がない。都市では、部族に共通する神につかえ、祭祀を執り行う王が選ばれる。王を選ぶのは部族の長であり、彼らは貴族階級を形成する。ここまでが古代都市の完成の経緯である。
一方、家族宗教すなわち祖先崇拝に変化がおとずれる。人びとは、祖先すなわち神という信仰から、より巨大なものを神として戴くようになる。自然である。人知・人力が及ばない強い風雨、洪水、火山噴火、険しい山、海、巨木といった自然とその景観、太陽、月、星といった天体に神を見出していく。さきまわりして言えば、それらをも統べる唯一絶対の神へと宗教は変容していくのであるが、それはかなり先のことである。
古代、都市を律したのは竈の宗教だった
都市の誕生にあたり、都市自身がその採用する政治形態を考え、法律を求め、制度をえらんだと想像してはならない。法律が制定され、政府が樹立されたのは、かような方法によったのではないからである。都市の政治制度は都市そのものとともに、日をおなじうしてうまれた。都市の成員は、めいめい自分のうちにこの制度をもっていた。これはめいめいの信仰と宗教のうちに萌芽として存在していたのである。
宗教は竈がつねに最高の祭司をもつことを命じた。祭司の職が数個の竈を兼任するのは、宗教のみとめることではなかった。家族の竈には、その家族の父である祭司長があり、支族の竈には「クーリオ」または「フラトリアルコス」があり、各部族もおなじく宗教上の首長をもち、アテナイ人はこれを部族の王とよんだが、同様に都市の宗教にも神官長がなければならなかった。
この公共の竈の祭司は国王という名をおびていたが、また他の称号もあたえられた。彼はなによりもまず市長館の祭司であったから「市長」とよばれ、ときにはまた「執政官」ともいわれた。この国王・市長・執政官などの種々の名称のもとには、とくに祭祀の首長としての人物をみとめなければならない。彼は竈を維持し、犠牲奉献をなし、祈祷をとなえ、正餐を司会するものであった。
イタリアとギリシアの古代の国王が、国王であると同時に神官であったことはあきらかである。(P255)
この君主政体の構成原理はきわめて単純で、[...]君主政体は祭祀の法則そのものから派生した。聖火の竈をすえた都市の建設者は、当然最初の神官であった。そのはじめにあっては、世襲こそ祭祀授受の不変の法則であった。竈が家族のものであると都市のものであるとをとわず、宗教はこれを維持する権利が父から子へつたわるべきであると命じた。神職はしたがって、世襲的で、権力もこれにともなったのであった。(P258~259)
古代都市の首長や国王は力でその地位についたのではなかった。その地にまず国王となったものが、幸運な軍人であったというのも真実ではない。王権は、アリストテレスがはっきりいっているように、竈の礼拝から由来した。宗教は家族の首長をつくったと同様に、都市の王もつくった。信仰は、絶対的でかつ命令的な信仰は、竈の世襲的な祭祀を、同時に聖器の保管者とし、神々の守護者とした。かようなものに対しては、どうして服従をためらえたであろうか。国王は神聖な存在であった。(P259)
都市は戦時にあってもっとも勇猛なものや、平時にあってもっとも手腕があり、もっとも正義をおもんずるものをもとめずに、神々から寵愛されるものを希望した。(P267)
(ギリシア人・ローマ人・インド人にあっては)法律がはじめ宗教の一部であっ(た。(P272)
人は良心にたずねて、「これはただしい、これはただしくない」というべきではなかった。古代法はこのようにしてうまれたのではない。人は神聖な竈が宗教上の法則によって父から子へつたえられると信じていた。家屋はそのため世襲財産となった。父を畑にほうむったものは、死者の霊魂が永久にその畑を所有し、子孫に永遠の礼拝を要求すると信じていた。その結果、死者の領地であり犠牲奉献の祭場である畑は、一家の譲渡できない財産となった。宗教は「息子は祭祀を継続するものであるが、娘はしからず」という。これに応じて法律は「息子は相続し、娘は相続せず。男系の甥は相続し、女系の甥は相続せず」という。法律はこのようにしてうまれた。法律はもとめてえられたのではなく、自然にあらわれたもので、信仰の直接かつ必然的な結果であった。人間相互の関係に適用された宗教そのものであった。(中略)古代人の真の立法者は人間ではなく、そのいだいていた宗教的信仰であったからである。(P274)
・・・古代の都市で人々が自由を享受していたというのは、人類のあらゆるあやまりのうちでももっとも奇妙なあやまりである。古代人は自由という観念の片鱗さえももたなかった。古代人は都市とその神々に対抗して、わずかな権利でも手にいれようとは決して考えなかった。われわれはやがて政府が何度か改造をかさねたことをのべるであろう。しかし、国家の性質は依然としておなじで、その至上権はほとんど減少しなかった。政府は君主政体、貴族政体、民主政体と名をかえたが、これらの革命はどれもひとびとに真の自由、すなわち個人的自由をあたえたものではない。公権を有し、投票をなし、行政官(アルコン)を任命し、執政官となる権利を有する、これがいうところの自由であった。しかし人々は依然として国家に隷属していた。古代人、とくにギリシア人は、つねに社会の重要性とその権利とを誇張したが、これは社会がその初期におびた神聖な宗教的特質から由来するものであったことはうたがうべくもない。(P327)
革命
完成をみた古代都市であるが、やがて次の変化が起こる。クーランジュはそれを革命と名づけた。古代都市の内部変化を準備した要因はいくつかあるが、古代家族における相続権が長男にしかなかったことが挙げられる。次男、三男等は土地すら宗教的に相続できなかった。前述のように、家族宗教は祭祀を執り行う父から長男にのみ、司祭としての宗教的権威に併せて財産が受け継がれた。それ以外の息子、娘、妻に正式な財産継承の権利が生じなかった。そのため、宗家は分家と宗家の被護民、さらに、その下にいる奴隷を所有するという、膨大な人数の団体を形成していたのである。その一方、相続できない分家のなかには没落を余儀なくされるものも少なくなく、そのとき、被護民、奴隷も放り出された。下層階級が発生したのである。〔後述〕
・・・古代の家族は、自身の神々と祭祀と祭司と行政官とを抱合したもので、これよりも堅固に構成された組織を創造することはできない。また、古代の都市もきわめて強大で、独自の宗教と守護神と独立した祭司職とをもち、人々の霊魂と肉体とに号令して、現代では国家と教会とに両分されている二重の権力をあわせもち、現代の国家にくらべてはるかに強固なものであった。もし社会のうちに文字どおり永続を目的としてつくられたものがあるとすれば、それこそまさしくこのような社会である。しかし、この社会も、人間のいとなむすべての事柄とひとしく、一連の革命を経過しなければならなかった。(P332)
クーランジュは革命の起源を紀元前7世紀以降だと推論する。革命の主因は、①人知のおのずからなる発展にともない、おおくの歳月のあいだに生じた思想上の変遷。これが古代の信仰を抹殺すると同時に、古代の信仰によって築かれた、かつそれが唯一の支柱となっていた社会組織を同時に倒したこと、②都市の組織から除外された人々の階級があった(事実)こと〔前述〕。この階級はそのためにくるしみ、都市の組織をこわすことに重大な関心をもって、たえず戦いをいどんだ。
言うまでもなく、古代の社会は階級と差別と不平等で貫かれていた。父-長男が祭祀・司祭・相続・支配を独占していた。家父(パーテル)と分家(パーテルをたどれる階級=パトリキウス)は従属的関係にあった。また、僕卑といわれる家に隷属する「被護民」または「傭奴」といわれた。パーテルをもたない階級が存在した。僕卑は何代たどっても僕卑であった。長兄(パーテルの直系)→分家=パトリキウス(パーテルをたどれる階級)→僕卑(パーテルをたどれない階級)という順位である。
さらに古代都市には庶民という階級が形成されていった。庶民とは戦争に敗れて隷属させられた元住民という後代発生説)と、家族宗教をもてない、もしくは、もたない人びと(私生子、祭祀・祭司を執り行えなくなった家族、罪悪をおかし竈に近づけなくなった者、などなど)。つまり古代の家族宗教成立に同時発生した集団という説の2説があるが、その両方かもしれない。古代都市は〈貴族&被護民〉⇔〈庶民〉という構造を有していた。
古代の階級差別は宗教からうまれた
ギリシア人、イタリア人、インド人の祖先がいまだ中央アジアでともに生活していた時代に、宗教が「祈祷は長子がささぐべし」と命じたからである。これから万事について長子の優越性が生じた。おのおのの家族においても長子の家が神官となり支配者となるべき家であった。しかし、長子の家は弟たちの分家をも相当考えにいれていた。分家は長子の家が断絶したあかつきには、かわって祭祀をまもるべき予備軍であったからである。宗教はまた被護民や奴隷をすら多少は考えにいれた。彼らも宗教上の儀式を補佐したからである。しかし、庶民はすこしも祭祀にたずさわらないものであるから、宗教はまったくこれを眼中におかなかった。階級の別はかように固定されたのである。(P344~345)
第一次革命は、政治上の権威を国王から貴族がうばうものであった。宗教上の権威のもと、あらゆる権力を掌握していた国王だったが、やがて、実力を蓄えた貴族(部族・支族の長)によってその座を追われ、祭司の職におかれるという権力の交代がおきた(第一次革命)。宗教的権威=王権の座は維持したが、実権を失って、神職という限定的地位におかれるようになった。宗教的権威によって一元化されていた国王の権力は有力な貴族集団の手(テセウス)に移った。
「テセウスはアテナイの政治をかえて、君主政体から共和政体にあらためた」というのである。アリストテレス、イソクラテス、デモステネス、プルタルクスなどはみなそういっている。かような表現はやや虚偽的であるが、そのうちには一応の真理がふくまれている。テセウスは、伝説のいうように「最高の権威を人民のてにゆだねた」のであった。ただ伝説が保存した「人民(デーモス)」という言葉はテセウスの時代には、デモステネスの時代に見るようなひろい意味をもっていなかった。この人民すなわち政治団体は、当時では、貴族階級のことにほかならなかった。すなわち氏族の首長全体をさす言葉であった。(P351)
たとえばアテナイでは、王権(宗教)と執政官(政治)の並立から、9つの部門へと権力が分散化した。これを「9執政官の時代」(国王+軍司令官など8つの部門の長すなわち8執政官の並立)という。
第二次革命
王権を滅ぼした第一次革命は、政治の外形を変更したにすぎなかった。下層階級はこの革命に参加していないのだが、都市という貴族的に構成された共同団体に変化が訪れる。まず人々が結合して都市を構成するようになると同時に、古代の首長の権力は当然減少する。家族のなかで最高の権威をもっていた家長だが、都市のなかでは一個の成員にすぎなくなったからである。下層の者は、家族の長である貴族の権威の低下をみるようになる。そして、貴族(氏族)社会の家族結合の条件であった長子権が消滅した。この変化がいつごろ、どのように起きたかは明らかにされない。クーランジュは、《この変化はまずある家族の内部に徐々におこり、さらに他の家族にもおこり、ついには全部の家族におよんで、いわばだれも気づかないうちに完成したのである。それにより、分家は独立し家族宗教の核は消えた。
この氏族の解体は重大な結果をのこした。きわめてかたく結合し、強力に組織され、かつ絶大な権力をもっていた古代の宗教的家族は、永久にその力をよわめられてしまった。この革命は他の種々の変革を準備し、かつそれをさらに容易にしたのである。(P370)
第三次革命
都市に次の革命(第三次革命)が準備される。家族組織が解体し、宗教的権威を失った貴族だが、彼らは自らの階級の法律と宗教と政治的社会の維持にきゅうきゅうとし、他方に下層階級を主体とする結合が生じ、互いが敵対する分断と対立が表面化するようになった。そして庶民階級は貴族階級に対抗するため、かつて権力の座を貴族に奪われた国王を支持したのである。都市において、下層階級は自ら首長をえらび、それを国王と呼ばず僭主と呼んだ。この呼称は宗教的権威を含まない。つまり祭祀に由来しない権威、宗教によって確立されたのではない権力を意味するものであった。
そのことと同時的に下層階級の経済的地位の向上があった。下層階級は土地を耕す以外の仕事、すなわち職人、船乗り、製造人、商人が生じ、そのなかから富裕なものが出現した。
実に奇妙な新現象である! かつては氏族の首長だけが土地を所有していたのに反し、いまは以前の被護民や庶民階級のものがとみさかえて、その富を誇示するようになったばかりかでなく、驕侈の風潮は、庶民をとませるとともに、貴族を貧困におとした。おおくの都市、とくにアテナイでは、貴族団体に属する一部のものが、みじめなほどの窮乏におちている。おもうに、一社会において、富の所在が、変わりつつある場合には、旧来の階級的序列は逆転する寸前にあるのである。(P392)
もうひとつの変化は戦争における戦術の変化だという。都市の歴史の初期段階の戦闘は兵車や騎馬が主力だった。歩兵は役立たず尊重されなかった。兵車や騎馬を独占したのが貴族階級だった。貴族は「騎士」の称号をあたえられた。ロムルス(ローマ建国の伝説上の初代王)の「騎馬親衛隊」すなわちローマ初期の騎士はすべて貴族であった。しかし、歩兵が次第に重要性をおびるようになった。武器製造の進歩と軍規の改善により、歩兵が騎兵を凌駕するようになったのである。ローマの軍団兵、ギリシアの装甲歩兵は騎馬よりも機動性に富み、その操作も容易であった。そしてそれらを構成したのが庶民だったのである。《一国の社会的・政治的状態はつねにその軍隊の性質および組織と関連するものである。(P393)》
庶民の家族はみずから竈をすえた。その火はみずから点じたか、あるいは他からの聖火をもらってきたものであっただろう。その家族は貴族にならって祭祀と聖殿と守護神と神職とをもつようになった。また、家族は家族の祭祀をもたないかわりに、都市の神殿を拝祀することができた。ローマでは、竈をもたず、したがって家族の祭祀をもたないものどもは、クイリヌスの神に生贄をささげた。上流階級が下層階級をちかづけることを承知しないときには、自分たちのために神殿を建立した。
紀元前6世紀からギリシアおよびイタリアにはいってきた東洋の祭祀は庶民から熱心にむかえられた。それは仏教のように、どんな階級や人民をも差別しない宗教であった。最後には庶民はしばしば貴族からなる支族や部族の神々と類似した崇拝の対象をつくることがあった。(P394)
ローマでも同様であった。都市内部では貴族と下層階級の分断と対立がしばらく続いたが、けっきょくは下層階級の要求がすべて受け入れられ、貴族階級は宗教上の優越までもうしなった。彼らと庶民とを区別するものはまったくきえて、貴族階級は単なる名称か追憶にすぎないものとなった。他のすべての都市と同様に、ローマの都市の基調をなしていたふるい諸原則は全部跡をたった。ひさしいあいだ人間を支配し、階級の別を確立していた古代の世襲的宗教は、もはや外形をとどめるにすぎなくなった。庶民は共和時代と王政時代とを通じて四世紀のあいだこの宗教とたたかい、ついに征服したのである。(P424)
都市政体の消滅
古代都市の変遷を大雑把にふりかえると、まずきわめて古い宗教がはじめ家族をつくり、ついで都市をなした。その宗教はまずはじめに家族の法則と氏族の政治を設定し、さらに都市の法規と政治を確立した。国家は宗教と密接にむすびついていた。すなわち国家は宗教から生じ、宗教と混同されていた。そのために、初期の都市では、政治上の制度はすべて宗教上の制度であった。祝典は祭祀の儀式とみられ、法律は神聖な形式にほかならず、国王と行政官は神官であった。また同様の理由により、個人の自由はまったく知られず、人は自分の良心をさえ都市の絶対権のほかにおくことができなかった。さらにまた、国家が一都会の範囲にかぎられ、建国のさいに国家の神々が定めた囲墻(いしょう)をこえて伸びることができなかったのもこの理由にもとづく。おのおのの都市は単に政治上の独立ばかりでなく、独自の祭祀と法典をもっていた。宗教も法律も政治もすべて都市を単位とした。都市は唯一の活力で、それより上に位するものも、下に位するものももたなかった。国家間の結合もなく、個人の自由もなかった。(P484)
クーランジュはこのように総括したのち、このような政体がどうして消滅したのかを明らかにする。その理由のひとつが精神的・知的事実の部類に属し、もうひとつは物質的事実の部類に属するという。前者は信仰の変化であり、後者はローマの制覇(帝国の成立)である。これらの変化はどちらも紀元前5世紀のあいだいに発展し完成した。
ギリシア人を例にとると、人々は、デルフィーやデロスなどの大きな神殿にひきつけられ、地方的な神々への礼拝をわすれた。また、神秘教とその教義が空虚で無意味な都市の宗教を軽蔑する習慣をあたえた。神の概念も変容した。人々はジュピターの名で呼んでいた多数のちがう存在が、けっきょくはただ一体のおなじ存在にすぎないことをついにさとった。神がひろく人類全般に属し、宇宙を支配するものであることも理解されるようになった。詩人は都会から都会へと巡礼し都市のふるい賛歌のかわりに、天と地の偉大な神々の伝説をうたった。これは芸術の所産、自由な想像になるものであった。
つぎに現れたのが哲学である。ピタゴラス、アナクサゴロスはすべての人類と実在を支配する「英知」の神の存在を理解していた。その後に現れた詭弁学者、ソクラテスそしてプラトン、クリトン、アンティステネス、スぺウシポス、アリストテレス、テオフラストスその他多くの学者は、政治学に関する論文を書いて、国家の組織、権威と服従、義務と権利などの大問題を人々の前に示した。続いて犬儒学派、ストア派が議論を進めた。ゼノンは各個人が市民としてではなく単に人間として権威をもっていること、法律に対する義務以外に自分に対する義務があること、および最高の功績は国家のために生きかつ死ぬことではなく、徳をつんで神をよろこばせることと教えた。
ローマの制覇
(1)ローマ初期の拡大
ギリシアとイタリアにあった無数の都市のうちで、とくに一都市だけが傑出して他のすべてを征服しえたことは、一見はなはだおどろくべきことのようにおもわれる。しかし、この重大な事件も、人間がいとなむあらゆる事象を決定する、ありふれた理由により説明できる。つまり、ローマの賢明さは、どんな種類の賢明さもそうであるが、そのであう有利な環境を十分に利用した点にあった。(P494)
クーランジュによると、ローマは雑多な種族が連合して結合していた都市であったという。ラテン人、トロイア人、ギリシア人、サビナ(サビニ)人、エトルリア人である。ローマの最初の王はラテン人であったが、第二の王は、伝説が伝えるところによれば、サビナ人、第五代の王はギリシア人の息子、第六代はエトルリア人であったという。言語おいてもラテン語が主流であったが、ギリシア起源をはじめ多種多様であり、そもそも「ローマ」という名称もトロイアの言葉であるという説もあるという。家系、血統、祭祀も多種多様で、ローマの家族の名称がその種々の起原の雑多さをしめしている。結果、ローマ人の国家的祭祀もまた多種多様の集合で、そのおのおのがローマをどこかの国民と結びつけていた。
ローマの住民は各種族の混合であり、その祭祀は多数の祭祀の集合であり、国家の聖なる竈は多数の竈の連合であった。ローマは国家の宗教によって他のすべての都市の宗教から孤立させられなかった唯一の都市であるといっても過言ではない。ローマはイタリアとギリシアとの全体と関係していて、ローマ人の竈にちかづかせられない国民はほとんどなかったのである。(P497)
BC753~350年が、ローマ初期の拡大期にあたる。都市宗教がいたるところで勢力をふるっているあいだは、ローマは幾世紀にわたってその政策を宗教に順応させた。ローマの拡大戦略の第一は隣国サビナ人と結婚する権利を得ることだとされる。サビナは現在のローマの北部にある都市である。ローマの最初の王ロムルスがサビナの祭祀を執行し、そのあいだにサビナの婦人を略奪したという伝説が残っている。その後、ローマは長い戦闘の期間に突入する。まずアルバを征服しアルバがラティウム(現在のローマの地にあった都市(ラテンの語源でもある)の30の植民地に対して行使していた権利と主権を受けつぎ、母市としての地位を得る。サビナとロムルスが合体して強力なローマになったのである。
ローマが強大化した主因は、クーランジュによると、征服したすべての国民を自国に合体させたことにあるという。ローマは占領した都会の人民を本国につれかえって、徐々にローマ人にした。それと同時に、征服した国々へ植民をおくり、この方法によって全世界へローマの種をまいた。また、ローマの政策の特色のひとつとして、近隣の都市のあらゆる祭祀をとりいれたことである。ローマは他のどんな都市よりもおおくの祭祀と守護神をもつことが、ローマの念願であった。
(2)ローマの主権獲得の顛末
ローマが各都市の神々をとりこむことによって、けっきょくのところ、いたるところの都市制度を破壊し消滅させた。
ローマの都市が時代をおうてどのように発展したかというと、《ローマは元来貴族と被護民とをもつにすぎなかったが、ついで庶民階級がこれにくわわり、さらにラテン人、イタリア人をあわせ、最後に地方諸州の人民を包含した。この大変動をきたすには単に征服だけでは十分ではなく、緩慢な思想上の推移や、歴代皇帝の慎重でしかも不断の譲歩や、個人的な利害関係の圧力が必要であった。そしてあらゆる都市が徐々にきえさり、最後にのこったローマの都市そのものもいちじるしくかわって、十二の大国民がひとりの宗主のもとに結合されるようになった。都市制度はこうして崩壊したのである。(P523)
そして、クーランジュは《この都市制度(古代都市制度のこと)のかわりにどんな政治組織があらわれたか、この変化がその初期にはたした人民に有利であったかどうかということは、この書物の関知するところではない。われわれは古代人の設定したふるい社会形態が永遠に消滅したかぎりとして筆をおかなければならない。(P523)》と結んだかにみえたが、最終章として、「キリスト教が政治の諸条件にあたえた変革」をつけくわえている。
キリスト教の出現は、従来の宗教より高尚で、物質的性質のすくないものとなった。昔の人々は人間の霊魂や自然の偉力を神としたが、いまや神は、その本質において、人間の性質および自然の世界とはまったく関係のないものであると考えられはじめた。神は画然と可見の自然のそとに、そしてまたそのうえにおかれた。いまや神は唯一のもの、無限なもの、普遍的なものとしてあらわれ、その唯一の神だけが世界に生命をあたえ、人の心にある崇拝の欲求をみたすべきものと考えられはじめた。
(中略)
キリスト教は […] 特定の家族の宗教でもなく、特定の都市ないし民族の宗教でもなかった。キリスト教は特殊な一階級や一団体の宗教ではなく、その出現のはじめから人類全体にむかってよびかけた。イエス・キリストは弟子たちに対して「行きて、すべての国々の民におしえよ」といった。(P528~529)
この普遍性こそが、キリスト教と旧約という聖典を共有し唯一神を信ずるという共通点をもつユダヤ教との決定的ちがいである。ユダヤ教はユダヤの民しか信仰できない民族宗教であり、ユダヤの神殿にはほかの民族ははいれない。キリスト教の神は人類共通の神、人類は共通の父からでたものである。
キリスト教のもうひとつの特長は、政治に無関心であったことである。イエスは「余の権威は現世を支配すべきものではない」と教え、宗教と政治とを画然と区別した。「カエサルのものはカエサルにかえし、神のものは神にかえせ」とつけ加えたのである。それと同時に、キリスト教は利害関係に関与しなかった。
クーランジュの「キリスト教」はローマ皇帝コンスタンティヌス一世がミラノ勅令を発する(311年)以前の黎明期のものであり、キリスト教がローマ帝国の国教となったこととそののちのキリスト教については触れていない。そのことも「この書物の関知するところではない」のであろう。(完)
2023年2月11日土曜日
2023年2月9日木曜日
2023年2月3日金曜日
2023年1月24日火曜日
『永遠のファシズム』(その2) 「他人が登場するとき」「移住、寛容そして堪えがたいもの」
●ウンベルト・エーコ〔著〕 ●岩波現代文庫 ●1020円+税
(一)他人が登場するとき
本書序によると、本編はカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(1927~2012) からエーコへの質問、《倫理の絶対性を構築するためには、〈形而上学的原理〉もしくは超越論的価値にも、普遍的に有効な〈至上命令〉にも依拠しないとするなら、道徳的行動に出るとき、あなたの確信と命令は何に基づいているのでしょうか?》に対する返書とのこと。マルティーニ枢機卿は《当時司教会議議長の職にあり、開明的な論客として、教皇庁外からも人望を集めていた(本書注/136P》という。
あらゆる文化に共通する根本原理とは、空間におけるわたしたちの肉体の位置である
エーコは22歳まで(ある断絶の瞬間を迎えるまで)、カトリックの強烈な刻印を受けていたことを告白している。そのうえで、次のような疑問を呈する。
この歳になってわたしは、ある外国のカトリックの大学で(そこでは、宗教教育に携わらない教授たちの募集においても、宗教的・学問的な儀礼典礼に正式に則った従順の意思表示を最大限要請しているのです。)、同僚たちが〈実存〉を信じることもなく、したがって告解することもなしに、秘跡に近づくのを目にしました。そのとき、何十年も経っているというのに、わたしは戦慄をもって冒涜の恐怖を感じたのです。(本書P122)
そのうえでエーコは"「宗教的ではない宗教性」が何に基づいているのかを申し上げることはできる"と論を進め、"「記号論的一般概念」、あるいは言語によって表現されるような全人類に共通する基本的な根本原理が存在するのかどうかということ″へと読む者を導く。エーコが導き出したその解すなわちあらゆる文化に共通する根本原理とは、"空間におけるわたしたちの肉体の位置に関わっている"ことだと結ぶ。
エーコによると、人間が直立歩行する動物であることから、高い・低い(前者を後者より優位にとらえがち)という概念を共通に理解しているという。同様に、右・左、静止状態と歩行状態、立脚状態と横臥状態、這うことと跳ぶこと、起きていることと寝ていること -- などの違いを理解しているとも。そして、手足をもつことが頑丈なものを叩くこと、柔らかな物体や液体の中に入り込むこと、グシャグシャにつぶすこと、トントンと叩くこと、こなごなにすること、蹴とばすこと〔後述〕、そして踊ること、さらに、見ること、聞くこと、食べること、飲むこと、吐き出すこと・・・知覚すること、思い出すこと、欲望、恐怖、孤独、安心、喜び、悲しみを感じること、そしてこういった感情を表す音を発すること・・・がなにを意味するかを、だれもがわかっているのだと。
つぎに権利の領域として、束縛とは、好きなことをだれかがじゃますること、だれかが縛ったり、隔離を強制したり、殴ったり、傷つけたり、殺したり、思考力を減退させ、あるいは停止させるような精神的肉体的な拷問を加えることに苦痛を感じるのだと。エーコが示した肉体の位置および肉体の各部分が引き起こす諸現象が意味するもの -- から、人類共通の根本原理(文化、倫理、道徳、価値観など)が創出されていったということになる。
サッカーは人類共通の基本原理からの逸脱 -- 精神と肉体への拷問
ここで横道にそれて、エーコの言説をスポーツ論に応用することにする。筆者が注目したのは、前出の足で〈蹴る〉という動作が人類共通の根本原理だとする部分だ。ならば、サッカー(というスポーツ)はおそらく、人類共通の根本原理に基づく。
いや違う!サッカーは、人類共通の根本原理から逸脱または逆立したスポーツではないか。なぜならば、サッカーではゴールキーパー/GKという一人の選手を除くと手を使えない。球体(ボール)を手を使わずに扱うことはとても難しいうえに、それを狭いスペース(ゴール)に蹴りこまなければいけない。加えて、それを邪魔する相手(守備)がいて、さらに前出のGKがゴールを守る。まさに束縛に束縛を重ねたスポーツがサッカーだ。ボールをただ蹴って遠くに飛ばすこと、いくばくかのスペースにフリーで入れるのであれば、それは楽しいゲームだっただろうに。
エーコが言う"束縛"つまり"好きなことをだれかがじゃますること"がサッカーの神髄だ。サッカーをする者(選手)ばかりではない。それを見る者(観客)は、応援するチームが容易にボールをゴールに入れられないという、精神的拷問に長時間耐える。
サッカーは、やるほう・みるほうの双方にストレス(拷問)を与える競技だと定義できる。だからそこから解き放たれた時、すなわち一方が得点を上げたとき、選手も観客も拷問状態から解放された喜びを爆発させる。得点を上げた選手の大げさなパフォーマンス、観客席の大騒ぎ -- それがサッカーの熱狂と興奮の源泉だ。
おなじボールゲームであるバスケットボールと比較してみよう。プロバスケットの試合で上げられる両チーム合計得点数(40分間/10分×4回。ハーフタイム等を除く)は双方合計で150点以上。プロサッカーの場合、90分(45分×2回。ハーフタイムを除く)で0~2点どまり。両チーム合計で4点を超えることはまれだ。バスケットの得点数はサッカーと較べると桁違いに多い。バスケットの選手が得点を上げても冷静でいられる理由は前出の通りだ。サッカーが世界中で人気を呼ぶばかりか、フーリガンという暴力集団を呼び寄せるのも、このスポーツが束縛/解放のメカニズムを有しているからだろう。
わたしたちを定義し、形づくるのは、他人であり、その視線である
肉体の位置から獲得された記号論的人類共通の根本原理はエーコによると、倫理学の基礎になっているという。
わたしたちはなにより他人の肉体の権利(これには話すことや思考することも含まれます)に敬意を払わなければなりません。もしわたしたちの仲間がこの「肉体の権利」に敬意をはらっていたら、幼児の虐殺も、競技場のキリスト者たちも、聖バルトロメオの虐殺の夜も、異端者たちへの火刑も、強制収容所も、検閲も、鉱山で働く子どもたちも、ボスニアでの女性に対する凌辱も、存在しなかったはずです。(中略)
あなたもまた、有徳の非信者に対して、他人とはわたしたちのなかにいると説いています。しかし問題は、漠然とした感情的傾向ではなく、「根本形成」条件なのです。[....]わたしたちを定義し、形づくるのは、他人であり、その視線なのです。[....]他人を殺し、強姦し、盗み、蹂躙するものでさえ、特殊な状況ではこういったことをするにしても、それ以外の場面では、仲間からの同意や尊敬や称賛を乞い、かれらが辱めた人間にまで、不安や隷属の認識を求めます。[....]もしも、だれもが互いの顔に目もくれず、互いに存在しないかのごとく振る舞う、と制度的に定められた社会に生きるとするならば、ひとは死ぬか、正気を失うことでしょう。(本書P125~127)
続いてエーコは他人(の肉体)を慮らない文化(すなわちカニバリズムや虐殺を是認するような)が存在した理由について、単に「他人」という概念をある部族の(あるいはある民族の)コミュニティーのなかに限定して位置付け、「野蛮人」を非人間的存在とみなしていたためだと説明する。
十字軍でさえ、異教徒たちをさして愛すべき隣人とは感じていませんでした。他人の役割を認識すること、つまり他人のなかにあるわたしたちにとって拒絶不可能な欲求を尊重することが必要だと分かるようになったのは、千年をかけた成長の賜物なのです。キリスト教の愛の掟が明確に表現され、なんとか受け入れられるのも、時が成熟したときだけなのです。(本書P127~128)
「非宗教的倫理学」とは自然の倫理学である
エーコは、われわれが肉体をもち魂をもっていると本能的に知っているのは他人の存在があってはじめて可能であるといい、それを「非宗教的な倫理学」と定義する。それは結局のところ自然の倫理学であり、不信心者も否認しないものだとする。そしてそれは、正しい成熟と自意識に導かれた自然の本能に基礎づけられたものだとも。以下のエーコの言説は感動的でさえあるので、長いが引用する。
カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿、[....]神は必要ないという仮定をほんの一瞬でも信じてみてください。人間が不器用な偶然の過ちによって地上に現れ、死ぬ運命にあるばかりか、その認識を持つことを余儀なくされ、そのためにあらゆる動物のなかでもっとも不完全なものである[....]と。この時人間は、死を待つ勇気を得るため、かならずや宗教的動物になるはずです。そして、模範的なイメージや説明とモデルを人間にもたらすことのできる物語をつくろうと心から願うでしょう。そして想像することのできるイメージ[....]のなかで、定めの時に到達することによって、キリストのモデルを、普遍的な愛を、敵への赦しを、他人を救うために生け贄に捧げられた生命を思い描く宗教的・道徳的・詩的な力をもつようになるのです。(本書P134~135)
自然の倫理は、超越性の進行に根ざした倫理学的原理と一致し、それは「非宗教的倫理学」と言い換えられ、不信心者も否定しないものである。
(二)移住、寛容そして堪えがたいもの
本篇第一節「第三千年紀の移住」は、西暦2000年を迎える直前(1997年1月)に行われた学会発表の冒頭部、第二節「不寛容」はおなじく1997年3月に行われた国際フォーラムの開会講演、第三節「堪えがたいもの」は、雑誌『レプッブリカ』に掲載された小論だ。軍事法廷がプリブケ(ナチの戦犯)に判決を下した際(1998年3月)に掲載された。
(1)第三千年紀の移住
ミレニアムをむかえようとする1990年代末、西欧キリスト教圏ばかりか、それ以外の地域をも巻き込んで、世界中の人々が不安と興奮に包まれた。そんな世情について、エーコはややシニカルな論評を加える。不安を代表する事象がコンピュータの誤作動騒動だったが、けっきょくはほぼ何も起きなかった。いまとなっては懐かしい思い出のひとつとなって記憶されている。
コロンブスがアメリカを「発見」したのではない、アメリカ先住民がコロンブスを発見したのだ
西暦2000年はキリストの誕生を起点とする。もちろん、実際に生まれたわけではないことをだれもが承知している。エーコはこの件についておもしろい「事件」を紹介してくれる。17世紀、プロテスタント教徒イザーク・ド・ラ・ペレールは、中国暦はヘブライ暦よりはるかに古いことを解明したうえで、原罪はアダムの末裔たちにのみ関わるもので、そのはるか以前に生まれた他の民族には関係しないという仮説を立てた。結果、ペレールは異端宣言を受けたが、エーコは《今日ではだれも疑問すら抱かない事実にかれが反応していたことにはちがいない。すなわち、それぞれの文化において効力をもつ各々の年代の数え方は、どれもそれぞれ神々の紀元と歴史記述を反映していること。そしてキリスト教の暦法はそのなかのひとつにすぎない。(本書P140~141)》と、ヨーロッパモデルの普遍化に注意を促している。「キリスト誕生」以前にヨーロッパ(地中海海域)にはいくつもの文明が栄えていたが、それを紀元前(Avnti Christo)と数えることも同様だ。
もうひとつ、エーコの機知にとんだヨーロッパ・モデル批判は笑える。《コロンブスのアメリカ「発見」は、アメリカ先住民がコロンブスを発見したのだ》。
管理された〈移民〉、自然現象としての〈移住〉
ミレニアムの到来を間近にした当時のヨーロッパ・モデルにおける劇的変化は、アジア・中東・アフリカといった周辺地域からの人々の流入であり、この潮流は21世紀の今日まで継続している。エーコは他地域からの人々の流入について、〈移民〉と〈移住〉という区別をして考えることを提案している。前者はある国から別の国へ移動する場合をいい、政治的には計画的に行うことも受け入れることも可能だ。日本帝国は明治維新からアジア太平洋戦争開始前まで22万人をハワイに移民させた。一方、後者は暴力的であれ友好的であれ、自然現象として発生し、いったん発生すればだれも統制できない。
歴史的には、コーカサスの民の移住(インド・ヨーロッパ語族の移住のことか)、そして誰もが知るローマ帝国への「蛮族」の移住があり、ヨーロッパからアメリカ大陸の移住があった(東海岸からカリフォルニアのルートと、カリブ海、メキシコからコノ・スール〔注1〕のルート)。
〔注1〕コノ・スール;スペイン語で「南の角」。チリ・アルゼンチン・ウルグアイで形成される南米三角地帯を指す。また、広くブラジル南島部、ボリビア及びパラグアイの一部をふくむ用法もある。
エーコによると、これらの移住では、移住民たちは出身地の文化や習慣をうけつぐのではなく、新たな文明を築き、それに第一世代(生き残った人々)までが適応したという。またアラブ起源の民によるイベリア半島への移住のように、中断されたものもあった。移民は移民先の国がもつ習慣の大部分を受け入れるときだけであり、移住者たちが移住した土地の文化を根本的に変えるときには、「移住」ということばが用いられる。
ミレニアム以降、ヨーロッパは多民族大陸、「有色」大陸になる
エーコの「予言」(今日、ほぼそのとおりになっているのだが)によると、ヨーロッパは多民族大陸、「有色」大陸になる。ヨーロッパ人が望めばそのとおりになるし、望まなくてもやはり、そうなると。エーコはこのような複数文化の対立あるいは衝突が流血をもたらすことを不可避の事態であり長期間にわたると確信する。しかし、その間、ヨーロッパの人種主義者は絶滅するともいう。つまり、人種主義者がヨーロッパの有色大陸化に抗おうが、それはむだな抵抗だというのだ。そのことの歴史的事例として、500年間続いたローマ帝国を挙げる。ローマはガリア人、サルマーシア(サルマティア)人、ヘブライ人がローマ市民となり、アフリカ人が帝国の玉座に座ったではないかと。そのことに抗おうとした古代ローマ貴族は歴史に敗北を喫した人物にすぎなかった。
ローマ文明は混血の文化だった。人種主義者はだから堕落したのだと言うかもしれない。だがそのために五百年の歳月を必要としたのだ。わたしにはこれが、わたしたちの未来のための計画を実行可能にする時間のはばに思える。(本書P148)
500年続けば、その次のヨーロッパのあるべき姿を描き、つくりあげる時間としてはじゅうぶんすぎるというわけだ。
(2)不寛容
エーコは不寛容について、それと似たような概念である原理主義と教条主義の違いから説きおこし、ポリティカル・コレクトネス(PC)、人種主義へと論を進める。
原理主義
原理主義についてエーコは"キリスト教における聖書を字義どおり解釈しようとする決意によって特徴づけられた"と、また教条主義については"宗教的・政治的立場である"という。また、"原理主義と伝統主義が原則として保守的であるのに対し、教条主義のなかには進歩主義者や革命派と気脈を通じる者がいる"とも。
原理主義はキリスト教に限られたものではなく、ある経典のすべてを受け入れ、それを字義通り実行しようとするかぎり、イスラム教にもマルクス・レーニン主義にもあてはまる。また、教条主義においては、かつて中国共産党とソ連共産党が論争したとき、ソ連共産党は中国共産党を「毛沢東教条主義」と批判したように、それが「立場」を指すというエーコの指摘はわかりやすい。
PCは新たな原理主義
エーコは次に、アメリカにおける「ポリティカリー・コレクト(PC)現象」をとりあげる。PCはこんにちの日本において、「ポリティカル・コレクトネス」として定着しつつある。PCは一見すると「倫理的」な態度、姿勢のようにみえる。「#Me Too」「Black Lives Matter」 「 I can't breathe 」といったふだんづかいの短い言葉を掲げ、たとえば性暴力や警官によるアフリカ系市民に対する暴力に抗議する社会運動としてアメリカで生まれ定着し、その流れが日本を含めた世界各所に波及した。PCについてのエーコの見解は次のとおりだ。
(PCは)あらゆる差異、宗教的、民族的、性的な差異の認識と容認を促進するために生まれたものだが、原理主義の新たなかたちになりつつある。日常言語をおよそ儀礼的な様態でよそおい、精神を傷つけるような字義について研究する。そして盲人を「目の見えない人」とよぶ繊細さを持ちあわせさえすれば、かれらを差別することだってできるし、なにより〈政治的に正しい〉規則に従わない人びとを分け隔てすることができる。(本書P151~152)
性暴力や人種差別が許されるわけはないのだが、エーコの表現に従えば、「日常言語を儀礼的な様態でよそおう」PCは、倫理的、道徳的、政治的な正しさのように見える思考停止であり、政治的に正しい(規則厳守)という、かたちをかえた原理主義になっているということになる。
人種主義
ナチスそして近年イタリアで台頭している北部同盟〔注2〕という極右政党にふれ、両者が科学的であるかのような体裁をとったことを共通点として挙げる。
ナチスの人種主義はもちろん全体主義だった。みずからは科学的であると喧伝したが、民族理論に関して原理主義的要素は皆無だった。イタリアの北部同盟のような非科学的人種主義は、似非科学的な人種主義と同じ文化的根源をもたないが(実際いかなる文化的根源はもっていない)、それでも人種主義であることに変わりない。(本書P152)
〔注2〕北部同盟;ロンバルト同盟を母体にウンベルト・ボッシにより結成され、その後「同盟」に改称されたイタリアの政党。工業地帯が密集し経済的に優越しているイタリア北部の自治拡大を主張する地域政党。過激な言動や文化的保守性、反共主義、反移民運動などから極右と認識されている。近年は地方主義から外国人移民への排外主義や、ユーロ圏への批判(欧州懐疑主義)に軸を移しているため、2018年、総選挙において郷土主義を想起させる「北部」の名称を外し、「同盟」に改称した。
不寛容とは生物学的根源をもち、表面的な感情的反応に起因する
そこで不寛容である。原理主義、教条主義、似非科学的人種主義は、ひとつの〈教義〉を前提とした理論的な立場だが、不寛容はあらゆる教義の、さらに前提として置かれる。この意味で、不寛容は生物学的な根源をもち、動物間のテリトリー性のようなものとしてあらわれるから、しばしば表面的な感情的反応に起因すると説明する。
こんにちの日本の「ネット言論空間」(言論空間というよりも罵詈雑言空間)に接するとき、エーコが示した、生物学的な動物間の縄張り争い(テリトリー性)のような不寛容さを実感する。国籍、ルーツ、性、価値観、思想性...あらゆる差異を目指して言語の牙を向ける。実際、行動に出る者もいる。《わたしたちが自分と違う人びとに堪えられないのは、わたしたちが理解できない言語を話すからであり、カエルや犬や猿や豚やニンニクを食べるからであり、入れ墨をするからだ...といった具合に(本書153)》。 このような不寛容について、エーコは欲しいものをなんでも手に入れたいという本能と同様、子供の自然さだという。ネットの不寛容な投稿者群はまさに幼児的だ。しかし子どもはしだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく。成長するにつれ、自分の括約筋をコントロールできる(おもらしやおねしょをしなくなる)ように。ところが、からだのコントロールとはうらはらに、寛容は、おとなになってからも、永遠に教育の問題でありつづける。〔後述〕
教育者や言論人たちが、こんにちのネット言語空間の幼児性、不寛容性に警鐘を鳴らし、コントロールを求めながらも、改善の兆しはみられないどころか、不寛容の傾向は強まるばかりである。
その傾向についてエーコは《日常生活の中でひとはつねに差異のトラウマにさらされているからだ(P153)》という。差異のトラウマとは、前出の「自分とは違う」ヒト、モノ、考え方等の継続的経験からくるストレスフルな事象の蓄積による心的影響だ。
野蛮な不寛容さはあらゆる批評的理解と定義を逸脱するもの
専門家が不寛容さの蔓延をとめることに関心を示さない(エーコ流の表現では〝専門家が差異の教義を研究する頻度に比べて、野蛮な不寛容さについて熱心でない”)のは、《それがあらゆる批評的理解と定義を逸脱するものだからだ(本書P153》という。エーコによるとたとえば、欧州における不寛容さの事例である魔女狩りが「教義」となりだしたのは中世よりあとのルネサンス期であり、近代世界になってはじめて、魔女狩りが理論的正当性をうみだしたのだという。また、19世紀途中から似非科学的反ユダヤ主義が全体主義の人類学になり、ジェノサイドとして産業化(システム化されたという意味だろう)として実行にうつされたのは20世紀のことであると。
しかし、このような不寛容さが教義として力を発揮したのは、それ以前に民衆信仰としての魔女狩りが日常的にあったからであり、反ユダヤ主義はゲットーに住む貧民ユダヤ人に対する差別と迫害が欧州全土に日常的にあったからだと説明する。こうした大衆的不寛容さ--自分たちと異なる人びとに対する憎しみ--が後年すなわち近代になり教義として成立したというのだ。
もっとも危険な不寛容は初発の刺激によって出現するもの
エーコはこのような歴史的背景を踏まえ、もっとも危険な不寛容は、いっさいの教義もなしに初発の刺激によって出現するものだという。これに対しては、批判も、理性的議論による抑制もかなわないと。
『我が闘争』の理論的基盤はかなり初歩的な論証を積めば論破できるのだが、そこに提示されたさまざまな理想はどんな反論にも堪え抜いたし、これからも堪え抜くことだろう。どんな批評にももちこたえるのは、野蛮な不寛容に依拠しているからにほかならない。(本書155)
なんともおそろしい断言だ。そして筆者を震撼させたのが次の箇所だ。
さらに恐るべきは、差別の最初に犠牲者になる貧しい人びとの不寛容である。裕福な人びと同士に人種主義はない。金持ちは人種主義の教義を生み出したかもしれないが、貧しい人びとは、それを実践に、危険極まりない実践にうつすのである。知識人たちには野蛮な不寛容を倒せない。思考なき純粋な獣性をまえにしたとき、思考は無力だ。だからといって教義をそなえた不寛容と闘うのでは手後れになる。不寛容が教義となってしまってはそれを倒すには遅すぎるし、打倒を試みる人びとが最初の犠牲者となるからだ。(P156~157)
ならば、野蛮な不寛容を社会からなくすことはできないのだろうか、エーコは不寛容が生物学的、あたかも動物的自然さに起因するといっていた以上、不可能だということなのか。結論としては、前出の子どもが年齢を重ねるに従い、〝しだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく″というところにもどる。教育である。
それでも挑戦してみる価値はある。民族上の、宗教上の理由で他人に発砲する大人たちに寛容の教育を施すのは、時間の無駄だ。手後れだ。だから本に記されるより前に、[....]もっと幼い時期からはじまる継続的な教育を通じて、野蛮な不寛容は、徹底的に打ちのめしておくべきなのだ。(本書P157)
(3)堪えがたいもの
本編については、訳者・和田忠彦の巻末〔解説〕が読者にとって最善のそしてじゅうぶんすぎる助けになるだろう。筆者が敢えて付言すれば、先の大戦末期から終戦におけるエーコの母国イタリアの複雑な立場くらいだと思う。
枢軸同盟から連合国へ--イタリアは敗戦国なのか戦勝国なのか
1922年、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を奪取。1935年10月、エチオピア侵攻、征服、併合。 1936 年 11 月、ナチスドイツと枢軸協定を締結後、 1937 年 11 月にナチスドイツ・日本帝国が結んでいた防共協定に加わった。1939 年 5 月 、ドイツと鋼鉄協約に調印して、同盟関係に軍事規定を加えた正式なものとした。1939年4月にはアルバニアに侵攻・併合し、1940 年 9 月にはドイツ、イタリア、日本が枢軸同盟を締結。しかし枢軸側はしだいに連合国軍に追い詰められていく。
1943年、戦争を主導していたムッソリーニ政権が倒され、新たに樹立したバドリオ政権のもと、連合国への無条件降伏・枢軸国からの離脱を決定。枢軸国から離脱すると、すぐさまナチスドイツ・日本帝国に宣戦布告を行ない連合国として参戦した。
大戦末期、北と南に分裂内戦状態にあったイタリア
その間、イタリアが連合国側につこうとする動きは、ナチスドイツ側も事前に察知しており、休戦声明があると速やかに首都ローマに侵攻し、イタリア軍を制圧し、バドリオ政権によって幽閉されていたムッソリーニを解放、北イタリアに傀儡のイタリア社会共和国(RSI・ Repubblica Sociale Italiana/首都がサロに置かれたことから「サロ共和国」ともいう)を樹立した。
このときからムッソリーニが捕縛・処刑されるまでの間(1943年9月~1945年4月)、イタリア国内は、南の連合国勢力と北の枢軸国勢力で二分される内戦状態にあった。 1945年4月、RSIは連合国に降伏し崩壊した。ムッソリーニは略式裁判でパルチザンの手によって殺害された。
内戦下、ナチ親衛隊が起こした市民虐殺事件
大戦末期の混乱したイタリアで起こったのが「アルディアティーネの虐殺」といわれる1944年3月24日、ローマ郊外の洞窟で、ユダヤ人75人を含む市民335人を虐殺したとされる事件だ。この事件の処理をめぐる戦後イタリアの混乱ぶりを前出の〔解説/本書P175〕に従い以下略記する。
虐殺の共謀者として、イタリア軍事法廷に起訴されたのが元ナチス親衛隊将校、エーリッヒ・プリブケだ。プリブケは1995年11月に逃亡先のアルゼンチンより強制送還されてから9カ月後、時効成立(軍事法廷は50年)による無罪判決が下されたが、ドイツ政府からの身柄引渡し要求を理由に、判決の翌日、再度収監される。以後、イタリア各地で抗議行動が繰り広げられるなか、時効を破棄し再審を命じた最高裁と、それを拒み一般法廷での審査を主張する軍事法廷、さらには「軍事事件」は管轄外とする一般法廷とのあいだで、被告人の押し付け合いがつづいた。その後、プリブケに対しては、97年7月、「複数の殺人」罪により禁固15年(即時減刑措置により5年)の差戻し審判決が、98年3月に、終身刑の控訴審判決が下された。本編は、エーコがプリブケ裁判をめぐって、司法界のみならず、イタリア世論全体が揺れ動いたさなか、日刊紙に寄せられたものだ。
ナチスドイツのユダヤ人虐殺に関する裁判としては、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』が名高いが、プリブケ裁判は大戦末期、前出のイタリアの複雑な政治的状況下で起こった事件であるというところに注目すべきだろう。虐殺者はナチス親衛隊将校であるが、イタリアは大戦時、降伏する1943年までは枢軸国としてドイツと同盟関係にあった。事件は1944年だから法的にはドイツは敵国だが、その1年前まではナチスドイツはイタリアの友軍である。プリブケは敵国軍人なのか同盟国軍人なのか。それだけではない。虐殺があったとき、ナチスの傀儡とはいえ、イタリアは南北に分裂していた。だからアイヒマン裁判のようにユダヤ人がナチを裁くのとはちがう。半世紀前のナチの生きた亡霊のイタリアへの帰還は、かつてのイタリアの複雑な国情を国民によみがえらせた。イタリア司法の混乱ぶりは、その延長線上にあったのではないか。
戦争犯罪を裁くことの困難さ
エーコは戦争犯罪全般へと論を進める。勝者が敗者を裁いたニュルンベルク裁判を越権行為だと断じている(本書P160)。先の大戦中、ナチスはユダヤ人を600万人弱殺害したともいわれている。おそろしい戦争犯罪にちがいない。だから裁判にかけて罪を問うのは当然だろう。日本帝国も中国南京で8万人、重慶で1万2千人、マニラで10万人を虐殺したとされ、東京裁判で日本帝国軍人が裁きを受けた。では広島・長崎への核攻撃はどうなのか。日本各都市への無差別爆撃はどうなのか。無防備の市民を連合軍(米軍)も虐殺したではないか。これらは戦争犯罪ではないのだろうか。 彼らは罪を問われてはいない。
エーコは次のようにいう。
ニュルンベルク裁判という時代を画する事件から、わたしたちはまだすべての結果を得ていない。[...]最後には敗北した王が勝者となった徒弟を抱きしめたとき、あなたたちならどうするだろうか?敗者を捕まえて縛り首にするだろうか?はい閣下、ニュルンベルクを決定した人物は答える。この戦争では忍耐の限度を超えた出来事が起きたとわたしたちは考える。だから規則を変えましょう。しかし忍耐の限界を超えたといっても、それはあなたたち勝者の価値基準に則ったもので、わたしたちの価値基準は違ったのだから、あなたたちはそれを尊重しないというわけか?ええ、わたしたちが勝利をおさめたからには、あなたたちのの価値規準を踏襲して、わたしたちも力を用いよう。あたたたちは縛り首だ。それにしてもこんな裁判が未来の戦争にどんな教訓をもたらすのか?戦争の封印を解くものは、負ければ縛り首にされることを知るだろう。はじめるまえにそれを考えることだ。(本書P160~161)
いま(2023年1月末)もって、ウクライナ戦争は終わる気配がない。ウクライナに軍事侵攻したプーチン(ロシア大統領)は「負ければ縛り首になること」を知っているはずだ。しかし彼は「はじめる前にそれを」考えなかったのだろうか。自分が負けるはずがないと。(完)
2023年1月20日金曜日
比例代表とは何か― れいわ新選組「ローテーション」批判
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(左)繰り上げ当選する大島九州男、(右)山本代表 |
れいわ新選組水道橋博士参院議員辞任にともない、同党は1年ごとのローテーションで、大島九州男、長谷川うい子、辻恵、蓮池薫、よだかれんの5人を繰上げ当選することを公表した。れいわ新選組のこの発表について、ネット上では支持、不支持、批判、非難が多数寄せられたようだが、これらネット上の諸見解は、管見の限りだが、「ローテーション」問題の核心を突いていないように筆者には思える。
●比例代表制度とはなにか
今回れいわ新選組が行おうとしている「ローテーション」は国政選挙で制度化されている比例代表制度の繰上げ当選に起因する。現行の参院選挙にて運用されている比例代表とはどんな制度なのかをみてみよう。
(1)任期=6年。任期については選挙区と変わりない。
(2)投票の方法=有権者は、投票用紙にⓐ政党・政治団体の名前もしくはⓑ候補者の個人名、いずれかを書いて投票する。
(3)政党得票数=ⓐ+ⓑ
(4)議席数の決定=得票数に応じて、各党へ議席数を配分する(ドント式〔注1〕)。
(5)当選者の決定
①特定枠〔注2〕=党が特定枠を設定した場合は、各党の議席獲得数のなかで特定枠を上位として順に当選者が決まり、その他の候補者はⓑが多い順に当選者が決まる。
②特定枠を設けなければ、各党の議席獲得数のなかでⓑが多い候補者の順で当選者が決まる。
〔注1〕ドント式=議席配分の計算方法で、各政党・政治団体が獲得した得票数を1から順に整数で割り、その答え(商)の大きい順に議席が配分される。例えば、6議席をめぐって3党で争う選挙で、A党が240票・B党が180票・C党が120票獲得した場合をみてみると、まず各党の得票を、1、2、3と整数で割っていく。A党は、1で割ると240、2で割ると120、3で割ると80。同じようにB党とC党についても割り算を行い、全体の答えの中で数が大きい順に1議席ずつ配分していく。この方法で6つの議席を配分すると、A党が3議席、B党が2議席、C党が1議席となる。
〔注2〕特定枠=あらかじめ政党が決めた順位に従って優先的に当選者を決めるもの。
ここで注目すべきは、参院選の場合、各党の獲得議席のなかで、どの候補者が当選するかは個人名の票が多い順に決まること。これを〈非拘束名簿式〉と呼ぶ。一方、衆院選の比例代表は当選者は政党が獲得した議席数のうち名簿上位から順に決定される。候補者名を書くと無効になってしまう。これを〈拘束名簿式〉と呼ぶ。
比例代表が参院選で採用されたのは1983年からであるが、そのときから2001年までは〈拘束式名簿比例代表制〉であったのだが、〈非拘束名簿式比例代表制〉にかわったのは2001年であり、2019年からは〈特定枠制度〉が新たに導入された。
●比例代表制度の〝悪用″--N党、れいわ新選組の事例
比例代表制度の隙間を狙った選挙活動を最初に行ったのが、N党である。2019年7月の参院選で党首立花孝志が比例代表で当選をはたしたが、同年10月、参院埼玉県選挙区補欠選挙に立候補し参院議員を失職した。もちろんこれは意図的なもので、この失職にともない同党比例代表選挙次点の浜田聡が繰り上げ当選している。埼玉の補欠選挙で立花は落選したが、N党の議席は確保した。
N党の手法を模倣したのが、2022年7月の第26回参院選におけるれいわ新選組であった。当初、山本太郎代表は、東京選挙区には新宿区議会議員の依田花蓮を擁立すると発表したのだが、その直後に突如、山本自身が衆院議員を辞職し、参院選東京都選挙区から立候補すると表明した。これにより衆院選比例東京ブロック次点であった櫛渕万里が繰り上げ当選した。ここでれいわ新選組は衆参の違いはあるものの〝比例繰上げ当選"の旨味を味わった。
そして、同年7月の参院選本番では苦戦したものの、山本は当選を果たし、参院1議席を獲得することに成功した。参院選東京選挙区で山本ではなく依田花蓮が立候補していたらおそらく、依田は落選しただろう。山本は衆院の議席を櫛渕に「譲る」ことで1議席を維持し、かつ、参院議席を山本の鞍替えで1つ増やすことに成功した。〝比例繰り上げ当選"の旨味を二度、味わった。
山本太郎が立花孝志を真似たかどうかはわからないが、参院、衆院の違いはあるものの、比例代表における繰上げ当選を利用した辞任→繰上げで議席確保→鞍替え立候補で〝プラス1議席狙い″であることに変わりない。
●れいわ新選組の「ローテーション」を邪推する――博士の得票数は大島以下落選者5人の合計得票数に相当する?
現行の参院選においては、選挙区・非拘束名簿式比例代表制を問わず、有権者の支持(投票数)を一定程度獲得した候補者が当選し議員として政治に携わることが原則だ。ただし「やむを得ない事情」により議員の職を続けられなくなった場合、比例代表の場合はその政党の立候補者の獲得票数順に当選者とする。議員を決める原則は、有権者の支持すなわち投票数であり、この原則が覆るのは「やむを得ない事情による場合」のみ。「やむを得ない事情」とは議員の死亡、そして、病気、家庭の事情等、議員本人が議員職を続けることを放棄した場合(辞職)の二つのケースしかない。
参院選比例で候補者の名前を敢えて書いた有権者は、その候補者に期待を寄せたと考えていい。れいわ新選組が「ローテーション」で繰上げ当選者とする各候補者の獲得票数をみると、大島九州男(28,123)、長谷川うい子(21,826)、辻恵(18,393)、蓮池薫(17,684)、よだかれん(14,821)であり、辞任した水道橋博士(117,794)と比べると著しく差がある。参院選の比例代表非拘束名簿式に従うと、大島が繰上げ当選になるのだが、得票数に差異がありすぎるため、大島を繰上げて国会議員とすることに疑問をもって不自然ではない。れいわ新選組内部およびその支持者のなかに、大島ひとりを繰上げ当選者とすることに納得がいかないという空気があっておかしくない。そこで執行部が考えついたのが「ローテーション」だったのではないか。もっとも落選5人分でも水道橋が獲得した12万票弱には達しないのだが。
ところが、今回の執行部の「ローテーション」という措置に対して、Twitterにおいて大島の支持者から、「執行部が大島を冷遇した」という意味の批判が寄せられている。
●衆院選の〈拘束名簿式〉と参院選の〈非拘束名簿式〉
前述のとおり、かつては参院選比例代表においても拘束名簿式が実施されていたし、衆院選では現在も非拘束名簿式が実施されている。そこで、拘束名簿式の名簿はいかにして作成されるのかを書いてみる。筆者はかつて「経済政党」だった自由民主党(以下「自民党」)の参院選を身近に体験したAさんからその実態の一部を聞いたことがあるので、その大筋をここで再現してみる。
Aさんは1991~2010年のあいだ、霞が関B省所管のCという公益法人に勤務していた。Cは国から10億、民間(業界団体)から20億の出捐金を受け設立された中規模の財団法人だ。当時の公益法人は各省庁がそれぞれ所管していた(現在は内閣府所管)。
AさんがC財団に入社した翌年、参院選があった。その選挙にB省D課が所管する業界の後押しを受け、B省出身のE氏が参院選比例で立候補することが決まった。そのときAさんを驚かせたが、C財団の職員2名(いずれも元B省退官職員)が職場を離れ、E氏の選挙対策準備室を手伝うことになったことだった。Aさんがつぎに驚いたのは、Aさんの職場に推薦人署名の紙が回ってきたことだった。Aさん本人、その家族、知人らの署名捺印がなかば強制的に求められたという。参院選比例代表名簿上位登載に必要な推薦人(支持者)数を確保するためだという。その当時は参院選比例代表は拘束名簿式で実施されていたのだ。
候補者E氏は霞が関の幹部という元職があるため、名簿下位にはならないらしいのだが、それでも推薦人数の確認が求められたわけだ。地方議会から成りあがった新人には、推薦人数ばかりか、年間獲得党員数、所属団体数およびその活動報告、後援会組織の実態、その他諸々の活動実績等を自民党参院選対策本部に提出しなければならないという。
●名簿順位決定が選挙の前哨戦
かつての自民党の比例名簿作成で注目すべきは、名簿順位を決定する指標が定量的であることだ。E氏のような省庁幹部で業界団体の支援を前提とした者の場合はそれほど厳格に取り扱われることがない、いわば例外的候補者なのかもしれないが、それでも推薦人数という定量的判断が働く。E氏と似たような候補者属性に「タレント候補」がいる。
かつての自民党における参院選比例名簿上位決定のメカニズムは競争にあった。選挙本番前に、党内で優位な順位を得るため、前哨戦を戦う。そのことは、同党が選挙に勝つことを至上命題として結成された政党だから、というほかない。その良し悪しは措いて、党内競争が党のエネルギーを生み、組織を強化し、選挙に勝つべく体制を構築してきた。選挙に勝つためには、手段を択ばなかったという面がなかったとは言えないが。
●自民党の変化とともに名簿作成方法に変化が
自民党の定量的比例名簿順位決定の原則が揺らいだのは、第二次安倍政権下のことだった。安倍(当時)首相が自民党をほぼ完全掌握したところで、さまざまなバックフラッシュが起きたわけだけれど、それを党外で誘導したのが戦前回帰勢力だった。その好例が杉田水脈議員の誕生だった。
故安倍元首相は2017年に自民党では実績のない維新から移籍してきた杉田水脈を比例中国ブロックにおける順位で優遇し、同ブロックの単独候補としては最上位(党内全候補者の中では17位)に登載した。衆院選の比例は〈拘束名簿方式〉だから名簿上位順に当選者が決まる。このことは、これまで「経済政党」だった自民党が、戦前回帰というイデオロギーを党是とする政党に変容したことの表象である。かつてAさんが体験した参院選比例選挙の前哨戦のような党内死闘がまったく消えてしまったとは言わないが、戦前回帰のアイコンとして杉田を活用しようとする意図が明らかである。こうした自民党の変容を見越した若手はこぞって、戦前回帰的言動を強め、戦前回帰イデオロギーを表に出して政治活動をするようになった。こうした傾向は安部暗殺後も変わっていない。
●1年ごとの「ローテーション」はれいわ新選組にとってマイナス
冒頭のれいわ新選組の1年ごとの「ローテーション」による、参院議員製造方式の是非について筆者の見解を述べる。この手法を画期的な奇手奇策とみるか、選挙制度の隙間を狙った悪意ある議員乱造とみるか――その判断は、同党を支持するかしないかで分かれるのは自然なことなのだろう。が、筆者は、選挙ではれいわ新選組に投票するが、今回の「ローテーション」を認めない。その理由は、党執行部が議員に意図的「辞任」を党決定として誘導しているようにみえることがひとつ。もうひとつは、1年後に「辞任」することを前提とした者を有権者からの負託を受けた国会議員としてみなすのかということ。筆者はみなさない。加えて、〝れいわ新選組は、落選議員に「元参議院議員」の肩書きをつけさせるためにこういうことをやるんだ″という批判にどう答えるか。曖昧な説明だと支持が増えることはない。つまり、れいわ新選組の支持者を増やすような決定ではない、党勢拡大にマイナスを及ぼす措置だと考える。
●迷走するれいわ新選組
れいわ新選組の迷走は先の党代表選挙でも際立っていた。代表選は、複雑な代表選のレギュレーションを省略して結果を示せば、1位:山本太郎、2位:古谷経衡、3位:大石あき子&くしぶち万里であった。ところが、最終的には代表に山本太郎が、共同代表に大石あき子&くしぶち万里がおさまった。代表選挙の結果を素直に読めば、代表に山本、共同代表に古谷以外には考えられないのだが、けっきょくのところ、古谷経衡を代表選に巻き込んだのは、話題づくりのためにすぎなかったのかというところで世間は納得した。古谷経衡はれいわ新選組のプロパー3人の引き立て役にすぎなかったわけだが、古谷経衡サイドからみれば、この代表選茶番劇を通じて、自身の知名度を高めること、および、彼の「保守主義」を世間にアピールすることができたわけだから、引き立て役でもじゅうぶん元を取った。
昨年の①山本太郎衆院議員辞任・参院選出馬、②代表選における古谷経衡を脇役に仕立てた茶番劇、そして年明け早々の③水道橋博士辞任に伴う「ローテーション」と、立て続けに繰り出した「奇手奇策」。これらは弱小政党ゆえの生き残り戦術だから仕方がないという考えもあろうが、このような策を弄しつづければ、有権者からの信頼をこれからも得ることは難しい。れいわ新選組がなにをやろうが、山本太郎を偏愛するマニア的支持者からは思考停止のまま支持されるのだろうが、選挙を戦うための組織拡大・強化には結びつかない。このままならば、山本太郎は辞任と立候補を繰り返すしかないだろう。参院選当選者を一人犠牲(辞任)にして、1年ごとの「ローテーション」で6人の元参院議員を乱造するつもりなのか。前者では山本の鮮度を失わせ寿命を縮める。「また、山本か」「ぜんぜん言うこと変わってない」「辞任と立候補の繰返しだからもう投票しない」という声を山本の耳は感知しないのか。後者については、「どうせ1年で辞任するんだから、れいわには投票しない」「元参議院議員の肩書がほしいだけだろう」という声は、れいわ新選組執行部に届かないのか。 (完)