2010年1月16日土曜日

『日本海と出雲世界(「海と列島文化」第2巻)』

●森浩一ほか[著] ●小学館 ●6627円(税込)


□東アジア・日本列島の中の出雲世界

本題の「日本海と出雲世界」とは、現在の日本の地理的区分に合わせると、概ね「山陰地方」「日本海西地域」に該当する。東端を北陸若狭、西端長戸・石見によって区分される地域であり、主要な島嶼部として、隠岐を含む。

律令国家成立後の古代日本列島の勢力図について、出雲を基点として俯瞰すると、東上して越、その北側に蝦夷、西下して北九州、そして、海路を使い瀬戸内海を通って吉備、畿内(大和)がある。もちろん陸路あるいは琵琶湖水系を介した内陸水路を南下して畿内(大和)に至る経路も利用された。

アジア大陸、東シナ海、日本海を挟んで、北(中国北東部)に粛慎、靺鞨、狄と呼ばれた北方ツングース族(彼らが建国した渤海、女真の勢力)が――、また、西に朝鮮系の百済、新羅、高句麗、伽耶の勢力が――、そして、大国中国の王朝勢力が――、位置していた。この圏域は、中でも朝鮮の諸勢力との関係が密で、例えば、本書第3章「3.中世西日本海地域と対外交流」(高橋公明[著])」によると、周防の大内氏はその出自を百済国王聖明王に求めていたという。

「出雲世界」は、日本列島においては、海路(日本海)を利用することにより、越及び北九州勢力と密接な関係を築いていたし、「出雲世界」の歴史は地勢上の特性に規定され、隣接勢力からの直接的・間接的影響を受けていたと同時に、出雲も各地域に影響を及ぼしていた。

外交における同地域の役割の変化は、律令国家が道路(街道)整備に注力し、海路に依存した物流体系から、陸上交通を含んだ複合的物流体系に再編成したことから始まった。中世初期(AD6~7世紀)に至ると、瀬戸内海(広島)に勢力を築いた平氏が列島西部の海上覇権を握り、海外からの外交使節の受入れと海外貿易利権を獲得した。以来、朝鮮、大陸から来訪する使節団の受入れ口が畿内に近接する瀬戸内海沿岸都市に移動した。

□ミステリアス出雲

古代出雲勢力の実態については、わからないところが多い。たとえば、荒神谷遺跡がその代表例である。昭和58年(1983年)、出雲の東に位置する斐川町の谷あいから、大量の銅剣、銅矛、銅鐸が出土したのである。きっかけは、広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろったことがきっかけとなり、これらの発見に至ったという。

遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られていることから荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土した。遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にある。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土した。

銅剣・銅矛・銅鐸の製造年代は特定されていないが、弥生前期(AD1世紀前後)のものとの鑑定意見もあり、AD1~3世紀には存在したと推定されている邪馬台国(卑弥呼)よりも、出雲勢力のほうが古いかもしれない。

邪馬台国「北九州説」「畿内説」の特定はともかくとして、邪馬台国に拮抗もしくは優越する勢力が出雲にあった可能性は極めて高く、荒神谷遺跡は、北九州、畿内勢力に先立ち、出雲に強大な統治集団が存在していたことを確認できる考古学的発見であるものの、その一方、この統治集団の勢力範囲や統治の実態を推測できるものではないだけに、出雲の謎はますます深まった。

□出雲と神話

古代出雲が「海」と深く関わりをもっていたことは言うまでもない。たとえば、2009年11月27日付け朝日新聞朝刊にこんな記事が掲載されている。
■出雲人の旧暦では10月10日は物音を立てぬ決まりだ。年に一度、八百万の神々を迎える神事の日、神迎えする道沿いの民家のあかりも消える。今年は11月26日、出雲大社の神職が、日がとっぷりと暮れた浜辺で、かがり火を前に祝詞を読みあげた。氏子ら数千人が神籬(ひもろぎ)と呼ばれる台座に神々がのりうつるのを息をひそめて見守る。
「おーおー」。神職が神籬(ひもろぎ)を白い布で覆いながら朗々と警蹕(けいひつ)と呼ばれる声を発し、出雲神社へ神々を導く。
(以下、写真説明文:天照大神が、出雲を治める大国主命に使者を遣わし「国譲り」を求めたとされる稲佐の浜に向って神職が祝詞を奏上し、神々を迎えた)■

この新聞記事は、今日の出雲において、海に向って神を招きよせる神事が行われていることを示している。出雲では神はどこからやってくるのかといえば、山からではなく海からなのである。

出雲の神話で名高いのは、第一に、「国引き」の物語である。「国引き」を行った神=オミヅヌノ命は巨人神で、新羅から国引きをしている。

第二は「国造り」の神話である。「国造り」の主役はオホナムチ神で、オホナムチ神はほかに3つの名前(大国主神、葦原色許男神、八千矛神)をもっている。オホナムチは開墾、耕作を体現するという。この神は日本の古代神話の主人公としては、もっとも大衆的知名度がある。畿内にもその足跡をとどめるところから、出雲が畿内勢力に包含されて以降、記紀神話等に描かれたものと思われる。いずれにしても、オホナムチ神のエピソードの数々は、黒潮を媒介とした南海文化圏とのつながりが認められる。

現在、出雲大社は島根半島の端に位置し日本海に面しているが、弥生時代、現在の島根半島は島であり、出雲大社が島に位置していたことは、同地域と海との結びつきを象徴する。さらに、出雲大社御神体は何かという謎がいまなお解けていないなか、本書では、七宝の筥(ほこ)とする説、巨大鰒(変じて大蛇)という説の2つを紹介しているが、このことも海との関連を証している。

さて、本書のような地域史を扱う記述は困難さを伴う。時代の進行とともに、対象とする地域内(の各勢力)に盛衰があるからだ。「出雲」は、古代日本列島において重要なエリアであったが、中枢権力が畿内地方に収斂するに従って、列島内における政治・経済に果たす役割は低下していく。それと同時に、出雲を含む同地域の歴史的記述、すなわち、“出雲世界”は多元性を帯びざるを得なくなる。本題にある“出雲世界”という概念は普遍性をもっていない。中世以降、同地域は、出雲世界というよりも日本海西地域として、地方的特性が顕著になっていくのであり、いまなお、その延長線上にある。