恒例となった、Sさん&Mさん邸における大晦日の忘年会。
筆者にとって、もちろん今年最後の忘年会です。
名酒、おいしいお料理、笑いがたくさんの楽しい夜となりました。
2018年12月31日月曜日
2018年12月30日日曜日
2018年12月26日水曜日
『国体論―菊と星条旗』
●白井聡〔著〕 ●集英社新書 ●940円+税
本書は、国体という概念を媒介に日本の近現代史を読み直しつつ、現在の安倍政権を痛烈に批判するという建付けである。著者の白井聡は戦後日本の諸状況について、「永続敗戦」という著者自身になる造語概念を使って規定する政治学者。本書はその論の発展的展開として位置づけられる。それゆえ、まずもって「永続敗戦」の原理をおさえておく。
(一)北一輝の『国体論及び純正社会主義』
日本の近現代史において、筆者の記憶に残る国体に係る事案は3つある。最初のそれは1906年(明治39年)、北一輝の処女作『国体論及び純正社会主義』の発刊である。北一輝は後の2.26事件(1935/昭和10年2月26日)を起こした青年将校に強い影響を及ぼした思想家。北一輝の思想は本書で詳細に取り上げらえているので説明を省くが、大雑把にその肝を示せば、天皇は国民のためにあるという、「天皇機関説」の範疇にある。北一輝が2.26事件の思想的指導者として死刑に処せられた理由は、北の天皇論に影響された青年将校により国家転覆未遂事件が起きたからにほかならない。
(二)「国体明徴の声明」
第二番目は、2.26事件の直後、同年8月に、ときの政府が発表した「国体明徴の声明」である。この声明は、軍部及び右翼が天皇を統治権行使の機関とみる学説を攻撃し、その主張者美濃部達吉を「学匪」ときめつけたので、天皇機関説事件ともよばれる。「国体明徴の声明」はときの権力者が北の思想と2.26事件を経験し、いま国体は危機にある、という認識から発せられたともいえる。貴族院・衆議院とも国体明徴を決議し、美濃部は貴族議員を辞め、その著書『憲法概要』『憲法精義』は発禁となった。これをもって政府は軍部の要求に負けて天皇機関説を排撃し、議会主義を否定し、学問言論思想の自由に強く干渉するようになる。
ときの岡田啓介内閣が発した「国体明徴の声明」は、その後の軍部独裁、アジア・太平洋戦争突入という、日本現代史の転換点を象徴する重大な事件だった。
国体明徴事件が示すとおり、戦前の軍部、右翼によって持ち出された国体とは、著者(白井聡)の表現を借りれば、“万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制(P3)”と定義される。天皇を絶対不可侵・超越的存在の神として崇め、日本国民は臣民として天皇(の命令)に絶対服従しなければならないとする国家原理とも別言できる。なお「明徴」とは、「明らかにする」と同義である。
(三)敗戦直前、戦争終結条件としての国体護持
国体が次に顕在化するのは、日本のアジア・太平洋戦争末期、日本の敗戦が決定的となり、連合軍からポツダム宣言(無条件降伏)の受諾を強いられたときであった。ときの日本帝国の為政者は、戦争終結の条件として国体護持に執着したため、無条件降伏を受け入れなかった。そのため連合軍の本土無差別爆撃(1944/6~1945/8)、沖縄地上戦(1945/3)、広島・長崎原爆投下(1945/8)という、連合軍による、日本の民間人大量殺戮を招き寄せた。
それでも無条件降伏を頑なに拒んだ日本帝国の為政者が、一転してアメリカ軍に降伏したのは、1945年8月9日のソ連軍の日本帝国領内侵攻作戦の開始であった。昭和天皇及びその側近はソ連軍の対日参戦に恐怖し、降伏を決意した。
その政府が起こした戦争の末期、敗戦という国家滅亡の危機にあっては、敵であったアメリカの支配を積極的に受け入れ、天皇(家)を抹殺しかねないソ連軍=「共産主義」から国体を護持することに成功する。戦争当事者である日本帝国の為政者は、ソ連軍=共産主義から国体を守るため、アメリカにひれ伏すという選択を行い、結果、国体は守られた。それが、戦後の象徴天皇制である。
戦後の国体とはなにか
本書における明治維新からアジア太平洋戦争敗戦までの国体論は、橋川文三の未完の著『昭和維新試論』等を下敷きにして、簡潔かつ明確に整理されている。ところが、戦後の国体論は難解である。著者(白井聡)の戦後の国体論は、戦前の国体を体現した天皇の代わりに、アメリカをそっくり代入するという図式に単純化される。その点において筋が悪い。
著者(白井聡)の戦後の国体論の中核にあるのは、アメリカである。本書は、戦後日本の対米従属を国体だと規定するわけだが、その論証は矢部浩二や孫崎亨の戦後日米関係論に依拠していて、それを超えるような情報や見識が見当たらない。強いて新鮮だと思わせる部分を挙げれば、「天皇制民主主義」という言葉の提起だろうか。
アメリカの日本占領政策は古代からのセオリーに倣ったもの
天皇が日本帝国の戦争に関与していることは明らかだった。戦勝国側は、天皇の戦争責任を強く追及するかと思われたが、アメリカは天皇の戦争責任を免責し、新憲法の中で天皇を日本国民の象徴と新たに規定した。
著者(白井聡)は、アメリカの天皇免責について、アメリカの日本研究の結果だと大げさに指摘しているがそうでもない。たとえば、新約聖書の舞台となった現在のイスラエル・パレスチナの地は、いまから2000年余り前、ローマ帝国の属州だった。この地の支配者は、ローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトだった。ピラトはイエスを磔刑に処した人物として新約に記されている。
そのピラトだが、彼はイエスを処刑することに最後まで消極的だった。というのも、ローマが属州を支配する構図は、総督自らが強権を振るうことではなく、ユダヤ教の神官に属州の統治を委任するものだったからである。武力を背景にして占領者が前面に出る直接的支配は、被占領地の人民の抵抗を受けやすい。ローマ兵に犠牲者が出る確率が高い。侵略者、占領者が当該地を安定的に統治する方法は、土着の支配者を配下にして間接的に支配するのがセオリーである。
2000年前に遡らなくとも、日本帝国が中国東北部に侵略して「建国」した満州国においても、日本帝国はローマ帝国と同様の統治方法を採用した。1931(昭和6)年9月、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により満州全土が占領され、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月、満州国が「建国」された。元首(満州国執政、後に満州国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。中華民国によって滅亡した清朝は満州人が漢族を破って建国した王朝だったから、日本帝国が「建国」した満州国に清王朝の末裔を元首に置いたのは、戦勝国アメリカが日本を占領したとき、その国(日本)の天皇を元首(象徴)として残した事例と似通っている。
アメリカの日本占領政策の第一は、日本帝国の武装解除及び占領軍人の安全確保だった。アメリカが警戒したのは、戦争終結後にあっても旧日本軍の残党が日本各所でゲリラ戦を展開することだった。それを防ぐ切札的存在が天皇だった。日本の敗戦直後(1945年)の動きを追ってみよう。
戦後の国体の形成というよりも維持は、戦争末期、日本帝国の為政者がソ連=共産主義の日本侵略を阻止するためにアメリカと手を組み、アメリカ主導の占領政策を受け入れたことから始まったのである。戦勝国(アメリカ)にとっても占領政策の柱に天皇を据えることに異議はなかった。
その後、日本は民主国家として再生し、かつての国体とは絶縁したと思われている。明治欽定憲法は撤廃され、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、象徴天皇制などを規定した日本国憲法が施行された。そこで国体は死語と化し、あえて戦後の国体とはなにかと問われれば、日本国憲法こそが戦後のそれというのが、一般的認識として定着した。そればかりか、今日、わが国の状況において、国体をテーマとした議論、論考、研究等としては、鈴木邦男著の『天皇陛下の味方です: 国体としての天皇リベラリズム』くらいしか、見当たらない。
アメリカへの隷属が新たな国体か
敗戦後から今日までの日本の歩みは、著者(白井聡)が指摘するとおり、アメリカに隷属している。とりわけ、現在の安倍首相は、アメリカのトランプ大統領の忠臣といったありさまで、アメリカ・メディアからも嘲笑を受けるありさまである。日本政府は、日米同盟は不変、普遍と認識している、と事ある後に国民に説明する。その結果、日米地位協定が代表するとおり、日本はアメリカの属国以下である。著者(白井聡)は、戦後の日本の為政者が頑ななアメリカ信仰を保持・盲従する心的構造を、アメリカをご本尊とする戦後国体思想だと結論づける。さて、そこが本書を支持するか否かの境目だろう。筆者は著者(白井聡)の論に納得していない。
天皇制の危機的局面に現れる国体擁護の動き
国体がわが国の現代史に現れた局面は、前出のとおり、天皇制が危機的状況に陥った時である。そしてもちろん、国体の護持を国民に呼びかけるのは、革新の側ではなく、絶対的、超越的存在としての天皇を擁護したい勢力からであった。戦前の場合は、議会制民主主義や社会主義の台頭を恐れた軍部及び右翼であり、アジア・太平洋戦争末期の場合は、ソ連(共産主義)の侵攻により、日本の天皇(家)がロシア皇帝(一族)のごとく処刑されることを恐れた日本の為政者からであった。
戦後の反米運動
戦後の日米関係に対する異議申し立ては、本書にあるように、60年安保闘争、68年前後の新左翼・全共闘運動、三島由紀夫の自害、反日爆弾闘争といった、戦後民主主義を相対化する思想に基づく政治運動によった。しかし連合赤軍事件、内ゲバ事件等に代表されるそれら運動組織の自滅行動を契機として、体制側の弾圧及びマスメディアによるネガティブキャンペーンが功を奏し、それら運動組織は「過激派」という蔑称で市民権を失ってしまった。このときに現れた革命運動は左翼にとっては共産主義革命(世界革命)を目指すものであり、唯一、三島由紀夫のそれだけが、アメリカに隷属する天皇、ときの政権及び自衛隊を批判するものであった。戦後体制の暴力的打倒を目指しながら、左派と三島は同床異夢の関係にあった。
日本はアングロサクソンとうまくやれば・・・
日本国民のなかに著者(白井聡)がいう戦後の国体(アメリカ信仰)がどれほど浸透しているのか。浸透というよりも、無意識化されているのか。筆者の直観では、アメリカは日本(人)にとってもっとも親和的な外国であるが、無謬的存在にまでは至っていないと思う。ただ気になるのは、「日本はアングロサクソンとうまくやれば、うまくいく」という俗論である。この言説を耳にしたのは、TVの討論番組において保守系国会議員が賜ったのか、あるいは保守系言論人の発言だったか覚えていないが、筆者のまわりの俗物保守派のあいだではしばしば使用される。
日本の近現代史において、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が締結されていた期間(1902~1923)、日本帝国は順風満帆だった。日露戦争勝利(1904)、不平等条約解消=関税自主権獲得(1911)、第一次世界大戦参戦及び勝利(1914-1918)といった具合である。ところが、同盟廃棄後、満州事変(1930)を契機として、日本帝国は侵略戦争の道を突き進み、1945年の大破局を迎えたことはいうまでもない。
敗戦後の日本はアメリカの占領下におかれ、GHQの指令により国を運営してきたが、1952年、日米同盟(Japan-US Alliance)の締結(註)後、日英同盟締結後と同様に、日本は国際舞台において成功の道を歩んできている。そのとき講和条約が発効し、以降、日本は日米同盟に包摂されるかのように復興、繁栄を続け、GDP世界3位、G7(7大先進国)の一つという「大国」に成長している。
前出の「アングロサクソンに~」という言説は、(わが国は)大英帝国(戦前)、アメリカ合衆国(戦後)という超大国に追随していればいい、という没主体性を別言しただけの俗論である。だがいみじくも、その没主体性が日本を繁栄に導いたことも事実なのである。だが、それを国体とするのはなじまない。
著者(白井聡)が「永久敗戦レジューム」と定義した日本の戦後体制は、いい得て妙であるが、戦後の国体の中心にアメリカを据えるのは無理がある。日本の国体は明治維新に確立した天皇制国家であり、それは戦前・戦中・戦後も一貫している。著者(白井聡)は、国体の中心が戦後、天皇からアメリカに移ったというが、その戦後体制は国体の変化というよりも、明治以来の超大国依存、没主体的国家・国民性と規定すれば済む。日本の国体の真の変換は、天皇制か共和制かの二者択一以外にない。
著者(白井聡)の論の基調に流れる危険性
著者(白井聡)は、本書冒頭に今生天皇の退位の「お言葉」を掲げ、文末もそれで終わっている。著者(白井聡)は天皇と安倍政権を対立的関係に並べ、天皇の側に、民主主義の可能性を見出している。著者(白井聡)の認識は、かつて2.26事件で決起した青年将校が抱いた「恋闕の情」及び政治家・官僚に対する「君側の奸」という反感、すなわち、あくまでも純粋である「国民の天皇」を希求する情念に通じている。
著者(白井聡)の「お言葉」の受止めの延長線上には、安倍首相を筆頭とした政(政治家)、官(官僚)、学(学者)産(実業家)、そしてメディアが「君側の奸」であり、彼らはアメリカ依存だからダメだが、天皇だけは清いという結論を暗示している本書末に、著者(白井聡)は次のように書いている。
註:Japan-US Allianceとは、以下の2つの条約の総称である。
本書は、国体という概念を媒介に日本の近現代史を読み直しつつ、現在の安倍政権を痛烈に批判するという建付けである。著者の白井聡は戦後日本の諸状況について、「永続敗戦」という著者自身になる造語概念を使って規定する政治学者。本書はその論の発展的展開として位置づけられる。それゆえ、まずもって「永続敗戦」の原理をおさえておく。
「永続敗戦」とは(略)、日本の戦後レジュームの核心を指示し、その特殊な対米従属の在り方を解明するための概念である。その原理は、アメリカのアジアでの最重要の同盟者となることによって、第二次世界大戦における敗北が持つ意味を曖昧化すること、すなわち、「敗戦の否認」である。敗戦の否認を続けるためには際限なくアメリカに従属せねばならず、際限のない対米従属を続ける限り敗戦を否認し続けることができる。かくして、負けを正面から認めたくないがために、永遠と負け続ける。この原理を主柱として、親米保守派がその支配に鎮座し続ける体制が「永続敗戦レジューム」である。(本書註:P342)(※『永続敗戦論―戦後日本の核心』講談社+α文庫、2016年、61~77頁参照)日本の現代史における国体
(一)北一輝の『国体論及び純正社会主義』
日本の近現代史において、筆者の記憶に残る国体に係る事案は3つある。最初のそれは1906年(明治39年)、北一輝の処女作『国体論及び純正社会主義』の発刊である。北一輝は後の2.26事件(1935/昭和10年2月26日)を起こした青年将校に強い影響を及ぼした思想家。北一輝の思想は本書で詳細に取り上げらえているので説明を省くが、大雑把にその肝を示せば、天皇は国民のためにあるという、「天皇機関説」の範疇にある。北一輝が2.26事件の思想的指導者として死刑に処せられた理由は、北の天皇論に影響された青年将校により国家転覆未遂事件が起きたからにほかならない。
(二)「国体明徴の声明」
第二番目は、2.26事件の直後、同年8月に、ときの政府が発表した「国体明徴の声明」である。この声明は、軍部及び右翼が天皇を統治権行使の機関とみる学説を攻撃し、その主張者美濃部達吉を「学匪」ときめつけたので、天皇機関説事件ともよばれる。「国体明徴の声明」はときの権力者が北の思想と2.26事件を経験し、いま国体は危機にある、という認識から発せられたともいえる。貴族院・衆議院とも国体明徴を決議し、美濃部は貴族議員を辞め、その著書『憲法概要』『憲法精義』は発禁となった。これをもって政府は軍部の要求に負けて天皇機関説を排撃し、議会主義を否定し、学問言論思想の自由に強く干渉するようになる。
ときの岡田啓介内閣が発した「国体明徴の声明」は、その後の軍部独裁、アジア・太平洋戦争突入という、日本現代史の転換点を象徴する重大な事件だった。
国体明徴事件が示すとおり、戦前の軍部、右翼によって持ち出された国体とは、著者(白井聡)の表現を借りれば、“万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制(P3)”と定義される。天皇を絶対不可侵・超越的存在の神として崇め、日本国民は臣民として天皇(の命令)に絶対服従しなければならないとする国家原理とも別言できる。なお「明徴」とは、「明らかにする」と同義である。
(三)敗戦直前、戦争終結条件としての国体護持
国体が次に顕在化するのは、日本のアジア・太平洋戦争末期、日本の敗戦が決定的となり、連合軍からポツダム宣言(無条件降伏)の受諾を強いられたときであった。ときの日本帝国の為政者は、戦争終結の条件として国体護持に執着したため、無条件降伏を受け入れなかった。そのため連合軍の本土無差別爆撃(1944/6~1945/8)、沖縄地上戦(1945/3)、広島・長崎原爆投下(1945/8)という、連合軍による、日本の民間人大量殺戮を招き寄せた。
それでも無条件降伏を頑なに拒んだ日本帝国の為政者が、一転してアメリカ軍に降伏したのは、1945年8月9日のソ連軍の日本帝国領内侵攻作戦の開始であった。昭和天皇及びその側近はソ連軍の対日参戦に恐怖し、降伏を決意した。
昭和天皇が積極的にアメリカを「迎え入れた」最大の動機は、共産主義への恐怖と嫌悪であった・・・皇帝一家の殺害にまで至ったロシア革命の帰結と敗戦直後の社会混乱に鑑みれば、「共産主義革命=国体の破壊」という観念自体は全くの絵空事ではなかった。したがって、アメリカの軍事的プレゼンスを積極的に受け入れることは、まさに「国体護持」の手段たり得たのである。(P56~57)日本の近現代史において国体が顕在化するのは、天皇制度が危機に瀕している状況下である。天皇を国民の側に引き寄せる北一輝の思想がときの支配層を震撼させ、しかも、政府転覆未遂事件まで起きた。ときの政府はその思想的指導者及び青年将校のリーダーを処刑し、より強権的支配を確立する。加えて、民主的勢力を一掃し、独裁体制を固める。
その政府が起こした戦争の末期、敗戦という国家滅亡の危機にあっては、敵であったアメリカの支配を積極的に受け入れ、天皇(家)を抹殺しかねないソ連軍=「共産主義」から国体を護持することに成功する。戦争当事者である日本帝国の為政者は、ソ連軍=共産主義から国体を守るため、アメリカにひれ伏すという選択を行い、結果、国体は守られた。それが、戦後の象徴天皇制である。
戦後の国体とはなにか
本書における明治維新からアジア太平洋戦争敗戦までの国体論は、橋川文三の未完の著『昭和維新試論』等を下敷きにして、簡潔かつ明確に整理されている。ところが、戦後の国体論は難解である。著者(白井聡)の戦後の国体論は、戦前の国体を体現した天皇の代わりに、アメリカをそっくり代入するという図式に単純化される。その点において筋が悪い。
著者(白井聡)の戦後の国体論の中核にあるのは、アメリカである。本書は、戦後日本の対米従属を国体だと規定するわけだが、その論証は矢部浩二や孫崎亨の戦後日米関係論に依拠していて、それを超えるような情報や見識が見当たらない。強いて新鮮だと思わせる部分を挙げれば、「天皇制民主主義」という言葉の提起だろうか。
アメリカの日本占領政策は古代からのセオリーに倣ったもの
天皇が日本帝国の戦争に関与していることは明らかだった。戦勝国側は、天皇の戦争責任を強く追及するかと思われたが、アメリカは天皇の戦争責任を免責し、新憲法の中で天皇を日本国民の象徴と新たに規定した。
著者(白井聡)は、アメリカの天皇免責について、アメリカの日本研究の結果だと大げさに指摘しているがそうでもない。たとえば、新約聖書の舞台となった現在のイスラエル・パレスチナの地は、いまから2000年余り前、ローマ帝国の属州だった。この地の支配者は、ローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトだった。ピラトはイエスを磔刑に処した人物として新約に記されている。
そのピラトだが、彼はイエスを処刑することに最後まで消極的だった。というのも、ローマが属州を支配する構図は、総督自らが強権を振るうことではなく、ユダヤ教の神官に属州の統治を委任するものだったからである。武力を背景にして占領者が前面に出る直接的支配は、被占領地の人民の抵抗を受けやすい。ローマ兵に犠牲者が出る確率が高い。侵略者、占領者が当該地を安定的に統治する方法は、土着の支配者を配下にして間接的に支配するのがセオリーである。
2000年前に遡らなくとも、日本帝国が中国東北部に侵略して「建国」した満州国においても、日本帝国はローマ帝国と同様の統治方法を採用した。1931(昭和6)年9月、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により満州全土が占領され、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月、満州国が「建国」された。元首(満州国執政、後に満州国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。中華民国によって滅亡した清朝は満州人が漢族を破って建国した王朝だったから、日本帝国が「建国」した満州国に清王朝の末裔を元首に置いたのは、戦勝国アメリカが日本を占領したとき、その国(日本)の天皇を元首(象徴)として残した事例と似通っている。
アメリカの日本占領政策の第一は、日本帝国の武装解除及び占領軍人の安全確保だった。アメリカが警戒したのは、戦争終結後にあっても旧日本軍の残党が日本各所でゲリラ戦を展開することだった。それを防ぐ切札的存在が天皇だった。日本の敗戦直後(1945年)の動きを追ってみよう。
- 8月15日=天皇の戦争終結宣言(玉音放送)
- 8月30日=占領軍総司令官マッカーサー、厚木に到着
- 9月2日=無条件降伏文書調印
- 9月27日=マッカーサーが天皇と会見
戦後の国体の形成というよりも維持は、戦争末期、日本帝国の為政者がソ連=共産主義の日本侵略を阻止するためにアメリカと手を組み、アメリカ主導の占領政策を受け入れたことから始まったのである。戦勝国(アメリカ)にとっても占領政策の柱に天皇を据えることに異議はなかった。
その後、日本は民主国家として再生し、かつての国体とは絶縁したと思われている。明治欽定憲法は撤廃され、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、象徴天皇制などを規定した日本国憲法が施行された。そこで国体は死語と化し、あえて戦後の国体とはなにかと問われれば、日本国憲法こそが戦後のそれというのが、一般的認識として定着した。そればかりか、今日、わが国の状況において、国体をテーマとした議論、論考、研究等としては、鈴木邦男著の『天皇陛下の味方です: 国体としての天皇リベラリズム』くらいしか、見当たらない。
アメリカへの隷属が新たな国体か
敗戦後から今日までの日本の歩みは、著者(白井聡)が指摘するとおり、アメリカに隷属している。とりわけ、現在の安倍首相は、アメリカのトランプ大統領の忠臣といったありさまで、アメリカ・メディアからも嘲笑を受けるありさまである。日本政府は、日米同盟は不変、普遍と認識している、と事ある後に国民に説明する。その結果、日米地位協定が代表するとおり、日本はアメリカの属国以下である。著者(白井聡)は、戦後の日本の為政者が頑ななアメリカ信仰を保持・盲従する心的構造を、アメリカをご本尊とする戦後国体思想だと結論づける。さて、そこが本書を支持するか否かの境目だろう。筆者は著者(白井聡)の論に納得していない。
天皇制の危機的局面に現れる国体擁護の動き
国体がわが国の現代史に現れた局面は、前出のとおり、天皇制が危機的状況に陥った時である。そしてもちろん、国体の護持を国民に呼びかけるのは、革新の側ではなく、絶対的、超越的存在としての天皇を擁護したい勢力からであった。戦前の場合は、議会制民主主義や社会主義の台頭を恐れた軍部及び右翼であり、アジア・太平洋戦争末期の場合は、ソ連(共産主義)の侵攻により、日本の天皇(家)がロシア皇帝(一族)のごとく処刑されることを恐れた日本の為政者からであった。
戦後の反米運動
戦後の日米関係に対する異議申し立ては、本書にあるように、60年安保闘争、68年前後の新左翼・全共闘運動、三島由紀夫の自害、反日爆弾闘争といった、戦後民主主義を相対化する思想に基づく政治運動によった。しかし連合赤軍事件、内ゲバ事件等に代表されるそれら運動組織の自滅行動を契機として、体制側の弾圧及びマスメディアによるネガティブキャンペーンが功を奏し、それら運動組織は「過激派」という蔑称で市民権を失ってしまった。このときに現れた革命運動は左翼にとっては共産主義革命(世界革命)を目指すものであり、唯一、三島由紀夫のそれだけが、アメリカに隷属する天皇、ときの政権及び自衛隊を批判するものであった。戦後体制の暴力的打倒を目指しながら、左派と三島は同床異夢の関係にあった。
日本はアングロサクソンとうまくやれば・・・
日本国民のなかに著者(白井聡)がいう戦後の国体(アメリカ信仰)がどれほど浸透しているのか。浸透というよりも、無意識化されているのか。筆者の直観では、アメリカは日本(人)にとってもっとも親和的な外国であるが、無謬的存在にまでは至っていないと思う。ただ気になるのは、「日本はアングロサクソンとうまくやれば、うまくいく」という俗論である。この言説を耳にしたのは、TVの討論番組において保守系国会議員が賜ったのか、あるいは保守系言論人の発言だったか覚えていないが、筆者のまわりの俗物保守派のあいだではしばしば使用される。
日本の近現代史において、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が締結されていた期間(1902~1923)、日本帝国は順風満帆だった。日露戦争勝利(1904)、不平等条約解消=関税自主権獲得(1911)、第一次世界大戦参戦及び勝利(1914-1918)といった具合である。ところが、同盟廃棄後、満州事変(1930)を契機として、日本帝国は侵略戦争の道を突き進み、1945年の大破局を迎えたことはいうまでもない。
敗戦後の日本はアメリカの占領下におかれ、GHQの指令により国を運営してきたが、1952年、日米同盟(Japan-US Alliance)の締結(註)後、日英同盟締結後と同様に、日本は国際舞台において成功の道を歩んできている。そのとき講和条約が発効し、以降、日本は日米同盟に包摂されるかのように復興、繁栄を続け、GDP世界3位、G7(7大先進国)の一つという「大国」に成長している。
前出の「アングロサクソンに~」という言説は、(わが国は)大英帝国(戦前)、アメリカ合衆国(戦後)という超大国に追随していればいい、という没主体性を別言しただけの俗論である。だがいみじくも、その没主体性が日本を繁栄に導いたことも事実なのである。だが、それを国体とするのはなじまない。
著者(白井聡)が「永久敗戦レジューム」と定義した日本の戦後体制は、いい得て妙であるが、戦後の国体の中心にアメリカを据えるのは無理がある。日本の国体は明治維新に確立した天皇制国家であり、それは戦前・戦中・戦後も一貫している。著者(白井聡)は、国体の中心が戦後、天皇からアメリカに移ったというが、その戦後体制は国体の変化というよりも、明治以来の超大国依存、没主体的国家・国民性と規定すれば済む。日本の国体の真の変換は、天皇制か共和制かの二者択一以外にない。
著者(白井聡)の論の基調に流れる危険性
著者(白井聡)は、本書冒頭に今生天皇の退位の「お言葉」を掲げ、文末もそれで終わっている。著者(白井聡)は天皇と安倍政権を対立的関係に並べ、天皇の側に、民主主義の可能性を見出している。著者(白井聡)の認識は、かつて2.26事件で決起した青年将校が抱いた「恋闕の情」及び政治家・官僚に対する「君側の奸」という反感、すなわち、あくまでも純粋である「国民の天皇」を希求する情念に通じている。
著者(白井聡)の「お言葉」の受止めの延長線上には、安倍首相を筆頭とした政(政治家)、官(官僚)、学(学者)産(実業家)、そしてメディアが「君側の奸」であり、彼らはアメリカ依存だからダメだが、天皇だけは清いという結論を暗示している本書末に、著者(白井聡)は次のように書いている。
(天皇が)「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていた・・・著者(白井聡)が国体の概念を用いて本書を著そうとした下地に天皇の「お言葉」があったことは明白である。そのことは日本の国体が戦前、戦後を通じて不変であり普遍的であることの逆証明にもなる。著者(白井聡)もその国体に絡めとられ、天皇制か共和制かと問う思考を脱落させてしまったのである。
それは闘う人間の烈しさだ。「この人は何かと闘っており、その闘いには義がある」――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。(P340)
註:Japan-US Allianceとは、以下の2つの条約の総称である。
- 1952~1960:「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(Security Treaty Between the United States and Japan)
- 1960~:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)
2018年12月22日土曜日
筋トレ仲間忘年会を根津にて開催
2018年12月21日金曜日
内海の人的補償は一岡のトラウマ
FAを使って西武から読売に移籍した炭谷捕手の人的補償が内海投手と決まった。驚きである。まさかである。前の拙Blogにて書いた通り、筆者は宇佐見捕手と予想したのだから大外れに終わった。
内海を獲得した西武は大儲け
西武は炭谷を放出して、内海と2,280万円(炭谷の年俸・5,700万円×40%*ランクB=2,280万円+人的補償としての内海)を獲得したことになる。炭谷と内海の1対1のトレードなら2,280万円は入らなかったわけだから、西武はお得な商売をしたことになる。内海と炭谷の1対1のトレードは、西武はもちろんOKだろうが、読売には話にならない商談だったに違いない。
一方の読売の判断はどうなのだろうか。内海ほどの功労者をプロテクトしなかったのは非情という意見もある。来年、内海が再度、FA宣言して読売に戻るという推測もあるが、西武が人的補償を求めれば、また新たな違う選手を西武にとられることになるので、西武と読売のFA⇔人的補償の循環が永年続くまで。
原辰徳の内海外しは一岡のトラウマから
内海をプロテクトしなかったのは、GMを兼ねた原辰徳(読売の新=出戻り監督)の判断だと思う。FA・人的補償となると、メディアが常に話題にするのが読売の失敗事例、一岡投手の放出である。
一岡投手(当時読売)は大竹投手(当時広島)のFA宣言による読売入団の人的補償で2013年に広島に入団し、以降、2014シーズンから今日まで、広島の貴重な中継ぎ投手として活躍を続けている。その一方、読売に移籍した大竹投手は一年目こそ活躍したものの、以降の成績は下降続き。その結果として、読売のFAの人的補償の失敗事例として、語り継がれている。
一岡投手をプロテクトしなかったそのときの読売の監督が原辰徳だった。おそらくこの失敗は、原辰徳及び読売球団のトラウマとなり、今年のFAでは多くの若手選手をプロテクトしたのではないか。若い才能が他球団で花開いたとしたら、読売は若手を育成できない、読売が若手選手の才能を見通せない――という評価が定着する。そうなれば、球団のイメージはより悪化する。ドラフトで読売に入団したとしても、時間をおかずに海外移籍を希望する若手選手が続出するだろう。
さて、次は広島が読売に対してだれを人的補償として要求するのか。筆者の予想は左のワンポイント・戸根投手だったが、どうやら当たらなそうな予想が濃厚だ。
内海を獲得した西武は大儲け
西武は炭谷を放出して、内海と2,280万円(炭谷の年俸・5,700万円×40%*ランクB=2,280万円+人的補償としての内海)を獲得したことになる。炭谷と内海の1対1のトレードなら2,280万円は入らなかったわけだから、西武はお得な商売をしたことになる。内海と炭谷の1対1のトレードは、西武はもちろんOKだろうが、読売には話にならない商談だったに違いない。
一方の読売の判断はどうなのだろうか。内海ほどの功労者をプロテクトしなかったのは非情という意見もある。来年、内海が再度、FA宣言して読売に戻るという推測もあるが、西武が人的補償を求めれば、また新たな違う選手を西武にとられることになるので、西武と読売のFA⇔人的補償の循環が永年続くまで。
原辰徳の内海外しは一岡のトラウマから
内海をプロテクトしなかったのは、GMを兼ねた原辰徳(読売の新=出戻り監督)の判断だと思う。FA・人的補償となると、メディアが常に話題にするのが読売の失敗事例、一岡投手の放出である。
一岡投手(当時読売)は大竹投手(当時広島)のFA宣言による読売入団の人的補償で2013年に広島に入団し、以降、2014シーズンから今日まで、広島の貴重な中継ぎ投手として活躍を続けている。その一方、読売に移籍した大竹投手は一年目こそ活躍したものの、以降の成績は下降続き。その結果として、読売のFAの人的補償の失敗事例として、語り継がれている。
一岡投手をプロテクトしなかったそのときの読売の監督が原辰徳だった。おそらくこの失敗は、原辰徳及び読売球団のトラウマとなり、今年のFAでは多くの若手選手をプロテクトしたのではないか。若い才能が他球団で花開いたとしたら、読売は若手を育成できない、読売が若手選手の才能を見通せない――という評価が定着する。そうなれば、球団のイメージはより悪化する。ドラフトで読売に入団したとしても、時間をおかずに海外移籍を希望する若手選手が続出するだろう。
さて、次は広島が読売に対してだれを人的補償として要求するのか。筆者の予想は左のワンポイント・戸根投手だったが、どうやら当たらなそうな予想が濃厚だ。
2018年12月19日水曜日
2018年12月8日土曜日
2018年12月5日水曜日
高輪ゲートウェイは歴史・文化の破壊である
民俗学者で日本地名研究所長であった谷川 健一(1921-2013)は、“地名は大地に刻まれた刺青である”という意味のことを言った。戦後の住居表示法施行に伴う地名変更が行政により進められ、多くの貴重な町名等が失われた状況を憂いた発言だった。それでも、学校名、駅名、バスの停留所等に地名を残す努力が続けられてきた。
さて、「高輪ゲートウェイ」である。恥ずかしい。江戸東京の歴史、文化に対する冒涜である。かつて国鉄は、山手線の新駅に「御徒町」という由緒ある駅名を冠した。この地域は、江戸期、御徒と呼ばれた下級武士(騎乗を許されない歩兵)が居住した地域であったのだが、前出の町名変更により、台東という表示に変更されてしまった結果、町名としての御徒町は消滅した。国鉄はそれを新駅名として後世に残したのである。その国鉄は解体され、東京を走る旧国鉄の鉄道は、JR東日本という民営企業が引き継いだ。
このたびの山手線新駅の駅名については、一般公募したにもかかわらず、公募数下位の「高輪ゲートウェイ」に決まったという。公募は形式であって、JR東日本が「高輪ゲートウェイ」という駅名をあらかじめ決定していたと思われる。つまり、社長決済による決定であろう。命名者はJR東日本の現社長である。
新駅名を得意げに発表するJR 東日本の某社長の風貌からは、失礼ながら歴史、文化、民俗学に思いをはせるリベラルアーツが感じられない。この駅名はほぼ永遠に近い時間、東京に残されることになろう。某社長の名前は、この愚かな駅名の命名者として、無教養の経営者として、歴史・文化の破壊者として、刺青のごとく消え去ることがない。愚かというよりも、哀れである。
さて、「高輪ゲートウェイ」である。恥ずかしい。江戸東京の歴史、文化に対する冒涜である。かつて国鉄は、山手線の新駅に「御徒町」という由緒ある駅名を冠した。この地域は、江戸期、御徒と呼ばれた下級武士(騎乗を許されない歩兵)が居住した地域であったのだが、前出の町名変更により、台東という表示に変更されてしまった結果、町名としての御徒町は消滅した。国鉄はそれを新駅名として後世に残したのである。その国鉄は解体され、東京を走る旧国鉄の鉄道は、JR東日本という民営企業が引き継いだ。
このたびの山手線新駅の駅名については、一般公募したにもかかわらず、公募数下位の「高輪ゲートウェイ」に決まったという。公募は形式であって、JR東日本が「高輪ゲートウェイ」という駅名をあらかじめ決定していたと思われる。つまり、社長決済による決定であろう。命名者はJR東日本の現社長である。
新駅名を得意げに発表するJR 東日本の某社長の風貌からは、失礼ながら歴史、文化、民俗学に思いをはせるリベラルアーツが感じられない。この駅名はほぼ永遠に近い時間、東京に残されることになろう。某社長の名前は、この愚かな駅名の命名者として、無教養の経営者として、歴史・文化の破壊者として、刺青のごとく消え去ることがない。愚かというよりも、哀れである。
2018年12月2日日曜日
NPB、今年最後のお楽しみ(読売の人的補償選手は?)
炭谷(西武)、丸(広島)のFAによる読売への移籍が決まった。そのことによって人的補償で読売から出ていく選手がだれになるのか、2018-シーズンオフ、最後のお楽しみといったところ。NPBファンは、読売のプロテクトから外れる選手の予想に興味津々である。人的補償選手を予想るす前に、FA制度により発生する補償の概要を確認しておく。
(一)FA宣言した選手のランク付け
FA宣言した選手が他球団に移籍した場合、移籍された球団はその見返り(補償)を移籍先に求めることができる。補償は、移籍した選手の元球団の年俸による〈格付け〉に基づく。〈格付け〉は、日本人選手の旧年俸順に上位3位までを〈ランクA〉、4位から10位までを〈ランクB〉、11位以下を〈ランクC〉とする。〈ランクA〉と〈ランクB〉がFA移籍した場合に限り補償が発生する。
炭谷(西武)は〈ランクB〉、丸(広島)は〈ランクA〉であるから、西武、広島とも読売に対し補償を求めることができる。補償は、〔金銭補償〕+〔人的補償〕である。
(二)補償の内容
〔金銭補償〕
移籍先球団は〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の50%(2度目以降のFAでは25%)を、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の40%(2度目以降のFAでは20%)を前球団へ支払わなければならない。
〔人的補償〕
移籍先球団は前球団が指名した上記の獲得制限外の選手1名を与えなければならない。ただし前球団が求めない場合は、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、〈ランクB〉の選手獲得の場合は上記の獲得制限外の選手1名または旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を前球団へ支払わなければならない。
人的補償を求めない場合(金銭補償に加えて、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を得ることができる。
(三)丸(広島)の場合の実際の補償内容
丸(推定年俸2.1億円)のFA移籍により、広島は読売から金銭補償として、2.1×0.5=1.05億円が入る。人的補償をしない場合、1.05+2.1×0.3(=0.63)=1.68億円が入る。広島は6300万円か人的補償を選択することになるわけだが、人的補償のほうが魅力的であるから、前出の金銭補償に加えて人的補償を求める。
(四)人的補償と獲得制限選手(プロテクト)
獲得制限選手名簿(28名)がいわゆるプロテクトであり、プロテクトから外れた選手が人的補償対象選手である。前球団はその中からチーム強化に必要とする選手を移籍先球団に申し出ることとなる。また、前球団が人的補償できないのは、プロテクトした28名の選手のほか、FA権取得により外国人枠の適用外になった選手を含む外国人選手、直近のドラフトで獲得した新人選手である。
(五)西武と広島の人的補償の優先順位
複数名のFA宣言選手と契約した場合には、それぞれの球団に異なる獲得可能選手リストを提示できる。万一、人的補償選手が複数の球団で重複した場合には、移籍先球団と同一連盟内の球団が優先される。同一連盟内であれば同年度の勝率が低い球団が優先される。読売は炭谷(西武)と丸(西武)の2選手をFAで獲得したから、西武と広島がともに人的補償を要求した場合、双方に向けて2種類のプロテクト名簿を提出する。西武と広島が同一選手の獲得を申し出た場合は、広島に優先権がある。
(六)補償に係る日程
補償に関する日程は、まずFA選手と移籍先球団との選手契約締結がコミッショナーより公示された日が起点となり、2週間以内にまず移籍先球団が上記の獲得制限選手を除いた選手名簿を提示する。この後起点より40日以内に全ての補償を完了しなければならないが、金銭補償に限り前球団の同意があれば40日を延長することができる。人的補償として選ばれた選手が移籍を拒否した場合、その選手は資格停止選手となり処分が解除されるまで試合をすることができなくなる。補償は金銭補償のみだった場合と同じになる。
(七)プロテクトから外れる読売の選手は?
読売がプロテクトする28選手及び外れる選手を予想すると――
プロテクトか人的補償対象かのボーダーラインにいる選手は、先発投手陣では昨シーズン1勝の大竹及び桜井。リリーフでは谷岡、池田、利根。大竹が人的補償として広島が指名すると、古巣復帰となる。捕手は阿部が捕手復帰を希望しているというから、宇佐美あたりか。野手では、ユーティリティープレイヤーの中島の入団で、同タイプの吉川大ではないか。
(八)西武、広島が人的補償で獲得する選手
西武、広島は野手が豊富。補償の優先順位は投手→捕手→野手 の順になろう。プロテクトから外した読売の選手のうち、広島、西武が欲しい選手はいるか。筆者の見立てでは、広島が投手で、西武が捕手。ずばり、広島が左のワンポイントの利根、西武が炭谷の代替として宇佐美を人的補償として要求すると思う。
(一)FA宣言した選手のランク付け
FA宣言した選手が他球団に移籍した場合、移籍された球団はその見返り(補償)を移籍先に求めることができる。補償は、移籍した選手の元球団の年俸による〈格付け〉に基づく。〈格付け〉は、日本人選手の旧年俸順に上位3位までを〈ランクA〉、4位から10位までを〈ランクB〉、11位以下を〈ランクC〉とする。〈ランクA〉と〈ランクB〉がFA移籍した場合に限り補償が発生する。
炭谷(西武)は〈ランクB〉、丸(広島)は〈ランクA〉であるから、西武、広島とも読売に対し補償を求めることができる。補償は、〔金銭補償〕+〔人的補償〕である。
(二)補償の内容
〔金銭補償〕
移籍先球団は〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の50%(2度目以降のFAでは25%)を、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の40%(2度目以降のFAでは20%)を前球団へ支払わなければならない。
〔人的補償〕
移籍先球団は前球団が指名した上記の獲得制限外の選手1名を与えなければならない。ただし前球団が求めない場合は、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、〈ランクB〉の選手獲得の場合は上記の獲得制限外の選手1名または旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を前球団へ支払わなければならない。
人的補償を求めない場合(金銭補償に加えて、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を得ることができる。
(三)丸(広島)の場合の実際の補償内容
丸(推定年俸2.1億円)のFA移籍により、広島は読売から金銭補償として、2.1×0.5=1.05億円が入る。人的補償をしない場合、1.05+2.1×0.3(=0.63)=1.68億円が入る。広島は6300万円か人的補償を選択することになるわけだが、人的補償のほうが魅力的であるから、前出の金銭補償に加えて人的補償を求める。
(四)人的補償と獲得制限選手(プロテクト)
獲得制限選手名簿(28名)がいわゆるプロテクトであり、プロテクトから外れた選手が人的補償対象選手である。前球団はその中からチーム強化に必要とする選手を移籍先球団に申し出ることとなる。また、前球団が人的補償できないのは、プロテクトした28名の選手のほか、FA権取得により外国人枠の適用外になった選手を含む外国人選手、直近のドラフトで獲得した新人選手である。
(五)西武と広島の人的補償の優先順位
複数名のFA宣言選手と契約した場合には、それぞれの球団に異なる獲得可能選手リストを提示できる。万一、人的補償選手が複数の球団で重複した場合には、移籍先球団と同一連盟内の球団が優先される。同一連盟内であれば同年度の勝率が低い球団が優先される。読売は炭谷(西武)と丸(西武)の2選手をFAで獲得したから、西武と広島がともに人的補償を要求した場合、双方に向けて2種類のプロテクト名簿を提出する。西武と広島が同一選手の獲得を申し出た場合は、広島に優先権がある。
(六)補償に係る日程
補償に関する日程は、まずFA選手と移籍先球団との選手契約締結がコミッショナーより公示された日が起点となり、2週間以内にまず移籍先球団が上記の獲得制限選手を除いた選手名簿を提示する。この後起点より40日以内に全ての補償を完了しなければならないが、金銭補償に限り前球団の同意があれば40日を延長することができる。人的補償として選ばれた選手が移籍を拒否した場合、その選手は資格停止選手となり処分が解除されるまで試合をすることができなくなる。補償は金銭補償のみだった場合と同じになる。
(七)プロテクトから外れる読売の選手は?
読売がプロテクトする28選手及び外れる選手を予想すると――
- 投手(13)=澤村、菅野、畠、山口俊、今村、田口、鍬原、宮國、内海、野上、吉川光、高田、中川(森福、大竹、桜井、谷岡、池田、戸根、高木京、大江)
- 捕手(2)=小林、大城(宇佐美、岸田、田中貴)
- 内野(6)=吉川尚、坂本・阿部・岡本・山本、田中俊(北村、若林、湯浅、増田、吉川大)
- 外野(7)=陽、長野、亀井、重信、石川、松原、和田恋(立岡、村上)
- 28選手がプロテクト選手。赤太字がプロテクト外=人的補償対象選手
プロテクトか人的補償対象かのボーダーラインにいる選手は、先発投手陣では昨シーズン1勝の大竹及び桜井。リリーフでは谷岡、池田、利根。大竹が人的補償として広島が指名すると、古巣復帰となる。捕手は阿部が捕手復帰を希望しているというから、宇佐美あたりか。野手では、ユーティリティープレイヤーの中島の入団で、同タイプの吉川大ではないか。
(八)西武、広島が人的補償で獲得する選手
西武、広島は野手が豊富。補償の優先順位は投手→捕手→野手 の順になろう。プロテクトから外した読売の選手のうち、広島、西武が欲しい選手はいるか。筆者の見立てでは、広島が投手で、西武が捕手。ずばり、広島が左のワンポイントの利根、西武が炭谷の代替として宇佐美を人的補償として要求すると思う。
2018年12月1日土曜日
2018年11月30日金曜日
徒然なるままにNPB‐2018シーズンをふり返る
NPB‐2018シーズンは、広島の丸のFAによる読売入団をもって幕を閉じた。そこで、徒然なるままに今年のNPBをふり返ってみよう。
セは1強(広島)、5弱が継続
セリーグが広島、パリーグは西武が優勝した。CSはセが広島、パはソフトバンクが制し、日本シリーズはソフトバンクが優勝した。
筆者のリーグ戦セリーグ順位予想は3月14日付の拙Blogにて示したとおり、1.広島、2.阪神、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.ヤクルト の順であった。
結果は、1.広島、2.ヤクルト、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.阪神となり、ヤクルトと阪神の順位がそっくり入れ替わっていた。ほかの4球団の順位は予想どおりで、なんとも奇妙な順位となった。筆者の予想が当たったわけではないが、それなりの結果だったと思う。要するに2018シーズンのセリーグは昨年と同様、1強(広島)5弱(ほか5球団)の構図に変化がなかった。
金本(阪神前監督)に采配のキレなし
5弱の分析をしても意味はないと思うが、2位と予想した阪神が最下位にまで沈んだのは意外だった。その第一の要因は金本采配。筆者及びメディアが阪神の戦力を過大評価したこともあるが、それ以上に金本采配に疑問が多かった。
加えて2018年は夏季に猛暑が続き、野球界全体に打高投低傾向が著しかった。阪神打線は糸井、福留のベテラン頼り。とうとう彼らにも衰えが顕著になった。しかるに、若手が伸び悩んだ。要するに、ベテラン頼みで若手育成に失敗したまま、シーズンを迎えてしまったわけだ。金本采配も疑問だらけ・・・最下位は必然だった。
分厚い選手層で、読売3位を死守
ペナントレースで3位となった読売。分厚い選手層でどうにかAクラスに踏みとどまった。この球団も故障者に泣かされた。投手陣ではマシソン、カミネロ(退団)、ヤングマン、桜井、畠、西村(引退)、杉内(引退)が戦力にならなかった。打線も坂本、吉川尚、陽、長野、ゲレーロ(体調不良?)、石川らが長期間、戦列を離れた。これだけの選手が戦列を離れながら3位をキープできたのは繰り返すが、ぶ厚い選手層ゆえだ。2球団分の選手を抱えている。
岡本(読売)の成長は筆者には大サプライズ
読売の、というよりもNPB最大のサプライズは岡本の大活躍。入団一年目(2015年)はともかくとして、彼の2年目(2016年)の成績は、打率.100(3試合、10打数、1安打、0本塁打、打点0、三振2)。続く2017年は、打率.194(15試合、31打数、6安打、0本塁打、打点0、三振10)にとどまった。
ところが今シーズンにはなんと、打率.309(143試合、540打数、167安打、33本塁打、100打点、120三振)の強打者に大変身した。3年間の平均打率が1割台の選手が4年目にして、これだけ打撃成績が向上した事例については覚えがない。大変身、大サプライズ、大驚愕という表現でも足りない。アスリートとはこんなものか。
爆買い再開した読売
岡本の活躍に象徴されるように、読売は高橋(前監督)体制3年目で若手育成への方針転換の兆が見えたものの、高橋の退任、原元監督の再就任で、以前のFA制度依存体質に戻ってしまった。2018オフシーズンのFAで炭谷捕手(西武)、そして超大物の丸外野手(広島)を獲得。オリックスを自由契約になった中島内野手、MLBパドレスで20本塁打の実績を誇るビヤヌエバ(内外野手)も獲得した。
阿部が捕手復帰を表明しているから、読売が想定する野手陣のレギュラー(先発)候補と序列は以下のように予想される。
捕手=炭谷→小林→阿部(1塁)→大城(捕手)
1塁=ビヤヌエバ→阿部(捕手)→岡本(三塁)→大城(捕手)
2塁=中島→吉川尚→田中俊→山本
3塁=岡本→中島→吉川大
遊撃=坂本→吉川尚→山本
左翼=ゲレーロ→(ビヤヌエバ→亀井→重信)
中堅=丸→(ビヤヌエバ→陽→亀井→重信)
右翼=長野→(ビヤヌエバ→亀井→陽→重信)
一軍ベンチ入りが微妙なのが炭谷に押し出される大城、宇佐美。大城は打撃センスを買われて一塁の練習に取り組んでいるようだから、宇佐美よりは一軍出場機会が残されているかもしれない。中島に押し出されるのが吉川大、山本。ビヤヌエバに押し出されるのが阿部になるが、阿部も捕手復帰と代打でベンチ外というのは考えられない。
読売が補強した丸、ビヤヌエバ、炭谷、中島の4選手と2年目のゲレーロは年俸1億円を超える選手たち。8枠のうち5枠が補強選手及び外国人選手で占められる。次いで、坂本、岡本の2枠がレギュラー確約だから、空席は1。その一席も長野、亀井、陽との争いに勝たなければならない。読売の若手の出場機会は、前出のレギュラーに故障者が出た場合か、不調に陥った場合に限られる。
読売の爆買い効果は微々たるもの
読売の爆買い補強はチーム強化につながるのだろうか。もちろん答えは「NO」。2018シーズンの1点差ゲーム勝率 をみると(読売はチーム防御率リーグ1位なのにもかかわらず)、セリーグの最下位で他の5球団に比べて著しく低い。
その主因はセットアッパー、クローザーの人材不足。クローザーとして期待された澤村の防御率が4.64(49登板)、カミネロが同5.79(20)、セットアッパーとして期待された上原が3.63(36)、マシソンが2.97(34)とこちらも芳しくない。
リリーフ陣となると、池田4.07(27)、谷岡5.76(25)、田原2.56(29)、中川5.02(30)、宮國1.97(29)、吉川光4.26(22、先発登板を含む)となり、防御率1点台は宮國ただ一人。読売が強化すべきは、投手陣しかも中継ぎ、抑えであった。
しかるに、今シーズンオフ(2018/11/30)時点において、読売が投手陣強化のための補強情報は伝えられていない。来シーズン開幕前までに読売フロントが行わなければならない第一の仕事は、外国人を含めたクローザー及びセットアッパー探しだ。頭数だけでも上原、カミネロの抜けた穴を補修しなければならない。
丸のFA移籍について
FA宣言した丸(広島)が本日(11/30)、読売入団を公表した。この結果は驚くに当たらない。彼がFA宣言した時点で、その行き先が読売であろうことはだれもが予想し得た。契約金、契約年数、引退後の待遇等において、金満・読売に勝てるところはない。心情的には広島残留してほしいが、選手生命は短い。稼げるときに稼ぐべきだ。
丸は読売で活躍できるのか
丸が2019シーズン、新天地・読売で活躍できるのか。筆者は、ある程度の成績を残すだろうが、2018を下回ると予想する。
その理由は、彼の打撃フォームが変則であること。丸の打撃フォームの特徴は、バットの先端を揺らせてタイミングをとる点。このフォームはタイミングを狂わせると、長期スランプに陥る難点をもっている。極めて微妙な動きをインパクトの前に取り入れる。ボールを打つ前に一段階余分の動作をとる。そこにリスクが生じる。好調時のタイミングをひとたび失うと、一気に崩れる。崩れの要因は、①加齢による体力の衰え及び動体視力低下、②精神面の変調及び環境変化、③相手投手の研究――などによる。どれか一つというよりも、複合的要因として丸を襲う。丸が打撃フォームを崩せば当然、打率は下がるし打点も上がらなくなる。読売という人気球団のプレッシャー及び広島退団の後悔などが丸を襲い、心労が重なる。打撃不振は長期に及ぶだろう。彼の成績は2018シーズンを頂点として、以降、下り坂に向かう。
丸は読売との試合でよく打った。ところが、その読売に入団したのだから、得意球団が減ったことになる。広島(投手陣)は丸の弱点を知り尽くしているから、広島投手陣はそこをついてくる。他球団も広島の攻め方を真似るから、その結果だけでも、丸の打撃成績は落ちる。丸も広島投手陣を知り尽くしているが、読売投手陣と同程度打ち崩せるかというと、そうはいかない(と筆者は思う)。
読売・阿部の捕手再転向
これは論ずるに値しない。まず成功はない。阿部が捕手にすわれば、他球団に盗塁のチャンスが生まれる。
今シーズンの日本シリーズでソフトバンクの甲斐捕手が広島の足を封じMVPに選ばれ、「甲斐キャノン」という新語を生んだ。
甲斐が強肩の持ち主であることは間違いないが、それ以上に下半身が素晴らしい。捕球してから投球動作に至るフットワーク(わずか1歩半程度だが)と、腰を下ろした姿勢から投球動作をつくる立ち上がるスピードがすごい。その基盤となっているのが下半身の安定、強さ、速さだ。
二塁投球の正確なコントロールを支えているのは甲斐の強い体幹だ。天性の身体の強さと適正なトレーニングの結果だろう。阿部が甲斐のような捕手に復活することは、奇跡が起きない限り無理だ。
セは1強(広島)、5弱が継続
セリーグが広島、パリーグは西武が優勝した。CSはセが広島、パはソフトバンクが制し、日本シリーズはソフトバンクが優勝した。
筆者のリーグ戦セリーグ順位予想は3月14日付の拙Blogにて示したとおり、1.広島、2.阪神、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.ヤクルト の順であった。
結果は、1.広島、2.ヤクルト、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.阪神となり、ヤクルトと阪神の順位がそっくり入れ替わっていた。ほかの4球団の順位は予想どおりで、なんとも奇妙な順位となった。筆者の予想が当たったわけではないが、それなりの結果だったと思う。要するに2018シーズンのセリーグは昨年と同様、1強(広島)5弱(ほか5球団)の構図に変化がなかった。
金本(阪神前監督)に采配のキレなし
5弱の分析をしても意味はないと思うが、2位と予想した阪神が最下位にまで沈んだのは意外だった。その第一の要因は金本采配。筆者及びメディアが阪神の戦力を過大評価したこともあるが、それ以上に金本采配に疑問が多かった。
加えて2018年は夏季に猛暑が続き、野球界全体に打高投低傾向が著しかった。阪神打線は糸井、福留のベテラン頼り。とうとう彼らにも衰えが顕著になった。しかるに、若手が伸び悩んだ。要するに、ベテラン頼みで若手育成に失敗したまま、シーズンを迎えてしまったわけだ。金本采配も疑問だらけ・・・最下位は必然だった。
分厚い選手層で、読売3位を死守
ペナントレースで3位となった読売。分厚い選手層でどうにかAクラスに踏みとどまった。この球団も故障者に泣かされた。投手陣ではマシソン、カミネロ(退団)、ヤングマン、桜井、畠、西村(引退)、杉内(引退)が戦力にならなかった。打線も坂本、吉川尚、陽、長野、ゲレーロ(体調不良?)、石川らが長期間、戦列を離れた。これだけの選手が戦列を離れながら3位をキープできたのは繰り返すが、ぶ厚い選手層ゆえだ。2球団分の選手を抱えている。
岡本(読売)の成長は筆者には大サプライズ
読売の、というよりもNPB最大のサプライズは岡本の大活躍。入団一年目(2015年)はともかくとして、彼の2年目(2016年)の成績は、打率.100(3試合、10打数、1安打、0本塁打、打点0、三振2)。続く2017年は、打率.194(15試合、31打数、6安打、0本塁打、打点0、三振10)にとどまった。
ところが今シーズンにはなんと、打率.309(143試合、540打数、167安打、33本塁打、100打点、120三振)の強打者に大変身した。3年間の平均打率が1割台の選手が4年目にして、これだけ打撃成績が向上した事例については覚えがない。大変身、大サプライズ、大驚愕という表現でも足りない。アスリートとはこんなものか。
爆買い再開した読売
岡本の活躍に象徴されるように、読売は高橋(前監督)体制3年目で若手育成への方針転換の兆が見えたものの、高橋の退任、原元監督の再就任で、以前のFA制度依存体質に戻ってしまった。2018オフシーズンのFAで炭谷捕手(西武)、そして超大物の丸外野手(広島)を獲得。オリックスを自由契約になった中島内野手、MLBパドレスで20本塁打の実績を誇るビヤヌエバ(内外野手)も獲得した。
阿部が捕手復帰を表明しているから、読売が想定する野手陣のレギュラー(先発)候補と序列は以下のように予想される。
捕手=炭谷→小林→阿部(1塁)→大城(捕手)
1塁=ビヤヌエバ→阿部(捕手)→岡本(三塁)→大城(捕手)
2塁=中島→吉川尚→田中俊→山本
3塁=岡本→中島→吉川大
遊撃=坂本→吉川尚→山本
左翼=ゲレーロ→(ビヤヌエバ→亀井→重信)
中堅=丸→(ビヤヌエバ→陽→亀井→重信)
右翼=長野→(ビヤヌエバ→亀井→陽→重信)
一軍ベンチ入りが微妙なのが炭谷に押し出される大城、宇佐美。大城は打撃センスを買われて一塁の練習に取り組んでいるようだから、宇佐美よりは一軍出場機会が残されているかもしれない。中島に押し出されるのが吉川大、山本。ビヤヌエバに押し出されるのが阿部になるが、阿部も捕手復帰と代打でベンチ外というのは考えられない。
読売が補強した丸、ビヤヌエバ、炭谷、中島の4選手と2年目のゲレーロは年俸1億円を超える選手たち。8枠のうち5枠が補強選手及び外国人選手で占められる。次いで、坂本、岡本の2枠がレギュラー確約だから、空席は1。その一席も長野、亀井、陽との争いに勝たなければならない。読売の若手の出場機会は、前出のレギュラーに故障者が出た場合か、不調に陥った場合に限られる。
読売の爆買い効果は微々たるもの
読売の爆買い補強はチーム強化につながるのだろうか。もちろん答えは「NO」。2018シーズンの1点差ゲーム勝率 をみると(読売はチーム防御率リーグ1位なのにもかかわらず)、セリーグの最下位で他の5球団に比べて著しく低い。
その主因はセットアッパー、クローザーの人材不足。クローザーとして期待された澤村の防御率が4.64(49登板)、カミネロが同5.79(20)、セットアッパーとして期待された上原が3.63(36)、マシソンが2.97(34)とこちらも芳しくない。
リリーフ陣となると、池田4.07(27)、谷岡5.76(25)、田原2.56(29)、中川5.02(30)、宮國1.97(29)、吉川光4.26(22、先発登板を含む)となり、防御率1点台は宮國ただ一人。読売が強化すべきは、投手陣しかも中継ぎ、抑えであった。
しかるに、今シーズンオフ(2018/11/30)時点において、読売が投手陣強化のための補強情報は伝えられていない。来シーズン開幕前までに読売フロントが行わなければならない第一の仕事は、外国人を含めたクローザー及びセットアッパー探しだ。頭数だけでも上原、カミネロの抜けた穴を補修しなければならない。
丸のFA移籍について
FA宣言した丸(広島)が本日(11/30)、読売入団を公表した。この結果は驚くに当たらない。彼がFA宣言した時点で、その行き先が読売であろうことはだれもが予想し得た。契約金、契約年数、引退後の待遇等において、金満・読売に勝てるところはない。心情的には広島残留してほしいが、選手生命は短い。稼げるときに稼ぐべきだ。
丸は読売で活躍できるのか
丸が2019シーズン、新天地・読売で活躍できるのか。筆者は、ある程度の成績を残すだろうが、2018を下回ると予想する。
その理由は、彼の打撃フォームが変則であること。丸の打撃フォームの特徴は、バットの先端を揺らせてタイミングをとる点。このフォームはタイミングを狂わせると、長期スランプに陥る難点をもっている。極めて微妙な動きをインパクトの前に取り入れる。ボールを打つ前に一段階余分の動作をとる。そこにリスクが生じる。好調時のタイミングをひとたび失うと、一気に崩れる。崩れの要因は、①加齢による体力の衰え及び動体視力低下、②精神面の変調及び環境変化、③相手投手の研究――などによる。どれか一つというよりも、複合的要因として丸を襲う。丸が打撃フォームを崩せば当然、打率は下がるし打点も上がらなくなる。読売という人気球団のプレッシャー及び広島退団の後悔などが丸を襲い、心労が重なる。打撃不振は長期に及ぶだろう。彼の成績は2018シーズンを頂点として、以降、下り坂に向かう。
丸は読売との試合でよく打った。ところが、その読売に入団したのだから、得意球団が減ったことになる。広島(投手陣)は丸の弱点を知り尽くしているから、広島投手陣はそこをついてくる。他球団も広島の攻め方を真似るから、その結果だけでも、丸の打撃成績は落ちる。丸も広島投手陣を知り尽くしているが、読売投手陣と同程度打ち崩せるかというと、そうはいかない(と筆者は思う)。
読売・阿部の捕手再転向
これは論ずるに値しない。まず成功はない。阿部が捕手にすわれば、他球団に盗塁のチャンスが生まれる。
今シーズンの日本シリーズでソフトバンクの甲斐捕手が広島の足を封じMVPに選ばれ、「甲斐キャノン」という新語を生んだ。
甲斐が強肩の持ち主であることは間違いないが、それ以上に下半身が素晴らしい。捕球してから投球動作に至るフットワーク(わずか1歩半程度だが)と、腰を下ろした姿勢から投球動作をつくる立ち上がるスピードがすごい。その基盤となっているのが下半身の安定、強さ、速さだ。
二塁投球の正確なコントロールを支えているのは甲斐の強い体幹だ。天性の身体の強さと適正なトレーニングの結果だろう。阿部が甲斐のような捕手に復活することは、奇跡が起きない限り無理だ。
2018年11月28日水曜日
『江戸東京の聖地を歩く』
●岡本亮輔〔著〕 ●ちくま新書 ●940円+税
聖地というと、一昔前までは聖人の生誕地やその遺物が保管されているところ、あるいは、奇跡の起こったところ、超人的霊力が発せられるところ、特別な事件等が起きたところ…だと思われていた。ところが最近では、アニメや映画のファンにとっての〈聖地〉は、その中に描かれた「印象的シーン」の現場であり、呑み助の親父にとっての〈聖地〉は粋な「居酒屋」であり、野球好きの青少年にとっての〈聖地〉は「甲子園」…といった具合である。このような聖地の変化を換言すれば、聖地とはある者にとっての特別な場所といった意味にまで拡張される。
聖地を個人の体験・意識レベルまで還元すれば、恋愛を成就し結ばれた男(女)にとって、はじめてデートした場所を聖地と見做すこともできる。しかし、それを聖地とはとても呼ぶことができない。個人レベルにおける特別な場所が〈聖地〉となるためには、そこに物語性が付加され、世間一般に認知される必要がある。一対の恋人同士が結ばれたデートスポットの情報が多数の者に共有され、神聖視されなければならない。そこで初めて、無名のデートスポットが聖地へと変容する。
聖地とは何か
著者(岡本亮輔)は聖地を次のように定義する。
聖地の条件――場所・物語・伝達
・聖地に紐づく物語を紡ぐ者
聖地を構成する要素は、〈場所〉〈物語・神話化=作家〉〈伝達する者〉となる。場所はいうまでもない。が、物語、伝達はだれがどのようにつくりあげるのか。口コミも無視できないものの、それだけでは聖地として広域化するのは不可能だ。古代、中世、近世までは、芸能者が素朴な言い伝えを人々が関心を寄せる面白い話に創作した。
・史学と詩学の融合
近世・近代・現代では、マスメディアの発達と平行して、聖地に紐づく物語を量産化したのが作家である。著者(岡本亮輔)は、聖地=近藤勇墓所(東京・板橋区)を論ずる箇所(第6章)において、新選組頭目・近藤勇の神話化に果たした司馬遼太郎の「功績」について次のように書いている。
近代・現代に入ると、九州日報主幹の福本日南が著した『元禄快挙録』、浪曲師・桃中軒雲衛門が演じた『義士銘々伝』が人気を博し、続いて昭和になると、大佛次郎作の『赤穂浪士』をNHKテレビが大河ドラマに仕立て、赤穂浪士人気を不動のものにした。その大河ドラマは、驚異的視聴率を稼いだという。こうして泉岳寺は赤穂浪士の霊が祀られた聖地として、今日でも人気の場所である。
・物語を伝達する者
伝達する者にも変遷がみられる。古代・中世・近世前期において物語の伝達を担ったのは非農業民であった。一般に移動の自由が制限された時代に日本各地を遊行できたのは漂泊の民である。彼らの出自は古代、平民に対し職人と呼ばれた者に由来する。みずからの身につけた職能を通じて、天皇家、摂関家、民仏神と結びつき、供御人(くごにん)、殿下細工、寄人(よりうど)、神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに、平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか、交通上の特権などを保証された。その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられたのである。中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が台頭し、全国を移動する自由をもった彼らが情報伝達の役を担ったと思われる。(参考:平凡社世界大百科事典)
近世の中後期になると、瓦版、絵本、図鑑、書物等の紙のメディアが都市を中心に発達した。その結果、非農業民の口伝に加えて、都市を中心にそれらも情報伝達の役を担った。近代、現代ではいうまでもなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビといったマスメディアであり、ポストモダンのいまではマスメディアとともに、SNSが聖地形成の重要な手段となっている。
帝国主義権力と聖地
本題にある江戸東京は、大雑把には4つの時代に区分される。
(1)古代、中世まで、この地は京(中央)から遠い辺境の地。とはいえ、中央の文化(文学、芸能、宗教等)は当然のことながら、この地にも移入されていた。
(2)近世からは、江戸幕府が置かれた中央に格上げされ、江戸は世界有数の規模を誇る都市に成長した。
(3)明治維新後は帝都・東京として発展を続けた。
(4)アジア太平洋戦争の日本帝国の敗戦で壊滅的打撃を受けた東京だが、奇跡の復活を遂げ、世界的メガシティとして繁栄を取り戻し今日に至っている。
なかで江戸東京の大転換は(3)の時代である。まず江戸幕府の聖地の破壊が進行した。たとえば、徳川家の菩提寺である寛永寺が上野戦争で焼失したことを機に、寛永寺という幕府の聖地は破壊され博覧会の会場となり、その後、恩賜公園として整備された。(P122~)
明治維新後の日本は日清、日露、第一次世界大戦、中国侵略、アジア太平洋戦争と、帝国主義戦争の時代であった。そして、帝国主義戦争を継続した体制によって、その維持に資するための「聖地」が体制の手によってつくられた。
1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの期間につくられたいわば官製の「聖地」は、本書に書かれたほかの聖地のどれとも異なる。生活者が塗炭の苦しみから助けを求めてすがった神社仏閣、偉人、聖人とはかけ離れた、「軍神」と呼ばれる者(に関係する地)が帝国主義国家の「聖地」とされた。彼らの「偉業」を物質化するために銅像や慰霊碑が建立され、その「偉業」を讃えるための「教育」が修身の名のもとに児童生徒に施された。このような聖地(そこに建てられた銅像や慰霊碑を含む)は、国体護持のためのアイコンにすぎない。
本書は取り上げていない聖地を二つほど紹介しよう。その第一は二宮尊徳の像だ。この像はかつて、日本のいたるところの小中学校に建てられていたという。薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)から聖なる感覚は呼び起こされるには至らないが、そこには権力側が望む人間像――休むことなく労働と勉学に勤しむ奴隷的労働者を奨励する帝国主義国家の意図――が透けて見える。帝国主義国家が人民に強制する道徳観である。
二宮尊徳もまた、修身の教科書に取り入れられた。その像が学校に建立されるということは、尊徳(像)というアイコンにより、学校という空間の聖地化及び当時の軍国主義教育という観念の聖域化が帝国主義国家によって目指された結果である。
東京・渋谷駅前に建てられた「忠犬ハチ公」もその類である。今日「忠犬ハチ公」の像は待ち合わせ場所の目印となっていて、それを聖地と見做す人はいない。そもそもハチ公とは、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約10年間のあいだ待ち続けた犬(ペット)にすぎない。
ハチ公も帝国主義戦争のイデオロギーと無関係ではない。忠犬の「忠」は、上に素直に従う人格を象徴する語で、戦時下、上官の命令に忠実に従う兵士、及び、帝国主義政府の方針に文句を言わない人心――を醸成する物語として、修身の教科書に載せられ、広く国民の思想教育の具となった。
本書で取り上げられた「広瀬中佐像」(高山→東京・万世橋)、乃木神社(東京・港区)、東郷神社(東京・神宮前)も華々しい軍功が物語として語られ(もちろん事実ではない)、教科書に載せられ、臣民教育の一助とされた。それだけではない。これら「軍神」の像は彼らの故郷ではなく、帝都(東京)に建立されたことも忘れてはいけない。
聖地マーケティング
今日の「聖地」には、神社仏閣の経営戦略によって、大衆レベルに認知されたものが散見される。恋愛成就(縁結び)、健康志向等を背景にして、それらの祈願成就事例を創作し、それに関連するグッズを開発し、大量集客を求めて祈祷料、賽銭等を得ようとするものである。その結果、ほんらいの縁起と無関係の「聖地」が誕生している。その成功を意図的とするか、偶然によるものかの論議の余地はあるとしても。
・神前結婚という商品開発(東京大神宮)
文金島田の花嫁と羽織袴の花婿が神主の立会いのもと、三々九度を上げる神前結婚。日本古来の風習と思いきや、わずか100年前に東京大神宮(東京・千代田区富士見)で整備された儀礼だったとは(筆者は本書で初めて知った)。やがて全国の神社で一般化し、結婚式場の建設と平行して一般化し、今日に至っているという。筆者(岡本亮輔)は「重要なのは、神前結婚式が合理的な婚礼形式とみなされたことである。」(P200)と指摘するが。
・パワースポット・ブーム
新たな聖地がパワースポットと名を変えて形成されようとしている。アニメ、コミック、ラノベ(ライトノベル)等の若者向け表現が、LINE、フェイスブック、ツイッター、インスタグラム等のSNSによって拡散され、人々が集まりだした結果の新聖地の誕生である。知名度を得た新聖地は、グッズ(絵馬、御神籤、お守り等)や体験型商品(滝行、祈祷等)の開発に乗り出し、経営の一助としている。これら新聖地の事業の是非は論じない。聖地として信じる者には、そこが聖地なのだから。
聖地のいかがわしさ
“いかがわしい”という表現が適当かどうか迷ったが、ほかに適切な言葉が見つからなかったので使用する。本書に取り上げられた「縁切榎」という聖地についてである。「縁切榎」は現在の東京・板橋区にある。この榎に念ずれば、縁切りが可能だと信じられ大衆的支持を集め、聖地として今日に至っている。
江戸期、女性からの離縁は不可能だった。どんなに不幸な結婚生活を強いられようと、相手と縁が切れない。そのため離縁を果たそうとする女性の信仰を広く集めた。また、男が娼妓にはまって普通の生活ができなくなったことを憂えた家族が、娼妓との縁切りを願ったという事例もある。やがて縁切りは男女関係に限定されず、難病・悪病との縁切り、過度な飲酒の縁切り(=断酒)にまで拡張された。
さて、「縁切榎」にまつわる負(と筆者が感じた)事例を著者(岡本亮輔)が取り上げている。“1934年6月の朝日新聞には、恨みは「縁切榎」 縁談破れて娘服毒 という記事がある(P66)”と。
この事件は破談された22才の女性が揮発油を飲んで自殺未遂したというもの。義兄がもってきた縁談が途中までうまくいっていたが、破談にあう。その理由は男性側が、「縁切榎」の近くを通った女性を嫁にもらいたくないと言い出したせいだ。女性の実家が埼玉県の沼影にあり、帰郷するたびに「縁切榎」の横を通る。そのことを男性側が嫌がって破談にしたのだという。わずか80余年前にそんな迷信がと思うかもしれないが、それが事実なのだから仕方がない。
筆者は、この男性側の言い分を信じない。筆者の推測にすぎないが、女性が「縁切榎」を通ったというのは破談の真の理由ではなかろう。おそらく男性が別の良縁を得て、この縁談を破談にしたがったのだろう。ところが適当な理由が見つからない。そこで「縁切榎」を利用したのだ(と思う)。
男性からの一方的な破談の申し出なのだから、女性側に対して謝罪と慰謝があって当然なのだが、男性側がそれを回避して「縁切榎」という聖地を持ち出すとは、なんと卑劣な理由付けだと思うが、女性の一方的な泣き寝入りである。服毒自殺未遂とは気の毒というほかない。聖地の悪用事例だと筆者は信ずる。
(おわりに)
聖地は、生活者のギリギリの願いや祈りによって形成されたものばかりとは限らない。近年、安易で手軽な聖地(化)もなくはない。体制側による民衆コントロールの具や、帝国主義イデオロギーの醸成のための聖地もある。権力の暴力的移行に伴い犠牲となった敗者の死――荒ぶる魂――を恐れた聖地もある。怨霊信仰に基づく勝者側の保身と畏怖でつくられた聖地である。近年では、寺院、神社の経営(マーケティング)のためにつくられた新しい聖地もある。先述のように、「縁切榎」という聖地を悪用したと思われる事例もある。
本書は江戸東京に限定された聖地の紹介であるが、読みごたえがあり、信頼のおける聖地論となっている。筆者の住まいに近い聖地が多数紹介されていて、一度は訪れてみたいと思わせる情報の質と量を備えている。本書の帯に記された「東京を味わう」というコピーはうってつけ――まさに良質の料理に例えられよう。
聖地というと、一昔前までは聖人の生誕地やその遺物が保管されているところ、あるいは、奇跡の起こったところ、超人的霊力が発せられるところ、特別な事件等が起きたところ…だと思われていた。ところが最近では、アニメや映画のファンにとっての〈聖地〉は、その中に描かれた「印象的シーン」の現場であり、呑み助の親父にとっての〈聖地〉は粋な「居酒屋」であり、野球好きの青少年にとっての〈聖地〉は「甲子園」…といった具合である。このような聖地の変化を換言すれば、聖地とはある者にとっての特別な場所といった意味にまで拡張される。
聖地を個人の体験・意識レベルまで還元すれば、恋愛を成就し結ばれた男(女)にとって、はじめてデートした場所を聖地と見做すこともできる。しかし、それを聖地とはとても呼ぶことができない。個人レベルにおける特別な場所が〈聖地〉となるためには、そこに物語性が付加され、世間一般に認知される必要がある。一対の恋人同士が結ばれたデートスポットの情報が多数の者に共有され、神聖視されなければならない。そこで初めて、無名のデートスポットが聖地へと変容する。
聖地とは何か
著者(岡本亮輔)は聖地を次のように定義する。
・・・内容が事実かどうかは関係なく、特別な物語と紐づけられて語られ続けられるのが聖地なのである。(P10)
物理的空間に物語が上書きされて意味を与えることで聖地になるのだ。聖地とは、虚構と現実を重ね合わせることでしか立ち上がってこない拡張現実なのである。誰かがその場所の物語を語り伝えなければ、聖地は持続しない。したがって、聖地を考える際に鍵となるのは、いかにして場所に物語が紐づけられるか、誰がそれを伝達しているのかを読み解くことなのである。(P12)
聖地の条件――場所・物語・伝達
・聖地に紐づく物語を紡ぐ者
聖地を構成する要素は、〈場所〉〈物語・神話化=作家〉〈伝達する者〉となる。場所はいうまでもない。が、物語、伝達はだれがどのようにつくりあげるのか。口コミも無視できないものの、それだけでは聖地として広域化するのは不可能だ。古代、中世、近世までは、芸能者が素朴な言い伝えを人々が関心を寄せる面白い話に創作した。
・史学と詩学の融合
近世・近代・現代では、マスメディアの発達と平行して、聖地に紐づく物語を量産化したのが作家である。著者(岡本亮輔)は、聖地=近藤勇墓所(東京・板橋区)を論ずる箇所(第6章)において、新選組頭目・近藤勇の神話化に果たした司馬遼太郎の「功績」について次のように書いている。
新選組ほどフィクションの力によって評価の一変した存在も珍しい。(略)新選組イメージは、長い時間をかけてメディアの中で作られてきたものだ。当然ながら、維新直後、新選組の評価は最悪だった。(略)新選組は京で志士たちを捕縛殺害してきたからである。(略)新選組復権の先駆となったのが、子母澤寛『新選組始末記』(1928)の刊行だ。(略)そして現在まで続く新選組のイメージを決定づけたのが、1960年代に連載刊行された司馬遼太郎の『新選組血風録』と『燃えよ剣』である。著者(岡本亮輔)は詩学と史学の融合は、赤穂浪士(泉岳寺)、鼠小僧(両国回向院)、四谷怪談(お岩稲荷)などにも共通する物語化の典型だという。赤穂浪士については、討ち入り事件という史実を土台にして、歌舞伎や浄瑠璃が創作を加えて演じられることによって大衆レベルに浸透した。
續谷真紀は、司馬作品では、虚構があたかも史実であるかのように巧みに織り込まれていることに注目する。(略)司馬が確立した虚構と史実を織り交ぜるスタイル、つまり、詩学と史学の融合が新選組人気の理由の一つだ。(P253~255)
近代・現代に入ると、九州日報主幹の福本日南が著した『元禄快挙録』、浪曲師・桃中軒雲衛門が演じた『義士銘々伝』が人気を博し、続いて昭和になると、大佛次郎作の『赤穂浪士』をNHKテレビが大河ドラマに仕立て、赤穂浪士人気を不動のものにした。その大河ドラマは、驚異的視聴率を稼いだという。こうして泉岳寺は赤穂浪士の霊が祀られた聖地として、今日でも人気の場所である。
・物語を伝達する者
伝達する者にも変遷がみられる。古代・中世・近世前期において物語の伝達を担ったのは非農業民であった。一般に移動の自由が制限された時代に日本各地を遊行できたのは漂泊の民である。彼らの出自は古代、平民に対し職人と呼ばれた者に由来する。みずからの身につけた職能を通じて、天皇家、摂関家、民仏神と結びつき、供御人(くごにん)、殿下細工、寄人(よりうど)、神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに、平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか、交通上の特権などを保証された。その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられたのである。中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が台頭し、全国を移動する自由をもった彼らが情報伝達の役を担ったと思われる。(参考:平凡社世界大百科事典)
近世の中後期になると、瓦版、絵本、図鑑、書物等の紙のメディアが都市を中心に発達した。その結果、非農業民の口伝に加えて、都市を中心にそれらも情報伝達の役を担った。近代、現代ではいうまでもなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビといったマスメディアであり、ポストモダンのいまではマスメディアとともに、SNSが聖地形成の重要な手段となっている。
帝国主義権力と聖地
本題にある江戸東京は、大雑把には4つの時代に区分される。
(1)古代、中世まで、この地は京(中央)から遠い辺境の地。とはいえ、中央の文化(文学、芸能、宗教等)は当然のことながら、この地にも移入されていた。
(2)近世からは、江戸幕府が置かれた中央に格上げされ、江戸は世界有数の規模を誇る都市に成長した。
(3)明治維新後は帝都・東京として発展を続けた。
(4)アジア太平洋戦争の日本帝国の敗戦で壊滅的打撃を受けた東京だが、奇跡の復活を遂げ、世界的メガシティとして繁栄を取り戻し今日に至っている。
なかで江戸東京の大転換は(3)の時代である。まず江戸幕府の聖地の破壊が進行した。たとえば、徳川家の菩提寺である寛永寺が上野戦争で焼失したことを機に、寛永寺という幕府の聖地は破壊され博覧会の会場となり、その後、恩賜公園として整備された。(P122~)
明治維新後の日本は日清、日露、第一次世界大戦、中国侵略、アジア太平洋戦争と、帝国主義戦争の時代であった。そして、帝国主義戦争を継続した体制によって、その維持に資するための「聖地」が体制の手によってつくられた。
1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの期間につくられたいわば官製の「聖地」は、本書に書かれたほかの聖地のどれとも異なる。生活者が塗炭の苦しみから助けを求めてすがった神社仏閣、偉人、聖人とはかけ離れた、「軍神」と呼ばれる者(に関係する地)が帝国主義国家の「聖地」とされた。彼らの「偉業」を物質化するために銅像や慰霊碑が建立され、その「偉業」を讃えるための「教育」が修身の名のもとに児童生徒に施された。このような聖地(そこに建てられた銅像や慰霊碑を含む)は、国体護持のためのアイコンにすぎない。
本書は取り上げていない聖地を二つほど紹介しよう。その第一は二宮尊徳の像だ。この像はかつて、日本のいたるところの小中学校に建てられていたという。薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)から聖なる感覚は呼び起こされるには至らないが、そこには権力側が望む人間像――休むことなく労働と勉学に勤しむ奴隷的労働者を奨励する帝国主義国家の意図――が透けて見える。帝国主義国家が人民に強制する道徳観である。
二宮尊徳もまた、修身の教科書に取り入れられた。その像が学校に建立されるということは、尊徳(像)というアイコンにより、学校という空間の聖地化及び当時の軍国主義教育という観念の聖域化が帝国主義国家によって目指された結果である。
東京・渋谷駅前に建てられた「忠犬ハチ公」もその類である。今日「忠犬ハチ公」の像は待ち合わせ場所の目印となっていて、それを聖地と見做す人はいない。そもそもハチ公とは、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約10年間のあいだ待ち続けた犬(ペット)にすぎない。
ハチ公も帝国主義戦争のイデオロギーと無関係ではない。忠犬の「忠」は、上に素直に従う人格を象徴する語で、戦時下、上官の命令に忠実に従う兵士、及び、帝国主義政府の方針に文句を言わない人心――を醸成する物語として、修身の教科書に載せられ、広く国民の思想教育の具となった。
本書で取り上げられた「広瀬中佐像」(高山→東京・万世橋)、乃木神社(東京・港区)、東郷神社(東京・神宮前)も華々しい軍功が物語として語られ(もちろん事実ではない)、教科書に載せられ、臣民教育の一助とされた。それだけではない。これら「軍神」の像は彼らの故郷ではなく、帝都(東京)に建立されたことも忘れてはいけない。
聖地マーケティング
今日の「聖地」には、神社仏閣の経営戦略によって、大衆レベルに認知されたものが散見される。恋愛成就(縁結び)、健康志向等を背景にして、それらの祈願成就事例を創作し、それに関連するグッズを開発し、大量集客を求めて祈祷料、賽銭等を得ようとするものである。その結果、ほんらいの縁起と無関係の「聖地」が誕生している。その成功を意図的とするか、偶然によるものかの論議の余地はあるとしても。
・神前結婚という商品開発(東京大神宮)
文金島田の花嫁と羽織袴の花婿が神主の立会いのもと、三々九度を上げる神前結婚。日本古来の風習と思いきや、わずか100年前に東京大神宮(東京・千代田区富士見)で整備された儀礼だったとは(筆者は本書で初めて知った)。やがて全国の神社で一般化し、結婚式場の建設と平行して一般化し、今日に至っているという。筆者(岡本亮輔)は「重要なのは、神前結婚式が合理的な婚礼形式とみなされたことである。」(P200)と指摘するが。
・パワースポット・ブーム
新たな聖地がパワースポットと名を変えて形成されようとしている。アニメ、コミック、ラノベ(ライトノベル)等の若者向け表現が、LINE、フェイスブック、ツイッター、インスタグラム等のSNSによって拡散され、人々が集まりだした結果の新聖地の誕生である。知名度を得た新聖地は、グッズ(絵馬、御神籤、お守り等)や体験型商品(滝行、祈祷等)の開発に乗り出し、経営の一助としている。これら新聖地の事業の是非は論じない。聖地として信じる者には、そこが聖地なのだから。
聖地のいかがわしさ
“いかがわしい”という表現が適当かどうか迷ったが、ほかに適切な言葉が見つからなかったので使用する。本書に取り上げられた「縁切榎」という聖地についてである。「縁切榎」は現在の東京・板橋区にある。この榎に念ずれば、縁切りが可能だと信じられ大衆的支持を集め、聖地として今日に至っている。
江戸期、女性からの離縁は不可能だった。どんなに不幸な結婚生活を強いられようと、相手と縁が切れない。そのため離縁を果たそうとする女性の信仰を広く集めた。また、男が娼妓にはまって普通の生活ができなくなったことを憂えた家族が、娼妓との縁切りを願ったという事例もある。やがて縁切りは男女関係に限定されず、難病・悪病との縁切り、過度な飲酒の縁切り(=断酒)にまで拡張された。
さて、「縁切榎」にまつわる負(と筆者が感じた)事例を著者(岡本亮輔)が取り上げている。“1934年6月の朝日新聞には、恨みは「縁切榎」 縁談破れて娘服毒 という記事がある(P66)”と。
この事件は破談された22才の女性が揮発油を飲んで自殺未遂したというもの。義兄がもってきた縁談が途中までうまくいっていたが、破談にあう。その理由は男性側が、「縁切榎」の近くを通った女性を嫁にもらいたくないと言い出したせいだ。女性の実家が埼玉県の沼影にあり、帰郷するたびに「縁切榎」の横を通る。そのことを男性側が嫌がって破談にしたのだという。わずか80余年前にそんな迷信がと思うかもしれないが、それが事実なのだから仕方がない。
筆者は、この男性側の言い分を信じない。筆者の推測にすぎないが、女性が「縁切榎」を通ったというのは破談の真の理由ではなかろう。おそらく男性が別の良縁を得て、この縁談を破談にしたがったのだろう。ところが適当な理由が見つからない。そこで「縁切榎」を利用したのだ(と思う)。
男性からの一方的な破談の申し出なのだから、女性側に対して謝罪と慰謝があって当然なのだが、男性側がそれを回避して「縁切榎」という聖地を持ち出すとは、なんと卑劣な理由付けだと思うが、女性の一方的な泣き寝入りである。服毒自殺未遂とは気の毒というほかない。聖地の悪用事例だと筆者は信ずる。
(おわりに)
聖地は、生活者のギリギリの願いや祈りによって形成されたものばかりとは限らない。近年、安易で手軽な聖地(化)もなくはない。体制側による民衆コントロールの具や、帝国主義イデオロギーの醸成のための聖地もある。権力の暴力的移行に伴い犠牲となった敗者の死――荒ぶる魂――を恐れた聖地もある。怨霊信仰に基づく勝者側の保身と畏怖でつくられた聖地である。近年では、寺院、神社の経営(マーケティング)のためにつくられた新しい聖地もある。先述のように、「縁切榎」という聖地を悪用したと思われる事例もある。
本書は江戸東京に限定された聖地の紹介であるが、読みごたえがあり、信頼のおける聖地論となっている。筆者の住まいに近い聖地が多数紹介されていて、一度は訪れてみたいと思わせる情報の質と量を備えている。本書の帯に記された「東京を味わう」というコピーはうってつけ――まさに良質の料理に例えられよう。
2018年11月4日日曜日
2018年10月28日日曜日
開店十周年記念パーティー
2018年10月23日火曜日
2018年10月7日日曜日
『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』
戦後、ナチス・ドイツの戦犯の一人、アイヒマンという人物が潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関によって拉致され、イスラエルに引き戻されて裁判で死刑に処せられた。この事件については筆者もなんとなく知っていた。本書巻末の年譜によると、1962年のことだというから、この出来事は半世紀以上も前に遡る。
この事件については筆者の記憶に蘇ることなく、時間が過ぎていた。ところが近年、「〇〇のアイヒマン」という表現がジャーナリスト、批評家等によって、しばしば用いられることが気にかかってきた。たとえば、安倍首相の側近で、総理直属の諜報機関・内閣情報調査室(内調)のトップである北村滋内閣情報官は「官邸のアイヒマン」と呼ばれているし、前・原子力規制委員会委員長の田中俊一氏も「原子力村のアイヒマン」と呼ばれた。
権力側にいる人物を「アイヒマン」と呼ぶのはもちろん、批判を込めた表現だ。そのイメージは概ね、不正義を承知のうえで権力側の命令や上司の意を粛々と進める非情な人物というものではないだろうか。今日の日本が多くの「アイヒマン」を輩出しているのだとしたら――筆者の時代に対する不安は、「アイヒマン」という呪文によって大いに増幅されている。そのことが本書を手にした動機だ。
アイヒマンの任務と死刑判決
カール・アドルフ・アイヒマン(1906-1962)はナチスの戦争犯罪人(絶滅収容所移送責任者)の一人。アイヒマンの任務は、第二次世界大戦中、欧州各地に散在していたユダヤ人を狩り出し、貨車を使って絶滅収容所に移送することだった。大戦後、米軍捕虜収容所から脱出し、アルゼンチンに潜伏していたが、戦後(1948)新たに中東パレスチナの地に建国されたユダヤ人国家・イスラエル政府による「ナチ狩り」によって、1960年、同国諜報員に確保されイスラエルに移送された。1961年、アイヒマンの裁判は本題のとおり、エルサレムで行われ、1962年5月29日、アイヒマンは死刑判決を受け、2日後の31日に同地にて絞首刑に処せられた。
以上のような概略が一般のアイヒマン理解として流通している。しかしそれだけなら、前出の「〇〇のアイヒマン」という表現が頻繁に用いられるはずがない。本書はアイヒマンの裁判資料等からユダヤ人問題に深く迫った力作だ。と同時に、出版時、世界中のユダヤ人から非難を浴びせられた問題作だったともいう。本書はユダヤ人問題の複雑さを知らしめると同時に、権力に支配された組織内にあって、人はいかに思考し行動すべきかを問うものともなっている。読了後、著者(ハンナ・アーレント)の知の深さを知ることとなる。
アイヒマン裁判の疑問点
(一)アルゼンチンにいたアイヒマンを拉致しイスラエルに連行することの正当性
アイヒマンがイスラエルの諜報員に確保されるまで、彼はアルゼンチンに住んでいた。潜伏していたというよりも、普通に暮らしていたらしい。彼がドイツからこの地に逃れたのは、非合法的国外脱出に当たるのかもしれないが、アルゼンチン国内において、他国の者がその国の居住者を強制的に拉致、連行することに正当性が認められるのか――もちろん、大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を大量殺戮したことは歴史的事実であり、戦争犯罪であることは疑いようがない。しかし、イスラエル諜報員がアルゼンチンで行った行為はアルゼンチンの主権を侵害したことにならないだろうか。
アイヒマンの拉致・連行のケースと似たような事件が、わが日本の首都・東京で起こっている。「金大中事件」だ。この事件は、1973年、大韓民国の民主活動家および政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により日本の東京都千代田区のホテルグランドパレスで拉致され、船で韓国に連れ去られたというもの。
その後、金大中はソウルで軟禁状態に置かれ、5日後にソウル市内の自宅前で発見された。この事件を主導したのは金大中の政敵であり、当時大統領であった朴正熙だった。事件現場となったのは前出のとおり、首都・東京のど真ん中だった。
当時、朴正熙と親和的関係にあった日本政府はKCIAの「犯行」を黙認したばかりか、国内メディアに対して、徹底した報道規制を申し渡したといわれている。当時のイスラエルとアルゼンチンの関係の詳細はわからないし、アイヒマンと金大中の立場がまったく同じとはいわないが、国家間の同意さえあれば、超法規的措置というのは大いにあり得るということは確かなのだ。
(二)イスラエルで裁判が開かれることの疑問
ホロコースト(大量殺戮)があった大戦中、イスラエルという国家は存在していない。イスラエル国家が誕生したのは前出のとおり、大戦後の1948年のこと。また、ユダヤ人に対するホロコーストが行われたのは欧州各地(ドイツ本国及びナチス・ドイツの占領地)においてであり、被害者はドイツ及びその占領地の国籍を持ったユダヤ系の人々だった。イスラエル国籍というのはなかったのだから。たとえば、ドイツ本国に在住していたユダヤ人は、ユダヤ系ドイツ人。ということは、アイヒマン裁判は欧州各国に住んでいたユダヤ系の〇〇人に対する犯罪であるから、その罪を問う裁判は中東のイスラエルではなく、国際法廷の名目で、欧州のどこかで開かれなければならなかったのではないか。
建国から十数年余のイスラエルがアイヒマンを自国で裁判を行った背景には、イスラエルという存在を国内外へアピール必要があったからだ。イスラエルの表玄関である国際空港はベン=グリオン空港と名付けられているが、その名は、イスラエル国民から“建国の父”と呼ばれているベン=グリオン(当時)首相の名を冠したもの。ベン=グリオンは独立運動の指導者であり、独立直後に起きた第一次中東戦争を乗り切ってイスラエルを不動の独立国の地位に高めた英雄だ。そのベン=グリオンは1953年、不祥事でいったん退任したが、1955年に再び首相に返り咲いた。再選後のベン=グリオンが自らの政治的求心力を高めるため、そして、イスラエル(ユダヤ)人の結束力を再度高めるため、アイヒマンという戦争犯罪人を政治的に利用したという説も頷けないものではない。
(三)アイヒマンという人物と彼が犯した戦争犯罪
アイヒマンはナチスの幹部というわけではない。ナチス親衛隊国家保安本部の課長職であり、肩書は中佐だった。彼の仕事は前出のとおり各地のユダヤ人を絶滅収容所へ移送すること。彼は裁判において、自分(アイヒマン)はユダヤ人を一人として殺していない、と供述していたという。確かに彼は自ら武器をとって面と向かってユダヤ人を殺したことはなかったのかもしれないが、ユダヤ人を貨車で絶滅収容所に移送したその結果について彼が知らなかったはずがない。そればかりか、自分はユダヤ人の指導者と友好的関係にあったとも証言したという。この発言に関するユダヤ人指導者の一部とナチスの微妙な関係については後述する。
課長、中佐という地位は、日本のサラリーマン世界では中間管理職に該当する。上からの命令を部下にやらせるマネジメント職ではあるが、重要な戦略を立案する立場にはないし、決定権もない。ユダヤ人絶滅計画を立案したのはヒトラーであり、その意を受けた幹部がアイヒマンに実務を下したのだ。アイヒマンがヒトラーの絶滅計画に反対したとしたら、軍法会議でそれこそ反逆罪に問われかねない。アイヒマンも法廷では、命令に従っただけだと主張した。
戦争犯罪を裁くということは難しい。戦勝国からすれば、敗戦国の政治・軍事・行政の指導者は戦争犯罪人だ。ではどこまでがその責を負うのか。ナチス指導者のうち、敗戦時に生きていた者はことごとく裁判で死刑に処せられた。その一方で、ナチスを熱狂的に支持した一般市民に罪はないのか。ユダヤ人問題に限定すれば、移送責任者のアイヒマンは裁判にかけられたが、隠れていたユダヤ人を親衛隊に密告したドイツ市民の罪は問われないのか、逃亡しようとしたユダヤ人を射殺した兵士の罪はどうなのか…
著者(ハンナ・アーレント)はホロコーストに関与したアイヒマンは人類に対する罪を犯したという。同時に、ドイツの都市を無差別爆撃した連合国軍の空爆作戦や、日本の広島・長崎に原爆を投下した米軍の軍事行動も人類に対する罪だという。アイヒマンが罪に問われるならば、無防備な非戦闘員である市民を無差別に爆殺する軍事行動も罪に問われなければならない。戦時においては、人類に対する罪を犯す可能性、すなわちその当事者になる可能性はだれにでもある。だからといって、アイヒマンを無罪放免するわけにもいかない。彼はナチス・ドイツ敗戦時に国外逃亡をはかったのだから。
アイヒマンの罪に対する意識
アイヒマンの人物像は、裁判を傍聴し、彼の供述を丁寧に読み直した著者(ハンナ・アーレント)の観察・分析によると、極悪非道のモンスターではないという。怪物というよりもごくありふれた普通人のようだ。出世欲があり、自分を大物に見立てる傾向がある一方、上層部には忠実で勤勉な官吏のようだと。このような人間像は、アイヒマンに限らず、ナチスの中堅幹部に共通するものかもしれない。『ヒトラー最後の代理人』(原題:The Interrogation、製作年:2016年、製作国:イスラエル、監督:エレズ・ペリー、脚本:エレズ・ペリー、サリ・タージェマン、キャスト:ロマナス・フアマン、マチ・マルチェウスキ)という映画をご存知の方も多いだろう。第2次世界大戦中にアウシュビッツ強制収容所の所長を務め、終戦後に死刑に処された実在の人物ルドルフ・フェルディナント・ヘスの自叙伝をもとに描いた歴史ドラマだ。
ストーリーは、ナチス・ドイツ敗戦後の1946年。アウシュビッツ強制収容所で最も長く所長を務めたルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは、ポーランドの刑務所で裁判にかけられるのを待っていた。ヘスの取り調べを担当する若き判事アルバートは、ヘスが持ち込んだシアン化合物系の殺虫剤ツィクロンBによって101万人もの人間が虐殺されたことなど、収容所で行われていた恐ろしい行為の数々を明らかにしていく。ヘスは戦犯としてポーランドで絞首刑に処せられた。なお、アウシュビッツ強制収容所所長のヘスは、ナチ党副総統(総統代理)のルドルフ・ヘスとは別人であり注意を要する。
この映画の大部分は判事アルバートによるヘスの取り調べ風景で占められている。ヘスは尋問に対してあたかも他人事のように、強制収容所のできごとを淡々と語る。そこに罪の意識をうかがうことができない。ユダヤ人を100万人以上も毒ガスで殺害しておきながら、あたかもモノを処理したような感覚しか、ヘスには残されていないかのようだ。
アイヒマンもおそらく、取り調べや裁判において、映画『ヒトラー最後の代理人』のシーンのように、淡々と取り調べを受け、陳述を繰り返していたのだろう。著者(ハンナ・アーレント)もアイヒマンの無機的な態度ーー他人事のような当事者意識の希薄さを幾度となく指摘している。
アイヒマンのユダヤ人に対する意識は、表現は適切ではないが、廃棄物処理のようなものなのではなかったか。散在しているそれを一カ所に集め、貨車で移送し、最終処理所(絶滅収容所)へ送るまで。アイヒマンは事務的に移送計画を作成し、関係各所に通達し、処理させる。不手際があれば現場に出向き修正を加え、万事つつがなく運ぶことが自分の使命なのだと、それが総統への忠誠だと。もちろん、最終地点=絶滅収容所では、彼が移送した(と命じた)大量のユダヤ人が殺戮されることは承知している。それは悪ではなく、ナチス・ドイツにとって必要なことなのだと。
著者(ハンナ・アーレント)はこう書いている。
被告(アイヒマン)やその犯行、また裁判そのものが、エルサレムで審理された事柄の範囲をはるかに超えた普遍的性質の諸問題を提起したことはもちろん疑いを容れない。(略)私(ハンナ・アーレント)が(本書の副題である)悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目を向けることのできなかったある不思議な事実にふれているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になってみせよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそらく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。(略)俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。(略)彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。そのことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとして、・・・やはりこれは決してありふれたことではない。(P394-395)ナチス・ドイツとユダヤ人
本書の第9章から13章まで、ヨーロッパ各地におけるユダヤ人の取扱いの状況が記されている。各地とは、◇ドイツ、オーストリア及び保護領、◇西ヨーロッパ―フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア、◇バルカン諸国―ユーゴスラビア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア、◇中欧―ハンガリー、スロヴァキア、◇東欧の殺戮センター(ポーランド)に及ぶ。本書はエピローグを含めて16本の章だてだから、うち三分の一が割かれていることになる。この箇所は、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の複雑さをかなり深く理解する助けになっていて、占領地のうちナチス・ドイツにきわめて協力的だった国とそうでない国とがあったことがわかる。
また、ユダヤ人勢力のうち、ナチス・ドイツと協力関係を結んだ組織があったことも忘れてはならない。その中心となったのがシオニストだ。シオニストとは中東パレスチナにユダヤ人国家、イスラエルを建国しようとする一団だ。第二次大戦前、パレスチナはイギリスにより委任統治されていた。パレスチナへの帰還を目指すシオニストからみれば統治国イギリスは敵であり、ナチス・ドイツはイギリスの敵であるから、シオニストにとって敵(イギリス)の敵(ナチス・ドイツ)は味方となって、反イギリスという立場からナチス・ドイツに協力することもあった。アイヒマンが進めたユダヤ人移送はシオニストの協力によって推進されたという面もなくはなかったのだ。アイヒマンがユダヤ人指導者と親密だったという証言は、シオニストから協力を受けたことを指している。
著者(ハンナ・アーレント)は本書において戦時中のシオニストのナチスへの協力を明らかにしたため、全世界のユダヤ人から非難を受けた。ユダヤ人問題というのは、日本人からすると、かなりわかりにくい面をもっている。
日本には無数のアイヒマンがあふれている
安倍政権下の日本において、森友学園問題に係る文書改竄が財務省の地方部局で行われた。改竄を命じられた職員は公文書管理の規定に基づき、改竄を心情的に拒否しつつ、実際に推進させられる自己矛盾に苦悩した挙句自殺した。自殺した職員はアイヒマンにならず、思考した。その挙句の決断が自死だったことは残念極まりない。ご冥福を祈るばかりである。ところが、それを命じた(当時)財務省理財局長は退職金をほぼ全額もらって退職している。裁判にかけられない「アイヒマン」である。
日本の多くの省庁の現場では「アイヒマン」であふれている。アベノミクスという愚劣な経済政策にとびついた経産省(職員)、家計学園問題では官邸幹部職員が虚偽証言の疑惑を持たれている。シロをクロといい続けて首相を守るのが職員の使命だと曲解している。いまの日本国の経産省、財務省、官邸といった中央官庁の幹部職員は「アイヒマン」を貫徹しながらも罪に問われることがなく、むしろ、「有能な行政官だ」と権力者(財務大臣)からお褒めにあずかるといった具合だ。そういえば、日本国のいま(2018/10/07現在)の財務大臣は、「ナチスの手口を学んだらどうか」と発言をした。
アイヒマンのような、思考しない悪の陳腐さが、とりわけ日本の行政機構を蝕んでいる。
2018年9月27日木曜日
2018年9月19日水曜日
プロスポーツにおける「二刀流」は進化かそれとも退化か
“二刀流”といえば野球の大谷翔平の代名詞だが、陸上短距離100メートル世界記録保持者、ウサイン・ボルトもプロサッカー選手を夢見ているという。サッカーの本田圭佑は2018-19シーズン、選手(メルボルンビクトリー)と実質的な代表監督(カンボジア)の兼任に取り組んでいる。
大谷の場合は、日本プロ野球(NPB)で投手と打者(指名代打)の「二刀流」に成功し、2018シーズン、MLBに移籍したが故障し、現在(2018/09/14)、指名代打に専任していて、今シーズンに限っては成功していない。14日の新聞報道によると、大谷が所属するエンゼルスのソーシア監督が「大谷は来季マウンドに上がらない・・・2020年には二刀流としていい状態でプレーできるだろう」と語ったとある。大谷の二刀流は、今季はもちろん、来季も封印される。19シーズン以降、手術等を経て、「二刀流」で成功する可能性はないとはいえないが、筆者は二刀流の続行に悲観的だ。
本田の場合はAリーグがスタートしていないので、これも何ともいえないが、カンボジア代表監督としての初戦は黒星。なおボルトの場合は、どこまで本気なのかわからないので言及しない。
大谷の二刀流は100年前への回帰
大谷の二刀流挑戦は、野球というスポーツの新たな可能性を開いたという見方が一般的だと思われる。前人未到の世界への果敢な挑戦だと。すなわち二刀流への挑戦は野球選手として未知の世界に挑むこと――進化の過程だというのが日本のスポーツメディアの結論のようだ。
しかし、筆者はそのような見解に賛成しかねる。その理由は、筆者は拙Blogにおいて大谷の二刀流挑戦についてたびたび頓挫を予言したことと重なる。
MLB(アメリカにおける職業野球)の黎明期、偉大な天才、ベーブ・ルースが二刀流で実績を残したのが1910年代のこと。およそ100年前の出来事だ。その時代は9人野球が一般的だった。日本では高校野球等のアマチュア野球の世界が100年前のMLBのままで、いまだに「エースで四番」が幅を利かせている。
分業、専業化という進化
MLBはもちろんNPBにおいても野球は進歩に進歩を重ね、そのことは分業化・専業化とほぼ同義だ。投手と野手すなわち投法と打法は基本的に異なる運動であるため、投手は投手として進化を遂げ、打者も打者として進化を遂げている。
なぜ分業化(専門化)が進んだのかというと、野球がチームプレーであり、最終目標はチームが勝つことだからだ。勝つためには、ベンチに入った25名程度の選手が何をなすべきかに基づき役割が割り振られた。投手陣においては、先発、中継ぎ、抑えという分業化であり、野手では、打順ごとの役割の明確化や走塁スペシャリストの出現があり、守備専門選手もいる。登録枠およそ50~70名程度の選手も多種多様、それぞれの専門性が顕著になっている。
個人単位のフィギュア・スポーツ(たとえばフィギュア・スケート)ならば、打って投げることができる選手のポイントが高くなるかもしれないが、野球は前出のとおり、相手より1点でも多くあげて勝つことが最終目的なのだ。
大谷はエンゼルスの勝ちに貢献していない
大谷がMLBにおいて1シーズン、コンディションを維持して二刀流を続行し、はたしてどれだけの成績があげられるのか。先発で10勝、打率3割、20本塁打なら合格点だろうが、先発で5勝、打率2割5分、15本塁打程度なら、チームに貢献したとはいえない。大谷は打に専念する試合ではDH起用に限定される。DH専門なら、かなりの高打率、多本塁打が求められる。大谷が二刀流を放棄してどちらかに専念したとしたら、筆者の見立てでは、投専門で、MLBでも10~14勝が期待できるし、その反対にDH専門で打率3割以上、20~30本塁打はかたい。しかも、そのどちらでも、大谷が二刀流で中途半端な成績で終わるよりも、投手大谷、打者大谷のほうがチームの勝利に貢献する。
今季、エンゼルスは大谷の二刀流でメディアの関心を集め、集客、グッズ販売等が順調だから二刀流を容認したのだろうが、成績はア・リーグ西地区5チーム中の4位(73勝、74敗)、現地時間13日、15試合を残しワイルドカードによるプレーオフ進出の可能性が消滅している。つまり、大谷二刀流人気とは裏腹に、彼は戦力(=チームの勝利)には結果として、寄与していない。
大谷の二刀流はエンゼルスの今季限定「商品」にすぎない
エンゼルスは、来季に備え、チーム成績が回復するための方策を探らなければならない。前出のソーシア監督の発言は、来季、大谷を打者に専念させ、二刀流という中途半端な存在をチームから一掃するという球団の方針の代弁だろう。なぜなら、ソーシアは今季限りでエンゼルスを退任するからだ。来季の大谷の扱いは、次の監督が決めることになる。
大谷の契約期間は1年だが、エンゼルスが6シーズンの保有権をもっているので、この先、大谷がどうなるかは不明なまま。来季、大谷がDHでよほどの成績を上げなければ、売りに出されることもありえる。ことほどさように、大谷のMLBにおける地位は、日本人が思っている以上に不安定なのだ。
サッカーにおける監督と選手の兼任(本田圭佑の場合)
本田が所属するAリーグが開始されていない段階なので、本田の代表監督業と選手の兼任の結果については言及できない。ただ、本田が18日、ツイッターで指導者ライセンスについて問題提起しているので、その件についてふれてみよう。
本田のつぶやきは、「今のコーチングライセンス制度は廃止して新しいルールを作るべき。プロを経験した選手は筆記テストだけで取得できるのが理想。母数を増やして競争させる。クラブ側も目利きが今まで以上に求められる。ただ選択肢は増える。日本のサッカーはそういうことを議論するフェーズにきている」というもの。
本田は新自由主義者
本田の言及は、監督業における「規制緩和」を求めたもの。市場競争原理が善を導くとする新自由主義の発想にほかならない。筆者は新自由主義に批判的な立場にあるため、本田のライセンス制度への提言についても当然、賛成しかねる。その理由は、指導者、指揮官の資質と選手としての資質はまったく別ものと筆者は信じるから。
Jリーグが行っているライセンス制度が完璧だとは思わないが、筆者はその精神及び原理原則を支持する。ライセンス制度の根源には、すべての者(現役時代に実績を残した選手も無名の選手)も、指導者としてのスタートは同一であることが望ましい――という思想に基づくからだ。
かりに本田の提言のようにライセンス制度を廃止すれば、監督の職は有名選手で占められる可能性が高い。日本のスポーツ界では、有名選手が監督コーチを占める割合が高いからだ。たとえばプロ野球をみればいい。現役を引退した有名選手が即監督につくのが当りまえの業界だ。近年における、読売の高橋由伸、阪神の金本知憲の事例を見ればわかりやすい。名選手が指導者の訓練を経ず、監督に就任する不思議。このような日本独特の指導者に関する考え方は、指導者として資質をもつ現役無名選手等が監督やコーチの職を得られなくしている。有名選手が監督として失敗する事例は日本の野球界では珍しくない。本田の規制緩和が制度化された場合、そのことが日本サッカー界にもたらす弊害の第一は、Jのチームの監督の職は現役時代に実績を残した元スター選手で占められ、その陰で指導者としての資質を持った無名の者が疎外されるという現実だろう。そのことがもたらすサッカー界の損失は膨大なものとなろう。
〈有名選手・引退後指導者〉という日本スポーツ界の〈時間差二刀流〉
日本のスポーツ界では時間差はあれ、〈選手〉→(引退→)〈監督〉が兼任であり、その資質の差異は、まったくといっていいほど意識されない。本田のつぶやきが、自身のカンボジア代表監督と選手の兼任を正当化する詭弁としてなのか、もしくはJリーグの監督の職を狙ってのものなのか、それとも単なる思いつきなのか、あるいは新自由主義者を気取ってのことかはわからない。そのいずれにしても、本田の規制緩和は進化ではなく退化であり、日本のスポーツ界の時代遅れ、考え違いを肯定するものだ。
蛇足ながら、いま新しいスポーツアイコンとなったテニスの大坂なおみのコーチは、現役時代まったく無名だったサーシャ・バイン。大坂とサーシャの関係が、日本プロスポーツ界における指導者のあり方を改めようとしている。
大谷の場合は、日本プロ野球(NPB)で投手と打者(指名代打)の「二刀流」に成功し、2018シーズン、MLBに移籍したが故障し、現在(2018/09/14)、指名代打に専任していて、今シーズンに限っては成功していない。14日の新聞報道によると、大谷が所属するエンゼルスのソーシア監督が「大谷は来季マウンドに上がらない・・・2020年には二刀流としていい状態でプレーできるだろう」と語ったとある。大谷の二刀流は、今季はもちろん、来季も封印される。19シーズン以降、手術等を経て、「二刀流」で成功する可能性はないとはいえないが、筆者は二刀流の続行に悲観的だ。
本田の場合はAリーグがスタートしていないので、これも何ともいえないが、カンボジア代表監督としての初戦は黒星。なおボルトの場合は、どこまで本気なのかわからないので言及しない。
大谷の二刀流は100年前への回帰
大谷の二刀流挑戦は、野球というスポーツの新たな可能性を開いたという見方が一般的だと思われる。前人未到の世界への果敢な挑戦だと。すなわち二刀流への挑戦は野球選手として未知の世界に挑むこと――進化の過程だというのが日本のスポーツメディアの結論のようだ。
しかし、筆者はそのような見解に賛成しかねる。その理由は、筆者は拙Blogにおいて大谷の二刀流挑戦についてたびたび頓挫を予言したことと重なる。
MLB(アメリカにおける職業野球)の黎明期、偉大な天才、ベーブ・ルースが二刀流で実績を残したのが1910年代のこと。およそ100年前の出来事だ。その時代は9人野球が一般的だった。日本では高校野球等のアマチュア野球の世界が100年前のMLBのままで、いまだに「エースで四番」が幅を利かせている。
分業、専業化という進化
MLBはもちろんNPBにおいても野球は進歩に進歩を重ね、そのことは分業化・専業化とほぼ同義だ。投手と野手すなわち投法と打法は基本的に異なる運動であるため、投手は投手として進化を遂げ、打者も打者として進化を遂げている。
なぜ分業化(専門化)が進んだのかというと、野球がチームプレーであり、最終目標はチームが勝つことだからだ。勝つためには、ベンチに入った25名程度の選手が何をなすべきかに基づき役割が割り振られた。投手陣においては、先発、中継ぎ、抑えという分業化であり、野手では、打順ごとの役割の明確化や走塁スペシャリストの出現があり、守備専門選手もいる。登録枠およそ50~70名程度の選手も多種多様、それぞれの専門性が顕著になっている。
個人単位のフィギュア・スポーツ(たとえばフィギュア・スケート)ならば、打って投げることができる選手のポイントが高くなるかもしれないが、野球は前出のとおり、相手より1点でも多くあげて勝つことが最終目的なのだ。
大谷はエンゼルスの勝ちに貢献していない
大谷がMLBにおいて1シーズン、コンディションを維持して二刀流を続行し、はたしてどれだけの成績があげられるのか。先発で10勝、打率3割、20本塁打なら合格点だろうが、先発で5勝、打率2割5分、15本塁打程度なら、チームに貢献したとはいえない。大谷は打に専念する試合ではDH起用に限定される。DH専門なら、かなりの高打率、多本塁打が求められる。大谷が二刀流を放棄してどちらかに専念したとしたら、筆者の見立てでは、投専門で、MLBでも10~14勝が期待できるし、その反対にDH専門で打率3割以上、20~30本塁打はかたい。しかも、そのどちらでも、大谷が二刀流で中途半端な成績で終わるよりも、投手大谷、打者大谷のほうがチームの勝利に貢献する。
今季、エンゼルスは大谷の二刀流でメディアの関心を集め、集客、グッズ販売等が順調だから二刀流を容認したのだろうが、成績はア・リーグ西地区5チーム中の4位(73勝、74敗)、現地時間13日、15試合を残しワイルドカードによるプレーオフ進出の可能性が消滅している。つまり、大谷二刀流人気とは裏腹に、彼は戦力(=チームの勝利)には結果として、寄与していない。
大谷の二刀流はエンゼルスの今季限定「商品」にすぎない
エンゼルスは、来季に備え、チーム成績が回復するための方策を探らなければならない。前出のソーシア監督の発言は、来季、大谷を打者に専念させ、二刀流という中途半端な存在をチームから一掃するという球団の方針の代弁だろう。なぜなら、ソーシアは今季限りでエンゼルスを退任するからだ。来季の大谷の扱いは、次の監督が決めることになる。
大谷の契約期間は1年だが、エンゼルスが6シーズンの保有権をもっているので、この先、大谷がどうなるかは不明なまま。来季、大谷がDHでよほどの成績を上げなければ、売りに出されることもありえる。ことほどさように、大谷のMLBにおける地位は、日本人が思っている以上に不安定なのだ。
サッカーにおける監督と選手の兼任(本田圭佑の場合)
本田が所属するAリーグが開始されていない段階なので、本田の代表監督業と選手の兼任の結果については言及できない。ただ、本田が18日、ツイッターで指導者ライセンスについて問題提起しているので、その件についてふれてみよう。
本田のつぶやきは、「今のコーチングライセンス制度は廃止して新しいルールを作るべき。プロを経験した選手は筆記テストだけで取得できるのが理想。母数を増やして競争させる。クラブ側も目利きが今まで以上に求められる。ただ選択肢は増える。日本のサッカーはそういうことを議論するフェーズにきている」というもの。
本田は新自由主義者
本田の言及は、監督業における「規制緩和」を求めたもの。市場競争原理が善を導くとする新自由主義の発想にほかならない。筆者は新自由主義に批判的な立場にあるため、本田のライセンス制度への提言についても当然、賛成しかねる。その理由は、指導者、指揮官の資質と選手としての資質はまったく別ものと筆者は信じるから。
Jリーグが行っているライセンス制度が完璧だとは思わないが、筆者はその精神及び原理原則を支持する。ライセンス制度の根源には、すべての者(現役時代に実績を残した選手も無名の選手)も、指導者としてのスタートは同一であることが望ましい――という思想に基づくからだ。
かりに本田の提言のようにライセンス制度を廃止すれば、監督の職は有名選手で占められる可能性が高い。日本のスポーツ界では、有名選手が監督コーチを占める割合が高いからだ。たとえばプロ野球をみればいい。現役を引退した有名選手が即監督につくのが当りまえの業界だ。近年における、読売の高橋由伸、阪神の金本知憲の事例を見ればわかりやすい。名選手が指導者の訓練を経ず、監督に就任する不思議。このような日本独特の指導者に関する考え方は、指導者として資質をもつ現役無名選手等が監督やコーチの職を得られなくしている。有名選手が監督として失敗する事例は日本の野球界では珍しくない。本田の規制緩和が制度化された場合、そのことが日本サッカー界にもたらす弊害の第一は、Jのチームの監督の職は現役時代に実績を残した元スター選手で占められ、その陰で指導者としての資質を持った無名の者が疎外されるという現実だろう。そのことがもたらすサッカー界の損失は膨大なものとなろう。
〈有名選手・引退後指導者〉という日本スポーツ界の〈時間差二刀流〉
日本のスポーツ界では時間差はあれ、〈選手〉→(引退→)〈監督〉が兼任であり、その資質の差異は、まったくといっていいほど意識されない。本田のつぶやきが、自身のカンボジア代表監督と選手の兼任を正当化する詭弁としてなのか、もしくはJリーグの監督の職を狙ってのものなのか、それとも単なる思いつきなのか、あるいは新自由主義者を気取ってのことかはわからない。そのいずれにしても、本田の規制緩和は進化ではなく退化であり、日本のスポーツ界の時代遅れ、考え違いを肯定するものだ。
蛇足ながら、いま新しいスポーツアイコンとなったテニスの大坂なおみのコーチは、現役時代まったく無名だったサーシャ・バイン。大坂とサーシャの関係が、日本プロスポーツ界における指導者のあり方を改めようとしている。
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