2021年11月12日金曜日

もうどうでもいいやの森保ジャパン


サッカー日本代表がアウエーでベトナムに辛勝したという。すでに2敗していてカタール行きに黄色信号が灯ったのちの2連勝だから、まずまずと喜びたいところだが、筆者は森安ジャパンが発足して以来、日本代表になんの興味も感じなくなってしまった。

その理由については、ロシア大会における代表監督に係るゴタゴタにまで遡る。すなわちハリルホジッチが代表監督を解任されたところから、日本サッカー協会に対する不信を禁じ得なくなってしまった。そのことは当該Blogに書いたので繰り返さない。

代表監督が日本人でなければならないわけはないし、外国人でなければならないわけでもない。すぐれた監督を国籍を問わず、選任すればいい。しかし、わが邦の狭隘なスポーツ文化の価値基準は、日本人か外国人かという、非理性的な二者択一へと関係者、サポーター、メディア等を追い込み、これまた狭隘なナショナリズム、ポピュリズムの勝利で終わる。

筆者の判断では、日本人の指導者人材において、W杯で勝ち進むだけの実力を備えた者は、いまのところいない。残念ながらそれが現実である。なぜそう判断できるのかと言えば、サッカー選手においては、海外組が増加し、けして一流のリーグではないものの、レギュラーを張れる者が増えてきたその一方、海外において指導者として活躍できる人材は皆無に等しい。前日本代表監督の西野がタイ代表監督として招聘されたが、成果が上がらず、解任されている。本田圭佑がカンボジア代表監督になったが、指導者の能力とは関係のない、別次元の監督就任であった。

これまで筆者は、外国人代表監督を興味をもって眺めていた。彼等の「言葉」の力に驚かされた。それはスポーツを超えた「日本人論」「日本文化論」のようにさえ感じた。トルシエのスポーツメディアに対する悪意ある挑発は、ある意味で、そのあり方への強烈な皮肉であった。オシムはレーニンを引用して、組織論、日本人論を語った。ジーコやザッケローニは金満日本において、巧みに立ち振る舞うさまを習得して、そこからカネを引き出すことに成功した。ハリルホジッチはその両方に失敗して、あえなく玉砕してしまった。

外国人監督のある者は、サッカーを介して、日本のシステムを批判し、自己流を貫こうとし、それを忌避した者は、無風のまま、そこそこの成績を残して消えた。前者は緊張を与え、後者は安穏たる国際交流を果たし、ともに去っていったのである。

森安にはなにがあるのか、空虚がある(笑)。なにもない。テンプレートのコメント、根拠なき選手起用、戦略なき用兵・・・日本サッカーの頂点とされる日本代表にはいま、サッカーをやるもの、見るもの、その双方のあいだいにおける緊張関係を失った。彼のサッカーからは、新しさ、魅力、進歩、革命、革新、ありとあらゆる領域におけるアドヴァンスが感じられない。それは森安が日本人だからではない、能力、資質の問題なのである。日本代表が爆発しなければ、日本サッカーは衰退し消滅する。Jリーグが日本サッカーをリードするほど、わが邦のサッカー文化は成熟していない。