10月30日から11月7日まで、メキシコを観光してきました。
いいところでした。
自民党の「裏金事件」を争点とした総選挙が終わり、自公政権が過半数割れという結果で幕を閉じた。与党が後退したかわりに立憲民主、国民民主、れいわ新撰組が議席数を伸ばし、公明、維新、共産が議席を減らした。維新と並んで極右と思われる日本保守党、参政党がわずかながら議席数を獲得もしくは伸ばした。
《選挙結果は有権者の意識を反映する「忠実な鏡」ではない。むしろ、投票率や選挙戦略などの変数によって大きく左右されるというものである。(「極右の躍進は民意の反映か?」(菊池恵介〔著〕『地平』2024.8月号P38)》 さらに続けて、このことは政治学者や社会学者にとって明白である、とも菊池はいう。
〝選挙結果が有権者の意識を反映しない”とはどういうことかというと、今回のように自公維という保守勢力が議席を減らしたからといって、有権者が保守的政治意識から革新的政治意識に変異したことを意味しないということだ。
ではこのたびの変数とは投票率や選挙戦略だったのかといえば、投票率は近年の総選挙の数字と同様の低率で変化していない。選挙戦略については、野党の選挙戦略の課題とされる市民共闘は、相変わらず実現しないままだった。ただ唯一の例外として、インターネット(SNS動画)を駆使して若者を対象に「生活」に絞って訴求した選挙戦略が功を奏した国民民主党の躍進は認められる。この選挙戦略は、先の東京都知事選で地方都市の前首長の新人が大きく票を伸ばし得票数2位を獲得したことの延長線上にあり、選挙戦略が投票結果に反映した事例となる。
ただし、2024年時点では新しい戦略だが、他党が同様のツールを駆使するようになれば、戦略的効果はなくなってしまう。大阪を除く日本のほとんどの有権者の投票先決定要因は〈裏金事件〉だったと断言できる。
〈裏金事件〉に抱いた有権者の感情を筆者なりに解釈してみよう。有権者の意識は「保守」で変わっていないことが、別表からうかがえる。
【別表】比例代表 党派別得票数 前回対比
自民 1991万→1458万 -533万
立憲 1149万→1155万 +6万
国民 259万→616万 +357万
公明 711万→596万 -115万
維新 805万→509万 -296万
れいわ 221万→380万 +159万
共産 416万→336万 -80万
参政 なし →187万
保守 なし →114万
社民 101万 →93万 -8万
日本のマジョリティー有権者は自公に投票してきた。彼等・彼女等の意識は現状肯定すなわち保守だ。このたびの投票では、保守の意識を内的にとどめたまま、「裏金自民」に反旗を翻した。その情動はカネ・損得勘定への執着だ。釣り銭をちょろまかされたときの悔しさのような感情に近い。裏金議員は裏金で飲み食いしたかポケットに入れたにもかかわらず、所得税も払っていない。有権者の怒りが小選挙区で爆発した。そのルサンチマン、悔しさにも似た感情が「反自民」および自民にへばりつく「反公明」にむけられた。
別表から、与党(自公):野党(それ以外)を比較すると、与党2054:野党3390(総数5444)と野党の圧倒的勝利となる。次に、保守:革新という機軸で比較する。この場合の保守/革新という概念は、党綱領、現行憲法に対する姿勢、福祉、支持母体、外国人・在日にたいする見方等を包括して筆者が規定したもの。保守=自民・公明・維新、参政、保守党/2864〉:〈革新=立憲・国民・れいわ・共産・社民/2580〉となり、保守勢力が過半数(2722)を超えている。
国民民主を革新派に入れたのは支持母体が労働組合だからだけれど、党首の言動から推し量ると、保守に限りなく近い。かりに日本の総選挙制度を政党別比例代表制に一本化したとしたら、保守勢力が過半数をゆうに制していたことになる。
〈裏金事件〉を世に出したのは孤高の大学教授であり、立憲でも維新でもない。それを精力的に報道したのはマスメディアではなく、共産党の機関紙『赤旗』だった。にもかかわらず、共産党の比例票は減少した。このことは、日本のマジョリティー(有権者)の意識が選挙結果に反映されていない傍証となる。有権者は今回選挙の強力な変数である〈裏金事件〉のみに支配されたのだ。
今後の選挙では今回の〈裏金事件〉が変数となることはない。自民党も今後は、「ばれない裏金づくり」を工夫するかもしれないし、多くの有権者は、今回選挙でカタルシスを吐き出してしまった。「裏金事件」は終わった。
次の参院選(2025年7月)において予想される選挙結果は、保守と新興極右のさらなる党勢拡大だ。新自由主義の浸透の下、民営化、規制緩和、減税へと人々の関心が向かい、近年のフランスでは極右の台頭が顕著となった。前出の菊池は次のように書いている。《階層格差が拡大し、没落する中間層や底辺層の代弁者不在の空白を埋めるかのように、(フランスでは)極右が躍動するようになった。(前掲書P41)》
今回の選挙で、日本にもその兆候が顕在化した。極右の日本保守党、陰謀論の参政党、左派ポピュリズムれいわ新撰組、優生思想と高齢者排除を党首が公言した国民民主党の台頭だ。また今回後退したものの、維新が大阪の19選挙区すべての議席を独占したように、近畿圏で勢力を維持している。維新の政策は福祉予算削減、緊縮財政、財界と一体化した政策(たとえば万博やカジノ)推進という新自由主義そものであり、その傾向は続く。
極右およびポピュリズム政党が狙うのは、外国人排斥、差別主義、高齢者攻撃であり、減税(消費税撤廃)を含め、没落する中間層や底辺層の代弁者をよそおうことだ。
加えて、自民党内では、旧安部派が極右団体の支援の下、石破総裁の責任追及を激化し、石破おろしに決起する可能性を否定できない。次期参院選で自公が負ければ、自民党内の旧安部派が公明・維新・国民民主・日本保守・参政との大連立を画策する可能性もありえないわけではない。そうなれば、自民党内反安部派+立憲民主による中道右派連立が対抗軸として形成される可能性もある。そのとき、れいわ、共産、社民は、日本の政治舞台から大きく後退する。
開票結果を報じる新聞の第一面に踊る「自民惨敗」の見出しは真実を伝えていない。大きく議席数を伸ばした立憲だが、比例では自民500万票減、維新300万票減を奪い取れていない。立憲はなんと、わずか6万票増で終わっている。2020年結党の国民民主が350万票、参政・保守が合せて300万票獲得したが、共産・社民は合せて88万票失い、れいわは159万を奪ったに過ぎない。
日本人の政党支持に係る意識は不変であるが、このたびの総選挙では、「裏金事件」、ネット戦略という変数が小選挙区を主戦場として、その特異な制度が立憲に議席を与えたとみるべきだ。ゆえに注視すべきは、与党の過半数割れではなく、極右・左派ポピュリズム政党が確実に力を増したというところにある。〔完〕
NPB入りの厳しさは、メディアで報じられる指名および「指名漏れ」の選手だけでは実感しにくい。
NPB球団から指名を受けるには、社会人選手・独立リーグ選手を除く高校生・大学生にはプロ野球志望届の提出が義務付けられている。2024年は、高校生159人、大学生162人の計321人がプロ野球志望届を提出した。ということは、指名をうけなかった選手がおよそ200人いたことになる。もっとも、プロ野球志望届はだれでも提出可能なので、届出者すべてが職業野球を志しているとはかぎらないのだが、届を出さないで指名を待つ独立リーグ選手や社会人野球選手を含めると、実態上の「指名漏れ」はかなりの人数にのぼる。
NPBが間口を狭めて才能ある人材を埋もれさせているのか、逆に篩にかけ、高いレベルを維持しているのか――について即答することは不可能だとは思う。それでも筆者は、前者の可能性の方が高いと感じている。その根拠となるのが、ドラフト高順位指名選手が必ずしもレギュラーになるとは限らない現実を見るからだ。たとえば近年、育成枠指名でNPBに入団したした選手の活躍が目覚ましい現実に注目したい。ざっと挙げると、MLBメッツ所属の千賀滉大を筆頭に、甲斐拓也(ソフトバンク)、周東佑京(同)、大竹耕太郎(阪神)、宇田川優希(オリックス)、牧原大成(ソフトバンク)が思い浮かぶ。それに下位指名選手を加えるとどうなるだろうか。
ドラフト指名については、専門の球団専属スカウトが全国をとびまわり、アマチュア選手の才能を見極めた結果だから、その結果は尊重されるべきであり、文句をつける筋合いはない。指名した選手がレギュラーになるか埋もれてしまうかは、さまざまな条件の複合的結果だ。たとえば、ケガ、故障、性格なども関与する。
また、前出の話題をさらた「指名漏れ」選手の場合、各球団が、覚醒剤問題を起こした父親の影を意識した可能性を否定できない。彼がいわくつきの父親の長男でなかったならば、上位指名は難しくても下位指名はあったように思う。というのも、彼が野球を始めたのは大学生になってからで、中学ではバレーボール、高校ではアメリカンフットボールの選手という経歴をもっていることにある。大学から野球をはじめたにもかかわらず、大学野球界で老舗の東京六大学野球のレギュラーになっていることから、高度の野球センスと身体能力をもっていることが想像できる。彼がこの先、野球の道を進むのかどうかいまの段階では不明だが、NPBに入るにはもう少し時間を要することは確かである。
NPB入りを目指して10代のほとんどの時間を野球に打ち込んできた若者を「指名漏れ」というかたちで排除するのはいかにも残酷だ。「指名漏れ」となった選手が日本で野球を続ける道は、①国内独立リーグ入団、②社会人野球入り、③高校生なら大学進学または社会人野球入り――にかぎられる。①のみが職業野球であるが、待遇・環境はかなり厳しいという。①②を経てNPBから再指名を受けるには時間経過が必要となる。
くり返しになるが、NPBの12という球団数は、日本の野球競技人口および日本社会における野球への関心度からして少なすぎる。いますぐ球団数を増やすことは難しいとしても、MLBにおけるマイナーリーグに匹敵する下部リーグの組織化から着手し、たとえば上部リーグをB1、下部リーグをB2とカテゴライズし、サッカーJリーグに倣って、B1下位2チーム⇔B2上位2チームの入れ替え制度なども参考にして、長期計画によってB1(現在の一軍)の球団数増を図ってもらいたいものだ。
プロ野球選手を目指して青春を賭けた若者に門戸を広げたい。隠れた才能が発掘され開花し、大スターが生まれる可能性が高まることに期待したい。冒頭の写真のとおり、今年のドラフトで最も注目を集めた選手の名前は「夢斗」である。一日も早く、夢が広がるNPBになってほしい。〔完〕
27日まで台東区・谷中エリアにて実証実験中のグリーンスローモビリティ。小型バス(電気自動車)が同エリアを回遊するという。
谷中防災コミュニティセンター・日暮里駅・朝倉彫塑館・永久寺前で運転中だ(無料)。
坂の多い同地区なだけに、区民の新しい足となることが期待される。
なお、実施の時期などは未定とのこと。
NPB(日本野球機構)の観客動員数は確実に伸びている。日本はプロ野球ブームともいえる。その背景には、WBCにおける優勝(2023)、MLB(Major League Baseball)における大谷ほか日本人選手の活躍がある。しかしながら、NPBの好調の要因はいずれも外在的であって、NPB独自の努力とは言いがたい。なによりも、スター選手の不在だ。現在のNPB人気は一過性なのではないか。その理由を以下、述べていく。
MLBも観客動員数は増加傾向にある。だが日米を比較すると、両国のあいだには埋めがたい差異がある。日本では野球が人気ナンバーワンスポーツだが、米国では圧倒的にアメリカン・フットボールのほうが人気がある。野球の欠点は試合が時間制ではないため、試合時間が長いことだ。時間を売るTV(中継)にもなじまない。スポーツファン及びメディアは、試合時間が決まっているアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーになびいてしまう。
MLBは野球における営業面のマイナスを是正(試合時間短縮)するため、さまざまな制度及びルール変更を繰り返してきた。以下、それらについて大雑把に見ておこう。
2024シーズンから、①ピッチクロック(pitch clock)、②タイブレーク(tie break/ポストシーズンでは採用されない) 、③投手の牽制球回数制限――を導入した。①②については、米国ではMLBほか、マイナーリーグ、大学野球でも採用されている。②は国際大会でも採用されている。また、攻撃重視の観点から、2024年、盗塁数の増加および野手・走者の安全確保のため、塁ベースのサイズを大きくした。この措置は、先行して導入したコリジョンルールを一段高めたものだ。
MLBアメリカンリーグで1973年より採用されていたDH制度をナショナルリーグでも2022年から完全導入した。いかにも奇異なのが、NPBのセリーグだけがDH制度を採用しないことだ。国際試合で採用されているDH制度を頑なに導入しない理由がわからない。
試合システムの改革としては、かなり古い話だがレギュラーシーズンのほかにポストシーズンとして1969年にプレーオフ制度が導入された。プレーオフは漸次制度改良され、現在のワイルドカード・シリーズ、ディビジョン・シリーズ、リーグ・チャンピオンシリーズ、ワールド・シリーズの4シリーズ制に移行した。
MLBの球団数はアリ―グ15、ナリーグ15の合計30球団だが、ポストシーズンに参加するチームは12球団にのぼり、なんとNPBの全球団数と同数だ。
3シリーズとも勝ち上がり方式で、ワールド・シリーズまでの道筋を短期決戦型に仕上げた。この制度はサッカーで採用しているカップ戦に近い。長丁場のレギュラーシーズンとは異なった短期決戦をファンに楽しんでもらおうという仕掛けだ。NPBもMLBに倣って、クライマックスシリーズを創設したが、セパ両リーグの上位3チーム(といっても6チーム中の上位3チーム)という、なんとも緊張感を欠いた「ポストシーズン」になっている。
インターリーグ(NPBでは交流戦と呼ばれる)は1997年から開始され今日に至っている。NPBもMLBに倣って採用されたが、ワンカード(3試合)で終わってしまうため、筆者にはどうでもいい制度に思える。
MLBの改革について大雑把にまとめたが、NPBとの違いの根底には、商圏の違いにある。米国は日本の25倍の国土面積を有し、それに北米カナダ(トロント・ブルージエイズ)も商圏に含む。米国(MLB)のスケールを日本(NPB)が真似することは不可能である。人口も日本の約3倍だから、各地域が独立国のような様相を呈していて、各チームは郷土愛に支えられている。
NPBの強みはなんだろうか。まず、野球が日本社会全体から根強い支持を受けていることだ。少年野球→高校野球→大学野球→社会人野球と分厚い野球人口とそのファンが存在し、それにこたえる選手、指導者、支援者、スタッフが組織されていることだ。このことは最大の強みである。
しかし日本社会の特殊性がマイナスを生む。そのことを象徴するのが、〝だらだら試合”の横行だ。日本では試合時間が長いことがあまり問題視されない。その理由は、日本人が「間」を重視する国民性をもっているからだろう。不必要なタイムをかけることが、相手の気をそらす有効な手段だと認識されている。不必要な牽制球もそうだ。野球解説者が「打者の打ち気を逸らす絶妙なタイミングですね」と緩慢で無意味な投手の牽制球を称賛することは当たり前であり、中継アナウンサーも解説者に同意する。メディアが試合時間の短縮を阻害する〝だらだらプレー”をあたりまえというよりも、積極的に容認してきたのだ。
そればかりではない。日本野球に悪影響を与えているのが「甲子園」だ。短期決戦の甲子園野球は、選手の健康管理面、戦術(作戦)面において、未成年者プレーヤーが本来目指すべき野球を逸脱し、独自の甲子園野球スタイルを確立してしまった。犠牲バントの多用、エースと呼ばれる一人の投手の酷使などだ。変則の甲子園野球に適応するよう訓練された高校生をそこから解放することが、NPB改革の第一歩でもある。
NPBには延長12回で引分という制度がある。筆者にはまったく理解不能な順位決定基準だ。勝率によって順位が決まるため、勝ち数よりも引分数が多い方が順位が上にくる可能性がある。引分を認めるならば、勝率よりも勝点制度(勝利3、引分1、負け0)にすべきだ。
MLBでは引分がなかった。タイブレークが導入されるまでは延々とゲームが続き、日付が変わる試合もあった。勝負には勝ちと負けしかないというのがMLBの哲学だが、長時間の試合の非合理性が認識され、タイブレークが導入され、前出のとおり国際試合もMLBに倣った。しかるにNPBは引分・勝率のローカルルールが貫かれ、国際ルールからも離反した状態を続けている。筆者には、NPBの無頓着ぶりが理解できない。国際試合で勝つためには、タイブレークをより多く経験することが必須のはずだが。
「巨人人気」はこれまでNPB人気を支えてきたのだが、逆にそれがNPBの甘えを生み、近代化、革新の機運を阻んできように筆者には思える。いまでこそ希薄になってきたものの、「野球は巨人...」、「巨人...なんとか、卵焼き」という巨人中心主義が日本球界をながらく蝕んできた。 プロスポーツ存立の基本はホームのファンの支持にある。
NPBの甘えの構造を象徴するのが、「12球団」という不変の球団数の維持だ。球団のオーナー・チェンジは幾度もあったが、その数は増加しない。NPBとりわけセリーグ各球団は「巨人人気」にあやかって集客できた。だから、新規参入を阻害し、プロ野球マーケットを独占してきた。このことは、既得権益の維持とも換言できる。
毎年、新人100人が球界入りして、100人が首切りにあうという。だから、高いレベルが保持されるという見方もあるらしいが、筆者は、そうは思わない。チャンスに恵まれず、才能を眠らせたまま職業野球業界を離れた者も多いのではないか。そのことについては後述する。
日本の職業野球業界はNPB・12球団傘下の二軍と三軍(全球団ではない)があり、二軍はイースタン、ウエスタンの2リーグが活動している。イースタン、ウエスタンは現行12球団の下部組織であり、選手育成と一軍選手の調整の場としての機能を担っている。
12球団が職業野球人を1軍・2軍・3軍としてを丸抱えして、不要になったと判断した選手の首を斬るシステムだ。そのことはMLBとかわらないが、MLBはAAA、AA、Aの各リーグの独立性が強く、MLB球団の本拠地をもたない地域にプロ野球という娯楽を提供している。
なお、近年、日本球界に「独立リーグ」が誕生し、(1)四国アイランドリーグ(2005)、(2)ルートインBCリーグ(2007)、(3)さわかみ関西独立リーグ (2014)、(4)北海道ベースボールリーグ(2020)、(5)ヤマエグループ九州アジアリーグ(2021年)、(6)北海道フロンティアリーグ(2022)、(7)日本海リーグ(2023)の7リーグ、28球団が活動している。( )内は創設年。独立リーグの球団はどこも緊縮財政で経営状態は芳しくない。独立リーグの球団を母体としてNPBに参入できるチームをつくりあげるには、大企業のスポンサードを必要とする。
景気がそれほど良くない日本の経済環境下、NPBに参入したい事業者がいるのかどうかについて、筆者は取材していないのでわからないものの、近年、日本のスポーツ界はMLBの大谷翔平、女子やり投げの北口榛花、イタリア男子バレーボールの石川祐希、NBAの八村塁といった、世界の大舞台で活躍する選手を多数輩出するようになってきた。そのなかで野球はエンタメ産業のなかでの最有力コンテンツであることは確言できる。TVの情報番組で大谷翔平が登場する回数は尋常な数ではない。いまがプロ野球ビジネスを始める絶好のチャンスだと思える。野球人気の高い地方中核都市をホームとしてNPB球団を創設すれば、地域活性化にも資する。MLBの30チームには及ばないものの、サッカーJ1の20チームくらいの規模のリーグが維持できるはずだ。
前出のとおり、日本球界では球団数を増やせば選手の質が落ちる、という消極論が絶えない。 はたしてそうだろうか。MLBの発展は米国の地域開発の進展にシンクロしている。東海岸から中部に本拠地を置いていた球団が西海岸に移転すると同時に、移転した穴を新球団が埋め、さらにディープサウスの都市化とともに西南部に新球団が結成され、さらに北米カナダに至る。交通機関、とりわけ航空機網の充実がそれを支えた。
1940年代には黒人選手に門戸が開かれ、人種・国籍不問の下、中米・南米出身選手が活躍する場を得た。そしていまでは東アジア(日本・韓国等)にも門戸が開かれている。MLBで大活躍中の大谷翔平は、MLBの拡大方針に基づくスカウティングの成果の一つでもある。大谷効果により、日本の公営放送であるNHKはMLBに対して87億円の放映料を支払っている。
MLBは新しいスターを見いだすため、全世界にスカウト網を構築した。30球団はスターを求めて、激しい競争を強いられる。才能を見いだす眼力が求められると同時に、プレーヤーはスカウトの目に留まろうと努力をする。才能のある選手を獲得するため、30球団は給料を上げなければならなくなる。こうして球団と選手のあいだに好循環が形成されていく。かぎられた数の球団で選手の才能を潰すよりも、球団数を増やして活躍の場を広げるほうがスターを生みだす機会が増える。
NPB(日本の野球)人気は、いま現在をピークとして、ゆるやかな下降線をたどるのではないか、と筆者は予想する。その異変は、いま海の向こうで活躍する大谷翔平の変容がもたらすはずだ。彼が「二刀流」に復帰すれば、今年の打者「一刀流」ほどの活躍は望めない。投手としての勝ち星は一桁で終わり、本塁打、打点、盗塁、打率は2024年を大幅に下回るだろう。故障する確率も高まる。「二刀流」という〈話題性〉と〈投打の成績すなわちチーム貢献度〉がバランスしなくなった時点で、「大谷神話」は崩壊する。大谷翔平は「並み」もしくは「並以下」の投手であり、「並み」のDH(打者)にとどまる。そのとき、常勝を義務づけられたドジャースは大谷をどうするのか。
よしんば、大谷翔平がMLBで「二刀流」を貫けたとしても、彼の30歳という現在の年齢を考えると、彼の現役生活はこの先長くて10年に満たないのではないか。大谷翔平は100年に一度の選手であり、彼に代わる選手はしばらく出てこない。大谷の絶頂期の終わりとともに、前出のとおり、NPB(日本の野球)人気もゆるやかな下降線をたどる。下降を迎える時期はそれほど遠くない未来だろう。
野球人気の下降局面を耐えぬく方策は、地域密着の球団経営にある。スーパースターの出現という一過性に負うのではなく、しっかりとしたフィジビリティ・スタディ(feasibility study)に基づいた球団経営に徹することだ。そういう球団が20チーム集まってリーグを組めば、NPB人気は不動のものとなる。〔完〕
NPBパシフィックリーグは早々とソフトバンクが独走態勢を固め、すんなりと優勝を決めた。以下、日本ハム、ロッテ(CS出場権獲得)、楽天、オリックス、西武となった。筆者が本年3月26日に拙Blogで予想した順位は1.オリックス、 2. ソフトバンク、3. 楽天、4. ロッテ、 5. 西武、6. 日ハム だったから、まったく当たらなかった。
パリーグの2024シーズンで特筆すべきは以下の3点だ。第一が、2シーズン最下位だった日ハムの2位躍進、第二が、二連覇したオリックスの5位転落、第三が、最下位西武の悲惨な成績(勝率.350/2024/10/07現在)だ。今シーズン、西武球団は黒歴史を刻んでしまった。
まず、日ハムの2位躍進の主因を探りたいところだが、いまのところ筆者には考えが及ばない。わからない、謎のままだ。手元のありきたりのデータから探るならば、本塁打数111本はソフトバンクに次いでリーグ2位であること、チーム打率.245はリーグで3位であること、盗塁数91はリーグトップであること。一方、防御率.295は、ソフトバンク(2.53)、オリックス(2.82)に次ぐ3位であること――から、日ハムは盗塁数、本塁打数が多く、攻撃型のチームだったことがわかる。日ハム・新庄監督はスクイズ多用のイメージが強く、貧打で守備型のチームだと思っていたが、データからするとそうではなかった。なお、失策数75は、オリックスに次ぐ2位であるから、守備が特段上手いチームでもない。今季の日ハムは、バランスの取れたチームだったことだけは確かである。
開幕前、筆者は、優勝するのはオリックスかソフトバンクかで迷ったくらいだから、ソフトバンクの優勝は驚かない。しかし、オリックスが勝率5割を割り、5位に沈むとは思わなかった。
結果論になるが、オリックス凋落の要因はわかりやすい。絶対的エース山本がMLBに移籍し、投手陣の柱が抜けたことだ。若手投手陣が支柱を失い、精神的安定感を失い、昨年培った自信が揺らいでしまったと思われる。投手陣を引っ張るリーダー的投手が育っていなかった。加えて打撃陣も精彩を欠いた。主砲杉本が82試合の出場にとどまり、FAで広島から移籍した西川もパリーグの野球にフィットできなかった。
連覇は難しいといわれるくらいだから、三連覇はなお難しい。若手が多いオリックスだから、既存戦力が昨年から上乗せして戦力アップと単純に考えてはいけなかった。これは予想と結果の乖離という難題だ。既存戦力が順調にスキルアップすれば問題は生じないが、NPB球団が職業野球集団である以上、リーグ途中であっても、構想から外れた弱点をトレード、外国人などで補う努力を必要とする。フロントがなにもせず、すべて現場まかせならば、GMも球団社長も給料を返納すべきだ。
大敗西武の主因は内部の者でないとわからないのではないか。戦力、モチベーション、チーム内不和・・・なのか、それらが複合的にからみあったのか。選手、コーチ・監督、フロントすべてにかかわる問題なのだろう。NPBはセパ6チームと少ない構成だ。そのうちの一つが勝率.350となれば、リーグ戦の興味は失せる。
さて以下の記述は推察にすぎないが、昨シーズン、西武は「山川問題」でつまずき、その山川がソフトバンクで大活躍したという重い現実がある。以下、「山川問題」を大雑把に振り返ってみる。
事件は、2023年5月、山川が東京都内のホテルで当時20代の知人女性に対して性的な暴行を加えたとして、警視庁が強制わいせつ致傷の容疑で捜査を進めていることが文春オンラインより報じられたことで明るみに出た。
文春によると、警察は被害届を受理し、山川に事情聴取が行われたという。その直後、山川は強制性交等の容疑で警視庁により東京地検へ書類送検され、西武球団は謝罪のコメントを発表した。
同年8月、東京地検は山川を嫌疑不十分で不起訴処分とした。球団は、9月に無期限の出場停止処分を発表すると同時に、山川自身の「不起訴と判断されましたが、そもそもの主たる原因は、わたしがプロ野球選手という立場をわきまえずにした行動が招いたものであり、深く反省しています」というコメントを紹介した。
2023年、2024年に行われた西武ホールディングスの株主総会では、株主側から山川に関する質問が2年連続で行われた。西武側は回答の中で、「不法行為ということは今のところ考えていない」として、グループ全体が負った損害に対する賠償請求を行わないことを示唆したという。
2023年シーズンオフの10月5日、公式戦外の教育リーグであるみやざきフェニックス・リーグへの参加が発表され、同11日の同リーグの試合で5か月ぶりに実戦復帰を果たした。同23日には、4月に右足痛で登録抹消となった期間に「故障者特例措置」が適用されたことにより、国内FA権を取得しFA権を行使。この行使を受け、ソフトバンクが山川獲得に乗り出し、2023年12月19日、ソフトバンクへの入団が発表され、入団会見が行われ、山川は改めて、一連の不祥事について関係者や西武ファンに対する謝罪を行った。なお人的補償として甲斐野央が西武に移籍することとなった。ちなみに甲斐野の今シーズンの成績は、開幕一軍入りを果たすも、18試合登板で1敗5ホールド、防御率3.12。戦力にならなかった。(Wikipediaより抜粋)
真相は藪の中である。検察が不起訴処分とした背景が不明である。一般に被害者との間で示談が成立した場合、不起訴処分とするケースが多いというが。しかし、前出の文春によれば、「女性は膣内やその他下半身などから出血するけがを負って」いたという。文春の報道のとおりならば、性的暴行、傷害の加害者が不起訴処分というだけで大観衆の前で平然とプレーをするのはやはり異常事態である。
山川のFA宣言、ソフトバンクの獲得もおおいに疑問が残る。ソフトバンク側は獲得に際し十分な調査をしたというが、調査の実施主体、調査内容も非公開である。NPBも「山川問題」について調査委員会を立ち上げた様子はないし、スポーツメディア、マスメディアも不問に付した。いまになっては、「山川事件」はなかったことになっている。
西武というチームが歴史的負け数を記録した主因が「山川問題」に結びついているという証拠はもちろんない。ただ、西武の選手たちが複雑な気持ちを抱かないはずはないと推測できなくもない。「カネがあって野球がうまければ、なにがあっても許される」という風潮は究極のモラルハザードである。「山川問題」の幕引きは、NPBの統治能力の限界をみせた、と筆者は考えている。
西武およびオリックスの両球団は来季に向け、既存戦力の分析からはじめて、スカウティング(ドラフト・トレード)戦略を固める必要がある。球団社長、GMがリーダシップをとって来季のチーム編成の骨格を示さなければならない。選手として実績のある者を監督に迎え入れただけで、「手を打った」とする「現場丸投げ」の方策は時代遅れ。セリーグも含めて、NPBの近代化が望まれる。(次回は「これでいいのかNPB」)
NPBセントラルリーグ、読売ジャイアンツ(以下「巨人」)の優勝が決まった。以下の順位は、阪神・DeNA(CS出場権獲得)そして、広島、ヤクルト、中日である(2024/10/05現在)。筆者が本年3月26日に拙Blogで予想した順位は阪神(優勝)、 広島、 巨人、ヤクルト、DeNA、中日であったから、かなり外れた。
巨人のチーム別対戦成績を見ると、阪神=12勝12敗(1)、DeNA=16勝8敗(1)、広島=13勝 9敗(3)、ヤクルト=13勝12敗(0)、中日=15勝9敗(1)である。( )内は引分 。巨人の優勝は、DeNAと中日をカモにした結果ともいえる。この2チームがもうちょっとがんばってくれたなら、筆者の予想が外れなかった可能性もなくはない。
巨人のライバルが阪神、広島であることは容易に予想できたことだが、その阪神は序盤・中盤、打線の不振と拙守で星を落とした。終盤の追い上げも時すでに遅し。追い越せなかった。広島のBクラス落ちは想定外。終盤の大不振は日本球界の歴史に残るかもしれない。投打にわたって息切れした。
ライバル2チームに比べて、巨人はシーズン途中で有効な補強をした。悪い流れを変えたのは米国AAAからやってきたヘルナンデスだ。MLB経験はないが、なかなかの巧打者でNPBに短期間でフィットした。ケガで、優勝を決めるまでの試合に出場できなかったが、彼の貢献が巨人を優勝に導いたといえる。MVPに値する活躍だった。
一方の阪神は動かなかった。再契約した外国人(ミエセス、ノイジー)が不振で一軍出場すらかなわなかったにもかかわらず、既存戦力の台頭に期待したようだが、結果としては失敗に終わった。
広島は阪神よりも重傷だった。序盤に末抱が故障で出場できず、2024年に新たに契約した外国人2選手(マット・レイノルズ内野手/MLBレッズと、ジェイク・シャイナー内野手/AAAタコマ)がNPBにフィットしないまま退団した。広島は主力の西川がFA移籍で退団し戦力低下していたにもかかわらず、シーズン途中の補強を怠り、既存戦力の台頭に賭けたが、阪神同様失敗に終わった。
巨人は変わった。阿部新監督は、それまでの監督(原、高橋、原)の野球を捨てた。ヘルナンデスの補強はそのことの象徴でもある。狭い東京ドームに本拠地を構える巨人は、一貫してホームラン打者を揃えるチームづくりを行ってきたが、阿部はアスリートタイプで臨もうとしたようにみえた。このことは、開幕前の拙blogで詳述した。
(1)積極的に動いたフロント
序盤から中盤にかけて、阿部の構想は、梶谷が故障で長期欠場したことで崩壊しかけた。外野陣に大穴が空いたのだ。丸以外のレギュラーがいなくなった。読売球団はまず、国内トレードを試みたが結果がでなかった。最後の選択として、AAAの選手の獲得に乗り出し、前出のヘルナンデスに巡り合えたわけだ。それでも、LFの穴が埋まらず、内野手登録の新外国人モンテスで応急手当てをした。ヘルナンデス離脱以降は、モンテス、浅野、オコエが日替わりヒーローとなり勝星を重ねた。
(2)すぐれた体調管理
内野では、吉川(2B)の活躍も見逃せない。シーズンをとおして優勝に貢献した。天才的守備力とチャンスに強い打撃が巨人のピンチを幾度となく救った。彼の弱点は故障(腰痛持ちだと聞いたことがある)が多いことだったが、今シーズンはそれが出なかった。後述するが、菅野の復活もみごとである。本人たちのセルフコントロールの努力もあるし、また、コンディション担当コーチの功績かも知れない。
(3)円滑な一軍⇔二軍の交流
巨人は二軍との連携が円滑で、そのことが弱めの攻撃陣を救った。一軍で調子を落とした選手は二軍で調整させ、二軍で調子の良い選手が上がってきて活躍するというパターンを確立した。前出のとおり、二軍で賄いきれなければ、外国人選手を輸入するといった思い切った策が功を奏した。このシステムは球団-阿部監督-桑田二軍監督-各コーチ-スカウトを中心としたスタッフの有機的連携の結果だろう。球団レベルにおいて、阪神、広島を引き離した。
巨人優勝の一方の要因は投手力である。菅野が完全復活以上の働きをみせた。筆者は菅野限界説を唱えていたのだが、その予想は大外れだった。前出のとおり、彼の復活はコンデションを維持できたことだろう。持病の腰痛が発症せず、肘の故障もなかった。そのうえ、今シーズン序盤に話題となった飛ばない公式球といいたいところだが、圧倒的な投高打低現象の主因は、ストライクゾーンの変化ではないか。取材をしていないので筆者の主観にすぎないが、公式球の仕様というよりも、球審のストライクゾーンが低めに広がったことが大きいと思う。そのため、コントロールの良い大瀬良、菅野というベテランが復活したし、髙橋宏斗(中日)の防御率1.38は驚異的記録となっている。スプリット、チェンジアップといった落ちる球が全盛の時代、加えて低めに甘くなったストライクゾーンという条件がそろえば、投手力の良い巨人には好都合である。
巨人の優勝に文句をつける気はないが、2024年シーズンは、NPBセントラルリーグの実力低下を露見させた。阪神の淡白な球団運営、中日、ヤクルト、DeNAのやる気のなさ、強調すべきは広島球団の緊縮経営による終盤の絶望的凋落である。巨人を除く5球団からは、ペナントを必死で取りにいこうとする気迫・姿勢がうがえない。球団創設90年の読売に花をもたせたのか、と疑いたくもなる。(次回はパリーグ)
●ロバート・ホワイティング〔著〕 ●角川新書 ●1900円(税別)
敗戦直後の混乱した日本の首都・東京。そこには占領軍諜報部員や一攫千金を狙った外国人、日本人ヤクザ等が暗躍した。いまでは想像もつかない闇世界があった。彼らの暗躍ぶりは表の報道からはうかがい知れないものばかりであり、日本の正式な現代史に記されることもない。著者(ロバート・ホワイティング)はそれを掘り起こし洗い出し、これまで『東京アンダーワールド』『東京アウトサイダーズ 東京アンダーワールドⅡ』に描きだした。本書はその第三作ということになる。
これら本題は、〈アンダーワールド〉〈アウトサイダーズ〉という語で括られているが、登場する人物像は一様ではなく、いくつかの類型に分けられる。
その第一は、敗戦直後、混乱する東京にやってきたガイジンたちだ。彼らはナイーブ(うぶ)な日本人を標的にして詐欺を働いた。いうまでもなく、犯罪者である。第二は、やはり混乱期の東京で勢力を拡大した、黎明期の日本の暴力団だ。第三は、GHQの下、敗戦国日本の針路を定めるべく諜報活動を担ったアメリカの諸機関のスタッフと日本人協力者である。第四は、日本社会から排除されたガイジンだ。第五は、日本の旧植民地から日本に移住もしくは強制連行された者およびそれをルーツとする人々である。
戦勝国アメリカは敗戦国日本を占領し、GHQを設置して日本の民主化を押し進めた。ところが、東アジアにおける共産勢力の台頭により、冷戦激化を予測したアメリカは日本を反共の砦にしようと画策した。この路線変更は1947年ころから顕在化する、いわゆる〝逆コース″と呼ばれる対日政策の変更をいう。
GHQ は手始めに極東裁判で投獄した日本人戦争犯罪者を釈放し、政治・行政・司法の各分野に復帰させた。また、諜報部門(のちのCIA)を通じて戦争犯罪人として投獄していた政治家等に資金を提供し、反共親米政党を結成・育成した。育成された反共親米政党が今日の自由民主党である。その一方、GHQは台頭してきた社会主義者、共産主義者、労働運動指導者等の活動をときにソフトにときに暴力的に制限した。日本の左派の抑圧を非合法で成し遂げるため、戦前、日本の植民地であった中国北東部、朝鮮、台湾等で麻薬の売買や現地人民を暴力的に搾取して富を築いた軍人・国粋主義者(日本人フィクサー)、暴力団等を利用した。つまり、この分野に登場するアウトサイダーは、アメリカ人と日本人であり、前者はアメリカの国益(反共)のために、後者は自らの政権復帰並びに権力維持のために、お互いを利用したのである。今日の日本国の原型ともいうべき国家形態がこのとき、彼等の手によってデザインされ、つくりだされたのである。
排除されたガイジン(アウトサイダーズ)の筆頭は日本プロ野球界に招かれた外国人監督、選手、そして読売ジャイアンツの王貞治も含まれる。また、経済界では、日本企業に招かれた外国人社長(CEO)であり、なかでもっとも有名なのが日産自動車の立て直しに成功したカルロス・ゴーンである。著者はゴーンの日産からの追放、逮捕、起訴について疑問を呈しつつ、また日本の警察の人質捜査手法、司法の人権侵害を批判しつつ、日本(人)⇔ガイジンの対立構造を設定する。著者によると、この分野のガイジンは、日本人の島国根性、ガイジン嫌い、日本特殊論といった日本社会のクリシエの犠牲者であり、日本(人・社会)は外国(人・社会)とは違うんだといった「論法」により、不当に排除されたと結論づける。そればかりではない。著者は、こうした排除の構造が、日本の後進性、封建遺制であり、日本の国際化を阻んでいるという。
ロバート・ホワイティングの「アウトサイダーもの」はおもしろい。日本(人・社会)をぶったぎる書きぶりは痛快でさえある。敗戦直後から今日までの日本が合法的かつ理性的に歩んだとはいえない。学校では教わらない闇もしくは裏の戦後史があり、著者から得た貴重な情報も盛りだくさんある。筆者も日本人の一人として、反省を迫られる箇所もある。確かに日本の後進性や封建遺制を払拭できないところは認めよう。差別や排除もなくならないどころか、ますます、強度を増している。
しかし筆者は、ガイジンを排除するのが日本(人・社会)の特殊性だとは思わない。筆者は外国で生活をしたことはないが、留学経験者やいま現在外国で暮らしている日本人の多くが、現地で排除・差別を経験している。アジア人だから、日本人だからという理由で、職業の選択の幅がせばまったことを実感したという者が少なくない。
そればかりではない。現にいま、ヨーロッパではアラブ系・アフリカ系移民に対する差別・排除・暴力が一般化している。彼ら・彼女らの排除を目指す右派政党が台頭している。
ロバート・ホワイティングの母国・アメリカの大統領候補であり大統領経験者が、TV討論会で、オハイオ州スプリングフィールドのハイチから移民が近隣住民のペットを食べていると発言した。ハイチ系移民はまちがいなく、アメリカ社会のアウトサイダーだ。ハイチ系アメリカ人社会の指導者らは、これによってハイチ系の人びとの生命が脅かされ、地元地域の緊張をさらに高めかねないと警告した。つまり、大統領経験者が移民というアウトサイダーをフェイクニュースで誹謗中傷し、彼らを危険にさらしているのがアメリカ(人・社会)なのである。対立候補がハイチ人をルーツにもっているから、こうした悪罵で対立候補を貶めるつもりなのだろうが、そのような発言を許容しているのが21世紀のアメリカ(人・社会)なのである。
パレスチナで虐殺を続けるイスラエル軍人がハマス(パレスチナ人)を動物だといった。動物だからいくら殺してもかまわないという論法である。そのイスラエルを支援するのがロバート・ホワイティングの母国アメリカ合衆国である。
差別・排除・暴力・犯罪・アンダーグラウンド(闇)社会の存在といった社会問題の根源には、帝国主義、戦争、植民地、人種差別といった負の共通根がある。そしてそれらを正当化する西欧絶対主義があり、オリエント・アフリカに対する差別主義がある。前者が地球規模のヘゲモニーを奪取したところで普遍的であるかのように仮象している。
ロバート・ホワイティングはそれを日本の戦後社会に特定して、そこで起こったこと、起こっていることを詳細に情報化しているのだが、ロバート・ホワイティングの「日本論」はゴシップ(世間ばなし。よもやま話)の域を超えない。本書および著者の限界がそこである。〔完〕
●安田浩一〔著〕 ●中央公論新社 ●3600円+税
本書を読んでいるあいだ、何度か目から涙がこぼれた。虐殺被害者に対する同情や憐みもあるが、口惜しさ、焦燥感、そして無力感にとらわれたのだ。そして、すべての日本人が本書を読み、いまから100年前の日本人の負の歴史に向き合い、差別と暴力の根絶に向かわなければいけないのだ、と叫びたい衝動に駆られた。このような読書体験は、近年まれなことだった。
本題にある地震とは、1923年(大正12年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源地とする関東大震災のことである。明治以降の日本の地震被害としては最大規模で、死者・行方不明者は推定10万5,000の被害者を出した。震源の規模を示すM(マグニチュード)でいえば、長さ130kmもの巨大な断層面でM8クラスの本震が双子地震で起こり、その3分後にM7クラスの大余震,さらに1分半後にM7クラスの大余震が再び発生したという説がある。その度に関東各地は強い揺れに見舞われた。 広大な激震域と大余震群火災、崩壊した家屋の下敷きなど前出のとおりの被害が出た。
本震災の特徴は、火災による焼死が多かったことだ。これは本震災発生時に日本海沿岸を北上する台風が存在し、その台風に吹き込む強風が関東地方に吹き、木造住宅の密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したからだという。正午前ということもあり、昼食の準備のためにかまどや七輪に火を起こしている家庭も多かった。また可燃物の家財道具(箪笥や布団)を大八車などに載せて避難しようとした者が多く、こうした大量の荷物が人の避難を妨げるとともに、火の粉による延焼の原因となったとされる。強風に加えて水道管の破裂もあり、火災が3日間続き、近代日本における史上最大規模の被害をもたらした。
特筆すべきは、各所で水道管が破裂し、消火活動が滞り、火災が3日間つづいたこと。そのことにより、東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は近隣の避難所へ移動した。ところが、東京市内の避難所をは過密化し、そこを避けて、近郊(千葉、埼玉)へと避難民が移動したことを忘れてはならない。このことについては後述する。
本題にある虐殺は、震災直後に始まった。おそろしい人災(人殺し)のことである。朝鮮人・中国人が、そして当時「主義者」と呼ばれた共産主義者、社会主義者、労働組合活動家が、そして彼ら彼女らとまちがえられた地方出身の日本人、障がい者までもが虐殺された。虐殺者は、地域の在郷軍人、消防団員らを中核とする自警団、そして軍隊・警察の一部だった。
虐殺による犠牲者数は、「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」調査によると6,661人。その一方、当時の司法省発表では朝鮮人の虐殺犠牲者は233人としている。ただし、同報告は容疑者が判明し事件として立件できたケースに限られているため、実数とは大きくかけ離れているという。また、2009年、政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」が発表した「1923関東大震災報告書【第2編】では、「震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した」「虐殺という表現が妥当する例が多かった」「対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」としたうえで、犠牲者数を震災全体の死者10万人超の「1~数%にあたる」と記述した。ということは、ざっくり数千人の虐殺による犠牲者があったことはまちがいなかろう。(本書P8)
虐殺のメカニズムは国家権力が構築した。それが機能し、各所で虐殺が引き起こされた。
震災発生直後、日本帝国政府は関東一円の自治体にむけて、被災地で不逞鮮人(朝鮮人を差別して使用する言葉)が「井戸水に毒を入れた」「略奪、暴行、強姦の狼藉を働いている」「徒党を組んで攻め込んでいる」といったフェイク情報を作成し、各自治体に向け、自警団を組織せよ、との指示を出した。それを受けた地域社会(住民)は、在郷軍人、消防団、青年団が中心となり、住民を竹槍、鳶口、こん棒、猟銃等で武装させたうえで自警団を結成した。その間、地域警察(私服)がデマ情報を流し、住民を恐怖に陥れた。当時のマスメディアであった新聞も政府のデマ情報を記事にした。そればかりではない。大震災という異常事態のなか、デマ情報は各地に誇大化されて拡散した。東京中心部およびその周辺部では、工場、河川工事、鉄道敷設工事等で働く多くの朝鮮人が集住していたため、とりわけその付近の住民は警戒心を強めた。
自警団は詰所を設置し、域内を通過する「不審者」を訊問し、怪しいと思われる者を拘束し、暴行のうえ殺害した。集団で移動中の朝鮮人を襲撃したり、朝鮮人を警察署に集め留置したうえで警察署を襲撃して朝鮮人を虐殺したケースもあった。警察官、軍人が直接、無抵抗の朝鮮人を殺害したケースもあった。また、特高警察は混乱に乗じて、日本人の社会主義者、組合活動家等の「主義者」を殺害した。いずれも無抵抗な者を問答無用で殺害した。
虐殺が行われた後、警察は一転して取締りを開始し、首謀者などを逮捕、起訴した。彼らは形式的裁判を経て、微罪(執行猶予等)判決を受けた。実刑判決を受けた者も、1927年2月7日の大正天皇大葬(大赦,減刑および復権ならびに特別基準恩赦)により放免となった。
関東大震災は未曾有の大災害であり、国の心臓部にあたる帝都・東京の危機である。日本帝国政府が最優先すべきは住民の生命・安全の確保であり、罹災者にたいする救済措置であるはずだが、そうではなかった。日本帝国が最優先したのは、自分たち(権力者)に危機が及ぶことを未然防止することだった。そのことを最優先した背景をみておこう。
【日本帝国 近現代略年表(1868-1922)】
日本帝国と朝鮮(大韓帝国)とのあいだの関係については、本書にさらに詳しく記述されている(本書P470)。以下にその抜粋を示す。
【日本帝国と朝鮮(大韓帝国)の関係年表】
明治維新から関東大震災発生までのあいだ、日本帝国は対外戦争にあけくれた。大震災前には、その結果手にいれた植民地(朝鮮)経営に苦慮していた。植民地内の朝鮮人の抵抗、独立運動が激しさを増してきたのだ。
海外に目むけると、ロシア革命が起り、ロマノフ王朝一族が革命政府により断絶させられた。天皇を頂点とする日本帝国は、ロマノフ家を頂点とするロシア帝国が革命政府に倒され、皇帝一族が皆殺しにされたことを聞いて恐怖した。共産主義にたいする恐怖である。革命の影響は、日本国内にも及び、社会主義・共産主義政党が結党され、労働争議が頻発した。
日本帝国政府がもっとも恐れたのは、植民地の朝鮮人の反日抵抗運動が日本国内の朝鮮人に波及し、国内で叛乱が起こること、さらにその動きに社会主義者・共産主義者ばかりか米騒動に代表される大衆叛乱が合流することだった。
大震災直後、日本帝国は「治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件」を発出した。これは戒厳令と治安維持法の前身をなすものだが、軍隊を広域展開する戒厳体制をとらなかった、というよりも、とれなかった。警察・軍隊が根拠なく、日本に住む朝鮮人を拘束・殺害することは国際法上なじまない。諸外国から非難を受ける。日本帝国が有する暴力装置を行使せず、その代替機関として、民間武装すなわち自警団の組織化と自警団員による予防拘束の促進が国家によって画策された。さらに特高は、大震災という混乱に乗じて、「主義者」の拘束、拷問、殺害が水面下で遂行できるものと考え実行した。
ウンベルト・エーコは『永遠のファシズム(岩波現代文庫版)』におさめられた 「移住、寛容そして堪えがたいもの」において、原理主義、教条主義、似非科学的人種主義は、ひとつの〈教義〉を前提とした理論的な立場だが、不寛容こそがあらゆる教義の前提として置かれるといっている。不寛容は生物学的な根源をもち、動物間のテリトリー性のようなものとしてあらわれるから、しばしば表面的な感情的反応に起因するといっている。
わたしたちが自分と違う人びとに堪えられないのは、わたしたちが理解できない言語を話すからであり、カエルや犬や猿や豚やニンニクを食べるからであり、入れ墨をするからだ...といった具合に(前掲書P153)。
このような不寛容について、エーコは欲しいものをなんでも手に入れたいという本能と同様、子供の自然さだという。しかし子どもはしだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく。成長するにつれ、自分の括約筋をコントロールできる(おもらしやおねしょをしなくなる)ように。ところが、からだのコントロールとはうらはらに、寛容は、おとなになってからも、永遠に教育の問題でありつづける。そしてエーコは次のように続ける。
さらに恐るべきは、差別の最初に犠牲者になるのは、貧しい人びとの不寛容である。裕福な人びと同士に人種主義はない。金持ちは人種主義の教義を生み出したかもしれないが、貧しい人びとは、それを実践に、危険極まりない実践にうつすのである。知識人たちには野蛮な不寛容を倒せない。思考なき純粋な獣性をまえにしたとき、思考は無力だ。だからといって教義をそなえた不寛容と闘うのでは手後れになる。不寛容が教義となってしまってはそれを倒すには遅すぎるし、打倒を試みる人びとが最初の犠牲者となるからだ。(前掲書P156~157)
震災直後、自警団に志願し、武器をもってマイノリティーを虐殺した実行部隊はまさに庶民という決して裕福でない階層の者であった。裕福な者(政治家、資本家、官僚等)は差別を教義(愛国主義、排外主義等)とするが、貧しい人はそれを実践にうつす。それが震災下の虐殺である可能性はある。
ならば、不寛容を社会からなくすことはできないのだろうか、エーコは不寛容が生物学的、あたかも動物的自然さに起因するといっていた以上、不可能だということなのか。結論としては、前出の子どもが年齢を重ねるに従い、〝しだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく″というところにもどる。教育である。
・・・挑戦してみる価値はある。民族上の、宗教上の理由で他人に発砲する大人たちに寛容の教育を施すのは、時間の無駄だ。手後れだ。だから本に記されるより前に、[....]もっと幼い時期からはじまる継続的な教育を通じて、野蛮な不寛容は、徹底的に打ちのめしておくべきなのだ。(前掲書P157)
敗戦後、日本帝国から日本国にかわり、民主主義国家にかわったとされる。しかしながら、戦後の教育政策は失敗の連続だった。不寛容を徹底的に打ちのめすことはできず、歴史教育においては、近現代史の修正ばかりが勢いを増し、いま(2024年)ここにいる。
エーコの不寛容(差別)にたいする教育の重要性の提言がまちがっているとは思わない。筆者は、エーコの言説は一般論として正しいと思うものの、いまから「100年前」の「日本帝国」における「震災直後」に各所で起こった「虐殺」の説明としては弱い。1923年という時間性および日帝国という空間性によって規定された要因があるはずだと。100年前の日本帝国における震災と虐殺の情況論に迫りたい。
震災前、すでに日本社会は虐殺を許容する〈社会〉を形成していた。朝鮮人・中国人・障がい者といったマイノリティーにたいする差別が社会にじゅうぶん、定着していた。その根源はどこにあるのか。デマ情報に踊らされ、「不逞鮮人」というレッテルになぜ簡単にのせられてしまったのか。自警団はなぜ、虐殺に走ったのか。なぜこれほどまでに、残虐になれたのか。
このような問いにたいし、明確な要因を示す震災・虐殺に係る記録は管見の限り、筆者の手元にない。心理学的説明がなされているのかもしれないが、筆者はそれらを普遍科学として受け入れようとは思わない。ゆえにここから先の記述は、筆者の想像・推測となる。
筆者が考える第一の要因は、朝鮮人・中国人にたいする差別が日本社会のなかに根強くあり続けたことだと思う。その説明の前に、〈社会〉とは何かからはじめてみたい。
竹田青嗣はその著書『現象学は〈思考の原理〉である(ちくま新書版)』において、西研の『哲学的思考』のなかの言説を引用し、社会の本質を簡潔に観取したものと絶賛している。竹田が引用した西の〈社会〉を以下に再引用する。
記号-1:地震と虐殺の関係を結ぶ〈社会〉は虐殺が関東一円に及んだことに鑑みれば、人々の身の回りの範囲を超えた広範囲にわたる人びとの関係性としてあったことが説明できる。震災当時のマスメディアは主に新聞であり、新聞がデマ情報を流した事実は確認済だ。また、デマが東京中心部からの避難民の流入によって伝播したこともわかっている。さらに政府→自治体→地域という通達の流れも確認されている。こうして、大衆の内部に「不逞鮮人の悪事」という震災下における事実と反する〈社会〉が描かれた。
記号-2:そのまま震災下の状況を表したものとなろう。とりわけ、デマも自警団結成も虐殺も人々の交流だ。
記号-3:まさに、震災直後の社会そのものではないだろうか。地域が共同の問題(不逞鮮人からの防衛)に対処しようとするわれわれ(自警団)という共同主体として、虐殺という異常を正常とする〈社会〉を形成した。
虐殺後、裁かれた自警団幹部たちは悪びれた様子を見せていない。自分たちは「あたりまえのことをしたまで」といわんばかりだ。英雄気取りの者もいたという。つまり、虐殺に及んだ自警団員たちは、〈社会〉の通念・常識のまま行動した。そして、虐殺後の〈社会〉は彼らを赦し、その罪を隠蔽し、なかったこととして100年が経過し2024年に至っている。
竹田は西研の「社会とは」を引用したあと、記号-3の〈社会〉は〈客観的環境〉と〈共同的主体〉という両契機をもっているところに強く注目し、〈社会/自分が属する集合体〉とは、基本的にわれわれの個別的生の外的条件をなしているものだが、その外延をどのようにイメージするとしても、それは必ず一定程度、生の条件を決定的に拘束する限定性として現れるとともに、しかしまた一定程度、われわれが主体的に働きかけて変化させることのできる可変な条件であるという二つの本質契機をもっているという西研の説を紹介する。ここでいう自分が属する集合体とは、「家族」「友だち仲間」「学校」「職場」「地域」「都市」「国家」でもなんでもいいという。そして、次のように書いている。
「社会」の本質は、誰にとっても生の可能性の一般条件をなしているが、ある場合はそれを外的な規定性としてわれわれを拘束するものとして現れ、ある場合はそれはわれわれが生の一般条件を改変し、刷新しうる可能性の的として現れる。
つまり、前者の契機が強くなれば、社会はつねに自由を圧迫する動かしがたい権力性や制度性としてわれわれに現象し、〔それに反して〕後者の契機を高めることができるなら、社会はむしろわれわれの個別の的な生の希望を促し促進するような可能性の対象として、われわれにつかまれる。誰にとってもそういうことが「社会」という対象が孕む対照的本質である。〔後略〕(『現象学は〈思考の原理〉である』P238)
日本帝国がつくりあげた不寛容社会がまずあった。そして、各地域の小社会は、大震災に直面したその構成者が生の可能性を失うかもしれないという危機意識に陥ったとき、「社会」の外的規定性として、構成者の自由を圧迫し、権力性・制度性として強い圧力を構成者にかけ続けた。そのことを同調圧力というのかもしれないが。
震災後の日本帝国は著しい変容を示している。地震がそれを促進したかのようにも思えるくらいである。震災後の日本帝国の歩みを年表で追ってみる。
【日本帝国 近現代略年表(1924-1941)】
大震災(1923)後の日本帝国が歩んだおよそ20年間は帝国主義戦争・侵略戦争の時代といえる。日本帝国は国家・国民総力を挙げて、侵略戦争の遂行を決意した。戦争という非常時にそなえて、日本帝国は共産党弾圧、天皇機関説排撃、治安維持法等の強権的手法により、社会主義者・共産主義者はいうにおよばず、自由主義者をも社会から追放した。大震災時には、混乱に乗じて水面下で行った「主義者」の抹殺が、戦時という非常時に備えた国家権力によって、合法的(治安維持法)に白日の下行われるようになった。
1930年代には日中戦争を開始している。非常時便乗型国家再編の遂行は、日中戦争が拡大するに従い、その総仕上げとして、国家総動員法の施行、大政翼賛会発足をもってほぼ完成する。
日本の侵略が中国からインドシナ、西太平洋に拡大するに及んで、日本帝国と欧米帝国主義国家群(英米蘭等とその同盟国)は対立する。日本帝国は独伊と協定を結んで、最終戦争(日本帝国の勝利により、世界から戦争がなくなること)と位置づけた太平洋戦争への道を選択する。日本帝国が侵略したアジア・太平洋各地では、日本帝国軍による現地の非武装住民の虐殺が相次いだ。そして、1945年8月15日、日本帝国はその国土を焦土と化し、310万人超の犠牲者を出して敗戦を迎えた。
さてここで、大震災発生前の世界を俯瞰してみよう。世界は近代から現代へと歴史を進めていた。1014~1917年まで欧州で続いた第一次世界大戦(WWⅠ)である。この大戦によって、欧州にあった4つの帝国、ハプスブルク(オーストリア・ハンガリー)、オスマン、ドイツ(プロイセン)、ロシアが滅亡した。東アジアでは大戦直前ともいえる1912年に清王朝が滅亡している。
そればかりではない。WWⅠは対外戦争のあり方を変えた。それまでの戦争は、軍と軍の戦闘だったのだが、WWⅠからはタンク、航空機、潜水艦、毒ガスといった新兵器の登場により、戦争の概念が一変し、戦争は狭義の前線の戦いでなくなり、国内の日常生活すべての領域までをも動員せざるを得ない性格のものとなった。このような変化は、それまでの職業軍人の能力の限界性を明らかにし、軍人は変化した戦争(総力戦)には適さないという結論をもたらした。総力戦の司令塔は、前線のみならず、国内戦線の諸問題――産業・交通・教育・宣伝・輸送、等等――を配慮する能力を要するようになったからだ。総力戦は軍事戦略にもとづく軍人ではなく、政府官僚によって企画され、統制されなければならない国家的事業となった。
山之内靖がいうように、戦争は前線においてというよりも、一国全体のあらゆる資源――経済的・物質的資源のみならず、知的能力・判断力・管理能力・戦闘意欲を備えた人的資源、さらにはそうした人的資源を情報操作によって制御し得る宣伝能力という新たな資源――を動員しうる官庁組織によってこそ、遂行され得るものとなった。
日本帝国はWWⅠ後、総力戦研究のため、欧州に軍人・官僚を派遣し、情報を収集した。総力戦研究所が内閣総理大臣直轄の研究所として開設されたのは1940年だが、一朝一夕にはその理論を構築することは難しい。そもそも、陸軍内の統制派という派閥が「高度な総力戦に備えて軍の統制を制度と人事によって強化し、その組織的圧力によって国家全体を高度の国防国家に止揚しようとする」という思想を抱いていた。総力戦体制理論を唱えていたのは、統制派のイデオローグは永田鉄山(陸軍中佐)である。永田が唱える高度な総力戦とは前出のとおり、欧州を主戦場としたWWⅠが国家と国家の総力をあげた戦争であったとの認識から出発した国家観であり、戦争とは、軍事はもとより、国家の総力が激突する戦いだという認識である。こうした認識は間違ったものではない。第一次世界大戦後の欧米の帝国主義諸国は、戦争をそのように認識しそのように戦ったのだから。
統制派が軍部のみならず、政治の実権を握った時、日本は総力戦体制を整え、国防から無謀無策の侵略戦争へと進んだ。そのとき国民を統治したイデオロギーは、陸軍内で統制派と対立した皇統派のスローガン「一君万民」だった。すべての国民は天皇の赤子として、天皇のための戦争で死ぬことが名誉とされた。皇統派は〔二・二六事件〕で蹶起して統制派に鎮圧され、首謀者は処刑された。
山之内靖は総力戦とその体制を次のように定義している。
来るべき将来の戦争(総力戦)は、前線の将軍によってではなく、今日の諸官庁のような安全で閑静な、陰気な事務所の内部から、書記たちに囲まれた「指導者」によって運営されることになる。第一次世界大戦により、戦争は、武器が高度のテクノロジーを駆使する精巧な機械へと変身したことに対応して、人間のあらゆる能力を全国民規模で動員するところの、無機質なビジネスとしての性格を完成させたのである。
戦争はロマンとしての一切の性格を失う。だが、それだけに却って、戦争における死をいやがうえにも栄光に包み込むイデオロギー装置が、不可欠なものとして要請されることとなる。戦争としての死が、前線だけでなく国内においても、例外なく平等に訪れる国民全体の運命となったこと、このことは、国民というフランス革命いらいの概念に、まったく新しい意味を与えることになった。国民とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに足る情念を共有する者たちの呼び名となった。この情念を共有しえない者は、非国民として倫理的に糾弾された。国民という名称は、こうして、敵国および敵国に属するあらゆる人びとからは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を帯びるようになる。国民のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となった。「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国民概念は、総力戦時代に完成する。 (中略)
総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化は、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学をはたらかせることだ。国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力を形成する。近代政治は行政(中央官庁)にたいして、議会によって決定された法案の忠実な執行者という限界をはめていた。しかし、総力戦時代の中央官庁とそのエリートたちは、死の運命共同体としての国民というイデオロギー装置を駆使することによって、こうした制約を突破するチャンスを掴みとることができた。(『総力戦体制』ちくま学芸文庫版P14~16)
筆者は、大震災における虐殺と総力戦体制が無関係だと思えない。一般には、大震災直後に起きた朝鮮人虐殺は土着的・土俗的な、いわば人間の初発の根源的暴力から発したというイメージに支配されている。たとえば自警団が使用した武器としては、竹槍、鳶口、棍棒もしくは鎌、日本刀といった古式なものが主であり、新しい武器としては、せいぜい猟銃くらいだ。これらで武装した集団が醸し出すイメージは、総力戦体制という(現代的)国家システムと対極に位置するようにみえる。しかし筆者は、自警団は大震災という危機を戦争状態として受け止めていたと考える。「不逞鮮人」は敵軍であり、日本帝国を脅かす者であり、そのような者にたいし死をもって臨まなければならない、という決意で漲っていたように感じる。
そのとき、自警団員どうしは運命共同体として初めて「国民」となった。われこそが、警察や軍隊と同一の者すなわち、敵国および敵国に属するあらゆる人びと(大震災下では「不逞鮮人」)からは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を感じとったにちがいない。そして自警団(国民)のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となっていたにちがいない。
そればかりではない。こうしたイデーは、総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化すなわち、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学のはたらきにより、国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力が形成され、自警団は在郷軍人に導かれ、歓喜のなか、虐殺へと向かったのだと思う。
前出の皇統派が唱え、統制派がイデオロギー化した「一君万民」である。その後、総動員法によって対外戦争に徴兵された日本帝国軍兵士は、貧困、上下関係、階級、身分差別から解放され、震災下の自警団と同じように、敵国および敵国に属する人々に接し、占領地で虐殺に及んだ。
総力戦体制構築を目指していた当時のエリートたちが大震災という危機を国民統合の実験場として利用したという記録はない。しかし、歴史は世界一国ほぼ同時的に歩んでいた。欧州から遠く離れた日本帝国の自警団は、総力戦体制下の欧州の兵士と同じような心情を抱き、総力戦と同じように無抵抗の者を虐殺した。WWⅠが終わった数年後の日本帝国の関東地域において、日本人が総力戦を最初に戦った事実が残されたのではないか、と筆者は受け止めている。
もうすぐ9月1日がやってくる。「防災の日」として記憶される関東大震災だが、「虐殺の日」でもある。この原稿を執筆中の8月8日に、九州・宮崎で震度6弱の、その翌日には神奈川県で震度5弱の地震が起きている。今年の元旦には能登半島地震(最大震度7弱)が発生したばかりだ。日本に大地震が起こることは避けられない。
大地震とともに、被災地では窃盗犯罪が報じられる。また同時に、「外国人が・・・」というフェイクニュースがSNSではあたりまえのように投稿されるという。こうした悪意と不寛容が日本社会から払拭されない以上、本題である「地震と虐殺」がけして過去の不幸な出来事でなく、近い将来に再現されることが暗示される。
本書に紹介された、埋もれた歴史(虐殺の事実)を掘り起こしてきた方々が、遺族、教員、地方紙(新聞)記者、中学生だったりすることが心に沁みる。いわば、無名の生活者なのだ。その方々の尽力がなければ、虐殺された方々の霊は地中深くに、川底に、虐殺現場の空中に、放置されたまま彷徨続けていたにちがいない。いや、慰霊をされることなく、100年後のいまなお「なかったこと」とされたまま放置された霊が関東一円のいくつかの地域に漂っているにちがいない。
「地震と虐殺」は、国家から、地方自治体から、地域社会からいま、抹消されようとしている。マスメディアはこのことを報じない。歴史学会は沈黙しているように筆者には思える。小池東京都知事は、陸軍被服廠跡地(現横網町公園)における朝鮮人犠牲者追悼行事への追悼文送付を取りやめたままだ。 そこに建てられた追悼碑にはこうある。
〈1932年9月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
千九百七十三年九月
関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼行事実行委員会〉
とある。(本書P119)
2024年1月、「群馬の森」朝鮮人労働者追悼碑が県による行政代執行により撤去(破壊)された。撤去を策動したのはレイシスト集団だ。それを受けて2014年、県は追悼碑の(公園における)使用許可の更新を認めなかった。(本書P350~351)。そのときの群馬県知事は大澤正明。今年、代執行を強行した知事は山本一太である。
国も同様だ。昨年(2023)、震災100年を迎えて国会では震災時の虐殺をめぐり、杉尾秀哉、福島みずほの両参議院議員が100年ぶりに政府の責任を追及する質問をおこなったが、いずれに対しても政府は「調査したが記録は見当たらない」「今後もさらなる調査は考えていない」と答弁(本書P9)した。
本書はこうした動きに真向から異議をとなえる。記録を調べ、現地に赴き、関係者に取材し、さらに朝鮮人虐殺に取り組んできた先人から聞き取りを行い、本書にまとめ上げた。労作という評価を超えた、筆舌に尽くしがた貴重な一書となっている。まずもって、著者(安田浩一)に敬意を表する。『東京新聞』書評欄において、評者の加藤直樹(ノンフィクション作家)が「この本は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について知りたい人にとってのスタンダードになるだろう。」と書いている。そのとおりだと思う。少なくとも、日本のすべての図書館が本書を蔵書とすべきである。〔完〕
●笠井 潔〔著〕 ●言視社 ●3200円+税
ある媒質を通過する光が入射角の違いによって異なる出方をするように、60年代末の季節という環境にたいしてどのように入っていったかということによって、経験の質も出射角も異なってくる。〔略〕何年に大学に入り、入った時の大学がどういう闘争の状況だったかで、経験のありようがまったく変わっている。(『思想としての全共闘世代』小阪修平〔著〕ちくま新書P32)
小阪のこの一文は、〈68年〉を考えるうえで、まさに決定的な意味をもっている。
黒木龍思とは笠井潔のペンネームである。少年期、社会に違和を感じはじめた彼は、中学卒業後にドロップアウトを決意し、高校を中退し大学進学を放棄し、黒木龍思という孤独な革命家へと成長を遂げる。
笠井がドロップアウトを決意したその源は、60年安保闘争という、あたかも祝祭のような革命運動の記憶だった。労働者、主婦、学生、演劇人・俳優等の芸能人、教師、大学教授、宗教家といった、およそあらゆる階層で構成された大群衆がそれぞれの旗やプラカードをもって、国会をとりまく映像だった。その第二幕は、ついこのあいだまで敵国であり、敗戦を契機として支配者として君臨するアメリカからやってきた外交官を空港で待ち伏せて襲撃する学生たちの映像だった。第三幕は、国会を警備する警官隊が国会突入を図ろうとする学生を襲う凄惨な映像だった。その過程で警察機動隊が一人の女学生を死に至らしめた。フィナーレは国会議事堂を取り巻く無言の大群衆が日米安保条約自動延長を見守る映像だった。かくして、60年安保の幕は下りた。少年笠井は、この一部始終をお茶の間の白黒TVに映し出されたニュース番組を通して疑似体験した。
高校を中退した笠井はルンペンプロレタリアートという〝困難″な道を選択した。彼は革命家を志したが、その入口がみつからなかった。日本における革命運動の入口は大学生になり、大学で学生運動にかかわることが一般的だった。〈68年〉当時、大学以外の新左翼系団体はそれほど多くなかった。高校中退の青年が、受け入れ先となる新左翼系団体に巡り合ことはまれだった。笠井は独力で読書サークルを立ち上げたり、反日共系全学連のデモに紛れ込んだりしたという(本書P14)。そんな笠井は、べ兵連という入口を見つけた。
ベ平連とは正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」といい、1960年代、ベトナム戦争の激化にともない、ベトナム反戦を旗印に日本で結成された反戦市民団体だ。表向きはだれでも参加できるノンセクトの運動団体であり、規約や党費の徴収はなく、参加、脱退が自由の任意組織だと報道されていたが、マルクス主義構造改革派(以下「構改派」という)の一派である、共産主義労働者党(共労党)の市民組織(別動隊)だ。共労党幹部の吉川勇一が事務局長を務め、共労党と兼ねたメンバーには、いいだもも、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいた。
笠井の革命家人生は、べ兵連=構改派から本格的にスタートしたのだが、この出発点は笠井の政治活動に微妙な影響を与え続けることになったように思える。なぜならば、そもそも、構造改革マルクス主義というのは、社会の構造を変革しつつ議会における多数派を目指す修正マルクス主義であり、暴力革命の否定を特徴とする。
共労党の原籍は日共で、は1960年代中葉、日共内に構改派グループを立ち上げ、党内闘争の結果、主流派から放逐され3派に分裂したなかの一党だ。その後、〈68年〉になると、街頭実力闘争を敢行した新左翼各派の党勢が増すにつれて極左化を遂げ、構改主義からマルクス・レーニン・トロツキー主義に基づく暴力革命路線へと大幅な路線転換をはたした。
共労党幹部たちは、そのときどきの時流にのった「政治屋」ではないか。笠井は同党の大転換の渦中に入党し、同党を構改主義からルカーチ主義への転換を目指して同党およびその学生組織プロレタリア学生同盟(プロ学同)の幹部として通過した。その間、学生組織拡大強化を果すため、当時、高校卒業資格を問わない某私立大学に入学した。
笠井は本書において、共労党指導部批判を繰り返しているし、彼が体験した党内主導権争いとその不毛さについて詳述しているが、一方で、同党幹部から受けた援助、指導等に謝意も表している。とにかく彼は同党の学生組織にとどまり、党改革に情熱を傾け続けた。笠井が共労党から離れなかった理由を本書から明確に読み取ることができないので推測になるが、当時の共労党幹部(いいだもも、武藤洋一ら)は、〈68年〉当時、新左翼論壇を賑わせた人物であり、多くの論考を新左翼雑誌に寄稿していた。それらの価値をどう定めるかは別として、彼らが「書ける知識人」だったことはまちがいない。笠井の資質もその範疇に属していることは、本書に収録された「黒木龍思」名の論文が実証している。
加えて、小党といえども、共労党には組織があった。日共から除名された後、民主学生同盟(民学同)という学生組織を残していた。笠井は大学生を入口として党派に入ることを拒みながら、大学よりも選択肢が少ない市民団体を入口とし、マルクス主義構造改革派の下部組織に滑り込むかのようにして政治運動にかかわり、学生戦線拡大のために、あえて大学に入学したことはすでに書いた。
〈68年〉当時にブントや中核派や解放派で活動していた同世代の回想録は目につくが、それ以外の小党派の活動家による類書は少ない。本書の新稿部分は、二十歳を挟んだ6年間を共労党の党員として生きた者の当時の証言でもある。(本書P6)
階級形成論は、カール・マルクスの『共産党宣言』第二章を出発点とする。同章は共産主義者とプロレタリアとの関係が述べられた箇所だ。そこには、《共產主義者󠄃の直接の目的は、他のすべてのプロレタリヤ諸󠄃黨派󠄄のそれと同一である。すなはちプロレタリヤを一階級に結成すること、ブルジョアの支配權を顚覆すること、プロレタリヤの手に政權を握ること。》とある。
『共産党宣言』は1848年ロンドンで出版されたものだが、19世紀中葉、プロレタリア階級は社会に発生したのちに群生したが、一階級としての結成をはたせずにいた。それから120年経過した〈68年〉当時も一階級としての結成をはたせずにいたし、今日(2024)においても未達成である。孤独な革命家(笠井潔)がプロレタリア階級結成に情熱を燃やし、その方法論を書き連ねたことは至極当然のことだった。
黒木龍思というペンネームで著わされた笠井の革命論のうち、本書に収録されたものは以下のとおりである。発表された年、タイトル、大雑把な内容――を明記しておく。
以上の笠井論文は、ルカーチ主義と階級形成論からはじまり、近代主義的マルクス主義批判と第三世界の「発見」、そして、長崎『叛乱論』の評価と批判を経て、第三世界解放革命=世界共産主義の提唱にいたり、革命運動からの離脱で終わる。
笠井は1968-1969年にかけて、構造改革派マルクス主義政党である共労党をルカーチ主義に路線変更しようとしたことは前出のとおり。前掲の【1】【2】はルカーチに強い影響を受けていたことは明白であると同時に、笠井による、ルカーチ主義に基づく結党と革命遂行の決意表明ともいえる。そのルカーチの代表作ともいえるのが『歴史と階級意識』だ。
『歴史と階級意識』の構成は以下のとおり。
第1章 正統的マルクス主義とはなにか
第2章 マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク
第3章 階級意識
第4章 物象化とプロレタリアートの意識
第5章 史的唯物論の機能変化
第6章 合法と非合法
第7章 ローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命批判』についての批判的考察
第8章 組織問題の方法論
(『歴史と階級意識』(ルカーチ著/ルカーチ著作集9/白水社刊))
ルカーチ(1885-1971)について、『ルカーチ著作集9』巻末解説(城塚登・古田光〔著〕。城塚、吉田は著作集9の訳者) から抜粋する。
ハンガリー・ブタペスト生まれの革命家。彼の思想的自己形成は、当時支配的であった新カント派からドイツ・ロマン主義および神秘主義を経てヘーゲル弁証法およびマルクス主義へという軌跡をえがいていった。
第一次世界大戦が終結した直後(1918)にハンガリー共産党に入党し、ハンガリー革命に身を投じた。1919年3月、ハンガリー革命は成功、ベラ・クーンの革命政権が成立し、彼は革命政権の教育人民委員となって指導的な地位についた。だが革命政権はルーマニア軍の武力千渉にあって短期で崩壊し、ルカーチはウィーンへの亡命を余儀なくされる。反革命政府(ホルティ反動政権)は欠席裁判のままルカーチに死刑判決を下したが、ウィーンの警察によってシュタインホーフ精神病院に収容されることとなった。
収容中、ルカーチは活発な文筆活動を1929年までウィーンで続けた。彼の代表論文である「物象化とプロレタリアートの意識」「組織問題の方法論」は、このシュタインホーフ精神病院で書かれたもので、ハンガリー革命の思想的総括というべきものだ。
さて、『歴史と階級意識』であるが、その概要については、『ルカーチ著作集9』の訳者、城塚登・古田光による巻末解説の助けを借りて追ってみると、第一に、修正主義が跋扈した時代に正統的マルクス主義を再構築したことだ。反革命の逆風とともに、修正主義、社会民主主義がヨーロッパに台頭するなか、ルカーチは同書において、マルクスの弁証法を、主体的人間の実践を貫くもの、「唯物弁証法は革命的弁証法である」として再建したのである。換言すれば、思考と存在、理論と実践、主体と客体といった固定した二元性――近代の合理性のもつ限界――を乗り越えるものが「革命的弁証法」である、となる。
プロレタリア階級の自己認識がそのまま社会全体の正しい認識となり、しかもこの現実認識が闘争において自己主張する条件をつくりだし、社会変革を進める過程となる。プロレタリアートは、歴史過程における主体と客体との分裂と統一という弁証法を身をもって生きるものであるから、そこでの意識化としての理論は、ただちに歴史過程を革命的におし進める実践となる。
ルカーチは、プロレタリアートそのものにおける階級意識の革命的機能を解明しようとした。なぜならば、前出のとおり、ドイツ革命、ハンガリー革命の挫折がプロレタリアートの自然発生的意識に依存したためだという反省が込められたからだ。
第二に、ルカーチは、階級形成と党の役割を明確に規定した。
階級意識は、プロレタリアートの「倫理」であり、その理論と実践の統一であり、その解放闘争の経済的な必然性がそこで弁証法的に自由に転化する点である。党は階級意識の歴史的な形態として、またその行動的な担い手として認識されるが、これによって同時に党は闘争するプロレタリアートの倫理の担い手ともなるのである。党のこのような機能によって、党の戦略は規定されるべきものである。党の戦略は必ずしも常にその時々の経験的現実に合致しているとはかぎらないし、またそのような時には党の戦略がまもられないこともありうるだろうが、たとえそうだとしても、歴史の必然的な歩みは党に名誉回復の機会をもたらすであろうし、そればかりではなく、正しい階級意識や正しい階級的な行動のもつ道徳てな力も、――実践的・現実政治的に――その実を結ぶことになるであろう。(「マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク」/『ルカーチ著作集9/歴史と階級意識』/白水社刊(以下「『著作集9』という)(P93)
第三は、ブルジョア的な科学の事実認識の方法と、弁証法との差異という問題意識だ。ルカーチは、当時の「修正主義」が事実の科学的認識を唱えて弁証法を放棄したことを批判した。彼らすなわち事実認識を強調する者は、自然科学的方法の妥当性を論拠とする。自然科学のいう「純粋な」事実というものは、他の現象の介在によって攪乱させられずにその合法則性を基礎づけうるような環境において、生活現象あるいは思考上、置き代えることによって成立するにすぎない。一方、ルカーチは、事実とはすでに孤立化と抽象化とを経たものだと考えた。抽象化を前提する自然科学的・実証的方法をもって社会現象を把握しようとすれば、孤立化された事実や部分体系がどのような構造的・歴史的な連関をもつかを見ぬくことはできない。そして傍観的な事実認識と主観的な当為との分裂が生じてくる。ルカーチの弁証法の立場では、諸現象を直接的な所与の形態から解きはなち、諸現象をその中心または本質に関係づけ、またこれらの現象的性格や仮象を、歴史的な社会の構造的基礎から必然的に生じた現象形態として把握しようとする。こうして社会生活の個々の事実が歴史的発展の契機として「総体性」のなかに組みこまれたとき、はじめて事実の認識から脱却して「現実性」そのものの認識に到達する。このようにルカーチは、「直接性」のなかに埋没しているブルジョア的思考、実証的科学の方法を批判した。
第四は、ルカーチの思想における最重要な問題提起であるのだが、「物象化」についてであろう。ルカーチは、マルクスの「資本論」における「商品の物神性」の指摘を物象化の現象の原型とした。
商品形態においては、人間に対してかれら自身の労働の社会的性質が、労働生産物自身に具わった対象的性質、社会的な自然属性としてあらわれ、生産者の総労働に対する社会的関係が対象物の社会的関係としてあらわれるということ、つまり具体的な人間活動や人間関係が、物(商品)の自己運動、物的諸関係としてあらわれることが、物象化の基本現象なのである。ルカーチの独自な立場は、商品形態があらゆる社会現象の基本的カテゴリーとなった資本主義社会においては、この物象化が生産過程の抽象化(合理化)をもたらすだけでなく、政治(国家権力)の合理的組織化(官僚制)、法律制度の合理化をもたらし、さらにはイデオロギー(諸科学や哲学)の合理主義的・実証的な孤立化・固定化をもたらしたとし、ブルジョア的な思考や意識の根本的陥を指摘するところにある。(解説/『著作集9』P556)
第五は、共産党のあるべき姿を明示したことだ。共産党という組織が陥りやすい諸問題を指摘し、その解決の道筋を明示した。中欧における革命の挫折のなか、当時の革命論に両極の誤謬が顕著になった。その傾向とは、〈合法の白痴病〉と〈非合法のロマン主義〉であり、それを止場する必要を説いた。また、社会主義社会における自由や民主主義の問題、党の官僚主義化克服の問題などを論じた。
第六は、革命の主体はあくまでもプロレタリアートであると考えたことだ。
ブルジョアジーとプロレタリアートだけがブルジョア社会の純粋な階級である。〔中略〕その他の初期階級(小市民とか農民)の態度は、動揺していたり発展に対して不毛であったりするので、それはこれらの階級の存在が、もっぱら資本主義的生産過程におけるかれらの地位に基礎づけられておらずらず、身分的な社会の残存物と離れがたく結びついているからである。したがってこれらの階級は、資本主義的発展を促進しようと努めたり、あるいは自分自身を越え出ようと努めたりしない。(「階級意識」/『著作集9』P122 )
新左翼各派が「決戦」と位置づけた反安保闘争の頂点である10月・11月の街頭闘争は不発に終わった。その闘争中、笠井は他党派および共労党主流派が選択した中央決戦政治闘争とは一線を画し、彼独自の労働の現場における山猫ストに政治生命を賭けたが不発に終わった。笠井の企ては、共労党指導部から分裂行動とみなされ、規律違反によりプロ学同から処分される。笠井は1969年秋におけるみずからの一連の政治過程を次のように総括している。
処分の対象とされた分裂行動の原因には、叛乱型政治闘争と攻撃型政治闘争の対立があった。いいだももなどの東京の知識人党員グループと、白川真澄を象徴的人格とした関西の民学同OBグループによる相互不信と暗闘に巻きこまれ、翻弄された気もする。発想も問題意識も組織としての背景も異質な、関西中心の民学同左派に合流してプロ学同を結成したのが間違っていたのか。ルカーチ党を創る目的で共労党に加入するという発想が、はじめから実現ゼロの夢想にすぎなかったのか。(本書P149)
ここで共労党およびその学生組織であるプロ学同が抱えていた路線対立の詳細を書くことをひかえたい。とにかく笠井はその後処分を解かれ、共労党・プロ学同に復帰する。このとき(1970)、赤軍派のハイジャック、京浜安保共闘による交番襲撃による死者がでるなど、新左翼学生運動に激変の予兆が出始めていたころだ。笠井の革命論に転換の兆しが現れる。
笠井に影響をおよぼしたのは、大阪からやってきた戸田徹との出会いだった。戸田は、〈68年〉新左翼革命運動を領導してきた岩田宏『世界資本主義論』、一向健(荒岱助)『過渡期世界論』、そしてその延長線上に構築された、笠井が所属する共労党幹部のいいだもも・白川真澄の『現代世界革命論』を批判した。
笠井は、戸田が著わした「第三世界革命論」について、先進国プロレタリアートが普遍的階級に自己形成するのは第三世界解放革命闘争への合流をかちとり、そのことを通じて帝国主義的国民としての自己の定在を解体することによって帝国主義打倒の共同の戦列を構成しうること、今日のマルクス主義者は第三世界解放革命の意義をその世界史的根拠までさかさかのぼってとらえかえすという困難な理論課題を自らに課すことを抜きに、その歴史的任務の完遂はありえない――と解釈、絶賛した。
戸田と共闘して、共労党・プロ学同の新体制=いいだもも・白川真澄および彼らが指針とする『現代世界革命論』と対決することを決意する。この時点で、笠井がルカーチ主義からの離反を意識しはじめたことが読み取れる。ルカーチはその革命論のなかで、資本主義下のプロレタリアートが革命の主体であることをつねに強調していことは前出のとおり。
1970年、笠井は本格的にルカーチ批判に転ずる。
「戦術=階級形成論の一視点」では、ボリシェビキ党を「媒介者の党」に読み替えようと試みたが、1969年を通過したのちの「革命の意味への問いの究明」では、すでにレーニン主義へのへの距離感が生じている。秋期決戦に向かう過程で闘うことを強いられた俗流レーニン主義の二本柱、「プロレタリアートの百歩先を得意気に歩こうとする」前衛主義と中央決戦政治の根拠が、レーニン主義それ自体にあるのではないかと疑いはじめたからだ。革命のパターンとしてはソヴィエト型から人民戦争型へ、理論としてはルカーチ=レーニン主義からグラムシ=マオイズムへのシフトを、この時期には模索していくことになる。(本書P167)
その萌芽は、前出のとおり、1969年秋期決戦における闘争戦術をめぐる共労党中央と笠井の見解の相違に起因した。繰り返せば、笠井は新宿郵便局の占拠とストライキ(評議会)を街頭占拠行動(叛乱)と連動させることで決戦の展望を具体化しようとした。笠井が選んだ戦術は、他党派、なかんずくブント戦旗派に代表される「中央権力闘争」(権力=官邸、省庁等が集中する霞が関周辺)を攻撃するという戦術を否定するものだった。「中央権力闘争」は、結果として、権力側の圧倒的暴力の前に封じ込目の前に、新左翼各派の敗北で終わった。
笠井はこのとき以降、長崎浩の『叛乱論』に傾倒し、共感・賛辞を惜しまなくなる。高橋岩木は《長崎「叛乱論」の基本的な意義は、叛乱を史的唯物論の経済法則に照らして予言される客観的勝利としてではなく、社会に常に伏在する潜在的な力として捉えたことだった。黒木における長崎への共感は、ハイデカー哲学の受容とも連動することで、ルカーチ的な革命をスターリニズムを含む近代世界総体への叛乱として捉える方向に向かう。(本書/解説P405-406)》と指摘している。
先回りしていうと、長崎『叛乱論』は、笠井の「近代主義としてのマルクス主義批判」と「第三世界革命論」の中間に位置する。笠井は前者を手掛かりとして、それを乗り越えて後者に行き着いた。
笠井は叛乱について、次のようにきわめて簡潔に書いている。
叛乱の歴史はマルクス主義の歴史よりも古い。この自明の前提が、なぜかくも深く隠蔽されてしまったのか。マルクスからレーニンにいたる半世紀のあいだに、科学的社会主義による叛乱現象を階級闘争理論の枠内におしこめようと、人々はやっきになってきた。〔中略〕全共闘運動と総称される、60年代後半から70年代初頭にかけてこの国を襲った大衆的政治経験は、少なくとも叛乱を科学的社会主義による合理化と固定化から解放することで、人々を叛乱という現象そのものに直面させた。であるからこそ、それは近代知性にたいする攻撃ともなり、また階級闘争理論にもとづく指導を拒絶して「展望なき叛乱」に終始したのだ。
全共闘運動を生きた主体にとって、叛乱が道具でもなく、それ自体で充実した完璧な瞬間を創りだす生経験の全体性に他ならないことは明白だ。叛乱とは、あれこれの「理想的な」社会経済状態を実現するための物理力なのではない。叛乱の本質はイデアルな世界変容であり、生体験の根源にむかって殺到する集合的投企に他ならない。曖昧な実感のなかで、このことは充分に承認されてきたように思われる。しかし、その意味はなお徹底して問われているとはいえない。全共闘以後十年の時代の地平が、革命の意味への問いを重ねて深く要求してきているにもかかわらず。(本書P377-378)
この引用に続いて、武藤一羊の『フランス五月革命の教訓』を引用し、《ここで語られている「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気について、それは誰もが実感しながら、「なんと説明していいかわからない」と、誰もがそれについて語ることを「ためらう」と表現する。
そして笠井は、現象学における事物の意味の無限という主張、すなわち、事物の多義的な意味が一義的に狭められていく「意味の沈殿作用」を介して、「私たちの生活世界とは、私をとりまく事物と他者たちが、すべてその豊かな意味の多義性を沈殿させられ、機能的に一義化さられてはいれつされているような世界なのだ」と喝破する。
意識の超越性が事物に無限の意味を能与しうるにもかかわらず、私たちが事物の意味を記号化するようにしてしか存在できないのはなぜか。それはニーチェが語るように人間という存在が二つの極をもった過渡的な存在だからだろう。人間は事実性と超越性とに引き裂かれている。人間存在の超越性は、陽光にきらめきながら落下する一滴の水に全宇宙を視ることもできるのに、記号的世界は住人の水滴で床が濡れることを心配するばかりなのだ。そして、このような人間存在の事実性あるいは条件性の地平の上に、マルクスが歴史の土台と呼んだ全構造が聳え立っている。(本書P379-380)
続いて、先の引用、「誰もが実感しながら、なんと説明していいかわからないもの」、誰もがそれについて語ることを「ためらう」という、「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気」の正体を明かす。笠井はエリック・ホブズボームの『叛乱の原初的形態』で考察された「千年王国主義的運動」をヒントとして、千年王国主義的運動および他の前近代的な叛乱現象すべての特質について、それらは〝特定の利害集団の自己利害貫徹の運動ではなかった点″を挙げ、〝叛乱とは人間の存在条件の固定化・形態化がもたらした世界の記号化への意味の叛乱に他ならない(本書P381)″と定義する。 次に、
叛乱が叛乱となるためには、まず利害集団としての共同体が解体され、それが新しい集団に再編、むしろ再生されねばならない。より直接的には、共同体が疎外し共同規範としての共同観念(倫理/エティック)から私が離脱し、そのような無数の私のあいだに新しい規範が形成されるのででなければならない。その意味は二重である。第一に、叛乱の真の根拠は意味的なものであり、決して経済的な利害やその観念化としての共同規範(エティック)にあるのでない点。第二に、倫理的(モラリスティック)なるものの叛乱は同時に私(わたし)的なるものの叛乱であり、決して自生的な共同性の叛乱ではありえない点である。つまり、叛乱の根拠は、利害集団から離脱した〈私〉が、共同利害の観念形態とは異なった新しい倫理主体として自己を超越することによってのみ形成されうる。(本書P381)
その一方で、〈68年〉叛乱の陥穽を指摘することを忘れていない。
叛乱の根拠としての私的=倫理的なるものについての思想的な無自覚は、結局、60年代の大衆ラディカリズムをふたつの方向に分解させ、崩壊させることになる。第一は叛乱を集団の利害貫徹運動に還元する方向であり、それは実質上の社民化に帰着した。第二は私的=倫理的なるものの部分的なウルトラ化と固着の方向であり、それは連合赤軍事件、東アジア反日武装闘争事件、そして革共同中核派の反革マル戦争という現実を生みだしてきた。(本書P384)
笠井は一時、長崎浩の叛乱論に傾倒した。そしてそれを笠井なりに解釈し、やがて乗り越えた。笠井の長崎浩論はきわめて難解である。
1937年5月生まれの長崎浩は笠井(1968-)より10歳年長である。長崎は東大本郷時代にブントに参加し、60年安保闘争を闘った。笠井は長崎との世代の差、政治経験の違いを前提としつつ、長崎批判ではなく、〝うちなる『叛乱論』の解体″(本書P214)を目指して立論することを明言する。
十年ほどの年代差異性に規定された二様の戦後体験の、六〇年代後半における思想的交差の意味を了解すること。その交差が白日に一瞬の暗い火花を散らしたような、微妙な異和感の意味を了解すること。可能な方法はこれ以外にあり得ないと思われる。この長崎論にもしも幾分かの時代的意味が認められるとすれば、それは一瞬の交差ののちに遠ざかりゆく二様の時代経験を、次の時代への二つの軌跡として了解する点においてだろう。(本書P215)
笠井は、《長崎の「政治的なもの」にたいする思考の原点は六〇年安保闘争の経験にある(本書P215)》と断言する。 そして笠井は長崎の〈60年〉における政治経験を次のように概説する。
長崎は〔中略〕、「未知なる大衆」とも「言葉の魔力」とも無縁に自己形成せざるをえなかった。長崎の世代は、いわば1917年2月から10月の激動のなかの、たとえばペテルブルグ駅舎前に集まった群衆に向けて「4月テーゼ」を読みあげたレーニン、単身クロンシュタットにのりこみアジテーションのみを武器として数千の軍隊を蜂起の側に獲得したトロツキーを、その鮮烈な政治経験において追体験したのである。(本書P218-219)
笠井の長崎評は誤りではない。なぜならば、笠井が長崎の著作である『叛乱論』から次の箇所を引用しているからだ。
私(長崎)は私の「政治の経験」がどこで受容されたかを記述してみた。それはアジテーターの立場よりする「アジテーターと大衆とのたしかな関係だったのであり、いいかえれば私はそのときレーニン主義を通じて叛乱をかいま見ていたのだと思う。もちろん叛乱というも恥ずかしいささやかな闘争にすぎなかったし、アジテーターとしての経験もレーニン主義の実験のごときものだった。(略)私たちはレーニン主義をプロセスとしてみていたことはたしかである。「大衆の高揚」を一つの生成としてとらえ、これにかかわりつつ自らをも運動させていった。このような生成の過程が私たちにとって政治だった。(『叛乱論』長崎浩〔著〕)から再引用/本書P219)
長崎が〈60年〉、アジテーターとして、大衆の叛乱をかいまみ、その高揚を一つの生成としてかかわりつつ、自らをも運動していたという記述を疑うことは難しい。その原体験から叛乱論が書かれたという笠井の断言は繰り返すが、誤りではない。 だがしかし、筆者は長崎の記述をそのまま了解した笠井に不信を抱く。なぜならば、長崎が大衆とのたしかな関係を築いたという記憶に疑問を抱いているからだ。
長崎の「私ごとを語る」(『叛乱を解放する――体験と普遍史』月曜社刊収録〕という回想文の中に、「ブントと島成郎」という章があり、60年安保闘争におけるブントの狼狽ぶりが記されている。それによると、長崎は当時、東大本郷のブントの活動家で、東大本郷は島成郎(1931-2000)が率いるブント中央と対立関係にあったという。これからの記述は、両者の微妙な関係性を前提にして、読んでいただきたい。長崎たちは、島の国会突入指令に反発し、現場で突入を図る学生を制止する側(反中央)にまわっていたというのである。
(島さんが『ブント私史』で言っているように、)このとき(4.26国会前闘争)、東大の教養学部と本郷(長崎たち)が中心になって、学生が装甲車を乗り越えて国会前に殺到していくことを、むしろ阻止するようになった。言ってみれば、公然たる反対ですね。しかも学生の前で演じた。学内でまだ運動が初期段階にあるという政治的配慮があった上に、反中央の姿勢がこうしたミスを生みました。(「私ごとを語る」P155)》
これが発祥地点になって、しかも東大細胞だけではなくブントという党自身が、学生のみならず一般市民に乗り越えられていく。5月から6月までの国会周辺の安保闘争です。それまでは、国民会議の第何次統一行動というようにスケジュールを決め、国会に労働者と学生がデモにいって、そのなかで全学連が跳ね上がるというかたちを繰り返してきたわけですが、もはや連日、国会前が人で溢れ返る。統一行動もへちまもないような、一種の首都圏市民の叛乱状態が、連日くりかえされることになった。
たとえば5月20日のことですが、全学連書記長の清水丈夫(1937-)が国会の前で、宣伝カーの上から、「これから全学連は新橋デモに移る」と提起したけれども、ヤジり倒された。統制がきかないわけです。国会前に連日人は集まりますが、それから何をすればいかという展望が全く出ないわけですから、この人たちに濃淡の差はあれ、焦りと欲求不満が蓄積していくわけですよ。(「私ごとを語る」 P157-158)
島が率いるブント中央が無方針で、自分が属していた本郷細胞がその被害をこうむったかのような長崎の書きぶりが気になるものの、明らかに社共(既成左翼)もブント(左翼反対派)も、大衆に乗り越えられていたことは明らかではないか。
もうひとつ、長崎叛乱論のキイワードであるアジテーターにふれておこう。笠井は長崎の政治経験をペテルブルグ駅舎前のレーニン、クロンシュタットのトロツキーにアナロジーした。ところが、長崎自身は〈60年〉における国会前闘争におけるアジ演説についてこんなことを書いている。
島さんに言わせれば、(略)この4.26で国会通用門前の装甲車を乗り越えて進むという戦術を、彼一人が発案して全学連幹部と拠点大学とを説得して回った。唐牛であり、後に革共同に行く陶山(健一)であり、篠原浩一郎 であり、これらの第一級のアジテーターをそろえて、車の上から学生に対する猛烈なアジテーションを続ける。(後略)
その結果として、我々(長崎ら)の制止を振り切って学生が国会前に殺到する。(「私ごとを語る」「私ごとを語る」 P155)》
この会議で北小路敏が・・・京都から呼ばれていたのです。彼は会議のあいだずっと眠っているのです。こいつ現場で大丈夫かなと懸念しました。ところが、当日の国会前では我々の主張をそのまま見事なアジテーションにして、学生に向けてアジった。大衆政治家として天性の男の一人ですね。当時の全学連にはこういう才能の持ち主が何人もいたんです。(「私ごとを語る」P160)
唐牛健太郎(1937年生まれ) 、陶山健一(1936年) 、篠原浩一郎 (1938年) 、北小路敏(1936年) といえば、日本の新左翼運動史に名を刻む面々であり、1937年生まれの長崎と同世代だ。長崎が彼らと並んでどのような場面でいかなるアジテーションをしたのか筆者が知る由もないのだが、長崎がブント内で国会突入を制止する側にいたことから推察するに、彼がアジテーターと大衆という関係を実際に築いていたことには疑問が残るばかりか、本当にアジテーションをしたのかどうかさえ疑わしい。
〈60年〉の政治過程において、自らの政治経験を原点として生み出されたという長崎叛乱論だが、それはおそらく、神話化されたもの、実態上は安保ブントさえもが「乗り越えられた前衛」であったことの隠蔽工作から生まれたものだ。〈60年〉をもっとも過激に、そして果敢に闘った唯一の前衛党というブント神話と混然一体となった長崎の「記憶」ではないのだろうか。長崎自身による60年安保闘争のブントの実態的記録である「私ごと」を読むかぎり、大衆の沸点に近づきつつある叛乱エネルギーをもてあまし、狼狽し、かつ長崎自身はその爆発を抑制する側にあり、学生新聞に「乗り越えられた前衛」と揶揄された60年ブントを原体験とする叛乱論は「体験」から築き上げられた思想ではない。
長崎は「私ごと」というかたちで60年ブントにおける自己の立ち位置と実態を封じ込めた。そのうえで、観念的でありながら実体験を偽装した関係、すなわち、「大衆/アジテーター」を構想し、叛乱を疑似的に体験したかのように叛乱論を立ち上げた。〈60年〉の政治的高揚期に見た(と思い込んだ)叛乱が原初の叛乱であり、その後、国会を包囲した大衆が消え、政治の季節の終焉において、新たに規定せざるをえなくなった叛乱が提示されたのだ。
長崎により新たに規定された叛乱とは、それが「根源的には近代への叛乱」であるみなすことだった。笠井は長崎の「近代/叛乱」について、実に簡潔にまとめている。笠井は、本書にて、長崎の〔近代/叛乱〕に係る一節を引用したあとで、こう書いている。
(長崎の〔近代/叛乱〕についての)問題はつまるところ「近代人の自己と反自己の葛藤」であり、「アジテーターと大衆の死闘」もまたこの「葛藤」の政治的表現にすぎない。叛乱をめざす政治がこうしたものである以上、叛乱は根源的には「近代への叛乱」であるみなされる。すなわち「アジテーターといい大衆というのも、近代を乗り越えた人間の全体性を表現する行為全体の二様の呼び名である。両者は近代の根幹をなす行為の規定性とこれが忘却した闇との相克をあらわす関係概念としてとらえらえたときには、叛乱者のうちに内在化される。このように長崎は、一切の根拠を近代の歴史的地平にさしもどすことを要求する。(本書P224)
笠井が長崎『叛乱論』を見直す契機となったのは、長崎が政治の叛乱というものが、つまるところ、近代人の内部におきる外部との断絶によって生起すると考えたことによる、と笠井が捉えたことだ。
(長崎がえた)結論の第一は「近代の叛乱として叛乱はつねにある」ということ、第二は「叛乱が権力を獲得するかいなかは本質的ではない」ということだ。前者は大衆的自然発生性の純粋化と普遍化であり、「レーニン主義の復権」から出発した長崎にとっては、後者とともに視点の根底的な転換を意味するものだ。だから長崎は「宿命的な叛乱の頽落」として、レーニン主義を、そしてその双生児たるアナキズムを検討しなければならない。(本書P226)
笠井は長崎『叛乱論』を整理したのちに、〈60年〉と〈68年〉という、長崎と笠井の政治経験の差異に戻る。長崎は人が叛乱者となるのは「権力体験」だといい、60年代を戦後期の固有だった構造が急速に解体され、日本の近代社会が完成形態に接近していく過程として捉えている、と笠井は指摘する。そしてそのことに反発するかのように、次のように書く。長いが、筆者にとって印象に残る箇所なので引用する。
高度経済成長下の日本社会が市民社会的成熟を遂げて、純粋近代が露呈されてきたという長崎の時代把握は妥当だったのか。私たちは全共闘運動のなかでなにゆえ「孤独」だったのだろう。〔中略〕たしかに全共闘運動の参加者たちの多くが「高揚する叛乱の内部での熱い融合状態」、「私」と「われわれ」の特権的合一、あるいは神津陽によれば「行為の共同性と関係の革命」などなどの実現を夢想した。夢想だけではなく、それはもう〝萌芽的″に実現されていると思い込む者さえもいた。しかし、こうした祝祭ぶりのなかでひそかな後めたさがあることを一瞬忘れながらも、祭りが高揚するほどにある種のしらけた意識がその裏で成長したことを、私は想起することができる。それは異様な感覚だった。
私が自己と世界との敵対関係を自覚するにいたったのは、完全に無機的な「孤独な群衆」の位相においてではない。疎外態はむしろ、無機的なマスの内に形成される大小の無数の社会的共同体の「内では共有、外には占有」という構造にあった。伝統的共同体ではない、大衆社会状況のうちに自然発生する小共同体からさえも分泌される疎外と受苦の経験。この体験から、純粋な主観性こそ自らの道であるという決意が生じる。なれあいの共同体を敵とし、ひたすら内なるモラルは、ここにあるのではないか。全共闘運動はそのあとである。
科学的でもなく説得的でもない観念(綱領と戦略)に純化し、ぬるぬると共同体への密通を欲求する自己の肉体を限界まで酷使した時、轟轟たる「民主的世論」の非難と「暴力学生」呼ばわりを受けた時にこそ、他者とのいかなるなれあいをも拒否しえたというささやかな感動は訪れた。1967年の闘いを生きた多くの叛乱者が68年と69年の学生叛乱に際して、硬直した政治主義者の貌をまとったのは相応の理由がある。一切の共同性への禁欲と他者との闘争をモラルとした者たちにとって、流行の「祝祭としての叛乱」や「コミューン的共同体」はなんといかがわしく感じられたのだ。私たちは全共闘運動の内にあって「醒めた者」であることを強いられ、それによって、祝祭のうちなる孤独をこうむったのである。(本書P227-228)
長崎にとっての60年代は、近代への純化過程だった。日本社会における近代の形式的規定性が実存との間にもたらす矛盾、この矛盾を日常的に生きる大衆の「行為の本質への飢餓」こそが叛乱と叛乱をめざす政治の基礎である、と思考した。これにたいし笠井は、〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程として体験された″(本書P228)
と笠井はいい、続けて――
大衆社会の到来が「砂のような大衆」一般の創出とともに、近代の延命のため一層奇怪に変型された日本的共同体によってまずもたらされた。深まりゆく日本近代が、他ならぬ「近代と前近代との奇怪なアマルガム」の高度化として進行した独特な性格のために、60年代ラディカリズムは現象学的な鈍化された主観主義を、あるいは近代主義の極北を希求することになったのではないか。理論(対象的知)による形式合理的関係以外にいかなる同志的結合もありえないと思いさだめて、あらゆる共同性への欲求を禁欲した私たちは、革命に迫るまで極限化された近代主義によって、逆説的にも長崎浩の思考と交差することになる。長崎が想定した「純粋近代」における叛乱と政治の世界に幻惑されて、私たちはそれをほとんど愛したとさえいえる。『叛乱論』の世界はあくまでも魅惑的だった。
理論に対するニヒリズムと、にもかかわらず理論だけが政治的関係を媒介するのだという強固な確信は、日本近代がなおも温存した日本的共同体の、個の確立も真の自立もない相互もたれかかり合いの無責任的体系、森崎和江のいう「日本民衆の薄笑い」の構造に対する、私なりの対決から生じてきた。近代に組みこまれた日本的共同性は、日本近代の成熟によって自然消滅していくことなどなく、近代のもたらす受苦的経験をいっそう増幅し、それへの抵抗と解放すら「ふるさと」の幻想に吸収していく特殊な抑圧の構造である。このことを60年代の経験は疑いないものとして教えていた。(本書P228-229)
笠井は全共闘運動に内在したコミューン的空間性、祝祭的情動にたいして批判的だ。それらよりも、党と大衆組織を介して、自己の思想と行動を純粋に綱領と戦略に純化し、誓約に基づき闘う、近代的マルクス主義革命の活動家として自覚した。そのうえで、所属する共労党をルカーチ主義革命党として左旋回させつつ、69年秋期決戦にむけて全身全霊を傾けた。そのことは近代主義(的マルクス主義、レーニン主義)に基づく、(近代的)プロレタリア革命への道だった。
しかし、笠井は同時に、1960年代の日本社会が一方で近代化を完成しつつ、その一方で日本的共同体が増幅する現実の過酷さに苛立った。彼の近代主義としてのマルクス・レーニン・ルカーチへの投企と日本的共同体の重く湿った空気感のような重圧が、60年代を通じて、長崎「叛乱論」と交差したという。しかし、その交差は逆方向からだった。こうして、笠井は長崎叛乱論との隔たりを意識しだす。
戦後精神にたいする長崎との評価の相違もまた、二人の60年代了解の相違にかかわってくる。戦後の終焉を近代の純化とみるのか、近代と前近代の不可解なアマルガムの自己増殖とみるのか、この一点に二つの戦後経験を重ねあわせる作業から、戦後期の黄昏のうちで一瞬暗い火花を散らした長崎と私との交錯は、その意味を幾分かであれ露わにしえたのではないか。次には、69年秋期の政治体験を契機に開始され、刻々と深まりつつある両者の思想的隔たりの意味するものについて語らねばならない。(本書P233-234)
笠井のいう隔たりとは、第一に、長崎が「前近代的なもの」を方法的に捨象したのにたいし、笠井が、〈第三世界〉と〈日本的特殊性〉を叛乱論のうちに措定したところだ。笠井は、長崎がそれらを捨象したのは、清水幾太郎、姫岡玲児、そして長崎に共通する発想だという。その発想とは、構造改革論、計量経済学の流行という、60年代における思想風俗と通底するともいう。ただし、これらは、60年安保闘争の思想的挫折を媒介として形成された「戦後解体期の時代精神」に共通する発想だとしながらも、〝(長崎)叛乱論の独特の性格は、深まる近代をニヒリズムとともに革命、あるいは叛乱の側に奪還した点にあり・・・「情報理論」や「離陸」といったニューモードの近代主義に足をすくわれるのではなく、逆にそれをもって(さまざまなヴァリエーションがある疎外論に依拠することなく)叛乱を措定しかえしたところに、60年安保の挫折からネオ近代主義へという凡庸な軌跡を超える長崎の思考の固有性があった。》とも弁護する。
第二は、長崎叛乱論では、党が無構造的なものとして措定され、「党」はアジテーターの集合態とされ、その内部構造の分析が捨象されている点、そして第三は、ファシズムの大衆運動と革命的叛乱との本質的性格についての論理展開が不十分だという点、第四は、――それは笠井の次なる革命論の核心部分でもあるのだが、――第三世界との直面だ。笠井はそれを、〝「認識の武器としての理念型的近代」と「批判の方法としての純化された近代」を、一挙かつ同時に破壊する出来事だった″と書いている。
世界了解においても政治了解においても、長崎と私はかつての交錯ののち、再度交わることのない二様の軌跡を描いて中空を離れ続けている。長崎が〈アジテーターの遍歴史〉によって『叛乱論』――『結社と技術』の軌跡の深化を目指すのだとすれば、私たちは「大衆叛乱」の地平を超え「人民の革命戦争」へ前進しなければならない。二様の戦後体験の交錯はその意味をあらわにしたであろうか。(本書P240)
1971年、全共闘運動および新左翼各派が目指した権力闘争はすでに敗北した後だ。情況としては、学生自治会を基礎とする戦後学生運動が終焉し、新しい活動家は大学ではなく地区に組織された叛軍闘争、入管闘争から登場してきていた。笠井が属していた共労党の学生大衆組織であるプロ学同は地区青年同盟、プロ青同、赤色戦線とそれぞれの母体ごとに組織名を変更していたのだが、赤色戦線がそれらの総称として定着していた。
赤色戦線を含む新左翼各派の最重要政治課題は、成田空港建設による強制土地収用を阻止する三里塚農民に連帯する闘争だった。笠井はこの闘争こそが、帝国主義本国市民社会における人民武装闘争・人民権力闘争に転化する場と規定した。そこから笠井は、グラムシの「陣地戦」、毛沢東の〝農民に依拠し、農村を革命の根拠地とする″「人民闘争革命論」の再評価をへとつなげていく。人民による社会権力の奪取と占拠の持久的闘争は、中欧から遠く隔てた東アジア中国に共通する革命論であると。そこから、先進資本主義国、資本主義が未発達な中国、そして第三世界の旧植民地・従属国それぞれの社会の状態に合わせた、持久戦・陣地戦による「人民権力闘争」が浮上する。そこには〝プロレタリア革命″の影は薄く、プロレタリアをふくむ〝人民″が革命主体として登場する。
近代的な主権国家体制が未整備な第三世界諸国では、地理的な解放区の獲得による法的・政治的な二重権力状態を持久的に形成するための条件がある。これにたいし先進諸国では、市民社会の諸文節を占拠した人民諸権力が主権権力の支配を脱して、法的・政治的な自立を獲得することは困難にしても、ヘゲモニー的な二重権力を構築していくことは可能だろう。実際に三里塚には武装した反対同盟農家による、警察権力が容易には立ち入ることのできない自律的空間が形成されている。(本書P200)
前出のとおり、笠井は、長崎『叛乱論』が近代世界総体への叛乱として捉えることにおいて評価した。しかし笠井はそこにとどまらず、第三世界革命への合流として捉えることで、長崎から離れていった。この変容を「うちなる『叛乱論』の解体」と宣言した。そのなかで、長崎『叛乱論』が叛乱の経験を純粋に記述するがゆえに叛乱とファシズム的叛乱が十分に区別されないこと、叛乱が国家、党といかに向き合うべきかという点にも答えられていないこと――を批判した。
笠井の「第三世界革命論」は日本の新左翼が形成した、諸潮流に対する批判的整理から準備され、「ロマン的反動批判」と名づけられた。批判の対象は次の4点だ。
笠井は日本国内における三里塚を第三世界として認識し、そこに革命運動の実体をみようとした。しかしながら、それもかなわなかった。三里塚は農村地帯だが、第一世界のそれだ。笠井自身が指摘したように、〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程″にあった。
そればかりではない。笠井もいうように、近代ベビーブーマーが大学を卒業していく1972年をさかいに、〈68年〉という政治情況は変容した。共労党をふくむ新左翼各派も「危機の淵に突き落とされた」(本書P351)」。
1973年、共労党東京都委員会が解散を決定、左派共労党は実質的に解党した。こうして、笠井潔=黒木龍思の革命家人生は終わった。 〔完〕