よみせ通り(谷中・千駄木)の商店街イベントにて、
オオフジツボがストリートライブコンサートを行った。
2019年5月26日日曜日
2019年5月21日火曜日
2019年5月12日日曜日
『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』
●栗原康〔著〕 ●岩波新書 ●860円+税
読書中及び読後にも苛立ちを覚えた。その理由は、著者(栗原康)がアナキズム研究家なのかアナキズム運動家(アナキスト)なのかが、最後まで分からなかったことによる。
前者ならば、俗語、ネット用語、擬音語等を交えた文体は全く不要である。若い世代に馴染んでもらおうという編集業者の配慮であれ、そのことでアナーキーな感覚を読者に与えたいという本人の積極的意図であれ、これらの雑音・夾雑物は本書を読みにくくしている。
後者ならば、こうした解説書を資本(出版社)の下で市場に出し、印税で稼ぐことはその主義に反するばかりか、アナキストにあるまじき行為とも思う。
アナキズムとは何か?
アナキズムとは一般に無政府主義と訳される。この訳に対して著者(栗原康)は、アナキズムがanarchosというギリシア語からきていて、それは「anアン(~がない)という接頭語)」と「archêアルケー(支配、統治)」の合成を語源とすることから、「統治されない生き方」としたほうが意味に忠実だという。とはいえ今日、人間存在に対して、支配・統治を総合的に貫徹する装置が、国家すなわち政府である以上、それを認めない者がアナキスト(無政府主義者)であり、それを認めない「生き方」をアナキズム(無政府主義)としても誤りではないともいう。
しこうして著者(栗原康)は、前出の「アルケー」のもともとの意味(哲学用語)である「万物の始原」「根源的原理」すなわち「はじまり」「根拠」に着目する。それが前出の「アン」で否定された「アナキズム」とは、「はじまりのない生をいきる」「根拠のないことをやる」ことだと定義する。(P8~9)
アナキズムの定義に係るこのような二面性は、アナキズムへの係わり方、立場の相違を表している。国家あるいは組織のトップ、すなわち支配する者にとってのアナキズムは、法・秩序を認めない思想であるから無政府主義と訳す。一方の既存の支配システムを認めない者であるアナキストにとっては、アナキズムとはすなわち自らの生き方を主軸とするがゆえに、それに「はじまりのない生をいきる」という訳を与える。
著者(栗原康)のこのアナキズム定義はきわめて重要で、本書全般の基調になっているばかりか、アナキズムを現代に呼び戻したい(と思われる)著者(栗原康)の願望を表すキーワードとなっているように思える。そのことについては後述する。
アナキズムのいろいろ
本書はアナキズムの入門書、解説書として書かれていて、第1章:エコ・アナキズム、第2章:アナルコ・キャピタリズム、第3章:アナルコ・サンディカリズム、第4章:アナルコ・フェミニズム、第5章:アナルコ・コミュニズムという章立てで構成されている。各章に掲げられたアナキズムを代表するアナキストの思想、運動が詳述されていて、たいへんわかりやすく、解説書として秀逸である。
著者(栗原康)は観念的「アナキスト」か?
著者(栗原康)が勘違いをしていると思われる箇所があるので指摘しておく。第1章において、三里塚闘争における農民の闘争のようすを記述した箇所である。著者(栗原康)は、自ら糞尿にまみれ、かつ、糞尿を投げつけて警察官に立ち向かう三里塚農民の抵抗をエコ・アナキズムの実の姿であるかのように称賛する。(P54)
もう一つは第4章。東京山谷、大阪釜ヶ崎において日雇い労働者の運動を指導した船本洲治に関する記述である。日雇い労働者が寝泊まりする宿は極めて劣悪で、トイレットペーパーすらおかれていなかった。そこで船本が改善闘争に採用した戦術が、新聞紙や雑誌の用紙をトイレに流して詰まらせるというものだった(P170)。ここで著者(栗原康)は、船本の闘争をアナーキーなものとして称賛する。つまり、三里塚農民及び寄せ場の日雇い労働者が糞尿にまみれた闘争であることをもってアナーキーなのだと。
これらの事例とアナキズムとの関係づけは、著者(栗原康)の思い違いによるものだと筆者は確信する。三里塚農民が糞尿を武器として使用したのは、彼らの理性的判断からである。当時、三里塚闘争に新左翼各派が参入することにより、空港建設反対派の運動は、鉄パイプ、火炎瓶、投石器…の使用へと、武装がエスカレートした。そんな中、農民は敵対する警察官・機動隊員を殺傷せずに撃退する武器として、糞尿を理性的に選択したと筆者は考える。三里塚農民はときに新左翼各派と共闘したが、おそらく、闘争戦術、革命論において彼らと一線を画していたと思われる。鉄パイプ、火炎瓶等は三里塚農民のモラルに合致しなかったのだと。農民がアナーキーだからではない。
船本洲治の闘争戦術も同様である。寄せ場において、日雇い労働者を「管理」するのは武装した暴力団である。船本らの寄せ場の闘争は、合法的治安部隊と対峙する前に、非合法武装組織と対峙しなければならなかった。安易に武装闘争に走れば、多くの労働者の死を招く。だから、船本は周到な闘争戦術を練り上げていた。それが本書でも紹介されているので、書き抜いておこう。
船本の闘争方針はアナキズムとは似ても似つかぬ組織された暴力であり、労働運動の本道である。アナキズムとは無縁な、正統的組合運動の戦術の一環である。トイレをつまらせる行為は、組織的運動方針に基づき展開されたとみるべきである。
二つの事例から明らかなのは、著者(栗原康)が糞尿やトイレを用いた闘争を即座にアナキズムだと観念的に反応することである。著者(栗原康)には、農民や日雇い労働者の行為は無条件に非理性的で自然的、本能的だと考えてしまう傾向が認められる。彼は、いわゆる観念的インテリの範疇に属するのかもしれない。
アナキズムの今日的意義
アナキズムの復活が海外から伝えられている。フランスの「黄色いベスト運動」に紛れて繁華街の店舗等を襲撃する全身黒づくめの「ブラックブロック」という集団の活動である。筆者は「ブラックブロック」について情報を持っていないので、実態について論じられない。報道によれば、過激な無政府主義者の一団だという。
もう一つは、鎮圧されたといわれているIS(イスラミックステイト)である。彼らは「イスラム国」の建設を目的としていたので無政府主義者とはいえないかもしれないが、彼らの行為を報道で見る限り、アナーキーそのものである。法秩序・道徳を逸脱した残虐行為の数々、奴隷制の採用、レイプ、拉致、誘拐、自爆テロ…あらゆる制約から解き放たれた自分の赴くままに、コーランの教えすら無視した「イスラム国」とはなんなのだと。はたして「イスラム教徒」の集団なのかと。
その兵士たちはアラブ人はもちろんのこと、欧州、北米、オセアニアに移民で渡った者をルーツとする者や、アジア、アフリカから新天地を求めてやってきた者で構成されていたという。疎外された彼らの心にアナキズムが宿っていた可能性もある。
アナキズムが世界を変える可能性を秘めているかといえば、それは大いに疑問である。歴史のなかにその答えは認められる。と同時に、自己の生の無限の拡充、即ち自己の全面的肯定は他者の全否定であり、別言すれば相対主義、脱構築であり、弁証法の否定である。
とはいえ、今日、自身の生き方すらマニュアル化されてしまった日本の若者たちが、祖国日本から逸脱する糸口として、新しい自己の可能性を見出そうとする方法の一つとして――換言すれば、自己解放、自由な生の探求、新たな選択の探求の仕方として――、アナキズムを学習するための読書は無駄ではない。そのような意味で、「じぶんさがし」の手がかりを探るという意味で、本書を読んでみる価値はある。
読書中及び読後にも苛立ちを覚えた。その理由は、著者(栗原康)がアナキズム研究家なのかアナキズム運動家(アナキスト)なのかが、最後まで分からなかったことによる。
前者ならば、俗語、ネット用語、擬音語等を交えた文体は全く不要である。若い世代に馴染んでもらおうという編集業者の配慮であれ、そのことでアナーキーな感覚を読者に与えたいという本人の積極的意図であれ、これらの雑音・夾雑物は本書を読みにくくしている。
後者ならば、こうした解説書を資本(出版社)の下で市場に出し、印税で稼ぐことはその主義に反するばかりか、アナキストにあるまじき行為とも思う。
アナキズムとは何か?
アナキズムとは一般に無政府主義と訳される。この訳に対して著者(栗原康)は、アナキズムがanarchosというギリシア語からきていて、それは「anアン(~がない)という接頭語)」と「archêアルケー(支配、統治)」の合成を語源とすることから、「統治されない生き方」としたほうが意味に忠実だという。とはいえ今日、人間存在に対して、支配・統治を総合的に貫徹する装置が、国家すなわち政府である以上、それを認めない者がアナキスト(無政府主義者)であり、それを認めない「生き方」をアナキズム(無政府主義)としても誤りではないともいう。
しこうして著者(栗原康)は、前出の「アルケー」のもともとの意味(哲学用語)である「万物の始原」「根源的原理」すなわち「はじまり」「根拠」に着目する。それが前出の「アン」で否定された「アナキズム」とは、「はじまりのない生をいきる」「根拠のないことをやる」ことだと定義する。(P8~9)
アナキズムの定義に係るこのような二面性は、アナキズムへの係わり方、立場の相違を表している。国家あるいは組織のトップ、すなわち支配する者にとってのアナキズムは、法・秩序を認めない思想であるから無政府主義と訳す。一方の既存の支配システムを認めない者であるアナキストにとっては、アナキズムとはすなわち自らの生き方を主軸とするがゆえに、それに「はじまりのない生をいきる」という訳を与える。
著者(栗原康)のこのアナキズム定義はきわめて重要で、本書全般の基調になっているばかりか、アナキズムを現代に呼び戻したい(と思われる)著者(栗原康)の願望を表すキーワードとなっているように思える。そのことについては後述する。
アナキズムのいろいろ
本書はアナキズムの入門書、解説書として書かれていて、第1章:エコ・アナキズム、第2章:アナルコ・キャピタリズム、第3章:アナルコ・サンディカリズム、第4章:アナルコ・フェミニズム、第5章:アナルコ・コミュニズムという章立てで構成されている。各章に掲げられたアナキズムを代表するアナキストの思想、運動が詳述されていて、たいへんわかりやすく、解説書として秀逸である。
著者(栗原康)は観念的「アナキスト」か?
著者(栗原康)が勘違いをしていると思われる箇所があるので指摘しておく。第1章において、三里塚闘争における農民の闘争のようすを記述した箇所である。著者(栗原康)は、自ら糞尿にまみれ、かつ、糞尿を投げつけて警察官に立ち向かう三里塚農民の抵抗をエコ・アナキズムの実の姿であるかのように称賛する。(P54)
もう一つは第4章。東京山谷、大阪釜ヶ崎において日雇い労働者の運動を指導した船本洲治に関する記述である。日雇い労働者が寝泊まりする宿は極めて劣悪で、トイレットペーパーすらおかれていなかった。そこで船本が改善闘争に採用した戦術が、新聞紙や雑誌の用紙をトイレに流して詰まらせるというものだった(P170)。ここで著者(栗原康)は、船本の闘争をアナーキーなものとして称賛する。つまり、三里塚農民及び寄せ場の日雇い労働者が糞尿にまみれた闘争であることをもってアナーキーなのだと。
これらの事例とアナキズムとの関係づけは、著者(栗原康)の思い違いによるものだと筆者は確信する。三里塚農民が糞尿を武器として使用したのは、彼らの理性的判断からである。当時、三里塚闘争に新左翼各派が参入することにより、空港建設反対派の運動は、鉄パイプ、火炎瓶、投石器…の使用へと、武装がエスカレートした。そんな中、農民は敵対する警察官・機動隊員を殺傷せずに撃退する武器として、糞尿を理性的に選択したと筆者は考える。三里塚農民はときに新左翼各派と共闘したが、おそらく、闘争戦術、革命論において彼らと一線を画していたと思われる。鉄パイプ、火炎瓶等は三里塚農民のモラルに合致しなかったのだと。農民がアナーキーだからではない。
船本洲治の闘争戦術も同様である。寄せ場において、日雇い労働者を「管理」するのは武装した暴力団である。船本らの寄せ場の闘争は、合法的治安部隊と対峙する前に、非合法武装組織と対峙しなければならなかった。安易に武装闘争に走れば、多くの労働者の死を招く。だから、船本は周到な闘争戦術を練り上げていた。それが本書でも紹介されているので、書き抜いておこう。
①労働組合は広範な労働者に呼びかけ、代表団を結成し、会社側と交渉し要求を受け入れてもらう。②戦闘的青年労働者は闘争委員会を結成し、暴動を起こすぐらいの実力闘争をやり、会社側を屈服させ、要求を呑ませる、③ある労働者は新聞紙等の固い紙でトイレをつまらせる。(船本洲治「現闘委の任務を立派に遂行するために」『新版 黙って野たれ死ぬな』共和国/本書P171)
船本の闘争方針はアナキズムとは似ても似つかぬ組織された暴力であり、労働運動の本道である。アナキズムとは無縁な、正統的組合運動の戦術の一環である。トイレをつまらせる行為は、組織的運動方針に基づき展開されたとみるべきである。
二つの事例から明らかなのは、著者(栗原康)が糞尿やトイレを用いた闘争を即座にアナキズムだと観念的に反応することである。著者(栗原康)には、農民や日雇い労働者の行為は無条件に非理性的で自然的、本能的だと考えてしまう傾向が認められる。彼は、いわゆる観念的インテリの範疇に属するのかもしれない。
アナキズムの今日的意義
アナキズムの復活が海外から伝えられている。フランスの「黄色いベスト運動」に紛れて繁華街の店舗等を襲撃する全身黒づくめの「ブラックブロック」という集団の活動である。筆者は「ブラックブロック」について情報を持っていないので、実態について論じられない。報道によれば、過激な無政府主義者の一団だという。
もう一つは、鎮圧されたといわれているIS(イスラミックステイト)である。彼らは「イスラム国」の建設を目的としていたので無政府主義者とはいえないかもしれないが、彼らの行為を報道で見る限り、アナーキーそのものである。法秩序・道徳を逸脱した残虐行為の数々、奴隷制の採用、レイプ、拉致、誘拐、自爆テロ…あらゆる制約から解き放たれた自分の赴くままに、コーランの教えすら無視した「イスラム国」とはなんなのだと。はたして「イスラム教徒」の集団なのかと。
その兵士たちはアラブ人はもちろんのこと、欧州、北米、オセアニアに移民で渡った者をルーツとする者や、アジア、アフリカから新天地を求めてやってきた者で構成されていたという。疎外された彼らの心にアナキズムが宿っていた可能性もある。
アナキズムが世界を変える可能性を秘めているかといえば、それは大いに疑問である。歴史のなかにその答えは認められる。と同時に、自己の生の無限の拡充、即ち自己の全面的肯定は他者の全否定であり、別言すれば相対主義、脱構築であり、弁証法の否定である。
とはいえ、今日、自身の生き方すらマニュアル化されてしまった日本の若者たちが、祖国日本から逸脱する糸口として、新しい自己の可能性を見出そうとする方法の一つとして――換言すれば、自己解放、自由な生の探求、新たな選択の探求の仕方として――、アナキズムを学習するための読書は無駄ではない。そのような意味で、「じぶんさがし」の手がかりを探るという意味で、本書を読んでみる価値はある。
2019年5月7日火曜日
2019年5月4日土曜日
2019年5月1日水曜日
2019年4月28日日曜日
『日本人の明治観をただす』
●中塚明〔著〕 ●高分研 ●2200円+税
本題に〈明治〉という年号が含まれている。本書読了後の日から数日後、平成が終わり、令和が始まる。世の中、といってもテレビ、新聞の類の話だが、令和、令和…の大合唱だ。新しい時代の幕開けだと。
令和狂想曲―年号による時代区分の弊害
筆者は年号に反対だ。年号によって区分された「時代」に意味がないどころか、日本人に間違った歴史認識を与えると思うからだ。それに基づく時代区分は、日本人に歴史を深く顧みる習性を失わせる記号だと確信するからだ。
年号論は本書評と関係ないので詳しく論じないが、たとえば、昭和という「時代」が昭和20年8月以前とそれ以後で全く異なる顔をもっていることに異論はないと思う。このことからも年号による時代区分が意味をもたないことは明らかだ。
現存する日本人の大多数が昭和、平成生まれであることから、新しい年号である令和を迎えるにあたり、昭和、平成、令和と括られてマスメディアが騒いでいる。ところが、いま現在の日本人が思う〈昭和〉は、1960年以降の高度成長期以降から1989年(昭和天皇崩御)までを指している。それ以前の暗い時代、昭和元年(1926)から昭和20~24年ころまでにこの国で起こった事象――満州事変(5年)、2.26事件(10年)、日本軍ハワイ真珠湾攻撃(16年)、米軍本土無差別空襲(18年~)、沖縄地上戦、広島・長崎原爆被爆(20年)といった戦争・戦禍の記憶や、昭和20年8月以降の焦土と化した国土の情景、人民の飢餓の記憶すら忘れ去られ、先述したように、日本が高度成長を果たした昭和35年(1960)以降を昭和と称しているともいえる。昭和が戦争、敗戦、飢餓による夥しい死者を抱えた時代だったことをふり返らない。
明治時代という特異性
明治の開始は、それ以前の年号の時代と鮮明に時代区分できる。明治維新は、日本の大転換点であった。先ほど、〈昭和〉は、35年ころを境にまったく異なる顔をもつと記述をしたが、それでも、明治(維新)の前と後を境とした時代の差異の深さに比べれば及ばない。その理由の詳細は後述するが、いま現在(2019年)は、平成の末、そしてあと数日で令和が始まるといいながらも、日本としての国柄、いわゆる〈国体〉という観点からいえば、明治151年と数えていいほど、明治という時代と同質性、連続性を有していると筆者は考える。
〈明治〉とはなにか
明治維新によって徳川幕府を倒した薩長政府が行った改革は多岐にわたる。本書はそれを解説するものではないので詳細は省略するが、どうしても挙げなければいけないものとして、幕藩体制の解体――中央集権的国家の樹立――に触れておく。筆者は、この国家体制(システム)変更こそが、明治国家の基本だったと確信する。
幕藩体制というのはいうまでもなく、徳川幕府を国家権力頂点としながら、各藩(250余)がその地域を直接統治するものだった。徴税、司法、行政は藩が行い、法令も藩が定めた。藩が軍を持った。明治維新により藩は廃止され、全国一律の徴税制度、憲法、各法令が制定され、国会(議会)が開設され徴兵制度による常備軍が創設され、中央、地方行政が一律に執り行われ、それらが国家により、全国津々浦々に一元的に徹底化された。廃刀令とは、藩の軍備解除にほかならない。
そればかりではない。本書に従えば、明治中央集権国家のガイストは、▽神権天皇制、▽神話史観、▽神話国家、という概念で構成された(P22)。薩長政府が幕藩体制を破壊して中央集権的国家をつくりあげる基礎としたのは、理性に基づく市民社会を基盤とした民主的国家ではもちろんなく、神話、現人神、物語的歴史観に基づく支配構造の確立だった。そのようなガイストで成立した革命政府=明治国家は西欧列強を手本として、着々と対外侵略に取り組んでいく。その第一の標的が朝鮮であった。明治政府は、日本は神の国であるから、どんな敵にも勝てる、神の国の臣民(国民)は諸外国より優れている、と国民に教育し、とりわけ近隣諸国を蔑視する排外主義、国粋主義を国民に浸透させた。
明治政府が神話史観、神話国家の形成に利用したのが、古事記、日本書紀といった古代の物語だ。天皇の祖先は神、神(天皇)が建国した日本は神の国――という虚構の「歴史」を、神話教育を通じて国民に徹底した。
また、(旧)皇室典範等を整備し、新たにつくりだした擬似的な皇室儀礼・神事をあたかも、古来の伝承であるかのように装った。前出の年号(元号)もその一つ。年号が天皇の在位とともに更新される「一世一元の制」及び皇位継承における「直系男子への皇位継承優先」(皇室典範第1条:大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス)は明治政府によって定められた。
天皇が皇祖である天照大御神が祀られているという伊勢神宮を参拝するようになったのも、明治天皇からのことからだという。旧皇室典範は日本が太平洋戦争に負け、米軍占領下で改変されたが、現在の皇室典範も明治政府に定められたものに概ね準拠している。
明治国家が今日の日本の基礎となっている
さて、本書である。今日、高名な歴史研究者の明治時代についての認識の批判から始まる。その研究者の明治観は、明治は日本が近代化を果たした栄光の時代だったのだが、大正を経て昭和になってから、軍人、一部政治家によって、明治の理想から逸脱してしまったというものだ。このような言説は、明治は建国と近代化の輝かしい時代、昭和初期から20年までは戦争の時代だとして、1868年から1945年までを分断し、歴史の連続性を否定するものと換言できる。小説家、司馬遼太郎がつくりあげた、いわゆる「司馬史観」も含まれよう。
本書の意図を大雑把にいえば、今日の「常識的」「一般的」な日本の近現代化理解――明治と昭和を分断する歴史観――を是正すること、そして、年号によって分断された歴史理解が今日の日本の危機的状況の根源なのだということを証明することだといえる。
本書は、明治の時代精神について、日本の帝国主義的海外侵略の礎を築いた時代だと規定する。その論証の素材として、朝鮮侵略の過程を外交文書、外交官及び政治家らの日記などを多角的に読み解き、明治政府が朝鮮をいかにして支配していくかを解明していく。日本の朝鮮侵略の延長線上に日清及び日露戦争があり、さらに満洲建国、中国侵略、さらにアジア太平洋戦争に至る日本の「進路」が示唆される。加えて、明治政府がつくりあげた日本人の近隣諸国蔑視や排外主義的傾向が、今日の日本社会に深く影を落としていることに警鐘を鳴らす。
明治政府による歴史修正、公文書改竄
明治政府が朝鮮侵略、日清戦争、日露戦争へと直進するなか、密かに行われたのが、日本軍隊による不法行為、国際法無視、戦史改竄であった。国家レベルにおける今日まで続く明治の悪しき継承は、近年、安倍政権下、南スーダンPKO派遣部隊の日報隠蔽やモリモト、カケ疑惑で公文書の書き換えが明るみに出、行政官の自殺まであったことにつながる。また、統計不正、経済指標の書き換え問題も同様だ。
このような日本国家の悪しき体質は、明治政府では当たり前のようになされていた。本書によると、日清戦争開始(明治27・1894年)の突破口となった日本軍によるソウル宮中占拠は、政府の「公式文書」によると、ソウル駐在の日本軍が朝鮮の兵士と偶発的に衝突したことと記されているというが、実際には、日本政府と軍が計画的に行った、軍事クーデターであったことが後年、明らかになっている。
朝鮮への偏見の増幅
本書では、朝鮮蔑視、偏見を増幅した知識人として、福田徳三(経済学者)、岡倉天心(美術行政家・思想家)、新渡戸稲造(教育者・思想家)、喜田貞吉(歴史学者・歴史教育者)を挙げる。朝鮮蔑視の根源には、古事記、日本書紀の三韓征伐の神話があり、明治維新直後には征韓論、福沢諭吉の「朝鮮の交際を論ず」があった(P205~206)。しかし、朝鮮停滞論、落伍論の隆盛は、日清戦争から日露戦争前後にかけて急激に勢いを増したという。
今日の日本では、ネトウヨと呼ばれる差別主義者、排外主義者が、近隣諸国民、在日外国人に対して、公然とヘイトスピーチをネットメディアで流している。新しい教科書をつくる会、日本会議等による右派団体による日本の近現代史の修正(南京虐殺捏造論など)の動きは勢いを増している。百田尚樹、桜井よしこ、竹田恒泰らの極右芸能タレント「知識人」が排外主義的、歴史修正主義的発言をマスメディアを通じて垂れ流している。
今日の日本の情況を見過ごしてはならない。前出のとおり、明治時代、日清戦争から日露戦争にかけてあった流れは、今日、安倍政権下で勢いを増している情況とかなり近いものがあるからだ。
本題に〈明治〉という年号が含まれている。本書読了後の日から数日後、平成が終わり、令和が始まる。世の中、といってもテレビ、新聞の類の話だが、令和、令和…の大合唱だ。新しい時代の幕開けだと。
令和狂想曲―年号による時代区分の弊害
筆者は年号に反対だ。年号によって区分された「時代」に意味がないどころか、日本人に間違った歴史認識を与えると思うからだ。それに基づく時代区分は、日本人に歴史を深く顧みる習性を失わせる記号だと確信するからだ。
年号論は本書評と関係ないので詳しく論じないが、たとえば、昭和という「時代」が昭和20年8月以前とそれ以後で全く異なる顔をもっていることに異論はないと思う。このことからも年号による時代区分が意味をもたないことは明らかだ。
現存する日本人の大多数が昭和、平成生まれであることから、新しい年号である令和を迎えるにあたり、昭和、平成、令和と括られてマスメディアが騒いでいる。ところが、いま現在の日本人が思う〈昭和〉は、1960年以降の高度成長期以降から1989年(昭和天皇崩御)までを指している。それ以前の暗い時代、昭和元年(1926)から昭和20~24年ころまでにこの国で起こった事象――満州事変(5年)、2.26事件(10年)、日本軍ハワイ真珠湾攻撃(16年)、米軍本土無差別空襲(18年~)、沖縄地上戦、広島・長崎原爆被爆(20年)といった戦争・戦禍の記憶や、昭和20年8月以降の焦土と化した国土の情景、人民の飢餓の記憶すら忘れ去られ、先述したように、日本が高度成長を果たした昭和35年(1960)以降を昭和と称しているともいえる。昭和が戦争、敗戦、飢餓による夥しい死者を抱えた時代だったことをふり返らない。
明治時代という特異性
明治の開始は、それ以前の年号の時代と鮮明に時代区分できる。明治維新は、日本の大転換点であった。先ほど、〈昭和〉は、35年ころを境にまったく異なる顔をもつと記述をしたが、それでも、明治(維新)の前と後を境とした時代の差異の深さに比べれば及ばない。その理由の詳細は後述するが、いま現在(2019年)は、平成の末、そしてあと数日で令和が始まるといいながらも、日本としての国柄、いわゆる〈国体〉という観点からいえば、明治151年と数えていいほど、明治という時代と同質性、連続性を有していると筆者は考える。
〈明治〉とはなにか
明治維新によって徳川幕府を倒した薩長政府が行った改革は多岐にわたる。本書はそれを解説するものではないので詳細は省略するが、どうしても挙げなければいけないものとして、幕藩体制の解体――中央集権的国家の樹立――に触れておく。筆者は、この国家体制(システム)変更こそが、明治国家の基本だったと確信する。
幕藩体制というのはいうまでもなく、徳川幕府を国家権力頂点としながら、各藩(250余)がその地域を直接統治するものだった。徴税、司法、行政は藩が行い、法令も藩が定めた。藩が軍を持った。明治維新により藩は廃止され、全国一律の徴税制度、憲法、各法令が制定され、国会(議会)が開設され徴兵制度による常備軍が創設され、中央、地方行政が一律に執り行われ、それらが国家により、全国津々浦々に一元的に徹底化された。廃刀令とは、藩の軍備解除にほかならない。
そればかりではない。本書に従えば、明治中央集権国家のガイストは、▽神権天皇制、▽神話史観、▽神話国家、という概念で構成された(P22)。薩長政府が幕藩体制を破壊して中央集権的国家をつくりあげる基礎としたのは、理性に基づく市民社会を基盤とした民主的国家ではもちろんなく、神話、現人神、物語的歴史観に基づく支配構造の確立だった。そのようなガイストで成立した革命政府=明治国家は西欧列強を手本として、着々と対外侵略に取り組んでいく。その第一の標的が朝鮮であった。明治政府は、日本は神の国であるから、どんな敵にも勝てる、神の国の臣民(国民)は諸外国より優れている、と国民に教育し、とりわけ近隣諸国を蔑視する排外主義、国粋主義を国民に浸透させた。
明治政府が神話史観、神話国家の形成に利用したのが、古事記、日本書紀といった古代の物語だ。天皇の祖先は神、神(天皇)が建国した日本は神の国――という虚構の「歴史」を、神話教育を通じて国民に徹底した。
また、(旧)皇室典範等を整備し、新たにつくりだした擬似的な皇室儀礼・神事をあたかも、古来の伝承であるかのように装った。前出の年号(元号)もその一つ。年号が天皇の在位とともに更新される「一世一元の制」及び皇位継承における「直系男子への皇位継承優先」(皇室典範第1条:大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス)は明治政府によって定められた。
天皇が皇祖である天照大御神が祀られているという伊勢神宮を参拝するようになったのも、明治天皇からのことからだという。旧皇室典範は日本が太平洋戦争に負け、米軍占領下で改変されたが、現在の皇室典範も明治政府に定められたものに概ね準拠している。
明治国家が今日の日本の基礎となっている
さて、本書である。今日、高名な歴史研究者の明治時代についての認識の批判から始まる。その研究者の明治観は、明治は日本が近代化を果たした栄光の時代だったのだが、大正を経て昭和になってから、軍人、一部政治家によって、明治の理想から逸脱してしまったというものだ。このような言説は、明治は建国と近代化の輝かしい時代、昭和初期から20年までは戦争の時代だとして、1868年から1945年までを分断し、歴史の連続性を否定するものと換言できる。小説家、司馬遼太郎がつくりあげた、いわゆる「司馬史観」も含まれよう。
本書の意図を大雑把にいえば、今日の「常識的」「一般的」な日本の近現代化理解――明治と昭和を分断する歴史観――を是正すること、そして、年号によって分断された歴史理解が今日の日本の危機的状況の根源なのだということを証明することだといえる。
本書は、明治の時代精神について、日本の帝国主義的海外侵略の礎を築いた時代だと規定する。その論証の素材として、朝鮮侵略の過程を外交文書、外交官及び政治家らの日記などを多角的に読み解き、明治政府が朝鮮をいかにして支配していくかを解明していく。日本の朝鮮侵略の延長線上に日清及び日露戦争があり、さらに満洲建国、中国侵略、さらにアジア太平洋戦争に至る日本の「進路」が示唆される。加えて、明治政府がつくりあげた日本人の近隣諸国蔑視や排外主義的傾向が、今日の日本社会に深く影を落としていることに警鐘を鳴らす。
明治政府による歴史修正、公文書改竄
明治政府が朝鮮侵略、日清戦争、日露戦争へと直進するなか、密かに行われたのが、日本軍隊による不法行為、国際法無視、戦史改竄であった。国家レベルにおける今日まで続く明治の悪しき継承は、近年、安倍政権下、南スーダンPKO派遣部隊の日報隠蔽やモリモト、カケ疑惑で公文書の書き換えが明るみに出、行政官の自殺まであったことにつながる。また、統計不正、経済指標の書き換え問題も同様だ。
このような日本国家の悪しき体質は、明治政府では当たり前のようになされていた。本書によると、日清戦争開始(明治27・1894年)の突破口となった日本軍によるソウル宮中占拠は、政府の「公式文書」によると、ソウル駐在の日本軍が朝鮮の兵士と偶発的に衝突したことと記されているというが、実際には、日本政府と軍が計画的に行った、軍事クーデターであったことが後年、明らかになっている。
朝鮮への偏見の増幅
本書では、朝鮮蔑視、偏見を増幅した知識人として、福田徳三(経済学者)、岡倉天心(美術行政家・思想家)、新渡戸稲造(教育者・思想家)、喜田貞吉(歴史学者・歴史教育者)を挙げる。朝鮮蔑視の根源には、古事記、日本書紀の三韓征伐の神話があり、明治維新直後には征韓論、福沢諭吉の「朝鮮の交際を論ず」があった(P205~206)。しかし、朝鮮停滞論、落伍論の隆盛は、日清戦争から日露戦争前後にかけて急激に勢いを増したという。
今日の日本では、ネトウヨと呼ばれる差別主義者、排外主義者が、近隣諸国民、在日外国人に対して、公然とヘイトスピーチをネットメディアで流している。新しい教科書をつくる会、日本会議等による右派団体による日本の近現代史の修正(南京虐殺捏造論など)の動きは勢いを増している。百田尚樹、桜井よしこ、竹田恒泰らの極右芸能タレント「知識人」が排外主義的、歴史修正主義的発言をマスメディアを通じて垂れ流している。
今日の日本の情況を見過ごしてはならない。前出のとおり、明治時代、日清戦争から日露戦争にかけてあった流れは、今日、安倍政権下で勢いを増している情況とかなり近いものがあるからだ。
2019年4月10日水曜日
「令和」批判
新元号について、東京新聞夕刊のコラム「大波小波」が2日間連続(4月8日付及び同9日付)で出色の批判を書いていたのが印象に残った。8日のそれは「万葉集の政治利用(狼)」、9日のそれは「新元号狂騒(霊倭)」と題されていて、両者とも新元号を「令和」と決定したといわれる安倍首相個人及び安倍政権(=官邸)を厳しく批判した内容となっている。
「令和」と梅
報道によると、「令和」は、万葉集の梅歌32首の序文、于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 からの引用だといわれている。歌の意は、
初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。
ここで注目すべきは「梅」である。
東京新聞のコラムの大意
同コラムを読んでいない人のためにその大意を示せば以下のとおりである。
〔万葉集の政治利用〕
元号狂騒曲を奏でているのは大手メディア(新聞とテレビ)
東京新聞のコラムは、新元号に係る安倍及び首相官邸への批判として、管見の限りだが、誠に的確な批判だと確信する。しかし、新元号についてはそれを報道するメディアの側にかなりの偏向的傾向が見いだせる。東京新聞が、「令和」の出典は万葉集だが、それは古代中国の漢詩から採取したものだという確証を得ているのなら、安倍政権が「万葉集から」と発表したことに正面から反論すればよい。第一面がよかろう。とにかく、どの面でもよろしいが、少なくとも夕刊のコラムの、しかも匿名で扱うのはおかしな話である。まったく触れないよりはましなのかもしれないが。
新元号狂騒曲を奏でているのは、大手メディア業者のテレビ、大新聞である。万葉集の国文的価値を貶める気はまったくない。だが、万葉集には、政治的に利用された過去がある。万葉集を批判するのではなく、それを政治的利用した過去の日本帝国に批判的でありたい。
併せて、軍国主義に追随し、国民を戦争に駆り立てた当時の大新聞社の責任を不問に付してはならない。新聞業界人が過去の新聞のあり方を真に反省するのならば、新元号に込められた安倍政権の意図や思いを厳しく批判しなければ嘘である。
「令和」と梅
報道によると、「令和」は、万葉集の梅歌32首の序文、于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 からの引用だといわれている。歌の意は、
初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。
ここで注目すべきは「梅」である。
東京新聞のコラムの大意
同コラムを読んでいない人のためにその大意を示せば以下のとおりである。
〔万葉集の政治利用〕
- 万葉集は、アジア太平洋戦争中は軍国主義に基づいた国家のプロパガンダに用いられた
- 「令和」の出典は、国書からといわれているが、実は漢籍である
- 漢籍であることはネット検索で簡単に判明することにもかかわらず、官邸が「万葉集」=国書と固執したのはなぜか
- (本コラムを執筆した狼氏は)梅の花でならなかった事情があると推測する
- 梅の花は前九年の役で源頼義の軍に敗れた奥州の豪族安倍氏を象徴する花
- 安倍宗任が源頼義に都へ連行された際に、貴族から梅の花を示され詠んだ歌に、
- 〈わが国の梅の花とは見つれども大宮人はいかがいふらむ〉というのがある
- この歌は、梅の花は自分たち(安倍氏)のものだと敗者の誇りを示した一首
- 安倍首相が出た山口県の安倍氏は、この宗任の末裔だといわれる
- 最高権力者(安倍首相)への忖度から新元号が選ばれたのなら、これほど国民を馬鹿にした話はない
- 安倍首相、菅官房長官は「令和」の出典は万葉集だと説明する
- 「令和」は中国後漢の張衡の作品「帰田賦」に「仲春令月 時和気清」の先例があることを江戸時代の契沖が指摘している
- 安倍首相は、万葉集が戦時下、国威発揚と忠誠心称揚のために利用されたことに触れようともしない
- 〈海ゆかば 水潰く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ〉
- 万葉集巻十八にあるこの大伴家持の歌は、信時潔の作曲を得て、戦中派、「わだつみ」世代など多くの人々に「君が代」に次ぐ国家のごとく唱和された
- ドナルド・キーンは日本人捕虜の多くが万葉集を携帯していたことに驚いていたと回想している
- 首相の言う「日本的なもの」が「古代朝鮮的なもの」「古典中国的なもの」にすぎないことは言語学、民俗学、考古学で明らかだ
- 「日本ファースト」で病膏肓の首相には馬耳東風だろう
元号狂騒曲を奏でているのは大手メディア(新聞とテレビ)
東京新聞のコラムは、新元号に係る安倍及び首相官邸への批判として、管見の限りだが、誠に的確な批判だと確信する。しかし、新元号についてはそれを報道するメディアの側にかなりの偏向的傾向が見いだせる。東京新聞が、「令和」の出典は万葉集だが、それは古代中国の漢詩から採取したものだという確証を得ているのなら、安倍政権が「万葉集から」と発表したことに正面から反論すればよい。第一面がよかろう。とにかく、どの面でもよろしいが、少なくとも夕刊のコラムの、しかも匿名で扱うのはおかしな話である。まったく触れないよりはましなのかもしれないが。
新元号狂騒曲を奏でているのは、大手メディア業者のテレビ、大新聞である。万葉集の国文的価値を貶める気はまったくない。だが、万葉集には、政治的に利用された過去がある。万葉集を批判するのではなく、それを政治的利用した過去の日本帝国に批判的でありたい。
併せて、軍国主義に追随し、国民を戦争に駆り立てた当時の大新聞社の責任を不問に付してはならない。新聞業界人が過去の新聞のあり方を真に反省するのならば、新元号に込められた安倍政権の意図や思いを厳しく批判しなければ嘘である。
2019年3月31日日曜日
2019年3月27日水曜日
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