今日、テレビには、日本が世界の中で極めて優秀な国だとふれまわる、“日本礼賛番組”があふれているという。『Youは何しに日本へ?』『世界ナゼそこに?日本人 知られざる波乱万丈伝』『世界の日本人妻は見た!』『世界!ニッポン行きたい人応援団』『和風総本家』『たけしのニッポンのミカタ』『世界が驚いたニッポン!スゴ~イデスネ!!視察団』『cool japan 発掘!かっこいいニッポン』・・・
日本礼賛番組の構造
スポーツ中継、映画、ニュース以外のテレビを見ない筆者なので、上記の番組がどんなものか判断しかねる。ただ、タイトル及び本書の番組説明を読むことで、これらの番組内容について概ね理解できる。外国人が日本の良いところ、優れたところに感嘆したり驚愕したりすることで、見る側(日本人)に快感を覚えさせる企画だろう。
多くの視聴者は、番組に紹介された日本の事業者、日本人技術者(職人)、日本人そのもの、日本の自然から社会に至るまでの優秀さを確認するとともに、それらが日本人(自分たち)の代表だと錯覚する。そして、その一員である自分も優秀だと納得する。
スポーツも同様だ。先の平昌冬季五輪における日本のテレビのフィーバーぶりも日本礼賛番組と同じ構造にある。フィギュアスケートの羽生結弦やスピードスケートの小平奈緒らが金メダルを取れば、彼ら彼女らは自分たちの代表だと多くの日本人は確信する。サッカー日本代表はまさにその名称からして、「自分たちの代表」にほかならない。だから「絶対に負けられない戦い…」というヒステリックでおよそ不可能な謳い文句がテレビで絶叫されても、当然だと思ってしまう。
こうした現象は、素朴な愛国心、自国民愛なのだから、目くじら立てて批判する対象ではないという見方が大勢だろう。五輪やサッカーで自国を熱烈に応援したからといって、戦前の軍国ファシズムの心情とは一致しないと。自分たちの「代表」を応援して何が悪いのだと。はたしてそうなのだろうか、それについては後述する。
朝日新聞論
本書はマスメディアの愛国報道について、その現状及び歴史の分析を通じて、そこに潜む危険性を指摘する。後半の〔第5章:「反日」と「愛国」は表裏一体〕〔第6章:戦前から「愛国」が抱える闇〕にかけては、「朝日新聞論」ともいうべき内容となっている。
著者(窪田順生)によると、戦後の朝日新聞においては、「愛国」と「反日」の報道は表裏一体の関係にあり、「反日」報道が増加すると、その次に「愛国」報道がバランスをとるかのように増加するという。そして、このバランス報道は、朝日の社是(綱領)であるところの、「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」にあるという。
朝日新聞が社是とする「中正」とは、偏向しないくらいの意味だとも思えるが、筆者(窪田順生)によれば、それは二重人格であり、ダブルスタンダードであり、社会に大きな混乱を招くもとだという。火をつけて騒ぐだけ騒いだ後にしれっとした顔でそれを消すのが朝日新聞なのだと。
「優生学」が日本礼賛報道の本質に
そればかりではない。本書は朝日新聞における今日の日本礼賛報道のルーツを探りだす。著者(窪田順生)によると、朝日新聞における「日本が世界一報道」の定型をつくりだしたのは、下村宏(下村海南)という元台湾総督府民政長官であるという。下村は、同職を退任後、朝日に副社長として向かい入れられた(1921、大正4)。
下村は当時における国際通で、朝日の副社長という肩書を使って、講演やラジオ番組で世界における日本の位置を大衆にわかりやすく説明して回ったという。ところが、下村の日本と世界の関係を計る思想的基軸は、優生学に基づくものであった。彼は日本人が世界で最も優れた人種であることを願ったうえで、日本人が「優れている」と下村が判断した技術、事象、統計等を、客観的検証を欠いたまま大衆にふれまわったようだ。
優生学の根本は、「優れていないもの」の排除・抹殺だ。身体的、精神的に「欠陥」があると国が認識すれば、「優れていない者」は社会から除外されてしまう。今日、世界(他国民)より「優れたかのような日本(人)」が相次いで報道される裏側には、戦前に日本で望ましいとされた似非科学=優生学の復古の兆候が見て取れる。
戦後、朝日新聞は生まれ変わったと思われるかもしれない。だが、日本の至る所に戦前のシステムが残存したと同様に、優生学的価値基準が朝日の中に残存したと考えていい。今日、朝日が中正の名の下で「日本礼賛」と「反日」の報道を繰り返すことから、そのことは明らかだ。「日本イイネ」の蔓延に慣らされているうちにそれが洗脳の完了へと至り、思わぬ方向へと日本を進めることになる。