2023年8月1日火曜日

明治神宮外苑再開発を考える


〔1〕明治神宮外苑再開発問題の根源  

 東京新聞2023/7/31社説「明治神宮外苑再開発 憩いの土地は誰のもの」をお読みになった方も多いと思う。同社説では、1951年、神宮外苑の土地の権利をめぐる神宮と国の綱引きについて触れている。まず、同社説は1951年の日本国の世情を次のようにまとめている。 
 
《一九五一年はサンフランシスコ平和条約が調印され、太平洋戦争が名実ともに終わった年です。戦後日本の再出発が本格化し、旧体制の見直しが社会のあちらこちらで進んでいました。天皇主権と軍国主義を支えていた「国家神道」は解体され、東京・明治神宮とその外苑では、土地を巡る問題が浮上します。(東京新聞社説)》 
 
 このような時代認識は今日一般的だが、実はちがう。1947年を境に、朝鮮半島の緊張の高まりが顕在化し、米国はGHQ左派が進めてきた戦後日本の反戦平和民主化路線を修正し、日本を極東における反共国家へと改造、属国化することに努めてきた。1950年の朝鮮戦争勃発により、その傾向はますます強まっていった。日本国内では、戦前へのバックラッシュが吹き荒れていた。このことを頭にいれておかなければ、今日の「外苑再開発問題」の根源にたどり着けない。 
 社説は続ける。 
 
《神宮と外苑は当時ともに国有地でした。神宮の土地は、国が神宮に無償譲渡する一方、スポーツ施設が集積する外苑は国有地のままスポーツ団体を交えた委員会が運営するという文部省(当時)案が五一年六月にまとまりました。(東京新聞社説)》 
 
 そもそも国有地であった神宮と外苑のうち、なぜ、神宮の土地を宗教法人である神社(神宮)に無償譲渡するという案の提出をみたのか。この時点ですでに、国が神宮に対して腰が引けていたことが透けて見える。神宮すなわち神社は神道という宗教であり、それ以上でも以下でもない。国が国の土地を一介の神社に無償譲渡する理由がない。ところが、 
 
《これに神宮側は猛反発します。「神宮と外苑は一体」として、土地譲渡と神宮による施設運営を求めたのです。神宮は、官界を巻き込んだ陳情で優位に立ちます。文部省は五二年一月、施設運営を認める代わりに条件を神宮に示しました。(東京新聞社説)》 
 
 神宮側は更に国に対し、神宮と外苑の土地を一括で取得することを目指した。なんという強欲さであろうか。そこで出されたのが、国と神宮側の妥協案、いわゆる「四条件」だ。 


 ▼国民が公平に使用できる 
 ▼アマチュアスポーツの趣旨にのっとり、使用料・入場料を極めて低廉に 
 ▼施設を絶えず補修する経費の見通しがある 
 ▼民主的運営をする 
 
《この四条件を神宮が受け入れ、土地も時価の半額で国が神宮に譲渡することで決着しました。以上の経緯は神宮発行の「明治神宮外苑七十年誌」から引きました。こうした歴史から分かるのは、外苑の公共性の高さが当時から認識され、土地が神宮に渡らない可能性もあったことです。(東京新聞社説)》 
 
 神宮側の強気の交渉で国は明治神宮に対して、神宮の土地は無償、外苑の土地は時価の半額で譲渡してしまった。森友学園もびっくりの叩き売りだ。それだけではない。この「四条件」はいかにも抽象的だ。とりわけ第三条の「施設を絶えず補修する経費の見通しがある」がポイントだ。神宮側が「経費の見通しを立てるため」、外苑の土地を「有効活用」する道が開かれてしまったのだ。「四条件」の曖昧さが今日の外苑再開発の合法性の根拠となってしまったように思われる。
 その曖昧さは--敗戦後、国家神道という宗教の体裁をとったイデオロギーを払しょくできなかった--1950年前後の日本国の在りように起因する。明治天皇=MUTSUHITOは一人の人間であって、死後、神になることはない。日本の近代化と言われる明治期天皇制は、体制保持のイデオロギーとして、宗教の体裁をとったカルト=国家神道によって人民を洗脳し、戦争と人民搾取の暗黒時代を77年間維持し、昭和天皇(HIROHITO)の代、1945年8月15日に破綻した。 


《外苑は国民の憩いの場として定着していました。神宮の私有地になったとしても、国民から預けられたようなものでしょう。 
それから約七十年。神宮や三井不動産などによる外苑の大規模な再開発が始まりました。(中略)ちょっと待ってください。「四条件」に反しませんか。 
まず疑問なのは、市民が気軽に参加できる施設を大幅に削り、プロスポーツを優遇する点です。アマチュアスポーツの観点から見ると、条件に明らかに反します。 
民主的運営という視点からも疑問が尽きません。再開発が自然環境に与える影響を懸念し、中止を求めるインターネット署名は二十一万筆を超えました。ミュージシャンの故坂本龍一さん、小説家の村上春樹さんら著名人も声を上げています。 
これだけの規模で反対が意思表示されながら、事業に関する法的手続きが淡々と進むことに、この国の街づくりの制度自体に違和感を覚えます(後略)。公共空間はすべての市民の財産であり、行政や大企業が好き勝手にしていいものではありません。多くの人々に愛される場を、将来の世代に残す。明治神宮外苑の再開発は日本の市民社会の在り方をも問うているのです。(東京新聞社説)》 


 この社説のような言説が「外苑再開発」反対派のスタンダードな論法だろうか。しかし、ここまでみた通り、外苑の土地は明治神宮が国から時価の半額で購入したものだ。一般に再開発事業は、土地所有者が再開発の意思を表示しなければ、動き出さない。外苑の土地所有者は明治神宮だから、明治神宮が計画しないか、計画したとしてもそれを再考するか、中止するかすれば、事業は進まない。つまり外苑再開発反対の声を受け止められる主体は、明治神宮以外にない。土地所有者の明治神宮が表に出てきて、再開発反対派と議論を闘わさない限り、埒が明かないのだ。 


〔2〕ひとを神とする信仰 


 古代日本の神話は言うまでもなく神々が演ずる物語。そこに登場する神々を祀る神社が日本各所にいくらでもある。由緒を神話に求める神社は、人民が神話上の神々を畏怖し、崇拝する信仰の場所だった。やがて、古代末期から中世にかけて御霊信仰が成立し、たとえば菅原道真という人(ひと)が天神様(神)として祀られた。江戸初期、徳川家康は日光の東照宮に神として祀られた。 
 日本の近代化の始まりとされる明治維新、封建遺制のいくつかが廃絶される一方で、土俗と近代が奇妙にハイブリッドした天皇制が復古した。筆者はそれを明治期天皇制と呼ぶ。その初代天皇MUTSUHITOは、死後神として祀られ、明治神宮が建立された。 
 日本帝国敗戦後、明治期天皇制から戦後象徴天皇制に移行したが、明治神宮はそのままのこり、前出の通りMUTSUHITOが神として祀られ今日に至っている。このことを啓蒙主義的に考えれば、いかにも非合理的であるという結論に達する。歴史的に検証しても、MUTSUHITOの評価は一定ではないと最低限いえる。大事なのは、MUTSUHITOを神と信じる人も、信じない人もいていい、ということだけだ。イワシの頭も信心なのだから。 
 キリスト教においても聖人が教会等に祀られている。マザー・テレサの死から19年後の2016年、ローマ教皇フランシスコがテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した。唯一神信仰からすれば聖人は神ではないが、超越的存在であり信仰の対象となっている。 
 架空の話、昭和の歌姫、美空ひばりを神格化したい人たちが「ひばり神社」を建立し、芸能の神として祀ることがあっていい。歌が上手くなりたい人や、芸能で身を立てたい人が美空ひばりを神として崇め、その神社を造営し参拝者を集めることは自由だ。もちろん、そこに国家が関与することはない。「ひばり神社」を建てるに当たり、国有地を国が時価の半額で譲渡することなどあり得ない。信者たちがカネを出し合い、その範囲で土地が手当てされ、神殿等が建設されるだろう。 
 神宮外苑は第一部で確認したように、戦後、象徴天皇制というあいまいな制度を日本国憲法の第一条で明文化してしまったがゆえ、明治期天皇制という遺制を清算できなかったことの象徴的存在となっている。 
 外苑再開発反対派がまずもって対峙すべきは、大手不動産会社や行政ではない。外苑の土地利用をめぐる議論は、1950年代、明治神宮という宗教法人が日本国から合法的に安価で入手した土地の処分をめぐる問題として始められなければならない。そのことを換言すれば、明治神宮はみずから起案した再開発事業によって、所有する土地を莫大な開発利益をもって、換金しようとしている。いかにも強欲な宗教団体ではないか。〔完〕 
 

2023年7月31日月曜日

カフェ「花重」がオープン

 お花屋さんの花重のカフェ部門がオープンしていた。




2023年7月9日日曜日

谷根千で蕩尽

昨晩も根津のダイニングバーで飲んで食べて語り合って、
二軒目で噂話とカラオケという蕩尽.




 

2023年6月17日土曜日

「無知学」及び「亜宗教」

 東京新聞において、筆者の興味を惹く書籍関連の記事があった。お読みになった方も多数おられるとは思うが、筆者のメモとして2つの記事を留めておく。なお、筆者は紹介のあった2書については未読だ。

(1)「無知学/アグノトロジー」(『現代思想』6月号特集)

 同書をとりあげたコラム「大波小波」(2023/6/17夕刊)の著者(魯)は、フーコーの〝人間の知的探求は自由なように見えて、時代ごとに見えない制約のもとにある″という指摘及び〝西洋のアジア・アフリカ研究にはかならず植民地的収奪が後ろに控えている″というサイードのそれを引用しつつ、アグノトロジーを〝自由であるはずの人間の認識が、いかに権力によって歪められ、不均衡を強いられているかを分析する新しい学問である″と定義する。そして併せて、人間が知りたくもない知識や情報を知ることを、暗黙の裡に強要されているという事実を忘れてはならないとする。

 魯のアグノトロジーの定義については概ね同意するものの、人間の認識が権力によって歪められ、不均衡を強いられる、という表現には納得がいかない。フーコーが「見えない制約」と表現したのは、権力が上からばかりではなく下からも横からも、いわば網の目のように人間を制約していることをくり返し説いているところからすれば、誤解をうむ。「反権力」を標榜した、それこそ「自由」のもとで展開されたはずの認識が歪められたものである事例にこと欠かない。権力側及び反権力側から流布された認識をいま一度、カッコにいれてみる以外に認識の強要から逃れる術はないのではないか。 
 
(2)『亜宗教 オカルト、スピリチュアル、疑似科学から陰謀論まで』(中村圭志著) 

 石堂藍による書評(2023/6/17朝刊)だ。石堂によると、「亜宗教」というのは著者(中村圭志)の造語だそうで、同書に取り上げられているのは、①19世紀末の心霊主義ブーム、②明治期の千里眼騒動、③ファンダメンタリズム(原理主義)、④UFO 信仰とニューエイジなどだという。つまりオカルトだ。この分野においては、宗教学者の大田俊寛によるいくつかの解説書がすでに刊行されているし、『現代社会のカルト運動』(S. フォン・シュヌーアバイン著)という名著もあるので、筆者は同書を読むつもりはない。 

 それでも石堂の書評をここに取り上げたのは、「人間は奇妙な信念を抱きやすいものであり、陥穽はどこにでもある〔後略〕。信じやすい人に対しては、その虚妄を語り、冷静に批判するような人には、彼らもまた別の信念体系に囚われているということを気付かせる」という文末からだ。 

 

(3)概念の脱構築 

 

 秩序からの逸脱、または、逸脱からの秩序のどちらにせよ、《二項対立のプラス/マイナスは、あらかじめ絶対的なものとして決まっているわけではなく、ひじょうに厄介な線引きの問題を伴うのです。その線引きの揺らぎに注目していくのが脱構築の思考である〔後略〕》(『現代思想入門』千葉雅也〔著〕P28) を筆者の心構えとする。 

2023年6月10日土曜日

 旧友S氏と谷根千を漂流

明るいうちから居酒屋「慶」で飲んで、

「スナック・ジャンボ」でカラオケ。



2023年6月9日金曜日

Player`s Bar R

 Player`s Bar R(千駄木のモダンジャッズ・バー)を訪問。

オープン・マイクの演奏もあるらしい。

真空管アンプに大きなスピーカー、モダンジャッズ・ファンには素敵な空間。






2023年6月1日木曜日

4年ぶりに海外旅行

 5月17日から26日まで、ポルトガル北部ミーニョ地方、スペインのガリシア州を観光してきました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラを20年ぶりに訪れました。

羽田からイスタンブール経由でポルト(ポルトガル)へ。

宿泊先はポルトガルではポサーダ、スペインではパラドールと呼ばれる、古い貴族の屋敷や修道院をホテルに改装したところに7泊(機中に2泊)の9泊10日。

歴史的建造物に泊まれるので、贅沢気分が味わえる。最初のポサーダは隣が古い教会で、ホテルの共用部分の装飾には美しいアズレージョが用いられている。

羽田国際空港(5/17)


ポルトガルの古都ギマランイス市内


宿泊ホテルの「ポサーダ・モステロ・デ・ギマランイス」(5/18-19)

同上


バー


2023年5月16日火曜日

植物学の父

 谷中霊園には

日本の植物学の父といわれる

牧野富太郎の墓がある。


案内の石柱

同上

2023年4月24日月曜日

ツツジも終わりか

 田端の線路わきに群生するツツジ。

写真に収めるのが難しい。





2023年4月19日水曜日

昼呑みからの

 高校時代の友人と小規模同窓会。

わけあってなんと昼過ぎから開店している居酒屋にて。

その後、中華で二次会、三次会はカラオケ。




二色(谷中)

 どちらも満開


2023年4月16日日曜日

谷根千を漂流

 夕方ショッピングをしたあと、根津のモダンジャズバー「La Cuji」で一休み。

友人と千駄木のスナック「黄色いトマト」で落ち合って、深夜までカラオケ。

La Cuji

La Cuji

La Cuji

スナック「黄色いトマト」


2023年4月15日土曜日

ニコの治療終了

白猫のニコがきょう、傷口の抜糸をし、

明後日、保護ベストを脱がせて治療を終了する。

大事に至らずひとまず安心である。


2023年4月14日金曜日

『反原発異論』


●吉本隆明〔著〕 ●論創社 ●1800円+税

 世界的音楽家、坂本龍一が本年(2023)3月28日に亡くなった。享年71才、早すぎる。その坂本は音楽活動と並行して、環境問題、反原発運動に取り組んできたことで知られる。彼がどのような活動を具体的に行ってきたかについてはここでは論じないが、多くの共感者、賛同者を集めてきたことは確認できる。
 一方、反原発運動(原発廃絶論)に猛然と異議を唱えた思想家、吉本隆明は 2012年3月16日、享年87才で亡くなった。そしてこの3月は、福島原発事故発生(2011.3.11)から、12年が経過した月でもある。そこであらためて、吉本の異論を検証しつつ、原発問題について考えてみることにした。

吉本隆明による原発に係る3つの論点


 反原発運動(原発廃絶論)に異議を唱えた吉本隆明の発言を顕著に表すインタビュー記事がこれである。
記者: 事故によって原発廃絶論が出ているが。
吉本: 原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。ですから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。(『日本経済新聞』「8.15からの眼差し」2011.8.5/『反原発異論』論創社P114。以下「本書」という。)
 吉本の発言の核心は3つある。その第一は、《今回のように(原発の)危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外》、つまり日本政府が行ってきた原発推進政策こそ論外だということ。補足すれば、日本政府が行ってきた原発推進政策は利権であったことを滲ませているように思える。
 では吉本隆明にとって「論内」なのはなにかといえば、《原発事故を克服する道はお金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法がない》という点が二つ目、そして、《科学を後戻りさせるという選択はあり得ない》というのが三点目だと筆者は解釈する。
 吉本のいう「原発」とは人類が到達した科学技術の進歩のひとつの事例である。人類は科学技術の高度化によってここまできた。それを止めてしまえば「サルになる」とも彼は発言している。そこまでいかなくても、中世に戻ることはまちがいない。中世ヨーロッパでは、生まれてきた子供の半数が死亡し、そのまた半分が12才になるまでに死亡したと言われる。まさに暗黒の中世である。それを克服したのが科学技術の高度化である。もちろんそれは平坦な道ではなかった。失敗や思い違いによる犠牲を伴ったのである。そして、人類をここまで引き上げたのがエネルギー革命であった。  
 できの悪い文系の筆者に科学史を論じる資格はないが、原発による電力の生成がエネルギー革命の到達点であるかどうかを別として、有効なエネルギー生成のひとつの選択肢としていまあることは否定できない。発電には、化石燃料(石炭・石油・天然ガス)、再生可能エネルギー(太陽光、水力、風力、地熱等)の利用があるという。原発はウランに依存する。化石燃料、ウランを源とする発電はそれら地下資源が枯渇した時点で無力になる。また一方、それらに依存しない電力を再生可能エネルギーで賄おうとすれば、現状の発電量確保に切り替えるに足るために、それらの装置を建設・維持する電力を必要とする。再生可能エネルギーに全面的に依拠するためには、それを製造するに必要十分な発電装置切り替えのための電力がいま必要なのである。しかもそのような装置の完成による発電が未来の電力需要を賄いきれるかどうかについては、必ずしも約束された未来ではない。かりに原子力、化石燃料に依存しない発電装置が機能しなくなれば(それが数十年後なのか数百年後なのか千年後なのかはわからないが)、そこで電気に変わるエネルギーを見出せないとするならば、人類は中世に戻るか、映画『マッドマックス』が描いたデストピアに到達する。

核廃棄物の最終処理方法は、それを打ち上げて宇宙代謝する以外にない


 吉本隆明の〝異論″のなかでも、次の言説が注目に値する。この言説の前半では前出の引用と同趣旨のことをくり返しつつ、中頃で核廃棄物の最終処理について触れているからである。
 原子力発電は危険なことだから発電は勿論、原子力研究も一切やめようという考えがあります。しかし物質の究極構造を究めていくという人間の知恵の歴史に照らしても、科学の必然、資源の必然からみても、それは無意味です。理論的に可能な限りの危険防止装置を何重もつくれば、やってもいい。でもそれが確認できない時はやるべきではないという世界通念を成立させることが重要です。技術が進歩すれば、核分裂や、さらに核融合のエネルギーを利用するのは不可避なことです。それを前提としない「反原発」には意味がない。では核廃棄物をどうするか。核廃棄物が最終生成物で、地下に埋めようが海に棄てようが溜まる一方で、我々が放射能に囲まれて窒息してしまうようなイメージを与えるのは非科学的です。これは宇宙における物質代謝を考えればすぐにわかることです。人工衛星を打ち上げるのと同じように、核廃棄物を打ち上げて宇宙代謝する。宇宙空間で処理できない物質代謝はないんです。科学的には可能です。やるかやらないかは別の問題です。人間の知恵、政治、社会、経済の体制の問題です。
 ただ、安全性に対する危惧はどういう状態でも起こる。しかし人間の知恵の歴史の必然からいって、可能なかぎり危険を防止しながら原子力研究を進めるのは正当なことです。
 現在、宇宙科学、素粒子論など人間の知の発達に比べ、経済社会体制の発達は遅れていて、両者はアンバランスです。これは今の文化・文明の根本問題です。原発が安全性の合意のないままに、技術のみが先行してつくられているという現状も、ほんとうの原因はここにあります。人間の歴史は大変なところにきているのかもしれません。しかしこれは次の段階への始まりなのです。(「原子力エネルギー利用は不可避『婦人画報』1986.8月号/本書P179~180)
 吉本はここで原子力廃棄物を地下深く格納するという(オンカロ〔注〕)方式に触れつつ、宇宙代謝による最終処分を提言している。筆者は吉本この提言について論ずる科学的知見をもっていないので論評を控える。
〔注〕オンカロ:オンカロとは、フィンランドのオルキルオト原子力発電所が併設した、原発から出る放射性廃棄物を地下深くで保管する最終処分場のある地名。このようすが記録映画化され、筆者も観たことがある。小泉元首相がオンカロを見学し日本に紹介したことで日本でも、この方式が広く知られるようになった。
 さて、核廃棄物最終処分については、プルサーマル方式の原子炉の有効性が論じられたことがあった。同方式の再処理は使用済み核燃料からウランを回収することを意味し、従来の方式に比べ高レベル放射性廃棄物の量が大幅に減る。リサイクルされる低濃縮ウランとプルトニウムと貴金属の分だけ高レベル廃棄物が減少する。ガラス固化体の取り扱いは大変(20年間常時監視、その後深地層処分が必要)だが、使用済み核燃料を丸ごと廃棄する場合に比べると、処分場の規模を1/2から1/3程に抑えることができるという利点が強調された。しかしながら、この方式は高額な費用をかけて実証実験を続けたが効果が認められず、実用化を断念したようだ。
 プルサーマル方式は失敗したが、核廃棄物最終処理の方向性を探るという観点からすれば、このような研究はいくらあってもいい。原発廃絶をするにしても、長期計画に基づき、さまざまな課題をクリアしなければならないはずだ。原子力研究の道が閉ざされれば、核廃棄物最終処理を含めた科学技術の向上の道が閉ざされる。そのようなことは、あってはならない。

恐怖をレバレッジにした反原発派の政治性


 本書の冒頭、「熱烈なる吉本主義者」を自任する副島隆彦は、原発の危険性(の少なさ)についての次のように書き、吉本隆明を絶賛している。
 この3年9カ月間、多くの人と今度の原発事故の事実関係について言い合ってきた。私は苦が虫を嚙みつぶした思いでずっと生きてきた。福島の現地に行きもせず、遠くの方からよくもこの「リベラル・左翼大衆ども」は、ニューズ映像を見ただけで自分の脳に突き刺さった恐怖感と、雑多な情報・知識に捕われて(即ち洗脳、ブレイン・ウオッシングされて)よくもこれほどの巨大な迷妄の大騒ぎをしてくれたものだ。私の怒りは今も怒張天を突くほど深い。〔後略〕
 吉本隆明は、事故のあとの5月27日の毎日新聞のインタビュー記事で次のように答えている。
 「・・・ひどい事故で、もう核エネルギーはダメだという考えは広がるかもしれない。専門ではない人が怒るのもごもっともだが・・・動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。〔後略〕」
 この吉本隆明の発言は正しい。絶対的に正しい。かつ優れている。〔後略〕(「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」本書P4~5)
 さすが。熱烈な吉本主義者の評価とはこのようなものなのかと感心するばかりであるが、副島の言説の中でけして無視できないキーワードがある。それは〝恐怖感″である。人類は、恐怖感(心)をレバレッジとした政治的結集や政治的煽動に励むという失敗を積み重ねてきた。
 19世紀の幕末日本、欧米人という未知との遭遇の恐怖から尊王攘夷思想が蔓延し、それが倒幕運動のエネルギーのひとつとなり、維新(革命)後、神国・排外主義思想として社会に定着し、それが軍国主義と融合してアジア太平洋戦争そして敗戦に至った。
 20世紀、ワイマール共和国下のドイツ、自由主義・社民主義の政権に反旗を翻したナチスは、ユダヤ人、共産主義者に対する恐怖心をレバレッジとしてワイマール共和国を打倒し、ユダヤ人に対するジェノサイド、WWllを引き起こした。
 21世紀の日本人が原子力に対して恐怖を感じることはいたしかたない。先の大戦で日本人は、米国から核攻撃を二度受け、広島では一次被害で14万人、長崎では同じく7万人強の非戦闘員(市民)が虐殺された。このたびの福島原発事故では、日本政府による安全神話という洗脳にもかかわらずの事故である。恐怖を感じないわけがない。しかしながら、その恐怖心を利用して、科学技術の高度化にストップをかけるような政治的煽動は正しいことではない。悪いのは日本国の原発政策なのであって、原子力という科学技術ではない。
 そのことに関して、吉本隆明は聞き手の野中ツトムの質問に呼応して、わかりやすい発言を繰り返している。
――先生(吉本隆明のこと)は著書『情況へ』の中で、「放射能の怖さを過剰に騒ぎ立てて脅迫する奴らを俺は許さない」と仰っています。一方、原発推進派の「原発がなければ経済がダメになる」というのも同様の脅迫に当たるというお考えなのだと思うのですがいかがでしょう。
吉本 そうです。両者に共通するのは、一番強力な武器である脅迫を使っている点です。一方は、「そんなに長く放射能にあたっていたら死ぬぞ」という脅迫、片方は「原発がなければ経済がダメになり生活が成り立たなくなるぞ」という脅迫です。ただ私は前者の脅迫がより問題だと思います。確かに、放射能をある期間以上浴びると、内臓、特に肺と消化器官がやられるんです。これは事実です。しかし、酷い状態の放射能に一度当たったらすぐにダメになる、死に至る病にかかる、という考え方は嘘だということはいえます。だからといって私は放射能が安全だとは言いません。(「吉本隆明 「反原発」異論」/『撃論』3号/オークラ出版/2011年11月/本書P129~130)
 脅迫の裏返しが恐怖(心)であることは、言うまでもない。

リスク評価について


 前掲のインタビューの中で、聞き手(野中ツトム)は吉本に対して以下の質問をしている。
ーー今回確かに原発の事故が起きました。しかし、技術畑の人間なら、事故が起きれば、今後原因が究明されて、より安全なものができていくと考えます。そういった理屈でいえば、原発事故も飛行機事故も同じではないでしょうか。
吉本 飛行機の事故が起こるたびに改善して、それで技術が進歩していく。原発の事故もそれと同列の問題だ。
〔中略〕
――『情況へ』では、「自動車事故で年に何千人も死ぬだろう、だけど原発でそれだけの人が死ぬのか」とも書かれています。
吉本 ロジックとしては間違っていないと思います。ただし、それより難しいのは、車はその気になればなくすことは可能かもしれないが、原発はそうはいかないという点です。つまり、車なんかは大して重要じゃないから、それで何か害があるとしたら売り飛ばして酒でも飲んだほうがいいよ、といった冗談がいえると思いますけど、原発問題の場合は、そう簡単にはいきません。なぜなら原発一つを廃棄するにも莫大な予算と労力が必要になるからです。廃棄する時間や場所、廃棄後の安全性、検査などそれらをみんな考慮していったら、それだけで神経衰弱になってしまいます。一度発明した技術を捨て去ることは難しいことなんです。(前掲書/本書P130)
 原発事故と自動車事故の死者数の比較としては、2023年時点では後者が前者を圧倒的に上回っている。しかし、日本にある原発が一斉に事故を起こしたとしたら、逆転する可能性はなくはない。さはさりながら、人類はリスクを飲み込んでここまできた。たとえば、飛行機がそうである。飛行機の発明から今日まで、航空事故による死者数(戦争における空中戦による死者数を除く)がどのくらいの数に上るかわからない。しかしわれわれは躊躇なく飛行機を使用する。たとえば、日本国内で東京から沖縄まで、飛行機を利用することを厭わない。飛行機の安全性はゼロではない。いわんや、飛行機は戦争機械として利用される。前出の広島・長崎に原爆を運び投下したのは飛行機である。世界の紛争地帯における米軍の軍用機による空爆等により、多くの市民が犠牲になる。だが、飛行機廃絶の声は上がらない。人類にとって、そのリスクよりも効用のほうが上回っていることを了解しているからである。人類は飛行機事故のリスクを飲み込んで、事故ゼロに努力しつつ、いまここにいる。飛行機を廃止して自然エネルギーを利用するならば、人類は大帆船時代に戻るのである。

日本の今後の原子力行政とレーニン『国家と革命』


 吉本隆明は前掲のインタビューの最終部分で、日本の原子力行政はどこに向かうべきかを問われて、次のように回答している。
 新たな規制官庁をつくったり、東電と政府の関係性を変えたところで、何かが変わるとは思えません。唐突に聞こえるかもしれませんが、僕は国家と組織の問題を考える場合、レーニンの考え方が唯一正しいと思います。レーニンは『国家と革命』のなかで、おおよそヨーロッパにおける革命が完成したなら、すぐに日常性にまで及ぶあらゆる制約や組織を解除してしまうべきだと言っています。つまり国家が消滅し、国家が管理運営してきた事業を民衆に委ねることです。〔中略〕こうした考えは、原爆、水爆にかかわるあらゆる国家の行政においても正しいと思うのです。つまり、日本の左翼は反対するかもしれませんが、今現在の放射能問題を下敷きにして考えてみればいい。もしも将来、放射能に対するきちんとした防御装置が作られ、また放射能物質を空高く排出する装置も完備されたなら、最終的には東電や政府といった国家の機構を解体して、民衆の手に委ねていく。これが重要なんです。必要なのは目的であって、組織はそのための手段でしかない。組織があれば何かが変わると考える時点で、もう思考停止に陥っているのです。(前掲書/本書P132)
 本書冒頭の副島が掲げた「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」ここにあり。吉本の面目躍如というほかない。〔完〕

2023年4月9日日曜日

つつじまつり(根津神社)

根津神社「つつじまつり」は大盛況






 

藤の花(谷中・加納院)

 鉢でも咲いている。



2023年4月7日金曜日

猫が、たいへんなことに!

 飼い猫のNicoが突然、出血。

びっくり仰天。

獣医さんの診断では腫瘍の爆発だということです。

全身麻酔手術(縫合)、そのた薬剤投与、点滴のすえ回復しましたが、

保護ベスト着用でのご帰還です。




2023年4月4日火曜日

まだまだ桜(上野公園内)

 寛永寺にて八重桜を鑑賞。



寛永寺

寛永寺

寛永寺

小泉八雲記念碑(国際子ども図書館)

憧憬の地、ブルターニュ

 「憧憬の地、ブルターニュ」展(国立西洋美術館)に行ってきた。

20年余り前、筆者はパリから西へ、ノルマンディーを経てブルターニュ地方を観光した。

19世紀末、同地方のポンタヴァンという小村にゴーギャン、ベルナールらの画家たちが、パリから移り住み、同地の民俗・自然、人々の暮らし、宗教などを描いた。やがて彼らはパリ画壇から、「ポンタヴァン派」と呼ばれるようになった。

ブルターニュは紀元5~6世紀、イギリスからケルト系のブルトン人が移り住んだところ。そのため、フランスとは異なる風土が形成されていて、「フランスの異郷」と呼ばれる。