みてきた。1970年代、三菱重工ビルなどを爆弾で襲撃した東アジア反日武装戦線の活動家を追ったドキュメンタリーである。監督はキム・ミレ。彼らは何を思い、なぜ無差別殺傷を実行したのか。逮捕、裁判、入獄。そして、入獄後に訪れた数奇な運命。彼らはいま、なにを思うのか。
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シアター・イメージフォーラム |
東京五輪・パラリンピックの開閉会式を巡り、企画、演出の統括役を担うクリエーティブディレクターの佐々木宏がタレントの渡辺直美の容姿を侮辱する演出を提案したという事件が明るみに出た。
この事件には、2つの問題がある。第一は、佐々木が最低な奴だということ。第二は、佐々木を擁護するコメンテーターがいたこと。彼らの論旨は佐々木の書き込みがLINEというメディアの「LINEグループ」上で起きたことだから、深刻に問題視する必要はない、というものだ。
佐々木は非常識・無教養・無能力につき辞任は当然
第一の問題点から筆者の見解を述べる。報道によると、佐々木はOlympic(オリンピック)とPig(豚)を掛けた駄洒落を考え付き、そのうえで、Pigのキャラクターとしてプラスサイズタレントの渡辺直美に豚の格好をさせるという「演出」のアイデアを投稿したらしい。このアイデアはスタッフの反対にあって佐々木はそれをひっこめたという。
佐々木のアイデアは英語に係るものなので、はたして、英語圏の人がどう受け止めるかが問われる。そこで、長年、英語で報道の仕事を続けている知人のA氏の見解を聞いてみた。A氏によると、①女性を公然とピッグ呼ばわりするのは最低の発言であること、②ピッグは、警官や売春婦などを意味する隠語でもあること、③豚を可愛らしいイメージ(例えば「こぶたちゃん」というような感じ)で表現するなら、せめてporkyとかpiggyでなければならないこと。④日本的駄洒落をオリンピックの公式開会式に使うのは論外であること、⑤英語の発音では、語尾が曖昧になるから、Olympic とOlympigは英語圏の人でも聞き分けられないこと――つまりオリンピックという国際イベントではまったく通用しないどころか、非難を浴びる可能性もあった。佐々木が、アイデアの段階とはいえ、差別主義者でかくも国際感覚がない無教養な人間であることが明るみに出たわけで、能力的にみて辞任は当然だと筆者は考える。
「LINEグループ」が私的、内輪とは限らない
佐々木擁護の非論理性を指摘する。佐々木擁護派の論旨は、前出のとおりであり、そのなかには、佐々木の投稿が表に出たのは、反オリンピック派のリークによると断言した者もいた。本当にそうなのだろうか。佐々木の差別発言は極めて身近なLINEというソーシャルメディアを使ったものだが、明らかに業務に係る投稿だ。推測だが、この状況は、企画を立てるときに関係者が自由にアイデアを出し合うブレーン・ストーミングの最中だろう。LINE は確かに小学生から高齢者までが気軽で身近なチャットで使われることが多いメディアだが、事業者、従業者、公務員、政治家までが仕事で使えるメディアであり、現にそのような場面で利用されている。佐々木の投稿も明らかに業務としてLINEが使用された事例だ。
LINE及び「LINEグループ」を「私的メディア」「内輪のメディア」と限定して考えるのは、佐々木擁護派の思い込みに過ぎない。佐々木の投稿がZoom 等のウエブ会議メディアで起きたらどうなのか。佐々木のLINEの投稿が映像と音声に置き換わっただけなのだが、その場合は深刻に問題視するのか。その場合でも、反オリンピック派のリークだと断言するのか。業務は私的な、例えば、居酒屋のカウンターで交わされるような与太話ではないし、たとえ泥酔中の与太話であっても、差別は許されるはずがない。ブレーン・ストーミング中(という業務)の自由なアイデアの披露の場であっても、人間の容姿をブタという差別的意味をもつ動物に譬える投稿・発言は糾弾されて当然なのだ。
東京大会を中止せよ、という神の声
筆者はオリンピックそのものに反対だから、コロナ禍であろうとなかろうと、今夏の東京開催に反対だ。低予算で開催すると宣言して招致したはずなのに、総事業費は天井知らず。そこにコロナ禍が世界中を襲った。東京の感染状況は、欧米等に比べればそれほどではないのかもしれないが、東アジア、太平洋地域で比較すると、感染者数、死者数ともにかなり多い。東京の感染対策は非科学的で自粛頼みのお寒いものだ。そんな状況で海外から変異株に感染した無症状感染者が押し寄せたらどうなるのか。東京がそれこそ、新型コロナの変異株オリンピック大会になってしまうことは、専門家でなくても予見できる。今回、佐々木の差別投稿事件は、〝東京大会を中止せよ″という神の声だと受け止めるべきである。
読売を優勝候補に挙げることは、「アンチ巨人」の筆者にとって心苦しいが、他の5球団にやる気がないので仕方がない。2021セリーグのペナントレース及びクライマックスシリーズは読売がパリーグの覇者と日本シリーズで戦うまでの調整過程といって過言ではない。関心は、読売がパの覇者に勝てるかどうかである。
順位
1.読売、2.阪神、3.DeNa、4.中日、5.広島、6.ヤクルト
昨シーズン実績とどこが違うのかとお思いの方も多いと思うが、3、4位を入れ替えれば昨年と同じ。つまり、セリーグの読売以外の5球団が戦力の見直し、向上する意欲をみせないので、どうしようもない。戦力が偏りすぎてしまっていて、下剋上のない、おもしろみのない、刺激のないリーグに成り下がっている。セリーグを解体し、1リーグ制にしてほしい。
そのような状況における順位予想である。1位読売、2位阪神、最下位ヤクルトは固い。敢えて予測困難な要素を探し出せば、CS出場がかかる3位争いが流動的。中日かDeNaかの判断に迷った。広島は戦力が整うまでもう少し時間を要する。
阪神ガンバレ
2位が固いと予想される阪神はもったいない球団である。投手陣については、NPBでナンバーワンクラスの人材をそろえている。先発候補として、西(勇)、チェン、アルカンタラ(韓国リーグ)、藤浪、高橋遥、ガンケル、秋山、岩田、中田、及川らが挙げられ、いかにも駒が豊富。セットアッパーには岩崎、エドワード(MLB)、岩貞らが決まっており、先発候補の何人かがリリーフにまわる。クローザーには、不動のロベルト・スワレスがすわる可能性が高いが、藤浪がまわる可能性もある。こうしてみると、投手陣は読売をしのぐ。
問題は守備力と攻撃力だ。内野のエラー数をどれだけ減らせるか。近本の打撃が弱肩を帳消しにするくらいチームに貢献できるか。僅差の試合、浅い外野フライで本塁生還を許すシーンが続くようだと苦しい。
打撃面の好材料は、スーパー新人、佐藤の加入。オープン戦の活躍は申し分ない。しかし、多くの評論家諸氏が指摘する通り、内角攻め、落ちる球の見極めが本番でできるのかどうか。新人・佐藤には期待と不安が入り混じっている。
昨シーズン大砲として実績を残した大山に、さらなる成長が期待できるのか。2020シーズン、大山は数字的に大きな実績を残したが、筆者の記憶には雄姿としての残像がない。なぜならば、阪神は読売に大差の負け越しを屈していて(8勝16敗)、その主因が大山の対読売戦の沈黙にあるからだ。大山の通算成績は、打率.288、本塁打28、打点85なのだが、読売戦では打率.274、本塁打5、打点10。大山は最下位ヤクルト戦の成績がもっとも悪く、読売戦はそれに次ぐ。ちなみに、最もよい成績を残したのが対DeNa戦で、打率.398、本塁打5、打点22。打点が対読売戦の倍以上もある。なお、阪神の対ヤクルト戦の成績は、13勝10敗1引分、読売は対ヤクルトに15勝6敗3引分と圧倒的強さをみせている。
阪神が読売に勝てないのは大山一人の責任ではないけれど、優勝するためには、上のチームを叩くことが大事であることはもちろんだし、弱いチームから勝星を稼ぐことも大事。大山がチームの顔としてファンに強烈な印象を与えるためには、さらなる努力が必要ということだ。
阪神が優勝できないのは、「バース再来の夢」を外国人に求め続けることだ、と拙Blogで何度か書いた。今年はどうなのか。サンズ、マルテが残留して、韓国リーグからメル・ロハス・ジュニア外野手(身長189 ㎝、体重102㎏)が入団した。ロハスが来日していないのでなんとも言えないが、昨年、韓国リーグで47本塁打を打っているというから、長打力はまちがいない。
阪神の最大の問題点は監督。今年も迷采配が続けば、2位転落もあり得る。奇策やめてデータ重視、セオリー重視に徹してほしい。とりわけ盗塁失敗を極力減らすこと。盗塁失敗は流れを変えてしまう。クリーンアップにまわったところで盗塁を失敗すると、主力打者のやる気をそぐばかりか、プライドを傷つけることになる。焦ってリスクを負って1点をとりにいくよりも、どっしりと構えて、2点、3点を狙ってほしい。
パシフィックリーグ
実力のパリーグに、MLBから田中が戻ってきた。楽天の戦力アップは疑いようがない。ソフトバンクは相変わらず強そうだし、ロッテもしぶとい、西武は山川が健在。パリーグは、Aクラスにソフトバンク、楽天、ロッテ、西武の4球団がひしめき、Bクラスがなくて、Cクラスにオリックスと日本ハムが残る。1~4位はまったく予想がつかないが・・・
順位
1. ソフトバンク、2.楽天、3.ロッテ、4.西武、5.オリックス、6.日本ハム
実力拮抗の4球団、どこが優勝してもおかしくない。この順位は投手力が根拠である。
●S.ベラー〔著〕 ●刀水書房 ●4700円+税
筆者がウィーン(のユダヤ人ではなく)という都市に惹かれたきっかけは、2019年、世界がコロナ禍に見舞われる前、観光旅行で5日間滞在したことからだった。小規模かつ公共交通網が整備されていて移動が楽、耽美的バロック建築と分離派の前衛建築等が混在し、かつ、これでもかというくらいの美術品を満載した豪華な美術館が林立するウィーンは、極東アジアの旅行者を魅了するに十分だった。ハプスブルク帝国の底力を見せつけられたような気がしたものだ。
〝世紀末″という妖しくも魅力的な表現
分離派という言葉から世紀末芸術という概念が導き出され、さらに、文学、心理学、医学、自然科学、経済学、音楽、哲学・・・における新しい潮流がウィーンから始まったことを知る。現代はこの街から始まったともいえる。そして、その牽引役の多くがユダヤ人もしくはユダヤ系の人々なのであった(※ユダヤ人をルーツにもつ者、及び、ユダヤ教からキリスト教等に改宗した者をも含め、本書にならい以降、「ユダヤ人」と表記する)。
筆者がとても不思議に感じたことがあった。グスタフ・クリムトに代表される美術界とオットー・ヴァーグナーに代表される建築界――どちらもが分離派の重要領域にもかかわらず――ユダヤ系アーチストがほとんどいないという事実だ。心理学のジークムント・フロイト、哲学のエトムント・フッサール、文学のフーゴ・フォン・ホーフマンスタール、音楽のアルノルト・シェーンベルクといった誰もが知る偉人たちが世紀末ウィーンを舞台に才能を発揮したのにもかかわらず、なぜ、視覚芸術において、ユダヤ人は活躍しなかったのか。このような素朴な疑問が、筆者の本書を読む契機となった。なお、このことの回答は後述する。
定量的(第一部)と定性的(第二部)アプローチ
本書の構成は、世紀末ウィーンにおいてユダヤ人が文化の中心を担ったという事実を、さまざまなデータを駆使して定量的に証明する第一部と、ユダヤ文化人の生い立ち、作品、さらにユダヤ教の特性及び教義的変容などの背景を探りつつ、定性的に世紀末ウィーンの文化が主にユダヤ人によって担われたという結論を導き出す第二部で構成されている。また、前出のとおり、分離派に代表される視覚芸術においてユダヤ人が活躍した事実は概ね認められないし、ウィーン学派と呼ばれる経済学の分野でもユダヤ人学者は見当たらないわけであり、世紀末ウィーンすべての文化活動がユダヤ人のみによって担われたという結論ではない。
ハプスブルク帝国のユダヤ人の暮らしぶり
世紀末ウィーンの文化を担ったユダヤ人はウィーンを出自とした者がいないわけではないが、多くはハプスブルク帝国内の各所から移住してきた者をルーツとするか、移り住んで活動した者であった。そのユダヤ人は、世紀末前、都市ではゲット(ゲットーともいう)、田舎ではシュテットルと呼ばれる居住地内に隔離されて暮らしていた。ユダヤ教徒は、毎朝、子供のころからタルムード(口伝律法)を強制的に読み込まされ、戒律に従う信仰中心の生活をしていた。また、彼らは職業をはじめとする諸々の差別を余儀なくされていたため、子供に高度な教育を受けさせることに躊躇いを示さなかった。
ユダヤ教の変容――敬虔主義から啓蒙主義へ
ヨーロッパに啓蒙主義が台頭する前のユダヤ人は、超正統派ユダヤ教運動であるハシディズム(敬虔主義)の強い影響下にあったため、ユダヤ人はキリスト教社会と厳しく一線を画していた。また、ハプスブルク帝国は反宗教改革の旗頭であり、カトリック教徒中心の社会が堅持されていたため、ユダヤ人差別はほかのヨーロッパの都市と同じように存在していた。
こうしたユダヤ人社会に変革を齎したのがハスカラ運動の台頭であった。この運動は17世紀末から18世紀にヨーロッパで台頭した啓蒙主義に呼応したもの。マスキリームと呼ばれるハスカラ運動の指導者たちは啓蒙主義と共闘して新しい自然科学を学ぶことを若いユダヤ教徒に奨励した。その背後には、ハスカラの思想は、ユダヤ教の本質は「神の啓示により人間に与えられた法」すなわち理性にもとづく自然科学的宗教意識(神=合理的なロゴス)とするものであるという認識があったことによる。ユダヤ人は自分たちのみが啓蒙の思想の担い手だと気づくこととなった。ユダヤ教の律法を普遍主義の精神にもとづいた理性の法だと考えた。ハスカラの延長線上には、人類の未来は啓蒙思想の勝利ではなく、ユダヤ教精神の勝利にかかっているという認識を生むようにもなった。このようなユダヤ教の変容が、ハプスブルク帝国内、とりわけ、その首都であるウィーンのユダヤ人に、新しい伝統として形成されるようになっていった。
ユダヤ人の理想はドイツ啓蒙主義だった
その当時のハプスブルク帝国内ユダヤ人の理想は、ドイツの啓蒙思想であった。彼らは積極的にドイツ語とドイツ文化を摂取し、シラー、ベートーベン、カント、ゲーテ、レッシングを手本としつつ、正義、自由主義、進歩を理想とし、個人の自由、意思の自律性、定言的命法を尊重した。彼らは国際的視野に立ち、民族よりも個人の人格が優先すると信じた。また、彼らのなかには、同化を目的として改宗を試みる際、カトリック国家であるハプスブルク帝国にありながら、ユダヤ教から、北ドイツで盛んなプロテスタントに改宗する者も少なくなかった。そしてもうひとつ特記すべきは、ハプスブルク帝国ヨーゼフ二世(在位1765-1790)が採用した、ユダヤ人寛容政策である。彼は啓蒙思想の影響を受けながら、絶対主義の君主でもあろうとした啓蒙専制君主の代表的人物といわれている。
ユダヤ人がウィーン文化の担い手になり得た要因は、①ユダヤ教徒の家庭では、幼い子供のころから難解なタルムードを精読する習慣が義務づけられていたこと、②ユダヤ人が迫害、職業差別といった境遇を経験する中で、子供の教育を重視せざるを得なかったこと、③ユダヤ教がハシディズム(敬虔主義)からハスカラ運動により、啓蒙主義(とりわけドイツ啓蒙思想)へと接近したこと、④啓蒙絶対君主、ヨーゼフ二世がユダヤ人寛容政策をとったこと――にまとめられる。なお、冒頭、ウィーンのユダヤ人が視覚芸術で才能を発揮しなかったのは、ユダヤ教が偶像崇拝を厳しく禁ずる宗教であるところから、数理的・科学的分野への進路のほうが選択しやすかった可能性を推測できる。
啓蒙主義の後退と感覚重視の哲学の台頭
本書では、ウィーンのユダヤ人が辿った悲劇的運命にもふれている。前出の通り、彼らはドイツ啓蒙思想を理想としてそれを学び、個人、自由を尊重する社会の実現を、そして、ウィーンのユダヤ人はドイツ人に同化することを夢見た。ところが、ドイツ、オーストリアというドイツ語圏で起こったドイツ革命(1848年)は西のプロイセン、東のハプスブルク(ウィーン)の両帝国で失敗に終わり、併せて大ドイツ主義(ドイツ、オーストリア統一/アンシュルス)も失敗に終わる。政治の季節の終焉だ。1873年、ウィーンの株式市場が崩壊すると、ウィーンには、虚無と自由主義への失望感が覆うようになる。思想界では反合理主義が支持され、総合的知性、全体性、感覚重視を重んずる、民族(フォルツ)のイデオロギー(ニーチェの『悲劇の誕生』、ショーペンハウアーの意思の克服、ヴァーグナーの総合芸術)がもてはやされるようになる。民族・国民社会の統一が主たる潮流となって、ウィーンには、反ユダヤ主義が強く台頭し始める。オーストリアの反ユダヤ主義は、過激なものではなかったが、ハプスブルク帝国はカトリック国家としてのこの国の性格をどんな手段を用いてでも維持しようと望んでいたため、ユダヤ人は、上級官僚、軍隊、外交官などの職につくことができなかった。
オーストリアにおける反ユダヤ主義
1885年、オーストリアとヴァチカンが「コンコルダート(政教条約)」を締結する。「コンコルダート」とは、最初期には、聖職叙任の権利を教会と国家が争った叙任権闘争の解決策として結ばれたもので、皇帝は聖職叙任権を放棄し、教皇は司教の選出に皇帝が列席することを認めるという内容だった。その後、フランス革命(18世紀)を経て19世紀になり、近代国家が成立していく中、国家が教会の立場を認めるかわりに教会を国家の制限の下に置こうとする傾向の強いものとなった。国家が教会をコントロールすることが明確になったため、ユダヤ人はカトリック社会でより多くのマイナスを被るようになった。
オーストリアの政治に大きな影響を与えることになった最初の反ユダヤ主義運動は、ゲオルグ・リッター・フォン・シェーネラーと急進派学生グループに率いられたドイツ民族主義者のそれであった。この運動は、文化的反ユダヤ主義の潮流に端を発している。文化的反ユダヤ主義とはグラッテナウアーが理論化したもので、ユダヤ人を現実としてではなく、抽象的イメージとしてとらえるという特色がある。たとえば、ユダヤ人はドイツ人が嫌いで憎んでいたものすべてを代表しており「心理学的特質」としてのユダヤ性に重きが置かれていた。資本主義や合理主義は「ユダヤ的」とされ、演劇や思想書の中に戯画化されたユダヤ人が描かれ、それを非ユダヤ人が嘲笑する作品が人気を博した。
だが、この文化的反ユダヤ主義はドイツ民族主義学生同盟のような大きな影響力をもつ組織の内部で、しだいに人種主義的反ユダヤ主義にとってかわられるようになる。これら学生組織が反ユダヤ主義に転じたきっかけは、1875年におこなわれたテオドール・ビルロートの不運な演説だとされる。1877年には、「異民族に占領されつつある大学」を救うため、ユダヤ人メンバーを組織から除名するようになっていた。1881年に発表されたオイゲン・デューリングの『人種的、倫理的および文化的問題としての「ユダヤ人問題」』は、人種的反ユダヤ主義に理論的支柱を与えた。リンツ綱領(1885)を経て、1896年、悪名高い「ヴァイトホーフェン決議」が、すべてのユダヤ人は卑しい生まれであるから、ドイツ人と同等に扱われることはできないと宣言した。これにより、かつてドイツとの同化を夢見たユダヤ人はドイツ民族運動から完全に追放されるようになった。オーストリアにおける人種的反ユダヤ主義の台頭は、ユダヤ人の同化願望を打ち砕くとともに、その社会そのものを変質させ。破壊しつつあったことを明らかにしている。
キリスト教社会党の反ユダヤ主義(ウィーンの反ユダヤ主義)
ウィーンでは、人種的反ユダヤ主義はそれほど強い勢力とはならなかった。それはウィーン独特の反ユダヤ主義運動であるキリスト教社会主義が、大きな成功をおさめていたからだ。同党の成功の主因は、選挙民のあいだに充満していた社会的・経済的不公平感をユダヤ人にぶつけたことによる。同党の指導者、カール・ルエガーとその支持者たちは、反ユダヤ主義はウィーンにおけるさまざまな民族からなる市民がユダヤ人に対する反感で一致できると考えた。それはほかのどんな政治イデオロギーにもない利点があった。もともとのウィーン市民、「元チェコ人」「元ルテニア人」「元ポーランド人」「元ハンガリー人」のウィーン市民が反ユダヤ主義感情で一致できると。しかも同党は、かつての自由主義、民主派、ドイツ民族主義者、教権党、職人層のリーダーといった、異種分子の寄り合い所帯。反ユダヤ主義は、これら党内の多様な支持者を結び付けられる唯一の共通項であった。キリスト教社会党の選挙における勝利は、反ユダヤ主義によるものであったが、このような同党の基盤の曖昧さが、ウィーンの反ユダヤ主義をそれほど過激なものとはしなかったわけだ。しかし、同党の勝利により、社会における諸矛盾――経済的不平等、犯罪などを含め、自分たちの敵はすべてユダヤ人につながっていると選挙民に信じさせる結果となった。自由主義勢力に対して、「彼らはユダヤ人に奉仕する勢力だ」と攻撃を加え、自陣を有利に導くこともできた。こうした策略が自由主義を後退させ、社会を分断し、ますます自由主義者を孤立させていった。こうしたなか、同化の道を閉ざされたユダヤ人に、シオニズムと社会主義という、二つの希望が芽生えたことは注目すべきだろう。
ブルジョア政治の参加を拒否されたユダヤ人は、自分たちと同じようにアウトサイダーである労働者と同盟したのである。衰退した自由主義に代わって、社会主義の政治理論はユダヤ人に、自分たちが他の人々と同等に扱われることが可能になるという最後の希望を与えた。(P240)
ところが、ユダヤ人をみまった人類史的悲劇は20世紀、オーストリアの片田舎、ブラウナウから画家を目指してウィーンにやってきた男によって引き起こされる。
女性蔑視発言で東京オリ・パラ組織委員会会長を辞任した森喜朗。この人はいったいどんな人物なのか――総理大臣経験者の自民党の大物政治家という評価が一般的だが、それだけではない。文科官僚トップ(事務次官)を極めた前川喜平が『本音のコラム』(東京新聞2/7朝刊)において、森喜朗を端的に論評しているので紹介する。
森喜朗は正真正銘の右派政治家
前川は森のこれまでの危ない発言を列挙する――「日本は天皇を中心とした神の国」「教育勅語には時代を超えて普遍哲学がある」「子どもをつくらない女性を税金で面倒を見るのはおかしい」「国歌も歌えない選手は日本人ではない」などなど。これだけの妄言失言を繰り返してなお、国の要職にとどまっているのが不思議なのだが、選挙で勝てばすべてが許される日本の貧しい政治状況を反映する象徴的存在でもある。森の同類に、いまなお副総理の職にある麻生太郎がいる。
前川は森が清和会の領袖であり、自民党文教族のドンであった点を指摘する。安部・菅政権の文科大臣6人中5人が清和会、スポーツ庁長官も二代続けて森に近い人物だという。森がスポーツ利権最大のプロジェクト(生涯に二度はない)=東京オリンピック利権を貪ったことは容易に想像できる。
文科行政の面ではどうなのか。森は総理大臣時代(2000~2001)、教育改革国民会議を立ち上げ、教育基本法の改正と道徳の教科化を提言(2000年)し、第二次安倍政権がそれを実現させた。前川は、「日本の教育は森政権を境に右傾化した(略)。安倍政権は森政権の戦前回帰的な教育政策を忠実に継承した」と、また、森の信条は「神話的国体観念、滅私奉公、忠孝の道徳、家父長制秩序、男尊女卑だ」という。文科行政に半生携わってきた前川の指摘には説得力がある。
次期会長に必要とされる資質
森の差別発言辞任後、メディアは組織委員会長の後任人事報道で賑やかだ。候補者として五輪メダリストがあがっている。東京の組織委が合い渉らなければならない組織はIOCである。その幹部たち、バッハ、コーツは弁護士である。彼らはアスリート経験者ではあるが、いまや法律の専門知識を駆使した交渉ごとの専門家として、現職を全うしている。彼らの第一の目標は五輪精神遵守、世界平和実現ではなく、IOC(すなわち自分たち)及び五輪スポンサーの利益確保である。彼らがいま想定しているのは、最悪の事態が到来したとき、彼らのダメージをいかに最小化するかであり、これまで築いてきた五輪ビジネス・モデル及びそのブランド価値を維持することである。
日本人はIOC幻想に取り憑かれていて、ナイーブ(うぶ)な理想をIOCに託そうとする。次期組織委会長候補の顔ぶれを見ると、失礼ながら、国際弁護士の御仁を相手に交渉できる資質をもった方々とはお見受けできない。事務方がしっかりしているからIOCとの交渉については心配ない、という楽観論はタフな交渉を経験したことがない者のこれまた楽観論である。国際間取引は、トップの力量で決まる。
菅野はNPB入団時、日ハムの指名を拒否して一浪、翌年、単独で読売の指名を受けドラフト破りをして希望通り、2年がかりで読売入団を果たした「前科」がある。今回もそんな匂いがする。菅野が本気でMLB入団を希望するのならば、大谷翔平のように金銭的条件を無視して「二刀流」のみを条件にしてMLBにとびこんだように、自分を最も必要とすると思われるMLB球団と契約すればよかった。菅野が本気ならば、入団時の低条件を実績で覆し、アメリカン・ドリームを勝ち取ればよかった。その自信も野心もないのか。
翻って、前出の菅野のNPBへのチャレンジを考えてみると、貴重な現役時代を1年浪費してまで、読売という金満のブランド・チームにドラフト破りで入団を果たしたわけは、彼の最終ゴールがMLBでないことの証だったのかもしれない。プロのアスリートとして、MLB志向があるのなら、ダルビッシュや大谷のようにNPBのなかで最も自由な日ハムに入団し実績を残し、MLBを目指す道を選択すべきであった。それをしなかったのは、けっきょくのところ、菅野の本心は終生「巨人の菅野」だったのかもしれない。読売入団後、実績を残した2020を自己の頂点と認識し、下り坂に向かう今後、今度はMLB挑戦をチラつかせて、読売からさらなる好条件を引き出そうと画策したのではないか。ドラフト破りの「前科」を踏まえ、菅野智之の行動原理には卑しさがつきまとう。世界チャンピオンへの挑戦オファーがありながら逃げ回って、終生日本チャンピオンでいいと思っているような志の低さを感じる。挑戦をやめたアスリートに魅力はない。終生「巨人軍の菅野」なんだから、MLB挑戦なんか、チラつかせないでほしい。
●加藤陽子〔著〕 ●朝日出版社 ●1700円+税
著者の加藤陽子は2020年9月、日本学術会議会員候補となりながら、菅首相によって任命拒否された当事者の一人である。筆者はこの問題がメディアで盛んに報道されたとき同書を購入した。任命拒否された学者の業績について、少しは知っておきたいと思ったからであるが、同書を読みだすまでにかなり時間を要した。その理由は、ほかに関わるべき事案を抱えていたことがあったためであって、それ以外ではない。
本書は、大学受験校として名高い栄光学園(神奈川県)の歴史研究会の生徒に対する特別授業をまとめたもの。本題が示すとおり、現代史がもつアポリアを特別授業として実施した栄光学園の教師及び学校長に敬意を表する。さて、読書中、著者(加藤陽子)が生徒に質問する箇所が何度も出てくるのだが、答えがわからなくて、あてられるとまずいなと、内心ドキドキした筆者の高校時代が思い出された。そのような緊張感にあふれている。以下に半世紀以上前に高校を卒業した筆者が本書から学んだポイントを挙げる。
(一)戦争とは何か
著者(加藤陽子)はルソーの「戦争および戦争状態論」という論文のなかの、戦争とは「国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」という記述を引用し、相手国の社会の基本を成り立たせる秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だと定義する。本書の第一歩は、ここからである。ルソーは18世紀の思想家であるが、20世紀の戦争を見とおしていた。このことについては後述する。
20世紀、世界は2つの大戦を経験した。いうまでもなく、第一次及び第二次世界大戦である。日本は後者においてまさに当事国として戦い敗戦した。日本の敗戦に係る素因はいろいろ分析されてきたけれど、当時の日本のリーダー及び国民が前出のルソーの戦争の定義を理解していたならば、かくも多大な犠牲を払った選択を忌避しえたかもしれない。歴史に「if」はあり得ないのだけれど、第一次大戦の惨禍を身近に経験した欧州、そして大西洋を渡って参戦したアメリカは、その後に起こる戦争がそれ以前のものとまったく変わることを認識した。世界大戦は総力戦とも呼ばれる通り、軍隊同士の戦闘の積み重ねではない。民間人を含んだ全国民を対象とする。相手国の経済はもちろん、統治原理である憲法、文化、宗教までも含んだ、まさに国家を根底から変えるまで戦い続けることである。なぜならば、総力戦を支えるのは国民であって軍隊ではないから。別言すれば、総力戦は国民の支持がなければ起こりえない。戦闘員と民間人を区別してきたそれまでの戦争の対象は、総力戦となればその区別がなくなる。相手国の殺戮対象は軍隊及び国民となる。
第一次大戦の終結にあたって、戦勝国である英米仏は、敗戦国ドイツ帝国の統治原理を完全に崩壊させることをためらった。その失敗がナチスドイツを誕生させ、第二次世界大戦を誘発させた。ナチスドイツが欧州で侵略戦争を開始したとき、日本は中国から、東南アジア、西太平洋、アメリカハワイ島へと戦線を拡大した。そのとき、英米仏等にソ連を加えた連合国は、ドイツ、日本との戦争終結における妥協を考えなかった。無条件降伏という選択肢しか与えない戦争終結を決意していた。
日本も総力戦の思想を理解していたし、太平洋戦争を開始する準備として、総力戦体制を整えていた。しかし、日本が想定していた総力戦は名ばかりで、日本の対英米に対する戦争戦略は、短期的勝利で優位に立ち、そこで外交交渉に持ち込もうという、日清、日ロ、第一次大戦(対独戦争)の勝利体験の踏襲だった。このような日本の目論見は時代遅れだった。日中戦争において中国に持久戦を強いられ戦争が泥沼化するなか、切迫する経済危機を一点突破するために選択したのが英米に対する宣戦布告だった。そして一見無謀に見える戦争開始は、国民の支持を得た。
日本軍は西太平洋(真珠湾攻撃)及び南方への奇襲攻撃ではじめ優位に立ちながら、次第に英米に巻き返され、軍事拠点を次次に失っていった。敗色濃厚になった日本の総力戦の実体は、国民総動員に変容し、戦争が年単位に長期化するや、食料調達がままならないまま、戦地(兵士)、内地(非戦闘員)は飢えに苦しんだ。
連合国は日本に対して非妥協的だった。東京大空襲、沖縄地上戦、広島・長崎原爆投下、ソ連軍の満州侵攻により、多数の非戦闘員が殺害され、あるいは戦争捕虜になり厳冬のシベリアに抑留された。繰り返せば、連合国の戦争終結論理は、前出のとおり、18世紀にルソーが看破したとおり、日本の統治原理を完全に破壊する軍事行動だった。日本が降伏を申し出ようがしまいが、原爆投下は決定事項だったという。それが20世紀の世界大戦である。総力戦というのは国民の支持のもとに戦われる戦争である限り、殺戮対象はすべての国民である、というのが第一次大戦を総括した連合国の論理だった。
なお、ルソーの戦争論は、第二次大戦を最後に通用しなくなる。核兵器の出現である。ソ連が核兵器を保有するに至って以降、世界戦争は冷戦と地域戦へと変容した。日本の場合で言えば、東西代理戦争である朝鮮戦争により、日本の政治・社会体制は、敗戦前に復帰してしまった。多数の戦争犠牲者は、ついに報われることがなかったのである。
(二)日本帝国の前期と後期
筆者は、明治維新(1868)からアジア・太平洋戦争敗戦(1945)までの日本帝国を一括りに考えていたが、その考え方を大幅に修正された。読後の筆者の受止めとしては、前期は、維新から第一次世界大戦参戦(1914)まで。その間に、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)があった。後期は、第一次世界大戦終結からアジア・太平洋戦争終結まで。その間に日中戦争(1937)があり、同戦争は1945年まで太平洋戦争と並行して継続する。前期と後期を大きく分かつのは、いうまでもなく世紀の更新(19世紀から20世紀)である。
(三)超大国の出現――第一次大戦後の世界
20世紀がそれ以前の世界と決定的に異なるのは、その後、超大国となるアメリカとソ連が出現したことである。日本はそのことにあまり自覚的でなく、ソ連に対しては共産主義という認識でそれなりの警戒心を抱いていたにすぎなかったし、アメリカの潜在的国力を見とおすことができなかった。そのため、日本帝国の軍部、政治家、官僚は、東アジアでこれまで展開してきた国益追求のための武力行使と外交で中国大陸における権益(満蒙権益)を確保できると考えていた。つまり、第一次世界大戦という世界大戦によって新たに形成された世界を強く認識できないまま、世界大戦を準備し、開始してしまったということになる。
(四)満蒙への国家的投資
日本帝国が英米に戦争を開始する前、日本は日中戦争を戦い続けてきた。戦争遂行の論理は、「満蒙は日本の生命線、生存権」という主張であった。この論理は安全保障の観点が大きいように思えるが、それよりも経済的要因を無視できない。日本側が満蒙に対して行った投資は借款、会社投資併せて14億2,034万685円でその内訳は満鉄等・日本政府で85%にのぼっていた(P280)。国絡みでカネを突っ込めば、引き下がれない。それが中国における展望なき戦争を継続した理由である。
(五)中国の対日戦争戦略
無謀とも思えるアジア・太平洋戦争に日本が突っ走った背景となったのが、前出の日本帝国の満蒙への執着とそれに反発する中国の抵抗であった。著者(加藤陽子)は中国の抵抗の論理として、胡適という学者で外交官の言説を紹介している。胡適は日中戦争開始前の1935年に「日本切腹、中国介錯論」を唱えた人物で、その意味するところは、世界の二大強国となるアメリカとソ連の力を借りなければ、中国は日本の侵略を止められない、という認識である。日本もアメリカ、ソ連の脅威を意識しているから、日米戦争、日ソ戦争が始まる前に中国に決定的ダメージを与える戦争を仕掛けてくる――実際、日米戦争は1949年12月、日ソ戦争は1945年8月だが、日中戦争勃発は1937年7月であった。そして、驚くことに、アメリカ、ソ連の介入を招くには、中国が日本との戦争をまずは正面にから引き受けて、2、3年負け続けることだ、と主張したのである。胡適の予言は見事に的中したわけで、中国はそのとおりに行動し、日本帝国軍は中国大陸で膠着状態に陥った。その間、世界は日本バッシングを始め、経済制裁を強め、日本は孤立、困窮化し、ドイツ、イタリアとの三国同盟に活路を見出すようになってしまった。そして日本は、英米に宣戦布告した。
(六)陸軍統制派の政治活動――社会主義的政策を掲げる
敗戦後に制定された日本国憲法下では、軍部は政治と厳しく一線を画され、軍による政治活動は禁じられている。ところが旧憲法下、陸軍統制派は陸軍パンフレット(通称「陸パン」)を使って、国民に戦争の意味や意義を宣伝していた。著者(加藤陽子)がそれを紹介している。
国防とは軍備増強だけではない(中略)国防は「国家生成発展の基本的活動」だと定義する。そして、いちばん大事なのは国民生活。「国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労者の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要」と書く。(P316)
また統制派が、34年1月に作成した計画書「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」にも、農民救済策が満載されていました。(中略)たとえば、農民救済の項目では、義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護をめざすなどの項目が掲げられ、労働問題については、労働組合法の制定、適正な労働争議調停機関の設置などが掲げられていた。戦争が始まれば、もちろん、こうした陸軍の描いた一見美しいスローガンは絵に描いた餅になるわけですし、農民や労働者の生活がまっさきに苦しくなるのですが、政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は、確かにあったと思います。(P317)
「福祉国家は全体主義につうじる」とはハイエクの言説らしい。日本帝国陸軍統制派もポピュリズムをもって侵略戦争を正当化したのである。