GENKYO 横尾忠則[原郷から幻境へ、そして現況は?](東京都現代美術館)をみてきました。
「天才ハ 忘レタ コロニィ ヤッテ 狂ぅ」だそうです。最大級の横尾忠則展。お見逃しなく。
Y字路の作品多数あります。
GENKYO 横尾忠則[原郷から幻境へ、そして現況は?](東京都現代美術館)をみてきました。
「天才ハ 忘レタ コロニィ ヤッテ 狂ぅ」だそうです。最大級の横尾忠則展。お見逃しなく。
Y字路の作品多数あります。
NPBセントラルリーグが混戦模様になってきた。2021.08.31.17:00 時点の上位3球団の順位は以下の通り。
1.読売=50勝、37敗、12分、勝率 .575、ゲーム差-
2.ヤクルト=47勝、35敗、11分、勝率 .573、同0.5
3.阪神=55勝、41敗、3分、勝率 .573、同-1
2位と3位のゲーム差が「マイナス1」というのはいかにも奇異というほかない。
これに反して、サッカーJリーグが採用している勝点制度(勝=3、負=0、分=1)で計算すると、
阪神=55×3+1×3=168点
読売=50×3+1×12=162点、勝点差4
ヤクルト=47×3+1×11=152点、2位と勝点差10、首位との勝点差14
となり、阪神が1位、2位が読売、3位がヤクルトとなる。
仮に残り2試合を残してシーズンが終わるとすると、阪神が全敗した場合、読売は2勝なら首位、1勝1分けでプレーオフどまり。阪神が1勝すれば巨人はとどかない。2位ヤクルトは問題外となるくらいの差なのである。
これは、NPBの勝率計算が、引分を試合数から除去することにより生じたもの。読売はNPBのレギュレーションを理解して引分けに持ち込む試合展開を進めているのに反し、阪神は監督が未熟なため、そのような試合運びができていないことによる。阪神の弱点が監督にあることは筆者がたびたび指摘していることでもある。
しかし、NPBの順位決定がこれでいいわけはない。勝負は勝ち・負けを競うもの。勝利を重んずる哲学を根本としなければ嘘である。MLBは引分がない。
よしんば、コロナ禍という状況を鑑みるなら、9回同点ならば、その先、タイブレークを採用する選択肢もあった。この方式は日本人が大好きなオリンピックで採用されていて、予選で日本がアメリカに勝った。タイブレークがなじまないという論理はない。試合時間短縮ならば、勝点制度がベスト。勝利に勝点=3点を与えて、敬意を表すべきである。
●ジェーン・ジェイコブズ ●TBSブルタニカ ●2000円+税
国民経済という概念を取払い、都市単位における財・サービスの出入を指標として、経済を考え直すという試みである。
著者(ジェイコブズ)は次のように書く。
経済活動はイノベーションによって発展する。つまり輸入代替によって拡大する。この二つの主要な経済過程は、密接な関連をもっており、ともに都市経済の関数である。さらに、輸入代替がうまくいく場合には、生産計画、原材料、生産方法の適応を伴うことが多く、このことは、とりわけ生産財とサービスのイノベーション、および臨機応変の改良を意味するインプロビゼーションを必要とする。(P46)
ある地域(国、都市、村…)が存続し続けるためには、そこで調達できないモノやサービスを他から調達する必要がある。その際、調達(輸入)ばかりしていれば、そこは経済的に自立できない。永続的に輸入(調達)を続けるためには、その地域で産み出されたものを他の地域に輸出しなければならない。つまり、ある地域と、それとは別の地域――別の都市、農村地帯、工業地帯――とは、トレードオフの関係にある。輸入と輸出の相互性、一つの都市から見れば、経済活動の拡大は輸入代替(もしくは輸入置換)によってなしとげられる。別言すれば、都市の発展は輸入代替に規定される。
都市が持続的な輸入代替を可能とするのがイノベーション、つまり、新たな価値創造であり、インプロビゼーション、つまり即興性である。後者はモダンジャズ演奏やダンス等の世界ではあたりまえのことで、形式や約束事にとらわれない自由な発想と解釈でパフォーマンスを行うことをいう。
その結果として、都市は外延的に拡大する。それを‶都市地域″の形成(拡大)という。
都市における重要な輸入代替は、爆発的に発生し、五つの大きな経済的拡大力を生み出す。すなわち、新しい様々な輸入品に対する都市の市場、都市における仕事の急増、農村の生産と生産性の上昇のための技術、都市の仕事の移植、都市で生み出された資本である。これら全部が同時に揃って現れるのは、都市に直接隣接する後背地においてだけである。(P56)
これが都市の拡大の論理である。しかし、このような論理が都市のすべてに当てはまるわけではない。情況の変化(技術革新)、経済的競争、政治の仕組みなどで都市の発展拡大は阻害されることもある。
経済活性化の試みとして用いられるのが、移植工場とよばれる手法である。「工場を誘致する」ために税制を優遇する、用地を整備するなどが行政の手によってなされ、生産を高めたい企業に呼び掛ける。工場ができれば(著者は移植工場と呼ぶ)、生産された工業製品は他地域に輸出されるが、その集荷先は遠方の都市の市場や軍隊であり、地元のニーズに合ったものは僅かであり、その地域の住民(工場に雇用された住民と新住民=移住してきた労働者)が必要とする財とはトレードオフしない。そればかりではない。移植工場の経営も永遠ではない。市場性、技術革新等によって、経営が困難になる場合もある。閉鎖である。
このような困難を乗り越えたのが台湾である。まず首都・台北が輸入代替都市となり、台北で構築された産業から分化した業種が高尾に移動した。台北は一時衰退するが、前出のインプロビゼーションで再興すると、台北~高尾の軽工業群が台湾経済を支えるようになる。
こうして著者(ジェイコブズ)は、経済が興隆し繫栄するときに生ずる三種類の変化を次のようにまとめる。
第一に、全体として見れば経済活動の都市化が進み、農村的色彩がより少なくなる。都市の仕事と都市間交易は、絶対的にも相対的にも最大の利益をもたらす。農村の生産と交易も増大するが、しかしそれは、都市活動の副産物としてである。
第二に、都市間交易の拡大につれて、それは主として最低生存地域か供給地域であったような不随的都市に活気を生じさせ、それらを流動的な都市交易のネットワークの中に引き込む。
第三に、生産されるすべての財・サービスの量と種類が増大し、それが都市に輸入されてその地で輸入代替過程に入り込む。これは、先行する二つの変化の結果であり、またそれらの変化が続く条件でもある。
こうした変化は、経済的拡大と発展、すなわち活動状態にある発展のダイナミクスにほかならない。(P226~227)
著者(ジェイコブズ)は都市を国家の上位においた経済学を唱えながら、自ら都市の経済学を否定する。彼女は、国家は血なまぐさい軍事力によって成立したといい、国家は軍神(マルス)の申し子のようにふるまい、多くの国民は、そのことゆえに国家を崇めるのだという。
国家の神秘性は、人間の犠牲の上に成り立った強力で陰惨な魅力によるものである。国家とその統一を裏切ることは、血を流したすべての人間を裏切ることになる。経済的向上のために国家を裏切ることは、栄光ある民族の歴史のページをただの喧騒と凶暴とに変えてしまうように思われる。国民国家の政府のほとんど(略)と、大部分の国民は、分断状態のまま繫栄し発展するよりは、国家の統一が維持されるための犠牲たらんとして、むしろ衰退し朽ち果てるほうを選ぶだろう。(P258)
本書は1984年に上梓されたもので、著者によって取り上げられた国、都市の事例は、現状(2021)とは異なっているものもある。だが、ダム、軍事産業、補助金、交付金といった、国家(政府)が行う産業政策が、逆に都市の衰退から国家の衰退にまで及ぶ事例を伴った論証は、説得力に富む。国家を超える経済発展のあり方を考えるうえでいま、読むに値する。
半月前くらいのことだろうか、東京の下町、谷根千地域について、ツイッター上で論争があった。発端は、谷中に開業したYANAKA SOWという宿泊施設の紹介記事からだった。同施設は閑静な寺町谷中に、著名な企画会社が企画をたて、積水ハウスが開発したもの。建設に際し、近隣から反対もあった。
『rojiroji‐magazine』
谷根千地域には、『rojiroji-magazine/ロジ・ロジ・マガジン』(以下『roji誌』)というタウン誌がある。同誌は谷根千界隈の小規模で個性的な飲食店等を取材・紹介し、紹介した店舗及び地元の書店等に雑誌を卸し販売してもらうという仕組みの雑誌である。刊行は不定期のようだ。M氏による『roji誌』攻撃
『Forbes』におけるYANAKA SOWの記事をツイッターで攻撃したのがM氏。M氏は谷根千の名付け親であり、地域振興専門家として講演活動などをする一方、作家としても活躍している。M氏と谷根千の関係性については後述する。
M氏のA氏に対する攻撃は常人の理解を超える内容だった。M氏はかねてより、谷根千界隈の変容ぶりを嘆いていた、というよりも怒っていた。外から来た資本による出店ラッシュにより、古い趣ある住宅、旅館、町工場、商店、公衆浴場等が撤退もしくは閉店する。その替わりに出店する店舗は谷根千らしくなく、表参道や代官山などの新しい繁華街のものとかわらないと。
M氏の攻撃は、そうした谷根千の変容の責任のすべてが『roji誌』にあるかのような書きぶりだった。『roji誌』の編集発行人A氏の経歴から、M氏はあたかもA氏が高級ファッション企業=大資本の代表者であるかのように攻撃した。『roji誌』の最新刊特集が谷根千地域のファッション店の特集だったことからM氏がそう思ったのかもしれないが、そうであれば、M氏の認識の誤りである。
ツイッター上で、M氏を支持する派と『roji誌』擁護派の双方が参戦し、論争は混乱した。短文のツイッター上における論争は、本筋から外れることが多く、今回も生産性に欠けた。かみ合わない論争に辟易したと思われるM氏が「ツイッターしばらくお休み」宣言を発して、論争は終息した。
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』
『roji誌』を攻撃したM氏は、1984年に地域情報雑誌『谷根千』(正式には『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』)を創刊したメンバーの一人。前出のように、その後、作家として名を成すと同時に、〝まちおこし″の専門家として活躍中である。谷根千の変容
谷根千の知名度アップと並行して、まちのようすは変わってきた。古くからの商店等は撤退、閉店し新しい店が出店し始めた。大資本のスーパーマーケット、マンションもなくはないが、多くは新たな事業機会を得ようと開業した若い起業家たちだ。カフェ、コーヒーショップ、レストラン、ワインバー、ハンバーガーショップ、クラフトビールパブ、手づくりアクセサリー・雑貨・靴のデザイン工房兼ショップ、蕎麦屋、古着屋、バッグ・帽子のアトリエ、骨董品店、居酒屋、惣菜店、ギャラリー・・・それらのショップ等の事業者がどのような状況を背負って谷根千にやってきたのかはわからないが、かれらは地上げをして谷根千に入ってきたのではないことだけは確かである。古くからの店舗・住宅等が閉店、撤退した理由もわからないが、後継者難、相続税対策、売上不振などが予想できなくもない。谷根千の新参者たちは、その結果生じた空き物件を借り受けて出店したのである。
谷根千の変容の契機、旅館「澤の屋」
谷根千の変容の契機となったのは、私見では、旅館「澤の屋」(谷中)の営業方針転換からだと思われる。同旅館は創業70年余の老舗だが、外国人宿泊客を顧客ターゲットとしたことから、インバウンド観光客が谷根千地域に増加するようになった。さらに近年のSNSによる情報発信が盛んになったことにより、外国人の谷根千評価が高かったことが、逆輸入となって日本人に伝わり、とりわけ日本人の若者が谷根千に注目し始めた。コロナ禍前、谷根千は外国人と日本人の若者にとって、新たな価値を持ったまち(地域)として見直された。加えて、テレビの影響も大きかった。谷根千のどこかで、毎日のように、テレビクルーと思しき者がロケをしている光景が見られるようになった。もちろん、著名なタレント、俳優等の姿もある。このようなまち歩き番組のロケは、コロナ禍でもあいかわらず盛んである。
旅館「澤の屋」が谷根千を破壊したと言いたいのではない。まちは変わる、それだけのことだ。大資本が古い建物を壊し新しいマンションやスーパーをつくる開発行為と、新鮮な価値を求めて集まる人々のための諸施設を準備する現象は異次元の話である。『roji誌』が取材・発信する谷根千情報は大資本とは無縁だし、「澤の屋」の集客戦略の変更も、それとは無縁である。『roji誌』は、M氏が地域雑誌『谷根千』を発刊していた時代とは異なる世代の嗜好に合わせた情報の発信媒体であり、「澤の屋」は、それまでの日本人客から外国人に合わせて情報を発信し、新たな顧客創造を成し遂げたまでのことである。
「受動的経済」
手元に、『都市の経済学』(ジェーン・ジェイコブズ著)がある。そこにフランスのバルドー(バルドともいう)というまちの話が載っている。バルドーはローマ時代、ガリアがその属州になったとき、近隣の鉄製品の製造地域と道路でつながって発展したところだが、ローマ帝国の撤退をもって衰退が始まり、以降、20世紀に至ると、わずか3世帯が残るまでに落ち込んだ。ところが1966年、たまたま通りかかったドイツ人とアメリカ人のハイカー(フランス人ではない)に発見され、彼らが老人から土地を買い取り、さらに周辺の土地の買取りに成功すると、金利生活者、出版関係者らがやってくる地域へと変容した。さらにキャンパーなどがもたらす収入も増えるようになった。ある映画会社がロケ地としてこの村を借りることになったとき、お礼として水道配管設備を残してくれたという。ジェイコブズはバルドーの再興を「受動的経済」と呼ぶ。つまり、自力で経済的変化を創造せず、遠方の都市で生じた力に対応するだけの経済を示す例だという。バルドーの再興と谷根千の活性化は規模と時間に大きな隔たりがあるが、いずれも「受動的経済」の事例として近似している。
もちろん、まちが経済的に発展すればいいというものではない。バルドーがローマ時代の風情をなくせば、都市の人々は離れていくだろうし、谷根千も下町レトロ風情を喪失すれば、観光客はこなくなる。
地域に根差した交流の場としてのパブ
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| ビアパブイシイ |
●ホルクハイマー、アドルノ〔著〕 ●岩波文庫 ●1320円+税
本書が扱う啓蒙とは
本書の章立ては以下のとおりである。
・序文
Ⅰ.啓蒙の概念
Ⅱ.〔補論Ⅰ〕オデュッセウスあるいは神話と啓蒙
Ⅲ.〔補論Ⅱ〕ジュリエットあるいは啓蒙と道徳
Ⅳ.文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙
Ⅴ.反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界
Ⅵ.手記と草案
難解だといわれる本書だが、そのわかりにくさは、各章の関連が認めにくいところからくるのではないかとも思えてくる。各章が独立していて、読む者の前に放り出されているような感さえある。だが、関連性は十二分にある。Ⅰ章の書出しは次の通り。
古来、進歩的思想という、最も広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに、あます所なく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている。啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放すること〔2〕であった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった。(P23)
訳者・徳永恂の訳注〔2〕を参照すると--
世界を呪術から解放すること(die Entzauberung der Welt);言うまでもなく、マックス・ヴェーバーが「合理化」の過程として世界史を捉えた定式を踏まえている。このことは、本書の批判の射程が、たんに18世紀以降のいわゆる「啓蒙期」や、近代合理主義批判に尽きるものでなく、歴史の発端以来の人類史の全体に関わることを示している。(P92)
この訳注がたいへん参考になるもので、このことを意識して読み進めると、全体の意図が明確になる。すなわち、啓蒙を概念化し(Ⅰ)、それを、神話等を使って補足し(Ⅱ、Ⅲ)、現在の情況(亡命先米国の情報化、大量消費社会、及び、米国・欧州で脅威となっている反ユダヤ主義)を批判する――という構成であることが理解できる。
神話と啓蒙
古い起源をもつ神話ではあるが、それは概ね以下のような物語性を有しているーー英雄が凶暴な荒ぶる神々の猛威等により危機に陥るのだが、それらを切り抜け、成功を勝ち取る。英雄は危機に対して、機知に富む判断や合理的行動によってそれらを退ける。荒ぶる神々は、異教・蛮族であり、彼らによって崇められた自然そのものの象徴である。
また、ときに英雄は見知らぬ神の呪術により身動きできなくなることもあるのだが、そのとき良き援助者の助けにより薬草等をすすめられ、意識・体力を回復することがある。このとき英雄が飲む薬草等は後世の科学を、英雄を助ける者は同じく科学者を暗示する。人類はこうして、啓蒙的思想を自然に身に着け、進歩を続けてきたと考えられている。
啓蒙と唯一神
ユダヤ的宗教の神への信仰は啓蒙なのか、反啓蒙なのか。答えは次のとおりである。
ヒュームやマッハによって否定された自我という実体は、自我という名辞とは同一のものではない。家父長の理念が神話の否定にまで進んで行くユダヤ的宗教においては、名辞と存在との間の紐帯は、神の名を口にしてはならないという戒律によって、依然認められている。ユダヤ人の「呪術から解放された」世界は、死すべきものすべての絶望に慰めを保証するような、いかなる言葉をも容赦しない。この宗教においては、希望はただ一つ、偽神を神と、有限なものを無限なるものと、偽を真と呼んではならないという戒律につながれている。(P56)
ユダヤ的宗教の神こそが啓蒙の根源である。18世紀以降、神を啓蒙と言い換えたのである。啓蒙批判を繰り返したロマン派を退けて、ホルクハイマー・アドルノは次のように主張する。
啓蒙の非真理は、その敵であるロマン派が昔から啓蒙に浴びせかけてきたような、分析的方法、諸要素への還元、反省による解体、などへの非難のうちにあるのではない。啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理があるのである。数学的方法においては、未知のものは方程式の未知数になるとすれば、ある価値がまだ代入される前に、未知のものは、前から知られていたものという徴づけを帯びていることになる。自然は量子力学の出現の前後を問わず、数学的に把握されなければならないものである。わけのわからないもの、解答不能や非合理的なものさえ、数学的諸定理によって置き換えられる。よく考え抜かれた数学化された世界と、真理とが同一化されることを先取りして、啓蒙は神話的なものの復帰の前にも安穏としていられる。啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。(P58~39)
重要なのは〝啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理がある″という箇所である。あらかじめ決定されている――決定しているのは神であり、神の決定を前提としているのが啓蒙なのだから、啓蒙は真理ではないと。
本書の今日性
本書全体に箴言のように読む者を覚醒する言辞が散りばめられている。ジェンダー問題、環境問題に対する、回答のような箇所を書き抜いておこう。
男は外に出て敵と戦って生き、活動し努力しなければならない。女性は主体ではない。女性は自ら生産にたずさわることなく、ただ生産する者の身の廻りの世話をやくだけだ。それは、はるか昔に消え失せた閉鎖的家内経済の時代の生きた記念碑である。女性にとって、男性から強制的に割り当てられた分業体制は、有利なものではなかった。女性は生物学的な機能を体現し、自然を象徴する者としてイメージされたが、この自然を抑圧することによってこそ、この文明に栄えある称号が授与されるのである。はてしなく自然を征服し、調和にみちた世界を無限の狩猟区に変えることが、数千年にわたる憧れの夢だったのだ。男性社会における人間の理念は、この夢に添ったものだ。これが人間が鼻にかけてきた理性の意味だったのだ。(P510~511)
今日のジェンダー問題、地球環境問題の根っこに啓蒙があることが、この言説から読み取れる。前出の数学の箇所に関連して、デジタル化、IT化の問題がある。啓蒙の延長線上に新自由主義思想とその経済活動があると筆者は考えている。本書は1939~1944年にかけて執筆されたというが、70年以上前とは思えない慧眼である。それらを今日的課題として深堀りする作業がいまの世代に投げかかられている。
NPB(日本プロ野球)が開幕から30試合以上を消化した。セリーグ優勝の行方は、早くも阪神・読売の上位2チームに絞られた感がある。3位ヤクルトについては、筆者の予想に反して、ここまで善戦しているといえる。だが、問題もある。そのことは後述する。最下位DeNAは外国人の合流がおくれた影響をもろに受け序盤でつまずいた。広島、中日はこんなものだろう。
阪神は筆者の予想以上に勝ち進んでいる。要因は新人佐藤の活躍、外国人選手の好調、内野の層が厚くなったことなどだが、もちまえの豊富な投手陣が順調なこと、失策・盗塁失敗・走塁ミスなどが減少し、チームに安定性が増したことは特筆すべきだろう。
2位の読売は、ほかのチームなら下位に沈むくらいの危機的チーム状況だが、層の厚さで持ちこたえている。序盤にコロナ禍で主力選手が長期の登録抹消、さらに新外国人のテームズがデビュー試合でケガ、しかも重症で今シーズンはほぼ戦力外となる見込みだ。加えて、クローザー2人(デラロサ、ビエイラ)も離脱したかと思えば、今度はエース菅野が肘の故障、キャプテン坂本が指の骨折で離脱した。それでも、なんとかしぶとく持ちこたえて2位をキープしているのは、ひとえに選手層の厚さのおかげだ。
読売は確かにしぶといのだけれど、読売を助けている球団の存在も見逃せない。DeNAは対読売戦、0勝5敗3引分(2021/05/13現在)と勝ちがない。もっとも首位を行く阪神はヤクルトに6勝0敗1引分(同)とカモにしているのだが。
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| DeNA・三島一輝投手 |
下位チームの負け方を見るとき、どうしても救援失敗が印象に残り、そこに非難が向かいがちだが、実は構造的弱点がある。救援投手を例に挙げると、DeNAの場合は、三島を切り札に指名して、三島の調子が上がっていなくても彼を起用し続けなければならないという構造を崩せないでいる。ヤクルトの場合は石山だ。読売の場合、クローザー第一候補のデラロサが離脱してビエイラをその任に充てたが、通用しないと見切るや、中川、鍵谷、高梨を状況に応じて使い分けている。このような選手起用が可能なのが、読売の選手層の厚さの象徴なのだ。
選手の使い分けは、投手陣だけではなく、野手にも通じている。読売の場合は、他球団の2倍余りの選手を擁していると換言できる。捕手〈大城、炭谷、他球団ならレギュラーの小林が二軍〉。野手は近年、複数のポジションを守れることが読売のレギュラーの条件になっているので、截然と2選手を並べるのは難しいのだが、一塁〈中島、ウイラー、スモーク、香月〉、二塁〈若林、吉川、廣岡〉、三塁〈岡本、若林、吉川、廣岡〉、遊撃〈坂本、吉川、廣岡〉。外野は左翼〈ウイラー、重信、亀井〉、中堅〈丸、松原〉、右翼〈梶谷、松原、香月〉。つまり、レギュラーが調子を崩せば、調子のよい選手にすぐ代えられる。
DeNA、ヤクルトは、いますぐにでも外国人クローザー候補を複数見つけて入団させなければ、コロナ禍の外国人の入国に係る困難さに鑑み、間に合わない。今シーズンに限らないが、最後を任せられる投手は人材難で、国内トレードは無理だろう。筒香がMLBをクビになってNPBのどの球団に入団するかは不明だが、古巣のDeNAの補強ポイントは筒香ではない。
新戦力の手配は、現場(監督)ではなく、フロント(GM)の仕事だ。読売は確かに金満球団だが、カネがあるからといって何もしなければ、チームは強くならない。DeNA、ヤクルトがシーズン序盤で阪神、読売に白旗を上げるようでは、セリーグは終わったようなものだ。プロ麻雀の対局で、上位2名がトップ争いを繰り広げると、逆転の可能性がない下位の2名は手組をせず、どちらかに振り込むようなことのないよう、初手から降りてしまうことがあるという。DeNA、ヤクルトの選手は勝とうと必死なのだろうが、精神力、必死さだけでは勝てない。
4/5 Wソックス戦=5回、被安打1、4四死球、7奪三振。自責点0
4/21 ㇾンジャース戦=4回、被安打1、7四死球、7奪三振、自責点0
4/27 ㇾンジャース戦=5回、被安打3、3四死球、9奪三振、自責点4
5/6 レイズ戦=5回、被安打1、3四死球、7奪三振、自責点0
この成績をどう評価するか---筆者は先発責任回数の5回をどうにかクリアしているものの、クオリティ・スタート(6回以上自責点3以下)が一度もないことが気になっている。大谷の投手としてのチーム貢献度は、いまのところ、芳しくない。
投球内容としては、四死球が多すぎる。さらに気がかりなのが、ストライク(空振り)をとれる球種がスプリットに限られているため、この球種を多投する傾向に陥っていること。筆者は、手術明けの大谷が肘の負担の大きいスプリットを多投することを大いに心配する。
結論として、大谷の「二刀流プロジェクト」の成功か否かの判断については、今シーズンの終わりまでできないということになる。
筆者は大谷の選手生命という観点から打撃一本に絞り、一年でも長くMLBでプレーしてほしいと願うばかりである。それにしても、大谷の投手としての才能がもったいない。投手に専念していたら、日米合計200勝の可能性はじゅうぶんあった。
●適菜収〔著〕 ●祥伝社新書 ●860円+税
本書はコロナ禍が、日本社会の真の危機を明らかにしたことを、――また、それまで不可視だった社会矛盾を可視化したことを、――そして、劣化した日本社会を正常に戻す政治的手段の選択を――われわれひとり一人に迫る最適な書の一つである。
さて、著者(適菜収)は、本書最終章〝「保守」の劣化″の冒頭で、「保守主義はフランス革命に端を発します(P205)」と書き、次のように続ける。
急進派のマクシミリアン・ロベスピエールは、理性によって社会を合理的に設計することを目指しました。結果、自由の名のもとに大量虐殺が行なわれました。これに対して異を唱えたのが保守主義です。彼らは近代啓蒙思想をそのまま現実社会に当てはまることを批判しました。彼らは理念(抽象)ではなく現実(常識)に立脚していました。(同)
ニーチェに傾倒する適菜が、啓蒙主義批判を展開することは自然だ。ポスト啓蒙主義として台頭したのが国家、民族、全体を重視する潮流であり、「保守主義」もその一つである。さらに、「フランス革命において理性は神格化されましたが、新型コロナ下においても理性を妄信するマッド・サイエンティストたちが大活躍したわけです」(P207)と締めくくる。
今般のコロナ禍日本の混乱ぶりは、果たして啓蒙主義的理性の暴走なのだろうか。日本のコロナ対策に欠けているのはむしろ、啓蒙主義的態度(絶対化ではない)ではないのだろうか。そのことを換言すれば、最新の科学技術に基づいた感染症対策ではないのだろうか。正確な感染者数の把握、感染源の特定、変異株の遺伝子解析、治療薬開発、ワクチン開発、ワクチン接種の体制づくり、コロナ用医療機器の充実・提供、PCR検査に係る実施及び判定技術の高度化・・・
マスメディアで報道されている現下の医療崩壊は、コロナの広がりから一年以上経過した今日(2021.05.08)までのあいだいに、更新・改善するに足る事柄であった。にもかかわらず、「日本はコロナに打ち勝った」云々の権力者側の驕り、非科学的認識によって、打ち勝ったのではなく「打ち捨てられた」とみるべきだ。適菜がいうマッド・サイエンティストが具体的にどこのだれを指すのか不明だけれど、「私は医者でも感染症の専門家でもありません・・・だから新型コロナウイルス自体やこの先の見通し、対策の在り方を論じるつもりはありません」(P3)と、冒頭で宣言しながら、最期に及んで日本のコロナ対策の在り方について、保守主義擁護の観点から批判し自戒を解いてしまったのは残念だ。
だがしかし、新型コロナは「バカ発見器」、反日売国奴=安部批判、陰湿なチンパンジー=菅批判、以下、肥大化した自己愛=小池百合子、イソジン詐欺師=吉村洋文、デタラメな政治家=麻生太郎、トランプ、小泉進次郎、黒岩祐治、三原じゅん子、新型コロナ流行下でデマを流した言論人=ネトウヨ、橋下徹、高須克弥、三浦瑠璃らのぶった切りは痛快だ。
併せて、第4章の「社会不安に乗ずるデマゴーグ」において、〈インフルエンザのほうが死者が多い?〉というデマを飛ばした者はやはり、前出のとおり、科学を無視した態度であり、啓蒙主義に反する感情的、情緒的、非合理的な発言の結果だと思われるがどうか。
コロナ禍が明らかにしたのは、なんといっても、日本の権力者の無能ぶり、日本の科学技術の遅れ、大衆の民度の低下、マスメディアの無力--だ。そのことをもっとも顕著に反映するのが、東京オリパラ開催・中止に係る関係者のビヘイビアだろう。筆者はもちろん太平洋戦争を体験していないが、今般の状況はおそらく、降伏、敗戦に至る過程と相似形なのではないだろうか。日本の危機は経済指標よりも、著者が第6章でとりあげた、▽生活の変化、▽正常なリーダーの不在、▽言葉が軽くなりすぎた、▽「保守(常識)」の劣化――といった社会現象として生活過程に滲み出てくるように思われる。
著者(適菜収)には、この先、コロナ禍と「啓蒙主義の弁証法(ホルクハイマー/アドルノ)」を論じていただきたいと思う。
●白井聡〔著〕 ●講談社 ●1700円+税
著者(白井聡)の悲憤、義憤に満ち満ちた書だ。1945年の敗戦直後から今日の安部‐菅政権に至る日本国の欺瞞性が次々と暴かれていく。そのさまに小気味良さを覚えるとともに不安に駆られる――いったいこの国はこのさき、どうなるのだろうかと。
〈否認〉の戦後史
著者(白井聡)の論点はおよそ〈否認〉という一言に集約できる。戦後日本はなにを否認してきたのか。時代順に記せば、敗戦の、戦争責任の、平和憲法の(再軍備)、米国従属の、米軍基地容認の、沖縄同胞の苦難の、米国の侵略戦争加担の、3.11(福島原発事故)の、新型コロナによる災厄の・・・否認である。
その否認も安倍政権終期(モリカケ・サクラなど)においては、極めて姑息な否認に堕した。国会における事実隠蔽、虚偽答弁のあげく、安部本人の自己防衛、安部一派の組織防衛のために、ついには公文書改ざん・廃棄という〈否認〉を糊塗する犯罪が白昼堂々、中央官庁において常態化するに至った。
安部‐菅政権及び政権与党のありようを端的に称するならば、〈否認〉が否認しきれないまま自己破綻した――にもかかわらず、醜くも政権にしがみつく――政治屋たちが、腐臭を放ちながら、国会、行政機関をわがもの顔で跋扈している状態だといえよう。
〈否認〉の根源は敗戦の総括にあった。著者(白井聡)はそれを永続敗戦レジームという概念で結んでいる。戦争末期、敗色濃厚となった日本帝国は国体護持(天皇制の継続)にふくみを持たせ戦争終結を先延ばしにした。そのため、沖縄地上戦、都市大空襲、広島・長崎原爆投下、シベリア抑留等の悲劇を生んだ。こうした国民の多大な犠牲を経てけっきょく無条件降伏を受け入れ、天皇が「玉音放送」というかたちで国民に敗戦を終戦と言い換えて告知した。進駐米軍は天皇の戦争責任を免責し、少数の軍人を処刑するにとどめた。その背景には、進駐米国軍人の安全確保と、東西冷戦激化の予想の二つの要素が混在していた。1950年、後者は朝鮮戦争勃発として現実化し、そのことを契機として、米軍は戦犯を解放し、平和憲法を〈否認〉し再軍備を進め、戦犯を使って日本国を東アジアにおける反共の砦として再生しようと企図し、成功した。
本来、戦争犯罪者として裁かれるべき者が国政に復帰することが現実化したということは、戦争責任者の側から見れば、敗戦ではなく終戦である。その筆頭が、統帥権をもった天皇であり、天皇に仕えた政治家、役人である。天皇の責任が問われないのならば、天皇にとっても敗戦ではなく終戦である。平和憲法が軍隊をもたないと明記しながら、警察予備隊という名称で、平和憲法が〈否認〉され(再軍備)されたのだから、軍人にとっても敗戦ではなく終戦である。こうして、総力戦(国民総動員の戦争)に参加した国民ひとりひとりにも戦争責任はなくなる。日本国および日本国民は、敗戦を〈否認〉した。
星条旗はためく戦後の国体
敗戦を否認した後に訪れた繁栄の時代、為政者・国民を問わず強固に形成された新しい国のありよう――永続敗戦レジームの基盤となった新しい日本のかたち――こそ、対米従属にほかならなかった。そのことを著者(白井聡)は、かつての最高権力者である天皇の代わりにアメリカが君臨する構造だと看破し、それを〈戦後の国体〉と命名した。菊の上に星条旗がはためくというわけだ。白井はそれを『国体論 菊と星条旗』としてまとめた。
東西冷戦の激化によって占領軍から戦争責任を免責された者が戦後の日本の進路決定者となり、国を事実上、動かしてきた。彼らは「親米保守派」と呼ばれるのだが、その最終ランナーが安倍晋三(とその傀儡・菅義偉)であった。なぜ安部が最終走者なのかといえば、東西冷戦の終焉から米国の対日政策も変化し、米国の傘の下でのうのうと金儲けに専念することが難しくなったからだ。安倍政権下で次々に立法化された安保法制(集団的自衛権行使容認等)、特定秘密保護法成立、「共謀罪」の構成要件を改める「改正組織犯罪処罰法」成立などは、平和憲法否認の枠を超えた解釈改正にほかならない。国際情勢が、〈否認〉ではすまされない事態に親米保守派を追い込んでいる。
否認とはなにか
著者(白井聡)は〈否認〉について、以下の通りの論を展開する。
現代デモクラシーが、再階級社会化した新しい階級構造における「下流」「B層」「ヤンキー」に依拠するようになったという主張に賛同(『日本をダメにしたB層の研究』適菜収著ほか)しつつ、これらの新しい階級は、いずれもスペクタクルな消費者、反知性的存在として措定されるという。そして、その傾向は資本主義のネオリベ化の結果であり、それを促進するとし、政治権力は、「下流」「B層」「ヤンキー」らを最も重要な票田とし、経済権力にとっては最も重要な購買層になるとする。
その一方で、ネオリベ化の進行のなかでの反知性主義を啓蒙主義の物語の放棄と定義する。この〝啓蒙主義の物語の放棄″という白井の論点を頭の中に入れていただきたい。白井は、今般の日本社会を覆う反知性主義の跳梁の根本には、「人間とは何か」というイメージの著しい変化を読み取ることができるという。こうした状況の総体を「ネオリベ的文化状況」と名付け、前出のように反知性主義がデモクラシーの基盤化することと並行して啓蒙主義のプロジェクトがなかば公然と捨てられようになったという。このことは、アドルノ=ホルクハイマーが警鐘を鳴らした「道具的理性による自然支配の進行=近代的な野蛮」(『啓蒙の弁証法』)、すなわち、一切の束縛から解放されて全面化へ向かう事態である。
『啓蒙の弁証法』にはどんなことが書かれているのか。未読なのだが、概要をつかんでみよう。
ホルクハイマーとアドルノは、人間が啓蒙化されたにも関わらず、ナチスのような新しい野蛮へなぜ向かうのかを批判理論によって考察しようとした。その考察を開始するために、啓蒙の本質について規定した。啓蒙は、人間の理性を使って、あらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは、人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。したがって、理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。ホルクハイマーとアドルノは、このような事態を「啓蒙の弁証法」と呼んだ。(中略)人間は、外部の自然を支配するために、内面の自然を抑制することで、主体性を抹殺した。また、論理形式的な理性によって、達成すべき内容ある価値は、転倒してしまう。さらに、芸術においても、美は、規格化された情報の商品として、大衆に供給される。ホルクハイマーとアドルノは、反ユダヤ主義の原理に啓蒙があったと考えており、啓蒙的な支配によってもたらされた抑制や画一化の不満が、ユダヤ人へと向けられたと位置づける。啓蒙の精神は、自らの本質が支配にあると自覚することで、反省的な理性を可能にするものでもある。この反省によって、啓蒙における理性と感性の融和が、可能となりうると考えられる。(Wikipedia)
啓蒙主義の後になぜ、ヒトラーのファシズムのような野蛮が出現したのか。また、そのヒトラーと戦った、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカはどうなのか。『啓蒙主義の弁証法』のなかの「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。新しい技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。(「知の快楽-哲学の森に遊ぶ」河合政之著)
今般のアカデミアで起きている反知性主義の流れについて、学問における啓蒙主義の公然たる放棄は、直接には、学問に課せられた「人間の完成」という理念をアカデミアから追放することを意味するという。19世紀末においてすでに、自然支配に役立つ技術的な学と啓蒙主義以来の理念を保持している学との解消困難な分離が、哲学者のあいだで痛切に意識されていた。それでも啓蒙主義のプロジェクトを公然と否定することは憚れてきた。しかし、代表制民主主義が、治者が被治者に敬意を持ち、被治者が治者を信頼するという理想を半ば公然と捨て去ったとき民主制が愚衆性を基本モードとする状態に落ち込んでゆくのと同様に、学問の制度が「綺麗事」から解放されたとき、その中身は必然的に変化する。そうした変化は、例えば人文主義的学問伝統の抑圧として現れるという。「人間とは何か」を問う学問の代わりに、「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めることになる、と続けている。これらを踏まえ、白井の論考の展開を追うと、以下のように進展する。
新しい人間(=今日出現した新しい主体、精神なき主体)は、現代の反知性主義の担い手であると推論し、啓蒙派の精神分析学者フロイドの精神分析方法と対比しつつ、ラカン派精神分析医の立木康介(ついき・こうすけ)の論を援用する。
立木によると、新しい主体の在り方の核心には「否認」があるとする。精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防衛機制の一つであり、外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、現実の一部または全部を、それを現実と認知することを拒絶するところにあるという。また、主体の基本モードが「抑圧」から「否認」へと移り変わることには、人間像のトータルな変化が含まれている。フロイトの措定した近代的人間像が「抑圧」をベースとしていた、すなわち、エディプス・コンプレクスによって自らの原初的欲望を「抑圧」した後、「抑圧されたものの回帰」と折り合いをつけることによって主体化(成熟)するという基本的な精神発達史の物語を背負っていたのに対して、「否認」をその心的生活の基礎に置いたポスト啓蒙主義時代の主体は、このような主体化のドラマを持たず、母子一体の段階において経験される(そしてやがて失われるはずの)幼児的万能感を手放そうとしない、と。
ではそれは、どのような主体であり、具体的行為としては何をするのか。そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語をもたない。いいかえれば過去や祖先や系譜にたいして引き受けるべき負債(ラカンの言う「象徴的負債」)をもたない。ネオ主体はだから、なんでも自分を基準に選びたがる。たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない(わが国でいわゆるキラキラネームが流行る一因もこれだ。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)
白井は次のように結論する。
ここで語られている「ネオ主体」の姿が、今日の歴史修正主義的欲望を噴出させている人々のそれに重なるのは偶然ではあるまい。無暗矢鱈と「愛国」が振りかざされているにもかかわらず、そこには伝統への真剣な参与や歴史の奥行きある思い入れも徹底して欠けている。それらの代わりに彼らは、「自分を基準に選んだ」都合の良い歴史の語りを好む。彼らは、自分たちの歴史における不都合ないし不名誉な要素を認めてそれを乗り越えるという苦行に一切耐えられない。つまり、ここにおいて、ナショナリズムの心情は、あけすけな自己肯定のための、幼児的万能感を維持するためのネタとして利用されているにすぎない。(P127-129)
主権者の復権--東京オリパラ中止を決定する者
今般、コロナ禍におけるオリンピック・パラリンピック東京大会の開催の是非が議論されている。現状(2021.05.03)のまま、新型コロナの変異種の感染が進めば、日本の大都市に医療崩壊が訪れるのは目に見えている。現に大阪はその状態にある。そこに何万単位の外国人が訪日し、選手団、関係者、外国メディアが集団生活に入れば、常識的に考えて東京は地獄と化す。ここにきて、プロ野球球団の集団感染が次々と発覚するようになってきた。選手を隔離しても感染は防ぎきれない。いわんや関係者、メディアの行動を制限することは不可能だ。彼らは日本国の検疫を通過した者なのだから。彼らが日本中を歩き回れば、東京のみならず感染拡大は必至だ。ところが、大会の返上を申し出るような空気は感じられない。
この期に及んで中止を決定できないのは、日本の総理大臣がこれまで重要事項の決定に与ってこなかったからだろう。戦前までは天皇が、戦後は星条旗が総理大臣に指示を出してきた。オリパラの最高権力者は欧州のバッハという興行師であって星条旗とは関係ない。星条旗もオリパラに関与はできない。
親米保守派がお手上げだからといって、中止の決定を下せる者がいないわけではない。それこそが、本書にある「主権者」にほかならない。天皇でもなく星条旗でもない、まさにあたりまえの主権者が中止の意思表示をすれば、オリパラごときの中止はわけもない。オリパラ中止は、「主権者のいる国」であることを証明する絶好の機会ではないか。