2016年8月10日水曜日

8月の猫

しばらく猫の写真を上げていなかった。

結論をいえば、相変わらず2匹とも元気。

ときどき喧嘩もするが、仲は悪くない。

写真を撮ろうとしても、なかなかツーショットの機会がない。

この日はタイミングがよかった。




2016年8月7日日曜日

『政府は必ず嘘をつく 増補版』

●堤未果〔著〕 ●角川新書(Yahoo!ブックストア) ●800円+税

政府の嘘が常態化する今日の状況

政府が嘘をつくことはいまに始まったことではない。たとえば、1940年代の日本。アジア太平洋戦争末期、日本軍の敗色が濃厚となった時点においても、日本帝国軍の戦勝報道が「大本営発表」の下、続けられていた。当時の日本国民は(TVはなかったものの)、大新聞、ラジオ、雑誌、ニュース映像による偽の「戦勝シーン」を見聞きすることによって、戦争勝利を確信していた。都合の悪い事実を隠したい政府、その政府に屈服し従属するメディア、信じたいものを信じる国民――という三者の構造的関係は、戦争から70年以上が経過した今日の日本において変化ない。

いや、変化ないどころか、状況はより深刻度を増している。今日の政府の嘘は、戦時、非常時下におけるものではない。言論の自由、表現の自由、基本的人権が憲法によって保障され、ジャーナリストが自由に取材、執筆することができるはずの世の中において、マスメディアから出てくる情報が、政府によって“検閲済”なものばかりか、隠蔽、操作されることが常態化しているという意味において、より深刻化している。国民は先の戦時下から何も学ばず、マスメディアは「大本営発表」を教訓とせず、戦後70年余りにわたり、政府の嘘を許容し続けている。

そればかりではない。政府による嘘の技術向上、巧妙さ、その連続性と増大という傾向は、政府が国民にとって不利益な体制の構築を着々と準備している予兆だと換言できる。本書は、政府~マスメディアが共同して国民に情報を隠すことの危うさを読者(=国民)に伝えなければという強い使命感に貫かれている。その意味において、著者(堤未果)は、まことに稀有なジャーナリストの一人だといえよう。

世界規模で常態化する嘘

政府の嘘はもちろん、日本に限定されていない。情報隠蔽、情報操作をモデル化したのはナチスドイツかもしれないが、米国によって、より緻密に方法化されたと思われる。前出の日本が負けた戦争の末期、広島、長崎に投下された原子爆弾二発も米国政府の嘘に依っている。当時、米軍幹部は原爆投下がなくとも日本は無条件降伏すると確信していたという。ところが原爆を投下したいトルーマン大統領(当時)らは、“上陸作戦が敢行されれば、多数の米軍兵士が犠牲になる”という嘘情報を流し、原爆投下を正当化した。その結果、広島、長崎の一般市民が大量虐殺された。

今日のアラブ世界の危機的状況も嘘が招いた

9.11をはさんで二度にわたった対イラク戦争、アフガン侵攻、リビア侵攻、シリア内戦、エジプト政変等にアメリカが関わっていたことは明白だ。介入の表向きの看板は「反独裁」「自由と民主主義を守る」「対テロ戦争」といったもの。イラクが保有しているはずの大量殺戮兵器は第二次イラク戦争後、存在しなかったことが判明した。米国のイラク侵攻は「嘘」を大義として敢行されたのだが、そのことを咎める国際世論は存在しないに等しい。日本はイラクに自衛隊を派遣したのだが、それが米国の嘘によるものだったことの反省・検証を促す政治勢力も日本に存在しないに等しい。

リビアの指導者・カダフィ大佐については、「アラブの狂犬」「非情な独裁者」というレッテルが米国及びその追随勢力によって貼られた。「リビア国民に対し非情な弾圧を行っている」というのも彼らのでっち上げ。カダフィは豊富な地下資源を背景にして、国内的には国民にやさしい福祉国家をつくりあげるとともに、対外的には大量に保有していた金を原資に、アフリカ・アラブ統一通貨「ディナ」の発行を計画していたことがわかっている。ドル・ユーロの価値低下をおそれた西側が、カダフィ暗殺を企てた。シリアのアサド大統領もカダフィの場合に酷似している。

エジプトでは「アラブの春」の直後、ムスリム同胞団主導のムルシー政権が成立したが、米国に支援された軍部中心のクーデターがおこり、シーシー政権が成立。そのとき、米国は「ムスリム同胞団はテロ組織支援政党だ」というキャンペーンをはった。シーシー政権によってムスリム同胞団はいまなお、弾圧を受けている。

イラク、シリア、リビア、エジプトといった、アラブの安定国家が米国等によって侵略される背景には、アラブをアメリカ化したいイスラエル・アメリカ両国の思惑が働いている。その第一は、イスラエルの安全保障。アラブ各国が安定して成長を続けることはイスラエルにとって最大の危機の到来という認識。アラブ各国が崩壊し、国力を低下すればするだけ、イスラエルの安全が高まると。

戦争は米国の主力産業

その第二は米国の戦争願望。戦争こそが米国の経済成長戦略だからだ。武器輸出はもちろんだが、産軍複合体による開発武器の実験場、戦争の民営化、セキュリティーシステムの販売(イスラエルの輸出主力商品はセキュリティーシステムである)…内戦状態のアラブ各国において、死の商人が暗躍する。その副産物がテロ集団ISであることに異論はあるまい。

原発報道は嘘のかたまり

最近の日本政府による積極的な嘘といえば、原発事故に係るもの。事故前は原発の「安全神話」という嘘が報道され、事故直後(菅政権)から終息宣言(野田政権)までの事故の実態についての嘘は、民主党政権下においてだった。以降、今日までの嘘は自公アベ政権によるもの。最近では、アベの「アンダーコントロール」が耳から離れない。「原子力村」は国家(行政)・産業・メディア・学界が複合化したコーポラティズムの典型にほかならない。

TPPは情報隠蔽

経済分野ではTPP。その内容はもちろん、交渉過程まで一切、情報開示されていない。著者(堤未果)が繰り返し警鐘を発するISD条項(投資家対国家間の紛争解決条項。Investor State Dispute Settlement)や医療・保険(国民健康保険)分野において予想されるリスクについて、日本のマスメディアは政府の嘘しか報道しない。

こうした傾向は日本だけではない。先進国の新聞・テレビ等、いわゆるマスコミはすべからく、投資会社やメディア事業者に買収されている。“ジャーナリズム”は既に死後である。日本のマスメディアは新聞社系に系列化されているが、株主構成をみると外資が過半を占めるという。日本のマスメディアは自らを「ジャーナリズム」、その従事者を「ジャーナリスト」と僭称するが、これも立派な嘘。彼らはメディア事業者、メディア事業従業者にすぎない。彼らが流す「情報」は政府及びスポンサーの主意に沿っているものばかり。

嘘の根源はコーポラティズム

著者(堤未果)は政府の嘘が常態化する主因をコーポラティズムに求める。コーポラティズムとは大企業(グローバル企業)が政府と一体化して、企業利益を追求するシステム(体制)のことだ。政府の政策は国民のためと謳われながら、実は企業の利益追求を手段化したものという具合だ。

近年の日本におけるわかりやすい事例は、国民総背番号制(マイナンバー)だろう。マイナンバーが立法化される前、マスメディアは海外先進国では当たり前――といった報道をしたが、海外では事故続きで、どこも行き詰まり状態だという。マイナンバーはだれのためかといえば、大手の通信事業者、ソフトウエア会社、プロバイダー等のIT企業だ。政府は彼らに対し、予算(税金)から莫大な事業費を支払ったばかりか、ほぼ永遠にかつ定期的に維持費、運営費、メンテナンス費用を支払い続ける。国民がマイナンバーから受ける恩恵はいまのところ皆無に近いし、将来的にないに等しいだろう。

TPPはアメリカ政府を使ったグローバル企業による市場開拓であり、グローバル企業がより自由に企業活動を展開するため、各国に具備された法律、規制等を無効化することが目的だ。たとえば、日本の地方自治体が地元産業に助成する制度をもっていたとしよう。TPP加盟国は、日本の地方自治体が行う助成制度について、フェアトレードを阻害するとクレームをつけることができる。TPPが発効すれば、助成を受けてなんとかやっている日本の地場産業、中小企業、農業等は壊滅する。

国家はどうあるべきかが重要

その背景には、新自由主義があり市場原理主義がある。ただ、剥き出しの新自由主義をいま現在、瀬戸際で阻んでいるのも国家にほかならない。資本主義国家群がロシア革命以降誕生した社会主義国家群(スターリン主義国家群もしくは阻害された労働者国家群)に対抗するため、労働者を保護し、市場の無秩序を経済政策でコントロールしようとした遺産(社会民主主義)が、西欧、日本にはまだ残っているからだ。福祉国家という概念もその一つだ。それらを規制緩和という名目で一掃しようと図るのが構造改革主義。構造改革を掲げる政治集団には注意を要する。

国家の支援を受けて世界中に吹き荒れるコーポラティズムの暴力から国民を守ることができるのは、実は自国政府(=国家)しかない。国家をどうするのかについては、国民が決めなければいけない。そのためには国家を制御する憲法をどうするかを考えなければいけない。

日本版『デモクラシー・ナウ!』を立ち上げよ

政府は嘘をつく。しかも政府の嘘は、メディアを媒介にして国民に伝えられる。ならば、国民が信頼できる新しいメディアをつくりあげることが急務となる。たとえば筆者の数少ない情報からえられるイメージとしては、米国で立ち上げられた、『デモクラシー・ナウ!』(Democracy Now!)のようなものだ。著者(堤未果)はエイミー・グッドマンになれるだろうか。


2016年8月5日金曜日

テレビが当選させた都知事、小池百合子

東京都知事選が終わった。投票日の午前中、筆者はあるSNSのダイレクトにおいて、仕事を一緒にしたことのあるZ子ちゃんとメッセージ交換をしていた。Z子が「今日は都知事選ですよ!」と話題を振ってきた。以下、そのやりとり。

筆者:Z子ちゃんは都民じゃないでしょう。これから鳥越さんに投票してきます
Z子:そう、神奈川県民なので。鳥越さんなんですね!!
筆者:もちろんですよ。参考までに、Z子ちゃんがまだ都民だったとしたら、だれにしますか?マック赤坂?
Z子:笑 マック赤坂 私は小池さんかな~

Z子は最近結婚して、東京から神奈川に転居したばかり。政治に興味のない、サーフィン好きのアラフォー女性。彼女の「小池さんかな」という呟きに、筆者は鳥越当選の最後の望みを絶たれたようにすら感じた。やっぱりだめか、と。

その予感はあっという間に現実となる。筆者の願望叶わず、鳥越は落選。超右派(改憲・軍事オタク)の小池百合子が当選した。改めて得票結果を見てみよう。小池百合子=2,912,628票、増田寛也=1,793,453票、鳥越俊太郎=1,346,103票、上杉隆=179,631票(以下略)。小池の圧勝だ。

立候補者を巡る混乱?

都知事選の経緯を簡単に振り返ってみよう。あの舛添前知事の騒動のあと、自民党・公明党は人気のあるジャニタレの父で元総務省の役人トップを候補者と目論んだが断られた。有力な代替候補がみつからないうちに小池が自公の公認を得ずに立候補を表明。慌てたように見えた自公はとりあえず増田を公認候補とし、保守分裂の様相を呈した。

一方の野党共闘(民進・共産等)は、先に立候補を表明していた宇都宮健児を下ろし、土壇場で自ら立候補を表明した鳥越俊太郎の推薦を決めた。

保守分裂、野党共闘は候補者の一本化に成功――この状況を受けて、筆者は都知事選における野党共闘の勝利を確信した。

テレビと小池

「東京都知事」については、ここのところ格好のテレビコンテンツとなり、猪瀬辞任騒動、舛添騒動と、朝から晩まで都知事関連報道がなされるのが定番となった。すっかりアベ政権のポチとなったテレビ局が自由に取材放映できる数少ない政治的題材。国政とは関係ないため、比較的自由に扱える。製作コストは安価だし視聴率も悪くない。視聴者側も都知事選ともなれば各候補者の品定め――と、お茶の間のかっこうな暇つぶしだ。

しかし、テレビ局というのはそれほど頭が悪いわけではない。都知事選の報道には巧妙な罠が仕掛けられている。前出のとおり、小池はいわゆる先出し立候補表明。思い付きではない。舛添辞任を見越して、都知事選にむけて準備をしていたと思われる。

自民党・公明党は前出のとおり、総務省の役人に断られた時点で、この選挙を諦めていたと推測できる。野党連合も候補者選びに難儀し、準備不足のまま鳥越に決まった。「後出し」有利という風評を流したのはテレビであり、野党連合もそれを信じた感がある。

小池当選はテレビの誘導の結果

このたびの都知事選は、テレビ局が小池当選に向けて暗躍した結果である。都知事選立候補者は、小池、増田、鳥越を含めて全部で21名いた。増田及び鳥越は政党の推薦者であるから有力な候補者であるという理屈はとおる。ところが小池は表向き、組織の支援を受けないと自ら表明していた。小池は元防衛大臣だから有力候補者として増田と鳥越と同格だという論理は成立しない。テレビ局が報道に値する候補者として増田、鳥越、小池を選び、3人に報道を集中させた根拠は理論的には存在しない。各テレビ局が恣意的にこの3人を「有力候補者」として選んだにすぎない。政党推薦なしの候補者は小池だけではない。小池の候補者としての格付けは、今回得票数4位(179,631)に終わった上杉隆と同程度。にもかかわらず、上杉に関するテレビ報道は皆無に近かった。小池を有力候補者の一人に加えたのはテレビなのである。

それだけではない。極めて興味深い分析がある。小池百合子のテレビ露出時間が他の候補者に比べて圧倒的に長いというデータ(「テレビ放映時間から見る都知事選」)である。小池が立候補表明を他の2人より早く行ったから露出時間が長かったという事実を考慮しても、小池がテレビによって、立候補者21名のなかで特別扱いを受けていたことが明らかだ。

三択の罠

三択から何を選ぶか――消費者が3ランクに格付けされた商品を選択するパターンである。「赤・白・ピンク」なら「ピンク」、「松竹梅」なら「竹」、「上中下」なら「中」、が選ばれる。政党色を嫌う東京人の過半は、冴えない風体の増田(白)及びオールドレフトの鳥越(赤)を嫌って、ピンクの小池を選択する。与党の増田(松または上)、野党の鳥越(梅または下)にも嫌気を感じ、推薦なしの竹または中(=小池)を選ぶ。

テレビに細断された情報の「かけら」

テレビが増田・鳥越・小池の3者を恣意的に選択し、報道を3人に集中した結果、イメージとして優れていたのは残念ながら小池だった。そのことを的確に評したのが、次のツイート。

@C4Dbeginner: 小池百合子候補は高齢世代からは穏健なリベラルに見え、ネット世代からは石原的な強硬派に見え、女性からは高学歴キャリア女性の象徴に見え、都議会に反発 する人には小泉的改革者に見える。無知や無関心ではなく、メディアに細断された「情報のかけら」の集合が生む鵺(ぬえ)のような怪物だと思う。

では小池の政治家としての本質はどのようなものなのか。金子勝のツイートが的確だろう。

masaru_kaneko: 【首都の死3】軍事オタクの核武装論者で移民排斥の新自由主義者の小池百合子氏が勝った。これから首都でトランプやボリス・ジョンソン並みのワイドショー型扇動政治が始まるだろう。だが、アベノミクスは日本経済と社会を破壊していく。

孫崎亨は小池を「アメリカがつくった政治家」だと評した。アメリカも小池の当選を喜んでいるとも。




地上戦の戦闘員

小池はメディア(主にテレビ)の援助を得て、いわゆる空中戦で他候補を圧倒した。では地上戦ではどんな戦いが展開されたのだろうか。小池の選挙戦の深層については報道がないからわからない。筆者も取材していない。だからここから先は推測になる。小池の選挙戦を支えたのはおそらく日本会議のメンバーではなかろうか。街頭への動員、シンボルカラーのグリーンの着装、選挙運動員の派遣、資金の捻出については、それこそブラックボックスである。政党推薦のない小池がその個人資産で賄ったとは思えない。

都民無党派層の傾向

今回の都知事選は1999年の選挙とまったく同じというわけではないが、保守が統一候補を絞り切れなかったという意味で共通していた。99年の当選者は石原慎太郎で推薦政党なし。石原の得票数は1,664,558、民主が推薦した鳩山邦夫が2位で石原の半分強の851,130、3位が推薦政党なしの舛添要一(836,104)、自公推薦の明石康は690,308で自公惨敗となった。今回と重なるのは、自公が明石、民主が鳩山、政党推薦なしが石原及び舛添で4名が有力候補者として注目された点。結果も今回の小池と同様、無党派の石原が圧勝した。ちなみに石原と舛添を足すとおよそ250万票で、小池の獲得票に近づく。

99年の自公の明石候補が今回の増田候補に、同じく民主の鳩山が今回の鳥越に、同じく石原が今回の小池に該当する。99年は無党派どうしの舛添と石原が票を食いあったため、石原得票数は今回の小池に遠く及ばなかったが、政党推薦なしが圧勝するパターンは99年に既に確立されていたのだ。今回は舛添のような「不純分子」が立候補しなかったため、表向き政党推薦なしの小池が圧勝という形をとった。今回の自公推薦の増田はタマとして最悪で、99年の明石と似たタイプ。鳩山と鳥越はタイプ的に異なるが、野党推薦で勝てるパワーはともになかったことが共通項。石原と小池はよく似た者同士で、無党派層の厚い支持を受ける要素を具備していた。

全政治過程における野党の怠慢

建前としての無党派(候補)が、実態と異なることはよくあること。だからといって、テレビがつくりだしたイメージに簡単に騙されてしまう都民は愚かだと嘆いてみても始まらない。都民の皮膚感覚的投票行動を都会人の軽薄さと侮蔑することもできない。有権者がどうだこうだ、と嘆いてみても得るものはない。「劇場型」「先出し後出し」「知名度」とマスメディアが流した都知事選のイメージにたやすく便乗しようとした野党側にすべての責任がある。

野党連合は、たとえばこのたびの主戦場である東京都において、戦後71年間、いったいどれだけの確固たる支持者を獲得し得ていたのか。民進党は、頼みの連合ですら反原発を踏み絵にして、鳥越支持の一本化を取り付けられなかったし、共産党も、党員数及びそのシンパ数は一貫して減少もしくは横ばいである。特定秘密保護法、原発、安保法制、TPP、改憲・・・と、政権を追い込む政治課題が山積していながら、しかも、甘利問題はじめ自公側にオウンゴールがありながら、勝ちきれない。相変わらずの「風」だのみ、若者団体「SEALDs(シールズ)」に尻を叩かれるありさまだ。経済危機がやってきて、プロレタリアートが一斉蜂起する夢を彼らは見続ける気なのか。党が「風」や「劇場」という自然発生性に拝跪したままならば、政権奪取(変革)は永遠にやってこない。「野党」が強い党をつくるために努力するしかないのだ。

2016年7月13日水曜日

鳥越俊太郎を支持する

役者がそろった都知事選

ジャーナリストの鳥越俊太郎が東京都知事への立候補を正式に表明した。ご承知のとおり、舛添要一辞任後の同選挙の立候補者については混迷を極めていた。保守陣営(自民公明)からは自民党国会議員の小池百合子が自公の推薦を受けずに出馬を表明、与党側はこれを公認せず、原発推進派の元建設官僚・増田寛也を公認した。

一方、反自公陣営からは宇都宮健児が出馬を表明していたのだが、そこに、先述のとおり鳥越が宇都宮をかぶせるようにして出馬を表明、それを受けて、参院選から継続中の野党共闘の流れを受け、民進・共産等が鳥越を急きょ公認した。

結局のところ、与野党双方がそれぞれ2名の候補者を出すという異例の展開で選挙戦を迎える。その間、タレントの石田純一、古賀茂明が「反与党的立場」から出馬を表明しながら、すぐ撤回するというハプニングもあった。

反安部の流れを持続し実現せよ

鳥越の出馬については批判がある。その第一は国政を地方自治に持ち込むなというもの。第二は健康状態。第三は都政に無知、政策がない云々。これらの批判は筆者から見れば、批判に値しない。なぜならば、鳥越の出馬は「東京都知事」の地位に限定されていないからだ。鳥越の危機感は参院選与党(安倍政権=自公)勝利にある。安倍政権が準備しているのは、憲法改正、安保法制の強化、福祉切捨て、格差拡大、対米追従の日本だ。先の参院選の結果は、国民がそのことに無自覚なまま、安倍を容認したことになる。

鳥越の危機感は筆者のそれ。参院選前、野党も“安倍にそこまでは”という自覚の下、やっと一人区における野党共闘を実現させた。そして都知事選、この期に及んで、都知事選を東京の自治に限定する都知事候補は政治センスがなさすぎる。それほどまでに「地方自治」にこだわるのならば、都知事ではなく区議会選挙にでも出馬したほうがいい。野党共闘は、最重要選挙区である沖縄、福島で与党候補に勝利した。流れをつかみかけた野党陣営が都知事選においても共闘を継続するのは政治における常道といえる。鳥越公認を野合だとか、政策協定がないと批判するのは、ある種の原理主義。流れを渡せば、都民、国民が損をするのだから。

宇都宮陣営が仕掛ける野党共闘妨害工作

宇都宮健児が頑なに鳥越批判を繰り返し、野党共闘の流れに水をさしている。宇都宮の出馬によって喜んでいるのは、分裂選挙を余儀なくされ、二流のタマである増田を擁立した自公だ。鳥越VS〈小池・増田〉ならば、増田に勝ち目はない。ところが、野党側も分裂してくれたので、増田に勝ち目が出てきた。宇都宮は猪瀬辞任後の都知事選においても細川護熙の出馬に与せず、舛添の勝利に間接的に貢献した。そして宇都宮は再び、自公のアシストを繰り返した。

がん患者に希望を与える鳥越出馬

次に鳥越の健康問題である。筆者は、鳥越が「がん患者だから政治がダメというのはおかしい」という意味の発言をした。筆者は鳥越の言葉に共感する。がん患者は病気に苦しむと同時に、社会の差別にも苦しんでいるという。鳥越ががんを乗り越え、しかも、余命を都政改革、反安部政治のために燃焼させようというのならば、それこそが多くのがん患者の励みとなろう。それをロマン主義と笑うのは勝手だが、筆者は鳥越にエールを送りたいし、勝ってもらいたいと願っている。

政治家選びに重要なのは候補者の人間性、感性の見極め

出馬表明のさい、鳥越は具体的に政策を語らなかったとの批判がある。だが待てよ、先の参院選において、一国の首相すら、政策を語らなかったではないか。安倍が語ったのは「アベノミクスの推進」だけではなかったか。しかも、そのアベノミックスだってなんの成果も上がっていない。大事な年金を損失させ、格差を拡大し、自らが公約した消費税率のアップすら取下げたではないか。沖縄出身でありながら、基地問題を語らなかったタレント候補はどうなのだ(彼女は当選したらしいが)。

政治家に必要なのは、実態のない言葉(政策らしきウソ)ではない。有権者が見抜かなければならないのは、候補者のもつ人間性、感性、センス、たとえば弱者に対する配慮などだと思う。その配慮とは、「福祉重視」「待機児童の解消」「特養老人ホームの増築」「公営住宅建設」という政策の具体性(言葉)とは異なる次元のものだ。投票行動の構造的分析は困難かもしれないが、有権者が、立候補者が弱者に真に寄り添っているか否かを見極め、そのことを投票の指標とするならば、日本はちがった国家になっていたように思う。

※拙Blog投稿後の夜、宇都宮陣営が都知事選立候補の取下げを表明。同陣営による野党共闘妨害工作は終焉した。

2016年7月7日木曜日

神楽坂~東京大神宮

神楽坂

にぎやかですな。

地下鉄の駅を出るとすぐにあるイベント&物販スペース




クラフトビールが飲めるパブ

東京大神宮~七夕祭り開催中(縁結びの御利益があるとか)
偶然通りかかった東京大神宮



2016年7月4日月曜日

母の日・父の日など

5月(母の日)、6月(父の日)、7月(家内の誕生日)、8月(小生のそれ)と、行事が続くので娘夫婦がそれらをまとめて一回にして祝ってくれた。

車で高尾山のふもとまでいって、ケーブルカーで山頂付近へ。

そこから徒歩で山頂を目指そうとしたしたところ雷雨。

ケーブルカーの駅舎に避難して登頂を諦めた。

下山後、「うかい竹亭」にて晩御飯。

ホタル観賞のイベント付きである。










2016年7月3日日曜日

NICOがやってきてから5年

白猫のNICOが拙宅に来てから5年がたった。

先にサビのZAZIEがきたのち、家内が血眼になって2匹目を連れてきた。

理由はわからない。

ZAZIEがメスでNICOがオス。

バランス感覚か?

2匹とものちに手術を受けた。

来た当時は数日物陰に隠れていたのだが、次第に慣れ、いまでは超甘えん坊になってしまった。


2016年6月25日土曜日

英国、EUを離脱!

まったく、なんてことしてくれるんだ、というのが率直な感想。英国国内に断絶と分断を招き、世界経済を混乱に陥れたキャメロンの責任は極めて大きい。

そもそもリーダーとしての資質を欠き、不人気なキャメロン。失地回復、求心力アップを図って大博打(国民投票)を打った。だが、EU残留か離脱かの国民投票は、いまの時期、絶対にやってはいけない「政治的選択」の一つだった。Leave(離脱)、Remain(残留)のどちらに決まっても、悪い結果をもたらすことは明らかだった。

「キャメロンの国民投票」をポーカーにたとえるなら、自分の手は10の3カード、ここで勝負と全財産を張り込んで、「勝負」!と開けてみたら、相手はJの3カード。僅差だが負けは負け。キャメロンの保身のための大博打で世界中が大混乱だ。

英国人にも言いたい、もう少し理性をと。そして筆者が学んだ教訓――「国民投票」という手段の恐ろしさの実感――こいつは、極めて危ない手段なんだなと。

さて、EU=グローバリズムという論調が幅をきかせているみたいだけど、EUはむしろ経済のブロック化であって、いわゆるグローバリズムとは違う。渡航の自由、関税なし、統一通貨・・・は、EU域内の加盟国とその国民に限られた特権だ。小国が群生する欧州が、米国、ロシア、中国といった大国と経済的に合い渉る手段の一つだった。もちろん、戦争に明け暮れた欧州の歴史を終らせたいという理想主義も含まれていた。

EU離脱を促したのが「移民問題」だという。だが、英国は世界中に植民地を保有していた、「大英帝国」の歴史をもっている。英国は、自国及び保有する植民地の労働力確保するため、世界中から人間を強制的に移入してきた。植民地先住民は自由意志ではなく、奴隷として、強制的に英国及びその植民地に移送されたのだ。それだけではない。英国は自国の戦争のため、植民地の先住者を兵士として徴用してきた。それなのにいまさら、EU内から移民が流入したからといって、彼らを敵視する資格があるのだろうか。

英国で起きている格差の拡大は、それこそグローバリズムがその主犯であって、EU域内の渡航の自由の結果ではない。英国は米国に倣い、新自由主義、市場原理主義を掲げて福祉を切り捨て、民営化と金融資本主義の肥大化により、富裕層と貧困層が二極化した。貧困層は、自分の仕事を移民に取られたように感じるのかもしれないが、移民が行っている仕事は、もともと英国内の最下層が担っていた。グローバリズムの進行に従い、それまで厚く形成されていた中間層が崩壊、下層に転落した前中間層が職を求めようとしたら、移民が既にその職に就いていた、というわけだ。

新自由主義、市場原理主義を「よし」としたなら、社会の格差発生を覚悟して当然。「出来のいい」人間が富を独占することが新自由主義の鉄則なのだから。敗者には目もくれないのが新自由主義だ。それだけではない。コストを下げるのが市場原理。労働力ももちろんコストの一つ。だから、近年の英国は、東欧、南欧、アラブ、アフリカから、低賃金で働かせられる移民を歓迎してきたではないか。市場原理主義は「痛み」を伴うどころではない、人間を使い捨てることを「よし」とする経済システムであり、それを「よし」とするイデオロギーなのだ。

資本主義経済が社会に格差を生むことは19世紀にすでに広く認識されていた。西欧の先進資本主義国家はそこで社会民主主義を選択し、富の再配分に重きをなしてきた。労働者(組合)の政治参加を容認し、彼らの利益を社会に反映させる仕組みを取りいれてきた。福祉国家建設を第一としてきた。

このたびの英国のEU離脱が社民主義への復帰を掲げたものならば、筆者は大いに賛同しえた。ところが実際は、それと真反対――離脱主義者の政治理念は孤立主義、排外主義のように思える。「見えない敵」を見ようとする努力を怠り、人種、宗教といった、「見える」ものに対し、安直に敵意を向ける風潮が社会に蔓延する危険性を予感させる。それはヒトラーの「ユダヤ人」排除の思想と通底する。

英国のEU離脱の選択は、社会の格差をいま以上に広げ、より深刻な断絶と暴力を英国内に加速的に蔓延させる契機となるだろう。

2016年6月24日金曜日

ベトナムからお客様

ベトナム人留学生のカーさんが、拙宅にやってきた。東大で土壌の研究をしているという。




2016年6月16日木曜日

Chama Chama , La Cuji (根津)

Chama Chama(イタリアン)



Modern Jazz Bar La Cuji



2016年6月13日月曜日

Zazieがやってきてから5年もたった。

2011年の大地震のあと、家内が猫をどこからか連れてきた。

寝耳に水のできごとであった。

「動物は無理」と、常日頃から話していた。

動物がきらいではないが、負担が大きいと感じていたから。

メリットもデメリットもあるよと。

だが、すでに猫がいる。

もはや、選択の余地はなかった。

しこうして、これまで、猫との同居が続いている。

猫はもちろん可愛い。

猫の本も買って読んだ。

命を預かった以上、そのことは「好き、嫌い」を超えた状況なのだから。

猫を連れてきた家内は、すでに猫に関心を失っている。



2016年6月10日金曜日

『日本会議の研究』

●菅野完〔著〕 ●扶桑社新書 ●800円+税

本書を読み進めるうち、背筋が凍るような戦慄が走った。日本の政治(家)はここまで劣化してしまったのかと。それを推し進めてしまったのは社会の、いや私たち自身の劣化なのではないのかと。

誠に示唆多き書である。本題に研究とあるが、おかたい研究書ではない。きわめて今日的な、かつ、スリリングな書である。とりわけ、日本会議の黒幕ともいうべき幹部の正体を突き止める部分(最終章「淵源」)は、推理小説を読み進めているうち、犯人が特定されるかのような興奮に満ち満ちている。そのような意味においても、本書の一読をお薦めする。

日本会議についての印象

本書を読む以前、日本会議についての筆者の認識がきわめて甘かったことを告白する。その名称、すなわち「ニホンカイギ」という漠としたそれから受けた印象は、日本の保守勢力のゆるやかな結合組織というもののように思えた。著者(菅野完)も、日本会議のとある集会を評して、次のように書いている。

(集会に集まったグループについて)一口に「保守系」といっても、動員対象となった各教団は、それぞれ掲げる政策目標も運動への温度差も違う。(略)全ての教団が従来の「保守」や「右翼」といった範疇に入るわけではない。そんな多種多様な人々が「なんとなく保守っぽい」という極めて曖昧な共通項だけでゆるやかに同居しているのが「日本会議」だともいえる。(P130)

著者(菅野完)が強調する日本会議の世俗性

著者(菅野完)は、“日本会議には多くの宗教団体が参加している。しかしそれは決して「カルトによる支配」でも「宗教団体の陰謀」でもない。日本会議について知るためには、そうした幼稚で拙速な陰謀論的総括と誤解を排す必要がある。そうした認識を捨てたうえで、まずは、日本会議が辿ってきた歴史を振り返ってみよう」(P38)と書いている。

その一方、あるメディアは、日本会議をカルト集団と特定した。本書を読む以前、その規定を信じていなかったのだが、本書を読むと、著者(菅野完)が日本会議はカルトではないと強調するのとは裏腹に、それはまさしく、カルト集団以外のなにものでもなかった。その理由については後述する。

戦後70年目にして初めてイデオロギー政党となった自民党

さて、戦後71年間、自民党は、細川政権(1993-1994)、民主党政権(2009-2012)の短期間を除いて、ほぼ政権の座を維持してきた。

自民党の組織基盤については、宗教団体を別格として、小選挙区の場合、地元後援会(地縁者、縁故者等)を中核とし、地元への利益還元を候補者に託してきた。一方、大選挙区の場合は、事業者団体が自民党候補者を業界あげて応援するという構図であった。事業者団体のなかで大規模なものの代表としては、農協(中央組織JA)、建設業団体が挙げられる。また、小規模なそれとしては、理髪業組合、中小不動産業者団体などが身近な存在だ。数ある業界団体がそれぞれ政治連盟を組織し、たとえば参院選挙比例代表の場合は署名を集めるなどして、それぞれの業界団体が推薦する候補者の名簿上位順を上げる努力をしてきた。業界団体の支援を受けた候補者が当選した暁には、業法(規制法)を関係省庁の担当部署に整備させ、新規参入者排除等の業界利益を業者のためにはかってきた。筆者の記憶にすぎないが、こうした選挙における自民党と支持母体の関係は、西暦2010年前後までは盤石だったような気がする。

こうしたいわゆる政-官-財のトライアングルが今日まったくなくなったとはいわない。だが、構造改革、経済のグローバル化及び新自由主義の台頭等により、その関係は以前ほどではなくなった。加えて、数を頼んでいた中小事業者団体構成者の高齢化、事業者数の減少といった、事業者団体の弱体化もある。

日本会議を考える場合、このような自民党を巡る集票構造の変化を理解しておく必要がある。日本会議が自民党に接近できた背景には、業者団体の衰退及び経済的結び付きの弱化を見逃せない。経済的結び付きにおいては、イデオロギーは関係しない。あくまでも経済上のギブ・アンド・テークの関係が優先される。

いずれにしても、これまで自民党にとっての支持団体(=圧力団体)のはずの中小規模の事業者団体が衰退してしまった結果、自民党は新しい支持団体を必要とした。その中の一つとして日本会議が大いなる台頭を見せ今日に至った。自民党は戦後70年の経過をもって、初めてイデオロギー政党になった。

成長の家開祖・谷口雅春の『愛国聖典』

安倍政権の閣僚のうち公明党を除く自民党の閣僚のほとんどが日本会議に名を連ねていることから見ても、自民党が日本会議のイデオロギーの影響下にあることは間違いない。では日本会議のイデオロギーとはなにかといえば、「生長の家」開祖(「生長の家」では総裁と呼ぶらしいが)、谷口雅春(1893-1985)の教えということになる。谷口の教えを絶対的に信仰し実践することと換言してもいい。

なお、本書において再三注意喚起が促されていることだが、日本会議は現存する宗教法人生長の家(谷口雅宣会長)とは一線を画しており、著者(菅野完)は日本会議を「生長の家原理主義」集団と規定する。

〈日本会議〉と〈宗教法人生長の家〉の違いについての詳細は本書を読んでいただきたいのだが、端的に言えば、前出のとおり、日本会議は開祖谷口雅春の教えを一言一句忠実に守り、実践するというところにある。

谷口雅春の代表的著作『生命の實相』には、過激なカルト的傾向は認められない。しかし、Wikipediaによると、“谷口雅春はアジア・太平洋戦争期に急速に右傾。国家主義・全体主義・皇国史観・感謝の教えを説いた。こうした教えを記述した雅春の著作は、信徒間で「愛国聖典」と呼ばれた。「皇軍必勝」のスローガンの下に、金属の供出運動や勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど、教団を挙げて戦争に協力した。なお当時の信者には、高級軍人の家族が多くいた。”とある。

1970年前後、新左翼学生運動(全共闘運動)が隆盛を極めた時代、それに対抗して「民族派」と呼ばれる学生組織がいくつか結成されたのだが、「成長の家」の若き信徒がその中核を担っていたことはあまり知られていない。そして彼らは、新左翼各派と激しい暴力闘争を繰り広げた。このことは、本書に詳しく書かれている。

現在の日本会議の指導者は、当時、長崎大学園紛争において、左翼各派と闘争を繰り広げ、学園秩序を回復することに成功した、生長の家信徒の民族派学生組織の幹部であったことが本書に明らかにされている。日本会議の幹部は、左翼学生組織との闘争を経験する中で、谷口雅春の『愛国聖典』を忠実に受け継ぎ、それを今日まで運動の原点としてきたのではないだろか。

日本会議が目指すのは、日本国憲法を廃し、明治維新後の1889年に公布された大日本帝国憲法や「教育勅語」へと回帰することだ。そのことは、日本国民が先の戦争で300万人以上の犠牲者を出して手に入れた、▽国民主権、▽基本的人権の尊重、▽平和主義――等の理念の否定であり、▽言論の自由、▽信仰の自由――等の否定にもつながる。本書P221には、自民党政調会長・稲田朋美が生長の家の聖典『生命の實相』を掲げる写真がある。もはや、日本の政治(家)は、このような危険水域に達してしまったようだ。

日本会議は〈世俗的集団〉なのか〈カルト集団〉なのか

著者(菅野完)は、本書の後半、日本会議に係る自身の考察について自問自答しつつ、以下のとおりの回答を示す。

ここで、本書の問題意識について改めて触れておこう。
「安倍政権の反動ぶりも、路上で巻き起こるヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実はごくごく一握りの一部の人々が長年にわたって続けてきた『市民運動』の結実なのではないか?」(P220)

以下、本書においては、著者(菅野完)の回答の実証のための記述が続く。そして、次のような結論に至る。

彼ら(日本会議)の運動がスタートしたのは、70年安保の時代。
あのころからすでに50年近くの歳月が流れた。にもかかわらず彼らはいまだに当時の同志の紐帯を維持し、その輪を広げている。彼らは敵であった左翼学生運動がその後、内ゲバや離合集散を繰り返し、党派としてはおろか人間関係としても元の姿をとどめていないのと対照的だ。なぜそんなことが可能なのか?彼らの一体感はどこから生まれるのか?なぜ彼らは同志の紐帯を維持し続けられるのか?(P236)

と書きつつ、日本会議の成長の秘密について、彼らが左翼勢力のノウハウを学び、世俗的に成長を遂げたこと――その事務能力の高さと継続性――にあることを強調する。日本会議とは市民運動だと。

(日本会議の)個々の構成員は高齢でそのくせ考えが幼稚でかつ多種多様かもしれぬが、これを束ねる(日本会議の)事務方は、極めて優秀だ。この事務方の優秀さが、自民党の背中を押し改憲の道へ突き進ませているものの正体なのだろう。(P132)

繰り返せば、日本会議とは、70年安保闘争における長崎大学園紛争の最中、右派学生活動家であった数人の学生が左派勢力に勝利して以来、生長の家原理主義者としておよそ半世紀にわたって、保守的「市民運動」を継続し、あまたの保守勢力を持ち前の事務能力の高さで束ね、今日、自民党を乗っ取るくらいの勢力に成長した――とする著者(菅野完)の解析はおそらく、そのとおりなのだろう。

だが、著者(菅野完)は、前出の本書最終章「淵源」において、日本会議が半世紀近く、彼らなりの市民運動を継続し得た〈秘密〉を明らかにする。その〈秘密〉をここで明かすわけにはいかないが、日本会議の幹部の紐帯こそが、日本会議が〈カルト集団〉である所以にほかならない。

著者(菅野完)はことさら、日本会議の世俗性を強調しながら、最終章において、その幹部たちが個人崇拝と神秘体験を肯定し、それを基盤として結束する〈カルト集団〉であることを苦労の末、明らかにしてしまう。さてかかる矛盾の指摘は、筆者の誤読の結果であろうか――

2016年6月7日火曜日

桐の花

スポーツクラブに通う道、桐の花が咲いていた。(田端)



2016年6月1日水曜日

居酒屋『大喜里』さんへ

またまた、谷根千のお隣、日暮里へ。JR日暮里駅近くの居酒屋「大喜里」さんへ。

オリジナルの麦焼酎をお土産にいただきました。





こちらがお土産

2016年5月27日金曜日

MIYAKE ISSEY展

ファッションデザイナー、三宅一生の仕事を集成した「MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事」を見た。

三宅一生はパリコレで大成功した日本人デザイナーの一人。同展は1970年から現在までの彼の仕事の足跡を集めたもの。

およそ半世紀に渉る創作活動を限られたスペースの展示場で再現するわけだから、展示物の選択は、キュレーターの主観性に委ねられることは仕方がない。今回の展示は、近作に重点が置かれているような印象を受ける。同展だけを見た若い観客は、三宅一生について、ITを駆使したファッションデザイナーであるかのような印象を持つかもしれない。

本展示は、三宅一生の「現在」のデザインの在り方を出発点として、過去のそれに遡っているのであって、過去から「現在」に向かった道筋は失われている。存命の作家の仕事を展示する宿命として、ましてやファッションデザイナーという「今日性」の維持が絶対条件の立場を尊重するがゆえ、この展開は致し方ない。

だがそうなればなるほど、三宅一生の独自の世界観は何なのか、表現のコアはどこにあるのかが必然的に希薄になる。

展示の出発点が横尾忠則の「タトゥー」のジャンプスーツ。そして現在に近づくと、「プリーツ」を結節点として、関口光太郎のコラボから、タブレット、リサイクル(ポリエステル)に象徴されるIT(情報技術)処理的デザインのイメージに変化する。出発点の横尾忠則は、1970年当時のデザイン界のリーダー的存在だった。三宅一生は、横尾のデザインに寄り添うことからスタートした。それが、三宅一生の出発点であり、それ以降、時代の主流に寄り添うことに注力した。本展示会は、三宅一生の過剰な時代性依拠の態度を透けて見せる。

作風の変化、時代の影響を否定しない。それを被らない作家はいないだろう。だが、それは創作の原点、世界観、存在の根源性があってのものだ。

三宅一生とは、まずその時代の主流に寄り添い、さらに、その時代その時代、彼が抱えた多数の無名スタッフのパワーを吸い取って、「MIYAKE ISSEY」というブランドであり続けた、いやこれからもあり続けようとしている。前出のコラボレイターとしてここに記名した作家は氷山の一角。三宅一生は、その意味において、優秀なディレクターであって、作家ではない。



国立新美術館 東京


見終わった後は、近くのミッドタウンにてランチとお茶して帰宅。


2016年5月25日水曜日

舛添問題の裏側

湯河原の私邸への行き来に公用車を使用した疑惑に端を発した舛添要一東京都知事の政治資金不正使用問題。連日、TVが舛添バッシングに明け暮れている。

舛添を推薦した政権与党(自民・公明)の責任重大

思えば2014年2月投票の東京都知事選、舛添は自民党・公明党等(政権与党)の推薦を受け同年1月に立候補を表明した。舛添の主たる対立候補者は細川護熙元総理大臣及び宇都宮健児弁護士の2人。この選挙は、それまで都知事だった猪瀬直樹が裏金受領問題で辞任したことによる。舛添は、自公によると、元都知事の石原慎太郎、猪瀬に比して、カネにクリーンな人物という触れ込みだった。猪瀬は石原時代の副知事。石原~猪瀬と続いた東京都知事の職はカネまみれだったから、都民はとにかくクリーンな候補者を望んでいた。

2014年都知事選、政権与党(自公)は舛添を推薦し支援した

ところで舛添の政治家としてのスタートは、自民党の国会議員からだったのだが、自民党が政権の座を降りるや否や同党を離党し(除名)、新党を結成して反自民の立場をとった。筆者は、そんな舛添が自民党の推薦を受けて都知事候補となったことに違和感を覚えていたから、もちろん舛添には投票しなかった。

このたびの舛添攻撃の主たるネタは、舛添が自民党を離党して新党を結成してから都知事に当選するまで(2010-2013)の政治資金問題の使途であって、現職(都知事)のものではない。

自公は舛添=クリーンという不当表示を都民に謝罪せよ

とまれ舛添という政治家は、自民党を離党(除名)しながら、その自民党の推薦を受けて都知事に立候補したわけで、かなり怪しい政治姿勢の持ち主である。そんな舛添を除名した自民党があえて彼を都知事候補に祭り上げたのは、舛添がTVメディアに頻繁に登場するタレントとして知名度が高かったから。

おそらく、自民党及び御用メディアは、舛添が「クリーン」ではなく、政治資金を不正に使用していたことを知っていたはず。にもかかわらず、「クリーン」なイメージを舛添に付加して、善良でナイーブ(うぶ)な東京都民(有権者)を騙し、都知事に当選させたことになる。この所業は自民党及び御用メディアによる不当表示行為であり、今日、舛添の「悪事」が明確になりつつあるのだから、まずもって、自民党・公明党及び御用メディアが2014年当時の都知事選挙時における自らの不当表示行為について都民に謝罪することが筋である。

舛添攻撃は安倍政権及び電通の危機の目くらまし

舛添攻撃はなぜ、いまTVメディアによって集中的に行われているのか。その理由の第一は、政権の躓きにある。アベノミックスの失敗(株安、家計収入減等)、消費税率アップ問題、不透明なTPP交渉過程、貧困問題に代表される社会福祉政策の不備等の諸問題が山積していて、その解決の糸口がない。加えて、沖縄の基地問題も米軍関係者の犯罪によって、安倍政権を追い詰めつつある。

第二に、パナマ文書公開で明らかになったように、日本の富裕層による合法的脱税が明らかになり、重ねて(第三に)、日本国民に対する洗脳司令塔=電通の五輪招致不正送金問題がある。

第四に、オバマの広島訪問による、日本全体の反戦、反核意識の高まりも指摘できる。この意識が高まれば、安保問題(集団的自衛権行使容認等)見直しの動きを加速させ、憲法改正の動きを大幅に後退させるエネルギーに転化する可能性を秘めている。

いうなれば、この5月・6月は安倍政権最大の危機であり、7月の参院選で自公が大幅に議席を減ずる可能性も高まる。このことは、安倍政権及び洗脳司令塔(電通)にとって、最大の危機の到来とも換言できる。そこで、諸々の政治課題を隠蔽し、国民の目をくらます生贄、ガス抜きの対象として、舛添要一が選ばれた可能性は極めて高い。メディアを舛添攻撃に集中させ、政権批判をメディアから遠ざける効果を期待しているのだ。サミット開催に至れば、サミット報道を政権の宣伝に使う算段である。

そればかりではない。舛添は、東京都における巨大利権(2020東京五輪)において、組織委員(森喜朗=電通)と、ことごとく対立しているともいわれている。だから第五の要因として、東京五輪プロジェクトにおける阻害物=舛添「外し」が企てられた可能性も否定できない。

舛添バッシングは単一の要因からではなく、いくつかの要因が複合化した結果であり、それだけに強力な攻撃力となってメディア総動員で行われている。筆者は舛添に同情はしない。筆者は、前出のとおり、彼が2014年の東京都知事選に自公推薦で立候補した時点で、怪しいとにらんでいたからだ。それゆえ、ひるがえって考えるならば、いまのメディアの舛添攻撃はリンチ(私刑)に等しい。2014年、都知事選に舛添が立候補した時点で、彼の政治家としての本性をまともにメディアが報道していれば、都民は正しい選択ができた。

舛添を担いだ自民党・公明党も「知らなかった」では、すまされない。メディアは、当時の推薦者である自公をまずもって追求すべきであり、同時に、メディア自身が反省をしなければいけない。そのことを忘却して舛添攻撃に現を抜かすのであれば、筆者はケチな政治屋・舛添要一よりも、彼に一斉攻撃を仕掛けるメディアの方に恐怖を覚える。

2016年5月24日火曜日

天王寺(谷中)

 天王寺の庭はたいして広くないけれど、四季折々、さまざまな表情を見せてくれる。