2012年7月27日金曜日

猫の夏バテ

先週の半ばごろであったであろうか、猛暑日から急に気温が下がったころ、Nicoが元気をなくした。

いつもはたくさん食べる餌を残すし、鳴かなくなり、部屋の隅に引っ込んでばかりいる。



2、3日様子を見ていたところ、回復の兆しが見られたのだが、念のため、24日(火)に病院に連れて行った。

診断の結果は「夏バテ」とのことで、猫用の点滴を打って帰宅した。

その翌日、毛並みが良くなり、餌も食べるし、すっかり回復。

いまでは元気なNicoに戻っている。


もう一匹のZazieは変わらず、元気である。


2012年7月24日火曜日

「いじめ」ではなく犯罪だと認識せよ

「いじめ問題」をかくも深刻化させた要因はいくつかあろう。だが、最大の要因と思われるのは、文科省、教育委員会、学校、マスメディアが、「いじめ」を特定のカテゴリーとしてしまったことだ。「いじめ」の責任を、学校(その管理責任者である校長)におしつけたばかりか、学校長に対するマイナス評価としてしまったことだ。

すでに報道にあるとおり、「いじめ」問題解決のための現行の制度では、「いじめ」等の問題が発覚した場合、教育委員会及び学校が第三者調査委員会をたちあげ、調査が終わった段階で、調査結果を公表しなければならない。

ところが、おかしなことに、管理責任を問われる側(すなわち教育委員会及び学校)が、委員会組成の実質上の事務局となっている。つまり、裁かれる側が裁判を主催するようなもの。当然、教育委員会及び学校は、自らに責任が及ばないよう、調査委員会を骨抜きにする。教育委員会及び学校は、調査結果において自らの管理責任が明確になった場合、訴訟により賠償責任を負う可能性が高いからだ。

しかし、そのような事態に至るのはレア・ケースで、学校の現場では、軽微な案件であっても「いじめ」が表面化しないよう、つまり、調査委員会の立ち上げまでに至らぬよう、「いじめ」はすべからく存在しないとする、隠ぺい工作に走ることになってしまった。前出のとおり、隠ぺいすることで、学校管理者はマイナスの評価を回避しようとする。

つまり、学校の現場では「いじめ」があっても“ないことと”にし、よしんば、「いじめ」が発覚してしまった場合でも、教育委員会と学校が共謀して第三者委員会を骨抜きにし、「いじめ」の実態を明らかにさせないよう工作する。自らに責任が及ばないよう、蓋をしているのが実態なのだ。

その結果なにが起きるのかといえば、学校内外は「いじめ放題」「いじめられ放題」の無法地帯となり、「いじめる側」に一切処罰が及ばず、「いじめられる側」は被害を受け続けることになる。その挙句、「いじめられる側」に自殺者が出ても、自殺と「いじめ」の間の直接的因果関係が証明されにくいことをいいことに、「いじめる側」は司法によって守られるという最悪の結果を招いてしまったのだ。

「いじめ問題」はきわめてシンプルである。それを「いじめ」という特定の域に特殊化するから複雑になるのであって、暴行、恐喝、脅迫等の犯罪が生徒間に発生していれば、被害者は被害届を出し、警察当局が加害者を未成年犯罪者として検挙すればいいだけの話だ。学校の現場に警察が入るのはどうのこうという者もいるようだが、報道で知る限りでは、深刻な「いじめ」などあり得ないのであって、どれもみな犯罪なのである。

犯罪発生に管理責任はない(場合が多い)。たとえば、職場内で殺人事件が発生しても、職場の管理者が管理責任を問われることはほとんどの場合、ない。学校内で犯罪が発生しているのに、学校(長)の管理責任を問うことが誤りなのだ。もちろん、学校が「いじめ」と呼ばれる犯罪を自らの手で解決できるのなら、警察の力は借りなくてもいい。だが、学校はこれまでのところ、無力であった。深刻な「いじめ」が発生していた学校に、解決能力はなかった。

もちろん、隠ぺい体質が「いじめ」の発覚を妨げたということもできる。だが、それを「いじめ」だと特定化するからややこしくなるのであって、犯罪だと考えれば見過ごすこともできないだろうし、発覚したことにより管理責任を問われることもない。

自殺者が出ているということは、それがいかに深刻な問題であるかを知る必要がある。少年少女を自殺に追い込むような行為が「いじめ」なのか犯罪なのかを問うてほしい。明らかに後者だろう。学校現場が犯罪を放置し、犯罪者を守っているのならば、それこそ、教師こそが犯罪者ではないか。

では、なぜ、小学校、中学校で暴行、脅迫、恐喝等の犯罪が少なからず横行しているのか。その回答も簡単なことで、加害者が逮捕されないからである。だれも犯罪を止めないのだから、加害者の犯罪の度合いが拡大するのは当然である。「いじめ」は、最初軽微な暴行や脅しで始まる場合が多いと聞く。ところが、それを止める教師、保護者等が現れないのを見て、加害者は被害者に対し、高額な金品の要求や、度を越した虐待等へと犯罪行為をエスカレートさせていく。それもまた自然のことだ。結果、被害者が耐え切れず・・・というわけだ。

学校が被害者を守らないのであれば、自衛するケースも出ている。子供に格闘技を習わせるという親も少なくない。自衛手段として格闘技にとどまっているうちはいいが、武装に発展することもある。目には目を、力には力を、というわけだ。そのような対抗思想が解決策になるかは大いに疑問である。まず学校現場に必要なのは、犯罪者を野放しにしないことだ。

2012年7月22日日曜日

メッキが剥げた大阪市長の政治姿勢

橋下大阪市長の不倫報道が週刊誌にあって一時大騒ぎになった。だが、数日経った今やすっかりこの話題は沈静化し、何事もなかったかのようだ。筆者は不倫報道に興味はないが、橋下大阪市長の思想及び政治手法には興味がある。なぜならば、筆者は橋下市長が好きではないから。とにかく、あやしいし、あぶない。まず、その理由から述べる。

筆者はこの人物に実際会ったことはない。その言動について資料等を詳しくあたったこともない。マスメディアの報道の断片を通じてのそれを知っている程度。もちろん、不倫報道の週刊誌を読んでいない。だから、以下の評価は、筆者の憶測・推測の域を出ない。

筆者の知る限り、橋下大阪市長の評価としては、新自由主義者、合理主義者というのが一般的ではないか。たとえば、大阪市の財政立て直しにあたって、かなり思い切った合理化を断行しようとしていると。彼が目指すのは、どちらかといえば「小さな政府」であり、自助の精神を第一とし、かつ、規制緩和、市場に信をおくもののように感じられる。

市財政の再建策の一環として、伝統芸能、伝統文化に係る諸団体に対する助成の削減・中止がある。たとえば、上方文化を代表する文楽や浄瑠璃もそこに含まれる。助成を取りやめる理由は、それらが自ら延命できないこと、あるいは自ら延命しようとしないことだ、と説明しているように思う。彼に言わせれば、どんなに芸術的価値や歴史的価値があっても、文化の市場、すなわち、エンターテインメント市場に淘汰されたものは、助成するわけにはいかない、というわけだ。この説明は、アダムスミスのいう市場における「神の手」を代弁するように思える。換言すれば、市場において生き残ったものとは、淘汰を経たもの、すなわち、「良きもの」「正しきもの」「優れたもの」だということになる。

一方、その反対に市場性を欠いたもの、売れないもの、市場競争に敗れたものとは、すなわち、「悪しきもの」「必要とされないもの」「劣ったもの」「駆逐されたもの」ということになる。

さて、かかる言説は、新自由主義、市場原理主義とは似て非なるもので、19世紀末から20世紀初頭に世界的に流行した、ダーウィニズム(=「進化論」)である。「進化論」を大雑把に言えば、環境に適合した生物だけが現存する、すなわち、環境に適合し「進化」したものが現存する(=生物なのだ)という思想だ。加えて、自然界、とりわけ動物界においては、優性なオス(=強者)のみが生殖に与れるという法則が貫徹していて、そこから、人間社会も強者・指導者が劣性の者を支配することが望ましいという優生思想・独裁思想に転化していく。

20世紀初頭にドイツで勢いを得たナチズムがその典型であり、加えて、ロシア革命以降に世界を席巻した俗的唯物史観におけるプロレタリア革命の絶対性の思想(スターリニズム)だった。前者は文字どおり、優生思想、アーリア人(ゲルマン人)至上主義を旗印にしてユダヤ人虐殺を行い、世界征服を試みたし、後者においては、歴史はブルジョアジー支配からプロレタリア支配に「進化する」という歴史観に基づき、共産党反対派の粛清や強制収容所による強権国家群をつくりあげた。挙句、両者は20世紀中に消滅した。

橋下市長の「暗さ」は、ダーウィニズムがもつ「暗さ」である。競争による勝者と敗者の二分は、死臭を伴うものだから。

彼が引きずる死臭は、彼の半生から来るものなのではないだろうか。橋下市長は、複雑な家族関係と貧困等の環境下に生をえたといわれている。だが、彼は青年期に劣悪な環境を克服し、一流大学合格、最難関の国家試験といわれる司法試験合格といった成功を得た。さらに、TVタレントとして名声を得、それを利用して、大阪府知事、大阪市長、維新の会代表・・・と、政治家として大成した。そのことにおいて、自らを環境の淘汰を潜り抜けた者――「進化した者」――と、自己規定したのではないか。

また、彼が進化論者である以上、不倫問題の発覚は、今後の政治状況において女性票の減少という痛手であはあるものの、優生なオスの証明という次元では勲章なのだと自負しているように思える。不倫問題に係る橋下市長の記者会見をTV映像で見た限りでは、女性票の減少という政治的マイナス面と、進化論における強者(優生)の証明というプラス面が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。もちろん、「心からの反省」などはしていない。

大阪人に限らず、日本人の大方の倫理観では、浮気や不倫は男の勲章だという気分がないわけではない。やんちゃを許容する気分も大いにある。だから、今回の不倫報道は、彼の政治生命にかかわる致命傷にはならない、という評価が一般的だ。もちろん、前出のとおり、女性票は若干減ることはあっても、増えることはあるまいが、そもそも、彼の不倫を嫌悪する層は、彼の支持者ではない。彼を支持するのは、「決められない政治」に苛立ち、たとえば、小泉元首相や石原東京都知事のような、「強い」指導者を待望する層なのだから。

だが、この先、橋下市長の勢いに翳りがないのかというと、そうではないと筆者は思う。たとえば、橋下市長は、市役所の職員にタトゥーに関する調査を実施したことがあった。また、学校では、教師に起立しての国歌斉唱を強制した。交通局の不祥事にも強い姿勢で臨んだ。彼が率いる政治集団「維新の会」の教育政策は保守的な「家族」を重要視するものだったような気がする。それは、「健全な父」の存在が前提であり、「不倫する父」の姿は想定されていなかったように思う。これらは、橋下市長の道徳心、倫理観を反映したものだという仮想において、日本の「健全な市民」の支持を得たのではないか。

さて、不倫というのは、筆者がどう考えるかは別として、一般には道徳上、倫理上、許されないこととされている。不倫市長がタトゥーをどうこう言えるのか、不倫市長が教育問題に口を出せるのか、交通局の不祥事など、女房を裏切ることに比べればかわいいものだ、という対抗的意見に橋下市長は反論できない。そもそも道徳・倫理を梃にした橋下流は、自らの不道徳、不倫(理)によって、梃そのものを外してしまった。そうである以上、彼の大阪市役所改革がうまくいく可能性は少ない。

そればかりではない。橋下市長は、不倫問題に関する記者の質問に対して、「家庭内のことですから」の一言ですべからくかわしていた。であるのならば、市長から仕事ぶりを問われた組合や職員は、「課内、部内、局内、職場内・・・のことですから」の一言でかわすことが許される。役所のことよりも、お前の家庭を立て直せ、不倫のお前だけには言われたくないぜ、という声に橋下市長は反論できない。大阪市役所のガバナンスは崩壊する。

橋下市長の政治手法は、橋下という個人の倫理観・道徳観を強弁することで、多くの支持を獲得する構造になっている。彼が攻撃対象としたのは、「公務員(=税金で食わせてもらっている者)のくせに、仕事中に政治活動をしている職員組合」であり、「国の教育に携わりながら、国歌を歌わない教師」であり、「客を呼べない、税金を無駄遣いする、文化人、文化団体」であり、「くわえタバコで勤務する交通局の職員」等々であった。そうした「無駄遣い」、「税金泥棒」「怠け者」に対する彼の攻撃的姿勢は、補助金等とはまったく無縁の自営業者や、企業内の厳しいリストラを生き抜いているサラリーマンには、胸のすくものだった。それは、無駄づかい、税金どろぼう、忠誠心の欠如という不道徳者に対する、倫理的・道徳的攻撃だった。

しかし、いままで攻撃にさらされてきた側からすれば、今回の市長の不倫報道により、「お前だけには、言われたくない」という対抗的姿勢が有効となる。さらに、一方、これまで、橋下市長の道徳的・倫理的攻撃を是としてきた支持層からは、攻撃の大義、すなわち「攻撃者の資格」を疑問視されることとなった。

政治家橋下が立案する政策等は、みんなの党や小泉構造改革と大差はない。せいぜいのところ、官僚叩きのポーズであり、「無駄」の排除であり、市場原理主義、新自由主義の盲信である。大衆もマスメディアも、維新の会の諸施策の検証より橋下のキャラクター、与太的姿勢に喝采を浴びせた。不毛である。不倫報道も輪をかけて不毛である。だが、不倫報道が橋下の政治姿勢、政治手法、集票方法のメッキを剥いだことは注目してよい。大衆とマスメディアが、そこに気づかなければ、どうしようもない、ただのゴシップ週刊誌ネタで終わってしまう。

2012年7月17日火曜日

『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』

●ウルリヒ・リンゼ[著] ●法政大学出版局 ●2400円(+税)

前回のBOOKSで『現代社会のカルト運動――ネオゲルマン異教(S・V・シューヌアバイン著)』(以下、『現代社会のカルト運動』と略記。)をとりあげた際、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]について、同党がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような傾向を強調しすぎるきらいがあった。[現代ドイツの緑の運動=カルト集団]と誤読される心配も否めなかった。ドイツのエコロジー運動を歴史的かつ総括的に見直す必要を感じた。そのことが、今回本書を取り上げた動機の1つである。

70年代から1980年の「緑の人びと」の党結成に至るまでのさまざまな社会運動の発生は、多くの人びとにとってはやはり思いがけないものであったが、ともかく歴史家にとってはそれほど理解しにくいわけではない。19世紀から20世紀に至るドイツの産業化の過程を長い目で観察してみると、近代産業社会は幾度となく深刻な危機を迎え、そのあとに個々の社会運動を包括する「一連の抗議の環」ができることがわかるからだ。(P214)  
一般的には、1970年代に旧西ドイツで始まった[緑派の運動]は、それまで猛威を振るった極左マルクス主義革命運動の挫折の代替として新しく開始されたもののように思われて不思議はない。だが、といよりも、ドイツが近代産業社会を発展させようとしていたその黎明期に、すでに同じようなムーブメントが見いだせる――というのが本書の主意である。

さて、前出の『現代社会のカルト運動』の<第5章第2節:エコロジー社会主義と「血と大地」との間、産業社会主義の危機に対する反動の自然宗教>を思い出していただきたい。本書が19世紀末から20世紀に至るドイツの情況のなかに今日のエコロジー運動の始原を見出そうとする方法は、前掲書と一致する。19世紀から20世紀初頭のドイツの情況を振り返るということは、前掲書の方法と同様、今日の、エコロジー運動、ニューエイジ運動、カルト運動等を考えるうえで誠に重要な思想上の遡及行為にほかならない。そのため、少し長くなるが、本書から引用、要約をしていく。
 
●19世紀末から20世紀に至るドイツの情況 

ドイツが農業国から工業国へと変容する過程を、本書から以下要約する。
ドイツ帝国創設時(1871年)の総人口は4100万、1890年にはそれが4900万に膨らみ、さらに、1910年には6500万にまで増大した。1871年に大都市に住んでいたのはドイツの総人口の4.8%にすぎなかったが、1910年には21.3%に達した。それと並行して人口2千以下の小さな町村には、1871年にはまだ人口の63.9%が住んでいたが、1910年にはわずか40%にすぎなくなった。そのことが意味するのは、はなはだしい国内人口移動である。田園が都市に席を譲って過疎化していった。1907年には大都市ベルリンの人口のうちそこで生まれ育った者は40.5%にすぎず、残りは移住してきた者だった。移住によるベルリンの人口の増加は1881年から1890年の間にその頂点に達した。 

●ブルジョアの側から開始された自然保護運動
1871年にビスマルクによって創設されたドイツ第二帝国時代に特有な現象の1つは、一方でブルジョアジーが激しい勢いで突き進んでゆく産業化の担い手となるが、他方ではしかしまもなく教養ブルジョア的中産階級の中に急進的な反近代主義的潮流が生じ、それが資本主義的進歩の力に頑強に抵抗したという事実である。1890年から1910年の間にドイツが最終的に農業国から工業国へと変化したまさにその時代に、――自然や郷土についての新しい意識のうちに表現を得て――工業化過程に文化がなじんでゆく過程の中に障害が発生したのである。(P10)
産業化と「農村離脱」と都市化から結果として生じたのは、1900年頃のほとんど爆発的な大都市離脱という精神的、また現実的な反動だった。・・・「民族」と「郷土」、つまり「ロマン主義的」な解釈の色を帯びた歴史的伝統的な風景とその社会秩序が、きわめて貴重な価値として発見される。(P11~12)
今日のエコロジー運動に結びつくような自然、郷土、民族…といった伝統的価値の見直しが、当時、それを破壊する産業化の担い手だったブルジョアの側から起こったという逆説をまず、おさえておこう。
こうして、アスファルトの代わりに・・・「土地に根付いた」手工業の優良品が、そして大都会の人間の混合には人種的な純粋さゆえに堕落していない田舎の人びとが対置される。彼らは近代の物質主義と自由主義によって軟弱にされていないために家柄と宗教を堅く守り、大都会の工業文明の代わりにしきたりと職人気質に体現される「変わることのない」前工業的文化をはぐくんでいるとされる。・・・「農業ロマン主義」と「大都会敵視」は徹頭徹尾アンビバレントなものである—一方でそれは「血と土」の前ファシズム的神話を形成しているが、他方ではそれは大気や水域の汚染、土地の投機、悲惨な住宅状況といったものにおいて、また地域の景観を破壊する団地アパート、工業や交通施設の建造物といったものに明白になるような、都市化過程の経済上、公衆衛生上また美学上のぞっとするような帰結を、的確に表現しているのである。不安にかられた医師たちも都市化と結びついた性病の増加を指摘する。彼らはまた住民の「性病による全面的汚染」をも想像するが、彼らによればそれは大都市に端を発し、民族的・人種的衰退の根源となるのである。文明化(Zivilisation)と「梅毒化(Syphilisation)」は同一のものとなり、大都会は、不安を呼び起こす乱交の進展が今にも個々人を呑み込まんとする、あの聖書の「大いなる娼婦バビロン」のイメージと一つに溶け合う。(P12~13)
このような状況のなかから生じたブルジョア層における自然回帰の表れが、雑誌『田園』(1893年刊行)『郷土』(1900年刊行)であり、「郷土年鑑」「郷土博物館」「郷土の夕べ」である。また、1890年には、ベルリン近郊フリードリヒスハーゲン区において、ボヘミアンが出現する。1893年にはオラーニエンブルクの近くに「菜食主義・果樹栽培村・エデン」が設立される。1900年には、マジョーレ湖畔アスコーナ近郊のヴェリタ山への入植が開始される。そればかりではない。ヘルマン・ムテージウスのような建築家がイギリスを手本として広めた「田園別荘」運動や、ヘルマン・リーツが同じくイギリスを手本にした「田園教育舎」が創設される。
 なお、勝手な推測をするならば、大都会の性病の蔓延に対する恐怖と嫌悪が、後年におけるナチスのアーリア人種至上主義、ユダヤ人排斥・民族浄化の暴挙に結びついた理由の1つだったかもしれない。
新たに求められる万有(コスモス)との関係のための世界観的な枠組を形作っているのは次のようなものである。すなわち自らの父祖エルンスト・ヘッケル(その著書『有機体の一般形態学』〈ベルリン1866年〉においてエコロジー概念を創り出した人物)の機械的な世界像を世界精神の至福にまで高めるブルーノ・ヴィレとヴィルヘルム・ベルシェという人物たち(「ジョルダーノ・ブルーノ連盟」ベルリン1901年)の汎神論的一元論、またそこから成長してゆく神智学、さらにルードルフ・シュタイナーなる人物の、自然と超越性を結び付ける統一的な「精神研究」としての人智学である。(P14~15)
さらに、都会脱出の運動は、たとえば、土地改革運動、公営競技用屋内プールを産み出す身体文化運動、「ワンダーフォーゲル」、「ドイツ田園都市協会」、『芸術の番人』という機関誌によって「土地から成長した文化」の担い手としての「郷土芸術」運動の発言者となる「デューラー連盟」といった形で、多様な生活及び文化改革の連盟や運動の中で組織され始め、第一世界大戦に至るまではますます広範に普及していき、反アルコール、菜食主義、服装改革、性改革、裸体主義、自然療法、自然食等の運動と一緒になって、ネットワークを形成していくことになる。しかし――
第二帝国のブルジョア的な反近代主義を概観すると、一方で「血と土」という決まり文句がそれにとって本質を構成する要素となってはいるが、他方ではこの決まり文句にはさらに詳しい規定が必要だということが明らかになる。「血」はゲルマン主義と民族的思考のどんな形式をも象徴することができた。これらは人種的差別的ないし社会ダーウィニズム的な考え方と結びつく可能性を持ってはいたが、しかし必ず結びつくとも限らなかった。「土」は多くの人々にとって美的カテゴリーであり、故郷を喪失して根無し草になることへの不安と心情的に結び付いていた。(P19~21)
冒頭、今日のエコロジー運動とナチズムの「血と土」のイデオロギーが同根であるとする性急な結論を保留した意図はここにある。「血と土」の意味するものを、もう少し厳密に、検証しなければいけない。

●自然保護運動における美的価値
・・・(土地問題に対する)美的批判が最も容易に社会批判に転換したのも「土」の問題においてだった。「土地問題」はまさに反産業主義が反資本主義に転化する決定的な要点と見なされなければならない――といってしかしそれが必然的に社会主義的解決に行き着くというわけではないのだが。・・・第一世界大戦によってひき起こされた大都会住民の食糧難が「買い出し」において現実の姿となったとき、この反近代主義の経済的観念が脚光を浴び、他ならぬこの問題における父親の世代の無力に対して痛烈な批判が向けられた。(P21)
ビスマルクの土地政策も、ワイマール共和国成立前から成立後の社会民主党の土地政策も、田舎の人びとを大都会へと追い立てて都市の新住民を増大させることにかわりなかった。大戦後、人びとは土地問題について、結局、ナチズムに期待するようになる。当時の人びとが理想とする社会像は、ローマ法を廃し、ドイツ法を導入することをめぐるものだったが、そのドイツ法とは土地を共有財産となし、ただ個別の利用のためにのみ個々の家族に委託するという古代ゲルマンの考え方を再現するものだった。このような反資本主義的土地理論はその根をすでに第一次大戦前に醸成されていたようだ。
民族主義的伝統の内部には人種的・反ユダヤ主義的な土地改革の変種が存在しており、それはテーオドール・シュタムやオトマール・ペーター、テーオドール・フリッチュといった人々によって主張されていた。しかし社会保守的な目標から社会改革的な目標への移行が全くなめらかに行われたのは他ならぬ土地問題においてだったことが明らかになる――その納得のゆく例の一つは、アメリカの反都会主義者で土地税制の改革者であるヘンリー・ジョージの理論の受容であって、彼はオイゲン・デューリングには反ユダヤ主義的に変形されつつ受け継がれたが、同様にベネディクト・フリートレンダーにはきわめて自由主義的な変形を受けて受容されたのだった。(P24~25)
●ワイマール時代の起こった大転換――反近代主義から近代産業主義の肯定へ
近代主義批判の方向が、・・・近代の産業世界の原則的な肯定へと重要な一歩を初めて踏み出したのはワイマール時代のことだった・・・(P27)
ワイマール時代になると、大戦の敗北とインフレ時代のドイツ経済崩壊によって、国民経済における産業の意味が強く思い起こされるようになる。「きわめて困難な経済的苦境が全ヨーロッパに重くのしかかっている。いったい・・・今日でもまだ郷土保護というような“ロマンチック”な事柄のための余地が存在するだろうか――それは世間知らずの夢想家の道楽でありお遊びではないのか。すべては経済の必要の、つまり経済再建の必要の下位に置かれ、必要とあれば犠牲に供されなければならないのではないか。今日郷土保護と国民経済の間には橋渡しできない対立と矛盾が存在するのではないか。」(カール・ヨハネス・フックス/ドイツ博物館)といった具合だ。

そして、ワイマール時代、経済とエコロジーの間の調停は、美的な面でなされた。前出のとおり、土は「美的なカテゴリー」でもあったのだ。具体的には、「郷土的な建築様式」の確立である。ワイマール時代のブルジョア的エコロジストたちの理想は、保守的な価値観念と結び合わされながら発展を続ける国家的産業経済だった。そして、郷土保護もこの時代には、工業技術に対して肯定的な立場をとるようになっていた。

郷土保護と産業の協力の推進役は、帝政時代から自然保護機関や産業界のリーダーを務めていた、パウル・シュルツェ=ナウムブルク(ドイツ郷土保護連盟幹部)、ヴェルナー・リントナー(ドイツ郷土保護連盟役員)、オスカー・フォン・ミラー(技術と科学の傑作を集めたドイツ博物館の創設者)、コンラート・マートショス(ドイツ技術協会会長)、フリードリヒ・ハスラー(ドイツ技術協会技術部門長)、ヴァルター・シェーニヒェン(国家天然記念物保存局長官)らであった。リントナーは米国流の合理的工場生産に反対し、近代的・工業的に建てられた現代の日常建築でも「有機的に郷土像に適応させ」「郷土の本質に併合する」ことが可能だと信じていた。

●ナチズムの戦争経済に吸収された産業主義

1933年以後、彼らはナチズムの側の人種主義的な血と土のイデオロギーの中に自分たちの居場所を見つけていくことになる。「伝統と発展が敵対的な矛盾ではなく、有機的な統一体とならねばならないということ」(リントナー)――有機的という言葉が呪文のように繰り返されていた。しかし、現実には、彼らはナチス政権に裏切られていく。
・・・たとえばヴァルター・シェーニヒェンがナチス政権に期待したような、土地と結びついた民族共同体の枠内における自然保護の再評価は、戦争経済へと方向づけられた産業主義のためにほとんど何の効果もあげぬままに終わり、自然保護は(郷土保護も同様に)単にイデオロギー的に利用されたにすぎなかったということがすぐに露呈した。・・・実際にはナチズムはロマンチックで保存を旨とする自然保護の終局をもたらしただけでなく、不可欠な天然資源を保護しようという理性的な考慮をも無視したのだった。(P42)
ブルジョア的・保守的エコロジストたちは、実際には技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。そして、ワイマール共和国崩壊後、ナチスのイデオロギーに取り込まれ利用されつつ、戦争のための産業主義遂行の前に沈黙を強いられたのであった。

●労働運動における“成長・進歩主義”
産業的成長と進歩というのがこの党(=ドイツ社会民主党)のすでに創立の時からのお気に入りの文句だったが、それはこの党が工業時代の子であって、その時代の生産的なエネルギーを資本主義後の社会にまで持ち込もうと努めていたからである。(P48)
技術と進歩へのドイツの労働運動の無批判な信頼は、もちろんマルクスの片手落ちによるというよりは、むしろ歴史に転用された通俗化されたダーウィニズムを受け入れたことによってもたらされたものである。労働者たちは、ただ単に資本主義というものが日々の生存競争によって規定されているという彼らの生活経験が、ダーウィニズムにおいて確認されているのを見ただけではなかった。彼らがそこから読み取ったものは、最後には自然法則的な必然性によって待望の社会主義社会へと人類を導き、進化の道を登ってゆくだろう歴史過程に対する希望だった。ダーウィニズムが労働者の新しい宗教となったのだが、それは自然科学理論として、旧来の宗教的迷信やまたそれを擁護する政治上および社会上の保守的な諸力比べて著しく勝っているように思われた。さらにまた当時の考え方によれば自然科学と工業的技術は互いに分かちがたく結合していたのである。
そこからの演繹――知は力をも意味するという――を通じて、大衆向けの自然科学的な雑誌や教育施設が繁栄することになった。・・・だが、自然は魂のない研究対象にとどまらず、ドイツ自然科学の伝統においては内面的高揚の誘因でもあった。そもそもこの頃は労働者階級においても新ロマン主義的な自然宗教と冷静な自然科学認識とが独特な混合状態にあるのである。そして労働者たちによく読まれたヴィルヘルム・ベルシェの著書においては、生物学と生活改善、および一種の有機的一元論(これはドイツ一元論創設の父祖エルンスト・ヘッケルの実証主義と唯物主義を通り越してドイツ・ロマン派の有機的自然哲学にまでさかのぼっている)が溶け合い、その時代にきわめて典型的な世界観的集合体を形づくっている。ベルシェのベストセラー『自然における愛の生活』の中ではダーウィンの理論の暗い側面に楽天的な世界観が取って代わる。淘汰の原則を主張する社会ダーウィニストたちが言うように、生存競争が自然を規定するのではなく、「愛」が規定しているのである。そこで読者(=労働者)は、世界推移の進化の歩みに見られる不公平と苦痛がつかの間の現象にすぎず、より良き未来に対する政治的信念が間違いではないことを読みとって、自らを慰めることができた。(P49~50)
ベルシェは、独特な反都会主義を提示した。都会が苦痛に満ちた資本主義的世界を代表するのに対し、野外の広々とした自然は、労働者にとって、社会主義のあけぼのの到来を予感するものとしたのである。ベルシェはシュレーバー菜園(都市住民が郊外に持つ家庭菜園。推奨者であるドイツの医師D・G・Mシュレーバーの名にちなむ)や労働者旅行という文化を称賛した。また、後にオーストリアの首相、連邦大統領となったカール・レンナーにより、労働者による「自然友の会」の運動が展開されるに至った。
当時の労働者が、個の内面において自然をロマン主義的に、また、有機的一元論的にとらえていた傾向は否定できないものの、しかし、当時のプロレタリアの自然観を、自然との友愛、反都会主義、自然ロマン主義的傾向に還元できわけではない。自然を技術や工業に対する労働者の敵意のしるしとして解釈できるようなものでもない。プロレタリアの雑誌に発表されたオーストリアのシュトゥーバハ発電所についての考察を見ると、この発電所は「現代の労働の、そして現代の人間精神の創造のみごとな作品」であるとほめそやしていることがわかる。プロレタリアは、電気――あらゆる自然力のうちの最強のもの――を、社会主義に道を開くブルジョア社会の爆破薬と見なしていた。すなわち、教養ブルジョア階級の文明批判が主張した反産業的で工業技術を敵視する反近代主義は、労働運動の中では受け入れられる見込みがなかった。
(労働者にとっては、)大規模な工業技術による自然力の利用は、まだ矛盾なく自然保護と調和させることができると思われていた。・・・歴史上の社会主義労働運動は、一方でこの自然開発の持つ自然破壊的な影響には辛抱強く目をつぶっていたのだが、それは・・・この運動が労働者の中に工業技術による自然の統治者を見、そしてこの工業技術がいつか生産の進歩を通じて労働者自身の宿命をも耐え得るものにすることができると考えられていたからである。(P66)
ブルジョアの側の反近代主義者はワイマール時代を境に、技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。また、プロレタリアの側は、個々には当時の反近代主義の影響を受けつつも、労働運動としては、むしろ産業主義・進歩主義への信奉こそが、社会主義社会実現に不可避だとして、そのことによる自然破壊には目をつぶっていた。では、現代におけるドイツのエコロジー運動のルーツは、19世紀末から20世紀に至るドイツの産業化の過程からは見出すことができないものなのであろうか。

●生態平和(エコパクス)という概念
私たちは、進歩的・プロレタリア的な解放の要求と、進歩の力学に対する教養ブルジョア的・保守的な抵抗の姿勢との間の対立という手頃な公式が、説得力に乏しいということを示すことができた。・・・これらの歴史上の推進力では、「緑の」運動を産み出すには弱すぎたのだ・・・もっと奥行のある目標を持ち、新しい人間と新しい世界のビジョンを実際に内容に持つような、歴史的な力が必要だった。それゆえ私たちは今日の「緑の」運動の投錨地を「生態平和(エコパクス)」、つまり人間と自然との平和の状態、という誓約の中に見出せると思う。(P67)
冒頭で示したとおり、前回BOOKS(当コラム)で取り上げた『現代社会のカルト運動』は、ドイツの19世紀末から20世紀に至る産業社会主義の危機が形成したエコロジー運動の中心勢力を反動的自然宗教集団に絞り込んで求める傾向を指摘しておいた。そのことは、1970年後半から勢力を強めた[緑の党]が反動的自然宗教集団を母体とした運動であるかのような誤解を招きやすい。[緑の党]は、そのようなカルト集団を内包していたことは事実だが、ドイツのエコロジー運動のルーツを歴史的に厳密に検証すると、反動的自然宗教というよりも、本題ともなっている生態平和(エコパクス)と、国家統治を否定するアナーキズムにその祖形が求められる。

たとえば、[緑の党]の連邦綱領(1980年)の外交分野は、「暴力のない政治」「平和政策」であり、自然分野では、自然な生活空間の保存による生物学的に健全な環境の維持ないし復元、および動植物の種類のこれ以上の絶滅の阻止を意味しているとされる。それらを体現した先駆者たちについて、本書は詳しく紹介しているのだが、彼らは、日本ではほとんど知られていない。

●生態平和主義の先駆者――グスト・グレーザー

[緑の党]らが1979年、「アスコーナ――ヴェリタ山」の博覧会と結びつけて開催した「オールタナティヴな人びととの祭典」では、そこでオールタナティヴに生きた、最初に社会的ドロップアウトであるアルトゥール・グスタフ(「グスト」)・グレーザーをしのんだものだった。

グスト・グレーザーは、ヨーロッパにおいてマハトマ・ガンジーに対応する人物と目されている。彼は兵役を拒否し、帝国主義に反対し、無政府主義者たちと行動を共にし、ミュンヒェンレーテ(評議会)共和国の間、「心の共産主義」を宣べ伝えた。彼のスローガンは「無所有」であった。半ズボンの上に山羊の毛皮で作ったチュニックコートをはおり、長い髪をヘアバンドで束ね羊飼いの杖を持ち、スイスとドイツを歩き回った。彼の残した教訓詩として、『友よ、ふるさとへ帰れ』が、そしてその別稿に『人間よ、ふるさとには大地が必要だ』がある。その容姿とメッセージは、1960年代に米国に現れた「ヒッピー」を彷彿とさせる。

●生態平和の完成者――クリスチャン・ヴァーグナー

クリスチャン・ヴァーグナーのメッセージ(「愛の生活」)は、「生けるものの権利の承認と、そこから生じる尊重といたわり」だった。とりわけ森と草花は彼にとって神的なものの直接の反映であり、徹底的な動物保護が彼の戒律であった。

ヴァーグナーにおいてついに生態平和の完全な次元が明らかになる。彼の『新しい信仰』の問い第67はこのようなものである。
「新しい福音の旗じるしの下にある平和の国の建設について汝は何を知っているか。答え:動物の世界も彼らの救世主を待っている。いやそれどころか植物の世界も含めて自然の全てが待っているのだ。――そうとも、見たまえ、あこがれに満ち震えながら彼らはすでに数千年前から救世主を、自分たちの自然の権利を完全に承認し、また皆の完全な承認をとりつけてくれることができるような救済者を、待ちこがれているのだ。――しかしいつその者は来るのだろうか。――そしてどの先覚者が彼のヨハネなのだろうか。――問うなかれ。我も汝も、そしてこの者もあの者も、完全な人間なら誰にでもその使命があり、この崇高で神聖な使命に従わない者には、それに対して責任と罪がある。――そして汝にも我にも、また誰にでも次の警告が向けられているのだ。
汝らが彼らの自由を説かぬ限り、
汝らは己の使命から解放されず、
汝らが彼らの自由を全世界に告げた時、
はじめて汝らは自身の内の罪を完全に浄められる。」

ヴァーグナーにおいては2つの伝統の系列が合流し、そしてそれらが彼を生態平和の雄弁な予言者とならしめている。彼は一方においてロマン派と彼らによって導入された「ドイツ的魂の黙示録」(ハンス・ウルス・フォン・バルタザール)の後継者である。他方において彼の内には土着の敬虔主義が過激な形で出現しているのだが、それによれば、黙示録的・千年至福説的な期待の中で「剣が鋤べらと」(ミカ書第4章第3節)なり、狼が子羊のとなりで平和に草をはむ(イザヤ書第11章第6~7節)神の国、平和の国が、この世に存在可能なものととらえられるのである。ヴァーグナーによって明確になることは、生態平和の観念が結局宗教的な次元を持っており、ここで所与の国家および社会の秩序を超越する無政府主義的な地上の平和の国の輪郭が構想されているということである。(P77~78)
●生態平和とは何か

長々とヴァーグナーに係る記述を本書から引用した理由は、そこに[緑の党]の政治運動の出発点であり終着点が明らかになるからだ。本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)はこう結論付ける。
・・・今日までの「緑の」政治を見るならば、それは単にロマンチックな感傷癖や後ろ向きの反近代主義、あるいは――逆に――工業技術や産業による環境危機や破壊に対する純粋に実際的な反作用といったものをはるかに越えるものなのである。この運動がその動的な力を引き出しているのは、むしろ、今でも世俗化された形で生き続けている、地上における神の国の出現に向けた黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰からなのだ。・・・この形式はドイツのオールタナティヴな社会運動の「アングラ」の中で伝承されてきた。政治的、経済的、ないしエコロジー的な危機の時代には、それは希望の結晶点となることができるのである。(P78~79)
このような“黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰”の危険性も著者(リンゼ)は指摘する。
 もちろんこの新しい世界への信仰の疑わしい側面もまたはっきりしている。その背後にひそんでいるのは、なんといっても世界は不完全なものなのだから、それと講和を結ぶことは拒絶しよう、とする姿勢である。あらゆる妥協に対する敵意、言葉を換えて言えば「緑の」根本主義(※近年では「原理主義」と訳される場合が多い。)がその帰結とならざるをえない。現実性の転換を目指すそのような現実拒否が困難であることは、あらゆる生きものの一致団結した共同体としてのエコロジー的な平和な国が今日この場でいったいどのような形で具体化できるかという、歴史的には同じくすでに数世紀前から議論されてきた問題においてとりわけ明確になる。(P79)
●幻影の農村コミューン

このような批判に対して[緑の党]が用意した回答は、「エコ村」の建設であった(ジンデルフィンゲン選挙綱領/1983年)。しかしそれは幻影である。時に現実かと見まがうほど色濃くなることがあるにしても幻影に変わりはない。だが、農村コミューンは、政治的、経済的な、エコロジー的な、また精神的な危機の時代には、繰り返し、具体的な希望となる。[緑の党]が改めてコミューンに思い至ったということは偶然ではなく、必然であった。

●エマオ運動――コミューンの宗教的脈絡

前出のジンデルフィンゲン選挙綱領において、[緑の党]が構想した「コミューン社会」の現実モデルはエマオ運動に求められる。エマオ運動の理念は第二次世界大戦後フランスで生まれた。1945年~1951年までフランス国会唯一の無党派議員だったピエール師が1949年に浮浪者や出獄者、絶望した人びとと一緒になってセーヌ=サン=ドニ県のヌイイ=プレザンス近郊にくず拾いの共同体を作り、そしてこれを聖書にあるパレスチナの地エマオにちなんで名づけたもの。それはかの地においてもかつて絶望した人びとがイエスによって新たな希望を見出した(ルカ伝福音書第24章第13節~35節)からであった。この名前は団結と非官僚的援助の象徴として付けられている。今日ではこのエマオ運動は、独立した諸集団から成り立ち、公益に奉仕する諸結社で組織されている。同団体の申告によれば、20を超える国々に150を超えるエマオ集団が存在するという。ドイツのエマオ運動の本部はライン川下流カンプ=リントフォルトのダクス山上にある。彼らの経済的基盤をなすのは、消費社会においてごみとして捨てられる日用品や廃物の収集と転売である。

映画ファンならば、フランス映画『ミックマック(Micmacs à tire-larigot)/監督ジャン=ピエール・ジュネ/日本公開2010年』で、軍需産業に単身抗議してはねつけられ、絶望した主人公バジルを助け、彼とともに軍需産業のトップをやっつけたのが廃品収集転売集団であったことを思い出すだろう。映画で異才を放つ彼らが、エマオ集団の者であったことはまず間違いない。
コミューンはドイツの歴史においては常に物質的生活の基点以上のものだった――そしてしばしば経済的には疑わしい成功しか収めなかった。それはむしろ聖なる場所、宗教的なトポスだったのだ。それが人を引きつけたのは、ただ単に世界に常に存在する悪しき状態へのあらゆる批判をそこで具象化することが可能だったからというばかりではなく、それによってまた新しい時代が現実に始まるという期待が信憑性のあるものになったからだった。(P83)
[緑の党]は1983年のジンデルフィンゲン選挙綱領の発出から84年になってもまだ、コミューン的生活実践を通じた産業主義および資本主義からの脱出と「もう一つの生活への参加」を達成しようと試みた。そのことは、ドイツにおけるサブカルチャアの伝統の驚くべき連続性を見せつけている。
それは原始キリスト教的・共産主義的な愛の共同体を実現しようと試みた急進的な敬虔主義に始まり、ロマン派におけるオールタナティヴな集団的生活実践を経て、1900年と1920年頃のコミューンの実験にまで及んでいたのである。1984年には「緑の人びと」の内部に「連邦研究共同体・コミューン運動」が作られ・・・カンプ=リントフォルトのエマオ運動本部を元にして企画準備された最初の「コミューン運動」が、1984年6月ハイルブロン近郊シュテッテンフェルス城で催された。(P84)
いずれにしても、生態平和運動の黙示録的・千年至福説的な活力は、産業化の過程の中で抑制されることなく、逆に、今日に至るまでますます大きな意義を獲得し続けていると言える。

●ワイマール時代の急進的なエコ社会主義――グスタフ・ランダウアーの入植運動

環境危機の解決を資本主義の克服に求めるグループが、今日の「緑派」に存在している。いわゆる「エコ社会主義」である。ドイツにおけるエコ社会主義運動はやはり、19世紀末から20世紀に至ってドイツで盛んであった無政府主義運動を先駆者として認めることができる。もちろん、当時の彼らの運動は傍流であり細流であったが、今日まで影響を与え続けている。その中心人物がグスタフ・ランダウアーにほかならない。

彼(ランダウアー)は1908年の「社会主義同盟」において、無政府主義的な工業労働者に向かってではなく、工業社会には否定的で、そこに組み入れられていない知識人と手工業者に向かって、新ロマン主義的な無政府主義を通して訴えた。ドイツ自然哲学とヴィルヘルム・ベルシェのエロス的な一元論の伝統の中にある自らの「神秘的」な自然理解についてのランダウアーの理論的発言は、彼のユートピア的・民族的な共同体理解と直接に関連している。それによって彼は、とりわけピョートル・クロポトキンによって文学的に準備された「社会主義的入植」を新ロマン主義的かつ反近代的に変形してゆく。
ランダウアーはプルードンを引き合いに出しながら、窮乏化が最も進んだ時にはじめて大衆にとって社会主義への機運が熟する、というマルクスの歴史観に反対した。彼はむしろ、社会主義がいかなる社会、いかなる時代にも可能だ、というプルードンの立場を共にしていた。それゆえ社会主義の紀元年を待つべきではなく、すでに今こそ社会主義の着手を企てるべきだ、彼は言う。その際彼にとって社会主義的な未来の共同体を先取りするひな形となるのは農村コミューンだった。(P89)
とはいえ、本書によるとランダウアーは実際のエコ入植によるコミューン建設に失敗したらしい。
ランダウアー個人は入植活動と平和活動の統合に失敗したとはいえ、彼が高く評価したレフ・トルストイ伯爵の作品を通じての理論的媒介は存在していたのである。もしランダウアーが田園入植地を建設していたとするならば、それはクロポトキンの精神ばかりでなく、トルストイの精神にも負うところ大きいものとなっただろう。というのもトルストイは世紀の変わり目頃には無政府主義・平和主義的な、またキリスト教・無政府主義的な入植の、最も重要な霊感の源泉となっていたからである。・・・・・・土と入植――それはドイツの過激な保守的右翼から無政府主義的左翼に至るまでが使用した反近代主義的、反産業的、反資本主義的な救済の公式だったが、特にランダウアーに由来する無政府主義においては、農村コミューンというものに、新ロマン主義の遺産に由来する自然信仰的な内容に加えて反軍国主義的なメッセージが込められ、そのようにして生態平和の教義にふさわしい器となったのだった。(P92~93)
第一世界大戦が終わった時、ドイツでは飢餓や失業、また心の空虚さや「郷土」への憧憬が原因となって、多数の、たいていはブルジョア的な青少年運動に分類しうる範囲では、平和的・建設的な社会主義というランダウアーの理念が影響を及ぼしていた。たとえば、無政府主義・宗教的なランダウアーの崇拝者エバーハルト・アルノルトは彼の入植地ザンネルツ――ドイツで唯一のトルストイ主義コミューン――と、後には「同胞農園」で、原始キリスト教的な愛の共産主義を復活させようとした。また無政府主義者ハインリッヒ・フォーゲラーは、自らの入植地バルケンホフで「愛の共産主義」を誓った。
ここでは田園入植が愛の原理の上に築かれるという平和な共同体の原型となる。しばしば呼び起こされる美徳は、ピョートル・クロポトキンがダーウィンの「生存競争」に対置した「相互扶助」の原則である。それゆえ、ヴェルヘルム・ペルシュの『自然における愛の生活』を熱狂的に賛美したランダウアーが、またクロポトキンの『動物および人間の世界における相互扶助』をドイツ語に翻訳・・・したということは偶然ではない。倫理的な愛の掟は、いわばこの「相互扶助」によってその自然科学上の正当性の証明を見出したのである。そのことによって自然と人類――後者は自然の一部として――を貫く力が見出された。この力は人間どうしの間の平和への、そしてまた人間と自然との平和への、希望をかきたてることができた。「相互扶助」が全てを貫いて支配していることへの楽天的な信念によって、はじめて生態平和を旗じるしとする社会主義の企てがそもそも実行可能なオールタナティヴとして登場することができたのである。(P93~94)
●オールタナティヴなエコ無政府主義――パウル・ロビーン

パウル・ロビーンについては日本ではまったくと言っていいほど知られていない。ロビーンについて端的に言えるのは、ドイツのエコロジー運動では行動や生活を実際に行うことが綱領上の要求に含まれており、この要求が実現されることが運動の正当性の証明となるという中で、もっともその正当性を発揮したドイツにおける最初の「緑の人」であったということだろう。

彼の生い立ち等の詳細は本書にて確認していただきたいのだが、1882年に東ポンメルンに生まれたが、私生児だったと推測されている。悲惨な少年時代をすごしたのち、いくつかの仕事を経験して船員となり、アメリカ合衆国、メキシコなど中央アメリカを訪れた。やがて水兵となり、ヘレロ人の蜂起(ドイツ領南西アフリカ/1904~1907年)に参戦した経験を持っている。第一次世界大戦中、彼は政治意識に目覚め、カール・リープクネヒト(スパルタカス団及びドイツ共産党の創設者)の心酔者となるが、無政府主義者との接触を通じて、孤独な心情的革命家、反乱者としての道を選ぶようになった。

彼は革命家であると同時に、自然観察者として優れ、独学の鳥類学者でもあった。第一世界大戦後に公務員として自然博物館にも勤務した。ところが敗戦国ドイツの再軍備化が開始されると同時に、彼が愛し、かつ自然観察のフィールドであった荒野=野鳥観察地域が軍事訓練や射撃の場となったことに抗議して、反軍国主義、動物愛護、生活改善の運動に身を投ずるようになった。結局彼は無政府主義者、反軍国主義者として、ワイマール無政府主義労働運動に接近することとなった。
ロビーンは、今日ならば「急進的エコ社会主義者」と呼ばれるような存在であった。そして、従来の自然保護に対する彼の批判は、ただ単にそれが自然保護のための産業資本主義の基本的制約付けをなおざりにしたことだけでなく、その国粋的狭隘にも向けられていた。・・・・・・・・・ロビーンは、労働運動が政治的には国際主義を掲げてはいても、この運動自体が都市化された産業資本主義に属するものであるがゆえに、革命的自然保護思想からは、およそ考えられる限りかけ離れていることも見過ごしてはいなかった。(P127~128)
反近代主義を唱える「ロマン主義的個人主義者」のロビーンは、ブルジョア側の産業資本主義の推進にはもちろんのこと、当時のドイツのプロレタリア革命運動が進歩に対して楽観的であることを見越しており、二つの主たる潮流から分離していた。
・・・主義に忠実なすべての無政府主義者やサンジカリストと同様に、無論ロビーンもソヴィエトの党派性、及び国家的独裁と、それを支持する赤軍を敵視していた。・・・・・・このような状況下にあって、彼にとっての「緑」の政治の唯一の手段とは、反抗的無政府主義であると思われた。そして彼が夢見たのは、自然科学を――ただし「それは自然科学が国家的妄想で毒されていない場合に限られるが」――自然科学と近い立場にあり、無党派で、種を(反軍国主義によって・・・)保とうとするがゆえに革命的で、しかも支配欲を持たない社会主義」と結合させることだった。(P129)
ロビーンが目指したのは、自然と結びついている無政府主義者やサンジカリストの一派との統一行動による、入植による「自然革命」と「農業革命」であった。だが、ブルジョア側からも、プロレタリアの側からも孤立したロビーンが実現できたものといえば、1922年に建てた「メンネ自然監視所」という名称の、学術観察基地であり入植行動の政治的目的と結びついた小屋にすぎなかった。これはシュテッティーンとアルトダム間の幅5キロのオーダー川河口地帯にあるメンネ島に建てられたことから、そう呼ばれたものだ。もちろん、彼が築いた「自然監視所」は成功をおさめることはなかったが、1945年末、暴徒と化したロシア人によって彼の伴侶とともども撲殺されるまで、20年以上も持ちこたえたのであった。

ロビーンは、プロレタリアの側からは、悲劇的英雄主義者、社会の進行を誤解した裸のネアンデルタール人、ユートピア主義者、ラッダイト(機械攻撃主義者)、禁欲主義者、ロビンソン的人間嫌い、技術と文明から離反し、野蛮と未開状態に後戻りしようとする反革命者等の批判を浴びた。
当時互いに反目しあっていた彼ら(※ロビーンの側とプロレタリアの側)がそれぞれ取った立場は、エコノミーとエコロジーの間の分裂を考えるうえで、現在に至るまでその今日性を失っていない。・・・ロビーンは、明らかにたいていの場合プロレタリアの消費志向型の考えへの批判によって労働者階級の無政府主義者を挑発し、これに対して「欲望の放棄」をつきつけた。同様に、過激な文明敵視にまで高まるほどに、ロビーンが進歩信仰を主義として批判したことも、彼らの拒絶にあった。人間をも含むすべての動植物の種の生存権を求めるロビーンの自然科学に裏打ちされた主張は、禁欲的かつ産業敵視のその性質のゆえに、無政府主義者からも激しい非難を浴びた。(P147)
一方のプロレタリアの側は、前出のとおり、ロビーンを機械攻撃者、ユートピア主義者、あるいは、歴史的分析能力を欠き、「自然の反逆」に確固たる立脚点を持つ「形而上学者」として攻撃した。

●ロビーンによるユダヤ人非難

ロビーンはプロレタリア大衆から孤立しただけではなかった。彼は次第にユダヤ人を産業資本と同列視し、ユダヤ人とは「大部分が、闇ブローカー、投機家、スパイ、腐敗したハイエナどもの集まりだ。」、また、ユダヤ人らを「法律によって保護される必要のない存在として取り扱い、片づけなくてはならない。」と非難し始めた。

さらに労働党が彼の「農業革命」「自然革命」に無関心で、「都市革命」を行おうとしているのは、労働党内のインテリユダヤ人のせいであるとした。ロビーンは「(労働党のインテリユダヤ人たちは)根無し草であり、もはや自然の大地を知らず、麦畑や黒い土への憧れもない・・・人民議会にまで至る多くの機関を備えた石の砂漠である都市の奴隷になりさがることなく、平和な自給生活を送る自然人民共同体のかわりに(大都市という)バベルの塔を造ろうとしている。」そして、(ユダヤ人)はまさしく恥ずべき「文化革命」に賛成しているが、「すべての革命の最終目標は、土、空気、光を獲得することであり、毒やガスに満ちた気狂いじみた産業化からの解放、すなわち自然革命でしかありえないのだ。」また、ユダヤ人は「たくましく物を作る人々」にではなく、がめつく金を貯める人びとに属しているがゆえに、労働者の敵でもあると書いている。

このようなロビーンのユダヤ人非難は、各方面から反論を呼んでしまった。たとえば、ロビーンがそれまで唯一彼の政治的見解を発表することができた『自由なる労働者』というサンジカリストの機関誌からも締め出された。これをもって、無政府主義と「自然革命」の協力段階は終わりを迎えた。ロビーンの「自然革命」と共闘を組んだ無政府主義者を含む社会主義系労働組織との「緑と赤の同盟」は破たんした。

●ロビーンが残したエコロジーの思想史への最も重要な功績
ロビーンの生態平和構想のうち、エコロジーの思想史への最も重要な貢献として、彼があらゆる植物や動物の生存権を認め、人間中心の世界観から離反したこと、ただしその際に、人間から遁走する破壊静観主義に屈することはなかった、という点が挙げられる。・・・・・・ロビーンは、産業文明によって引き起こされた自然破壊や人間の危機を見抜き、自らを文明の敵と告白するだけの覚悟があった。彼がすでに、1929年に、油による海洋汚染、森林汚染、原子爆弾によって迫りつつある世界の没落を――これは、核の冬に関する今日の科学的知識から予想されうる生態破壊と人類破壊を最初に予見したものだが――指摘した事実は、未来への不安のはなはだしい強調が、なにも社会運動に始まったことではないことを示すものである。(P158)
●ガンジー行動の人びと

(1)ヨーロッパにおけるガンジー主義の受容

ガンジーというと日本では、アジア太平洋戦争敗北後、戦勝国米国によって導入された戦後民主主義の受容と並行し、非暴力・無抵抗主義の人、インド独立の父として、敗戦国、民主化日本が手本とすべき「平和主義者」「戦後民主主義」の鏡として受け入れられてきたように思われる。では、ヨーロッパではどうだったのか――
「暴力なき抵抗」と、エコロジーに適合した「緩やかな」テクノロジーを提唱したマハトマ・ガンジーは、おそらく近代生態平和運動で最も感銘を与える人物であろう。(P159)
ドイツのガンジー主義者は、ガンジーについて、▽ガンジーという事件は、国家的でも愛国的でもなく、したがって「人類の事件」であり、▽人間らしさ有する無政府主義革命の知らせであり、▽ガンジーは、ヨーロッパ、ドイツを支配する、ブルジョアジーの反共的な革命不安と、政治的権力革命の共産主義理念を越えた、「新しき人類の創造主」として革命的である――と絶賛していた。

フランスではロマン・ロランという中心人物がガンジー運動を進めていた一方、ドイツでは自発的にガンジー運動が進められていたという。ドイツでは前出のグスト・グレーザーの先駆のあと、ワイマール時代のドイツのオールタナティヴ運動のうちに根を下ろし、1929年から1933年の世界経済危機の時代にガンジー運動は頂点に達した。この時代は世界経済危機の時代であり、第一世界大戦後のインフレ時代と同様、救済の渇望と飢餓が産業批判と自救行為へと人びとを向かわせた。
・・・ガンジーの立場は、イギリスにおける産業批判と生活改善主義の伝統から生まれたものであり、そのことによって、ガンジーの教説とヨーロッパのオールタナティヴな潮流との間に、原則的一致が存在していることも見逃せない。それゆえ、・・・ハンブルクの「ガンジー行動」の人びとにみられるような、ドイツにおける生態平和の古典的伝統の代表者たちが、ガンジーのなかに一人の指導者を見出したのは決して偶然ではない。なんといってもガンジーは、平和を目指す反産業主義の生きた手本だったのである。つまるところガンジーは、やはり貧困こそ、体制安定に向かわせようとする経済の強制からの解放を可能にするがゆえに、ほかならぬこの世界危機こそ、彼の理念がヨーロッパにより強固な地盤を獲得しうるチャンスであるとも思っていた。だから、ハンブルクのガンジー派の人びとが職業を放棄したのにしても、ガンジーその人がそのような行為のある種の正統化となり得たのである。(P161~162)
(2)代表的なガンジー主義者たち

この時代のガンジー主義者についても、日本ではほとんど知られていない。彼らはハンブルクを活動の中心においた。その中の一人、ヴィリー・アッカ-マンはプロレタリア出身で、雑誌の挿絵用銅版画係で看板屋であった。また、ヘルベルト・フィッシャーは元高校見習い教員、ヴェルナー・アイネッケは国民経済学の放浪学生である。彼らガンジー主義者は、ぼろをまとい、ひげと髪を長く伸ばし、路上生活をしながら、ときに「半獣人間アラバス」を演じたりもした(アッカ-マン)。

プロレタリア出身のアッカ-マンであったが、“無政府主義と「インフレ聖者たち」が、彼に大衆を克服する術を教えたのであった(P164)”という。アイネッケは、偉大なる「インフレ聖者」ルー・ホイサーの後継者である。「インフレ聖者」というのは、ワイマール時代、富裕層の援助で過激な宗教思想、無政府主義等を説く講演会等で生計をたてていた放浪自由人のこと。いずれにしても、彼らはホイサーに代表される、「インフレ聖者たち」の影響にあり、「インフレ聖者たち」が行っていた威圧行動が彼らを特徴づけていたという意味で、「ガンジー主義」もドイツ的現象だと言える。

1925年頃、インフレの危機が去り、ワイマール共和国が安定していく中で、ガンジー主義者を含めた「インフレ聖者たち」の活動は岐路に立たされた。彼らは路上生活から締め出され、新たな活動領域を探さなければならなくなった。そこでアッカ-マンは、フィッシャーとエマオ運動と同じように廃品収集業で生計を立てるようになり、そこから「転回点共同体」を結成した。この共同体の目指すところは、反文明、自由、都市インディアンを目指すものであった。彼らの綱領の要旨は以下のとおりである。
「われわれは新しい民族、新たに生成しつつある種族、新しき人種――野生人――一種のインディアンである・・・シュペングラーが没落を予言したとき、こんなことは予想もしていなかった!ローマはゲルマン人によって滅び、いかなる文明も押し寄せて血の雨を降らせる野蛮人から逃れることはできなかった。このような運命が西洋にふりかかるのは、せいぜいのところ東方民族によってでしかできないとでもいうのか!しかし、ヨーロッパは、そのアスファルトの真ん中から――原始林が出現するのかもしれないことに対する覚悟はできていない、――目下のところこれは比喩ではあるけれども、さていつまでただ比喩にのみ留まっていることか。」(P173)
彼らは投げ捨てられていたいろいろな箱で、ハンブルクのはずれにあるシュレーバー菜園の敷地に小屋を建て、それをペンキで塗った。そこで彼らは野菜やパン用小麦を栽培した。また彼らは、障害物競争のようなスポーツに興じた。彼らの宣言は続く――「われわれ転回点の仲間は、生がわれわれに日々新たに強いることのために、われわれの全生命を賭けている・・・われわれは、われわれ自身、及びいつでも来たいと思う多くの人びとのために、まったく無の状態から、経済的に束縛されていない生き方とより偉大なるものへ向かうための基礎を築いたのである・・・。」(P175~176)、「生とは行動である。生は行動から生じる。」(P176)、「未来が俺にとって何の関わりがるあるというんだ。俺は、今、ここで、この瞬間に生きていたいんだ!それは自己主義なんかではなく、あらゆる動植物と同じ全く普通の生き方なのだ。」(P176)。
こうして、グスト・グレーザー、トルストイ(その著『われわれの時代の奴隷制』は、1930年に大量に売れている)、ガンジーといった文学や自伝に描かれた模範像に、新たな生命が吹き込まれたのである。(P176)
彼らは、当時の政治的現実自体から判断して、このような生の哲学が正しいということを確信したのである。1929年以降、「転回点共同体」の少数メンバーは、ワイマール共和国だけではなく、共産主義やナチズム、いやいかなる国家政策や党政策さえ敵視するようになり、そのかわりに自力救済の思想を主張した。彼らのガンジー運動によって初めて、自力救済の左翼形態が目に見えるようになった。すなわち、「織機と鋤による革命」である。これにいちばん近いグループは、ドイツ無政府主義者たちであった。

また、「転回点共同体」を奮い立たせたのは西洋帝国主義ではなく、世界経済危機の時代における国家と党の無能さであった。ガンジーと同様――ランダウアーもそうであったが――彼らはすべての幸福が、手工業を基礎とする村落文明への回帰から生まれると期待していた。無政府主義の伝統がそうであるように、彼らもこの活動を妨げるものは、大衆を奴隷状態に留めおき、彼らの受動的立場を利用する国家指導者や政党であると見なした。彼らは、ガンジーが目標とするのは、“国家の繁栄は、百万長者の数がいかに多いかによってではなく、その国の貧しい者の数がいかに少ないかによって決定される。”という言葉であることを人びとに示した。そして、労働者を納得させるための模範行動として、一軒の家を共同体として手に入れ、靴職人や無公害パンを作るパン屋の周囲に拡大していこうとした。また、彼らは、クヴィックボルン近郊のホルム湿地を開墾した。

彼らは古臭い階級闘争のスローガンを否定した。「ハンストやバリケード戦、内乱によって貧窮している人民のために何かがなされるのではない!」(P180)というわけである。そして、自らが看板書き、機織り職人、農夫、印刷屋として働いたことのあるヘルベルト・フィッシャー(元高校見習い教師)が模範とされた。大切なのは、仕事と生産物に対して、新しい関係を見出すことである。「文明に必要なのは、なかんずく、人間たちが自分たちを取り囲んでいる事物に対し、親密で個人的で細やかな感情を持つことである。これが可能となるのは、これらの事物が大量に、愛情もなしに機械によって生産されることではなく、芸術家の手仕事のなかで、一つ一つ個性をもって創造される場合にのみ限られる。」(『織機と鋤による革命』第3号)

彼らが目指したのは、妥協なき反資本主義、都市の拒絶、機械に対する敵対心であり、その一方で、来たるべき村落文明の核となる自分の土地、自分の入植地があり、「機械の愚かさ」の拒否である。彼らの思想を端的に示す機械攻撃主義(ラッディズム)の一文は次のようにある。
「今、生は冷淡である。われわれは再び暖かさがほしい。生は抽象的になってしまったが、われわれはそれを具体的にしたい。間接性を直接性で、組織を有機的なもので、再び置き換えたい。人間どうしの関係、人間の自然に対する関係、人間の手によって創造され、個人を反映する環境の人間の関係に基づいて・・・、世界経済ではなく、多くの定住しない人びとによる自由で解放された村落経済を作りたい。愛にあふれ、戯れながら、・・・素人的に、芸術的に、・・・時間を全く気にすることなく・・・必要な事物はみな個性的な形を取って生まれてくる・・・労働が創造、すなわち遊戯であり、幸福であり、生の形成あるところでは、労働の軽減や短縮など必要ではないのだ。」(P183)
1931年、アッカ-マンは再び放浪を開始した。彼に従ったのは妻、2人の子供、ヘルベルト・フィッシャー、放浪仲間のベルンハルト・アイベン、ヴェルナー・アイネッケである。彼らの目標はガンジー行動への扇動であった。アッカ-マンらは髭を長く伸ばし、「ランゴバルト人(古代ゲルマン民族の1部族)のオーケストラ」と銘打って民謡やさすらいの歌を歌ったり奏でたりしながら、彼らの考えを広めていった。

1931年末、彼らはティディッシュの近くに土地を見つけ、入植地とした。しかし、1932年から33年にかけて、ナチスの政権獲得が近づくにつれて、入植者集団も分裂した。アッカ-マンは入植地に残り、自分をゲルマン人の長、一種のオーディン崇拝者であると称した。結局、ガンジー信奉者であり、非暴力主義者であったアッカ-マンはナチス国家によって徴兵され、陸軍狙撃隊の兵役につくこととなったが、大戦争を生き抜き、1985年6月に死去した。
ドイツの歴史における生態平和とアナーキーのイデオロギー上かつ実践上の結合は妥協を許さないものだったので、このような左翼の反進歩的路線は・・・近代文明によって人間に迫りつつある危機を、容赦なく暴いてみせた。さらに、産業化の過程において引き起こされる美的、エコロジー的貧困化が、左翼の論ずべき課題ともなりうることを初めて指摘し、それによって、歴史的労働運動がこの問題を排除するのを是正せんと試みたのであった。そして、そのエコロジーに対する敏感さによって、またアッカ-マンやロビーンのような個人単位の恐れを知らぬ先駆者らによる生を賭した試みに裏打ちされて、盲目的な進歩への楽観主義に対し、測り知れぬほど大きな警告を発したのである。したがって、「自然革命的」反進歩主義者らがその生涯を捧げた活動もまた、生態平和とアナーキーという彼らのビジョン(すなわち自己規定)によって、将来の進歩に大きな視野を提供しうるのである。(P198~199)
●おわりに

ドイツのエコロジー運動の歴史を本書によって振り返ることによって、今日の[緑派]につながる大潮流を確認することができた。それは一見すると非妥協的、ドンキホーテ的な個人単位の夢想家の群のようにも見えるが、ワイマール時代の前後、発展しつつある資本主義の矛盾を止揚しようとする、思想的運動の1つであったことがわかる。

冒頭に掲げた問題意識――『現代社会のカルト運動』の記述が、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような断言を相対化し、複合的に再構成しようとする目的はとにかく、達成できた。しかしながら、本書に登場するオールタナティヴな「自然革命的」反進歩主義者らのビジョン(すなわち自己規定)が、「生態平和とアナーキー」という概念に凝縮されすぎた点が新たな不満として残ってしまうことも事実である。

彼らを規定したものが、ドイツの急速な産業化がもたらした諸矛盾を解決しようとする純粋な心情からであっただろう。そして、その解決の手がかりとして、ベルシュ、ダーウィン、ヘッケル、クロポトキン、バクーニン、トルストイ、ガンジーらの思想を援用し、かつ、当時のアナーキズムやサンジカリズムの思想と同調しつつ、非妥協的エコロジー運動を展開したことは了解できる。だが、ロビーンが結局のところ反ユダヤ主義者になってしまったことや、アッカ-マンが自らをランゴバルト人と、また、ゲルマンの長――オーディン崇拝者だ、と自称したという記述は、やはり大いに気になるのである。

本書は、この時代のオールタナティヴなエコロジー運動家が、民族主義・人種主義、そしてその基底にあるアーリア人至上主義、ゲルマンの自然宗教信仰にどのくらいの距離をもっていたのかについて触れていない。また、彼らがユダヤ=キリスト教をどう考えていたのかについてもそうである。彼らの運動とゲルマン異教の関係は伏せられたままである。もしかしたら、その部分に係る記述を、敢えて意図的に回避したのではないかとも思えてしまう。
  1. 本書は1986年(26年前)に上梓されたもの。
  2. 当時ドイツは、東(ドイツ民主共和国)と西(ドイツ連邦共和国)に分離していた。東西ドイツの統合は1990年。

2012年7月15日日曜日

路地の可愛い家



「不思議な絵」の近くにある可愛い家。軒下の円形のオブジェは何かの蓋なのだろうか。


小さな建物だが、異彩を放っている。

三崎坂の路地の不思議な絵



谷中霊園方面から団子坂下に向かって三崎坂を少し下って、居酒屋「町人」の手前を右折した路地の奥の住宅の壁に描かれた不思議な絵。

玄関が空いているとき、ちょっと中をのぞくと、この絵と同じような人形を製作されていた。

どのような目的のものなのか、聞いてみたことがないので、わからない。

人形は、成人のほぼ半分くらい、幼稚園児くらいの大きさだが、遠目でも迫力がある。

2012年7月1日日曜日

Zazie,Nico(7月)



7月の猫の体重は、Zazieが2.7㎏、Nicoが5.7㎏であった。

前月比で、Zazieが300g、Nicoが200gの減だ。

Zazieは先月末の木、金あたりから発情期にあり、食欲が減少しているためだと思われる。

一方のNicoは、最近、嘔吐することが多い。原因は不明。

そんなわけで、二匹とも調子は下降気味。

2012年6月24日日曜日

長久院(谷中)のアジサイ




@Yanaka

Zazie, Nico







二匹の猫のうち、Zazie(黒っぽい)はひっそりと、部屋の隅とか物陰で寝ることが多い。

一番下の写真は、珍しく、テーブルの上のクリアファイルの上で寝ているZazie。

一方のNico(白)はだいたんで、どこでも寝てしまう。

ただし、来客があってドアホーンが鳴ると、Nicoは一目散に隠れてしまう。

知らない人が部屋に入ってくると、けっして近づこうとはしない。

その反対にZazieのほうは、人懐っこく、だれにでも近づいてきて触られたりするのが好きだ。

ただし、二匹とも苦手なのが子供。

2012年6月18日月曜日

状況論

ここのところ、日本国の劣化がはなはだしい。民主党政権だからではない。長年の自民党政権が溜め込んだ膿が政権交代後に噴出しているのだ。弱小・軟弱な書生集団・民主党政権、とりわけ選挙屋・松下政経塾出身者には手におえない。

(1)オウム「逃亡犯」――なぜいま逮捕なのか

ワイドショーは多くの時間をオウム真理教の逃亡犯逮捕のニュースに充てている。筆者の素人判断にすぎないが、当局は、オウム事件で潜伏したという複数の被疑者を敢えて逮捕しなかったとのだと思っている。当局は、「逃亡犯」を何かの時の手駒として、持っておきたかったのだと思う。当局=体制にとって、都合の良いタイミングで「逮捕」したかったのではないか。

ではなぜ、いま逮捕なのか――消費税増税問題で国会が煮詰まっているときだからだろう。与野党ともに消費税率アップで合意していながら、国民は増税を望まない。その反発をまともに受けたくなかったのだ。そのようなとき、「逮捕」への指揮系統が働いたのではないか。与野党談合の隠れ蓑として、「逃亡犯逮捕劇」が利用されたのではないか。

当局にとっては、監視カメラ増設予算を大幅に増額できるという二次的効果もある。テレビが「公開捜査」で情報を流し続け、それを受けて国民が監視の目を光らせ、“怪しい奴”を通報するという社会システムの構築も期待できる。密告社会の実現だ。当局は、旧ソ連、東ドイツをはじめとするスターリニズム国家を日本に再現しようというわけだ。

(2)オウム事件、真相解明委員会

ワイドショーに出演した弁護士が素晴らしい発言をしていたので紹介しておく。その弁護士は、“オウム真理教事件は、なにひとつ解決していない”という意味の発言をした。当局は複数の事件に関与した教団幹部を全員逮捕したというけれど、なぜ、彼らがあれだけの事件を起こしたのかは、裁判でも一切解明されていないと。

その弁護士は、「原発事故の事故調査委員会」のようなものを立ち上げ、そこで、事件の全容を解明すべきだと主張した。まったくそのとおりだと思う。▽オウムとロシアとの関係、▽サリン製造のノウハウはどこから?▽地下鉄サリンの前の松本サリン事件でなぜ、誤認逮捕があったのか、▽教団幹部・村井殺害の真相は、▽国松長官狙撃事件の犯人は・・・思いつくだけでも、これだけの関連事項の真相が解明されないままなのだ。とりわけ、教団の資金の流れだ。

(3)「東電OL殺人事件」の深い闇

いわゆる「東電OL 殺人事件」で、犯人とされたネパール人が強制退去で帰国した。事実上の無罪放免である。彼は罪を犯していないにもかかわらず、15年近くも入獄していた。彼が欧米国籍の外国人だったら、こんなことにならなかったのではないか、と筆者は思い続けてきた、と同時に、日本の当局に対する嫌悪感で胸がいっぱいなっていた。オーバーステイのアジアの小国の弱者を生贄にする、日本の当局の「やり方」が汚い。

(4)原発再稼働の無責任さ

原発再稼働宣言については、NO-DAの愚挙の極みだ。再稼働派は、3・11を忘却の彼方に押しやりたいのだ。なにもなかった、3・11は悪夢だったと。だが、3・11こそが現実なのだ。日本の原発は不良品。しかも、それに携わる者(設計者、ゼネコン、電力事業者、政治家、役人、学者、マスコミ人・・・)のヒューマンスキルが低すぎた。事故後の対応力にいたっては、どうしようもない。事故直後、「安全、安全」と言い続けてきた当時・官房長官の政治生命は絶たれておかしくない。にもかかわらず、3・11後に原発を監督する経産大臣に就任したのは、ブラックジョークを通り越している。

NO-DAが「責任をとる」といったって、事故があった後、彼が壊れた原発を修理できるわけでもないし、補償を支払えるわけでもない。事故で死亡者が出たら、NO-DAが生き返らせることができるのか。拡散する放射線を止められるのか。NO-DAに、どういう責任がとれるのか。“引責辞任”なんて、責任をとったことにならない。NO-DAの「はったり」には頭にくる。言葉の「軽さ」にイライラする。

2012年6月13日水曜日

梅雨時の路地パワー



@yanaka

谷根千の路地は季節の花で彩られる。

2012年6月10日日曜日

Zazie, Nico







ZazieとNicoはなんともおかしな表情を偶然、見せてくれる。

猫の不思議な魅力の一つだ。

2012年6月4日月曜日

『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』

●S・ フォン・シュヌーアバイン (著) ●恒星社厚生閣 ●5460円 

 本書を読むきっかけは、大田俊寛のtweet、「中沢新一のグリーンアクティブの思想的位置がよく分からないという人は、翻訳が杜撰で残念なのだが、シュヌーアバイン著『現代社会のカルト運動──ネオゲルマン異教』を読まれると良いと思う。世界各国の環境政党が、無数のロマン主義・排外主義カルトに支えられているということが書かれている。」という呟からだった。

1 中沢新一の「反」原発運動(グリーンアクティブ)

大田は『オウム真理教の精神史』を上梓した宗教学者。いま現在、反原発運動の理論的指導者の一人・中沢新一批判の急先鋒に立っている。その理由は、中沢が当初オウム真理教に肯定的にコミットしておきながら、事件後、その態度を変節したことにある。中沢のオウム真理教に対する変化には、彼自身の思想の総括がまったくなされていない、というのが大田による中沢批判の主意である。

さて、中沢新一の“グリーンアクティブの思想的位置”については、中沢の反原発運動のマニフェスト『日本の大転換』(集英社新書)に記されていると考えていい。それを大雑把に示せば、以下のとおりとなろう。

▽原子力エネルギー(原子炉)というものは太陽圏に属するもので、石油・石炭とは異なり、生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさい経ることなしに、生態圏の外部に属する現象を生態圏のなかに持ち込む技術であること。

▽ユダヤ・キリスト教といった一神教は、西欧においてキリスト教の衰退後に覇権を握った世俗的な科学技術文明の深層構造にも決定的影響を及ぼしていて、一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象をもちこんだやり方と、きわめて強く似ていること。つまり、原発は、一神教がもたらした科学技術であること。

▽資本主義以前の世界では、人間と生態圏の間にもキアスム(交差の)構造が貫かれていて、そのことは農民の示す土地や自然に対する深い共感情を思い浮かべればすぐわかること。

▽キアスムの働きによってつくられていたのが、ほかならぬ東北の世界であること。

▽東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ、縄文文化の基礎の上に築かれていたこと。
……私たちは原子核技術の思考のなかに、ユダヤ思想が生み出した一神教と、まったく同型の考え方を見出した。どのエネルギー革命も、それに対応する宗教的思想や新しい芸術をもっているものである。……来たるべきエネルギー革命については、……誤解を恐れずに宗教的思想とのアナロジーを用いてみよう。すると、8次エネルギー革命は、一神教から仏教への転回として理解することができる。仏教は一神教の思考を否定する。一神教は、人類の思考の生態圏にとっての外部を自立させて、そこに超越的な神を考え、その神が無媒介的に生態圏に介入することによって、歴史が展開していくという考え方を発達させた。このような超越論的な歴史主義の思考から、モダニズムの技術化思考が生まれた。仏教はこのような思考法を、ラジカルに否定するのである。(中沢新一著『日本の大転換』P66)

2 『日本の大転換』はニュー・エイジ運動の書

中沢のこのような論法は、いわゆる1970年代以降、世界的に普及し今日に至る「ニュー・エイジ運動」の思想にきわめて近いものがある。ニュー・エイジ運動を、本書(『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 )の記述から定義づけてみよう。
ニュー・エイジ運動とは、……神秘主義、秘教、オカルティズム、現代の西欧自然科学、すなわち心理学(とくにW・ライヒとC・G・ユングのそれ)の諸要素、心理療法のさまざまな流れ、ある種の再生思想という西洋宗教の概念装置、それに前キリスト教、あるいは、非キリスト教の種族宗教もしくは自然宗教のインパクトがある。とくに後者には「シャマニズム」「新魔女」それにケルトとゲルマンの「叡智の教え」がある。(P3) 
この運動は、現代世界が生存の危機に陥り、破滅の淵に瀕している、という意識をもち、調和に満ちた、新しくより高度な時代――ニュー・エイジの名称も、ここに由来するのだが――の到来に備えて、「転換期」に生きる思想に革新する。(P3)
中沢の反原発運動のマニフェスト(=『日本の大転換』)の本題に「転換」とあるのは、それがニュー・エイジ運動の一類型であることをいかにも象徴している。さらに、3・11による福島第一原発事故という深刻な、いわば生存の危機、破滅の淵に瀕した日本の状況を克服する道が、“調和に満ちた”、“新しくより高度な時代”、すなわち中沢にあっては一神教を否定し、仏教的世界の実現に向けられていることも、ニュー・エイジ運動の範疇にあることをよく示すものである。

そればかりではない。中沢が、被災地・東北を日本の古層文化であるとされる縄文文化と強引に結びつけていることも、ニュー・エイジ運動の特徴と類似する。

西欧におけるニュー・エイジ運動の理念は、キリスト教(=一神教)伝来以前の自分たちの祖先であるゲルマン・ケルトの自然宗教、そしてアジアの宗教であるヒンドゥー教、仏教、日本仏教(禅)、占星術等を含めたオカルトに求めているが、オウム真理教及び中沢のグリーンアクティブ運動を含めた日本のニュー・エイジ運動は、ポストモダン社会の諸矛盾の解決の方法として、「縄文」「沖縄」「東北」、パワースポットと呼ばれる神社、密教、山岳仏教、チベット仏教、ヨーガ等にそれを求める場合が多い。このことこが、まさに本書の中心テーマであり、肝にも当たる。

また先述のとおり、中沢の一神教(ユダヤ・キリスト教)を排斥する姿勢は、ニュー・エイジ運動の起源となった、19世紀末から20世紀初頭の神智学、アリオゾフィーの理念の延長線上に成立した、ナチズムの反ユダヤ主義が投影されている。このことについては後述する。

3 ネオゲルマン異教とは何か

(1)ネオゲルマン異教の歴史的起源
自分の時代と社会を批判する場合、人びとは、繰り返し、それぞれの時代に望まれ多分に想定される健全な過去に肯定的な対立像を求めるようになる。そのさい、ドイツ語圏と北ヨーロッパでは、「自分の祖先」、つまりゲルマンが、とりわけ民俗学的、文献学的学問の視点から取り上げられている。(P212)
古代ゲルマンの文化と宗教を学問的かつイデオロギー的に考察しようとする始まりは、宗教的動機に基づいているのではない。むしろ、それは、ドイツ文献学と新しく登場した古代学の発展と結びついている。ゲルマンの宗教を受容する最初のきっかけとなったのは、初期ロマン派であるが、このロマン派は、「新しい神話学」を求め、ゲルマンの神的世界の要素を強調した。(P212)
ネオゲルマン異教の理念を説明する場合、今日のニュー・エイジ運動の前身となる19世紀末のドイツ、オーストリアの学問、思想に遡及しなければならない。その第一が、19世紀末に成立した神智学である。神智学は、オカルティズム、仏教、ヒンドゥー教の歴史的装置と、当時流行していた自然科学理論、とくにダーウィン主義・ヘッケルの一元論を、ニュー・エイジ運動と似たようなやり方で綜合していた。

神智学を代表する思想家の一人が、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831~1891)。ブラヴァツキーは、ダーウィン進化論と宇宙的領域が階統制に関するオカルト的教義の結びつきから、人類は「起源人種」から発展するという思想を生み出した。ブラヴァツキーによれば、今日の第五起源人種はアトランティス大陸で発生し、さらに5つの亜人種に分かれている。これら亜人種はさまざまの発展段階を経て進化し、「アーリア人」にまで達しているという。人種のオカルト的起源説と選ばれた民族という理念は、神智学の内部でしだいに大きな役割を演ずるようになった。

もう一つが、20世紀初頭に活動した、アリオゾフィーと呼ばれるオカルトグループの存在である。「アリオゾフィー」とは、アーリアのArio+叡智Sohiaの合成語で、神智学と密接な関係をもっていた。彼らは、とくに神智学が主張するような当代のオカルト思想と民族主義的イデオロギーを綜合しようとした。さらに、彼らは、この綜合にさいし、自分たちの思想構成物に歴史的正当性を付与するにふさわしいと思えた理想化されたゲルマンの原古代を投影させていた。

その代表的思想家の一人・ギィド・フォン・リスト(1848~1919)は、説話や神話に伝承されているアリオ・ゲルマンの多神教的宗教を「ヴォーダン主義」と呼び、神智学のオカルト思想と民族主義的イデオロギー、すなわち、ゲルマン人=アーリア人至上主義を綜合化しようとした。ヴォーダン神とは、ゲルマン民族全体の神とみなされている(オーディン神とも呼ばれる)。

また、イエルク・ランツ・フォン・リーベンフォルト(1874~1954)は、新聖堂騎士団を設立し、「退廃と原人種性に対し学問的戦いを挑み、純粋交配によってヨーロッパの貴族的人種を没落から守るため、人類学の成果を実践的に応用しようとする、唯一にして最初の人種経済学の雑誌『オスタラ』を発行した。オスタラとは古代ゲルマンの祭礼の一つである復活祭の民会のことを意味している。

さてここで、“アーリア人”と“ゲルマン人”について簡単に整理しておこう。ゲルマン人というのは、ローマ帝国がヨーロッパを支配する前に古代ヨーロッパに先住していた北方民族の総称。ローマ帝国の衰退期、北方から移動してきたゲルマン人諸族がローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国滅亡の主因の一つとなったことは、高校の世界史で学習したとおりだ。なお、今日のニュー・エイジ運動では、ゲルマン人と並んでケルト人も同類に扱われていて、ゲルマン=ケルトがキリスト教伝来以前の自分たちの真の祖先だと考えられている。

神智学、ネオゲルマン異教においては(学術的検証とはまったく別だが)、ゲルマン人=ケルト人=現在の北方ヨーロッパ人がアーリア人の末裔ということになる。アリオゾーフの代表的存在であるリストは、ヴォーダン主義の使命がアーリア人種を維持し、「高貴な人種」を育成することであるとしていた。また、リストは人種混合を阻止し、「神々の後裔」からなる新しいエリートを育て、エリートたる「純粋人種」のアーリア人だけが、市民的権利や自由を享受しうる唯一の人々であるとした。

今日、一般的には、アーリア人とは次のように考えられている――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そして、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた、ことがわかっている。つまり、中央アジア、インド亜大陸、アフガニスタン、イラン高原、ヨーロッパ等の人々の多くは、アーリア人と関係があると考えてもいい。

ところが、神智学、アリオゾフィー、ナチズム、そして現代のネオゲルマン異教は、ヨーロッパに向かった部族だけを「アーリア人」と呼び、北方ヨーロッパ人であるゲルマン人、ケルト人だけを取り上げて、その末裔だと解釈していることになる。

(2)ナチズムと神智学・アリオゾフィー

神智学、アリオゾフィーの理念は、ゲルマン人の宗教である多神教にそのよりどころを求める以上、オリエント起源の宗教で、一神教であるユダヤ・キリスト教は排斥されることになる。彼らにしてみれば、ユダヤ・キリスト教こそが、ヨーロッパ退廃の主因となる。また、前出のとおり、神智学、アリオゾフィーは、ゲルマン民族=アーリア人至上主義を打ち出していた。

1920年代におけるアリオゾフィー団体としては、エッダ協会、ギィド・フォン・リスト協会、ゲルマン教団、帝国ハンマー同盟、トゥーレ協会などが挙げられる。こうした考え方は、ナチストの思想と多くの共通項が認められる。ナチスは神智学、アリオゾフィーの理念を綜合化し、アーリア人至上主義、ユダヤ人排斥、古代ゲルマンの宗教の復活を掲げて、それを第三帝国のアイデンティティとして取り込んだ。ところが、第二次世界大戦でナチスドイツが敗戦国となって以来、神智学、アリオゾフィーは急速に衰退してしまった。それが世界的に復活をみせたのは、ニュー・エイジ運動の興隆からだった。

(3)現在のネオゲルマン異教

オカルト思想と過激なゲルマン民族至上主義的イデオロギーが混交した「ネオゲルマン異教」として復活したのは、前出のとおり、ニュー・エイジ運動の影響の下であった。ネオゲルマン異教とは、神智学、アリオゾフィー、民族主義的イデオロギーを綜合化した概念であり、キリスト教伝来前にヨーロッパにあった古代アイスランド文学、とくにエッダ文学、ゲルマン的多神教を復活させようとする運動だ。また、「ヴォッカ(魔女)」運動、エコロジー運動、シャマニズムの尊重、「母権尊重=女性に優しい宗教としての異教」、という側面もある。

今日、ネオゲルマン異教のグループは、北部・中部ヨーロッパ並びにアメリカ地域にみられる。アメリカにはアサ神信仰自由会議、オーディン協会、異教徒の道、フラフニールなどが、イギリスには、オーディンの儀式、槌の位階、オーディンの庭などが、スカンディナヴィアにはアサ神信者、ニアルシンナ(以上、アイスランド)、スヴィトヨーズ・アサ・ギルド、ユグドラシルが(以上、スウェーデン)がある。

ドイツでは、異教共同体、ゲルマン信仰共同体、アルマーネン教団などの存在が知られているが、アルマーネン教団がその代表的存在であり、本書では、アルマーネン教団を詳細に論じている。同教団の指導者はアドルフ・シュライバー、ジグルーン・シュライバー夫妻。この教団はもちろん、神智学、アリオゾフィーが掲げたアーリア人至上主義、古代ゲルマンの多神教の復活、反ユダヤ・キリスト教を基本的立場としている。

また、世界中のネオゲルマン異教の諸グループは互いに良好な関係をもっていて、ネットワークで結ばれている。また、その一部は他の宗教的・政治的集団と活発に結びついている。ネオゲルマン異教の各グループのうち、あるものは極右(ネオナチ)グループであるギルフリーテン、アスガルト同盟など――とも親和的である。

ネオゲルマン異教のグループは、第一に、前・非キリスト教への回帰、種族宗教、すなわち、民族主義としてのゲルマン宗教を尊重するところから、ネオ原始主義の枠組みにあるオカルト的伝統への回帰という傾向をもつ。第二に、それは人種主義、民族主義的世界像を極右集団と共有する。第三に、それがニュー・エイジ運動と同調してきたところから、文化ペシミズム、文明批判として、アメリカ先住民(インディアン)文化に象徴的なシャマニズムや自然崇拝の傾向をもち、アナーキズム的価値、エコロジー的価値を強調するところから、左翼にも根を下ろした立場に立つ。

(4)ネオゲルマン異教とエコロジー的社会主義
1900年から今日に亘るネオゲルマン宗教運動を述べたことから明らかになってきたように、古代ゲルマンの神々の宗教を信ずる中心的動機は、文化ペシミズム的、文明批判的信念である。この古代ゲルマン宗教は、自らの伝統や文化、自らの民族に最も近い宗教として理解されていただけでなく、自然を敬うことであり、エコロジーに志向する宗教としても理解されている。(P226)
反原発運動の理論的指導者のひとり中沢新一が、運動体としてグリーンアクティブを立ち上げたことは冒頭に記した。中沢が指導する運動体が「グリーン」を名乗ることは、彼らが筋金入りの日本版緑派であることは間違いなかろう。もちろん、中沢が自然、農業、農民、生態圏、光合成といった「自然」に全面的に拝跪する記述が『日本の大転換』のなかに散逸していることから、グリーンアクティブはエコロジー系運動組織であろう。中沢における日本の「縄文」「東北」「農業」は、欧米における「ネオゲルマン異教」に相当する。
文化ペシミズムと「緑派」の思想は、すでに19世紀半ばに反大都市的、農業ロマン主義的イデオロギーの点で結びついている。(P227)
この方面の先駆者のひとりが、ヴィルヘルム・リール(1832~1897)。彼は「非自然的病的な都市」に対し地方住民の健康で生気に溢れた生活を対抗させた。彼は産業化、技術革新を否定し、農民気質や無辜の自然を賛美し、国民主義の諸観念と結びつけた。この運動は後に、アリオゾーフであるリストの人種主義と反ユダヤ主義と結合することとなる。また、この時代、ドイツでは「青年運動」「郷土保護運動」が盛んとなり、「自由農民の中心的意義」が尊重されるようになっていた。

20世紀、緑派はニュー・エイジ運動の興隆に呼応しつつ、政治的勢力として成長していった。またその一方で、エコロジーとネオゲルマン異教が密かに結びつくことにもなった。その役割を果たしたのが、1980年代、エコロジー志向をもつ教会批判の神学者・フーベルトゥス・ミュナーレク。彼の汎神論と、緑派の対抗思想、ニュー・エイジ運動、そして民族主義的宗教世界が接触を深めた。彼らは、現代社会の諸矛盾を「ユダヤ的思考」に負わせようとした。つまり、ヨーロッパのキリスト教化がその起源だと。

ミュナーレクの周辺で活動していたペーター・バーンは、「ヨーロッパ人には異質で、オリエントに起源のある教義の多くの強制的伝播」が現代社会の諸矛盾の原因の第一だとし、「ユダヤ教的かつキリスト教的二元論は、神と世界、人間と環境の関係を引き裂いた」と主張した。この思考は、中沢の「私たちは原子核技術の思考のなかに、ユダヤ思想が生み出した一神教と、まったく同型の考え方を見出した。」と寸分たがわぬものである。

(5)右翼と「緑派」

エコロジー運動(環境保護、自然保護、自然食志向、循環型社会志向等)は、日本では市民運動、左翼運動の分派のように考えられている。中沢新一のグリーンアクティブもその一派であろうと。こうした傾向は、エコロジー運動の先駆者であるドイツでも同様のように思える。がしかし、実際には、ドイツにおいては、むしろ両義的であるという。
……前・非キリスト教の諸宗教に「原爆保有国、資本主義、産業主義、植民的キリスト教」の対抗運動を求めようとする希望は、今世紀(20世紀)初頭のエコロジー運動の思想と同じく、政治的には両義的である。確かに、今日の[緑の党]は、主として学生の反乱という特徴をもち、それとともに急進民主主義的理念から左翼急進主義理念まで信奉し、反権威的スタイルを好んでいる。一方、[緑の党]には、はじめから右翼保守的伝統から極右的伝統まで流れており、とりわけ、[緑の党]設立にさいし参与したアウグスト・ハウスライターの国家革命的「独立ドイツの活動共同体」もある。(P241)
エコロジーからみて、ふさわしい自然宗教と考えられる前キリスト教の諸宗教に遡及してみようとする傾向は、緑派‐対抗の陣営、秘教陣営、極右の人種主義陣営に広くみられる。(P246)
 そればかりではない。エコロジーを生物学的かつ人種主義的思考モデルと関連付け、同時に「国家主義的アイデンティティ」「解放の国家主義」「民族多元主義」「ヨーロッパ・ナショナリズム」などの一般原理と結びつけ、エコロジーの危機を、民族とは本来的にそぐわない普遍的かつ自然に反するイデオロギー、すなわち、ユダヤ‐キリスト教によって、疎外された結果だと考えるグループが内在している。

このような思考の代表的存在であるヘンニング・アイヒベルクは「ヨーロッパ世界の産業体制が産業システムを政治的、経済的には拡大傾向にある大規模な構造に組み入れることで、地域の諸民族から文化的、国家的アイデンティティを奪っている」と主張している。これを解決するには、「より小規模の社会単位を創造し強大な権力からの解放と地方主義的運動を支援することだ」という。そこに登場するのが、ゲルマン主義の受容であり、ユダヤ‐キリスト教を排して、ネオ異教的宗教を形成することだと。
思考のモデルとして考えられているものに、エコロジーからみて適切で、したがって「より自然に適っている」より小さな単位、つまり地方の人間らしい社会組織がある。これは、「左翼的」緑派と「右翼的」それ、また伝統的種族宗教に志向しようとするニュー・エイジ運動の諸々の潮流を相互に結びつける。これが「新思惟」と「新心霊」を必要とするさいに、この両者を結び付ける方向は、宗教線上にある。(P245)

4 反原発の思想的位置

中沢新一の反原発の「思想的位置」は、ニュー・エイジ運動(自然崇拝、縄文、東北、農民・農村、多神教主義、反ユダヤ=一神教主義)にほかならない。それが飛び出してきた背景には、3・11以降の日本の混乱と危機意識の高まりがある。中沢のグリーンアクティブの思想は、原子力エネルギーを太陽圏という神秘的世界に追いやり、それ以外のエネルギーを生態圏という「優しい世界」にとどめようとする。

しかし、考えてみれば、生態圏を代表する化石エネルギーをめぐって、世界は血みどろの闘争を繰り広げてきた(いる)のではないか。生態圏だから制御できる、太陽圏だから制御できない――ではすまされない。人類は、原子力エネルギーも化石エネルギーも、制御しなければいけないのである。

3・11以降、日本において求められる反原発の取り組みは、わが国の原発に関わる政治、行政、事業者、産業技術、関連学界、ジャーナリズム、地域社会等を革新・刷新する以外に方法はない。原発が抱える諸問題の根本的解決に地道に向かう以外にない。福島原発の事故発生は、日本の原子力発電に係る技術水準が低いうえに、それを監視するシステムに問題があったからである。原子力発電に携わる事業者の運営管理能力が未熟なうえに、それを監理・監視・監督すべき政治、行政、学界のレベルがあまりにも低すぎたからである。原子力を所管すべき官庁のトップが原子力の素人であった現実、それを知りながら放置しておいた政治家、ジャーナリズム、原子力発電のリスクを説明しない行政、学者等々の責任は限りなく重い。原発を受け入れてきた自治体に対し、リスクを説明しない政府、学界に責任がある。

さらに、日本が地震国であることは、原発事業にとって、あまりにも大きなリスクである。今現在の日本の原発建設技術は、地震・津波の脅威を克服しえないのではないか。このような具体的条件のもと、この先、原子力発電を続けていくことが良い選択なのか、悪い選択なのかを考えればいい。

反原発を自然崇拝や多神教、自然宗教へ回帰する方向で考えようとする傾向は、ニュー・エイジ運動、ネオゲルマン異教の理念と選ぶところがない。中沢新一のグリーンアクティブはいずれ、ネオゲルマン異教の「アーリア人至上主義」「血と大地」「反ユダヤ主義」「反国際主義」に相応する、「東北」主義、「縄文」主義、“始原の日本人”を至上のものとする民族主義・人種主義と混交するに違いない。

2012年6月1日金曜日

Zazie, Nico(6月)





きょう(6月)で、Zazieがやってきてから1年が経過したことになる(実際、家に来たのは、中旬のことだったけど)

生まれたのはその2カ月ほど前なので、誕生日は過ぎている。

Nicoは7月にやってきたのでまだ、1年を経過していない。

二匹とも病気もせず、順調に生育しているようにみえる。

さて、 今月の体重は、Zazieが3.0㎏で前月より0.2㎏の増、

Nicoが5.9㎏で同じく0.4㎏の増だ。

ところで、今朝、Nicoがベランダに出て、フェンスの縁に飛び乗るという事件を起こした。

拙宅はマンションの5階なので、外側に落下したら・・・

幸い、危機一髪のところで内側に降りて、大惨事を免れた。

2012年5月1日火曜日

Zazie, Nico(5月)

二匹の猫はそれなりに順調に5月を迎えた。

体重はZazieが2.8㎏で前月より0.5㎏の増、

Nicoは5.5㎏で同じく0.2㎏の増加だ。

ここ2カ月の体重減少傾向に歯止めがかかった。

二匹とも1歳を超えたので、落ち着きが出てきたような気がする。




2012年4月30日月曜日

不思議な花

@Yanaka

八重桜も散っていく

寛永寺の八重桜が散って、地面をピンクに染めた。






2012年4月29日日曜日

『わが闘争 上下』

 ●アドルフ・ヒトラー  ●角川文庫  ●上800円、下705円(+税)


ヒトラーという人物の詳細については、ここでは割愛する。本書をいま読み直す意味は、話題の大阪市長・橋下徹の思想の中にヒトラーの影響があるのかないのかを探るためだ。橋下大阪市長の強引とも思われる政治手法は、彼を支持しない勢力から「ハシズム」と呼ばれ、その言動、選挙運動、行政手法、独裁肯定の姿勢等がヒトラーと類似すると指摘される。ところが、橋下大阪市長は関西圏のみならず、広く日本中から支持を得ている。

ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党の台頭は、第一次世界大戦で帝政ドイツが敗戦国となり、旧体制=帝政が倒れ、1919年、新生・ワイマール共和国が成立(革命成就)した後からだった。

そのときのドイツの状況を大雑把に振り返れば以下のとおりになる――ドイツ=ワイマール共和国は、戦勝国側から求められた巨額の賠償請求支払、そして、戦災による生産施設等の損壊により、経済力が著しく低下し、失業者があふれていた。しかも、ロシア革命の成功により、ドイツ国内に共産主義革命勢力が膨張し、ストライキの頻発や治安悪化が進み、社会不安は増大するばかりだった。そんな中、ワイマール共和国の議会は機能不全に陥り、有効な施策が見いだせないまま、時間ばかりを浪費していた。いわゆる、議会が“何も決められない”状況に陥っていた。政治家は敗戦国ドイツの荒廃した状況について、なんら責任をとろとしなかった。そのため民衆は、議会と既存政党に絶望感を抱いていた――と。

橋下氏が大阪府知事選挙(2008年2月就任)に、そして、その後の大阪市長選(2011年11月就任)に勝利したときのわが日本の状況は、ワイマール共和国下のドイツに似ていないわけではない。二大政党制導入の「成果」により、戦後一貫して政権を担当してきた自民党政権が倒れ、新たに民主党政権が誕生した(革命成就)。

にもかかわらず、民主党政権は自民党と変わらないどころか、既存権益確保に奔走し続けている。2011年3月11日、大地震、大津波、福島第一原発事故が起こり、およそ2万人の人命が失われた。福島原発事故により、日本中の原発の安全性が疑問視されるようになり、日本各地の原子力発電所は運転を停止した。日本人は放射能汚染及び電力不足という、深刻な不安に日々、晒されることになった。

3.11前、2009年9月のリーマンショック以降、日本経済は不況の見舞われ、失業率上昇の改善はみられず、非正規労働者の増加も止められないままだ。それに大震災が加わった。今日の日本人は、もちろん、ワイマール共和国下のドイツ人の生活と比較すれば豊かには違いないけれど、不安に苛まれているという状況は似ている。

しかも、政権奪取後の参院選で敗北した民主党は参院で少数与党となり、議会(国会)はいわゆる「ねじれ国会」に陥り、“何も決められない”状況に陥ってしまった。政権与党の民主党、野党の自民党等は、議会(=国会)で膠着状態に陥り、日本人の多くは、既存政党に対する失望感を強く抱くようになってしまった。

話題の橋下大阪市長は、中央(国政)ではなく地方(大阪府・大阪市)において、既存政党が大勢を占める地方議会の“何も決められない”状況を批判し、強引ともいえる「改革路線」を掲げて首長に当選した。次いで大阪維新の会(=新党)を結党し、政治基盤を固めつつある。

ヒトラーは、青年時代、彼が過ごしたウィーン(ハプスブルク帝国の首都)の議会に強く失望し、第一世界大戦にドイツ軍兵士として参戦した。彼は敗戦後のドイツ=ワイマール共和国下のミュンヘンにおいて、ワイマール共和国議会=既存政党を批判し、国家社会主義ドイツ労働者党=新党に大衆の支持を集めることに成功した。(※国家社会主義ドイツ労働者党は厳密には、ヒトラーが結党した新党ではないが、ヒトラー参加前の同党は、少人数がサロン的に集まる小グループであって、地方政治にすら影響を及ぼすことはなかった。)

そればかりではない。前出のとおり、ヒトラーはドイツ国内で膨張する共産主義勢力と暴力的に対峙し、共産主義勢力と闘争をすることにより、ドイツ国内の反共的気分を抱く人々の支持を集めた。橋下市長も、大阪府・大阪市の職員組合に対峙することにおいて、反組合的気分を抱く大阪市民の支持を得た。この場合、大阪府・市の職員組合が共産主義者であるか否かは問われない。

さて、本書である。読了後の第一印象は、なんと“奇怪な書”であろうか――という一語に尽きる。ヒトラーが狂人であったかどうかの研究結果は出ていないようだが、本書に散見されるバランスを欠いた言説が不気味だ。ヒトラーの政治技術、政党組織、大衆扇動・組織化についての論述は極めて理路整然としていて、今日の専門家も舌を巻くような鋭さがある。

大衆は外交官から成り立っているのではなく、また国法学者のみから成り立っているのでもなく、まったく純粋に理性的判断からでもなく、動揺して疑惑や不安に傾きがちな人類の子供から成り立っている。(上巻:P240)
民衆の圧倒的多数は、冷静な熟度よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的要素を持ち、女性的な態度をとる。しかしこの感情は複雑でなく、非常に単純で閉鎖的である。この場合繊細さは存在せず、肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽かであり、決して半分はそうで半分は違うとか、あるいは一部分はそうだがなどということはない。(上巻:P241)
・・・宣伝は、鈍感な人々に間断なく興味ある変化を供給してやることではなく、確信させるため、しかも大衆に確信させるためのものである。しかしこれは、大衆の鈍重さのために、一つのことについて知識を持とうという気になるまでに、いつも一定の時間を要する。最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである。変更のたびごとに、宣伝によってもたらされるべきものの内容を決して変えてはならず、むしろけっきょくはいつも同じことをいわねばならない。だからスローガンはもちろん種々の方面から説明されねばならないが、しかし考察の最後はすべていつも、新しいスローガン自体にもどらなければならない。そのようであってこそ宣伝は統一的であり、まとまりのある効果をおよぼすことができ、また、効果がおよぶのである。(上巻:P243)
信念は知識よりも動揺させることがむずかしく、愛情は尊敬よりも変化をこうむることが少なく、怨恨は嫌悪よりも永続的である。この地上でもっとも巨大な革命の原動力は、どんな時代でも、大衆を支配している科学的認識にあるというよりは、むしろかれらを鼓舞している熱狂、また往々かれらをかり立てるヒステリーの中にあった。(上巻:P439)
大衆への影響を考えること、少数の点に集中すること、同一のことを絶えずくりかえすこと、教義のテキストを疑いのない主張の形式にまで自己に確信をもちまた自負心をもって要約すること、普及には最大の堅忍をもち、影響の期待に忍耐をもつこと・・・(上巻:P474)
一方、国家論、社会・経済矛盾の究明、共産主義に対する所見については、まったく荒唐無稽かつ空想的で漫画的だ。ヒトラーがアーリア人=ゲルマン人の優位性を証明もなしに掲げ、アーリア人=ゲルマン人による純潔民族国家を理想としてドイツ国民に訴えたわけだけれど、そんなことは歴史的にも生物学的にも成立しない。ヒトラーは社会不安、経済不安、ロシア革命、ドイツ国内の共産主義勢力の膨張の主因をユダヤ人の陰謀だと一元化して喧伝し、議会主義=共産主義=国際主義=平和主義をユダヤ人による世界征服の手段だと単純化した。いまにして思えば、きわめて乱暴な決めつけだ。そもそも当のヒトラーは、自らが導き出した、ユダヤ人=諸悪の本源説を本気で信じていたのだろうか。
概してどんな時代でも、ほんとうに偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。民衆の闘志の傾注が集中的であればあるほど、ますます運動の磁石的吸引力は大きくなり、打撃の重さも大きくなるのである。いろいろの敵を認識することは、弱い不安定な性格のものにとっては、自己の正当を簡単に疑わせるきっかけだけをつくりやすいから、別々にいる敵でさえもただ一つの範疇に属していると思わせることが、偉大な指導者の独創性に属しているのである。(上巻:P161~162)
・・・マルクシズムは、人間生活のあらゆる領域で、人格のいちじるしい重要性を排除し、それを大衆の数におきかえようとして、ユダヤ人がもちこんだ正真正銘の試みのあらわれである。政治的には議会主義的政治形式がそれに応じたものであり、われわれはそれが地方自治体の最も小さい胚細胞から始まって、全ドイツの最高の統治にいたるまで、有害な作用を及ぼしているのを見る。(下巻:P102)
最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳をもった人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。(下巻:P105)
組織の本質には最高の精神的指導者に、数多くの非常に感激しやすい大衆がつかえるときにのみ、成立しうるということがある。(下巻:P113)
この(国家社会主義ドイツ労働者党)運動が今日のわが議会主義的腐敗の世界の中で、ますますその闘争のもっとも深い本質を自覚し、自己を人種と人物の価値の純正な権化と感じ取り、またそれによって秩序づけられるならば、運動はほとんど数学的規則性に基いていつかその闘争を勝利させるだろう。……人種的堕落の時代に自国の最善の人種的要素の保護に没頭した国家は、いつか地上の支配者となるに違いない。(下巻:P404)
橋下大阪市長がヒトラー並みの指導者であるとは思わないし、狂信的人種主義者、反ユダヤ主義者ではないことは言うまでもない。だが、石原東京都知事、小泉元首相を含め、今日、大衆的人気を博している政治家たちは、マスメディアを利用した大衆操作の技術をヒトラーに学んでいるような気がしてならない。ヒトラーに学んでいないまでも、彼らは無意識のうちに、ヒトラー的なものを引きずっている。「郵政民営化」「尖閣列島は東京都が守る」「大阪都構想」「維新の会」といった、彼らが掲げる勇ましい現状否定の政治的言語は、ヒトラーが採用した敵の一元化、単純化と類似するものだ。彼らは“決められない議会”“責任をとらない既存政党の政治家”、その背後に潜む官僚に代わって、“精神的指導者”的姿勢を誇示する。彼らの独善的政治言語・姿勢が、複雑な説明を排してマスメディアによって垂れ流されるとき、日本人の政治に対する思考過程は劣化し、損なわれていく。この一連の流れを「ハシズム」というのならば、それは誤りではない。

2012年4月18日水曜日

猫ひろしの国籍変更は、限りなく不純

“猫ひろし”という日本人のお笑い芸人が、国籍をカンボジアに変更して、マラソン競技の五輪代表を目指している。一部には、カンボジアの代表権を得たという報道もあったようだが、マラソン選手の五輪出場を認可する立場にある国際陸上競技連盟は、国籍を変更した選手の国際大会出場に条件を設けており、猫はそれらをクリアしていないという見解を示したという。猫が五輪出場の代表権を得られる最後の可能性は、「国際陸連理事会による特例承認」が得られるかどうかだというが、国際陸連によると、この規定は戦争や亡命などの特殊な事情でやむなく自国を離れた場合を想定していて、国際陸連の担当者は「われわれが知る限り、猫は(単に)国籍を変えただけで、特例には当てはまらない」と明言したという。

この段階で、猫がマラソン競技のカンボジア代表として、ロンドン五輪に出場する可能性は限りなく低くなったように思える。そもそも、猫が目指している五輪出場にどういう意味や意義があるのかが、よくわからない。筆者の推測にすぎないが、このような仕掛け=企画は、テレビ局もしくは芸能プロダクションによるものだと思う。

スポーツ選手の国籍変更はグローバルにみて、珍しくない。日本においても、ブラジル人だったラモス瑠偉が1989年に日本国籍を取得。W杯米国大会(1994)出場を目指してアジア予選に臨んだが、「ドーハの悲劇」で予選敗退し、W杯出場を果たせなかったことは記憶に新しい。

以下、ラモスの例に倣い、呂比須ワグナーが1997年に日本へ帰化し、日本とブラジルの二重国籍者となり、W杯フランス大会(1998)に日本代表として出場した。また、現在、名古屋グランパス所属の三都主アレサンドロは、日本の明徳義塾高等学校留学を経て、2001年、ブラジル国籍から日本国籍へ帰化。日韓大会(2002)及びドイツ大会(2006)の日本代表に選ばれている。先の南アフリカ大会(2010)では、闘莉王が日本代表に選ばれている。田中マルクス闘莉王は、日系人の父親と、イタリア系ブラジル人の母親を持ち、日本の渋谷幕張高校留学を経て、2003年に日本国籍を取得。現在も、名古屋グランパスで活躍中だ。

二重国籍の呂比須ワグナーを除いて、ラモス瑠偉、三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王の3人は、生活の基盤を日本に置き、日本人と変わらない生活をしているように思える。もちろん、日本語をしゃべっている。将来、彼らがブラジルに戻るのかどうかはわからないが、いまのところ、彼らはW杯出場のためだけで国籍を変更したようには思えない。

一方の猫の場合、生活基盤はカンボジアにはなく、彼がカンボジア語を話すのかどうかはわからないが、彼の生計は、日本における芸能活動が基盤になっているように見える。猫のカンボジアへの国籍変更は、五輪出場に限定したものだと筆者も推測する。猫は、五輪出場というネタで、いまも、そしてこれからも、日本の芸能界で生きていこうとしている。「国籍」を弄ぶとはこのことだ。

猫のマラソン記録は、もちろん、日本における代表記録に遠く及ばない。だから、レベルの低いカンボジア国籍を得た。猫の目的は、先述したように、彼がカンボジアではなく、日本の芸能界で、「五輪ネタ」で生きていくためだ。

その一方、日本では、地方公務員生活を送りながら、五輪代表権を得ようとして得られなかった、川内優輝というランナーを知っている。川内は猫のこのたびの試みについてコメントしていないが、内心では、猫の不自然さに怒りを覚えているのではないか。芸能ネタのために国籍を変更し、五輪出場を果たそうという猫の、いや、猫を利用しようとする芸能プロ、その上にいるテレビ局の――不純さを軽蔑しているのではないか。筆者が川内の立場であったら、猫をめぐるこのたびの「国籍変更企画」を軽蔑する。

さて、五輪のスポーツにおける意味や意義を改めて問うてみよう。記録、実力を競うという位相では、五輪はスポーツにおける最高レベルの大会ではない。国別に出場選手が制限された五輪では、レベルの高い国に所属する選手は、国内予選で敗退すれば出場できないからだ。この間隙を縫って国籍変更を企んだのが、このたびの猫のカンボジア国籍取得であった。このことは、ブラジル国籍から日本国籍に変更した前出の4人についても同じことのように、一見すると、見える。

日本国籍に帰化したラモスら4人がサッカー最強国の1つである祖国ブラジルの代表選手となって、W杯に出場できる可能性は限りなく低かった。だから、彼らは日本に国籍変更をしたのかというと、実はそうではないように筆者には思える。ラモスを除く3人がW杯日本代表に選ばれたのは結果だった。国籍変更をしても、日本代表がアジア予選で敗退してしまえば、それまでであった。W杯に出られなくても、彼らは日本において、日本人のサッカー選手として、サッカー人生を続けていっただろう。ラモスが、いままさに、そうであるように・・・

猫ひろしを五輪に出場させない旨の判断をくだしたと言われる国際陸上競技連盟の判断は正当だ。彼らはスポーツの団体であって、芸能人のネタを助成する団体ではない。

最後に、カンボジア人は猫のことをどう考えるのだろうか。世界最貧国の1つであるといわれるカンボジアでは、だれが五輪代表になろうと関心を示さないかもしれない。

では、こう考えてみたらどうだろうか。アジア太平洋戦争敗戦後の日本が五輪出場を果たしたのが、第15回ヘルシンキ大会(フィンランド) <1952年7月19日~8月3>だった。そのとき、レスリングの「フリー・バンタム級」の石井庄八選手が唯一の金メダルを獲得。「フジヤマのトビウオ」という異名をとった、33回も世界記録を更新して期待された水泳の古橋廣之進選手は400メートル自由形決勝で無念の8位。

敗戦により焦土と化した日本国であったが、敗戦から7年後の五輪で、日本人選手が大活躍をしたのである。そのことが、すべての日本人に勇気と誇りを与えたはずだ。もしかりにも、どこかの外国人が日本国籍に帰化して、ヘルシンキ大会に出場したとしたら、日本人はどんな思いを抱いたであろうか。

カンボジアは第二次大戦終結後も、内戦に明け暮れた悲劇の国であり、いま復興の途上にある。彼らは彼らなりの方法で国づくりに励んでいる。五輪参加も、かつて日本がそうであったように、国づくりのプログラムの一部である可能性が高い。カンボジアのマラソン競技のレベルは低いけれど、カンボジア人が国家を代表するマラソン選手として、ロンドンの街中を疾走するならば、その姿を通じて、カンボジア国民が勇気を得ることは大いにあり得る。その姿が「猫ひろし」であっていいはずがない。

2012年4月16日月曜日

百花繚乱






@Yanaka