2019年9月29日日曜日

猫、太る

Nico(白猫)の体重を計ったらなんと、7.5kg。

このBlogで体重測定を記録していた当時(2015年)は確か、6.5kg程度だったから、4年間で1kgの増加となった。

自然増か肥満か――とくに餌の量を増やしたわけではない。運動不足かな。


2019年9月18日水曜日

絶望の「二刀流」ーー大谷、膝の手術でシーズン終了

9月13日、大谷翔平(MLB)が左膝蓋骨の手術を受けた。全治まで8~12週間かかる見通しだ。大谷の病状は二分膝蓋骨と呼ばれ、生まれつき膝の皿が1つではなく、2つに割れている体質だったという。手術で割れた皿を1つに戻すのであろうか。とにかく今季の試合出場は絶望、彼の2019シーズンは終了した。

打者専念でも不本意な成績

2019シーズンの成績は、打率.286(106試合、384打数、110安打)、18本塁打、62打点、51得点、35四死球、110三振、12盗塁という結果に終わった。二刀流を封印しDHに専念したにもかかわらず、不本意な結果に終わった。昨年の肘、今シーズン後半には膝と、プロ野球選手としては選手生命に係る部位の手術なだけにおおいに心配だ。

膝の悪化は「二刀流」による蓄積疲労が主因

大谷の身体の変調の原因については、医学的知識皆無の筆者の直観にすぎないが、日本での2013~2017年の5シーズン(日本ハム時代)の「二刀流」にあると考えている。筆者は拙Blogにおいて常々、「二刀流」は無理だと書いてきた。繰り返しになるが、打者と投手は野球という同一の競技にありながら、異なる運動だ。日本での5シーズンにおける過剰な練習による身体的負担が蓄積したうえに、MLBに移籍。そしてその直後にやってきた、肘の故障と手術による「二刀流」の挫折、加えて、環境変化や過酷な移動を伴うMLB生活で心身の疲労が蓄積し、それまで発症しなかった膝にまで故障が及んだと考えられる。

専門化して進化してきたベースボールの歴史

大谷が来シーズン以降、「二刀流」に固執するならば、彼のプロ野球人生は儚いもので終わるだろう。プロ野球、就中、MLBを甘くみてはいけない。野球という競技は進歩に進歩を重ね、ダイナミックな変容を遂げてきた。先発投手の球数制限、分業制、新球種開発、スピードガン、rpm(回転数測定)などの機器の発達…があったし、この先も変化があろう。野手においては、投手、捕手以外の複数ポジションをこなせる能力が求められる一方、DH制度の導入により、打撃のスペシャリストが誕生した。この期に及んで、野手と投手の兼任――「二刀流」はあり得ないポジションなのだ。

大谷にとってMLB生き残りの正念場

MLBにおける大谷を取り巻く環境は、日本のメディアが流す好意的報道ほど、甘くないと思われる。「二刀流」が不可能と判断されれば、大谷は打者か投手かの選択を迫られる。野手の経験がない大谷は守るところがないため、DH専門の打者としてMLB業界で生きていかなければならない。そうなると、打率、本塁打、打点で求められる成績は一層厳しい数値となる。

大谷の「二刀流」を引っ提げたMLB移籍はここまでのところ、大失敗だ。彼の願望、夢への挑戦は、甘かった。「二刀流」という変則的選手である大谷と契約を結んだエンゼルスの計算は、筆者の想像だが、短期的な営業成果を期待したものにすぎなかったのではないか。アメリカの打算的なスポーツビジネス界は、金の卵を産まなくなったアヒルを見切るのも早い。

投手専念がベスト、打者ならば日本に早期復帰を

大谷はどうしたらいいのか。エンゼルスとの契約が残っている期間にコンディションを整え、投手か打者かの一本化を決断(当然のことながら練習もどちらかに一本化)すべきだ。筆者は肘の故障が完治しているのならば、投手に専念すべきだと思う。投手としてMLB挑戦を続け、挫折した段階で、日本球界に復帰したらいい。肘の状態が悪く、投手として専念できないようならば、直ちに日本球界にDHとして復帰すべきだろう。とにかく、大谷が野球を続けられる進路を探るべきだ。

2019年9月13日金曜日

セリーグは読売優勝がほぼ決まり(攻撃編)

日本プロ野球(NPB)セリーグの優勝は読売にほぼ決まった。天王山といわれた2位横浜との3連戦(9/10・11・12)で2勝1敗と勝ち越し。最低でも2勝を狙った横浜に引導を渡した。

筆者の開幕前の予想では優勝が広島、2位が読売、3位が阪神で横浜は4位予想だったから、筆者の予想がまるで外れたことを反省するとともに、横浜の健闘を称えなければなるまい。

なおCSについては、筆者は同制度に反対の立場なのでコメントはしない。

読売の想像を絶する選手補強

醜い弁明になるが、筆者の開幕前予想は本心ではなかった。読売の優勝は確実だと思っていたのだが、読売の金満補強――FAで丸(広島)、炭谷(西武)を、さらに中島(オリックス)、岩隈(MLB)、クック(MLB)、ビヤヌエバ(MLB)の獲得――に反発し、こんな球団に優勝してもらいたくないと思っての順位付けだった。

読売のチームづくり(選手集め)は極めて異常だった。シーズン途中においても、クローザーのクックが使えないとみるやデラロサ(3A)を獲得。宮國、田原、戸根がダメだとわかると鍵谷(日ハム)、藤岡(日ハム)、古川(楽天)を獲得した。他球団ならレギュラークラスの選手が二軍にひしめく分厚い戦力を整え、登録・抹消を繰り返して、一軍に新鮮な戦力を供給しつづけた。このような選手集めは球団努力といえる反面、計画性の乏しい豊富な資金に任せた放漫型球団経営ともいえる。

分厚い選手層(攻撃陣編)

攻撃面では坂本、丸、岡本の2番、3番、4番の主軸の固定に成功したものの、1番は亀井が定着するまで試行錯誤が続いた。その亀井については後述する。

5番から8番まではそれこそ日替わりで登録、抹消が繰り返され、シーズンを通してレギュラーは定まらなかった。ちなみに5番~8番の4枠に主に起用された野手は、陽(日本ハム)、ビヤヌエバ(MLB)、ゲレーロ(MLB)、阿部、重信、立岡(ソフトバンク)、石川(日本ハム)、中島(オリックス~3A)、大城、田中俊、若林、増田大、山本、炭谷(西武)、小林・・・と多彩であった。もちろん、一人の選手が1シーズン、交代なしで出ずっぱりということはあり得ないのだが、数字的に見ると、平均で4枠に各4選手弱が出場した計算になる。別言すれば、他球団ならレギュラー級の選手を3人以上保有しているのが読売という球団なのだ。

今シーズン、読売がここまでのリーグ戦で主導権を維持できたのは、主力に故障が少なかったからだろう。彼らがケアに心掛けたこと、メディカルスタッフの充実もあったのではないか。加えて、シーズンを通しての好調は維持できなくとも、短期間では結果を出した新戦力の台頭にも注目される。前半のビヤヌエバ(新入団)、後半のゲレーロ(2年目)、一塁と捕手を兼任した大城(2年目)、重信(4年目)、若林(2年目)らの活躍だ。

1番亀井で広島型攻撃スタイルを確立

さはさりながら、筆者は読売の躍進の最大の功労者は亀井だと思っている。これまでの亀井といえば、実力がありながら故障で欠場するシーズンが続いたのだが、今シーズンは規定打席に達している。

亀井―坂本―丸は、昨年までセリーグで三連覇を成し遂げた広島のタナ・キク・マルに似ている、というよりも、もっと強力だ。読売の攻撃スタイルはカメ・サカ・マルから岡本に続く。広島の場合は鈴木誠也だ。鈴木と岡本では鈴木の方が上だが、1番から4番までの総合力は読売の方が、破壊力がある。今年、広島は丸が読売に移籍し、田中が不調だった。つまり今年の広島の攻撃力不足は、丸と田中が抜けた分の大幅マイナスだった。

阿部(読売)の存在は昨年までの新井(広島)に対応

それだけではない。今年の読売と昨年までの広島の類似点は阿部⇔新井の対応関係だ。読売の阿部は、常時出場こそ叶わなかったが、勝負所で先発、代打の双方で存在感を示した。阿部の代打コールは東京ドームの雰囲気を変えたという。そのフィーリングは、昨年までの広島の新井の存在にぴったり合致する。広島の新井は昨年、引退して今シーズンはいない。

攻撃面に限れば、今年の読売は、昨年までの広島がつくりあげたパターンを踏襲してリーグ制覇を成し遂げようとしている。その反対に広島は、田中の不調、丸の移籍、新井の引退で攻撃力を減退させ、3つの穴を埋められなかった。

横浜の弱さは選手層の薄さに起因する

終盤まで読売を追い込んだ横浜はどうだろうか。攻撃面に限れば、ロペス、筒香、ソト、宮崎の攻撃陣は強力だが、それ以外の選手が数段落ちる。選手層が薄い。打順の1番から3番までが固定できず、流れがなく、一発ホームラン頼みであった。天王山の読売戦では、読売を戦力外とされた中井が1番なのだから、残念というほかない。さらに、読売を猛迫したときの正捕手・伊藤光と3塁・宮崎がケガで欠場した途端、連敗を屈してしまった。

下位球団の責任

読売の球団別の対戦成績(2019/09/12現在)を見ると、横浜とは11-11のドロー、広島には9-13の負け越しで、前出の「本家」には今シーズンの負越しがすでに決定している。

一方、下位の3球団、阪神に14-8、中日に13-9、ヤクルトに11-7の勝ち越しとなっている。読売は、下位球団に対して取りこぼしをしなかったといえるが、筆者は下位3球団が読売をアシストしたと考えている。とりわけ阪神の6つの負越しは由々しき問題だ。

※投手編については改めて考察する

ハイビスカスティーがお気に入り

最近飲みだしたハイビスカスティー。

健康にいいらしい。

色がきれいだが、もちろん100%ナチュラル。

2019年9月10日火曜日

大型台風の爪痕(谷中霊園)

関東地方を襲った大型台風(9月9日早朝上陸)。

翌日、谷中霊園を通ったら、その猛烈な風が沿道の桜の老木をへし折ったことがわかった。




2019年9月9日月曜日

猛烈台風が直撃

大型台風が関東地方を直撃。

猛烈な風が街路樹等をへし折った。





2019年8月22日木曜日

猫は眠る


2019年8月19日月曜日

浅草

家族で浅草にて食事会


浅草寺夜景

浅草散策



2019年8月14日水曜日

『一九八四年』

●ジョージ・オーウエル〔著〕 ●ebookjapan(新装版) ●720円(税込)

本書は1949年に書かれた近未来ディストピア小説の古典であり、数あるディストピア小説の中の最高傑作のひとつといわれている。

オーウエルが描いた「1984年」の世界

「1984年」、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアと呼ばれる3つの超大国が分割統治し、それらの3国が三すくみの戦争状態にある。主人公ウインストン・スミスは、かつての英国が属するオセアニアの国民である。オセアニアは「1960年」ごろに起こった革命によって成立し、〈ビッグ・ブラザー〉と呼ばれる独裁者が支配している。その国家イデオロギーは〈イングソック〉と呼ばれる。この語はEngland Socialismを略したものだという。

オセアニアは、〈党中枢〉という上層(全人口の2%)、〈党外郭〉という中層、そして〈プロール〉と呼ばれる下層(同85%)の三層構造の階級社会である。〈プロール〉はいわば番外地であり、革命前の、すなわち現在の自由主義国家におけるような自由が許されている一方、犯罪、売春、麻薬等が横行していて人々は貧しい。

ウインストン・スミスは中層=〈党外郭〉の中の真理省記録局という官僚組織に属している。オセアニアには、愛情省、潤沢省という行政機構がある。真理省は歴史の修正、過去の変造、統計及び政治家の演説等の記録を状況変化に即して訂正・更新する事務を行っている。愛情省はスパイ活動及び反逆者の取締り、謀反、反乱等の未然防止、反逆者の拷問等で思想的矯正を行う機関であり、一度逮捕されれば、裁判抜きの強制収容所送り、処刑を命ずることができる。潤沢省は食料管理を司る。

オセアニアの社会では、〈プロール〉を除く全国民がテレスクリーン及び隠しマイクロフォンによって監視されていて、〈ビッグ・ブラザー〉に反逆するような不穏な動きを示すと、前出の愛情省によって拷問を受け、転向が強要された挙句、処刑または強制収容所送りとなって、その存在は抹消される。

そればかりではない。家族間にも密告制度が張り巡らされていて、子供が両親を密告する「スパイ団」がある。また地域には、〈地域住民センター〉〈パトロール隊〉が組織・運営されていて、それらによって、人々の一挙手一投足は監視される。男女間の恋愛、結婚、性行為等についても〈反セックス同盟〉という組織によって管理される。また、〈思考犯罪〉、すなわり〈ビッグ・ブラザー〉に対する反逆を心の中で想像するだけで、想像した者は〈思考警察〉によって取り締まられる。

こうしてみると、このディストピア小説は1949年当時、第二次大戦の戦勝国のひとつとして軍事的、政治的、経済的に著しい台頭をみせた全体主義国家で、秘密警察、密告制度、強制収容所等を統治の源泉とするソ連をイメージしたものだと考えられる。しかし、ソ連の存在なくして本書は書かれなかったと思うものの、必ずしも、ソ連型全体主義批判に一元化できるほど単純な建付けではない。その理由は後述する。

ウインストン・スミスは〈イングソック〉に疑問を持ち、〈ビッグ・ブラザー〉に謀反を企てようとしている秘密結社に近づこうとするが失敗し、捕らえられ、拷問を加えられ、恋人を裏切り、転向を……

「1984年」と2019年の日本

本書が描いた「1984年」から今年で35年が経過した。オーウエルがモデルとしたと思われる全体主義国家・ソ連はすでに消滅している。ソ連に近似した国家として北朝鮮、中国が挙げられるが、世界全体がこの2国に近づくような危機的状況にはない。だからといって、本書の歴史的使命が終わったとか、内容的に意味をなさないとかの批判は当たらない。本書のディストピアは、本書が書かれた1949年当時の状況において、オーウエルが自身の可能なかぎりの想像力を使って描き出した国家権力と個人の関係の最悪なあり方である。それはイデオロギーを超えて抽出された、権力と個人の本質的関係にほかならない。だから、それが古くなることもなければ、陳腐化することもない。

今日の日本において、安倍政権の下で行われているのは歴史の修正であり、教育の戦前回帰(全体主義化)である。モリカケ問題では、財務局の職員が記録(文書)の改竄命令に抗して自死した。外務省、厚生労働省、内閣府等では記録(文書)の廃棄、書換えが日常化している。国の統計は政権の都合のよいように書き換えられ、偽造されている。首相が「私と妻が関与していれば議員も首相も辞める・・・」というような意味の発言をしておきながら、その記録は公文書としては消去されたに等しい。もちろん関与していることが証明されているにもかかわらず、首相が辞めることはない。これらの事象は、本書の主人公・ウインストン・スミスが勤務する真理省で日々行われている「事務」と異なるところがない。権力者は、都合の悪い歴史、記録を抹消し更新し、過去と現在の整合性を図っている。
昨日を起点としてはるか昔まで続く過去が現に抹消されているんだ。(略)すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について文字どおり何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されるか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかで党が常に正しいんだ。(第二部5)
ディストピアというのは、過去を失うこと、現在の他になにもないという、“セラミック”のような日常の強制である。本書が書かれた時代にテレビは普及していなかったけれど、現在の日本では権力にのっとられたテレビによって過去が書き直され、テレビが写しだす現在のなかで常に安倍政権が正しいとされる。前出の〈思考犯罪〉は、安倍政権が法制化した共謀罪に似ている。
党の世界観の押し付けはそれを理解できない人の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしていようが、かれらなりにそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているかに気づくほど社会の出来事に強い関心をもっていないからだ。理解を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするか、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。(同)
もうすぐ消費税率が上がる。先の参院選で一部野党から反対の意見提出があったものの、有権者は安倍政権に対して「NO」を示さなかった。党の世界観の「押し付け」は、今日の日本の場合は、テレビに出てくる芸人、政府お抱えエコノミスト、コメンテーターらの発言に依っている。彼らが「財源が足りない」といえば、視聴者はそれを鵜呑みにする。そのほうが楽なのだ、「害が及ばない」のだ。“消費税率アップ反対”が身体の中で異化現象を起こすことが拒否され、議論や行動が大衆化することはない。日本の視聴者の脳味噌は小鳥ほどに小さい。

日本の公務員が陥っている〈二重思考〉

日本の霞が関の役人たちは、権力者の望む方向に合わせて、記録を改竄し国会で証言する。彼らに自責の念はないのか――その回答が本書に示されている。本書ではそれを〈二重思考〉と称している。「1984年」の世界では、〈ビッグ・ブラザー〉は全能であり、党は過ちを犯さない――とされる。だから、黒は白であると〈ビッグ・ブラザー〉がいえば、そのとおりになる。

2017年、モリカケ問題で国会に参考人として呼ばれた財務省の幹部職員は、事実をすべて否定した。一般には黒とされる事実を白と強弁した。故意に嘘を吐きながらしかし、その嘘を心から信じているかのようであった。都合の悪くなったことは全て忘れること、客観的現実を否定すること――「1984年」の〈二重思考〉と変わらない。いまの日本の公務員は〈ビッグ・ブラザー〉=〈安倍政権〉に屈している。

拷問と裏切りと思想的転向と

「1984年」、愛情省の一室に拉致されたウインストン・スミスが、尋問者の拷問によって3本の指を4本だといわされるシーンが執拗に描かれる。拷問の描写は緻密かつリアルであり恐ろしい。そこでは、転向の問題が提出されている。権力側は反逆者を逮捕・拉致して思想の転向を強要する。その手段が暴力、薬物、精神的圧迫を駆使した拷問である。今日、拷問は日本のみならず世界中で行われている。ナオミ・クライン著の『ショック・ドクトリン』を読めば、冷戦後の世界で拷問が日常化されていることがよくわかる。

2019年の日本では、なにもしていない人間が警察によって逮捕されたときの恐るべき体験がSNSで報じられている。警察は無実の者を逮捕し、長時間、尋問を繰り返した。逮捕された者が「尋問はいつおわるのか」と聞くと、警察は「罪を認めればおわる」と答えたという。2019年の日本は『一九八四年』となんら変わらない。

権力の暴走に対して人はいかにしてそれに抗うか

権力と人民の関係はイデオロギーの右左に関わりなく、「権力を行使する側」と「権力に抗する側」の関係に還元される。権力側は、肉体的及び精神的な拷問によって、抗する側に転向を迫る。

過酷な拷問を受けながら、ウインストン・スミスは朦朧とした頭の中で一片の真理にたどり着く。拷問で転向して生きながらえたとしても、拷問に屈せず処刑されたとしても、権力側は自分を抹殺することに変わりないのだと確信する。

権力側の拷問者は〈ビッグ・ブラザー〉と〈イングソック〉を信ずるのかと問い詰める。スミスはそれを否定し、「宇宙には何か――わたしには分かりませんが精神とか原理といったようなもので――あなた方が絶対に打ち勝つことの出来ないものがあるんです」と答える、そして、それを『人間』の精神です」といい換える。

権力はその維持のために人間の精神を否定する。権力は肉体やモノではなく、精神を含むすべてを奪う。本書が問うたのは、それにいかにして抗うか、抗い得るのか――ということである。個人が権力の暴走を阻むことは可能なのかと。

その回答を具体的に示すことは難しい。戦略・戦術として語り得ないからである。しかしながら、ウインストン・スミスが拷問のなかで思いついたもの――権力そして権力が振りかざすイデオロギーより上位にあるもの――たとえば、共同体の規範、親子の情、相互の義、精神性といったものに殉ずることは可能かもしれない。

本書が描いた「1984年」の権力、〈ビッグ・ブラザー〉はほぼ完璧で、洗練された権力維持システムを構築しているかのように見える。それはほぼ完全に社会と人民をコントロールすることに成功しているかのように見える。その姿は、今日の中国、北朝鮮、シンガポールに、あるいは新自由主義が支配する米国に代表され、日本を含む先進国に、断片的ではあるが似ている部分があるかもしれない。そのなかで人民が権力の暴虐を阻むための方策は、権力を分散化するシステムを構築するしかない。そのことが「2019年」のわれわれの喫緊の課題となる。

2019年8月6日火曜日

誕生日カラオケ

愚生の誕生日、娘と親友夫婦がお祝いカラオケ大会を開いてくれた。



カラオケの後はタイ料理

タイの不思議な飲料、「スパイ」

2019年7月31日水曜日

『死民と日常 私の水俣病闘争』

●渡辺京二〔著〕 ●弦書房 ●2300円+税

水俣病は熊本県水俣市に本拠を置く新日本窒素水俣工場(チッソ)が有機水銀を含んだ工場を沿海に排出したことにより発生した公害事件だ。チッソが1950年代後半の操業から有機水銀を含んだ工場排水を沿岸海水に垂れ流した結果、そこで獲れた魚を食した沿岸漁民が主に病に侵された。原因不明の奇病が発症したにもかかわらず、チッソは自社の責任を否定し続け操業を停止しなかった。

有機水銀により神経を犯された患者の症状は、地獄絵と評するがふさわしいほど独特で凄惨を極めたものだった。患者の苦しみが写真・映像等で広く報道されることにより、チッソを糾弾する声が日本全国から上がった。

著者(渡辺京二)は、チッソを糾弾し被害患者を支援する団体の一つである「水俣病を告発する会」の会員として水俣病闘争に関わった。当時、総評、共産党系等の支援団体は、被害患者の多数派が補償について厚生省(当時)裁定に一任する旨の意思表明に従い、裁判闘争に移行した。その一方、「告発する会」は、チッソ側と直接補償交渉を行う闘争方針を掲げた「自主交渉派」と呼ばれる被害患者団体を支援した団体である。「告発する会」は東京のチッソ本社を一時占拠するなど、精力的な闘争を持続した。

「革命の主体」の発見

著者(渡辺京二)は、「告発する会」の自主交渉の闘争になぜ、同伴したのか。彼の闘争参加の目的・根拠はなんだったのか。本書ではそのことが明らかにされている。
「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。
(略)
前掲の(患者の)言葉は、ひくにひけぬ断崖に追い詰められた下層民の腹のすわりを示したものである。
(略)
良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることをいい切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。(「現実と幻のはざま」P14)

著者(渡辺京二)は水俣病被害患者が出た水俣市沿岸部で生活を営む漁民を〈下層民〉と表記しているが、別の章でそれに注釈をつけている。
それ(下層民)はかならずしも貧困や隷属を意味しない。
(略)
彼らは……彼らなりの海浜の民としての「栄華」をたのしみ、いまだかつて資本に隷属したことのないものの誇りを抱いてきたのである。
(略)
彼らを下層民と規定するのは、彼らが日本近代社会の組織的法則の強制力によって、社会下層に沈殿する疎外者として解体されたからである。彼らはその漁民共同体を解体されつつも、けっして日本資本制社会の支配関係に統合され尽くすことはなかった。彼らに対する解体疎外の作用は、ついに水俣病という激烈な様相をとりつつ完結した。彼らはこうして日本近代社会の疎外者から、それへの叛逆者として転生する。(「死民と日常」P33-35)
市民社会と流民型労働者

水俣病闘争は全国から支援を受けたと前述したが、その内実は複雑だった。水俣市は水俣病発生当時、人口4万5千超の小さなまちである。市の財政はチッソに全面的に依存していた。水俣市民の大半はチッソの工場労働者等として、及び、その関連で生計を立てている事業者等であり、著者(渡辺京二)が下層民と規定した水俣病患者が続出した沿岸部漁民とは異質な生活基盤を築いていた。そのため、水俣市民は水俣病患者を差別したばかりか、公害補償でチッソ工場が撤退することを恐れ、水俣病闘争に反目した。水俣の工場労働者(プロレタリアート)が水俣病患者(下層民)に敵意を抱いていたことも事実なのだ。
(水俣病患者のなかの)自主交渉派の患者に対する水俣市民有志の攻撃ビラの中に、一市民の発言として「あいつらは弱った魚を食べたから奇病になったのはこれは事実じゃ。やっぱり本当の漁師が専門に取って、金を取って喰わせる魚を食わんとが一番悪かったごとあるなあ」と……。(「流民型労働者考」P42)
水俣湾沿岸部の漁民に水俣病患者が多く出たことはすでに書いた。その彼らは、九州の資本主義産業にひかれて出郷したものの、近代産業労働者として定着することに失敗し、「なになに流れ」という家を構えてふたたび村を構成した者だという。出郷と流着のメカニズムの構造が水俣病患者への差別の根底にあった。

彼らは、「わが国の近代市民社会を構成する正統的な市民生活形態(官吏、サラリーマン、大企業労働者、知識的職業人、軍人等々)のたどりつくことができなかった意識上の流民形態(「流民型労働者考」P48)」として水俣湾沿岸に定着し、そして水俣病患者になってしまった。

賤民化した流民を統合した戦前の天皇制

著者(渡辺京二)は、水俣病患者を多数出した漁村地区の存在形態と国家意識を次のように素描する。この箇所は著者(渡辺京二)の革命論の肝というべきところなので、長文を引用する。
それならばこのようなわが水俣漁村地区の流民の意識そのものはどういう規定においてとらえられるだろうか。故郷から放逐されながら正統的な市民社会の構成に加わることができないその周辺的な位置のゆえに、彼らの意識は中核において矛盾にひきさかれ、一方ではそこから放逐されたところの故郷=農村共同体へのノスタルジーとなって現れ、他方では、近代から疎外されているだけになおさら強烈な近代へのあこがれとなって現れる。この意味で流民とは、安定した部落共同体的支配と都市における近代市民統合とのはざまに陥没した意識のありかたであり、つねに何ものかに慕いよる意識のヴェクトルであるということができよう。このつねに何ものかに慕いよる流民する意識を把握するものこそ戦前社会における天皇制であった。
戦前段階における日本資本制の基本的特徴は全国民を市民社会的関係において編成しつくすことがまだ不可能だったという点にある。……わが近代資本制国家は天皇制というイデオロギー的装置によって、これら下層民を近代市民社会的関係に適応する正規の構成員となんら変わらぬ平等な臣としてその支配に統合したのである。
(略)
戦後社会は憲法的擬制と利益配分体系によってそれ(全生活民)を国民として統合しようとする。しかし天皇制的統合から解き放たれた流民は、近代市民社会の原理によって統合されないままに戦後社会の漂流者となる。なぜなら、小作農民は出郷せざる土着の正統的住民として農協を通じて、労働者は労働諸法によって正統性を保証された大労組通じて、それぞれ戦後社会の正統的メンバーとして市民意識を獲得していったのに対して、流民的意識はそのような市民社会的構成に編入され、市民的論理によって教育されることを無意識にこばむことにおいて、戦後社会の域外の民としてとどまったからである。(「流民型労働者考」P52-53)
「流民型労働者」が自主交渉グループの中心

自主交渉闘争の担い手となった患者を著者(渡辺京二)は次のように評している。「もちろんこのグループの患者には古典的な流民の意識圏にふくまれる人びともいるわけだが、すくなくとも自主交渉闘争の中心的な担い手だった川本輝夫さん、佐藤武春さん、江郷下一美さんの三人には前述のような流民的意識の古典態をつきぬけたところがあり、……彼らの意識類型をひとつのカテゴリーとして設定するなら、「流民型労働者」という……言葉がもっとも適切であるように思われる。(「流民型労働者考」P55)

流民型労働者の日常と水俣病

水俣に限らず、農村部から出郷して大都会に出た者のなかにも、前出の官吏、軍人、サラリーマン、労働者等になることがかなわず、大都市型流民となった者が存在した。彼らは山谷(東京)、釜ヶ崎(大阪)に代表される寄せ場といわれる簡易宿泊街に漂着し、日払いのその日暮らしの単純労働に従事したし、いまでもその形に変化はない。

では、大都市型流民と水俣の流民型労働者との違いはなにか。前者が完全に自然と分離しているのに対し、後者は自然(海=漁業、土=農業)との接点を持ち続けている点だろう。本書では、土本典昭監督の記録映画「水俣―患者さんとその世界」のなかの水俣病患者である「流民型労働者」の老人がタコ漁をするシーンが紹介される。著者(渡辺京二)はタコ漁をする老人の姿に水俣の流民型労働者の自然を基盤とした膨大な日常的部分によって構造づけられた存在を見る。
生活者の日常の位相は、彼らの上にそそり立つ経済・政治・法などもろもろの諸制度、諸機構の位相とまったく異なっており、その支配をうけつつも、核心部分にはけっして侵入を許さない頑固さを保ち続けている。……その日常の位相が日本近代の市民社会組織を根底から否定するものであり、生活民の自立した闘争としての水俣病闘争がそのような水俣病下層民の生活の位相に根拠をおかざるをえないことを暗示しているのである。(「死民と日常」P29-30)
大都市型流民と水俣の流民型労働者を比較して優劣をつけるわけではない。大都市には、自然と切断された大都市型の生活があり、水俣には、自然と接合した水俣型の生活があったというだけの話である。水俣の流民型労働者は、水俣病を媒介して、水俣の生活の位相を根拠にして、水俣病闘争を闘い抜いたということである。

水俣病闘争の時代

水俣病闘争が展開された1960年代後半から1970年代前半にかけては、日本社会のなかに反戦平和主義が強く意識され、かつ、高度経済成長の歪みが各所に噴出していたことから、労働組織や市民運動の力は現在よりも強かった。加えて、学生運動等の革命運動も活発であった。前者は革新勢力とよばれ、社会党・共産党が指導部となっていた。しかし、両党は水俣病闘争を自党の勢力拡大を目的として介入していたため、患者(被害者)よりも党利を優先する傾向にあった。また、後者は、既存左翼を否定する新左翼各派が指導し、革命運動の一環として水俣病闘争に関与していた。

著者(渡辺京二)らの自主交渉闘争派支援者は、新旧左翼勢力の政治利用とは一線を画し、自主交渉派患者に無条件で同伴することだった。
水俣病闘争は成立の日から今日まで、患者の存在を原点とし、その意志を一切の規準とするということを不可侵の原則として進められてきた。それはたんなる運動のモラルであったのではなく、水俣下層民の存在と意識の深層から自立する運動以外に水俣病闘争はありえない、という基本的な方法論・認識論であった。(「『わが死民』解説」P112)
谷川雁と渡辺京二

著者である渡辺京二(1930-)の運動論は、谷川雁(1923-1995)の影響を受けていないだろうか。渡辺は旧制熊本中学に在学し、現在も熊本市に在住して執筆活動等を行っている。渡辺が水俣病闘争に参加したのも地縁が働いている可能性が高い。谷川雁は水俣の出身、民俗学者で本書にも登場する谷川健一は雁の兄である。

渡辺と谷川がどのような関係にあったのかは、本書からはうかがえないが、東京において、年長の谷川雁が渡辺京二を支えたことがわかっている。渡辺が雁の思想的影響を受けたことはまちがいない。

ただ、谷川雁は水俣病問題について、石牟礼道子(1927- 2018)に宛てた私信のような形式で短文を書いていて、その内容を大雑把にいえば、『苦海浄土』の著作で水俣病を世に知らしめた石牟礼道子批判である。雁も石牟礼も水俣出身者である。

一方、著者(渡辺京二)は熊本県在住ではあったが水俣出身ではないものの、石牟礼の『苦海浄土』を世に出した編集者であり、関係性は雁より強かったのではないか。雁の短文を読む限り、石牟礼道子をめぐる距離は、谷川雁と渡辺京二とでは微妙に異なる。

著者(渡辺京二)は水俣病患者が多発する漁師部落の歴史的な成りたちを石牟礼道子の談話「流民の都」から提供してもらったと書いている(「流民型労働者考」P42)。「流民の都」によると、同地域の流民は、薩摩、天草、アメリカ、アルゼンチン、南洋、フィリピンなどに出ていきながら、そこから帰ってきた人たちが定着して村になっていたところで、それぞれの家は「なになに流れ」と呼ばれ、定着した流民は長崎造船所等の大工場のなかの単純労働に従事する者として、生計を立てていたという。

「流民の都」を読んだ著者(渡辺京二)は、「そもそもある程度発達した準位の資本制を導入せざるをえない後進国の場合、出郷した農民がそのままでは能率的な労働力になりにくいのは当然のことで、平均的な工業プロレタリアートの形成のかわりに、労働力として劣弱な部分が選別されていわば賤民化される現象は、なにもわが国の場合にかぎった話ではない。(「流民型労働者考」P47)と全面肯定し、「水俣市周辺地区の漁民――それは水俣病患者の主層であるのだが――は、わが近代資本制の分解力の一定の準位の結果として、農村共同体(故郷)から放逐されながらついに近代的労働者として定着できず、……流民化し都市周辺に漁民、労務者、小商人などの形で定着する(「流民型労働者考」P47)」と結論づけた。

一方の谷川雁は水俣について次のよう書いている。
水俣は移住民・流民の町です。あなた(石牟礼道子)の親も私の親もそうです。それゆえ新しい民への差別がいちじるしい。
(略)
チッソ工場進出以前に、この一帯には田畑も定職もない農村遊民がいくらも存在していて、かれらが工場に吸いよせられるまで、この主なき浜辺はかれらの遊びとも仕事ともつかぬ行動圏だったのですから。……村の日雇いより八銭安く、会社勧進(乞食)とよばれ、道でも顔をそむけられた〈南九州の神武たち〉とその子孫、これが精神の純粋種としての〈第一の水俣〉です。
(略)
〈第二の水俣〉は水俣病患者の層です。かれらは身体性に富んだ思想的な発言で都市住民をおどろかしたが、あなたのいうように、ちっぽけな泉水にひとしいあの海との接触だけで言葉を養ってきたとはいえません。かれらをきたえたのは〈第一の水俣〉の白い眼です。
(略)
〈水銀以前〉の水俣を、あなたは聖化しました。……それが〈水俣病〉の宣伝にある効果を与えたのも事実です。
しかし患者を自然民と単純化し、負性のない精神を自動的にうみだす暮らしが破壊されたとする、あなたの告発の論理には〈暗点〉がありませんか。小世界であればあるほど、そこに渦巻く負性を消してしまえば錯誤が生じます。なぜなら負性の相克こそ、水俣病をめぐって沸騰したローカルな批評精神の唯一の光源ですから。
あなたの水俣には底面の葛藤がありません。結局のところ病の狂乱のただなかへ古い神話性をよびもどすことで終わった。(『〈非水銀性患者〉水俣病・一号患者の死』(1990年6月「すばる」/『谷川雁の仕事(上)』P210)
谷川雁の石牟礼道子批判が本書と関係があるものか、といわれるかもしれない。が、谷川雁によれば、本書の著者(渡辺京二)が定義した「流民労働者」が基層の民ではなく、〈第二の水俣〉だといい、それを先験的に原初的革命主体だとすると見誤る、ということだけはいえる。

だが、石牟礼を批判した谷川雁も石牟礼批判の前に『農村と詩』(1957年1月『講座現代詩』Ⅲ)で次のように書いていたが。
無名民衆の優しさ、前プロレタリアートの感情……それらを理念として表現すれば東洋風のアナルコ・サンジカリズムとでも呼べばいいと思う。……日本のコミュニズムは日本それ自体の土壌に発生した前コミュニズムの内在を明らかにすることなしには一歩も前進することはできない。それはもっとも初歩的な弁証法の原理である。(『谷川雁の仕事』P102)
基層、古層、下層、故郷、出郷、流民、無名民衆、前コミュニズム、前プロレタリアート……といった概念は聖性を纏った、ロマン主義的魅力にあふれていて、それらに抵抗することは難しい。しかも、原点だと確信したものがそうでないこともある。その結果、思わず思想的錯誤を犯し、足をすくわれることもある。

2019年7月27日土曜日

隅田川花火大会

浅草の隅田川花火大会。

ベランダから見えたのはほんのわずか。

2019年7月17日水曜日

『苦海浄土 わが水俣病』

●石牟礼道子〔著〕 ●講談社文庫(新装版) ●690円+税

本書については、巻末解説『石牟礼道子の世界』(渡辺京二)及び『水俣病の五十年』(原田正純)においてすべて尽くされていて、つけ加えることはなにもない。とりわけ前者は、著者の近くにあって、しかも本書を実質上、世に送り出したともいえる渡辺京二の言説であり、解説以上の価値と内容がある。

『苦海浄土』の多様性

本書にはいくつもの顔がある。▽水俣病を発病させた新日本窒素水俣工場(チッソ)の企業犯罪を告発する側面、▽被害者の病状や苦痛及び被害者の生活苦を代弁する側面、▽水俣病と闘い続けた反公害運動のプロセスを開示する側面、▽土着=被害者である漁業者等⇔市民=チッソという大企業に生活を依拠している工場労働者及び地域事業者等の敵対的関係、▽公害に対して企業寄りの姿勢を堅持した行政(自治体、厚生省、警察)の犯罪性の告発…などを読み取ることが可能である。

『苦海浄土』の今日性

水俣病の被害者が出てから解決までおよそ半世紀を要したばかりか、水俣病の原因が、チッソによる有機水銀が溶解した工場排水であると認定されたにもかかわらず、同社は操業を続け、排水を止めることがなかった。行政も事実上、操業を黙認していた。このことは、新自由主義経済の強欲資本主義が席巻する今日の状況に通じている。そればかりではない。3.11で崩壊したはずの「原発安全神話」が復活し、日本各地の原発再稼働ばかりか、原発輸出、原発再建設の話までが出始める今日の経済社会状況にも通じている。

日本の公害は過疎地、辺境と呼ばれているところで発生することが多い。原発も然りである。過疎地や辺境の人々の暮らしを豊かにするという建前で大工場(原発)が誘致され、資本は雇用を増やし、消費を増やし、税収を増やし、インフラが整備されることで地域に貢献していると喧伝する。実際、そのような面を否定はできない。

ところがその一方、公害が発生し(原発事故が起こり)、企業の犯罪性が露見するや否や態度を硬化させ、原因の科学的究明を盾に時間を稼ぎ、被害を増大化させる。行政も資本の側に立ち、操業停止をみおくる。補償交渉は長期化し、補償がまとまるまでにおよそ半世紀を要する。

福島原発事故による被曝被害が科学的(医学的)に証明されるまで、半世紀以上を要するとするならば、世代を超えた被害を認めることなく、一次加害者及び被害者はこの世の人ではなくなる。恐ろしいことだ。

『苦海浄土』の本質

筆者を含めた多くの、いやおそらくすべての読者は、前出の渡辺京二の解説のなかの一文に衝撃を受けるであろう。それは、「実をいえば『苦海浄土』は聞き書きなぞではないしルポルタージュですらない。」(P368)という部分である。本書に溢れるようにおさめられた水俣病被害者の声が聞き書きではない、と知らされ、後方から頭を殴られたような思いがするにちがいない。本書は一見ドキュメンタリーのような体裁をとりながら、石牟礼道子の創作だというのだ。渡辺は石牟礼道子を「記録作家ではなく、一個の幻想詩人」(P378)といい、「この作品(『苦海浄土』)は石牟礼道子の私小説であり、それを生んだのは彼女の不幸な意識だ」という。

その理由や渡辺がいう本書の〈世界〉がどのようなものなのかについては、本書を及び解説を熟読して、読者諸氏それぞれがそれぞれの思いをめぐらすことが重要である。

さて、渡辺京二の解説と異なる位相において、著者(石牟礼道子)の立ち位置を筆者なりに推測する根拠は、「第一章 椿の海」に収められた「死旗(しにはた)」の次の箇所である。
・・・僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかもしれぬが、私の故郷にいまだたち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアミニズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(P75)
近代への呪術師と自己規定した石牟礼道子。水俣の風土とそこに生きる生命の根源からの声なき声が彼女に憑依し、『苦海浄土』という文学作品に昇華したのだとしたら、近代的な文学の方法論を超越した文学の成立を本書に見出すことが可能である。

2019年7月14日日曜日

屋形船

根津のダイニングバー、NCの夏季イベント「屋形船」に参加

浅草吾妻橋、アサヒビール本社

浅草吾妻橋、船着き場

乾杯

カラオケ大会

お台場

お台場

お台場

2019年7月12日金曜日

Jack Atherton(イギリスのミュージシャン)と彼のご両親が拙宅に遊びに来てくれた。


2019年6月28日金曜日

優勝絶対を義務付けられた原体制

日本プロ野球(NPB)は交流戦終了後の小休止状態。読売を除く11球団に動きはなかったので、読売の活発な補強がよけいに目立った。リリーフ投手陣強化を目的として、MLB経験のあるダイヤモンドバックス傘下3Aリノのルビー・デラロサ投手(30)を獲得。さらに日本ハムとのトレードで、藤岡貴裕投手(29)、鍵谷陽平投手(28)を獲得。巨人側の交換要員は吉川光夫投手(31)、宇佐見真吾捕手(26)だった。

外国人10人はいかにも過剰

デラロサの加入で読売の外国人選手は、スコット・マシソン、テイラー・ヤングマン、サムエル・アダメス、クリストファー・メルセデス、ライアン・クック、ルビー・デラロサの6人、野手がホルヘ・マルティネス、クリスチャン・ビヤヌエバ、アレックス・ゲレーロ、イスラエル・モタの4人で、なんと10人に膨れ上がった。一軍で使えるのは4選手だから、外国人選手の登録~抹消が前半以上に活発化する。

菅野、マシソンの早期復帰が叶わなければ

肝心の投手陣だが、交流戦最終試合のソフトバンク戦で先発したエース・菅野が絶不調で早々と降板した。その原因については、部外の筆者に詳しいことはわからない。考えらえるのは、①一時的体調不良、②過労、③故障――のいずれかだ。体調不良・過労ならいまの小休止で回復可能だが、腰、肘、肩等の故障だと読売にとってたいへんなマイナスとなる。交流戦で新たな先発投手として、桜井、田口、今村が台頭したので、菅野、メルセデス、山口と併せて先発6枚が揃うはずだった。ヤングマン、高橋優も先発復帰の可能性があるから、先発の駒は十分のはずだった。菅野が長期間離脱すると、先発で勝ち星が計算できるのが山口ひとりとなり、かなり苦しい。

救援陣は、勝ちゲームの6回、7回、8回が埋まらない。クローザー(ラストイニング)は中川でほぼ決まり。セットアッパーについては、これまで切り札だったマシソンの離脱が長期化するようだと、クック、デラロサ、澤村、畠、高木、鍬原、戸根、大竹、野上、宮國、田原、そして前出の新加入の藤岡、鍵谷のうち、調子のいい投手を相手の打順、打者等を勘案して登板させる方式に落ち着きそうだ。

さらに懸念されるのが、中川の離脱。前半戦で相当投げ込んでいるので、この先どうなるか。中川にはフルシーズン、緊迫した状況で登板し続けた経験がない。交流戦後の小休止で精神の緊張が緩んだとき、調子を落とすこともありがちだ。

カネで優勝は買えない

読売の投手陣を眺めると、素質は十分ありそうな選手がいるのだが、育ち切っていない。二軍から一軍に上げてテスト登板させ打たれれば、二軍に逆戻りのパターンが定型化している。一度目は好投できなくても、一軍に帯同させ、「次」の機会を与えてもいいのではないか。読売にその余裕がないのは、出戻り原監督に「絶対優勝」を義務付けているからだろう。かりに今シーズン、読売が優勝できたとしても、その先の展望はない。しかも、これだけ金銭を投入して優勝できなかったならば、焼野原しか残らない。チームには絶望感しか残るまい。カネで優勝を買おうとする読売球団は、球界から一日も早く消えてほしい。

2019年6月23日日曜日

日本プロ野球(NPB)は後半戦へ

6月23日(日)をもって交流戦が終了。交流戦優勝はソフトバンクであった。これより日本プロ野球(NPB)は後半に突入する。

さて、筆者の開幕前の予想は――
〔パリーグ〕
1.日本ハム、2.楽天、3.ソフトバンク、4.西武、5.オリックス、6.ロッテ

〔セリーグ〕
1.広島、2.読売、3.阪神、4.DeNA、5.ヤクルト、6.中日
であった。

交流戦終了時点で、パリーグが、1位・楽天、2位・ソフトバンク、3位・西武、4位・日本ハム、5位・ロッテ、6位・オリックス。

セリーグが1位・読売、2位・広島、3位・阪神、4位・DeNA、5位・中日、6位・ヤクルト となっている。

パリーグについては、故障者多数のソフトバンクがこの先、故障者の復帰に従い戦力を整え、首位に躍り出る可能性が強まった。筆者は3位と予想したが、外れそう。

セリーグは、筆者の開幕前予想のとおりAクラス3球団とBクラス3球団の実力の差異が鮮明で、読売ー広島のつばぜり合いが続きそう。阪神は打撃陣が弱体で、3位確保がやっとだろう。読売、広島のうち、投手力を整備できたところが優勝する。

「飛ぶボール」で本塁打量産の前半だったが

前半、顕著だったのが「飛ぶボール」。交流戦前、読売の坂本は50本超えのペースだったが、交流戦に入るや調子を落とし、彼の本塁打量産ペースは一段落した。坂本に限らず、交流戦では派手な本塁打が飛び交うゲームが激減。理由は定かではないが、ボールの質が変わった可能性が高い。リーグ戦に戻ってどうなるか、注目したい。

2019年6月21日金曜日

横尾忠則 B29と原郷ー幼年期からウオーホールまで

横尾忠則の展覧会が谷中・SCAI THE BATHHOUSEにて開催されている。(7月6日まで、入場無料、写真撮影可)

会場正面(入口)
会場のスカイザバスハウス
A.W.MANDARA


2019年6月20日木曜日

モダンジャズ界で活躍したユダヤ系ミュージシャンについて語った夜

根津の蕎麦処「松風」へ
まずは生ビール、次に焼酎「はなたれ」(45度)に合わせて、ポテトサラダ、鴨の焼き物、油揚げなどを食し、〆に海老天蕎麦をいただく。


食後にLa Cujiでモダンジャズのお勉強。
モダンジャズ界で活躍したユダヤ系プレーヤー(スイングジャズの王様ベニー・グッドマン、スタン・ゲッツ、ポール・デスモンド…)。
そしていま、イスラエルが新たなジャズの中心になるなど。

日本のクラフトジン「桜尾」

2019年6月14日金曜日

『Noでは足りない―トランプ・ショックに対処する方法』

●ナオミ・クライン〔著〕 ●岩波書店  ●2600円+税

本書は、トランプのビジネスマン時代のありようから、2016年アメリカ大統領選で民主党のヒラリー・クリントンに勝っての大統領就任、そして就任直後に発せられた過激な施策まで通したトランプ論である。トランプが大統領になれた背景、そして、彼を大統領にしたアメリカの深層をも明らかにしている。その手法は、著者(ナオミ・クライン)の過去の著作、『ブランドなんか、いらない』『ショック・ドクトリン』『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動』を踏まえたもの。冷戦後の世界を制覇した新自由主義革命をさらに進めようとするトランプの脅威に「NO」というだけではなく、それを超える「リープ・マニフェスト」で締め括られている。

「トランプ」というブランド

2019年2月28日、トランプの元顧問弁護士で連邦議会への偽証、選挙資金違反、脱税などの罪で禁固3年の有罪判決を受けたマイケル・コーエン元弁護士は、連邦議会でトランプ大統領による犯罪行為について証言をした。そのとき世界のマスメディアが取り上げたのが次の件(くだり)だった。

I am ashamed because I know what Mr. Trump is. He is a racist. He is a conman. He is a cheat.(トランプ氏は人種差別主義者で詐欺師でペテン師だ。)

もう一カ所注目すべき箇所がこの件である。

Donald Trump is a man who ran for office to make his brand great, not to make our country great. He had no desire or intention to lead this nation-only to market himself and to build his wealth and power. Mr. Trump would often say, this campaign was going to be the “greatest information in political history.(トランプ氏は、米国を偉大にするためでなく、自分のブランドを偉大にするために出馬した。彼はよくこの選挙活動は政治史上、最も偉大なインフォマーシャル(テレビの通販広告)だと話していた。)

コーエン元顧問弁護士が本書を読んでいたのかどうか確かめるすべはないものの、著者(ナオミ・クライン)も本書において、トランプをブランドという観点から分析している。その手法は著者(ナオミ・クライン)が『ブランドなんか、いらない』という著書で明らかにした、現代の生産と消費がブランドという記号によって支配されているという立論の延長線上にある。

今日、トランプ・ファミリーが展開している不動産事業は、土地建物を取得しそれを開発=加工(マンション、商業ビル、ホテル等)して付加価値をつけ譲渡するといった、従来型不動産開発業とは異なっている。トランプ式不動産業は、他人が開発した物件に自分の名前でありブランドである「トランプ」を付与して稼ぐというブランディング事業、イメージを売る事業に変質していて、トランプ・ブランドの展開は世界規模であるという。

不動産事業におけるこのようなブランド事業展開は日本ではあまり馴染みがないが、行われていないわけではない。かりに日本の某不動産開発業者が都心の一等地である青山あたりに高層分譲マンションを建て、それを「トランプ・タワー青山」と命名して売り出したとしたら、日本を含めた世界の富裕層は飛びつくようにそれを購入するだろう。トランプはそこで、ブランドライセンス使用料を徴収する。不動産事業も既にブランド、すなわちイメージを売る形態に変化している。ブランドはスポーツメーカー、ファストファッションなどの身近な業態から、不動産事業にまで広がっている。

トランプは自分のブランド力を上げるためにあらゆる手を尽くした。その成功例がテレビ『アプレンティス』というリアリティ番組の出演だった。この番組では成功する者とそうでない者が明確にされ、後者は「クビ(You`re fire)! 」の一言で切り捨てられる。

そしてもうひとつが、プロレスへの関与であった。トランプは、2007年に行われた「億万長者対決」でプロレス団体のWWEオーナーのヴィンスマクマホンとリング上で「対決」している(P62)。

テレビのリアリティ番組のなかの筋書き通りの「クビ宣言」、プロレスという筋書きに沿ったフェイクな闘い――トランプは空虚なイメージを拡散しつつ、トランプ・ブランドをアメリカのみならず世界に売り込んできた。大統領選立候補、当選、そして就任から今日に至るまで、トランプは夫人、娘及びその婿、息子たちを含めたトランプファミリーブランドを前面に出し続けた。そしてそのブランディングが失敗しているとはいい難い状況にある。著者(ナオミ・クライン)は次のように書いている。
フェイクの祝祭ともいうべきトランプ政権に、もしリアルな面がひとつだけあるとするなら、それはその中心にある飢餓――すなわち、純然たる強欲にほかならない。
(略)
その抑えることのできない飢餓――中心にある空虚さ――が物語るのは、きわめてリアルなものだ。それはトランプという人間の生み出した文化の中核にある、根深い空虚さにほかならない。そしてこの空虚さは、ライフスタイルブランドの隆盛と密接に結びついている。それがトランプに、絶えず拡大し続ける基盤を与えたのだ。あらゆるものを売るが、ほぼ何も所有することのない、中身の空虚なブランドが台頭してきたのは、それまで人々に共同体意識や共通のアイデンティティをもたらしてきた主要な組織が衰退していった数十年にあたる。すなわちこの時期、人々が互いを思いやり、気づかう緊密な近所づきあいや、終身雇用を約束する大規模な職場、普通の人が芸術をただ消費するだけでなく、自ら生み出すことのできる空間や時間、組織的宗教、顔の見える人間関係を基盤とする政治運動や労働組合、そして共通の会話を通して国の結束を強めることを目指す公益メディアなどが、急速に力を失っていたのである。(P71-72)
トランプというと、とりわけ日本においては、すぐにディール(交渉)という言葉が返ってくる。“トランプはディールの達人”というがごとくに。大統領就任後のトランプの言動から、そのようなキャッチフレーズが適正であるかのような印象を受けるかもしれない。北朝鮮キム・ジョンウンとの2度の会談がそのことを象徴する。トランプの伝記や彼が書いたビジネス本にはそう思わせるような言説であふれている。日本では、トランプはとてつもなく大きなプロジェクトをまとめ上げた――あるいは巨額の物件の売買を経験した――不動産ビジネスマンであるかのような受け取られ方が一般的である。もちろん、トランプにそうした経験がないとは言わないが、それは過去のことであり、しかも、失敗が多く何度も倒産寸前に追い込まれた。その後、トランプのビジネスは前出のようにブランドを売る形態に変わっていったのであり、彼が大統領選に立候補した動機も、前出のコーエン元顧問弁護士の発言のとおり、「トランプ・ブランドをインフォマーシャルする」ことだった。

トランプの登場は北米における歴史、文化、資本主義の帰結

トランプは大方の予想を裏切って共和党の大統領候補に勝ち上がり、さらに本選(2016)で民主党候補のヒラリー・クリントンを退けた。その理由は多くの研究機関等で分析されているが、とりわけ注目すべきは、「アメリカの有権者の大半はトランプに投票していない。ヒラリー・クリントンの得票数がトランプより290万票近く上回っている(P19)」という事実である。

ではなぜ勝てたのか。「そもそもトランプが勝てたのは、元はと言えば奴隷所有者の権利を守るために作られた選挙人制度のおかげだ(P19)」と、著者(ナオミ・クライン)は指摘する。選挙人制度の詳細について、著者(ナオミ・クライン)が本書において展開していないため、その真偽を確かめるには時間がかかる。だが、アメリカの大統領選挙制度がアメリカという特殊な歴史に規定された歪な構造をもったものだという指摘が重要である。換言すれば、アメリカもしくは北米の政治、経済、社会が普遍的なものではないということ。このことは改めて詳述する。

トランプの政治的・経済的もくろみ

著者(ナオミ・クライン)はトランプを次のように評する。
トランプは極端な人物ではあっても、異常というより、ひとつの論理的帰結――過去半世紀間に見られたあらゆる最悪の動向の寄せ集め――にすぎないということだ。トランプは、人間の生を人種、宗教、ジエンダー、セクシャリティ、外見、身体能力といったものを基準にして序列化する強力な思考システムの産物にほかならない。そしてこの思考システムは、北米の植民地化と大西洋奴隷貿易の最も初期の時代から、人種を武器として組織的に利用し、残忍な経済政策を推進してきた。(P11-12)
トランプが支持された素因は、アメリカ国民の保守と呼ばれる一団の深層的価値観とトランプの言動が共振したからにほかならない。それはヨーロッパから渡ってきた植民者が行ってきた先住民虐殺と排除の構造であり、労働力としてアフリカから奴隷として拉致してきたアフリカ系の人々への虐待と差別の正当化の論理である。人種の序列化は、WASP(白人、アングロサクソン系、プロテスタント)を頂点として、その下位にイタリア系、アイルランド系、東欧系…アジア系、アラブ系、アフリカ系を階層化するというシステムであり、加えて女性、LGBT、身障者等を下位に位置づける社会的価値観である。

アメリカは自由の国であり、努力して競争に勝てばほしいものは何でも手に入る、と日本人はこれまで信じて疑わなかったが、それは上層の者とそうでない層におけるごく少数の成功者、ほんの一部の者、に当てはまる例外的事項である。そしてトランプのアメリカでは、1%の勝者と99%の敗者の格差はこれまでになく広がる様相をみせている。

トランプ政権の内実

トランプ政権が打ち出している政治、経済施策とは、前出の「北米の植民地化と大西洋奴隷貿易の最も初期の時代」に培われた残忍な経済システムと「過去半世紀間に見られたあらゆる最悪の動向の寄せ集め」という、二重に最悪なものの寄せ集めである。著者(ナオミ・クライン)は、それを次のようにまとめている。
トランプの政治的・経済的もくろみの主要な柱は次のとおりである。規制国家の解体、福祉国家と社会福祉事業に対する徹底的な攻撃(人種主義的な敵意に満ちた恐怖の利用と、女性が権利を主張することへの非難によって部分的に正当化される)、国内に化石燃料ブームを起こすこと(気象科学を脇に追いやり、政府官僚の大部分の発言を封じることを必要とする)、そして移民と「イスラム過激派によるテロ」に対する文明的な戦い(その戦域は国内外で拡大しつづけている)。(P6-7) 
トランプ政権を担う者たち

トランプ政権の最高顧問たちは、発足当時から幾度となく交代があったとはいえ、基本的にはエネルギー産業、金融業・投資家、ゼネラルダイナミックス及びボーイングといった軍需産業の出身者が前政権までのように回転ドアを介さず、直接ホワイトハウスに乗り込んできた者たちだと言える。政権移行ではなく企業クーデターであると。エクソンモービル出身のレックス・ティラーソン国務長官(解任)、ゴールドマンサックス出身のスティーヴン・ムニューシン財務長官、投資家のウイルバー・ロス商務長官の名前は日本でもよく知られている。もちろん、最高顧問のほとんどは億万長者である。著者(ナオミ・クライン)はホワイトハウスの面々をこう評している。
主要な閣僚たちは単なる大富豪の代表サンプルというだけにとどまらない。トランプが任命した面々のなかには、地球上の最も脆弱な人々、あるいは地球そのものに――多くの場合、危機のさなかに――故意に害を及ぼすことで富を築いてきた人たちが驚くほど多く含まれている。あたかもそれが就任の条件であったかと思われるほどに。(P21)

新自由主義をより過激に推進するトランプ

トランプの経済運営は新自由主義の徹底化である。それは1970年代から世界中に波及した新自由主義革命と呼ばれる潮流であって、トランプが新たにつくりあげたものではない。しかしトランプが特異なのは、前出のアメリカの特殊な資本主義――アメリカ合衆国を誕生させた市場経済――セドリック・ロビンソンが「人種資本主義」(P116)と命名したアメリカ人の深層――を大統領選出馬から当選後に至るまでに大衆的に顕在化しつつ、それに新自由主義を上積みしたところを特徴とする。「人種資本主義」はその発展段階においては、先住民から奪い取った土地とアフリカから奪い取ってきた人々(奴隷という労働力)を土台とした。この二つはともに、人間の生と労働の相対的価値を序列化し、白人男性を最上位におく知的理論を必要とした(P116)。

地球温暖化に背を向けるトランプ政権

トランプは、大統領就任するや否や、先住民の聖地にあるダコタ・アクセス・パイプライン建設に関する環境調査を中止し、先住民の強固な反対を押し切って建設を再開する大統領令に署名した。2017年にはパリ協定からの離脱を宣言した。トランプ政権は、この二つの代表事例が物語るように、環境問題に後ろ向きである。その理由のひとつは、トランプを大統領に祭り上げた勢力がエクソンモービルに代表される化石燃料産業だからと説明できる。エクソンモービル社は、地球温暖化と二酸化酸素排出の因果関係は証明されていない、という知見を関連するシンクタンクに発表させた「実績」がある。トランプ政権はオイルまみれの政権(P88)なのである。

日本では、トランプはオバマの政策と真逆の政策を実行しようとしている、という説明がなされることが多い。前大統領への対抗意識をむき出しにしている、というふうに。そのような言説が間違いだとは言わないが、それよりも重要な視点がある。地球環境問題はトランプ政権誕生からアメリカ及び世界を席巻している新自由主義にとって“致命的な問題”であるということだ。

新自由主義とは何か

ここで新自由主義について改めて著者(ナオミ・クライン)の見解をまとめてみよう。トランプが不動産ビジネスを通じて目指したもの、そして大統領就任後に彼が目指す社会と経済を支配するイデオロギーは前出のとおり、新自由主義である。

新自由主義とは「多大な利益をもたらす一連の考え方であり、私がそれをイデオロギーと呼ぶことには若干のためらいを感じてしまう」(P98)と、著者(ナオミ・クライン)は言うが、「イデオロギー」と言うべきか「経済施策」と言うべきか、はたまた、「強欲への熱情」と言うべきかはともかくとして、著者(ナオミ・クライン)の新自由主義に係る定義は以下のとおりである。
新自由主義とは資本主義の極端な形態であり、1980年代にロナルド・レーガン政権やマーガレット・サッチャー政権が新自由主義に基づく政策を推進した。
(略)
新自由主義とは、言い換えれば、公共部門を敵視し、市場メカニズムや個々の消費者の判断以外のものを悪と見なす経済施策のことである。
(略)
新自由主義の世界観では、政府は民間企業が最大限の利益と富を得るのに最適な状況を作り出すために存在する。この考え方の基盤にあるのは、利益があがり経済が成長すれば、富裕層の富が流れ落ちて最終的にはすべての人に利益をもたらすという、トリクルダウン理論だ。
(略)
新自由主義のプロジェクトのおもな政策手段は、公営事業の民営化、企業領域における大幅な規制緩和、公共サービスの削減による減税など、馴染み深いものばかりで、これらはすべて企業に有利な貿易協定によって確定される。
(略)
新自由主義の中核にあるもの、それは強欲の正当化である。アメリカの億万長者ウォーレン・バフィットは数年前、CNNの取材に応えていみじくも(略)「この20年間続いてきた階級闘争で勝ったのは、私の階級だ…富裕層が勝ったのだ」と…(P97-98)
気候変動を解決できない新自由主義

新自由主義を信奉して経済を運営し、その価値観で社会をリードしたいトランプ政権にとって、地球温暖化に始まる地球環境問題は最大のネックである。トランプ政権が前出のとおり、化石燃料産業を代表とする面々により構成されていることは既にみた。地球温暖化対策としての二酸化炭素排出量規制は彼ら利益を損なうが故という面も否定できない。それもそうなのだが、「気候変動は現代の保守主義(新自由主義)が足場にするイデオロギーを粉々に打ち砕いてしまうのだ。気候危機が現実のものだと認めることは、新自由主義の終わりを認めることになる」(P98)と、著者(ナオミ・クライン)は言う。
筋金入りの保守派が気候変動を否定するのは、気候変動対策によって脅威にさらされる莫大な富を守ろうとするだけではない。彼らは、それよりももっと大切なもの――新自由主義というイデオロギー・プロジェクト――を守ろうとしているのだ。すなわち、市場は常に正しく、規制は常に間違いで、民間は善であり公共は悪、公共サービスを支える税金は最悪だとする考え方である。(P96)
新自由主義は市場原理主義とも言われる。市場がすべてを善に向けて解決するのだから、市場に公共(政府等)が関与すべきでないと。ところが、地球環境破壊は市場では解決不可能なのである。かつて公害問題が発生した時代に「外部不経済」と呼ばれたものだ。先進国では、公害が市場原理によって解決されたと経験的に語られるかもしれないが、公害は発展途上国や国内の過疎地・僻地に「外部化」されたのであって、根本的解決に至ってはいない。

地球温暖化を市場が解決することはできない。省エネ器具等が開発されることはあっても、化石燃料を使用し続け、環境にやさしい機種の機能を凌ぐ二酸化炭素が排出され続ける限り、地球温暖化は避けられない。すなわち環境問題は新自由主義(市場原理主義)のアキレス腱なのである。地球環境問題を重視することは、「トランプ的なもの」を打倒する重要なカギとなる。

「トランプ的なもの」を乗り越えろ!

本書では「トランプ的なもの」を乗り越える方針として、著者(ナオミ・クライン)が中心となってまとめ上げた「リープ(飛躍)・マニフェスト」が掲げられている(P325-330)。

その全文はインターネットに上がっていて、14か国語に翻訳されているが日本語訳はない。それを読めば、「トランプ的なもの」に対して、NOと言うだけでは終わらない、長い闘いの道標を手に入れる手がかりをつかめるはずだ。

本書第四部第12章「スタンディングロックで学んだこと――夢見ることを恐れない」で描かれた運動の様子は、本書を読む者すべてに感動を与えるものと確信する。スタンディングロックとは前出のダコタ・アクセス・パイプライン建設の現場であり、それを止めようとする先住民スー族の保留地でありかつ、彼らの聖地である。

そこで起きた建設反対運動は、反対派の数千人規模のボランティアはじめ、2千人以上の元軍人までもがスー族との連帯のために車を連ねた。キャンプが設営され、1万人以上の反対派が寝泊まりをした。「メディアの有名人や、世界的に有名なミュージシャン、ハリウッドの俳優らが刻々と変わる情勢を発信し、世界中のファンに向けて対決の現場を伝える(P268)」といった具合だ。日本では沖縄の美ら海、辺野古の土砂埋立てに反対のコメントを出した人気モデルがバッシングを浴びたことがあったが、そのことに比べれば、アメリカの民主主義運動も捨てたものではない。

ことほどさように、日本においては、トランプに全面的に恭順の意を表す首相の下、公共部門の民営化、軍備強化、憲法改正等による国家そのものの改悪が進もうとしている。日本型新自由主義の表徴である「自己責任論」や、「近隣国の人々への人種差別」「女性差別」が激しさを増す一方、マスメディアはそれらに対して無力である。日本はトランプのアメリカに隷属するばかりである。

日本にも「トランプ的なもの」を否定するだけでなく、彼が押しつけようとしている世界とは別の世界に跳躍するための哲学を構築する必要がある。本書を外国の大統領の話と突き放して読むのではなく、いまの日本にひきつけて、トランプや安部が紡いでいる物語を超える物語を語らなければならない。

著者(ナオミ・クライン)は、スタンディングロックで体験した運動の現場から、「リープ・マニフェスト」をまとめあげた。日本の左派が立ち返るべきは反安部運動の現場であり、そこから、それぞれの反対派の立場を超えた安倍政権打倒後の「マニフェスト」をまとめ上げる努力が求められる。そうした現場体験なき「人民戦線」は、党派間の調整の域を出ない空論に終わる。