旧友S氏の回復祝いで根津を漂流。
居酒屋「やま」にてカラオケ。
居合わせたほかのお客はノリノリだった。
バー「ヒダマリ」で飲んだ後、「なっかーさ」でおひらき
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George |
昨日を起点としてはるか昔まで続く過去が現に抹消されているんだ。(略)すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について文字どおり何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されるか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかで党が常に正しいんだ。(第二部5)ディストピアというのは、過去を失うこと、現在の他になにもないという、“セラミック”のような日常の強制である。本書が書かれた時代にテレビは普及していなかったけれど、現在の日本では権力にのっとられたテレビによって過去が書き直され、テレビが写しだす現在のなかで常に安倍政権が正しいとされる。前出の〈思考犯罪〉は、安倍政権が法制化した共謀罪に似ている。
党の世界観の押し付けはそれを理解できない人の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしていようが、かれらなりにそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているかに気づくほど社会の出来事に強い関心をもっていないからだ。理解を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするか、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。(同)もうすぐ消費税率が上がる。先の参院選で一部野党から反対の意見提出があったものの、有権者は安倍政権に対して「NO」を示さなかった。党の世界観の「押し付け」は、今日の日本の場合は、テレビに出てくる芸人、政府お抱えエコノミスト、コメンテーターらの発言に依っている。彼らが「財源が足りない」といえば、視聴者はそれを鵜呑みにする。そのほうが楽なのだ、「害が及ばない」のだ。“消費税率アップ反対”が身体の中で異化現象を起こすことが拒否され、議論や行動が大衆化することはない。日本の視聴者の脳味噌は小鳥ほどに小さい。
「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。
(略)前掲の(患者の)言葉は、ひくにひけぬ断崖に追い詰められた下層民の腹のすわりを示したものである。
(略)良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることをいい切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。(「現実と幻のはざま」P14)
それ(下層民)はかならずしも貧困や隷属を意味しない。
(略)彼らは……彼らなりの海浜の民としての「栄華」をたのしみ、いまだかつて資本に隷属したことのないものの誇りを抱いてきたのである。
(略)彼らを下層民と規定するのは、彼らが日本近代社会の組織的法則の強制力によって、社会下層に沈殿する疎外者として解体されたからである。彼らはその漁民共同体を解体されつつも、けっして日本資本制社会の支配関係に統合され尽くすことはなかった。彼らに対する解体疎外の作用は、ついに水俣病という激烈な様相をとりつつ完結した。彼らはこうして日本近代社会の疎外者から、それへの叛逆者として転生する。(「死民と日常」P33-35)
(水俣病患者のなかの)自主交渉派の患者に対する水俣市民有志の攻撃ビラの中に、一市民の発言として「あいつらは弱った魚を食べたから奇病になったのはこれは事実じゃ。やっぱり本当の漁師が専門に取って、金を取って喰わせる魚を食わんとが一番悪かったごとあるなあ」と……。(「流民型労働者考」P42)
それならばこのようなわが水俣漁村地区の流民の意識そのものはどういう規定においてとらえられるだろうか。故郷から放逐されながら正統的な市民社会の構成に加わることができないその周辺的な位置のゆえに、彼らの意識は中核において矛盾にひきさかれ、一方ではそこから放逐されたところの故郷=農村共同体へのノスタルジーとなって現れ、他方では、近代から疎外されているだけになおさら強烈な近代へのあこがれとなって現れる。この意味で流民とは、安定した部落共同体的支配と都市における近代市民統合とのはざまに陥没した意識のありかたであり、つねに何ものかに慕いよる意識のヴェクトルであるということができよう。このつねに何ものかに慕いよる流民する意識を把握するものこそ戦前社会における天皇制であった。
戦前段階における日本資本制の基本的特徴は全国民を市民社会的関係において編成しつくすことがまだ不可能だったという点にある。……わが近代資本制国家は天皇制というイデオロギー的装置によって、これら下層民を近代市民社会的関係に適応する正規の構成員となんら変わらぬ平等な臣としてその支配に統合したのである。
(略)戦後社会は憲法的擬制と利益配分体系によってそれ(全生活民)を国民として統合しようとする。しかし天皇制的統合から解き放たれた流民は、近代市民社会の原理によって統合されないままに戦後社会の漂流者となる。なぜなら、小作農民は出郷せざる土着の正統的住民として農協を通じて、労働者は労働諸法によって正統性を保証された大労組通じて、それぞれ戦後社会の正統的メンバーとして市民意識を獲得していったのに対して、流民的意識はそのような市民社会的構成に編入され、市民的論理によって教育されることを無意識にこばむことにおいて、戦後社会の域外の民としてとどまったからである。(「流民型労働者考」P52-53)
生活者の日常の位相は、彼らの上にそそり立つ経済・政治・法などもろもろの諸制度、諸機構の位相とまったく異なっており、その支配をうけつつも、核心部分にはけっして侵入を許さない頑固さを保ち続けている。……その日常の位相が日本近代の市民社会組織を根底から否定するものであり、生活民の自立した闘争としての水俣病闘争がそのような水俣病下層民の生活の位相に根拠をおかざるをえないことを暗示しているのである。(「死民と日常」P29-30)
水俣病闘争は成立の日から今日まで、患者の存在を原点とし、その意志を一切の規準とするということを不可侵の原則として進められてきた。それはたんなる運動のモラルであったのではなく、水俣下層民の存在と意識の深層から自立する運動以外に水俣病闘争はありえない、という基本的な方法論・認識論であった。(「『わが死民』解説」P112)
水俣は移住民・流民の町です。あなた(石牟礼道子)の親も私の親もそうです。それゆえ新しい民への差別がいちじるしい。
(略)チッソ工場進出以前に、この一帯には田畑も定職もない農村遊民がいくらも存在していて、かれらが工場に吸いよせられるまで、この主なき浜辺はかれらの遊びとも仕事ともつかぬ行動圏だったのですから。……村の日雇いより八銭安く、会社勧進(乞食)とよばれ、道でも顔をそむけられた〈南九州の神武たち〉とその子孫、これが精神の純粋種としての〈第一の水俣〉です。
(略)〈第二の水俣〉は水俣病患者の層です。かれらは身体性に富んだ思想的な発言で都市住民をおどろかしたが、あなたのいうように、ちっぽけな泉水にひとしいあの海との接触だけで言葉を養ってきたとはいえません。かれらをきたえたのは〈第一の水俣〉の白い眼です。
(略)〈水銀以前〉の水俣を、あなたは聖化しました。……それが〈水俣病〉の宣伝にある効果を与えたのも事実です。
しかし患者を自然民と単純化し、負性のない精神を自動的にうみだす暮らしが破壊されたとする、あなたの告発の論理には〈暗点〉がありませんか。小世界であればあるほど、そこに渦巻く負性を消してしまえば錯誤が生じます。なぜなら負性の相克こそ、水俣病をめぐって沸騰したローカルな批評精神の唯一の光源ですから。
あなたの水俣には底面の葛藤がありません。結局のところ病の狂乱のただなかへ古い神話性をよびもどすことで終わった。(『〈非水銀性患者〉水俣病・一号患者の死』(1990年6月「すばる」/『谷川雁の仕事(上)』P210)
無名民衆の優しさ、前プロレタリアートの感情……それらを理念として表現すれば東洋風のアナルコ・サンジカリズムとでも呼べばいいと思う。……日本のコミュニズムは日本それ自体の土壌に発生した前コミュニズムの内在を明らかにすることなしには一歩も前進することはできない。それはもっとも初歩的な弁証法の原理である。(『谷川雁の仕事』P102)