2010年6月22日火曜日

上野周遊

拙宅近くの最大の繁華街は上野。洗練された街とは言えないが、多彩な顔を持っている。
ここで、その一端をご紹介しよう。

■芝生の上の彫刻(上野公園)



■レトロな外観の国立科学博物館(上野公園)



■静寂の東照宮(上野公園)







■蓮の不忍池(上野公園)



■コリアン・タウン(東上野)



2010年6月21日月曜日

鬼瓦もしくは・・・

@Yanaka

2010年6月20日日曜日

風が強く吹く一日



曇天、強風、湿度も高い。

そのうえ、昨日の肩のトレーニングで首を曲げると痛い。

瓢箪



@Yanaka

核心に迫れるか―相撲界野球賭博事件―

いまが正念場だ、角界の暗部を暴くことができるのかどうかの――

野球賭博事件問題の核心は、角界のだれとだれが野球賭博をやっているかではない。当該コラムで書いたように、今般、日本中の職場の多くにおいて、高校野球が賭博の対象になっていることは、珍しくない。そのことで、生活者が処罰されることはないし、問題となることはない。賭けマージャン、賭けゴルフ等々もしかりだ。

今回の角界の野球賭博事件で最も重要なことは、角界と反社会的勢力とのつながりの一点につきる。野球賭博に反社会的勢力がどのように関与しているのか、賭け金の流れ、賭けに負けた力士が、賭けの資金をどこに求めたか、また、胴元が反社会的勢力そのものなのか、角界関係者が胴元になっていたとしても、その背後に反社会的勢力の存在が認められるのかどうか――にある。

いまのところのマスコミ報道を見聞きする範囲では、その解明については不十分だ。現在の報道の状況としては、親方、力士、床山…のだれだれが野球賭博に関与していました、すいませんでした、で終わりそうな気配だ。角界の野球賭博事件は、それをやっていたことの罪を問うことで終わりそうな気配がする。

繰り返すが、事件発覚の状況は、朝青龍の暴行事件のときと似ている。朝青龍事件を報じたのは、新聞・TVといったマスコミではなく、某週刊誌だった。朝青龍暴行事件の現場は、六本木の某クラブで、その店は事件当時、麻薬取引関係者の出入りが頻繁にあったという噂が絶えなかった。事件当時といえば、芸能人の麻薬事件がしばしば報道されていたころだった。だからといって、朝青龍及び「被害者」が麻薬取引に関与していたというつもりはないが、本場所中のアスリート(=朝青龍)が顔を出すような場所でないことだけは確かではないか。

重要なのは、朝青龍事件も今回の野球賭博事件も、週刊誌が報じなければ、明るみに出なかった可能性が高いことだ。つまり、日本の(スポーツ)マスコミは、先の朝青龍暴行事件も、このたびの野球賭博の蔓延の事実も、知ってかしらずか、報じなかった。

筆者の推測では、相撲界と反社会的勢力は、巡業興行権を媒介として、戦後一貫してつながりがあった。また、その筋から角界関係者に対して、多額の交際費のような不適切なカネの流れがあった。力士・親方等は、その筋の関係者と親密な交際を行っていた。ところが、当局、(スポーツ)マスコミ並びに文科省(公益法人である相撲協会を所管する監督官庁)の3者は、そのことを見過ごしてきたばかりでなく、マスコミは相撲人気を煽り、当局・文科省は「国技」としてお墨付きを与えていた。その間、相撲界には「銃刀法違反」「八百長疑惑」「暴行事件」「麻薬事件」「朝青龍問題」などが起ったが、報道は一過性であり、文科省の指導も形式的であり、当局の捜査も生温かった。

「朝青龍事件」の場合、週刊誌報道がきっかけとなって、マスコミ報道が白熱する一方、朝青龍と「被害者」との間に示談が成立した。その結果、警察の捜査が朝青龍側に及ぶこともなく、朝青龍の突然の引退をもって、事件の真相はうやむやのまま、フェードアウトした。しかし、一部の専門メディアは、示談には反社会的勢力が関与したことを報じた。朝青龍事件の背後に反社会的勢力の存在がうかがえた。

今回も、同じ週刊誌の報道がきっかけとなって、賭博事件が明るみに出た。繰り返すが、大新聞は角界で野球賭博がほぼ恒常的に行われていたことを1行たりとも書いたことはないし、TVも1秒たりとも、流したことはない。(スポーツ)マスコミは相撲協会の広報宣伝の機能を果たし、公共放送は不祥事が多発する相撲のTV中継を休むことはなく続けていた。日本の公共放送は、視聴者から視聴料を取り続けながら、反社会的勢力と関係する団体が行う興行を中継し続けた。大企業は、その取組みに懸賞金を出し続けた。そればかりか、その「優勝者」を国をあげて顕彰した。

これまで角界で起きた事件に係る報道は、マスコミによって大量の「情報」が流れる一方、事件の真相・核心に迫るものはなく、むしろ、真相・核心を隠蔽する働きをしてきたように思える。麻薬事件の場合も、朝青龍暴行事件の場合も、背後に反社会的勢力の関与がうかがえたにも関わらず、報道がそこを突くことはなかった。今回の事件に先立って、「維持員席」のチケット販売をめぐって、相撲協会と反社会的勢力との深い結びつきが暗示されていたにもかかわらず、マスコミは角界の暗部を突くような報道をしなかった。逆に、(スポーツ)マスコミ、当局、文科省は、一貫して、相撲協会を守り続けてきた――なぜか

2010年6月18日金曜日

三四郎池



夏目漱石の小説の舞台となった池。東京大学(本郷)の中にある。

地蔵

@Yanaka

2010年6月17日木曜日

相撲協会は解散

相撲界で野球賭博が行われていることが問題になっている。文科省を始めとする関係者等が、ようやく、ことの深刻さを認識し始めたようだ。相撲界の不祥事及び事件が報道されるのは、もちろん、今回が初めてではない。問題発生のたびごとに、相撲協会内に「××調査委員会」や「○○機関」などが設置されるものの、真相は隠蔽されたままだ。

お気づきの方も多いと思うが、今回の野球賭博事件が明るみに出たのは、週刊誌報道からであって、(スポーツ)マスコミによるものではなかった。これは、朝青龍事件のときも同様だ。あのときにも、(スポーツ)マスコミは、朝青龍・相撲協会側に対して、説明責任を追及することはなかった。そればかりではない。相撲協会は財団法人(公益法人)であり、所管の文科省に監督責任がありながら、文科省も協会に対して、適正な指導を行わなかった。適正な指導と監督が継続されていれば、不祥事の再発は防げた。

筆者が腹立たしく思うのは、TVカメラの前に出てくる協会役員(親方=元力士)が、「やっていない」「そんなことは知らない」とまず否定し、事件報道の進捗とともに「反省している」「膿を出す」に変わり、やがて、「雲隠れ」することだ。彼らのコメントからは、時の経過とともに、「事件」「疑惑」がうやむやになることを見越しているようなのだ。つまり、責任をとること=角界からの追放、刑事罰等が降りかかることはないと、高を括っていることがその表情から明らかなのだ。

彼らが高を括っていられるのは、▽自分たちは、絶対にマスコミから厳しい追求を受けないこと、▽文科省の指導が形式的なこと(法人解散には至らないこと)、▽角界からの追放処分という厳罰は絶対に受けないこと――が了解されているからだろう。厳しい処分がくだらない背景には、相撲が「国技」と認識されているからだろう。本場所の優勝者の顕彰には、「総理大臣杯」が含まれている。文科省が手を出せない「タブーゾーン」なのだろうか。

週刊誌が火をつけ、マスコミが後追い報道し、文科省のそれなりの指導があり、処分がくだり、「表」の人事が一新され、本場所が始まれば「はい、それまで」。本場所は公共放送が中継をしてくれるし、チケットもそれなりに売れる。不祥事・事件が協会を経営的に圧迫することもない。だから、“のらりくらり”とした、なまぬるい「反省」と「処分」が繰り返されだけなのだ。

今回の野球賭博事件等は、反社会的勢力と角界が深く結びついていることを暗示している。この結びつきの延長線上あるものは、角界に対して恒常的に指摘されるところの「八百長」の存在だ。野球賭博の裏側には、「相撲賭博」があり、力士が野球賭博を行っている裏側には、力士の八百長相撲と相撲賭博が結びつき、反社会的勢力は、野球賭博と八百長=相撲賭博において、角界と結びついている。こう考えることが自然だ。

賭博にはいろいろある。職場で高校野球が賭博の対象になっていることは常識だが、そこでは、サラリーマン等がささいな金銭をかけているにすぎない。生活者が行う、賭けマージャン、賭けゴルフ、賭け花札・・・が問題視されることはない。組織的賭博に反社会的勢力が介在することにより、賭け金が大きくなり、不正な金銭の動きが恒常化し、その流れが反社会的勢力の資金源として「成長」していくことを防がなければならない。

角界の暗部の解明をどうするか。文科省が真相究明を放棄し、当局も捜査を控えれば、角界の不祥事は「許される」という「タブー」が社会に定着する。協会幹部は「表の責任」をとるだけ。そうなれば、一般常識をもった人ならば、角界は反社会的勢力とつながった団体だと認識する。そんなところに、自分の子供を預けようとは思うまい。相撲は「国技」と呼ばれながら、それを担う角界は特殊視され、反社会的勢力と結びついた怖い団体の1つとして、社会から疎外される。

それでいいのだろうか。協会、文科省、当局が本気で解明をする気があるのならば、次回に予定されている名古屋場所を中止し、角界全体が真相解明に尽力していることを表明すべきなのだ。

相撲が伝統芸能として貴重なことは言うまでもない。が、それを保存する方法はいくらでもある。いまのように、財団法人(公益法人)のまま、興行を続けるという「あり方」に限る必要はない。真相究明の方法として、協会解散という選択肢から考えるべきなのだ。

2010年6月14日月曜日

入梅か

@Yanaka

関東地方も梅雨入りとか。アジサイが一段と色鮮やかに、咲き乱れます。

2010年6月11日金曜日

古い洋館のイメージ



大正・昭和初期の金持ちは、自分の家を洋館に改築し、庭に大きな熱帯性の樹木を植えた。

いわゆる西洋館といわれる庭付き戸建て住宅が、東京都内の閑静な住宅街に増えた。

庭に熱帯植物が植えられているのは、日本がアジア大陸に進出したころの社会背景を投影したものであろうか。

いま大名時計博物館として公開されている敷地と建物は、もともとは、旧勝山藩の別邸である。

2010年6月9日水曜日

『東シナ海と西海文化(「海と列島文化」第4巻)』

●網野善彦ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)



本書がとりあげる地域は、九州西北部、佐賀、長崎、熊本の3県の海沿いである。この当たりの地図を眺めてみると、有明海、大村湾といった内海や、平戸島、五島列島、天草諸島といった島々、そして、西彼杵半島、島原半島、長崎半島などが入り組んだ、複雑な地形をなしていることに驚く。そこから西に東シナ海が広がり、直線で済州島を経て、中国の長江(揚子江)の下流域にぶつかる。以後、この地域を本書に従って、“西海地方”と呼ぶ。

こんにち、西海地方が日本の政治・経済の中心であるとは言い難い。が、本書にあるとおり、弥生時代から徳川時代末まで、世界と日本列島を結ぶ重要な役割を担ってきた。近代以前の西海地方は、日本列島の中にあって、世界に向かって開かれた唯一の窓であったと言って言い過ぎでない。

[1]弥生時代と西海地方

◎弥生文化は中国江南地方から伝えられたのか

西海地方が海外と接触を始めたのは、弥生時代(紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間)に遡る。弥生時代とは、日本列島が大陸文化の影響を受け、それまで築いてきた縄文時代の社会・文化が大きく変容を遂げた時代だと考えられる。

大陸文化は、日本列島に、稲作技術、金属使用等を伝えた一方、列島内の各所には、一定規模を有する権力機構(クニ)が整備され、有力な支配者が誕生した。その中の一つの「邪馬台国」と、その支配者(女王)・卑弥呼の名前が中国の文献に記されている。

大陸文化が日本に流入した有力な経路としては、朝鮮半島から対馬・壱岐を経由して、北九州に上陸したとされる「朝鮮半島ルート」が挙げられてきた。ところが、近年の弥生時代研究の進展により、中国江南地方から東シナ海を経て、西海地方に直接流入したとされる「江南ルート」が注目されるようになった。大陸文化の流入経路として「江南ルート」が「朝鮮半島ルート」より有力視されるようになった考古学上の契機の1つが、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の発見であった。同遺跡は現在の地図上では内陸に位置するが、当時、有明海は同遺跡の間近まで迫っていた。すなわち、同遺跡は海岸沿いに開けた“クニ”の址なのである。

◎倭人の姿は、江南地方の越人と同じ

そればかりではない。『魏志倭人伝』には、
■又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
(略)
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。■

とあり、倭人が中国を訪れたとき、自らを夏(王朝)の末裔(太伯の後裔)であると称していることも江南地方との関係を推定させる根拠となっている。夏王朝とは、紀元前2070年頃~ 紀元前1600年頃にあったと伝承される中国最古の王朝で、夏后ともいう。近年、江南地方において考古学資料の発掘が相次ぎ、実在が見直されてきている。非漢民族系の水上民族だという説も有力である。

夏王朝の末裔を自称する民族は中国周辺にいくつかあり、その1つが、春秋時代の紀元前600年頃~紀元前334年、中国江南地方(浙江省)に建国された越である。越の首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。もちろん、非漢民族系であると考えられている。また、時代は下って、紀元前220年~同80年の三国時代(魏・呉、蜀)には、江南地方には呉が建国されていて、呉も越人の国であった。

さらに、『魏志倭人伝』には、倭人が海中で鮫等の襲撃から身を守るため文身(刺青)をしていると記録されているが、江南地方の越の人々も鮫等の襲撃から身を守るため、倭人と同様、文身(刺青)をし、海中に潜って漁をしていたことが確認されている。なお、『魏志倭人伝』には、末盧國(現在の佐賀県松浦郡に推定)で、海に潜って漁をする人々の姿が記録されているが、西海地方にはいまなお、海人による潜水漁が伝えられている。

◎中国の東方憧憬信仰と日本の「徐福伝説」

徐福という方士(道士)が、中国を統一した秦(紀元前778年~紀元前206年)の始皇帝に対して、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述が、司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』にある。日本側からみると、これがいわゆる「徐福伝説」で、有明海沿岸各地に徐福伝説が残されている。なお徐福の来訪地といわれるところは、日本の各所にある。

この伝説を素直に読めば、中国から東方に向けて、3000人が移住したわけで、東方とは日本列島であると推定される根拠がある。すなわち、中国側から「徐福伝説」を読み解くと、中国に古くから伝わる「東方憧憬信仰」の1つだ考えることが自然である。東方に方士を差し向けたことは、始皇帝が最初ではない。

古代中国では、東方に理想郷もしくは不老不死の国があるという東方憧憬信仰が、秦の建国以前から信じられていた。周代(紀元前1046年頃~紀元前771年)に、倭人と越人が交流し、倭人が暢を貢いだことが、後漢代の江南の学者王充の『論衡』にある。暢(草)とは神聖な祭事に欠かせない薬草もしくは神酒だといわれている。暢を東方の倭人が貢いだという情報が、東方憧憬信仰の形成要因の1つとなった可能性もあるし、併せて、江南地方と倭の交易ネットワークが、周の時代には整備されていたとも考えられる。

◎「家船」と「蛋民」

西海地方に近年まで残っていた家船(えぶね)といわれる水上生活者の存在を、中国南部の水上生活者(=「蛋民」)と比較する研究も進められている。蛋民研究も西海地方と江南地方を結びつける手掛かりの1つだと考えられている。

◎水稲栽培は中国江南地方からこの地にもたらされたのか?

いずれにしても、西海地方は、日本列島における弥生文化の最先端地域の1つだった。ならば、西海地方における稲作技術の受容については、どのような状況であったのだろうか。

稲作技術の流入経路としては、①華北説、②華中説、③華南説の3説がある。①は、大陸文化流入の「朝鮮半島ルート」に、②が「江南ルート」に、それぞれ対応する。③は柳田国男が唱えた「海上の道」説で、中国広東省から台湾~南西諸島(沖縄)を経て南九州に入ったとするルートであるが、今日の学会では支持者は少なく、稲作流入でも、②華中説=「江南ルート」が主流である。

日本最古の水田址遺跡は特定されていないが、弥生時代前期初頭の水田遺構は、福岡平野の板付遺跡や野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等で発見されている。また、縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。いずれにしても、稲作関連の遺構は、西海地方からの発見ではない。近年の研究では、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが、紀元前10世紀まで遡る可能性を指摘する。

[2]遣唐使と西海地方

時代はくだって、中国に強大な唐王朝(618年~907年)が成立。倭国はこの文化先進国から学問・政治制度、技術等を学ぶため、遣唐使を派遣した。彼らが唐に向かう遣唐使船は、西海地方の美美良久(みみらく)=福江島三井楽から出航した。西海地方は、奈良・平安時代における大陸・東シナ海世界の一環にあった。

[3]倭寇が跋扈する海域

中世になると、中国江南地方、朝鮮半島南部海岸地域、済州島、壱岐・対馬、西海地方を含めた海域は、倭寇が勢力を振るう圏域となった。倭寇とは同海域において、漁撈、交易、海賊行為を行った人々の総称と考えられ、必ずしも倭人とは限らない。倭寇は国家統治や国境を意識しない自由な民であり、まさにグローバルに経済活動を行った集団だった。

[4]近世、大航海時代と西海地方

中世末(1543年)、ポルトガル人が種子島に漂着して以降、日本は大航海時代の西欧世界と接触を開始した。1570年には長崎が開港し、1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にやってきた。16世紀なると、西海地方は、日本が産する銀を求めるスペイン、ポルトガルが行う世界貿易の一環に組み込まれ、世界貿易と同時にキリスト教(カトリック)が西海地方に伝えられた。キリスト教布教の本格化とともに、長崎、平戸、五島列島、天草地方等々に教会、聖堂が建設されたりしたが、秀吉によって「禁教令」が発せられ、キリスト教は弾圧対象となった。以降、長崎は江戸幕府の鎖国政策の中にあっても、朝鮮貿易、オランダ貿易の日本で唯一の窓口=世界貿易港であり続けた。

本書によって、西海地方は、古代から近世に至るまで、日本列島内において、最もドラスティックに海外と接触を続けた地域であったことを知る。

2010年6月8日火曜日

お揃いの

@Yanaka

廃墟か



しばらく前に火事のあったところ。

道路沿いの建物が撤去されたため、隠れていた焼け跡が出てきたようだ。

火事があってから、少なくとも、半年は経っているはずだけど・・・

@Yanaka

2010年6月7日月曜日

巨大サボテン

@Yanaka

『1Q84』

●村上春樹[著]    ●新潮社   ●Book1~2 1800円 Book3 1900円(いずれも税別)





民主党のトップ二人が辞任した背景に何があるのか、実際のところはわからない。参院選に向けたイメージチェンジだというのが一般的見方だ。おそらく、その解釈で正しいのである。がしかし、どうにも不自然ではないか。

政権交代後の民主党を追い込んだのは、検察とマスコミが一体化した、鳩山と小沢に対する執拗な追及であり、追求の大義名分は“政治とカネ”だった。とりわけ、小沢一郎に対する検察とマスコミの追求は常軌を逸していた。小沢一郎という政治家は大衆に理解しにくいところがあるといわれるし、いかにも強面で、裏がありそうに見える。小沢一郎の顔が嫌だという人もいる。

危険なベストセラー『1Q84』

ところで、再び『1Q84』である。昨年、Book1~Book2が超ベストセラーとなり、今年の4月に続編のBook3が刊行された大作である。同書に関しては様々な解釈がなされているものの、天吾という青年と青豆という「殺し屋」の女性との純愛が大筋を構成するという見方に異論は生じないだろう。しかし、純愛というテーマでは割り切れない危険な要素が、この小説には散りばめられているように思う。フィクション、伝奇物語、現代の御伽噺・・・ではすまされない。とりわけ、BOOK3において、大きく扱われる牛河という私立探偵(調査員)に係る作者(村上春樹家)の人物像の付与については、看過できないものがある。

物語は、青豆がある謎の老婦人の依頼を受け、「さきがけ」という教団のリーダーを殺害(リーダーは自殺したとも解されるが)したところから大きく展開する。(「さきがけ」はオウム真理教を、そして、そのリーダーは麻原彰晃をイメージさせるが、そのことは物語の大筋に関与しない。)

教団のリーダーの抹殺を青豆に依頼した老婦人については、DV被害女性を救済するためには何でも実行する謎の大金持ちという設定である。この老婦人は、教団のリーダーが何人もの少女を淫行しているという疑いをもち、少女たちを守るため、青豆に殺害を依頼したことになっている。青豆はリーダーの殺害にいちおうは成功するが、その結果、教団から追われることになる。

牛河については、教団側が青豆の居場所を探すために雇った調査員という設定である。作者(村上春樹)が牛河に付与したキャラクターは、以下のとおり。
外見において、牛河は例外的な存在だった。背が低く、頭が大きくいびつで、髪がもしゃもしゃと縮れていた。脚は短く、キュウリのように曲がっていた。眼球が何かにびっくりしたみたいに外に飛び出し、首のまわりには異様にむっくりと肉がついていた。眉毛は濃くて大きく、もう少しでひとつにくっつきそうになっていた。それはお互いを求め合っている二匹の大きな毛虫のように見えた。学校の成績はおおむね優秀だったが、科目によってむらがあり、運動はとにかく苦手だった。(P250)
醜い少年は歳月の経過とともに成長して醜い青年となり、いつしか醜い中年男となった。人生のどの段階にあっても、道ですれ違う人々はよく振り返って彼を見た。子供たちは遠慮なくじろじろと正面から彼の顔を眺めた。醜い老人になってしまえばもうそれほど人目を惹くことはないのではないかと、牛河はときどき考える。老人というものはたいてい醜いものだから、・・・(P254)


ここに挙げた牛河に関する描写は、同書中のごく一部にすぎない。このような描写がしばしば繰り返される。「彼を見た者のだれもが嫌悪を抱く」と、作者(村上春樹)はこの小説中、執拗に何度も何度も繰り返して、その醜さを強調する。なぜ、牛河の醜さがこうまで、強調されなければならないのか、最初のうちは理解しにくい。

牛河は、物語の終幕近く、彼が青豆の居場所を発見する寸前、青豆の雇い主である謎の老婦人が差し向けたタマルというボディーガードに殺されてしまう。醜悪な牛河の手によって、青豆が教団に差し出される寸前、牛河がタマルによって窒息死させられる場面には、多くの読者が拍手を送り、快感を覚えたに違いない。

ボディーガード・タマルのキャラクターは、完璧な仕事人で、青豆を助けるためにあらゆる援助を惜しまない者であり、肉体的にも精神的にも美しいゲイである。タマルは、拳銃、食料、衣服等々青豆が逃走するに必要な物品の調達から、隠れ家の手配、そして、ついには、青豆や老婦人を脅かす調査員(牛河)の抹殺まで、ありとあらゆる仕事を完璧にやってみせる。いわゆる、その道のプロ(殺し屋)だ。たとえば、イスラエルの特殊部隊(モサド)を髣髴させる。

『1Q84』の第一の特徴は、美と醜の二元論が貫徹している小説であることだ。「美」に属する者は、青豆、天吾、謎の老婦人、タマル、フカエリであり、「醜」は、牛河、天吾の父親(NHKの集金人)、青豆の母親(証人会という信仰宗教の信者)であり、天吾の下宿の住民であり、その他諸々の生活者たちだ。

第二の特徴は、「正」と「悪」が倒錯した世界であることだ。青豆がDV被害女性救済のため、謎の老婦人に雇われた殺し屋であることは既に書いた。それはそれで、マンガであるのだから、問題とするに及ばない。しかし、青豆が教団のリーダーを殺害(リーダーは自らが殺されることを容認していたとしても)したことは、錯誤による殺人であって、老婦人、青豆に義はない。さきがけ教団のリーダーは、淫行犯ではなかったのだから。

リーダーを殺された教団がその犯人=青豆を捕らえようとすることは当然の措置であり、義は教団の側にある。青豆は錯誤によって無益な(物語上は極めて重要だが)殺人を犯した者にすぎない。教団が警察を恃まずに内々で殺人犯をとらえるため、私立探偵(=牛河)を雇うことも当然(義)であり、牛河が青豆を追いかけることも当然(義)だ。

ところが、牛河は、その醜さゆえに、義をもたない側、錯誤に基づいて教団のリーダーを抹殺した側=老婦人(その代行者タマル)によって、逆に殺害されてしまう。青豆は牛河の殺害に直接関与していないとはいえ、青豆が天吾との純愛を追求するという利己的欲求のため、青豆を追いつめんとした牛河を死に至らしめたことは明白だ。牛河を殺したのは、謎の老婦人に司直の手が及ぶことを阻止しようとしたタマルによってであるが、牛河を死に至らしめた主因は、前出のとおり、青豆の身勝手さ(純愛の貫徹の欲望)からだ。

読者は、村上春樹が周到に準備した毒素によって、醜悪な牛河が抹殺される場面に快感を覚え拍手をし、安堵する。正義と邪悪とが倒錯した世界が村上と読者の間で共有され、醜悪な者に対するスティグマが一掃されることを喜びあう世界が完成する。

前出のとおり、タマルはモサドをイメージする。パレスチナのテロが失敗と多くの犠牲を伴う反面、イスラエルが公然と行うパレスチナ人民に対するテロは完璧であり、モサド側の犠牲を伴わずになしとげられる。イスラエル、西欧及び米国からみれば、アラブ・パレスチナは醜悪であり、スティグマの対象である(オリエンタリズム)。

『1Q84』にはいろいろな解釈が可能のようであり、それぞれの解釈が文芸評論家等々によって開陳されている。しかし、牛河がタマルに殺害される箇所は、「美」が「醜」に対して、無条件に優位にあるという村上春樹の前提によって描かれた世界だ。邪悪と正義の倒錯が完成され、「醜」の抹殺、つまり、スティグマの解消が快感を伴って許容される世界だ。この牛河抹殺の箇所こそが、「村上ワールド」の完成の場面なのだ。スティグマを一掃するためには、理由も理屈も要らない、美しいものが醜いものを排除することが快い――という世界観が達成された場面にほかならない。

小沢排除に通じる『1Q84』の人間観

人々は、生活、倫理、法といった、面倒くさいものを日々払いのけたいと願い、美が醜に勝るという価値観をもって、そのとおりに、すなわち「自由」に、行動することを望む。「醜」なる者が唱える理屈(理論、仕事、作品)はその存在に規定されて「醜」であるに違いないと盲信し、スティグマを一掃する扇動に身を委ねたがっている。

これまで、マスコミは、小沢一郎の政策や理念をたった一行も報道しない代わりに、繰り返し、彼のイメージ(醜)に従って、報道の基準とした。マスコミは、小沢一郎を論理的・政治的にではなく、美醜の基準で抹殺した。と同時に、人々は、小沢一郎をその外見等々によって嫌悪した。彼の辞任(排除)に安堵し、彼の政治的退場に喝采を送っている。このことは、日本の言論界が「村上ワールド」そのものになっていることを意味しないだろうか。『1Q84』は極めて危険なベストセラーなのである。

2010年6月6日日曜日

W辞任

政権与党・民主党の代表(鳩山)と幹事長(小沢)の二人が同時に(W)辞任した。後任の代表は菅直人(現副総理)に決まった。国会での指名後、菅首相が誕生する。

辞任した鳩山首相の場合、普天間問題への取組み方及びその結論が不透明かつ不可解であった。取組み方、その結果導かれた結論は、国民の理解を得にくいものだった。しかし、普天間移転問題というのは、旧政権の場合、結論を十数年放置したままであったわけで、その間、那覇の中心街に米軍が駐留し基地を使用し続けていたわけであるから、自民党に批判する資格はないし、鳩山が移転を急いだことは間違っていない。

「移転」に反対する人はいない。沖縄に行ったことのある人ならば、普天間基地の危険性は自明のことである。移転先として、鳩山が「沖縄県外」と主張したことも間違っていない。沖縄にこれ以上基地負担を押し付け続けることは、公平性に欠ける。鳩山がその解決のために真正面から取り組もうとした姿勢に間違いはない。

しかし、結論を5月末に設定したこと、そして、代替地案の模索・公表の過程については、迷走以外のなにものでもなかった。さらに驚くべき事実として、日本中が、普天間の移転先であることを公然と拒否したことを挙げなければならない。沖縄の人々の基地負担を考慮するならば、公然と反対を唱えることを憚るのが一般的感受性だと思う。沖縄ならいいが、自分たちのところは困る、という主張は、公然たる沖縄差別にほかならない。そうした地域のエゴイズムについて、少なくとも、日本のマスメディア及び野党自民党は同調した。というよりも、受入れ拒否を公然と支持した。マスメディアと自民党は、「沖縄差別」を扇動した。そのことの深刻さを、国民の誰一人が感じていないことが情けない。

ご存知のとおり、辞任直前、鳩山は普天間基地の移転先を同じ沖縄県の辺野古と定め、米国と同意した。「最低でも県外」という鳩山の思惑は実現せず、自民党政権時代の「辺野古」に逆戻りした。このことが「辞任」の主因の1つだといっていいだろう。

不可解なのは、「辺野古」に逆戻りした言い訳である。鳩山の表現は、筆者にはよく理解できない内容だった。普天間に駐屯している海兵隊の一部はグアムに移動することが決まっている。残留が決まったわずかばかりの米海兵隊について、鳩山はなんと「抑止力」だと改めて“再定義”をしたのだ。それだけではない。鳩山は、「(そのことを)勉強しなおした結果、抑止力であることが改めて認識できた」と弁明した。この言葉は、鳩山の移転の意図を潰した“大きな力”の存在をうかがわせる。鳩山は挫折を余儀なくされた。

普天間基地移転問題は、本質の議論がないまま政局として大きく報道され、鳩山の“辞任”をもって終焉した。しかし、この一連の騒動を自然だと感じる人はそう多くはないと思う。普通の感性の人ならば、なんとも不可解・不自然な流れだと思うはずだ。その不可解さは、おそらくは、日米の力関係の帰結だと想像する以外に解釈のしようがない。

この問題に関する日本のマスコミ報道を振り返ると、米軍駐留の本質に係る議論は一切なかったといっていいすぎでない。日米同盟のあり方、米軍の駐留の是非、日本の防衛のあり方・・・基地問題=沖縄問題の解決とは、日米関係そのものを問うところから始めなければならなかったはずなのだが。

一方、鳩山が意図したであろう(と想像する)普天間移転問題の解決プログラムは、国民の総意として、米軍の駐留を拒絶する情況をつくりだすことではなかったか。鳩山は米軍の駐留を拒絶すること=米軍基地なき日本国の実現に向け、その第一弾として、普天間問題に着手しようとしたのではないか。普天間問題とは、「駐留なき同盟」を実現する第一歩なのだと。鳩山が「抑止力について勉強する前」、すなわち、昨年の総選挙までは、「(普天間問題は)少なくとも(沖縄)県外」だと公言していたことから、そのことは十分想像がつく。

前出のとおり、鳩山の最終目標は、「(米軍の)駐留なき(日米)同盟の(実現)」だったように思う。彼は手始めに沖縄の普天間基地を県外に移転させ、そのことによる、国民的支持――対等な日米関係を待望するナショナリズムの台頭――をもって、駐留なき同盟の実現のための足元を固めたかったに違いない。鳩山は、そういう意味で、ナショナリストなのである。ところが、鳩山(政権)は、かつて鳩山同様に対等な日米関係の実現に向けて暴走し崩壊した、細川政権と同じ道を歩んだ。細川(当時首相)の後ろにいたのが、鳩山とともに民主党幹事長職を辞した、“小沢一郎”その人であることは偶然ではない。

民主党政権誕生後から今日まで、鳩山と小沢の二人に対しては、検察とマスコミによる、執拗なまでのネガティブキャンペーンが続いた。細川の場合も、政治とカネのスキャンダルが騒がれたし、それと同様の手法として、田中角栄の失脚(ロッキード事件)も思い出される。田中角栄が首相のとき、彼は米国と厳しく対立した。そのことは、このコラムで何度も書いたので繰り返さない。

田中、細川、そして鳩山・小沢が政権の座を追われた構図は、それぞれの政治信条やイデオロギー、対立する団体等々の動きとは関係していない。民主党政権の誕生によって、たとえば、国民生活が著しく不安定化したとか、増税があったとか、景気が後退したという現象は生じていない。鳩山と小沢の退陣は、「政治とカネ」という国民の間に生じたスティグマ(嫌悪感)による。しかも、その嫌悪感は、マスコミによって誘導された「民意」によっている。小沢に対する嫌悪感とは、検察とマスコミから一方的に流される「報道」によって醸成されたものであって、国民(生活)の危機(感)からではない。

マスコミの攻撃を受けた3人の首相(及び小沢)に共通点があるとしたら、ただ一点、彼らがともに“米国離れ”を志向した政治家であった、ということだけだ。

2010年6月4日金曜日

スッポンだ



根津神社の池にスッポンがいた。カメかと思ったけれど、甲羅が違うように思うが。

捕獲されて食べられないことを祈っている。

2010年6月3日木曜日

猫の喫茶店

@Yanaka

2010年5月31日月曜日

小道



日暮里駅西口から谷中霊園に入る階段を昇ると、桜並木の小道がある。お彼岸や桜の咲く時期はお墓参りの人や観光客で騒々しいが、いまは人通りも少なく閑散としていて、歩くと気分がいい。

小道を進むと、天王寺に突き当たる。

猫町

@Yanaka

2010年5月30日日曜日

新緑の候


@Yanaka

2010年5月29日土曜日

疲れた

昨晩は、夕方の6時半から、谷中のY通りの居酒屋「T」、少し離れたH小路の韓国人ママの居酒屋「M」にて、12時半ころまで痛飲。

旧友のS氏のW杯南ア取材の壮行会である。

「M」の韓国人ママは日本語がまだまだで、おそらく、会話の半分くらいは理解していない可能性もあるが、明るく気さくな人である。カラオケが好きで、歌い方に迫力がある。

どういう経緯で言葉の分からない異国にあって、しかも、H小路という、ほんとに“どん詰まり”みたいなところで、居酒屋を始めたのか知る由もないのだが、とにかく、店がうまくいくことを祈っている。

きょうはそんなわけで、水分の取りすぎによる下痢ぎみだったけれど、いつもの時間にスポーツクラブへ。汗をたっぷりかいて、気分転換を図るつもりだった。しかし、あまり力が出ない。考えてみれば、6時間も飲んだり食ったり話したり歌ったりしたわけだから、疲れていてあたりまえか。

2010年5月26日水曜日

『玄界灘の島々(「海と列島文化」第3巻)』

●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6627円(税込)

本書が取り上げる主な地域は、対馬、壱岐、沖ノ島、鐘崎(福岡県宗像郡玄海町)等である。そこは日本列島とアジア大陸・朝鮮半島の境界でもある。

■韓国から見た対馬、壱岐

アジア大陸から日本列島にいたる経路は、『魏志倭人伝』にあるとおり、朝鮮半島の金海(狗邪韓国)から海路で対馬~壱岐(一支国)を経て九州北部に入ったようだ。当時、北九州には、「末盧国」(佐賀県松浦)「伊都国」(福岡県糸島郡)「奴国」(福岡県博多)などがあり、その先に女王卑弥呼が統治する「邪馬台国」があると記されている。この記述は、朝鮮半島から島伝いに日本列島の中心(当時)に向かう安全かつ最短の順路であったと思われる。なかでも、対馬、壱岐は海路の中継地点として、重要な存在だった。当時、倭国より先進地域であった中国、朝鮮から、ヒト、モノ、情報、カネなどが、この地域を媒介して、倭国にもたらされた。

本書の諸論文中、「玄界灘に残る韓国文化」(任東権/イムドンクォン[著])が、朝鮮から見た対馬・壱岐の典型的認識を示す論文だと思われる。イムドンクォンによると、人類の移動は、寒冷地から温暖地へと向かうものだという。それが自然過程なのだと。このことは、一見自然のようだが、民族の正統性が「北」にあるというイデオロギーと不可分のものでもある。韓国人の常識には、日本列島の北に位置する朝鮮から南へ、すなわち、寒冷な朝鮮半島から、温暖な日本列島に向けて、民族移動があったはずだという前提があるようだ。

モンゴロイドの起源を特定することは不可能であるものの、彼らが地球の寒冷期への突入と同時に、北から南へ移動を開始した可能性は高い。しかし、歴史時代になると、人間集団(民族)の移動は、気候的要素に一元化できるものではない。朝鮮半島の住民が、対馬、壱岐を経て、日本列島に移動し定着したとはいい難い。しかし、朝鮮半島と日本列島が、もちろんその住民同士が活発に交流したことはまぎれもない事実である。同論文にあるとおり、韓国起源の山神信仰が対馬に残されているのは、明らかに、韓国からの影響であり、ヒトの移動を伴っていた。また、漂流神、天道(天童)信仰、檀君信仰等も、朝鮮半島~日本列島に広く分布する。海の正倉院といわれる沖ノ島には、中国・朝鮮を原産地とする遺物が多数奉納されており、古代のある時期、大陸文化が日本列島に一方的に流入した事実を否定しようもない。

地名についてみると、壱岐の全地域にいまも残る、「触(フレ)」のつく地名は、韓国語の古語の「村」を意味する、パル、パラ、ピレ、ヒラを起源とするのではないかという指摘も興味深い。

韓国語の古語と日本語の関係でいえば、対馬において、海神神社(いわゆる海神系の神社)に関するイムドンクォンの指摘に注目したい。日本においては、「ワタツミ」は、海神、和多都美と表記されるが、「ワタ」は“渡る”の意で、韓国語のパダ(海)に由来すると解されるという。つまり、日本の海神神社の起源は、朝鮮からの渡来神を起源としていることが、海神(ワタツミ)の語源から推察できるというわけだ。さらに、対馬にある海神神社は、海岸または海が臨める小高い丘の上に存するのであるが、そのことは、かつて海を渡ってきた人々の上陸地点か、または、定着した後に、故郷を臨める地点に信仰の中心地が建設された、と推測するのである。

■移動する海人

現代の漁業従事者というのは、港近くに居を構え、船にのって漁を行い、獲れた魚を販売することで糧を得る、いわゆる定住者のイメージが強い。家庭~港~出漁~帰宅というパターンである。ところが、「鐘崎と海人文化」(伊藤彰[著])を読むと、そんな漁民=定住民のイメージは吹き飛ぶ。海人の移動は「アマアルキ」といわれ、彼らは、「より良好な漁場があり、周辺に海産物を求める農村があり、そして領主の入漁保証と小屋掛けするだけの海辺の土地供与があればどこでも移住の対象地となった」(P396)という。鐘崎海人と隣接する大島海人(筑前)の分村は、瀬戸島(島根県)、夏泊(鳥取県)、輪島(石川県)に至っている。海人とは、「移動する民」なのである。彼らが漁業従事者であると同時に、海の軍事(海軍)を担う民であったことはいうまでもない。

ほかに、中世鎌倉時代から江戸時代に至るまで、日本の朝鮮外交を専門的に担ってきた、 宗氏の存在も忘れてはならない。

2010年5月24日月曜日

『1Q84 BOOK3』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●1900円(税別)

本書BOOK2において、落雷と激しい雨の降る日、青豆はさきがけ教団のリーダーを殺害し、天吾を守るために自らの命を絶つ(はずだった)。一方、そのとき、天吾はリーダーの娘・フカエリと性交をした。その後、天吾は入院している父親の病床で、空気さなぎのなかに横たわる青豆の姿を幻視した。

BOOK3では、青豆は自殺せず、天吾の子を身籠って、生き延びていた。彼女は黒幕であり彼女の雇い主である老婦人らが考えた、教団の追跡を逃れる計画を変更し、天吾を見た高円寺の小さな公園の近くのマンションに潜伏する。そこで、日夜、ベランダから公園の監視を続け、天吾が現れるのを待つ。思わぬ展開である。読者は青豆が自殺することが必然だと感じていたはずだ。天吾と青豆が高円寺で接近するような展開を予想していなかったはずだ。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2にて拡散した物語全体が縮小され、その舞台は、天吾が住み、青豆が潜伏する高円寺という町と、天吾の「父」が入院する「猫の町」の二箇所に集約される。そして、天吾と青豆の接近を媒介するのが牛河という、さきがけ教団に雇われた調査員である。牛河については後述する。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2の「落ち」とも思える、リーダーの殺害~天吾の救済~青豆の自殺という設定が全否定され、荒唐無稽な展開を見せる。しかし、作者(村上春樹)が、これまで無秩序に拡散してきたイメージの集約化を意図しているのであろうか、説明・解説的記述が増えた分、全体がとても落ち着いた感じになっている。

この小説は伝奇的エンターテインメントであって、歴史(時代)、社会のあり方、権力の核心構造等の解明を意図したものではない。作者(村上春樹)がインタビューで述べているように、思春期、生活過程において、疎外された男女(天吾と青豆)の純愛を軸としている。天吾はNHKの集金人を父に、そして青豆は、新興宗教の熱心な信者の母をもつ。天吾は集金に、青豆は布教のための戸別訪問に同行させられたことになっている。このことは、思春期の二人にとって屈辱であり、理不尽このうえなかった。そんな二人があるとき啓示的な愛に打たれる。この小説の出発点は、二人の啓示的純愛であり、それを盛り上げるために、作者(村上春樹)の中に蓄積された様々なイメージが盛り込まれているにすぎない。

それはそれでかまわないのであって、面白くて読者が楽しめればいいのだが、純愛とアイロニーを描いた『春の雪』をスタートに、日本の近代史の核心を突いた、三島由紀夫の『豊饒の海』に及ばない。三島由紀夫と村上春樹の同質性はたびたび指摘されるところだけれど、『1Q84』3部作と『豊穣の海』4部作を比較するならば、エンターテインメントの質、作品の構想力(スケール)、時代を射抜く勢い(パワー)において、三島作品のほうが勝っている。

蛇足だが、作者(村上春樹)が、牛河という調査員の外形を、かくも必要以上に異形に描くことに違和感を覚えた。牛河という調査員は、過去に理想的家庭生活を営みながら、わけあってそこから離脱を余儀なくされ、人から軽蔑されるような下種な調査員に身を落としている男と設定されている。彼は、俗にいうところの「左脳」人間であって、地道に資料を集め、人に会って裏を取り、執拗なまでに時間をかけ、依頼された仕事を完成させようとする。牛河が導く結論は分析的であり、計算づくである。そして、その外形は、なぜか、恐ろしく醜い。なぜ醜くなければならないのだろうか…

本書の登場人物において、「牛河」の側に属すのが、NHKの集金人の天吾の「父」であり、新興宗教の熱心な信者の青豆の「母」だ。天吾の「父」は自分を裏切った妻が産んだ天吾を男手一つで育てたことになっているのだが、そのことは読者には明らかにされるものの、天吾に告げられることがない。天吾の「父」の集金人としての働きぶりは実直であり、それが滑稽に通じ、結果として不細工であるかのように描かれる。しかも、天吾の「父」の集金の仕事ぶりは常軌を逸していて、昏睡状態で寝たきりの「父」の魂は幽体離脱し、潜伏する青豆らを脅す。そればかりではない。「父」が火葬にふされるとき、NHKの集金人の制服を着ることになるのだが、それは真面目な生活者の滑稽さを揶揄したもののように思える。NHKの集金人を肉親に持つ人々は、本書のこの場面をどうのように受け止めたことであろうか。

その一方、青豆・天吾はもちろんのこと、青豆の黒幕である老婦人、老婦人を守るタマル、そして、フカエリは身体的に美しく、シェイプアップされ、生活臭を帯びず、すっきりとしていて、テンポのよい俗にいうところの「右脳」人間になっている。彼らには実生活、労働、人間関係、家族関係、倫理、法・秩序の煩わしさが感じられず、臭いすらない。天吾が寝たきりの「父」を入院先の病院に長い間見舞い、結局、「父」の死に遭遇するのであるが、それでも、天吾と「父」の関係は、実生活上の肉親の死に遭遇した者が迫られる状況とは異なっている。

前出の牛河は、老婦人に雇われている美しいゲイの殺し屋であるタマルに殺害される。この場面は、ナチスドイツがユダヤ人虐殺と同時に行った、身障者迫害を連想させる。肉体的に美しい「優性民族」が、劣性とされる民族や、ハンディキャップを負った人々を排除するのである。牛河がタマルに殺される場面は、牛河が青豆やその黒幕の老婦人を危機に陥れるから殺害されるのではなく、彼が醜い外形であるが故に、抹殺されるかのように受けとめられる。作家(村上春樹)の小説上の排除の傾向は、いくらフィクションの世界であっても、安易に容認されるべきではない。

物語の終幕、天吾と青豆が「1Q84」の世界からの脱出に成功し、“こちら側”で結ばれる。それは、ハッピーエンドを示唆するが、もちろん、“BOOK4”が書かれたとき、このハッピーエンドがひっくり返される可能性はある。とにかく「何でもあり」なのが村上ワールドなのだから。4部作となるかどうかはもちろん、わからない。

何年か経ったとき、2010年にこの3巻の小説が異常に売れたことを覚えている人は、あまり多くはないだろう。

2010年5月23日日曜日

『ルポ 貧困大国アメリカ 2』

●堤未果[著] ●岩波新書 ●756円

本書は、米国社会の実相ルポの第二弾だ。第一弾は、アフガン・イラク戦争、サブプライムローン破綻、リーマンショック下の、そして、本書では、オバマ大統領誕生以降の、米国の姿が扱われている。

前書では住宅ローン破綻で家を奪われた人々や、借金苦の若者が「対テロ戦争」にかり出されていく構造が報じられたが、本書では、国民皆保険制度に反対する医産複合体(保険業界、医療業界)のロビー活動の結果、病人が高額な債務を背負わされるプロセスや、債務者が戦争に行く代わりに刑務所に放り込まれ、刑務所で強制的低賃金労働に従事させられる実態が明らかにされている。まったくもって、信じられない話だ。

米国で生活をしたことがない者には、本書が米国の「真の姿」であるのか、誇張された「虚の姿」であるかは断じるすべがない。だがそれでも、筆者は本書を信じる。なぜならば、その内容が、日本のマスコミがこれまで意図的に報じてこなかった米国民の悲惨な姿だと推測するからだ。筆者は、21世紀の米国社会とは、富めるものと貧なるものが固定化した、強固な階層社会だと確信する。また、米国=豊かな中産階級国家という神話が崩壊したことをも確信する。この神話は、日本が米国との戦争に敗れた後、1960年代を通じて日本国民に刷り込まれた“情報”だった。

米国に逆らってはいけない、米国は自由主義の旗手であり、自由主義に基づく理想の国家なのだ--というのが日本の国家権力及びマスコミの共通認識であり、そのようなメンタリティーの下で、「日米同盟」は維持されてきた。米国のありのままの姿を日本国民に知らせないことが、日本の権力者とその同伴者たるマスコミの情報戦略だった。そしてそのことは、いままさに普天間問題報道で維持されている。

本書を読む限り、かつての“栄光の米国中産階級”はとっくに二極分化過程を終え、極端な富者と極端な貧者に分断・固定化されてしまっている。そのことをなぜ、日本のマスコミは報じないばかりか、“自由なアメリカ”“アメリカンドリーム”を喧伝し続けるのか。

米国の一般的学生が学費ローンの「蟻地獄」に取り込まれるプロセスが本書に詳しい。米国の若者は、有名大学を卒業しなければ、「まともな就職」ができない、という恐怖に陥っているようだ。そうでなければ、薄給(時給)の外食産業従事者、不安定な非正規労働者にしかなれないことを知っているからだ。このあたりの事情は悲しいかな、日本は米国に近づいている。

若者は高額な学費を必要とする有名私大に入学するため、学費ローンを組む。ところが、超エリート大学には最初から、入学できない仕組みになっている。米国の超エリート大学とは、たとえば、“アイビープラス”と呼ばれる(ブラウン、コロンビア、コーネル、ダートマス、ハーバード、プリンストン、ペンシルバニア、イエールの“アイビー”に、マサチューセッツ工科、スタンフォード、デューク、シカゴ、カリフォルニア工科、ジョンズ・ホプキンスを加えたもの)。この“アイビープラス”には、いくら優秀でも、裕福な家庭の学生以外は、入学できないといわれている。その理由は公表されていないが、大学側が、大学施設を維持するために必要な寄付金を入学者に期待しているからだろう。

超エリート大学への入学の道を不本意にも閉ざされた中産階級以下の大量の学生たちは、次のクラスの大学に入学せざるを得ない。そこで彼らは、卒業後に高額な年収を得られるという見込みのうえで学費ローンを組む。しかし、実際には卒業後の彼らにまともな職はない。とりあえず、仕方がないので、低額時給のファーストフード業等に従事し食いつなぐ。彼らの低い収入では当然、学費ローンの返済は滞ることになるから、借入利子が膨らんで、不良債務者に転落していく。

だが、そうなれば、学費ローンを学生に供給したローン業者も大量の不良債権を抱え込んで経営が立ち行かなくなるのではないか・・・と思うのだが、ここに米国が掲げる「金融立国」の問題点が潜んでいることがわかる。

米国では学費ローンは、公的セクターが担ってきたが、いつの間にか民営化されていた。学費ローン企業は、“債権の流動化”と称して、学生に貸し付けた債権を傘下の債権回収業者(サービサー)、債権取立て代行業者等に売り払う。債権の流動化というのは、日本でも古くから行われていて、たとえば手形の割引や、借金の取り立て代行などが該当する。100万円の借金の取立てができなくなった債権者が、回収ゼロよりは…という思いで、それを専門業者に50万円で売り払う。債権を引き継いだ専門業者が債務者から50万円以上を取り立てれば、その分が利益となる。利息を計算すれば、100万円の債権はたとえば200万円くらいに膨らんでいることもあるかもしれないから、サービサー等が利息を含めた借入額全額を回収できれば莫大な利益を得られる。

米国の学生が借り入れを返済できなくなった学費ローンの利子を含めた総額は、時の経過とともに額面上は莫大な(債権)額に膨らんでいるわけであるから、それをサービサーが次から次へと転売(=流動化)していくことにより、架空の(未実現でありながら利息計算上の)利益を得られるように見える。典型的な「ババ抜きゲーム」だ。債務者である学生には、過酷な取立てが行われる一方で、流動化の出口でババを掴んだサービサーは当然破綻する。サブプライムローンと同じ結果だ。学費ローンの未実現の債権はいろいろな金融商品に織り込まれているから、証券を購入する投資家には見えない。それがどこかで破綻すれば、一気に金融危機がやってくるというわけだ。

学生が過剰な学費ローンを組むからいけないのだ、というかもしれないが、高校を卒業したばかりの若者には、大学進学以外に職を得る道がないと思うのは当然だし、将来、ローン返済が不可能になるとは思わない。ナイーブな若者を食い物したローンビジネス=債権流動化(証券化)ビジネスが諸悪の根源にある。

さて、本書がささやかながら伝えているのが、“オバマ大統領の真実”だ。就任当初7割という支持率から比べれば、現在5割に支持率は落ちたというものの、およそ半分の米国民はオバマを支持している。50%という数値は、オバマが“貧困大国アメリカ”の救済者なのか、所詮はブッシュと同じ、富者のための大統領なのかについて、米国民が判断しかねていることを表しているようにみえる。大統領選挙前から、3割はオバマを社会主義者だとして支持しないリバータリアンだろうから、オバマに期待した国民のうちの2割が彼を見切ったことになる。

この先、オバマの支持率は更に低下するであろうし、おそらく、米国の貧困も改善されないだろう。よしんば改善されたとしても、「××バブル」のおかげだろう。日本国民は、そんなオバマの米国をまだ信奉し続けるつもりなのだろうか。

2010年5月15日土曜日

読書の整理

2010年3月以降、今日まで、『海と列島文化3-玄界灘の島々-』『エクリチュールと差異-下』(ジャック・デリダ[著])『1Q84book3』(村上春樹[著])を読了。

いま、『貧困大国アメリカⅡ』(堤未果[著])を読み始めた。すぐ読み終えるだろう。

2010年5月5日水曜日

GW終了

GWが終わった。

久々に日本で過ごした。

拙宅界隈は、観光客で大賑わい。

相変わらずの「下町ブーム」のようである。

2010年5月3日月曜日

復活

風邪が完全に抜けたとはいえない中、スポーツクラブへ。

病み上がりということで、「軽め」のはずのトレーニングが、結構厳しい。

とりわけ、スクワットがきつかった。

家に帰り、昼寝から目覚めると、風邪が抜けた感じ。

いつまでも「病気」の意識がかえって、「病気」を長引かせていたのかもしれない。

2010年5月2日日曜日

教会


@Nezu

スターリンの亡霊



旧共産圏の東欧には、支配者だったソ連や、その権力者・スターリンを揶揄する定番のジョークがあった。

“この街で一番の景色を見るとしたら、どこがいいのかね?”

“そりゃあ、あの塔の上が一番さ”

“どうして・・・”

“だって、あの塔が絶対に見えないじゃないか”

往時、東欧を支配したソ連は、東欧各国の主要都市に高い塔や無骨な高層建築物を建てまくった。この手のジョークは、それがいかに醜く、東欧の歴史的街並みにそぐわないものであったかをいまに伝えるものの1つだ。

さて、「東京スカイツリー」である。筆者は、この鉄の塔の存在を忌々しく思っている。東京の街並み、とりわけスカイラインは破壊尽くされ、いまさらスカイツリーが建てられたとしても、美観に影響を及ぼさない、といえるかもしれないが、筆者の拙宅の窓から見えることが気に入らないのである。

幸いにして、日本で一番高かった東京タワーは拙宅から絶対に見えない位置にあるので気にならない存在だが、スカイツリーは嫌でも、ベランダの真正面に聳え立つ。それは、不気味な墓石のようにも、また、壮大な無意味さ、虚無のようにも映る。

さて、20世紀の到来を記念して、パリにエッフェル塔が建てられようとしたとき、パリ市民の多くが反対をした。しかし、時の経過とともにエッフェル塔はパリを代表する建築物になった。古いものを守ることも大事だが、新しいものを受け入れることも大切だといわれる。それが、生活に必要な電波環境の向上のために必要なのだから、高い塔を建てることは必然なのだと説明される。パリにエッフェル塔が必要だったように、東京にも、いま、スカイツリーが必要なのだと。

科学に無知な筆者には、「東京タワー」が無用になった理由が分からない。エッフェル塔が電波塔なのかどうかもわからないのだが、パリに2つも塔はないし、新しく建てる計画も聞いたことがない。ニューヨークやロンドンにはあるのだろうか、なぜ、東京には、2つもの高い電波塔が必要なのだろうか・・・

筆者には、だから、スカイツリーを観るたびごとに、日本には、「日本型スターリン」が存在しているのだと確信している次第である。

2010年5月1日土曜日

不覚にも



GW前に風邪を引いた。

風邪を引いたのは何年ぶりかのこと。

調子がよかっただけに誠に残念。

家でゴロゴロして休養するしかない。




@Yanaka

2010年4月27日火曜日

都市の詩学(その3)



都市にあって、古さ(歴史)は重要。

敢えて新たに「古いもの」をつくることがある。

それが「洋風」であることの是非は問わない。

2010年4月26日月曜日

都市の詩学(その2)



芸術作品が歩道や広場に設置されることがある。

行交う人々の「心」を芸術的に「高める」ためなのだろうか。

2010年4月25日日曜日

都市の詩学







東京・丸の内の再開発がほぼ完了したようだ。

日本の大財閥・M地所がその威信を賭けて取り組んだ事業だ。

整備された道路の両側には、欧州の高級ブランドショップが配され、歩道には芸術作品が配置されている。

美術館もあるらしい。

町並みのイメージは、欧州の新市街というよりも、シンガポールのオーチャードストリートに近い。

建物がどれも高層ビルだからだろうか。

2010年4月5日月曜日

眩暈

夕方、事務所で、急に眩暈がして足元がふらついた。

やばい。理由は不明。

帰宅途中、慎重に、地下鉄のホームの縁を歩かないように、ゆっくりと歩いた。

自宅に戻り、グルタミンを摂取し、夕食をゆっくりとったら、平常に戻った。

ふ~。



やっぱり年か・・・

2010年4月4日日曜日

猫の寺


@Yanaka

満開



桜が満開。谷中霊園にも花見客がたくさん訪れた。

2010年3月21日日曜日

文豪居住の跡







所用で上野に行き、池之端から根津を経て帰宅した。

徒歩で2時間弱である。

路地に桜草が咲き乱れていた。

2010年3月7日日曜日

ASAKUSA

所用で浅草へ。何年ぶりだろうか。筆者は十数年前まで、正月といえば知人と浅草寺に集まり、初詣を欠かさなかった。ところが、そんな集まりも自然に解消され、以来、浅草に行くことがなかった。

久々に歩いてみると、日本酒で有名なMが閉店し、その近くのふぐ料理の店も見当たらなかった。その代わりというわけでもないだろうが、新しい飲食店、アクセサリー店、古道具屋・・・などができているようだ。

下町・レトロブームというわけで、寒い雨という悪天候にもかかわらず、かなり混雑していた。

昔に比べれば、町並みも明るく、清潔になったような気がした。

まちが元気になることはいいことだ。

2010年3月1日月曜日

京都駅

 
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1年ほど前、携帯で写した京都駅。なんとなく、京都に行きたくなったので、載せた次第。

2010年2月24日水曜日

『吉本隆明の時代』

●絓秀実 ●2940円 ●作品社

(1)吉本隆明の年譜

本書の感想をまとめる前に、本書と関連する年代までの吉本隆明の略歴を見ておこう。これによって、本書が描いている時代の雰囲気がおおよそつかめると思う。

【吉本隆明略歴】

1924年 東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工
1937年 東京府立化学工業高校(現 東京都立化学技術高校)入学
1942年 米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学
1945年 東京工業大学に進学
1947年 東京工業大学工学部電気化学科卒業
※大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われる。
1949年 東京工業大学の特別研究生の試験に合格
※給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。
1951年 特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職
1952年 詩集『固有時との対話』を自家版として発行
1953年 詩集『転位のための十篇』を自家版として発行
1954年 「荒地新人賞」を受賞 「荒地詩集」に参加
同年6月「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表
1956年 初代全学連委員長の武井昭夫と共著『文学者の戦争責任』を発表
同年   東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職。
※同社退職後、長井・江崎特許事務所に隔日勤務。1970年まで同事務所に勤務継続。
1958年 『転向論』を発表
1959年 『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行。
1956年から1960年 花田清輝とのあいだで激しい論争を展開
1960年「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。
※60年安保闘争では全学連主流派に同伴・通過。6月行動委員会を組織。6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加。6月15日国会構内抗議集会で演説。「建造物侵入現行犯」で逮捕、18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞。
1961年 雑誌「試行」を創刊。
※その後『試行』において『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載。同誌は1997年12月19日付発行の74号にて終刊した。
1962年 「擬制の終焉」を発表
1965年 『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行
1968年 『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行
同年10月『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。
同年12月『共同幻想論』を河出書房新社より刊行
1971年 『心的現象論序説』を北洋社から刊行。

(2)吉本隆明の4つの論争

吉本隆明が発言者として日本の言論・思想界に現れたのが1950年代中葉。そして、1960年代を通じて、広く支持を受けるようになった。その間(およそ10年)、吉本隆明は、言論・思想界において、4つの大きな論争を引き起こしている。論争の相手は、花田清輝(1909-1974)、武井昭夫(1927-)、黒田寛一(1927-2006)、丸山真男(1914-1996)。中で最も有名なのが、最初の花田との論争で、武井との論争を含めて、転向が主たるテーマであった。

本書の大筋としては、この4つの論争のそれぞれにおいて吉本が「勝利」したことをもって、彼が思想言論界に確固たる地位を築いた、と結論づける。

(3)革命運動における敗北と挫折の論理化

吉本が多くの者から支持を得た理由は、吉本がそれぞれの論争に勝利したからではない。彼がそのときどきの一部大衆の求める問いに対して、適正な回答を用意したからである。その最も重要なものの1つは、彼が左翼革命運動参加者に対し、その敗北の後のあり方を示したことだ。それを知識人論というのならばそのことゆえである。

前出の年譜で分かるように、吉本は職業としての「知識人」として自活する前、2度、職場を追われている。吉本が労働運動において、どのような活動家であったのかわからないが、「戦後革命」の自覚の下に労働運動に参加し、退職勧告を受けるほどのものだったと推測できる。そのとき、吉本は深刻な「パン」の問題に直面したことであろう。

その後に起った60年安保闘争において、彼はブントのデモの隊列に「一兵卒」として参加し逮捕された。労働運動及び60年安保闘争において、彼は敗者として挫折した(疎外された)。

近代以降の日本の左翼陣営において、革命を志向した知的大衆(学生)は数え切れないくらい存在し、そのうちの少数が体制内「革命組織」の官僚として「パン」を得るか、「革命的」もしくは「反革命的」もしくは「文学的」とかいわれる範疇に属する職業――たとえば大学教授・研究者、批評家、思想家、文学者等――に就いて「パン」を得る。その職にあずかれなかった多数の知的大衆は、企業に就職するか自営業者として「パン」を得る。彼らは卒業や結婚等の生活上の諸事項を契機として、左翼運動から離脱を余儀なくされる。自由浮動性をもたない生活者として。

日本の左翼知識人は、革命論もしくはそれを基礎付ける思想を論ずることばかりで、革命運動の敗北・挫折もしくは失敗の後を論じなかった。戦後革命の挫折の後、60年安保闘争の敗北の後、活動家の気分を韜晦する文学作品が世に出るにとどまっていた。政治党派にあっては、新旧を問わず、常に「革命勝利」と総括される(た)のである。

(4)「敗者」を救った転向論

アジア・太平洋戦争終了後の日本の知的大衆は、「敗戦」そして、その後の「戦後革命の挫折」という、異質の敗北を短期間に経験した。そのとき、衝撃を与えたのが吉本の転向論だった。著者は吉本転向論の肝を以下のとおりまとめている。
吉本の採った(既成左翼=スターリン主義者批判の)戦略は2つあった。1つは、非転向者に対して優位にある転向者を見出すという価値転倒をおこなうこと、そしてもう1つは党に代わる絶対的な価値を「大衆」として措定してみせること、これである。(P58)

吉本の「転向論」を一番歓迎したのは、転向文学者たちであった。彼らは非転向マルクス主義者への劣等意識にさいなまれてきたのが、吉本によって宮本顕治らよりも自らの転向が優位にあると思いえたのである。吉本の理論を敷衍すれば、宮本顕治の非転向は佐野、鍋山の転向よりも劣位にある。宮本顕治や小林多喜二はサイテーなのだ。なぜなら、佐野、鍋山にしても、ともかくは天皇制という大地制に触れているからだ。(P64)
転向者のほうが非転向者よりも上位にあるという吉本の断定は、50年代にあっては戦中の獄中転向者を救い、その後の60年安保闘争でも挫折者を救い、更に、60年代末から70年代初頭の新左翼・全共闘運動(以下「新左翼・全共闘運動」と略記。)の敗北者(多くは学生大衆)を救った。

吉本の転向論は、彼の「大衆の原像」もしくは「生活者第一主義」という独自の概念と通じており、これらの概念も含めて、運動に参加しながら新左翼党派のリゴリズム、規律・組織に失望した学生大衆や、卒業や就職等で運動から離脱を余儀なくされた学生大衆の精神の拠り所となった。

知識人というものは、普遍的であろうと専門的であろうと、呪われていようと選ばれていようと、職業革命家(前衛党内官僚)として、あるいは、知識や思想を“切り売り”する“売文”の徒として、「パン」を得られる者と定義できる。知識人の転向の問題が思想軸上の左(翼)と右(翼)の振幅の問題である一方、知的大衆の場合は、自由浮動性をもった学生という身分とそれをもたない生活者の背反性として現れる。学生大衆が直面する転向の問題は、革命的思想の獲得(知的上昇=自然過程)とパンの獲得(生活者)の対立であると吉本によって深化されて初めて、学生大衆の現実の進路の問題と重なったのである。大衆は、吉本の転向論に触れて、政治と生活の問題に立ち入ることができた。

(5)オルタナティブとしての<自立>

60年安保闘争の敗北後、吉本は、ブントから政治的ヘゲモニーを奪取した革命的共産主義者同盟(革共同)の指導者・黒田寛一批判を展開し、新左翼系知識人という範疇から離れ、自ら創刊した雑誌『試行』を根拠地として文筆活動に専念した。

60年安保闘争後、吉本は新左翼として職業的革命家の道を選ぶことなく、もちろん、時代迎合的知識人若しくは保守派知識人に移行することもなく、特許事務所勤務と同人誌編集発行という、「第三の道」を選択し実行した。吉本が示した「第三の道」は、学生運動に身を投じた若者が直面した、「パン」の問題に対する有益な回答となった。吉本は自らの選択を<自立>と命名したが、学生運動参加者が実生活に入るとき、彼らは、同人誌は創刊できないものの、体制を批判し過去と現在進行中の革命運動に共感しつつ、体制内賃労働者となっている自分の立ち位置を、<自立>だと自身に思わしめた。彼らがその後ずっと、吉本の本を買い続けた「吉本の良き読者」であったことは想像に難くない。

このような構造は、「新左翼・全共闘運動」終焉後に、拡大再生産されることとなった。同運動は、60年安保闘争をはるかに上回る数の学生運動参加者(戦後ベビーブーマーの参加)があり、それに応じた多数の革命運動からの離脱者を生んだからである。彼らもまた、吉本を信奉し、吉本の本を買う、吉本のよき読者であった。

(6)新左翼革命論の克服

第二の問題提起は、新左翼革命論の克服である。吉本が労働運動及び60年安保闘争参加の経験の中から既成左翼(日共及びソ連・中国等の疎外された社会主義国家群)に絶望し、60年安保闘争では新左翼党派のブントに参加したことは前出のとおりである。吉本が反スターリン主義を前面に押し出した思想家であることは明白だが、新左翼各派のそれとはアプローチが異なった。

60年安保闘争後、1967年10月21日の第一次羽田闘争以降、「新左翼・全共闘運動」を盛り上げた新左翼各派は、ヘルメット・ゲバ棒による街頭闘争=擬似的・演劇的暴力革命運動で成果をあげ、新左翼三派系全学連(革共同中核派・ブント・社会主義青年同盟解放派)は、大衆的支持を一時期ではあるが獲得した。しかし、権力側の弾圧強化により、新左翼の街頭闘争路線が行き詰まりをみせるようになってからは、新左翼の暴力の向かう道は、擬似的=演劇的暴力から、殺傷力をもった武器で権力を襲撃するゲリラ戦と、革命運動路線において対立する他党派との内ゲバ闘争に向けられてしまった。

たとえば、1970年の赤軍派ハイジャックが、当時でさえ過激なスターリン主義国家であると規定されていた北朝鮮を目的地としたことは(赤軍派が北朝鮮指導者を論破するという漫画的志を抱いていたか否かを問わず)、新左翼暴力革命の限界とスターリン主義克服の不十分性を明示していた。

また、革共同の革マル派と中核派(社青同解放派を含む)の内ゲバもしかりである。かりにも、新左翼党派が政権を奪取したとしたら、運動から離脱した学生大衆は、ポルポト派革命後のカンボジアのように、粛清されるか農村において強制労働をさせられるかのどちらかであろう。

新左翼各派の内ゲバ正当化の論理は、反革命を抹殺することが革命への道であるというもの。この論理は、ロシア革命においてレーニンがボルシェビキ主導によりプロレタリア独裁を成し遂げた歴史の事実に基づくならば、極めて危険かつ残念なことであるものの、革命の名において正しい。同時に、それは新左翼活動家に対し、革命の名において、現実の自由はおろか生存権すら奪い去られることを、(内ゲバ殺人や連合赤軍事件を通じて)証明してしまった。「新左翼・全共闘運動」後においては、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する道が求められていた。そして、そのとき、吉本が示した上部構造の独自性を証明するという思想的実験が、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する決定打のように見えた。

新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する手段は、新新左翼の前衛党を組織し、新しい革命運動を展開するとはいかなかった。そういう選択肢が成立しなかった。吉本の<幻想過程>という概念は、新左翼の運動方針を規定する下部構造決定論を克服するものとして、また、前衛党が必然的に醸成する全体主義=スターリン主義を克服するものとして、「第三の道」足り得た。このことは後述する。

(7)新左翼暴力革命論を越えようとした吉本と黒田

激しい論戦を繰り広げた吉本と黒田であるが、著者は、吉本が“(新左翼の中で)黒田寛一と革マルだけが本気ですね”という吉本と鮎川信夫との対談の中の発言を引用(P193)し、吉本と黒田に異類のなかの同種を見いだし、吉本は黒田を認めているかのようなニュアンスのことを書いている。吉本と黒田の間には、60年安保闘争を共に戦った戦友意識があるのかもしれないが、両者の論争の決着はどちらかの論理的破綻という結末を待つまでもなく、今日において意味を失った。黒田型の知識人と吉本型の知識人が60年代に並存し得た歴史的背景があったわけであり、その時代においては、一方が他方を凌駕したともいえないし、論争の決着もつかなかった。それぞれがそれぞれの役割を果たした。

黒田と吉本に共通項がある。それは、両者がともに、革命の必然性を“資本主義の危機”に結びつけなかった点と、暴力革命主義=実践の克服である。革マル派は「プロレタリア的人間」になること=人間革命――を志向する。唯一かつ無謬の前衛党(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)の下に労働者・学生が結集し、革命可能なときが到来するまで待機する。待機した挙句、どのような手段で権力を奪取し、その後にいかに権力を行使するものかは定かではないが、とにかく世の人をすべからく「プロレタリア的人間」に仕立て上げるための努力を党として、惜しまないはずである。革マル派による多数派が形成されないうちは、彼らは孤立した密教的集団として閉じこもるほかはない。そして、いま現に革マル派は、そのような少数集団として存続している。

吉本も<自立>を掲げて、運動、実践という直接行動から離れた。自然過程において上昇した「革命の論理」は生活で相対化される。大衆の内部におけるその繰り返しの外側、すなわち、資本主義社会は発展し、権力の交代がありえたとしても体制変革=自己変革が同時的に進行することはないように思えた。黒田と吉本が「待機」している間、すなわち、「新左翼・全共闘運動」の嵐とともに、新左翼党派は、唯武器主義的暴力主義へと自己純化を遂げ、強い党内規律で党員を縛り上げるスターリン主義集団に転化していった。反スターリン主義を掲げた黒田党=革マル派は、新左翼他党派と一線を画することを第一義として、最も急進的なスターリン主義党になった。

黒田が指導した革マル派は、前衛党に内在的に発生するスターリン主義を克服するという思考回路をもっていない。自らが唯一絶対の前衛党であるという無賿性のもと、組織を温存し、今日に至っている。彼らが彼らのいう「プロレタリア的人間」による「世界革命」を達成しうる可能性は限りなくゼロに近く、今日、その存在意義は皆無に近い。がしかし、消滅はしていない。特定の労働組合及び大学自治会の内部に根をおろし、カルト集団のように存続している。

(8)「平和と民主主義」を掲げる市民主義者の実像

吉本の第4の論争相手は、政治学者・丸山真男である。日本において本格的市民主義運動が台頭したのは、60年安保闘争のさなかのことであった。60年安保闘争が、「民主か独裁か」(竹内好)という選択意識の下で闘われたことはよく知られている。当時の自民党政権(岸信介首相)が強行採決によって日米安保条約改定を国会通過させたことが、日本の民主主義の危機だと考えられた。その結果、新たな無党派層(=「市民」)が反安保勢力を構成することとなった。新たな勢力とは、①鶴見俊輔、藤田省三らの『思想の科学』系知識人グループ、②日共反主流派で除名された構造改革派グループ、③東大法学部系(丸山真男に代表される)学者・知識人グループ、④宗教者・芸術家――の4派であった。また、既成左翼系には、日共と社会党のどちらかの息のかかった(下部組織である)労働団体・文化団体、婦人団体があり、さらに、まったくの無党派層(たとえば「声なき声の会」等)もあった。

本書には、60年安保闘争に加わった市民主義者が闘争にどのように関わったかが記述されている。今日あまり知られていないものも多く、たいへん興味深く読めた。以下、市民主義者の60年安保闘争への関わりの実相を本書に準じてまとめておこう。

(A)鶴見・藤田の幻の「東海道線転覆計画」

本書には、市民主義を代表する鶴見・藤田が、東海道線特急「こだま号」(当時、新幹線はない)の転覆を思いつき、しかも、その実行を革共同指導者の黒田寛一に依頼していたという、驚くべきエピソードが紹介されている。依頼を受けた黒田は、この計画を「ブランキズム」と批判した。当然である。共産党に代わる革命的前衛党建設を目指す黒田してみれば、前衛党を媒介にしない直接行動がプロレタリア革命の前進に資するとは思うはずもない。列車転覆が社会的混乱を一時(いっとき)、生じさせたとしても、革命的状況を切り開くはずがないと確信していたであろう。まさにプティプル急進主義の自殺行為としか映らなかったはずである。

そればかりではない。鶴見・藤田は、安保闘争が終焉した後、この計画が幻に終わったことを幸いに、自らの政治思想キャリアから計画の抹消を図った痕跡があるらしい。「市民主義者」のいう「平和と民主主義」という看板も、信用できるものではなさそうだ。「新左翼・全共闘運動」において、彼らは構造改革派と連合して「ベ平連」運動を展開、学生大衆から一定の支持を受けていたし、今日「ベ平連」再評価の動きもあるというから、市民主義者の実際の顔を当時も今も、探る努力は必要のようだ。

ではなぜ、「平和と民主主義」を掲げる市民主義者、しかも、大学教授の職(二人とも闘争中に辞職したが)にあったほどのエスタブリッシュメントが、このような無謀な直接行動計画に行き着いたのか――2人の着想のプロセスが本書からは皆目わからないのが残念である。

(B)丸山の自民党分裂工作

丸山真男は、東大法学部を根拠地として、「思想としての民主主義=永久革命としての民主主義」を説く政治学者である。彼の市民社会論を大雑把に言えば、民主主義が機能するインフラのようなものが市民社会ということになり、日本の江戸時代後期、明治維新、大正デモクラシー、戦後(8.15)革命を経て、60年安保闘争(6.19革命)に、日本の市民社会誕生の萌芽を認めるものである。

その丸山は、東大法学部系大物政治学者のコネを使って、自民党分裂工作を図ったという。もちろん、この工作は失敗に終わっている。安保闘争中に自民党分裂工作を画策したのが東大法学部の教授であるというのも面白い話である。

(9)経済決定論批判

本書では、著者が唱える「1968年革命」を代表する新左翼革命運動の論客の典型として、岩田弘を紹介している。岩田は、(今日=1960年代末)、世界資本主義は危機にあり、その最も脆弱な環である日本資本主義に危機が顕著に現われていると説き、プロレタリア日本革命から世界革命を展望するという革命戦略を唱えた経済学者である。

新左翼の革命戦略は、概ね、経済決定論的傾向をもっており、革マル派を除く新左翼の現状分析はすべからく、世界経済の危機を認識するところから始まる。岩田理論を掲げて新左翼内のヘゲモニーを獲得したのが共産主義者同盟マルクス主義戦線派(ブント・マル戦派)であった。彼らは経済危機が革命戦略を規定するという新左翼党派の典型を示している。というよりも、経済決定主義とは、戦前の日本のマルクス主義者及び前衛党(日共)から新左翼(革マル派を除く)に共通する傾向なのであるが。

しかし、岩田の経済決定論に対して、革マル派を筆頭とする新左翼他党派は、資本主義が自ら延命するメカニズムをもっている点、また、プロレタリアートが革命にいかに関わるかという主体と党の問題を捨象している点を指摘し、マル戦派を攻撃した。革マル派からの批判を党内に持ち込んだブント諸派はマル戦派を論破し、彼らを党外に放逐してしまった。マル戦派は1968年に解体・消滅した。マル戦派を排除した後に結成された統一ブントの革命戦略は「前段階蜂起」といわれ、ブント赤軍派の革命戦略となった。

岩田のような危機論型革命戦略論は、「前段階蜂起」という修正を経てはいるものの、革マル派を除く新左翼の底流にある。経済決定論的傾向が新左翼の革命戦略から払拭されることはなかった。吉本は、当然、岩田を批判すると共に、新左翼の経済決定主義的傾向の革命戦略を批判した。革マル派を除く新左翼の街頭闘争が1968年を境に低迷するなか、全共闘運動等に参加した多くの学生大衆の中には、危機論型革命戦略に疑問を持ち始めたし、革マル派のような前衛党建設にも魅力を感じなくなってきた。吉本隆明は、新左翼運動とは一線を画し、『共同幻想論』などを通じ、新左翼各派の経済決定主義的傾向=スターリン主義的傾向を批判し続けた。

吉本と岩田弘の革命戦略をめぐる対立は、論戦に発展することはなかったが、ブント内部において、吉本隆明の共同体論の影響を受けた叛旗派が結成され、前段階蜂起を踏襲した戦旗派(後に赤軍派が分派)との間で、党内闘争が起こった。この党内闘争は、前者が吉本主義者であるという意味において、また、後者が経済決定主義を修正しつつ踏襲したという意味において、吉本vs岩田の代理戦争の要素を持っていないとはいえない。

(10)吉本思想の現代的課題

吉本隆明が日本の思想・言論界でヘゲモニーを獲得した理由は、日本革命運動が及ばなかったいくつかの重要なテーマに彼が取り組んだことにある。吉本のスターリン主義批判は、新・旧左翼を選ぶものではなかった。とりわけ、新左翼は反帝国主義・反スターリン主義を綱領化して結党し革命運動を展開しながらも、それを党内外において克服できなかった。著者が言うところの「1968年革命」は事実上、失敗しており、新左翼は理論的にも組織的にも破綻したのであって、その主因を、経済決定主義を払拭できなかったところに求めてもいい。

繰り返しになるが、著者の言う「1968年革命」を領導した新左翼の革命戦略は、黒田寛一(=革マル派)に代表される「真の」前衛党建設によるプロレタリア的人間革命、もしくは、岩田弘に代表される危機論型(=経済決定主義)暴力革命、の2つの道しか示しえなかった。

吉本隆明は1960年安保闘争の最中において、反スターリン主義を自らの闘争課題として選び取ったところにおいては、新左翼党派と同一のスタートラインに間違いなく立っていた。しかしながら、反スターリン主義を克服する問題意識と方法において、上記の新左翼の革命戦略及び運動とは一線を画し、別の道を選んだ。

重要なのは、著者の言う「1968年革命」は大きな問題を残しつつ、頓挫したということにある。「1968年革命」は、新左翼党派内部の抗争によって、100人を超す犠牲者を出して、終わった。吉本隆明がオルタナティブとして、新左翼を克服すべき思想を提示していながら、「1968年革命」においては、吉本は適正に読まれなかったというわけである。「吉本隆明像」の相対化とは、結局のころ、新左翼運動離脱者にしか、吉本の思想が受け入れられなかったのがなぜだったのか、という立論から開始されるべきなのである。換言すれば、「1968年革命」はなぜ、かくも無残に敗北したのかということに尽きる。

2010年2月20日土曜日

選手団長、能力なし-冬季五輪

バンクーバー五輪はあいかわらず、メダル獲得とともに、感動、感動・・・の紋切り型報道が喧騒状態を引き起こす。テレビをつけると、どこも同じような映像ばかり。困ったものだ。

メダルをとった選手、自己ベストを更新した選手のガンバリには敬意を表したいが、日本選手団の中には、耳を疑いたくなるようなミスが続発している。選手はがんばっているのだろうけど、選手団長以下、役員、コーチに緊張感が感じられない。

まず、スケルトン日本チームの女子選手が用具に関する規定違反で失格になった。競技実施前の検査で、使用するそりに国際ボブスレー・トボガニング連盟(FIBT)の規格検査をクリアしたことを示す認定ステッカーが貼られていなかったという。本人が日本を出発する前に誤ってはがし、現地入り後、チームも確認を怠っていた。また、そり競技では、リュージュ女子選手が重量超過違反で失格処分を受けた。フィギュア男子選手の場合は、競技途中で、靴の紐が切れた。紐が切れた原因は報道されていない。

服装問題でスノボ選手を血祭りに挙げたマスコミだが、肝心の競技に係るミスをまともに報道しないのはどういう理由なのか。少なくとも、選手団長の責任を問うだけの姿勢をマスコミは見せるべきだ。

選手団長任命ミス、その団長の管理ミス、コーチのミス・・・競技以前の問題だけに、選手は気の毒。

2010年2月18日木曜日

モノトーンの朝





また雪。積もらなかったけれど。

さて、昨日は杖をつきながら、重いキャリーをもって地下鉄の階段を昇っている高齢のご婦人がいたので、キャリーを運んであげた。

今朝は、レシートを落としたこれまた高齢の男性がいたので、レシートを拾って手渡してあげた。

一日一善である。