2011年8月26日金曜日

『日本の大転換』

●中沢新一[著] ●集英社新書 ●700円(税別)


○原発事故が呼び起こす漠とした不安

3.11以降、日本国民のだれもが感じる不安は、福島第一原子力発電所(以下「福島原発」と略記。)の事故によるものであることは疑う余地がない。そのことは、世界で唯一の被爆国である日本国民に過剰な核アレルギーがあるからでもなければ、原子力に係る国民教育が十分なものでなかったからでもない。一般の日本国民は、確かに原子力に関する科学的知識に乏しく、原発の基本構造すら理解していないかもしれないが、原発が人間の生命、生活(生態圏)から限りなく遠く、人間の力では制御しきれないことを、直感的に悟っているように思える。

福島原発事故が報道された直後、テレビを通じて多くの原子力専門家がその「安全性」を強調しながらも、彼らの言葉を信用した生活者はわたしの周囲では、そう多くはなかった。なにかとてつもなく恐ろしいことが起こっている、政府はそのことをかくしている、と思った人が多かったように思う。

そして、生活者のその直感は、残念ながら、当たっていた。加えて、海外メディア、国内外の記者クラブに属さない多数のフリージャーナリストたちの独自取材により、政府、専門家の福島原発事故に関する発表・説明がまったくのでたらめであることが次第に、日本国民の間に明らかになってきた。

しばらくは、政府の「大本営発表」に従ってきたマスメディアだが、それでは自らの存在意義を失うことに危機感を覚え、彼らは、福島事故の深刻さを一斉に伝え始めた。また、原発を巡る政・産・官・学・マスコミの利権構造を暴露し始めた。書店に行けば、原発に関する利権構造の犯罪性を弾劾するもの、その「安全性」「経済性」に係る虚偽報道、欺瞞的研究等を暴露するもの、かつまた、原発に代わる新しいエネルギー技術の選択を迫るもの――といった内容の論文、取材記事等を掲載した雑誌、書籍があふれている。

○原発事故の不安の根源に迫る

だがしかし、原発批判及びそれに代わる新エネルギー技術・政策に係る情報の量的氾濫にもかかわらず、日本国民がいまある原発の危険性を整理し、その後の道筋――停止、廃棄、新エネルギー技術の選択――を明確にする、思想的基盤を示した論文・論評は管見の限り、あまり見当たらないように思える。

本書の大筋は、「あとがき」にて簡潔にまとめられている通り、(一)原子力発電をめぐる論争に、たんなる経済計算の視点を超えた、エネルゴロジーの視点(エネルギーの存在論)の視点を導きいれる試みであること、(二)3.11以降開始された「原発以降」のエネルギー論争というものが、これまで原子力発電を推進してきたのと同じ、経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれているのが、現状であることから、こうした傾向の再生可能エネルギーへの転換の限界を突破すること――という2点の視点で展開されている。

○エネルゴロジー(エネルギーの存在論)

本書のキーワードは、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)である。著者(中沢新一)が原子力をエネルゴロジーによって立論し、そして、原子力を速やかに退場させなければならない道筋を、以下のように説明する。

(原子力発電をめぐる論争について)ヱネルゴロジーの視点に立つと、経済的効率性によって立つ議論や、核技術への感情的な反発などを超えて、そもそもエネルギー技術としてそれはどのような存在なのか、それはイノベーションを繰り返していけば将来的に「安全な」技術となりえるものなのか、といった根本的な問題に、確度の高い見通しをあたえていくことができるようになる。

エネルゴロジー的視点からは、原子力発電をなりたたせている存在構造の特異性が明らかになる。それによると、原子力発電は、生態圏の外部の、太陽圏に属する高エネルギー現象を、生態圏の内部に深く持ち込む技術である。現在のところ考えられているイノベーションのすべてが、この構造を変えない範囲で試みられている、場当たり的な対応に過ぎない。

そのために、電子力発電の技術がはらむ生態圏への危険性は、将来的もけっして消えることがない。危険の封じ込めのために、小さな範囲内での改良は可能であろうが、人類に与えられた程度の知性をもってしては、この技術の根本の構造自体を変えることは不可能である。エネルギー獲得のために技術として、原子力発電をできるだけ速やかに退場させなければならない理由はそこにある。(P142)

生活者が原発事故に抱く不安の根源には、原子力というものが、自らの属する圏域の外側にあることにある。著者(中沢新一)はそのことを、“人類に与えられた程度の知性をもってしては、この(原子力発電)の技術の根本の構造自体を変えることは不可能である”という結論を導くのである。簡単にいえば、人類はこれからも原子力発電事故を回避できないし、事故から生じる放射能汚染等による危険から免れないと。

○3.11以降のエネルギー論争の限界と原発以降の社会のあり方

前出の通り、著者(中沢新一)によると、3.11以降、活発に論じられている原子力発電の維持と、その真逆にある代替エネルギー推進も、同一のレベルにあるという。両者とも、「経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれている」からだという。

著者(中沢新一)は、原子力発電と現代のグローバル型資本主義(新自由主義、市場原理主義)とは、存在の地平を共有するという。その理由として、「両者のエネルゴロジー的構造が、多くの同型をしめしているから」であるとする。

また、一方の再生可能エネルギーの存在構造については、エネルゴロジーの視点で分析してみると、そこに現代の資本主義からの脱出の可能性が見えてくるという。「脱原発を果たし、太陽発電や風力発電、バイオマス発電のようないわゆる再生可能エネルギーの技術を主要なダイナモとして動く経済社会は、それに対応した構造への変化を起こしていかねばならない」というのだ。

これからはじまろうとしている新しいエネルゴロジーの革命は、原子力発電からの脱出と自然エネルギーへの転換につきることのない、多くの可能性をはらんでいるのです。原子力発電を推進してきたのは、いままで主流であった「モダニズム資本主義」でしたが、そこからの脱出をきっかけとして、資本主義そのものの内面的な変化が引き起こされていくにちがいないからです。

第一種交換だけでできた市場の原理によって作られてきた世界には、贈与=キアスム構造をもった別の交換原理が組み込まれることによって、大きな変化が生じることになります。第一種交換の思考がつくりだしてきた「通貨」にたいする考え方なども、これによって変わっていきます。・・・(P139~140)

著者(中沢新一)は本書をマニフェストとして、「太陽と緑の党」を組織し、反原発運動を推進していくことを示唆している。

2011年8月24日水曜日

神話の崩壊(続)

3.11以降、日本は大転換が迫られているにもかかわらず、マスコミ(テレビ/新聞)はそのことを拒み続け、虚構の「神話」を作り続けているように思える。

◎テレビ局解体が日本再構築の第一歩

島田紳助という吉本興業に属するタレントが、暴力団関係者との交際を理由として、突然、芸能界を引退した。紳助はテレビ界ではとりわけ売れっ子で、ゴールデンタイムに係る多数の番組のレギュラーを抱え、数社の企業とCM契約を結んでいたという。

しかし、紳助が大きなトラブルを起こしたのは、過去に3度あった。以下に、その記事を引用しておく。
【過去の紳助のお騒がせメモ】
▼1982年 ラジオの番組の企画で、東京大学への受験を突然宣言。共通一次試験の受験会場に出向いたが受験阻止を訴えるグループと騒動が起き、その場で受験票を破り捨てた。
▼2004年10月 司会を務める朝日放送系「クイズ!紳助くん」の収録前に、吉本興業の女性マネジャーの態度に腹を立て、殴る、髪をつかんで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治1週間のけがを負わせた。女性の告訴により芸能活動の無期限自粛を発表。翌年1月に復帰した。
▼09年10月 TBS系特番「オールスター感謝祭」で後輩芸人・東京03があいさつをしなかったことを発端に、生放送中に紳助が詰め寄りどう喝。その姿がオンエアされてしまったためインターネット上で騒動になった。
(出典:2011/8/24-06:00 「スポーツ報知」)
最初の東大受験騒動は、私見ではトラブルに当たらない。注目すべきは、2004年の女性マネジャー暴行事件だ。引退の引き金になったのは、2005~2007年にかけて行われていた暴力団関係者との交際を証するメール等の発覚だというから、2004年の暴行事件前後に何かがあったことは間違いない。また、引退会見では、紳助がかかわったなにがしかの事件の解決に向けて暴力団が動いたと報道されている。

紳助は女性マネジャー暴行事件前から暴力団との交際があり、彼は「自分には組織の後ろ盾がある」ということを意識していたのだと思われる。「組織」の後ろ盾を得た暴力的パワーが彼自身の行動・言動の抑制を欠如させ、暴力的体質を強めさせ、かつ、彼は暴力的傾向を前面に出すようになったのではないか。たまたま、女性マネジャー暴行事件だけが明るみになっただけで、水面下ではもっと多くの「事件」が起きていたのではないか。

そこで問題となるのは、紳助を起用し続けてきたテレビ業界だ。前出の女性マネジャー暴行事件が起きた直後、紳助は無期限自粛を発表したのだが、わずか3か月ほどで自粛は終わり、テレビ業界は彼を再び起用してきた。前出のとおり、紳助は事件解決のために暴力団と関係をもったと発言しているようだが、繰り返すが、紳助と暴力団との結びつきはかなり前から、もちろん女性マネジャー暴行事件発生の前から続いており、同事件発生の背景になっていたはずだ。

テレビ業界は、暴力団と密接な関係をもったタレントに対し、長年にわたり、ギャラを支払い続けてきたことになる。その間、紳助に支払われたギャラの一部が、「事件解決の謝礼」などの名目で組織に流れていたと考えるほうが自然だろう。

視聴率がとれれば、どんなタレントでもかまわない、おかしなことがあっても、表にでなければそれまで。表に出たときは、「無期限自粛」で時を稼ぎ、人の噂も75日で復帰させる。タレント等から上がる収益だけがすべて――というのが、日本のテレビ業界の体質だ。

テレビには倫理も正義もない。羞恥心も善悪の区別もない。視聴率=収益だけを価値観とする巨大なテレビ業界というものは、現代の魔窟だ。テレビの内部に棲む関係者はそこだけで通用する「業界的価値観」「業界的常識」「業界的××」に支配され蝕まれていく。テレビ局を解体することが、日本の再構築の第一歩となるはずだ。

◎「甲子園」を「神格化」した朝日新聞

先般閉幕した夏の全国高校野球選手権大会で、青森県勢として42年ぶりの準優勝を果たした光星学院高校は22日、所属する野球部員3人が昨年12月に飲酒をしていたと発表した。同校では3人を停学処分とする方針。この部員らは昨年末に帰省した際に、それぞれ別々に飲酒したという。このうちの1人がブログに飲酒している様子を自ら書き込んだことから発覚した。甲子園にみちのく旋風を巻き起こし、東日本大震災の被災地に勇気を与えたといわれている同校の不祥事に、波紋が広がっているという。

この「飲酒事件」が発覚したきっかけは、「2ちゃんねる」らしい。発覚に至る詳細については省略するが、同掲示板投稿者が、飲酒した男子部員の問題のブログを発見し、同掲示板に書き込み、その後にスレッドが乱立、高校側も飲酒の事実を隠せなくなったらしい。

「2ちゃんねる」の騒動の前にマスコミ(新聞・テレビ・雑誌等)が野球部員の飲酒を知っていて報道しなかったのか、知っていても報道しなかったのかは不明だが、飲酒事件発覚前、甲子園大会を実態上主催する朝日新聞社は、「天声人語」に以下のとおりの内容の駄文を掲載している。
「甲子園」はタイガースの本拠である阪神甲子園球場とは別物だと、江川卓さん(56)がスポーツ誌「ナンバー」で語っている。「春と夏だけ、神様が高校生のために甲子園という聖地を届けて下さる」と。「僕もそう思ってます」と応じたのは、対談相手の桑田真澄さん(43)である▼神々しさが極まるのが夏の決勝だ。3年続けてそのマウンドに立った桑田さんは「神様の声を聞いた」と言い、縁がなかった江川さんは「僕には何も言ってくれなかった」と笑う。神様は気まぐれだ▼聖地の空は、一戦ごとに盛夏のぎらつきを収め、柔和になる。秋めく甲子園で日大三(西東京)と光星学院(青森)が球譜に名を刻んだ。三高の豪打、恐るべし。疲れを見せぬ吉永投手にもしびれた▼片や光星。青森県出身者は少なくても、津波に襲われた八戸の期待を背に、「東北初」の夢をよくつないだ。親元を離れてでも聖地に足跡を残す。そんな個々の執念が、被災地の願いと一つになった▼大会の延長戦は最多記録に並ぶ8試合。満塁ホームランあり、サヨナラ劇ありの熱戦に奮い立った人も多かろう。そして決勝の両校には、残るべき理由があった。気まぐれに見えて、神様もなかなかやる▼節電による前倒しで、栄冠は昼前に輝いた。泥んこのユニホームや、揺れるアルプス席の残像を自分の力に転じるのに、週末の長い午後はあつらえ向きだ。野球の神様はいてもいなくてもいい。ただ聖地があってよかったと、特別な夏の終わりに思う。(出典:朝日新聞「天声人語」2011/08/23)
ちなみに、桑田真澄氏といえば、プロ野球現役時代、「投げる不動産屋」と呼ばれ、バブル崩壊後に多大な債務を抱えたことで知られている。スキャンダルを恐れた桑田氏が属する巨人軍(=読売)は桑田氏の借金の肩代わりをし、桑田氏は巨人軍(読売)にいる間中、読売に返済を続けていたという。今現在、彼が債務を完済したかどうかはわからないが、迷惑を被っている人がいないことを祈っている。

そして、もう一人の江川卓氏にいたっては、ドラフト破りの「空白の一日」の主役として世に知られた人物。ドラフト制度を無視して読売入団を強行し、非難を受けた。江川氏は法を犯したわけではないが、プロ野球業界のルールを破ったことが日本の球史に刻印されている。そんなお二人が神や聖地を口に出すのは、誠に似合わないと思うのは筆者だけか。そんなお二人に甲子園に係る対談をさせたスポーツ誌「ナンバー」には、卓抜したブラックユーモアのセンスがあることは否定できないものの、それを甲子園賛歌として引用した朝日新聞「天声人語」は愚かというほかない。

さて、「天声人語」の駄文にいちゃもんをつけるのが本意ではない。問題なのは、マスコミが甲子園野球の裏側に潜む、多くの問題を隠ぺいしている実態にある。

問題の光星学院は被災地・青森の「代表」だそうだが、監督、選手の出身地は以下の通り。
監督:仲井宗基、大阪府生まれ、桜宮高~東北福祉大卒。投:秋田教良 (大阪太子中)、捕:松本憲信 (大阪菫中)、一:金山洸昂 (大阪堅下南中)、二: 榎本 慎 (和歌山東中)、三:田村龍弘 (大阪狭山三中)、遊:北條史也 (大阪美木多中)、左:和田祥真 (大阪守口四中)、中:川上竜平 (沖縄仲井真中)、右:沢 辰寿 (大阪守口一中)
(出典:高校野球情報.COM)

被災地・青森出身者はゼロ。大阪出身の高校生がなぜ、被災地・青森の高校にかくも多数集まっているのか筆者にはわからない。大阪から被災地・青森までボランティアに出向いたわけでもあるまい。筆者の推測では、大阪に足場をもつ監督が、大阪近辺にある有力な少年野球チームから才能のある中学生をスカウトして集め、青森の光星学院高校野球部をつくりあげ、3年間鍛え上げて甲子園に出場させたのだろう。監督も高校生も、みな、プロ野球選手なのだ。

引用の通り、朝日新聞を筆頭とするマスコミが甲子園を「聖地」に仕立て上げる一方、全国の私学経営者の一部は、野球の上手な中学生を全国から集めて寮に放り込み、名ばかりの高校野球部(実態はプロ集団)をつくって、日々猛練習をさせて予選を勝ち抜かせ、「聖地」とやらに出場させる。「聖地」とやらに出場した高校は、全国的知名度を得て、生徒が集まりやすくなり、少子化で縮小するなか、私学経営を軌道に乗せることができる。

マスコミは、「無私」で「純粋」な高校球児とやらが炎天下、「聖地」で「熱戦」を演じるさまを美辞麗句で飾り立てて報道し、自らがつくりだした偶像で視聴率やら販売部数等を増加し経営を安定させる。「聖地」に集まる高校生がまさか酒やタバコをやるはずもない。彼らは「純粋」な、神に召されし球児なのだから。

しかし、ごく普通に考えるならば、それが違法であろうとも、今現在、酒を飲む高校生は珍しくない。飲酒が発覚した高校生が処分されることもあるだろうし、不問に付されることもあろう。まして、大阪出身の中学生が、遠い青森という異郷の地で入寮生活を強いられたうえ、毎日過酷な練習に耐え、レギュラー争いに明け暮れるような生活を続ければ、ストレスもたまる。久々に帰郷して緊張がほぐれ、結果、飲酒や喫煙に走るようになる傾向は納得できなくもない。そんな問題を抱えた高校生は、全国に数えきれないほど存在している。それが実態なのだ。

筆者は当ブログで何度も「甲子園」を批判してきた。「甲子園」の裏側にいかなる実態が隠されているか、はっきりさせるべきなのだ。

高校生にとって、全国規模のスポーツ大会は必要であり、筆者はそれを否定するつもりはない。ただ、「甲子園」だけを特別視することは、もう、やめるべきなのだ。高校生のスポーツ大会としては、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)がある。野球という競技をそこに統合させればいい。報道の量も質も、現行のインターハイのレベルで十分だ。

インターハイにおいても、高校生のプロ化が進んでいるかもしれない。それでも、「甲子園」の過熱ぶりはないはずだ。インターハイには、高校経営者が期待する投資価値が見出せないからだ。インターハイで優勝したとしても、マスコミの扱いは甲子園と比較できないほど小さいため、彼らが「甲子園」に投資して得てきたリターンは期待できない。インターハイは高校経営者及びマスコミにとって、収益が上がらない無名のイベントにすぎない。インターハイは「神がつくった舞台」ではないし、「神聖」でもない。高校の体育系部活の全国大会に過ぎないからだ。でも、それで十分ではないか。

被災地の人々がどう考えているかは別として、高校生の野球が被災地をはじめとするそれぞれの故郷を代表するいわれはない。彼らが「勇気」や「感動」を被災地や故郷に与える義務はない。発展途上にある高校生に、そのような重圧を与えることは教育に反する。野球をする高校生たちの故郷は、高校の所在地とはまったく別なのだから。

「甲子園」の神聖化は、原発の「安全神話化」とまったく同じ構造をもっている。「甲子園」の裏側に、数えきれないほどの不正、反教育、非人間性、暴力等が行われていても、それらは「神」の名の下に隠ぺいされる。主催者、マスコミ、高校経営者等の売上・利益が上がれば、それでいいという態度だ。3.11の後、被災地の名の下に美化された「甲子園」のフィクションが明らかになったいま、高校生の野球を「甲子園」の呪縛から解放し、普通の部活動に一刻も早く戻すべきではないか。

2011年8月22日月曜日

無題

@Sendagi

三四郎池


熱中症が頻発した暑さから解放されて、ここ数日は過ごしやすい日が続いている。

雨も降りそうもないので、近くの東大本郷構内を散策。

拙宅から徒歩で20分ほどだ。

三四郎池は水が汚い。

2011年8月15日月曜日

『原発の深い闇』

●別冊宝島[編]  ●宝島社  ●980円


3.11による福島第一原発事故により、日本の原発ビジネスのインチキ性が暴露された。インチキが白日の下に晒されたことは結構なことだけれど、原発事故の深刻さは想像を絶するものであり、多くの日本人の生命が危機に晒されることとなってしまった。

○3.11以前

原発が唯一の被爆国である日本で製造・稼働するようになったのは、米国の原発ビジネス推進の結果である。米国は冷戦下におけるソ連(当時)との平和共存が定着して以来、核の平和利用を世界的に喧伝し、原発を各国に売り込んだ。被爆国日本がそれを受け入れることは容易でなかったものの、中曽根康弘(大勲位)らの保守政治家、そして、正力松太郎(読売新聞社主)らのマスコミ人の尽力により、原発ビジネスを軌道に乗せることができた。正力松太郎は米国CIAのエージェントであったことはよく、知られている。

そればかりではない。冷戦下、平和共存といえども、米国にとって東側(ソ連・中国)は、脅威であり続けた。自由主義圏に属する極東の日本が原発を製造・稼働させることは、日本が潜在的核保有国であることを東側に見せつけることになる。日本における原発の存在は、軍事的プレゼンスとしての役割も果たした。

日本の原発ビジネスの特徴は、電力会社がそれを開発・運営するところにある。日本の電力会社は、地域別に編成されていて、各市場を独占している。しかも、コストを電力利用者に無限に転嫁できる仕組み(総括原価方式)をもっているため、経営は超安定状態を維持できる。よって、開発資金を入手しやすい。機関投資家、金融機関、個人投資家に至るまで、彼らは電力会社にほぼ無条件で融資をし続けてきた。電力債は安全・安定金融商品として、機関、個人を問わず、投資家にとって人気が高かった。電力会社は開発資金を容易に調達可能であった。

原発で潤うのは電力会社にとどまらない。原発ビジネスは電力会社を中心として、商社、原子炉メーカー(日立、東芝等)、原発施設および公共施設を建設するゼネコン、建設業、原発警備会社、はては作業員を派遣する闇勢力、そして原発広報を担当するマスコミ業界等に至るまで、多種多様の事業者が原発に紐づけられている。原発ビジネスはきわめて裾野の広い業態であり、日本の各種企業等にとって、仕入れコストを考慮しない電力会社との取引は、利潤を確保しやすい、低リスク=安全・安心なビジネスとして歓迎された。

しかし、唯一の被爆国民・日本人は核アレルギーが強い。「非核三原則」を建前上の国是としている。そんな中、原発推進派は、それが「絶対安全」なものであることを国民に「周知」する必要があった。そして、そのことに多大なる貢献をしたのが御用学者(アカデミズム)、新聞・雑誌・テレビといったマスコミであり、“インテリモドキ”タレントたちであった。本書は、その代表的存在として、ビートたけし、勝間和代、大前研一らを挙げている。

アカデミズムの世界の腐敗はより深刻である。いま言われている“原子力ムラ”というのは、原発マネーにたかった御用学者の集団のことを言う。彼らは原発の「安全」を社会に喧伝する見返りに、研究費という名目で電力会社から多額の援助金を受け入れ、公私ともに潤ったのである。そればかりではない。彼らは原発建設の安全基準に手心を加えたばかりか、稼働後の監理についても電力会社の側に立った。科学者でありながら、国民の安全、安心をないがしろにした。彼らは原発マネーという悪魔に良心を売った輩である。

電力会社を強力に支えたのは、政治家および官僚である。核アレルギーの強い日本人が「絶対安全」な原発を受け入れるには、カネの力も必要とした。原発を受け入れる地域を選挙区とする政治家は、交付金等を餌にして地元をまとめ、原発誘致を経産省に働きかけると同時に、その見返りとして電力会社を通じて政治資金を得た。

原発の大元締めである経産省は、原発に関する事務を一手にわがものとし(本来、中立の立場を堅持し、原発の安全性を厳正に審査するはずの保安院さえも自らの陣営に引き入れ)、自らの予算と組織を拡大した。官僚は電力会社が吐き出す巨額の出損金を基金として外郭団体をつくり、天下り先を確保した。

3.11以前、原発に係るこうしたメカニズムが報道されることはなかった。それどころか、原発は「未来の希望」だった。日本人は、原発は絶対に安全な(=事故を起こさない)もの、CO2を排出しないもの、過疎地に雇用と富を生み出すものとして、肯定的に受け入れてきた。原発のリスクを考慮しない思考停止状態を日本国民にもたらしたのは、前出の通り、(御用)学者・マスコミ、そして、“インテリモドキ”タレントたちの影響が大きい。

もちろん、原発の危険性や、原発の建設・運営に係る不健全性、不透明性を糾弾してきた学者、ジャーナリストも存在したのだが、彼らは「活動家」とみなされ、「過激派」と同様の扱いをマスコミから受けた。彼らの告発はマスコミから一切無視された。

○3.11以降

そして、このたびの東日本大震災である。地震と津波により、「絶対安全」なはずの原発は、一般の建造物となんらかわることなく、一気に制御不能に陥ってしまった。事故後に起きたことと言えば、①政府による大本営発表、②御用学者およびマスコミによる「絶対安全」報道の繰り返し、③政府・電力会社・マスコミによる情報隠ぺい、④政府・電力会社による棄民政策の推進――であった。原発に対する政府、電力会社、御用学者、マスコミのかかわり方は、3.11以前も以降も変わりない。彼らにとって原発は、「絶対安全」なものであり続けている。

政治家・電力会社・官僚は、“パニックを起こさない”という「大義名分」を念仏のごとく心の中で唱えつつ、「大本営発表」を繰り返しているに違いない。そして、それに唯々諾々と従うマスコミ業の従業者。かれらの頭の中は、“住民に真実を伝えればパニックが起こり、事態はより悪化する”という住民蔑視、愚民思想が詰まっているに違いない。とりわけ政治家は、パニックが起こり、社会不安が生ずれば、自らの政治家生命が失われることばかりを恐れているようにみえる。彼らは、情報を隠ぺいすることこそが「大人」の判断なのだと言いたげだ。

こうなれば、なんでもありである――事故直後、政府は「計画停電」という目くらましを放って、国民の関心を原発事故の恐怖から、停電の恐怖に向かわせた――政府・御用学者は、放射線物質の安全基準を勝手に引き上げた――東電は、放射線物質の測定値を実際よりも低く発表している――被災地の農産物生産者は、産地偽装をして、被災農作物等を市場に闇で流している――御用学者はテレビ出演して、根拠もないくせに、福島原発に危険はない、放出される放射線量は基準値以下だと言い続ける――3.11以後、なにごともなかったのだと。

メルトダウンしたのは福島原発だけではない、政治家・官僚によって構成される日本政府、、電力会社=原発事業者、学者、マスコミ業者、農業従事者・・・国家を動かしている諸機能のすべてがメルトダウンしてしまったのだ。

さて、マルクスレーニン主義によれば、資本主義国家においては、ブルジョアジー(資本家)の利益は国家の共同の利益と見なされる。であるから、プロレタリアート(労働者)はまずもって、資本主義国家(自国政府)の打倒に向かわなければならない、とされる。プロレタリア暴力革命の必然性である。原発は、国家の幻想的共同利益(国益)=ブルジョアジーの利益にほかならないのか――

原発は、電力会社に従事する労働者にとっても利益となっている。民主党(=政権党)には、労働組合を母体とする政治家が数多い。もちろん、原発事業者=電力会社の労働組合(電力総連)を支持基盤として当選した政治家もいる。原発はプロレタリアートの敵なのであろうかというと、そうではない。3.11以降、電力総連=プロレタリアートは、原発稼働を表明しているのである。原発を階級的利害という視点から見れば、ブルジョアジー、プロレタリアート共通の利益を生み出しているように見える。プロレタリアートが反原発を唱えるためには、自己否定という自らが享受している利益の否定から始めなければならない。民主党とその支持者(労働組合)にそこまでの覚悟があるのだろうか。

どうしたらいいのか、その答えは――原発を、現実の利害関係、過去の経緯といったしがらみから解き放つことではないか。3.11以降の日本人すべてが、福島原発事故による被曝を免れない。失うものはなにもない。だからその終息にむけて、自己否定を前提として、その存在のすべてを傾ければよい。過去、そして、いま現在、みずからが享受している(してきた)原発からの利益を否定するほかない。日本人にそれができなければ、原発の呪いからの解放はない。自己否定が原発の深い闇から脱する唯一の前提となろう。

具体策としては、これまで原発の絶対安全性を説明してきた、電力会社、官僚、政治家、学者、“インテリモドキ”タレントらはすべて福島に出向き、防護服を着用して福島原発の修理作業に従事することだ。3.11以前、原発インチキビジネスによって享受した利益を、死を賭した行為によって代償することだ。それができれば、日本という国家は、原発事故を境に変わることができる。

2011年8月8日月曜日

不忍池




上野公園内にある不忍池はいま、蓮が満開である。

蓮はユーラシア大陸各地で尊ばれている。

筆者の想像では蓮を最初に尊んだのはアーリア民族。

同民族がイラン高原、インド亜大陸、ヨーロッパへと移動したことにともない、

蓮を尊ぶ意識がユーラシア各地に広がったのだと思う。

日本人が蓮を尊ぶようになったのも、インド(アーリア民族とアジア系諸民族の混血)を起源とする仏教の受容からだろう。

池の周囲には、名を知らぬ小さな神社があるが、おそらく蓮とは関連がない。

●上野公園

夢見る猫




二匹の猫は概ね別々に寝ているのだが、ときたま、体を寄せ合って眠りにつくことがある。

観察をしていると、それは別々、くっついて、を問わず、猫は夢を見ているように思える。

脚をばたつかせたり、表情を変えたり、立ち上がろうとしたりと、いろいろだが、起きているときの動作をしようとするのだ。

猫の睡眠時間は人間よりはるかに長い。

彼らはどれだけの夢をみているのだろうか。

2011年7月30日土曜日

窓辺

二匹の猫は兄弟のように仲の良いときもあれば、格闘家のように激しく取っ組み合いの喧嘩をするときもある。

喧嘩が終わったあと、二匹は風通しの良い窓辺でくつろぎ、そして、ぼんやり外をながめている。

彼らが部屋の外の広い世界をどのように認識しているのかはわからないものの、自由を望んでいるように見えなくもない。



2011年7月27日水曜日

「神道」の虚像と実像

●井上寛司 (著) ●講談社現代新書 ●760円(税別)




外来の仏教に影響された「神道」

本題には“「神道」の…”とあるが、日本宗教史の入門書といった感がある。日本固有の宗教といわれる「神道」が、外来の仏教の影響を受けたものであることは本書の指摘の通り。そのわかりやすい一例が神仏習合の教義の確立である。それ以前においても、巨大な神社の建立が、巨大な仏教寺院の出現に影響されてつくられたことが知られている。「神道」が宗教として成立を見たのは、仏教との分離結合を繰り返した挙句のものであり、その体系化・教団としての発展も、仏教の影響を受けた結果である。「神道」については、日本人が仏教を受容した状況や仏教勢力の拡大を抜きにしては説明できないため、本書は日本宗教史の入門書風に仕立てられたのだと思う。


神国思想と明治維新後の天皇制全体主義国家

日本人が信仰する宗教の代表といえば、仏教と「神道」であることについては異論が少ない。今日、日本人の多くは、初詣の参拝や七五三のお祝いに神社に出向くし、お祭りでは神輿を担ぐ。その一方、葬式となれば仏式で行うのが一般的である。また、京都、鎌倉といった古都に限らず、日本中の町にはいくつかの神社・仏閣がある。長い年月をかけてそれらが存続しえた理由の1つは、この2つの宗教が国家権力に寄り添って活動してきたからであろう。古代律令制国家からアジア太平洋戦争敗戦にいたるまで、この2つの宗教は国家権力を擁護するイデオロギーの1つであった。そして、その起源は、鎌倉期に生まれた神国思想(①神明擁護、②神孫降臨、③国土の宗教的神聖視)に求められる。

ところで、同様に、世界宗教の1つであるキリスト教も、ローマ帝国がキリスト教を国教として公認したとき(カトリックキリスト教の成立)、それまで、小集団がひっそりと信仰してきた原始キリスト教とは明らかに異なる位相に上り詰めたのである。

明治維新を経て成立した日本帝国は、天皇制全体主義国家として成長を遂げ、帝国主義戦争に邁進した。その間、「神道」は国家神道として、それまでにない独自のイデオロギー的変質を遂げた。「神道」が天皇制全体主義と帝国主義戦争を補完する機能を積極的に、かつ、前面に立って、果たしたのである。

日本のもう1つの伝統的宗教である仏教界が、天皇制全体主義と帝国主義戦争に抗った形跡はなく、仏教も天皇制全体主義と帝国主義戦争に加担したわけであるが、「神道」の比ではない。「神道」は教義および制度において、天皇制全体主義と融合し、また加えて、軍神、靖国神社建立、植民地における神社創建といった象徴的機能をも担った。

こうした国家神道の成立を軍部政権による上からの押しつけ、誘導、教育・教宣の結果であると、見誤ってはならない。国家神道は、大衆のナショナリズム、土俗的信仰のエネルギー、すなわち、下からの押し上げがなければ成り立たない。「神道」が日本人の固有の信仰と不可分であるがゆえに、戦前・戦中の日本の狂信的天皇制全体主義が国家神道として結実してしまったのである。

戦後民主主義と「神道」

アジア・太平洋戦争の敗戦による日本帝国の解体と日本国憲法公布以降、宗教は個人の内面=信仰の位相に還元された。だがしかし、宗教が信者の組織体であり続ける限り、教団が、政治力・経済力を有した世俗の圧力団体であることは、古代社会と変わっていない。今日の日本において宗教団体は――伝統的勢力、新興勢力を問わず――世俗的パワーをもった宗教法人として、戦前ほどではないにしても、日本社会に対して一定の影響力を持ち続けている。

新憲法では国家と宗教の分離が原則となっているが、たとえば、創価学会=公明党が連立与党を形成していたし、宗教法人は国家から税制等の優遇措置を受け続けている。事実上、宗教は宗教法人の認可を国家が独占しているという意味において、かつ、国家が宗教法人を優遇しているという意味において、国家と分離していない。また、選挙時、教団が特定の政党を支持する限りにおいて、宗教と政治は一体的である。実態上、日本の政治は、宗教団体の意向を受けている。

宗教が日本の政治に介入することがあり得るという前提にたったとき、日本人の信仰とはいったいどのようなものかを明らかにしておくことが重要だと思う。70年前、日本帝国は、国家神道を媒介として、天皇制全体主義を完成させた。そして、日本国民及び周辺諸国民を戦争に巻き込んだ。そのような悲劇を二度と起こさないためには、どうしたいいのかということである。

そのことのヒントは本書の後半、著者(井上寛司)による柳田国男の「神道」論批判にあるように思う。著者(井上寛司)は柳田の「神道(シントウ)は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」という「神道」定義に反発し、①「神道」をシントウと発音する呼称の問題、②歴史的な「神道」の実態の問題、③日本の宗教の実態の問題――という3つの視点から批判を展開している。

著者(井上寛司)はマーク・テーウン(ノルウェー・オスロ大学)の指摘、すなわち、「神道」の語はもともと中国で用いられたもので、日本に移入した当初は濁音(ジンドウ)であったこと、それが(シントウ)と清音で呼ばれるようになったのは室町期からであることを前提とし、かつ、「神道」は外来仏教の影響を強く受けたものとして推移、発展して成立をみたものであるから、「神道」は柳田の言うような太古から連綿と続くものでないと、主張する。

このような指摘が誤りだとは思わない。しかし、そもそも柳田国男は、常民の生活=生産に係る儀礼(とりわけ農耕儀礼)、通過儀礼、共同体の統治等の儀礼として執り行われてきたカミ送り、カミ迎えの祭祀に代表される信仰を「神道」と呼んだにすぎない。だから、シントウ、ジンドウというと発音の問題は、柳田国男の認識の外側であろう。柳田国男は、日本人の固有の信仰を、常民(=ふつうの人々)の暮らしに密着し、しかも、ムラ、シマといった小規模な共同体で執り行われてきた幻想過程だと考えた。

それは日常に対して、規律を与えると同時に、反秩序(熱狂)をも惹起せしめるものであった。祭祀は非日常であり、そこに注力する人々の情念の発露をつうじて、豊穣の希求、自然への崇敬、そして、豊穣への感謝、厄災の退出および安寧が祈念されたはずである。

常民の信仰対象がカミであって、それは遠来(山頂もしくは海の彼方)の者であり、神事の間だけムラ、サトにとどまり、それが終わると帰還する者であった。おそらく柳田は、そうした常民の信仰を宗教の概念区分として「神道」と定義したのだと思う。だから、カミを迎え送る祭壇は、ムラであればせいぜい小さな祠で十分であり、シマであれば、たとえば沖縄、八重山・宮古地方においては、御嶽という自然石を積み上げた程度の標で事足りたはずである。巨大な神殿=神社は必要ない。

柳田国男が戦後間もなく、「神道」の概念から、天皇制全体主義国家と一体化した国家神道の要素を排除し、常民の信仰に還元しようとしたのは、象徴天皇制度を擁護することとは関係がない。柳田は自らが再定義した「神道」、すなわち、常民によって連綿と受け継がれてきたカミの概念=原点に、日本人が復帰することを希求したのだと思う。柳田の希求とは、それまで帝国主義戦争を志向し、外国人に対して残忍極まりない行為を繰り返すことにより荒廃してしまった、日本人の心を、一日も早く、帝国主義戦争やファシズムとは無縁の――平凡だが平和な――常民の心に戻すことだったのではないか。

前出の通り、「神道」が常民の暮らしの中で綿々と続いてきた宗教であるからこそ、それが国家と結合したとき、すなわち、国家神道として成立をみたとき、かくも強固な統治イデオロギーとして猛威を振るったのである。換言すれば、「神道」は生活共同体の幻想である。であればこそ、共同体の幻想が国家利害と対立すれば、「神道」が国家統治に与することはない。生活者の幻想=原点が、国家の幻想と対峙することがあれば、「神道」が国家の暴走を阻止するはずである。

では、今日、柳田が希求した常民の信仰に日本人が復帰したのかというと、そうともいえない。戦後の経済の高度成長、情報化、都市化の進展により、日本人が連綿と継続してきた信仰は、その基盤となる共同体の崩壊によって、喪失してしまったからである。国家神道の復帰は、占領軍によってもたらされた「民主化」という改革によって、制度上あり得ないものとなっている。宗教(信仰)は、個の領域に還元され、個の自由の範疇にとどめ置かれている。つまり、今日の日本人は、国家神道の再びの台頭を許さない制度のうえにありながら、柳田が定義した「神道」からも切り離された状況にある。原点を喪失してしまったのである。

2011年7月25日月曜日

猫の性格







猫に性格があることについては、猫を飼う前に聞いたことがあったものの、そのことにあまり関心がなかった。しかし、目の前に二匹の猫が現存するいま、猫の性格の違いというものを実感している。

さび猫のザジは聡明であり、感情がこまやかで人懐こい。一方のシロは鈍重でおっとりしているが、いまだ警戒心が強い。

こうした相違が生まれるつきのもの(種類)なのか、生まれてすぐの育てられた方に起因するものなのかはわからない。

飼い主にとっては、前者のような性格の者は可愛くてしかたがないわけで、わが家ではザジの評価が一段と高くなっている。が、だからといって、シロを邪見にしているわけではない。

そんな評価を知ってか知らずか、二匹の猫は取っ組み合いに励んでいる。

2011年7月20日水曜日

大震災の記録と記憶

@Kesennuma(July-09-2011)

東日本大震災4カ月後の記録をアップした。

昨今、復旧・復興が順調であるかのような幻想を抱かせる報道が少なくない。

希望、一歩前へ・・・という肯定的表現が悪いはずがない。

だが、もっと重要なことは、被災後4カ月の現状を冷静に見極めることではないか。

それを行わないで、「復旧・復興の物語」を勝手に紡いでいいのだろうか。

筆者の抱いた印象では、被災地はきわめて困難な状況にある。

4カ月経ってこれならば、1年経っても、2年経っても事態は好転しないのではないか。

国は東北を見捨てるのか。

2011年7月17日日曜日

白猫のタンゴ



白猫はようやく落ち着き、家の中をわがもの顔で歩き回るようになった。

名前はけっきょく、呼びやすい「シロ」「チロ」に定着した。

「ザジ」がフランス映画に因んだのに比べて、手抜きのそしりは免れない。

もっとも、「リック」(カサブランカ)、ジャン(男と女)等といった、映画の主人公の名前を提案したものの、海外映画を愛さない家人に却下され、きわめて土着的名前に収斂した次第である。

というのも、筆者は猫を飼うことに反対していた。制御できない生命がうっとおしかったのだ。

だから、一匹目の「ザジ」および二匹目の「シロ」に係る監督権もしくは保有権については、強引に猫を連れてきた家人にあって筆者にはない。

2011年7月13日水曜日

再会

8日(金)~12日(火)まで、東北地方の被災地をまわってきた。

5日間ほど家を空けていたわけだが、帰宅後、猫(ザジ)がどのような反応を示すものか、楽しみだった。

再会直後はよそよそしかったが、抱き上げると、のどをごろごろ鳴らして、甘えること甘えること。

ほう、可愛いものよ、忘れなかったかと。

一方の二匹目のチロは、近づくと逃げて行ってしまうではないか。

2011年7月7日木曜日

白猫のプロフィール



もとの飼い主さんの覚えによると、白猫(♂)は2011年3月29日(ころ)、足立区小台で生まれている。

その飼い主さんは里親探しをボランティアさんに依頼し、それを受けた拙宅近くのボランティアさんがウエブを通じて里親を公募。

家人がその情報をみてお見合いが実現した。

先にやってきた「ザジ(♀)」の誕生日が同年4月13日(ころ)であるから、2週間ほど白猫のほうがお兄さんになる。

体も一回り大きい。

「ザジ」はいわゆる「さび猫」で、外形が汚いので別名「雑巾猫」ともいわる。

当然、人気がない。

一方の「白猫」は目の色が赤くないので、アルビノではないと思われる。

名前は、呼びやすい2音ということで、「チロ」に内定した。

きょうは、2匹がくっついて昼寝するまでに親密になり、じゃれあいも落ち着いてきた。

2011年7月6日水曜日

神話の崩壊

● 時代遅れの「闘将」

プロ野球界における神話崩壊の代表は、被災地復興の象徴的存在として注目された楽天・星野監督だろう。楽天の不調は今シーズンから指揮を執った星野新監督の手腕に問題があることは明らか。まず、「得意の人事」では親友の田淵を打撃コーチに招聘しながら、チーム打率が悪化し、どうしようもなくなって田淵の打撃コーチの肩書を外した。星野・田淵コンビがどうしようもないのは北京五輪で証明済みだったはず。

頼みの投手陣も崩壊した挙句、なんと、投手陣に五厘刈り指令を出したという。丸刈り指令といえば、旧時代的体育会の蛮行の象徴で、暴力制裁の代替手段である。スポーツの結果と髪型の間には、いかなる因果関係も見いだせない。にもかかわらず、間違った「精神主義」が楽天・星野監督の得意技なのだ。こんなことで不調な投手陣が蘇るなら投手コーチの代わりに理容師を雇用したほうがよい。

●「ドームラン」の減少で巨人野球は崩壊

統一球(低反発球)導入で日本プロ野球に異変が起きたことは、すでに多くの報道の通り。なかでも「被害甚大」なのが読売だろう。加えて電力使用制限により、狭くてホームラン気流の疑惑をもたれている東京ドームの使用回数が減り、打撃陣がさっぱりだ。

統一球の影響は読売だけではないが、打撃技術が低レベルで芯を外していても東京ドームならホームランが打てた小笠原、ラミレス、阿部、坂本らの長打率が低下し、読売はさっぱり勝てなくなった。

なお、打撃不調の要因は、主審のストライクゾーンが広がったこともある。使用電力制限のもと、投手戦を多くして、試合時間短縮を図っているものと推測する。

●被災地の高校野球部の不祥事を報道しないマスコミ業界

高校野球の神話については何度も当該コラムで書いている。甲子園常連の高校野球部が「プロ選手」で構成されていることは明らかなこと。野球部員が特待生もしくは、学業成績は二の次、三の次の野球専門人間であることは常識。彼らが「純粋な青年」であるはずもなく、彼らには勝つための異常な練習と精神修養が課せられる。

常軌を逸した、いびつな高校生活で溜め込んだストレスが、彼らを禁酒・喫煙、下級生への暴力行為等に駆り立て、彼らを犯罪者に仕立て上げる。もちろん、甲子園野球高校生のすべてが、犯罪者になるわけではないが、犯罪者か、純粋野球高校生か、を分かつのは、いかなる管理システムの下に置かれているかの差異に基づくにすぎない。

正常な判断力をもったスポーツジャーナリストならば、教育的見地から甲子園高校野球の正常化を求めるべく筆をとるのが一般的だ。だが、マスコミにとって甲子園高校野球が金もうけの手段だから、批判は控える。大相撲が力士一座の興行でありながら「スポーツ」とされるのと同じことだ。

甲子園野球高校生を「球児」なる珍妙な日本語で神話化してきたのがマスコミだ。高校生は正常な判断力をもった青年であって、だんじて「児」ではない。だから、学業・クラブ活動・趣味等に励むことが普通であり、バランスのとれた高校生活を送ることが望まれる。野球部に属する者もそうでない者も犯罪に手を染めてはいけないし、非行があれば矯正しなければなるまい。「球児」だけが特別ではない。すなわち、高校生のクラブ活動の全国大会に国中が注目する必要はなく、その反対に、高校生の軽犯罪レベルの非行にも全国が注目する必要はない。甲子園「球児」の「活躍」も、その犯罪・非行のどちらも、マスコミが大々的に報ずる価値はないのであり、報ずることが誤りなのだ。

さて、大相撲の「八百長」が問題視され、「正常化」が求められていたが、一場所休業で禊とされたようだ。愚かな話だ。スポーツでないものに「八百長」はない。つまり、相撲が古典芸能としての娯楽であると国民が納得しているように、マスコミもその限りで報道すればいいだけの話なのだ。

同様に、純粋でない「球児」の異常な甲子園野球を高校生によるプロ野球だと認知すれば、特待生制度も度を越したスカウティングも認められる。米国流の呼び方にならえば、ルーキーリーグ(マイナーリーグ)の創設である。(日本の場合はマイナーリーグである甲子園高校生野球のほうが、プロ野球一軍=メージャーリーグよりも人気が高いのだが。)

被災地の高校野球部員が窃盗をはたらいたという事件があった。いかなる状況にあっても、高校生の犯罪が許されるはずはない。一方、ある宗教系高校の野球部で暴力事件があった。どちらの高校生にも、適法な処分がくだされ、それまでだろう。ところが、甲子園野球の主催者は、前者を不問に付し、後者には大会予選不出場の罰を科した。もちろん、高校側の自主的な判断という外形をとってはいるが。

マスコミは前者については報道せず、後者についてはその旨を報じた。かかる報道基準のアンバランスは、彼らが捏造してきた商品価値を守らんがためだ。マスコミにとっては、被災地の甲子園常連高校に不祥事があっては不都合なのだ。甲子園野球の隆盛こそが復興の「シンボル」であり、被災地の高校が勝ち進むことこそが望ましい。負けても被災地「球児」の「熱闘」を報ずることでマスコミ業界の売上が上がるのだ。だから、甲子園野球の価値を貶めることがあってはならない。よしんばあったとしても、報道しなければそれは「なかった」ことなのだ。

●神話を壊して、スポーツ本来の価値をみよう

もういい加減、巨人(読売)、星野監督、甲子園といったスポーツの神話に“サヨナラ”をしよう。いま、原発の安全神話が崩壊し、多くの原発近隣住民が過酷な現実を強いられている。神話を信じることは、思考停止の居心地の良さを手に入れられるが、現実の当事者のおかれた非人間的扱い、苦悩、まやかしに目をつぶることになる。

現代の神話の創始者は、テレビ・新聞といった大手メディア=マスコミ業界だ。原発の神話もそうであり、スポーツにおける数々の神話も同様だ。

そうこうしているうちに、サッカーの若手がW杯で強豪国に勝って、ベスト8を果たした。また、女子サッカー日本代表がW杯において、予選リーグ突破を果たした。神話に係らない世代、カテゴリーがグローバルな強さを身に着けてきている。Jリーグの若手選手が欧州に渡り、そこからさらに上のチームへのステップアップを試行しようとしている姿は珍しくなくなった。

甲子園野球というドメスティックなカテゴリーで野球漬けの毎日を過ごしている若者よりも、サッカーというグローバルな競技の世界大会で好成績を上げた若者の姿を大きく扱うことのほうが、スポーツマスコミの正常な報道基準なのではなかろうか。マスコミ業界では、若者のサッカーは、甲子園球児よりも稼ぎが少ないのだろうか。

神話に係らないスポーツが日本で隆盛を極める日は、近いのだろうか。

新旧二匹の猫が仲良しに



3日にやってきた白猫とザジが、4日目にして互いにじゃれあうまでの仲良しになった。

小さなザジが大柄な新参者を威嚇し、勢いに押された白猫がおずおずと後ずさりを繰り返していた前日までの光景が嘘のよう。

動物同士のコミュニケーションのとり方は、人間にはわからない。

2011年7月5日火曜日

二匹目の猫



二匹目の猫が7月3日にやってきた。

お見合いが終わって飼い主が帰ってしまったあと、家具の下に入ったまま出てこない。

今朝(5日)になってようやく姿を現すようになり、抱かれるまでに慣れた。

新旧の猫は、互いに反目しあっているようだが、次第に接近し距離を縮めてきつつある。

だが、一緒に戯れるまでにはいたっていない。

2011年7月3日日曜日

白猫が来た

家人が猫に取りつかれ、ご近所の方の斡旋により、二匹目の猫として、「白猫」がわが家にやってきた。

名前はまだ決まっていない。

環境に慣れないためだろうか、家具の下に隠れたまま、姿を現さない。

当分、写真は撮れそうもない。

すでに紹介済みの「ザジ」は、自分より体の大きな「白猫」の到来に怯えて、おとなしく寝たままだ。

二匹が喧嘩しなかったことがせめてもの幸いなのだが、この先どうなるか、不安である。

2011年7月1日金曜日

猫の支配力

猫を飼い始めてから2週間が経過したところで、NHKBSが猫と芸術家にまつわる自伝的物語を4話連続で放映した。その4人とは、藤田嗣治(レオナルド・フジタ)、内田百閒、向田邦子、夏目漱石。ドラマの内容については、平板で新しい発見はなかったものの、猫と人との関係を改めて確認することはできた。

猫とはよくいわれるとおり、両義的な生き物だ。静と動、家畜性と野獣性、親愛と無関心といったところか。しかも彼らは、人(飼い主)の支配を拒否する。人に依存していながら、自由であろうとする、誠に身勝手な生き物なのだ。筆者は猫を飼ったことがなかったので、先人のこのような指摘がこれまで実感できなかったのだが、手元に猫がいるようになってはじめて、そのことがよく理解できるようになった。

猫の両義性とはすなわち、自由の別言だ。人は他者とのさまざまなしがらみの中で、他者を無視することができない。煩わしさを感じつつも、関係のなかで生きざるをえない。その一方、猫は飼い主からの要望を無視し、猫(自分)の信ずる行動をこともなげに選択できる。そのような身勝手さから、猫は、男性からは悪女に、女性からは親友に喩えられることが少なくない。筆者は男性なのでその立場からいえば、向こうから一方的に甘えられたのだから、次はこちらから積極的にアプローチしてみると、こともなげにはねつけられる。猫は悪女に似ているというよりも、悪女そのものなのだ。このような猫の不可解さが聖性や魔性に転化したりもした。「神の使い」であったり、「化け猫」にもなったりした。

前出のテレビドラマの例にもあるように、猫は人の精神性に関与する。4人の芸術家の不幸の傍らに猫がいて、猫が彼らの精神の病を救ったことはまちがいない。猫に限らず、動物のセラピー効果については科学的に証明されていることなのだろうが、猫の場合は、それとも違うような気がする。筆者の解釈では、猫は時間に関して無為なのであり、そのことが人の精神の病を救うのだと思う。猫と遊んでいる時間、猫と一緒に寝ている時間・・・を共有していると、一日がかくも短かったのだと驚くばかりだ。その結果、猫と一緒にいると、飼い主は猫にいつのまにか支配されていることに気がつく。過剰な自意識に囚われた飼い主にとって、無為の到来、主客の逆転の時間の獲得は、奴隷の自由の享受ということになる。TVドラマの中でも、内田百閒や漱石が愛猫の失踪に心を痛め、右往左往したことが描かれていた。このことは、猫の支配力の傍証でなくてなんであろう。人が猫に救われるのは、猫による「癒しの効果」というよりも、猫に支配される奴隷の自由の享受によるのではないか。

こうして、古来、猫は家畜として独自の地位を占め、今日に至っている。

●縫いぐるみの「クマちゃん」を攻撃



●猫は一日のほとんどを寝てすごす

2011年6月25日土曜日

凌霄花(のうぜんかつら).

@Yanaka