2017年1月30日月曜日

『なぜ、猫とつきあうのか』

●吉本隆明〔著〕 ●河出文庫 ●580円+税

著者(吉本隆明・1924-2012)は、戦後のある時期、もっとも強い影響力をもった思想家の一人であった。と同時に、大の猫好きであったことが知られている。本書は吉本が聞き手(岡田幸文、山本かずこ)の質問に回答する箇所と、その内容にほぼ重複する短文(『猫の部分』・月刊ねこ新聞)とで構成されている。

ばなな曰く、盛り上がらないこの本

本題からすると、大思想家が、人類にとってもっとも不可思議な存在の一つである猫について、真正面から挑んだものではないかと期待を覚えるのだが、読後、それはみごとに裏切られる。吉本ばなな(隆明の次女)が、あとがきで次のように書いている。

それにしても、この本の、なんとなく盛り上がらないというか、無理がある感じが、なんとも間が抜けていてよく、妙な味が出ていますね。作っている人たち全員(父を含む)の困った気持ちが伝わってくるようだ。(P205)

このことは、前出の聞き手の力量不足もしくは吉本の手抜きによるものではもちろんない。おそらく、吉本が猫についての過剰な思い入れや擬人化を意識的に排したためだろう。読者であるわれわれは、本書を読む前、吉本から猫が“革命の象徴である”とか、“自立を体現するもの”とかの言説を無意識に期待していた。だが、最後までそのような言葉は吉本から聞かれない。

猫とはどんな存在なのか――についての吉本の回答は平凡だ。おそらく、吉本は自分が生物学者、動物行動学者等の猫の専門家ではなく、一介の飼育者である分をわきまえたのだ。今日、およそ巷に大量に出回っている“猫情報”のたぐいは科学的根拠の薄いもの、限られた経験に基づくもの、類推に当たるもが大半を占めているに違いない。猫の心はだれも知ることはできないのだから。

動物の行動を人間の道徳規準で評価しようとする社会

猫ブームの背景にある猫の物心化にいたっては、現代人の思い入れにすぎない。そもそも猫に限らず、人間が動物の行動に共感・共鳴する尺度は、人間の道徳規範に規定されている。

そのことを代表するのが「忠犬ハチ公」の物語だ。Wikipediaによると、主人公となったハチと呼ばれる犬は、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で10年間ものあいだ待ち続けたとされる。

ハチが飼い主である上野英三郎(大学教授)に飼われたのが1924年、そして英三郎は翌年(1925年)に急死した。その後、1934年に渋谷駅前にハチの銅像が建てられ、同年にハチの話は、尋常小学校の修身の教科書に採用されるようになった。1934年といえば、日本が天皇制軍国ファシズム体制に突き進んでいった時代、翌年には「国体明徴の宣言」が発せられている。国民よ、忠犬となって国に仕えよと教えられたわけだ。動物の行動がときの天皇制軍国ファシズム政権にとって有益な「道徳」規準に叶ったということになる。

一方、猫が反権力や実存主義、自由の象徴となったのは、『老人と猫』の著者、ニルス・ヴッデンベリによると、「ジャンコクトーが犬より猫のほうが好きなのは警察猫というものがないからにすぎない」といったことを嚆矢とするらしい。コクトーは、「人間に嬉々として従う犬の忠実さはまさに悲劇だ」ともいったようだが、その真偽のほどは定かではない。

とまれ、猫型人間という概念が定着し、猫は、組織に対する帰属意識を嫌うタイプの人々から圧倒的支持を受けるようになり、今日に至っている。コクトーの“警察猫”発言がいつ発せられたのは不明だが、彼が活躍しだしたのは20世紀初頭からだから、そう遠い昔のことではない。

筆者を含めた吉本支持者は、すくなくともコクトーなみの猫賛美を本書(の吉本の発言)に期待していた。しかし、吉本は慎重に言葉を選びつつ、「猫は(犬にくらべたら)、横に生活している」と断言するにとどめる。また、猫について、「最後の一点で猫は・・・個々の人間に絶対の信頼感をもって関係を結ぶというふうにおもっていないところがある・・・」(P163)と距離を置く。猫に対する過剰な思い込みを自ら戒めようとしているかのように。

猫から教訓をえようとは考えたことがない

吉本は猫に愛情をもっていないのかというと、そんなことはない。本題にあるように、“なぜ猫を飼うのか”と問われて、「こっちの勝手でもって親密関係を結べるみたいなところがいちばんいいような気がします。猫のことを察してやらなくても親愛感というのは結べるというのが、いちばん猫を飼っている意味みたいな気がします」と答えている。そして加えて、「猫から何か教訓を得るみたいなところまでかんがえたことないんです」とも。

また、短文のなかでは、「おまえはなぜ猫を飼うのかと質問をうけるとすると…子どものときは父母が猫好きでいつも家のなかに居たから、ひとりでに親密となったということだと答える…」ともいっている。吉本隆明はあくまで、猫に対して自然体を崩さない。

外猫と内猫の相違

さて、筆者も猫を飼っているのだが、猫に対する感じ方は吉本のそれといささか異なる。その相違は、猫の飼育環境の相違に起因すると思われる。吉本の猫たちは、家の外と内を行き来する「外猫」と呼ばれるものだが、筆者の飼い方は家の外に一切出さず、家のなかだけで飼う「内猫」と呼ばれるもの。前者は行動範囲が広く、野良猫や犬等の動物と接触するし、自動車、自転車等の危険にさらされる。また、高い建物の屋根や塀などに昇り降りをするし、植物、異物と接する。後者は狭い室内でほぼ、飼い主としか接触しない生活を送っている。そのため、病気やけがの心配がなく、清潔である。吉本は、庭のある戸建て住宅で猫を飼っていたのだろうが、筆者はマンションで猫を飼っている。その相違だ。

外猫は野生を色濃く残す一方、内猫は人間との接触しかないから、人間化が進む。両者のおかれた環境の相違が、猫の性格や行動の相違となってあらわれる。内猫は外猫に比べて人間に対する信頼度は高いだろうし、外敵から守られているから、おとなしい性格になりやすい。だから、前出の吉本の「最後の一点で猫は・・・個々の人間に絶対の信頼感をもって関係を結ぶというふうにおもっていないところがある・・・」とは、筆者には思えないような気がする。もちろん、筆者の思い込みで、猫から裏切られる可能性も否定できないのだが。

2017年1月25日水曜日

疲労骨折か?


24日の朝起きたら足首に違和感が。

スポーツクラブに行こうと思って外に出て、それから数メートル歩いたところで歩行を断念。

家に引き返し安静。

今朝は歩けそうな感じだったので近くの病院へ。

レントゲンなど撮って骨に異常はなかったものの、

疲労骨折の疑いもあると脅された。

医者が骨密度が低いかもしれないからと、「骨密度検査」を受けることに。

結果は数分で出て、異常なし。

同年齢平均値の108%、成人若年者の平均値の93%と、正常値を上回るものであった。





2017年1月20日金曜日

『日本会議 戦前回帰への情念』

●山崎雅弘〔著〕 ●集英社新書 ●600円+税

多数刊行されているという“日本会議もの”を取り上げるのは、『日本会議の研究』(菅野完著)に次ぐ。両書を比較すると、日本会議とは何か、かれらが何を目指すかという記述内容において差異はない。本書の特徴を敢えて挙げるならば、日本会議の思想的背景となる国家神道に注目している点。ゆえに、国家神道の復活を図る団体(=神社本庁)が日本会議と並行して論じられている。もちろん両者は親密不可分な関係にある。

日本会議は戦後社会を否定する

日本会議が何を目指すのかといえば、本題にもあるように、戦前・戦中の日本社会への回帰となる。彼らは日本の戦後社会に否定的だ。

日本会議は戦後日本について、GHQの指導の結果、日本の「伝統」を逸脱したがゆえに堕落し退廃したと考える。当然、戦後精神を代表する日本国憲法を否定し、明治憲法に回帰しようとする。戦後憲法の真髄は、反戦平和主義、基本的人権の尊重、象徴天皇制であるから、それが戦後社会の堕落頽廃の根源だと考える。彼らが望む「日本の伝統」に立脚した国家の再建というのは、天皇を頂点とした神国日本(国家神道)の復活だから、日本会議と神社本庁の共闘は必然である。

宗教界にかぎらず、現政権(安倍政権)の閣僚は日本会議メンバーで占められている。また、国会議員にとどまらず、地方議会においても、日本会議メンバーの議員が増加しているし、言論界、文化領域においても、「日本会議文化人」が発言力を強め、各方面に影響力を与えるようになってきた。その反面、政権批判をする知識人、ジャーナリスト等は、メディア業界から追放されているともいう。

日本会議のいう「日本の伝統」は維新政府の創作にすぎない

日本会議が評価する戦前戦中の日本社会とは、「日本の伝統」とは縁もゆかりもない。1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの77年間の国家体制を大雑把にいえば、西欧に成立した立憲君主制を模倣した、維新政府創作になる宗教的国家だといえる。西欧を模倣しつつ、「日本の伝統」のメッキをはった付け焼刃の「近代国家」だ。

明治維新で新たに権力奪取した薩長勢力は、西欧の立憲君主制の王権に天皇を代替的に挿入し、かつ、帝国議会開設によって「立憲」の体裁を繕った。維新国家が近代国家の要件を整えていることを列強に示したのだ。

ところが、以降、軍部、国粋主義者の台頭によって、維新国家は天皇制ファシズム国家へ変質した。それは「国体明徴宣言」を機に、一気に、土着的宗教(国家神道)と軍国主義が融合した全体主義国家化する。

真に戦後の日本社会の堕落頽廃を象徴するもの――米軍基地と化した祖国の姿

かくしてその帰結は、320万近くの日本国民の犠牲を伴った敗戦(国家の危機)であり、その後今日まで続く、米軍による祖国占領状態だ。戦後日本の堕落頽廃をもっともよく象徴するのは、祖国が米軍基地となり、わが国の政権が米国の指示の下、あれこれ走り回る嘆かわしい姿ではないのだろうか。

竹島奪還、尖閣防衛と日本会議は叫ぶけれど、日本が奪還すべきは沖縄、横須賀、佐世保、岩国、横田…ではないのか。そればかりではない。日本人の堕落頽廃は、先の大戦末期、日本に原子爆弾を投下し、およそ60万人が無差別殺害された米軍の戦争犯罪を告発しない政治状況ではないのだろうか。

「日本の伝統」復活は日本会議の偽看板

日本会議が戦後を頽廃堕落した社会とするのならば、その是正は、多数の国民を犠牲にしたうえで敗戦を招いた戦争責任者の追及から始めなければなるまい。加えて、日本の占領状態を放置し続ける戦後の保守(自民党)政権打倒こそがテーマとならなければいけない。日本会議がそれをしないのは、かれらのいう「日本の伝統」への回帰が偽看板にすぎないからだ。かれらの本質は、▽現政権に反対する勢力の抑圧、▽自由な言論の弾圧、▽米軍の補助となって自由に戦争できる日本軍の創設――つまりは、日本国憲法が保障する、自由な言論と基本的人権を尊重する戦後社会の破壊にある。

国家神道国家の復活を夢想する自由

日本が天皇を頂点とする神の国であり、世界に例をみない理想郷だとする観念(思想、宗教)をだれも排除できない。ヘブライ(ユダヤ)人の神話(旧約聖書)を信ずる人が世界に何億人いることか。思想信条の自由、信仰の自由は全世界的に保障されている。欧米にはいまなお、白人至上主義を是とする団体がいくらでもある。アーリア同胞団、KKK、神聖十字団、アーリア=ゲルマン協会・・・それらの多くはナチズムといまなお親和的関係にある。しかしながらそれらが合法的に活動し、入会者がいかなる神を信仰しようとも、それを禁止することはできない。

同じように、日本会議の活動、綱領、国家観、宗教性を弾圧することはできない。日本人の多くが、日本会議が標榜する国家神道に基づく天皇制全体主義国家体制を支持するのならば、日本は戦前回帰する。民主主義(多数決原理)が民主的国家を破壊する。いま現在の情況は瀬戸際にある。

観念の相対性

そんな危機感に抱かれながら、頭の中をよぎったのは、吉本隆明が『マチウス試論』のなかで用いた〈関係の絶対性〉だった。
秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(『芸術的抵抗と挫折』「マチウ書試論」)

〈関係の絶対性〉を一言で説明するのは難しい。が、谷川雁が「庶民・吉本隆明」の中で用いた説明がわかりやすい。雁は〈関係の絶対性〉について次のように書いている。

・・・それ(関係の絶対性)は観念の相対性と同義語にすぎないが、にもかかわらず・・・関係の絶対性とよぶか、観念の相対性と表現するかには微妙なちがいがあるのだ。
それは紙一重というよりもさらに薄い皮膜の表裏であろうけれども、形式論理が弁証法へ、観念論が唯物論へと回転してゆく過程のもっとも内密な移行の段階がかくされている。観念の相対性というばあい、それは唯物論へ移行しきった直後の完了した視覚があるのにたいして、関係の絶対性とよぶかぎりにおいてなお関係それ自身の物心化という主観性がぬぐいさられていない前唯物論的な匂いを漂わせているからだ。(『汝、尾をふらざるか』「庶民・吉本隆明」)

雁のこの評論は、吉本隆明について「彼は唯物論に膚接する観念論の壁に沿って動きつづけ、記録と意識にたどりつき、群衆と存在の側へはがんとして移ろうとしない」(前掲書)として、吉本批判に終始する。

なお雁は、前掲書前段で、「関係の絶対性という概念・・・はフォイエルバッハがヘーゲルにたいして加えた修正とどんなにちがうのであろうか。関係の絶対性は必然に意識にたいする存在の優位に達するはずだ。しかし彼(吉本)はそのような認識の冷静さに頼ってはいない。彼は唯物論の第一命題にすわりこもうとはしない。」と、吉本を称賛しておきながら。

わたしも〈関係の絶対性〉という概念をつかって、(フォイエルバッハがヘーゲルを批判したような)宗教(=日本会議)批判を展開するつもりはない。運動と倫理の関係に深入りする気もない。それよりも、観念の相対性批判の根拠となる唯物論に依拠するとはどういうことなのか、唯物論とはなにか――という問題意識に立ち帰る。

唯物論(意識に対する存在の優位)とは

唯物論とはなにかを簡単に説明することは難しい。だがそれを大雑把にいえば、人間の営み(存在)とはなにかというところに行き着き、それを別言すれば、人間の本質は労働となる。狩猟、採集、農耕、遊牧、生産、製造、交換、流通、交通…それを経済過程といってもいい。そしてそのときどきの支配的な生産様式に規定された変化が歴史(史的唯物論)である。いま現在支配的な生産様式は資本主義であり、そのときの支配層が政治的ヘゲモニーを握っていると。

日本会議のイデオロギーは先述のとおり、神の国の再建であるが、実質は現政権が推進しようと図る、基本的人権の制限、米国に追随する戦争国家構築に与するもの。戦前回帰は偽の看板にすぎない。「日本の伝統」という仮面をかぶった、米国追随の非民主主義的国家構築という安直で危険な政治運動である。

だが、〈観念の相対性〉という自由、思想信条の、そして信仰の自由という先験性によって、かれらもわれわれもいま守られている。ならばそのような均衡状態を突破するためにはどうしたらいいのか――

第一に、徹底した理論闘争の開始である。日本会議の「伝統」が日本歴史のごく限られた、しかももっとも悲劇的な時代の産物にすぎないことをかれらとの論争を通じて明らかにすることだ。

同時に、かれらを公開の場に引きずり出して、メディアの力によって、彼らの本意を糺すことだ。日本会議の得意技は、光の当たらない地道な市民運動の積み重ねにある。その継続性によって、政権与党に接近することができた。その一方、彼らは反対勢力を一方的に批判するが、理論的ではない。彼らの弱点は抒情的であり情念的であるが理論性を欠くところだ。

彼らに対する公開の理論闘争をいま以上に活性化し、観念に対する存在の優位性を確信する者がいま以上に結集すること、そのような「われ」が多数派となる以外、日本会議の台頭を封ずるみちはない。

2017年1月10日火曜日

遅ればせながら、

新年、初カラオケ

根津「やま」

2017年1月8日日曜日

挑戦しないことが最大の失敗


お正月、地上波・BSTVに辟易して、CATVでUFCの再放送を眺めていたところ、プロレス界のレジェンド、CMパンクのMMA転向デビュー戦(2016/9/10)をみることができた。試合はパンクの惨敗。MMAの若手に1R数分でタップアウト。まるで試合にならなかった。

しかし、パンクの試合後のマイク・パフォーマンスがすごかった。彼は「(試合に負けたことより)挑戦しないことが最大の失敗なんだ」というような意味のことをいった。MMAに挑戦しなければ、パンクは「世界一強い男」でいられたかもしれない。だが彼はMMAに転向し挑戦した。その結果、無名の若者に惨敗した。彼の転身は結果からみれば大失敗だし、無謀とも思える。MMAとプロレスはまるでちがう。プロレスは格闘技ではないからだ。

パンクの転身はカネのためだとする報道もあるし、所属団体(興行元)とのトラブルからだという説も否定できない。そうなのかもしれないが、彼が敗ければ、彼が築いてきた名声を失う可能性もあった。彼を支持してきた全米の多くのファンの失望を買うかもしれない。そして、パンクは負けた。

さて、彼の地元クリーブランドで行われたこの試合、彼のマイク・パフォーマンスは観客から絶大な拍手と声援で受け入れられた。アメリカ人、少なくともクリーブランドのパンクファンは、パンクの失敗を非難するどころか、彼の「挑戦」を称賛した。結果がすべてではないことを肯定した。


「挑戦しないことが最大の失敗」、そうだな、オレの人生はまさにその意味で失敗だな・・・なんて、神妙な気分にとらわれた。自分は煩わしさ、鬱陶しさから逃げてきたというより、それらを避けてきた感が強い。

結果がすべての新自由主義の世の中、若い人が委縮しているように思う。パンクがプロレスからMMA転向を発表したのは36才のとき。そして2年間のトレーニングを積んで38才でUFCの檜舞台を踏んだ。格闘家としては若くない挑戦である。もちろん、パンクがMMAでこの先成功するかどうかはわからない。筆者はMMAの専門家ではないので、彼のMMAの才能を見極めることができない。けれど、「挑戦しないことが最大の失敗だ」というパンクの言説は心に響く。正月、いい番組を見られた。その意味で「偶然」に感謝したい。

2017年1月3日火曜日

新年会

ベトナム人留学生のCaさん、娘夫婦が集まって、新年会。

異国からやってきて、頑張ってるな。


2017年1月1日日曜日

門松や冥土の旅の一里塚

谷中

2016年12月31日土曜日

大晦日、

佐藤さん宅にて、年越しパーティー。

谷根千の飲み屋仲間が集まりました。

日本酒、焼酎の一升瓶、ワインボトルが空いてゆく。



お寿司にはアボガド巻きが


イチゴ・ケーキまで



2016年12月26日月曜日

なぜか黄色の実?(谷中)

枝から、黄色い袋のようなものが垂れ下がっていた。



2016年12月24日土曜日

谷中寺町美術館、「ブリコラージュ展」




Jack and Scott

クリスマスイヴ、JackとScottが拙宅にやってきた。

下手な英語で話して飲んで食べて、楽しかった。

日本酒が好きなのに驚き。





2016年12月23日金曜日

鹿島アントラーズの傷


FIFAクラブワールドカップ(CWC)は開催国枠で出場した日本の鹿島(J1優勝)が決勝進出。欧州大陸王者のレアルマドリードと90分間では2-2と善戦した。延長で鹿島は4-2で負けたものの、鹿島の奮闘に対して世界中から称賛が寄せられた。

さて、鹿島アントラーズとは不思議なチームである。先のJ1優勝決定戦では3位の位置から勝ち上がり優勝をさらった。鹿島の優勝については、拙Blobにおいて、Jリーグの優勝決定システムの瑕疵を指摘しておいたので、繰り返さない。もちろん真のJ1王者は、前後期を通じて最も勝ち点を上げた浦和レッズである。

鹿島は、CWCでは開催国枠で出場権を得た。アジア大陸枠からはACLを制した韓国の全北が出場したのだが、準々決勝で北中米大陸王者のクラブアメリカに1-2で負けた。開催国枠とACL優勝枠とは出場の重みが違うと筆者は思う。もちろん大会レギュレーションでは開催国枠には厳しい日程が組まれていて試合数が多い。しかしそんなハンディはハンディにならなかった。

鹿島のCWCにおける善戦の要因は何か――といえば、“ホームの利”に尽きる。開催国枠クラブが決勝進出した事例は、2013年、北アフリカのモロッコ開催で起きていて、同国のラジャ・カサブランカが果たしている。同大会のアフリカ大陸代表はアルアハリ(エジプト)であった。また、2015年日本開催では、開催国出場枠のサンフレッチェ広島が3位になっている。ちなみち、広島3位のときのアジア大陸王者は広州恒大で、広州はなんと3位決定戦で広島に苦杯を舐めた。

日本のクラブが開催国枠以外で、つまりACL覇者としてCWCに出場したのは2007年の浦和レッズ、2008年のガンバ大阪の2回のみ。その2回のCWCは日本開催で、浦和、大阪とも3位の成績をおさめている。

つまり、日本開催のCWCならば、ACL王者であろうが開催国枠であろうが、日本のクラブでもけっこう戦えることが実績で証明されている。これすなわち、“ホームの利”にほかならない。

CWCは課題が多い。開催国が有利なのは、各大陸王者が開催国まで移動する時間が長いことに起因する。とりわけ欧州王者はリーグ戦の真っ最中。クリスマス休暇に突入する前だから、激戦が続いている。その時期におよそ15時間の飛行時間を経て、試合の3日前くらいに開催国にやってくるのだから、時差等でコンディションはよくない。欧州以外からでも、日本開催の場合、北中米、南米、アフリカのクラブならば、概ね20時間以上の飛行時間を覚悟しなければならない。

結論をいうならば、鹿島がJ1で年間勝ち点最多の成績(=優勝)をおさめ、さらにACLを制し、日本以外の開催地で行われるCWCで決勝に進むことができたならば、このたびの鹿島の善戦が実力によるものと証明される。幸い、来季からはJ1リーグは1シーズン制に復帰する。また、WCWの開催国はUAEに決まっている。つまり、鹿島がリーグ戦とACLを並行して戦い、どちらも手を抜くことなく、アジア大陸王者としてUAEに乗り込めるかどうか。そして、CWCの舞台でどれだけの成績をおさめられるのか。換言すれば、鹿島がACLを制せなければ、Jリーグで優勝してもCWCには進めない。鹿島がACLを制しても、Jリーグで優勝できなければ、リーグを捨てたと見做される。来季の鹿島アントラーズの戦いぶりを注視しよう。


2016年12月22日木曜日

谷根千忘年(根津)

谷根千忘年。一年間おつかれさまでした。


「やま」

「ナッカーサ」

「Bar Hidamari」


2016年12月18日日曜日

Islamic Beauty(谷中)

谷中銀座商店街にある、トルコのランプシェード専門店。

夜になるとショーウインドーが輝きだす。



2016年12月16日金曜日

学生時代からの友人との忘年会

大学時代に知り合ってから半世紀弱。

長い付き合いになった。

会うのは一年に一回だけになった奴が多いが。







2016年12月15日木曜日

イングランドから、

ジャックとスコットがやってきた。

二人ともドラマーだ。

世代としては、息子くらいの隔たりがあるが違和感はない。

谷中のビアパブ・イシイにて。






2016年12月14日水曜日

ジム友と忘年会

近くのROBCOさんにて、忘年会。

ワインが安いし食べ物も豊富。



2016年12月7日水曜日

読売、FA宣言選手を爆買い

NPB読売球団が資金力に任せて、2016年FA宣言選手を掻き集めた。既に入団発表があった森福允彦(投手、30才・ソフトバンク=SB)、山口俊(投手、29才・横浜)に加え、陽岱鋼(外野手、29才・日ハム)の入団も決定的と報道されている。今年FA宣言した注目選手はこれら3選手のほか、糸井嘉男(外野手、オリックス→阪神)、岸孝之(投手、西武→楽天)だったから、FA選手獲得に関しては読売が他球団を圧倒した感がある。

その一方、2016シーズン優勝した日ハム及び広島、戦力保持では日本一と思われるSBはFAに関しては表だった動きは見せなかった。読売に入団及び入団決定的な3選手については、阪神、オリックス、楽天等がオッファーを出したようだが、条件面で読売に劣ったと報道されている。

読売は補強戦略をもっていない

読売のFA補強には、どのような意図があるのだろうか。まず、左のワンポイント森福については、鉄人山口鉄也投手(34才)の衰え、勤続疲労を見越してのもの。投手王国だった読売だが、ベテランが多く、左腕のリリーバーは気づいてみたら山口鉄也だけ。賭博事件関与の高木京介(27才)には1年間の出場停止処分が課され、契約が解除されたまま。来シーズン、再契約されるかどうかは未定だ。日ハムとの複数トレードで読売に入団した吉川光夫(28才)は先発・リリーフの経験があるから、森福、吉川の左腕の補強は、読売にとって一見意味があるように思える。だが、日ハムの見返りに若手の左腕・公文克彦(24才)を放出しているから、読売の意図は理解しがたい。公文より森福、吉川のほうが、実績があるということか。

横浜から獲得した山口俊投手は先発か抑えか。読売の抑え澤村拓一(28才)は2016シーズン、最多セーブ王に輝いたが、勝負所でのセーブ失敗が目立ち、貢献度はそれほど高いとはいえない。横浜時代、山口俊は2016シーズン、抑えから先発に転向して成功した。この流れ及び読売先発陣の台所から見ると、山口俊は先発の方がベターということになる。菅野智之(27才)-田口麗斗(21才)-マイルズ・タイス・マイコラス(28才)-山口俊-大竹寛(33才)の5枚が先発として揃う。加えて、先発控えとして、左腕は内海哲也(34才)、前出の吉川、杉内俊哉(36才)が、右腕で高木勇人(27才)、桜井俊貴(23才)らがそろう。だが、不安定な抑え、澤村をサポートする投手はだれなのか。マシソンを抑えにする可能性もあるということか。

こうしてみると、読売のFAを中心とした補強は必然のように思えるのだが、逆の見方をすれば、読売の若手の成長がないことの証明ともなる。投手陣では前出のとおり公文が、そして小山雄輝(28才)が楽天に移籍してしまった。

ダブつく外野手

外野の陽の加入は読売にプラスなのか。読売の外野陣はNPPでは最強の布陣。ほぼ2チーム分の戦力を保持している。左翼にはギャレット・ジョーンズ、重信慎之助、中堅には立岡宗一郎、橋本到、右翼には長野久義、亀井善行。代打及び控えの控えとして、堂上剛裕、松本哲也らがいる。重信の二塁コンバートもあるらしいが、陽の加入で少なくとも5選手の出場機会が失われる。ケガや故障もあるから選手層は厚ければ厚いほどいいにきまっているが、読売の場合は常軌を逸している。読売球団は毎年大幅黒字経営で、予算というものがないのだろうか。選手を高給で掻き集めるよりも、入場料を下げて利益を消費者に還元する気はないのか。

読売への選手偏在がNPB衰退を加速

読売の選手補強の目的は、戦力アップという面ももちろんあるが、FA等で流動性の生じた選手を他球団に渡さないことにある。FA宣言した注目選手が他球団に移籍すれば、その球団の戦力が上がり、反対に選手が流出した球団は当然、戦力ダウンする。読売がFA宣言選手をすべて入団させてしまえば、読売は入団した選手が活躍しようがしまいが、少なくとも読売に敵対する戦力とはならないぶん、優位な戦い方ができる。戦力の囲い込みだ。飼い殺しでもいいという算段だ。

人的補償で有望若手が流出か

さて、FA制度の規定によれば、読売が獲得する(であろう)山口俊、陽については、読売が横浜と日ハムに人的補償として、2選手を放出することになる可能性が高い。既に移籍が決まった小山、大田、公文を除いてプロテクトされない選手を予想すると、西村健太朗(投手31才)、江柄子裕樹(投手30才)、中川皓太(投手22才)、長谷川潤(投手25才)、吉川大幾(内野手24才)、辻東倫(内野手22才)、中井大介(内野手27才)、藤村大介(内野手27才)等となる可能性が高い。横浜、日ハムがどのような選択をするか。両球団とも読売で花が咲かなかった才能のある中堅・若手を獲得して当然だ。そうなれば、読売の若返りはさらに遠ざかる。

マギーはライバル・阪神に渡せない

FA選手ではないが、読売がかつて楽天の日本一に貢献したケーシー・マギー(34)の獲得に成功したとの報道がある。マギーは阪神との競争だったという。マギーは一塁、三塁が守れる強打者。だから、昨シーズン、三塁が弱点で、しかも、一塁のマウロ・ゴメスが抜けた阪神が獲得したいというのは理解できる。

ところが、読売の場合は、捕手復帰を諦めて一塁専任になった阿部慎之助(37才)がいるし、三塁には2016シーズン、ゴールデングローブ賞をとった守備の名手で強打(打率302、25本塁打)の村田修三(35才)が健在だ。しかも、若手の大砲といわれる岡本和真(20才)が控えている。マギーが入団すれば必然的に岡本の一軍戦出場機会は減少する。岡本も大田と同じ道を歩む可能性が高まった。

マギーを阪神に渡して活躍されれば、読売にとって大いにマイナスだ。ならば、読売に入れておけば、マギーが読売で試合に出なくても、阪神で活躍されるよりはマシだということか。

読売の頽廃的戦力補強

読売の「補強」は補強とはいえない。資金力に任せた頽廃的行為、爆買いだ。競売に出た商品はすべて競り落とす――それが読売の補強戦略か。その弊害は若く才能ある選手の芽を摘み、他球団で活躍できる選手を二軍で腐らせる結果となる。大金が稼げればいいという選手の希望を読売はかなえてはいるが、スポーツとしてのNPBをつまらなくさせ、ファンは高額なチケット代負担を強いられる。

読売の爆買いは、結果として、長期的に見てファンの支持を失うだろう。現に、広島、日ハム(北海道)、福岡SB(九州)といった地域密着球団が、球団としての実力及びステイタスを上げつつある。ファンは、若く、フィジカルに優れた選手で構成された球団に注目するようになり、FA等で寄せ集めたピークを過ぎた中年選手が集まった球団に魅力を感じなくなる。

FAでは読売の弱点(二塁、捕手)の補強はできない

そもそも読売の弱点はなんだったのか。投手陣全体の衰えは確か。今年のFAとトレードで、投手の補強はある程度できた。しかし、読売の致命的欠陥は二塁と捕手ではなかったのか。しかしながら、この2つのポジションでFA宣言した有力選手はいなかった。その結果、2017シーズン、読売は2つの弱点を克服できないままとなる。そもそも捕手は世界的に人材難、自前で育成するしかない。二塁も現代野球のキーといわれる重要ポジションで、探せばかんたんにみつかることはない。ところがいまの読売において、若手台頭の気配はない。山田哲人(24才ヤクルト)や菊池涼介(26才広島)がFA宣言するのは何年先となろう(笑)

2016年12月4日日曜日

浦和は負けるべくして負けた―J1CSファイナル

◇JリーグCS決勝第2戦 鹿島2-1浦和(12月3日/埼玉)

CS2戦目は鹿島が浦和からアウエーゴール2を奪い、CSチャンピオンとなった。年間勝点トップの浦和が同3位(前期優勝)の鹿島に負けた結果、年間3位チームがリーグチャンピオンとなってしまった。こんな結果に違和を感じるのは筆者だけだろうか。何度も拙Blogで書き続けてきたことだけれど。

●適正だった主審のジャッジ

そのことを詳述する前に、CSの2試合について、簡単に触れておこう。第一に、決勝第1戦に比べて、主審のジャッジが格段に良かったことを挙げたい。拙Blogで触れたとおり、Jリーガー、海外組を問わず、日本人選手は選手同士の接触プレーに弱い。その主因はJリーグの審判団がデュエルを好まないからだ。見かねた代表監督のハリルホジッチがその必要性・重要性をことさら強調して改善を要請してきた。しかし、Jの審判団はハリルホジッチの希望にこたえていない。その代表的な試合がCS第1戦だった。

ところが、第2試合の主審は実に的確に接触プレーを判定した。その結果どうなったかというと、御覧のとおり、フィジカルの強い鹿島が浦和に勝った。この試合の笛を第1試合の主審が吹いていたら、浦和は負けなかったかもしれない。つまり、浦和の1勝1分けもしくは2勝で終わった可能性が高かった。

●浦和の守備力に難あり

第二は、浦和の守備力の弱さだ。前出のとおり、浦和選手のフィジカルに難点が目だったが、とりわけ守備面でその弱さが表出した。

メディアは浦和のCS敗退を「埼スタの悲劇」「番狂わせ」「下剋上」と、予想に反した結果として報道しているが、果たしてそうなのだろうか。筆者はCS制度が導入された昨年今年のJリーグに興味を失っていたのでその試合を見ていないが、CS2試合を見た限りでいえば、浦和に足りないものはフィジカル及び守備力だ。鹿島に同点に追いつかれたのは、前半40分、浦和の左サイドにでたロングボールを処理しようとした浦和DFが、鹿島の遠藤に簡単にボールを奪われ“どフリー”でクロスを上げられ、右サイドのノーマークの金崎にゴールを決められたもの。守備的MF阿部もケアしきれなかった。

浦和は攻撃力に定評のあるチームだといわれているようだが、守備力は弱い。DFの背後に配されたパスもしくはロビングに対応しきれなかった。3バックの両サイドに広大なスペースがある。だれがどう守るのかの決め事がないようにみえる。決勝PKを献上したシーンは前がかかりになった自陣で簡単にボールを奪われ、決定的なパスをつながれて槙野が鹿島のFWを背後から倒したもの。浦和敗戦の戦犯は、左サイドの守りを担当する槙野、宇賀神、阿部だ。

●違和感残る「真の王者」――鹿島がJ1最強なのか

さて、CSの結果、J1の「真の王者」は鹿島となった。年間勝ち点74の浦和に対し、3位の鹿島は59と“5勝分”にあたる15点もの勝ち点差があった。J1リーグ戦年間順位は、1位=鹿島(勝ち点59)、2位=浦和(勝ち点74)、3位=川崎F(勝ち点72)。違和感が拭えない。

(一)後期を捨てたチームでもCSに参戦できる?

年間勝ち点首位の浦和が負けた結果、CS制度の矛盾が一気に噴出してきた。その第一点目は、後期を意図的に捨てたチームでも、CSに参戦できること。鹿島は前期優勝を果たしたが、後期はまるで振るわず、内紛まで起こしたチーム。前期優勝で気が緩んだのか、意図的に後期を捨てたのか定かではないが、後期は試行錯誤を覚悟して臨んだ可能性が高い。鹿島の心理を大げさに書けば、“前期優勝でCS出場権を確保した。後期いくら一生懸命やってもCSがあるから、流そう”と。そんなムードがあったかどうかは知らないが、ただいえるのは、前期を制したチームは、後期について、CSに向けた調整期間としてとらえることが可能だということ。

(二)シードの浦和は実戦から遠ざかりすぎ

第二点目は、リーグ(後期)終了から、シードチーム(今年は浦和)はCS決勝まで空白期間があること。浦和は年間勝点1位を決めてから3週間以上も間が開いた。公式戦は、11月12日に行われた天皇杯4回戦以来となる。試合勘に不安があって当然だ。

一方の鹿島は川崎と試合(11月23日)をして「肩慣らし」をして29日に決勝第1戦を迎え(0-1で負け)、2戦(12月3日)に臨んだ。浦和に比べれば、きわめて順当な間の取り方だ。実戦から遠ざかっていた浦和の第1戦は辛勝。精神的に優位に立てなかった可能性がある。いわゆる「追われる立場」の弱さだ。

●CSが明らかにした、J1リーグのレベルの低さ

浦和のCS敗退はもちろん、制度の欠陥だけではない。浦和の弱点は、前述のとおり、フィジカルの弱さであり、3バックのもつサイドの空きスペースを埋めきれなかった点であり、翻っていえば、攻撃重視の姿勢が前のめりとなりすぎ、横の視線が欠けたことにある。守備ブロックという概念さえ、浦和の選手には欠落していたように思われる。

フィジカルが弱いから、相手のプレッシャーが強ければ、ボールを奪わる回数が増える。前のめりでしかも、3バックだから、サイドに大きな穴が開く。自陣でボールを奪われれば、相手に決定機を与える。一発勝負となれば、偶発性、ミス等によって、勝敗の行方は左右される。第1戦は判定に救われて先勝したが、2戦目の主審は浦和に有利な判定をしてくれなかった。浦和は負けるべくして負けた。

CS制度が「真の王者」の決定の場として相応しくない場であることだけが証明された。確かにこのような制度は矛盾が多い。今年で最後となるのは当然だ。CS制度に飲み込まれた浦和は、ある意味において、悲劇のチームだといえなくもない。

しかし、CSファイナルに出場した2チームのレベルはどうなのだろうか。難点ばかりが目立った浦和が、年間勝ち点トップなのはなぜか。フィジカル面で強さを見せた鹿島の後期の成績はどうなのか。普通ならば3位のチームにすぎない。J1のレベルアップが望まれる。


2016年11月30日水曜日

低すぎる主審の力量――Jリーグチャンピオンシップ

<Jリーグチャンピオンシップ:鹿島0-1浦和>◇決勝第1戦◇29日◇カシマ

浦和がアウエーゴールをPKで得て先勝。優位に立った。試合内容を一言でいえば、「つまらない」。その主因は、ホームの鹿島がアウエーゴールを怖がって、「得意」とする守備的サッカーに持ち込もうとする消極策にあった。

Jリーグの問題点――チャンピオンシップという愚かな制度

試合内容とは離れてしまうが、日本プロサッカーの最高峰に君臨するJ1リーグが抱える二つの問題点を指摘しておきたい。第一は、チャンピオンシップ(CS)という制度。このことは拙Blogで何度も指摘してきた。Jリーグは昨年、今年をもって廃止するとのことだが、当然だ。そもそも採用すべきではなかった。

ポストシーズンは広大な北米大陸が舞台でこそ意味を持つ

ポストシーズンという制度は、管見の限りだが、アメリカMLBが広めたものではないか。アメリカの国土は日本の25倍の広さを持ち、人口もおよそ3倍だ。MLBにはカナダも参加しているから、北米大陸のスケールは、日本と比較にならない。

だから、リーグとは別に「地区」という概念を基礎とした制度に有効性がある。「地区」の勝者が競い合うポストシーズンという短期決戦がコンテンツとして生きてくる。一方の日本で「地区」といえばせいぜい「東西」くらい。実際に東西を基軸にJ1リーグ18チームを分けてみても、地区の勝者同士が優勝カップを争うことにリアリティはない。

そこでJリーグ(事務局)が無理くりつくったのが現行制度。前後期それぞれの優勝者に年間勝点を絡ませたものだが、今季は前期優勝の鹿島が年間勝点で3位となったため、年間最多勝点及び後期優勝の浦和が1位、そこに年間勝点2位の川崎が2位となって、鹿島と戦って負けたため、浦和―鹿島が決勝(ホーム&アウエー)となった。

CSはマラソンの後に短距離走をさせるようなもの

かくも不自然な制度はいわば、マラソンの後に短距離競争で優勝者を決めるようなもの。マラソンでトップが浦和、2位が川崎、3位が鹿島。次の短距離走で川崎と鹿島が争って鹿島が勝ち、その鹿島が浦和と短距離走を2回やるという具合だ。こんなバカバカしい制度をよくつくったものだと感心するが、メディアもサポーターも真面目である。「真の勝者はどこだ」なんてキャッチフレーズで煽っている。

リーグ戦というのは、勝負の偶発性を排除するため、各チーム総当たり2回戦(ホーム&アウエー)で実力を競うもの。そこで勝ったものが「真の勝者」である。前後期制度であれば、スタートダッシュに成功したところが前期優勝者となってしまう。その反対に、前期を捨てて、後期に勝負をかけるようなチームが後期優勝を果たすような弊害は、年間リーグ戦制度ならば排除できる。

日本では低調なカップ戦

サッカーでは、短期戦のおもしろさも楽しめる。実力よりも偶発性を楽しむもの。いわゆる「下剋上」の醍醐味だ。トップリーグのチームが下部リーグに苦杯をなめることもある。それがカップ戦である。

日本サッカー界にもカップ戦はある。Jリーグが運営するのが、J1限定のJリーグカップ(ルヴァン杯)。そして日本サッカー協会が運営するのが天皇杯で、これは完全な一発勝負。前者は代表選手が抜けた期間に試合が行われる。後者はJリーグ終幕後に日本中のサッカーチームが参加するものだが、J1チームでは、選手・監督等の契約事務が終了した後の試合になるため、緊張感はない。元旦に決勝戦が行われる、いわば「年中行事」「季語」「縁起物」のような意味あいが濃い。天皇杯優勝者が日本最強クラブだと信じているサッカーファン、関係者は、おそらくごく少数だろう。

ACLも低調

アジアのクラブチームが短期で争うACLもある。だが、これが全く日本では盛り上がらない。日本におけるACLは、欧州のチャンピオンリーグのような価値をもっていない。その理由はまた別の機会に述べたい。

かくしてJリーグでは「チャンピオンシップ」という超短期戦が始まったのだが、サッカーファンも選手も関係者も、これまで述べたごとく、制度自体の欠陥を容認できなくなり、今年で終了する。浦和-鹿島の視聴率は、わずか7.3%だったという。

主審が下手すぎる

第二の問題点は、主審の力量の低さ。浦和の決勝点となったPKは誤審である。リプレー映像で確認しても、あれがファウルならサッカーにならない。接触で倒れればファウルがもらえるのならば、日本サッカーは確実に弱くなる。日本代表監督のハリルホジッチが“デュエル”を強調しても、リーグで軟弱なサッカーが容認されているようなら、選手は強くならない。誤審はPKばかりではない。アドバンテージで流すべきところを止める。イエローの基準があいまい。「最強決定」の試合でこれでは、日本サッカーは向上しない。

下手な審判は一線を退いてもらうしかない

“サッカー(スポーツ)に誤審はつきもの”だとか“審判は絶対”…という言説が日本のスポーツ界では「常識」のように語られ、審判批判は非常識だとされる。だがこれは誤りまたは誤解である。判定が覆らないだけの話である。

下手な審判は、適正な評価の下、処分されなければならない。処分内容を公表するかしないかは別問題。下手な審判は退いてもらうしかない。しかし、評価を行う機関の適正さが担保されていなければ意味がない。元審判が現役審判を仲間内で評価するのならば、それは機能しない。審判の技量を向上させる制度構築が必要となる。

微妙な判定については、メディアがリプレー映像を積極的に流してほしい。スタジアム、TV中継、スポーツニュース、スポーツ特番、インターネット…そこで検証されるべきである。

拙Blogにおいて既に書いたが、W杯アジア最終予選で日本代表に有利となる誤審を中継するTV局がリプレー映像を流さなかった。日本有利の誤審は2試合続いたのだが、2試合の中継がそれをパスした。一方、日本不利の判定だったUAE戦では、繰り返しリプレー映像が流された。これが日本のスポーツメディアの放送コード。あきれてるばかりだ。

そればかりではない。日本サッカー協会が、スタジアムでのリプレー映像の放映を中止するよう要請したという。協会が審判技術を信用していないあらわれである。協会は、技術の高い審判を養成する自信もない。

TV中継解説者は応援団か幇間では情けない

最後に、メディアの問題に改めて触れておく。この試合、民放のTV中継で観戦したのだが、そのときの解説者は2名。別に1名のCSアンバサダーとやらがが登場していた。筆者が彼らの解説を聞く限り、彼らの言説は、応援団もしくは誉め役のそれであって、試合及びプレーに係る技術、戦術等の専門的指摘ではない。「○○選手に入れば期待が持てる」「うまいですね」…と彼らが力説するも、両チームともPK以外の得点なし。守備がいいから点が入らない、ではサッカーにならない。

0-0のスコアレスドローが緊張した、いい試合なのか。この試合では、両チームの攻撃陣が精神的にも肉体的にも委縮していた。真の解説者ならば、相手の守備をどう破るのか――自分が監督ならどんな指示を出すのか、自分が選手ならどんなプレーをするのか――視聴者が専門家から聞きたいことは、専門的言説である。「うまい」「期待する」「いい試合」「緊迫してます」なんてのは、解説ではない。「盛り上げ役」でギャラをもらうというのは、虫が良すぎる。