2018年1月17日水曜日

『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』

●矢部宏治 ●840円(本体)●講談社現代新書

朝鮮戦争がいまの日本の国の形を決定

本書は、これまで著者(矢部宏治)が企画した著作物及び著書を簡潔(新書版)にまとめたもの。著者(矢部宏治)は、今日の日米関係を決定し固定化した要因は朝鮮戦争(1950年6月~)の勃発を契機とする、と規定する。この認識に筆者は全面的に同意する。

1945年、日本帝国は自ら始めたアジア太平洋戦争で連合国に敗れ、米国(軍)の支配下に置かれた。その後、形式的もしくは表面的独立(1951年)を果たしたけれど、独立と同時に米国と締結した安保条約及び密約によって、日本は米国(軍)の属国となり、今日に至っているという著者(矢部宏治)の論証についても、筆者は全面的に同意する。

朝鮮戦争は、大戦直後の米国の日本についての認識――極東の非軍事国家、米国から見た西太平洋において脅威を与えない存在であればいいという――を根本的に覆し、対日政策を180度回転するほどの見直しとなる契機となった。米国は、「平和国家日本」という対日政策を取り下げ、冷戦に対応できる軍事拠点として再構築した。米国に隷属させるための諸々の法的縛りを日本にかけ、日本は米国の属国となりはてた。

日本の官僚は優秀だといわれるが、戦後の日米関係に限れば、その能力の欠如は残念を通り越している。敗戦国という状況を差し引いても、米国の利益優先に盲従した姿が嘆かわしい。

冷戦は20世紀末に終了し、今日、米国にとって脅威であったソ連邦は崩壊し、中国も国際秩序の中に統合されている。米国が極東に軍隊を止めおく理由はなくなったはずである。20世紀末の冷戦終結を受けて、米国が極東外交において何をなすべきかといえば、およそ半世紀にわたった朝鮮戦争の休戦状態(休戦協定は1953年7月に締結)から、南北朝鮮の緊張を緩和する、平和条約の締結であったはず。

しかるに、冷戦終結から今日に至るまで、米国は北朝鮮との休戦状態を解除せず、南北朝鮮の分断を継続し、朝鮮半島の平和を拒絶してきた。その理由を明らかにしない限り、著者(矢部宏治)が積み上げてきた歪んだ日米関係解消の道筋も明らかにされないのではないか。

極東における米軍にとって2つの過酷な戦争

20世紀、米国は極東において2つの過酷な戦争を戦った。その一つは日本帝国とのアジア太平洋戦争であり、2つ目が北朝鮮・中国共産軍との戦いである。前者においては、日本帝国によりハワイが奇襲されているし(日本軍の奇襲を米国が予知していたかどうかの議論はここではおいておく。)、後者においては、共産軍の攻勢によって米軍は一時、朝鮮半島南部、釜山近くまで後退させられた。

前者の米軍戦死者数は11万人弱、後者は約4万5千人といわれている。ちなみに20年間続いたヴェトナム戦争(1955年11月~1975年4月)の米軍戦死者数は5万8千弱というから、3年間という短期の朝鮮戦争が米国にとっていかに過酷な戦争であったかが推測できる。

二つの戦争から米国が――否、米軍にとって、というべきか――果実として得たものは何なのか。併せて15万人にも及ぶ戦死者を出して米軍が獲得したもの、すなわち戦利品とは何なのか。米軍が絶対に手放したくないものこそが、日本及び韓国の領土内にあまねく軍事基地を置き続けられる権益であり、日韓両国の軍隊を米国の指揮の下、米国の国益のための戦闘に駆り出せる権益の確保ではないのか。

そう考えると、朝鮮戦争がいまなお休戦状態にあり、今日ますます、緊張が高まっている理由も明らかとなる。(北朝鮮がどんな国なのか、同国民がきわめて悲惨な状況にあるかについては、報道により、想像できる。筆者の願いは南北が民主的政権の下に統合されることである。たとえば、東西ドイツが統合できたように。なお、北朝鮮問題について論ずるのは、拙Blogの本筋から外れるのでこれくらいにとどめる。)

冷戦後も維持されている米軍の巨大利権――軍事基地、軍の指揮権、地位協定

韓国の事情は詳らかでないが、本書に記述されている日米関係を見る限り、日本はローマ帝国の支配下にあった属州、属国そのままである。
米軍機に(日本の)航空法の最低高度の規定は適用されません。なんと米軍の訓練マニュアルでは、オスプレイ(MV22)は最低高度60メートルでの訓練が想定されており、すでに高江では、それ以下の超低空での飛行訓練が日常になっているのです。
さらに最大の問題は、なぜこうしたオスプレイのための新しいヘリパットが、わざわざ高江の集落をグルリと囲むようにつくられているかというと、それは高江の住民や家屋を標的(ターゲット)に見立てた軍事訓練を行うためなのです。(P50)
(略)
・・・日本だけは・・・敗戦後70年以上たってもなお、事実上、国土全体が米軍に対して治外法権化にあるのです。(P60)
21歳の米兵が、46歳の日本人農婦を基地のなかで遊び半分に射殺した「ジラード事件」(1957年:群馬県)では、その日米合同委員会での秘密合意事項として、「〔日本の検察が〕ジラードを殺人罪ではなく、傷害致死罪で起訴すること」
「日本側が、日本の訴訟代理人〔検察庁〕を通じて、日本の裁判所に対し判決を可能なかぎり軽くするように勧告すること」
が合意されたことがわかっています(春名幹男『秘密のファイル』共同通信社)。
(略)
ジラード事件のケースでいうと、遊び半分で日本人女性を射殺するという悪質性にもかかわらず、検察は秘密合意に従い、ジラードを殺人罪ではなく傷害致死で起訴し、「懲役5年という異常に軽い求刑をしました。
それを受けて前橋地方裁判所は、「懲役3年、執行猶予4年という、さらに異常に軽い判決を出す。そして検察が控訴せず、そのまま「執行猶予」が確定。判決の2週間後には、ジラードはアメリカへの帰国が認められました。(P122~123)
すべての日本人は、本書に示されたこの2つの実例を噛みしめるべきである。日本国民が声を上げない限り、米軍は沖縄はじめ日本各所において、傍若無人の振る舞いをやめない。“日本を守ってもらっているのだから、それくらいは仕方がない”というのは奴隷の思想である。安倍首相が進めようとしている憲法改正は、自衛隊が米軍の指揮の下、米国のための戦争を可能とする布石にほかならない。ローマ帝国支配下の蛮族が徴兵され、ローマのための戦争に駆り出されたように。

中国からお客様

中国杭州と東京で活躍中の章一(Zang Yi)ファミリーが遊びに来た。


2018年1月14日日曜日

母十三回忌

母の十三回忌があった。

法事の後、「笹乃雪」(鶯谷)にて食事




2018年1月12日金曜日

Bar Hidamari

Bar Hidamariの可愛い、手ぬぐいのお年賀。

Georgeさん、ありがとう。


2018年1月5日金曜日

『ソビエト連邦史』1917-1991

●下斗米伸夫 ●講談社学術文庫 ●980円(税別)

本書はビャチェスラフ・モロトフ(1890-1986)という人物を通して、ソビエト連邦の歴史を見直すというもの。モロトフについては、浅学の筆者の知るところではなかった。彼はロシア革命時のボルシェビキ党の一員だったが、それほどの活動家ではない。彼が政治的手腕を発揮したのは、レーニン亡き後、スターリンが権力を掌握した後のことだ。彼はスターリンの忠実な腹心として、スターリンの政敵を粛清する任務を着実に実行し、革命後のソ連のナンバー2に上り詰めた政治家だった。


本書の構成は、「序章 党が国家であった世紀」のなかの“案内”(P17~22)において簡潔にまとめられているので、以下に要約しておこう。

第1章 ロシア革命、ソビエト国家成立
第2章 ロシア共産党の組織
第3章 「新経済政策(ネップ)」
第4章 スターリン体制と大粛清
第5章 モロトフ外相就任から第二次大戦終結までの戦争と外交
第6章 ソ連の超大国化と冷戦の時代
第7章 スターリンの死とモロトフの失脚
第8章 フルシチョフ~チェルネンコ時代
第9章(終章) ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ(91年の崩壊、ソ連邦の最後)

ロシア革命はプロレタリア革命だったのか

20世紀中葉、時の思想潮流を席巻したマルクス主義の洗礼を受けた世代にとって、ソビエト史のなかでどうしても注目してしまうのは、〈ロシア革命→スターリン体制と大粛清〉までの前半であろう。本書のロシア革命に係る考察は、連邦崩壊後の情報公開の影響もあって、当時とは異なる視点が散見される。革命から100年が過ぎたいま、ロシア革命の見直しという視点からも本書は必読だと思われる。

20世紀中葉の政治状況を体験した者にあって、ロシア革命は神聖な政治的インシデントにほかならなかった。当時のソ連邦に係る評価は以下のような感じだった――ロシア革命はレーニンを指導者としたボルシェビキ(共産党)がツアー専制のロシア帝国を打倒し、世界で初めて労働者国家(ソ連邦)を樹立した。

ところがレーニン死後、スターリンがロシア共産党のトップになったところで、レーニンが確立した革命思想(マルクス=レーニン主義及び世界革命戦略)に著しい修正が加えられ、同時にトロツキーに代表される革命的マルクス主義者が粛清されることにより、ソ連邦は官僚専制国家に変容した。ソ連邦はマルクス主義国家ではなく、スターリニズム国家であるから、帝国主義と同様に打倒すべきであると。大雑把にいえば、ロシア革命は神聖であったが、革命後、スターリンによって世界の共産主義化が妨げられた。その結果、資本主義が延命していると。

革命の主役――最も西欧的急進派と伝統的農村

それでも当時、ロシア革命がプロレタリア革命であったかどうか、素朴な疑問がなかったわけではない。まず、帝政ロシア下においてブルジョア階級及びプロレタリア階級が十分に形成されていたのかどうか。本書によれば、ロシア革命当時の帝政ロシアにおけるプロレタリア人口は、全人口の3%にすぎなかったという。

本書ではそのことについて、実に端的な言説を導き出している。「革命は既成秩序からはずれた異質なものどうしを瞬時に媒介する。最も西欧派的な急進派の潮流が、レーニンを媒介にして、革命化した伝統的農村と融合する」(P46)。

著者(下斗米伸夫)のこの言説は、二月革命によってもたらされた混乱、すなわち、二重権力の下、レーニンが革命の主導権を掌握しつつ、十月革命を準備し決起し革命を成し遂げるに至る過程を新たに表現したものだと思われる。混乱と呼ばれる二月革命なくして十月革命はなく、その二月革命が階級を超えた多数者(農民、兵士、労働者…)の自然発生的蜂起だったのならば、それをプロレタリア革命と呼ぶべきなのか。

本書では、ロシア革命が組織されたプロレタリア革命でなかったことが結論づけられる。ロシア革命が労農統一によって成し遂げられたというのは常識だが、本書はそれとは異なる視点から踏み込んでいる。この結論は、ロシア革命を輝かしいプロレタリア革命だと神聖視していた世代を落胆させるものでもある。

レーニン指導後の革命=十月革命は、レーニンというキャラクターが国民の大多数を占める農民(兵士)を惹きつけた結果なされた。そのことは、「第3章 新経済政策(ネップ)」に記述された「農村戦争」により逆証明される。革命政府が仕掛けた「農村戦争」こそ、ロシア革命の複合性及び特異性の証明であり、同時に、革命の一方の主役「農民」が切り捨てられる過程であった。前出の、革命時、レーニンを媒介に融合した異質なものの片方=伝統的農村が、革命新政府によって消去される。

ロシア革命を担ったロシア正教の古儀式派

ロシア革命を成し遂げた革命勢力の多様性については、革命の三番目の主役であるロシア正教古儀式派の登場で明らかになる。

レーニンの革命的スローガンが「全権力をソビエトに」であったことはよく知られている。20世紀中葉に青春時代を過ごした者にとってこのスローガンは、労働者が地域ごとにソビエトを形成し、プロレタリア権力を地域的に成立させる政治過程を明示するものと理解して当然だった。ところが、本書ではソビエトを構成した多数派として、ロシア正教の古儀式派という信仰者集団の存在が明らかにされる。プロレタリア革命で形成されたはずの〈権力機関=ソビエト〉にロシア正教の一分派が出てくるのは違和感がある。しかし、浅学の筆者には著者(下斗米伸夫)の言説を検証する力がない。よってそれを受け入れるしかない。各地につくられたソビエトの内実が古儀式派の組織を母体としていた、という結論は驚きだ。
古儀式派とは17世紀のロシア正教会での論争で異端とされた古い信仰者集団である。古儀式派は「モスクワは第三のローマ」と信じ、ロシア帝国と一体化した正教主流派を「アンチ・クリスト」と批判、このため正教会を追放された。
この流れの信徒数はこれまで想定された以上であり、また定義にもよるが人口のかなりの多数をしめたと思われるものの確たる人口調査はない。主として拠点のモスクワをふくめ、ボルガやウラル、シベリアにまで広がった。いな、中国や日本もふくめた海外でも知られていた…しかしロシア革命後、とくにスターリン体制の下で抑圧される。
(略)
ロシア正教におけるプロテスタントとして禁欲的なこの人々は、しかし19世紀後半までに繊維工業の大半を支配する生産者階級となっていた。無神論者であったモロトフをふくめ、ボリシェビキ党などにもこの流れの環境で育った人々が入り込んだ。この古儀式派の理解なくしてはいまや正確なロシア史、ソビエト史は考えられないほどだ。(P17)
ソビエト連邦とはなにか

革命から崩壊までのソ連邦について、本書は「党が国家であった時代」と集約する。党とはもちろん共産党のことだが、それがイデオロギー的共同性だけで団結していたわけではなかった。革命直後は、革命の指導者集団という画一性はあったが、スターリンが権力を掌握し大粛清を行い、戦時下共産主義(スターリニズム)を確立した後から、イデオロギー論争が党内から消滅する。党幹部、党員、官僚、民衆…だれもがスターリンの暴圧を恐れ、指導層批判を忌避した。

党内では、それぞれの属性によって、それぞれの集団が信用できる要素に基づきつつ微妙にグループ化を進める。その一つが前出の古儀式派であり、出身地であり、民族であったりする。ユダヤ系であるがゆえに指導層に上り詰めたかと思えば、それゆえに排除されたりもした。それぞれの属性がパワーエリートを形成し、党幹部の座を狙い、利権獲得に奔走する。そしてそれぞれが、ネポティズムによって絡み合い、党を蝕んでいく。

ソ連邦の崩壊

スターリン死後、フルシチョフのスターリン批判から「世界の超大国ソ連」の時代を経て、停滞の時代、ソ連邦の崩壊までの後半は、その腐敗と堕落のひどさに読むに堪えなくなる。西側との宥和とその反動としての締め付け――の繰り返し。変わらぬ弾圧・強制収容所送り、強制移民…世界で初めて誕生したはずの「プロレタリア国家」の惨めな腐敗・崩壊過程が記述される。党が国家であろうとする悪足掻き、党が国家であるために、国民が犠牲になるさまともいえる。
ソ連時代を通じて、政治的要因によって法的根拠なく処断された者は、1150万人に及ぶ、と法律家のクドリャツェフは指摘する。ただしそれは公式に登録された数字だけであって、この体制の犠牲者は全体で8000万人という数字をあげる学者もないわけではない。筆者(下斗米伸夫)は、この数字は過剰だと考えるが、まだ、どのような検証可能な数字も提出されていない。(P267)
ロシア革命とソ連邦については、まだまだ分からないことだらけというわけだ。

2017年12月31日日曜日

大晦日忘年会

旧友のSさん宅にて忘年会。

名酒にたくさんのおいしいごちそうが揃いました。




2017年12月28日木曜日

ジャックがきた

イギリスのロックミュージシャン(ドラマー)、ジャックが日本のバカンス中、わが家に遊びに来た。

2017年12月27日水曜日

ますます闇が深まる日馬富士暴行事件

今回の事件について、整理しておこう。

日馬富士暴行事件の問題点を10項目に整理する

  1. 相撲界から暴力が一掃されないのは、この業界が相撲部屋という封建遺制を残しているからであり、親方―兄弟子―弟弟子・・・という上下関係を維持した家父長的家制度を残存させているためであること
  2. 家父長制に貫徹する秩序体系は儒教であって、儒教では近代的法制度よりも、親子関係のような自然的上下関係に規定された倫理的関係が優先されること
  3. その結果として、親の躾、親方の指導等における上から下への「教育」においては、近代法体系では排除される暴力が容認されること
  4. 日本的儒教秩序が維持されている相撲部屋に外国人であるモンゴル人が入門したとき、彼らは日本社会に適応するよりも、相撲部屋の秩序に適応することを余儀なくされたこと、その結果、モンゴル人力士は日本人力士よりも純粋培養的に儒教倫理を身に着けてしまっていること
  5. 今回の暴行事件に限らず、相撲協会は公益法人であるにもかかわらず、事件、問題を公にすることを躊躇し、協会内部で問題解決を図ろうとする傾向が強いこと
  6. 相撲協会の「危機管理委員会」はあくまでも協会内部の組織であって、協会に不利になるような情報を隠蔽しがちなこと
  7. 被害者である貴ノ岩の親方である貴乃花は、相撲をスポーツとしてとらえずに、相撲を国体思想に融合させる、極右思想の持主であること。彼はスポーツとイデオロギーを一体化させるナチズムに近い考え方の持ち主であること
  8. 大相撲は近代スポーツではなく、相撲一座の興行であって、勝負には互助、忖度等(一概に「八百長」ともいえない)があり、スター力士をつくって相撲一座の人気を維持する側面があること
  9. 相撲に神事の側面を認めるが、それはあくまでも民俗における神事のステージであって、相撲協会が一つの神に仕える神事を代行する役割を太古から担っているとは、歴史的、民俗学的、宗教学的に根拠がないこと
  10. 江戸期に成立した相撲興行は見世物的要素が強く、相撲取りはアウトサイダーであったこと。相撲が「日本の伝統」と認識されるようになったのは明治維新以降であり、日本帝国主義の補完的イデオロギーである復古的ナショナリズム浸透の役割を担ったこと
相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造は問題を見誤る

筆者は今回の暴行事件について、相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造でとらえるのは問題を見誤ると考える。つまり、どちらかが正義であるともいえないと。

貴乃花親方が暴行事件を公にして相撲協会の暴力体質を暴き、相撲協会を近代化する正義の味方だともいえない。もちろん、隠蔽体質が強く、公益法人の要件を備えていない日本相撲協会の公益財団法人認定は取り消されるべきだとも考える。


メディアは数字を稼げばいいのか

問題はそれだけではない。今回の暴行事件を必要以上に歪めたのは、テレビのワイドショー、スポーツ新聞、週刊誌だと思われる。彼らは、自ら進んで相撲協会サイド、貴乃花サイド双方が仕掛ける情報戦の道具となり下がり、リークを繰り返し、闇を深めた。彼らはそのことにより、視聴率、売上を稼いだ。事業者なのだから稼ぐことは当たり前だと開き直るのかもしれないが、数字を稼ぐためならば何をしてもいいわけではない。メーカーならば製品の品質を保証する義務があるように、情報を商品にするテレビ、新聞、週刊誌には、彼らが提供する情報の品質を保証する義務がある。

リーク情報にとびついて、それを書きなぐるのが仕事なのかといいたい。メディアに必要だったのは、まずもって、相撲界に暴力が根絶されない理由を問うことだった。相撲協会、相撲部屋、親方、力士の実態が明らかにならなければ、今回の問題の本質には迫れないはずだ。

本質に迫れない日本のメディア業

大相撲には表に出てこない側面がある。チケット問題、八百長問題、協会内権力闘争が内在したまま、今回、暴力体質が表面化した。相撲界の問題が表面化したとき、世間は一時的に疑義を向けるが、メディアの追及は常に中途半端であり、問題の根っこには迫らない。

また、前出のとおり、今回被害者側である貴乃花親方が極右思想の持主であり、弟子にその思想を注入しているという悪しき情報も副産物として表面化した。思想・信条並びに信仰は自由なのだから、だれが何を信じようと構わないという見方もあろう。しかし、いま現在の相撲界における部屋制度(のなかの親方と弟子という閉鎖的関係)において、弟子に思想・信条並びに信仰の自由が保障されるとは考えにくい。貴乃花親方に聞くべきは、「(協会の)聴取に応じるか否か」ではなく、彼が自らの思想を弟子に「強要しているか否か」ではないのだろうか。

火事

午後7時ころ、千駄木・柳通りにある日本料理店から出火。

すぐに鎮火し大事に至らず。






2人のジャンさん

先月遊びに来たジャンさんが、友達のジャンさんを連れて遊びに来た。30日にフランスに帰国するとのこと。


2017年12月20日水曜日

パンダスケートリンク

パンダの赤ちゃん一般公開で沸き立つ上野・御徒町。

御徒町駅南口前に、臨時のスケートリンクが設営されていた。





2017年12月19日火曜日

丸ごとチキン


ギョ、朝、台所にこんなものが。

家内の友人が集まる忘年パーティーに出すものとか。

ああ、驚いた。

2017年12月17日日曜日

日本サッカー界にとって誠に残念な12月

Jリーグが川崎フロンターレの逆転優勝で終了。それをもって一時期盛り上がりを見せた日本国内のサッカー界だったが、UAEで開催されたクラブワールドカップ(CWC)にアジア王者として出場した浦和が初戦で開催国枠出場のアルジャジーラに0―1で惜敗。さらに本田圭佑が所属するパチューカ(北中米王者)も南米王者のグレミオに負けて3位決定戦に。(※パチューカはアルジャジーラに勝って3位を確保したが、この試合、本田は出場しなかった。本田が出なかったからパチューカが勝ったとはいわないが、皮肉なものである。)

国内では東アジア(日本、韓国、中国、北朝鮮)の王者を決めるE1最終戦で日本代表が韓国代表に1-4という歴史的かつ屈辱的敗北で韓国に優勝をさらわれた。日本サッカー界にとってはなんとも後味の悪い2017年末である。

浦和の惜敗――これがサッカーだ


ACLを苦労して制した浦和が開催国枠のクラブに負けた。もったいない敗退ではあるものの、このパターンは日本開催の大会で何度も繰り返されてきた。昨年の日本開催大会で鹿島が演じた事例が思い浮かぶ。鹿島が欧州王者のレアルマドリードを追い詰めて日本中がわきあがったものだった。冷静に考えれば、サッカーに限らず、スポーツ全般におけるホーム優位の特性が再現されたに過ぎない。逆にいえば遠征先で勝つことの難しさ、アウエーで勝ててこそ、真の実力者といえる。

本田圭佑は本当に輝いたのか

パチューカは初戦(準々決勝)、アフリカ王者のウイダード・カサブランカに延長の末、1-0で辛勝したものの、準決勝で南米王者のグレミオに0-1で負けた。本田は2試合に出場して得点なし。カサブランカ戦ではいい動きを見せた場面もなくはなかったが、得点シーンに絡んだわけではない。続くグレミオ戦、その後半、本田の姿はテレビ画面から消えていた。

仮にこの2試合の本田のパフォーマンスを日本人以外の選手が見せたと仮定したならば、何の話題にもならなかったに違いない。2試合を見た日本人の誰一人覚えていないに違いない。日本人であるわたしたちは日本人選手の本田に注目するが故に、彼が目立ったように錯覚するのである。この2試合をもって、ロシアW杯における日本代表の右サイドを本田に託すという結論を筆者は保留する。

国内組の「実力」の証明

E1最終(韓国)戦は“国内組”日本代表の状況を白日の下に晒した。実力、気力において、韓国との差は明らかだった。引分以上で優勝と日本優位の条件だった。しかも、試合開始早々、PKで先取点をもらった。日本にとってこれ以上ない好条件がそろった展開になるとだれもが信じた。ところが、その後の状況は見てのとおり、高さに弱い日本の守備の弱点をつかれ、簡単に同点に追いつかれると、なすすべのないまま失点を繰りかえし敗退した。

さて、日本代表とはいえ、E1には海外組及び浦和の選手は招集されていない。つまり浦和の西川(GK)、興梠(FW)、槙野(DF)、柏木(MF)といったA代表クラスが招集できなかったというハンディが日本側にはある。けれども、海外組の招集がないのは韓国も同じだから、日韓の国内組代表選手の対決という構図でほぼいいと思う。その結果の日本代表の惨敗であるから、韓国の方が日本より全体のレベルとして上位にあるという結論が引き出せる。

ハリルホジッチの不可解な選手起用

韓国戦、ハリルホジッチ監督に常識では考えられない采配があった。その一つは、植田の右サイドバック(SB)起用である。この起用は韓国戦の前からだった。しかしタイトルのかかった韓国戦まで継続したのは、力のある韓国相手に植田の力量を見極めたかったからだと筆者は推測する。

その植田だが、テレビ解説のY氏が指摘した通り、常に位置取りが高く(相手のDFラインに近づきすぎるため)、攻撃のスペースを自身で消していた。いってみれば、SBとしての基本がなっていなかった。クラブチーム(鹿島)でも経験のないポジションだから、植田を批判するつもりはない。

大雑把にいえば、SBとはスペースに向けてラインに沿ってスピードをつけて駆け上がるポジション。植田のように前に張りすぎれば、SBの基本的機能は喪失する。高さのあるSBがサイドで起点をつくるという役割もなくはないが、ライン近くで、頭で起点をつくるプレーは効率的ではない。その場合は足元だろう。

ではなぜ、ハリルホジッチはそんな植田を使い続けたのか――植田と槙野の選択に係る結論を引き出すためだったのではないか――と筆者は推測する。槙野は先の欧州遠征でセンターバック(CB)として、安定したプレーをした。その槙野は右SBもできる。つまり、代表候補のDFとしてほぼ内定状態にある吉田麻也、及び、この試合でキャプテンを務めた昌子源に次ぐCBの三番手は槙野だと結論付けたかったのだと推測する。もちろん植田がロシアW杯の代表に選出されないと断言できるわけではないが、槙野と植田を比較すれば、槙野のほうが、ユーティリティーが高いとの結論は出た。

二点目は、大量リードされた局面で守備的MFの三竿健斗を交代で投入したこと。この交代は意味不明。理解できない。敢えて邪推するならば、このときすでにハリルホジッチは試合を捨てていたと推測するほかない。若手に経験を積ませた、ということか。いやほかの理由はないのか。

ハリルホジッチの深謀遠慮

因縁の韓国戦での惨敗。当然、ハリルホジッチ監督解任の声は高まる。叩かれて当然の試合内容である。しかし、ハリルホジッチは惨敗を通じて、重要なというか、彼の腹の内で燻っていた「反ハリル派」に対するメッセージを発したかったのではないか、と推測する。それは、「国内組を使え」という一部サッカーコメンテーターの声に対する反撃でもある。

日本のサッカーメディアの代表批判にはパターンがある。「海外組」で負けると、「国内組」を使えという声が高まること。攻撃陣を海外でプレーする選手で固めた試合に無得点で負けると、「Jリーグ得点王の〇〇をなぜ呼ばなかったのか」と。海外で試合に出ていない選手よりも、国内で活躍している選手を使えともいわれる。

このような凡庸な決めつけにも根拠がないことはない。海外クラブと契約しても、ベンチ外やベンチ要員で試合に出ていない選手はコンディションが悪くて当然だし、試合勘もない。だからそのような選手を名前だけで代表に招集することはやめるべきだ。かつて、「海外組」というブランドで代表チームを構成して失敗した代表監督がいたし、「海外組」と日本企業のCM契約を媒介した大手広告代理店からの圧力もあるから、協会が代表監督に圧力をかける。代表監督も職を失いたくないから、協会に忖度する。

さて、韓国戦である。前出のとおり、この試合は必然的に純粋国内組で代表選手を構成せざるを得なかった。国内組の実力を測るには絶好の機会である。そこでの惨敗。反ハリル派は批判の常套句である「国内組を使え」が口に出せない。その逆に、ハリルホジッチにしてみれば、これまで無媒介に「国内組」と叫び続けてきた反ハリル派の強弁を一蹴できる。「負け」をもって、反ハリル派への逆襲を試みたのではないか。

ハリル解任、勢いを増す

このようなハリルの開き直りは、彼の立場をより悪くした。反ハリル派は、ハリルホジッチ解任に向かうほかない。海外組で負ければ、国内組を使えと批判できるが、国内組で負ければ、批判の対象はハリルホジッチ本人に向けられる。反ハリル派にしてみれば、それ以外に批判の材料はないのだから。国内組、Jリーグで活躍した選手を…と強弁したサッカー評論家諸氏は、彼ら自身の論理的破綻を棚に上げ、ハリルホジッチの監督の力量への批判に向かう。かくして、この期に及んでハリル解任が強まることになる。

ハリル解任はハイリスク

ロシアW杯開催まで半年余りのこの時期、代表監督の交代にどれだけの効果が期待できるのか。ハリルホジッチの速い攻撃が日本に合わない、フィジカルの弱い日本人選手にデュアルを求めても仕方がない…などなど、時代遅れの批判がやかましいが、ハリルホジッチの言説はモダンサッカーの基本であって、彼独自のサッカー哲学ではない。世界のサッカー水準を日本代表に求めることは当然である。

問題は、日本サッカーの最大公約数であるJリーグがそこに達していないことである。岡崎や香川がクラブで活躍できるのは、所属するクラブチームのなかで居場所を得ているからである。そのことは、チームに調和した存在であると別言できよう。かれらが日本代表で活躍できないのは、所属するクラブチームの他の選手が彼らの特性を引き出せる力がある一方、日本代表の他の選手からは協力を得られていないからである。日本代表と調和していないからである。サッカーはチーム・スポーツであるから、個の力がいくら強くてもそれだけでは勝てない。フォルランが入団したセレッソ大阪やポドルスキが入団したヴィッセル神戸が即優勝できなかったように。

その反対に、居場所を得れば無名の選手が才能を開花させることもある。Jリーグで並の評価の選手が海外で億単位の報酬を得る選手に成長する可能性もある。だから、歴代の外国人日本代表監督のだれもが、Jの選手に海外移籍を勧めてきたのだと思う。

弱い国内組は日本サッカー界の歪みの投影

監督交代は劇薬に等しい。それを契機としてチームが再生することもあるし、より悪化して死に至ることもある。代表チームの場合、どちらかというと、後者のケースの方が多いように思う。国内組の実力とやらは、韓国戦の惨敗で明白になった。この惨敗はハリルホジッチだけの責任ではない。Jリーグのぬるま湯的環境、国内選手の臆病さ、フィジカルを求めてこなかった日本のサッカー指導方法、広告代理店主導の代表選手選考、サッカーメディア業界における論理性を欠いた定型化した代表監督批判の横行、そして幾度となく繰り返されたW杯本大会における敗退の責任を取らないサッカー協会の存在などなど・・・が、その原因であり、複合的なのである。だからそれを完治するには時間がかかる。代表監督を解任すれば解決するような安易な問題ではない。

日本サッカーはまるで勢いを失っている

筆者はW杯ロシア大会のアジア予選を日本が突破できたのは、ハリルホジッチの手腕によるものだと確信している。しかし、本大会のグループリーグを突破できるとは思っていない。世界との差は広がっている。

日本代表がロシアW杯グループリーグで敗退した場合、その責任は監督がとることになろう。それは必然である。だがそれだけで終われば、それこそトカゲの尻尾切り。真の反省はなく、新しい代表監督探しが始まり、4年に一度のお祭り騒ぎで日本中が騒然となる。このような意味のない循環を繰り返しても、日本サッカーは強くならない。W杯開催前に敗退の責任のあり方をかわしてもそれこそ無意味だが、進歩だけはしてほしい。日本サッカー界の無意味な循環をどこかで止めなければならない。

2017年12月8日金曜日

忘年カラオケなど

旧友のS氏と根津で忘年カラオケなど。

根津「やま」にてカラオケ




根津「NaCaSa」にて





2017年12月6日水曜日

日馬富士引退を残念がる倒錯した相撲ファン心理の根拠を探る

世の中を騒がせている日馬富士の暴行傷害事件。警察の書類送検も今週中とされ、起訴が濃厚だというのに、被害者よりも引退した加害者である日馬富士のほうに同情が集まる状況に変わりない。筆者には相撲ファンの心情がまったく理解できなかったのだが、彼らの心情の出どころについて、自分なりに見当がついたので、以下にまとめてみた。

逮捕されなければ「いいひと」

それはただただ、日馬富士が逮捕・拘留されなかったからではないかと。警察がむやみに人を逮捕拘留するのは危険であり、やってはいけないが、今回に限れば、日馬富士が逮捕されていれば、相撲ファン、日馬富士ファンの「引退残念」の勘違いはなかったはずと。

これまで、芸能人、スポーツ選手といった、いわゆる有名人の警察沙汰は珍しくなかった。だが、人々の記憶に残ったそれは薬物関連が大半であろう。薬物関連は証拠隠滅されやすいから、警察が被疑者を逮捕拘留することは当然の措置である。一方で今回のような暴行傷害事件では被疑者に逃亡の可能性がない限り、逮捕拘留しない。(だから今回、日馬富士を逮捕しなかった警察の措置は正しい。しかしながら筆者は敢えて、暴言を吐こうと思う。)


日馬富士が自由に街を闊歩している映像がテレビで放映されるその結果として、人々は日馬富士を被疑者と認識しない。その一方、薬物関連で逮捕拘留された酒井法子、清原和博、ASKAらについては、彼らが容疑者でありながら、すでに「犯罪者」だと認識する。ゆえに彼らに同情する人は少数にとどまる。暴行傷害と覚せい剤取締法違反を比較すれば、前者の方が重罪である。人々は逮捕拘留された者は犯罪者として断罪し、そうでない者には同情を寄せる。日馬富士の引退を残念だと平然と発言する。


テレビがつくりだす日馬富士擁護発言

テレビに出てくる相撲ファンの発言は、テレビ制作側の意図のもとに放映される。無作為に撮影され、放映されたものではない。相撲ファンのなかで、日馬富士の引退を当然だとする者の数と、それを残念がる者の数は統計化されていない。もちろん国民全体の受け止め方は世論調査を待つしかない。

テレビ局にとって相撲人気は捨てがたい。テレビ局は、日馬富士を批判する者の発言を抹殺し、引退残念発言が世間・巷の大勢だと思わせるため、日馬富士擁護発言を放映する。あたかも、それが国民の声のごとくに。

つまり、テレビは逮捕されない人はまだ「いいひと」だと視聴者に印象付け、加えて、日馬富士を擁護するファンの声を選んで放映することで、日馬富士を守りつつ相撲協会の暴力体質を隠蔽する。

テレビが「逮捕=犯罪者」とする、危険な印象操作

筆者は冒頭で、警察がむやみに人を逮捕拘留することは危険だと書いた。さらに、逮捕されただけでその人を犯人、罪人だと認識することも危険だと書いた。さて、このたびの日馬富士暴行傷害事件報道、とりわけテレビのそれを注視すると、日馬富士が「逮捕されないゆえに」、「日馬富士さん」と敬称付きで呼ばれていることがわかった。前出の清原ほか芸能人は、逮捕された時点で、「清原容疑者」と呼ばれた。

山城 博治沖縄平和運動センター議長
このことからわかるように、逮捕=犯人という印象付けを行っているのは実はテレビである。今日、安部政権下においてテレビによる印象操作、洗脳が強まっている。権力はテレビを使って、都合の悪い者を逮捕・長期拘留しようとする。たとえば。森友学園疑惑に関連して、逮捕、長期拘留されている籠池夫妻。彼らは疑惑の渦中にある安部首相夫妻にとって都合が悪い存在である。また、沖縄反基地闘争リーダー山城議長も運動の沈静化を狙った安倍政権により、逮捕・長期拘留されている。どちらも、危険な逮捕及び長期拘留である。

日馬富士暴行事件から見えてくるのは、相撲協会とテレビなどマスメディアの癒着であり、公益財団法人でありながら、隠蔽体質、暴力体質が改善されない相撲協会の姿であり、相撲界の闇であり、報道と人権の関係である。大げさと思うなかれ、このような状況を放置すれば、いずれ自分の首が絞められることになる。

2017年12月2日土曜日

忘年会

学生時代の友人との忘年会 @新潟の酒処 越州・新橋

いろいろとたいへんな年齢になりました。












2017年12月1日金曜日

呆れた相撲協会の「中間報告」ー日馬富士暴行事件ー

日馬富士暴行事件について、相撲協会から「中間報告」(以下「報告」という)が出た。その内容に客観性がない。協会は、被害者側からの聴取がないから「中間」という理屈のようだが、加害者に有利な情報を集めて、日馬富士の暴力はやむを得なかったという印象を一般に与える操作・意図がミエミエである。協会によるこのような印象操作こそ、貴乃花親方が最も恐れていたことだろう。

中間報告は相撲協会による「物語」

「報告」の根本的欠陥は、客観性に乏しいこと。たとえば、事件当日に被害者である貴ノ岩がとったとされる態度、行動についてはすべて、加害者側の一方的・主観的な供述を鵜呑みにしているように思える。別言すれば、日馬富士が暴行に及んだのは、態度の悪い貴ノ岩に対する躾・教育の度が過ぎたことによる、というストーリー性を帯びていることである。この協会側のストーリー性については、日馬富士の引退会見とみごとに同調している。日馬富士は引退会見で、“(態度の悪い)弟弟子(貴ノ岩)に対して、躾・礼儀を教えようとしてそれが度を越し暴行に及んだ”という意味の発言を繰り返していた。しかも会見において、貴ノ岩に対する謝罪は一言もなかった。

協会にとって都合の悪い事実は素通り

それだけではない。「報告」が素通りしている点として、事件のあった集まりが出身高校(鳥取城北高相撲部)の親睦だといわれながら、同校OB以外の出席者として、加害者の日馬富士、白鵬、鶴竜(モンゴル出身3横綱)が同席した理由について、明確にしていない点を挙げておきたい。同校OBは関脇の照ノ富士、被害者の貴ノ岩、石浦の3力士だけである。他の参加者である同校関係者とはどのような人々なのか、筆者には知る由もないが、高校相撲部の集まりに、モンゴル人横綱3力士が同席したのは、OB会にかこつけて、貴ノ岩に何ごとかを知らしめるため――特別な目的があったから――ではないのか。

白鵬、鶴竜、照ノ富士の現役三力士が日馬富士の暴行を止められなかった理由も明らかでない。暴行が一“瞬のできごと”であったとは、常識的に考えにくい。「報告」でも、日馬富士の暴行の手口について、最初は平手、さらにカラオケのリモコン、そして酒瓶(すべって凶行に至らなかったという)へと、エスカレートしている。「報告」では、日馬富士が酒瓶に手がかかったところで白鵬が止めた、としているのだから、酒瓶までは白鵬ほかが、日馬富士の暴力を容認していたことが手に取るようにわかる。

貴乃花親方の徹底抗戦で協会の思惑が瓦解

「日馬富士が、貴ノ岩の素行の悪さを糺し、礼を教えるために手をあげた」という協会の「報告」は繰り返すが、協会の作成した虚構の物語にすぎない。協会は、「日馬富士引退→関係者聴取終了→中間報告→書類送検→検察処分決定→危機管理委員会(最終)報告」をもって幕引きし、初場所(東京興行)を迎えたかったのだと思われる。ところが、貴乃花親方の徹底抗戦で、中間報告は不完全なものとなった。そこで焦って、加害者擁護の一方的「報告」を作文したように思える。

さらに、日馬富士の引退会見会場における、伊勢ケ浜親方及び日馬富士自身の、それこそ礼を失した態度・発言があり、千秋楽から理事会に至るまでの間の白鵬の首をかしげたくなる暴言がたびたびあり、(週刊誌による)白鵬共犯説、モンゴル会による八百長疑惑が噴出しはじめた。

協会側による、お抱え相撲記者等を使っての印象操作は逆効果となり、テレビの良識的コメンテーターからは協会批判が頻発している。協会お抱え相撲記者の摩訶不思議な協会擁護発言はむしろ、一般大衆の協会に対する不信を増幅するに至っている。

テレビは、ナイーブな相撲ファンの〝気持ち”よりも相撲界の〝暴力体質”を批判しろ

カルト的相撲ファン、国技・神事として相撲を神聖視する人々、娯楽として相撲を楽しみたい高齢者、格闘家として力士をリスペクトする格闘技ファン…がいてもいい。そうしたナイーブな相撲ファンが協会、日馬富士を信じ、貴乃花親方を批判するのも構わない。だが、そういう声を背景にして、そこに甘えて、メディアが暴力を許容するならば、おかしなことになる。メディア、とりわけ、テレビ及びスポーツ紙は、「日馬富士問題」で数字をあげている。この問題が長引き、人々が関心を失わないことが彼らの関心事であって、協会の暴力体質批判は二の次三の次ともいえる。

加えて、テレビ及びスポーツ紙は相撲が彼らにとってこれからも優良コンテンツであってほしい、と思っているはずである。だから、熱戦だとファンが信じた取組みが、実は、八百長だったと思われれば、相撲のコンテンツとしての価値は滅減する。相撲が――かつてテレビのドル箱でありながら、社会があれはショーだと悟った瞬間に凋落した――プロレスの歩んだ道を辿ってほしくないと思っているはずである。マスメディアの姿勢が、相撲界を甘やかし、ここまで腐敗させた主因なのである。

2017年11月29日水曜日

相撲協会とその周辺に巣食う時代遅れの愚者たち

横綱日馬富士暴行事件については、本日(11/29)日馬富士が引退届を提出したことでヤマを越えた。そもそも日馬富士は暴行の事実を認めているのだから、警察の捜査が進み、書類送検をして、それを受けた検察が起訴、不起訴を決める。それだけのことだ。日馬富士が引退したことで、不起訴となる可能性が高まったともいう。

バンザイ・ノーテンキ横綱

事件としては単純にみえる一方、昨日、事件現場となった飲食店で加害者・被害者と同席していた横綱白鵬が警察から、7時間を超える事情聴取を受けた。白鵬の聴取時間が加害者である日馬富士より長かったとは異常だが、白鵬に共同謀議の疑いがかかったと推察すれば、納得できる。日馬富士が貴ノ岩に一方的に暴行を加えたとき、同席していた白鵬が止められなかった理由はない。白鵬が日馬富士の暴行を容認したのではないか、という素朴な疑問が払しょくされていない。

暴行を容認した疑いがあることを知ってか知らずか、白鵬は千秋楽、自らの優勝表彰後に観客に万歳を求めた、観客もそれに応じた、相撲ジャーナリストの杉山某はTVのワイドショーで白鵬を称賛した。狂っているとしかいいようがない。

おバカなのか、それともおバカを装う、公益財団法人日本相撲協会評議員会議長

相撲協会の評議委員会議長である池坊何某は、日馬富士引退についてのコメントを求められて、「残念」を連発した。この人の発言はこれまでも常軌を逸していて、自分が務める公益財団法人の不祥事(暴力事件)について反省する言葉がない。事件を公にした被害者側(貴ノ岩、貴乃花親方)を責めるばかり。池坊何某は暴力事件を協会より先に警察に届けた貴乃花親方に瑕疵があるとして、理事失格だという。困ったものだ。なぜならば、相撲協会には「蒼国来事件」という忌まわしい過去をもっているからだ。この事件のあらましは、蒼国来という中国内モンゴル出身の力士に八百長の疑いがあるという情報(デマ)を信じた協会が、独自調査の結果、蒼国来を解雇処分した。これを不服とした蒼国来側が訴訟を起こし、結果、協会は敗訴、解雇を取り消した。つまり、相撲協会は「冤罪」で蒼国来を処分した過去をもっている。

巷間言われている相撲協会の「調査力」とはしょせんこの程度、とても信用・信頼できるものではない、とこのたびの被害者側(貴ノ岩・貴乃花親方)が思ったとしても不思議はない。協会に事件を上げれば、被害者にとって不利益になる確率は高くなる、と考えるのはむしろ当然、まずは警察と考えて何が悪いのだろうか。

なお余談だが、池坊評議員会議長は、過去(2011年)に財団法人『日本漢字能力検定協会』の理事長を途中解任されたという忌まわしい過去がある。

カルト的相撲ファンの元ロックバンドヴォーカル

池坊何某、カルト的相撲ファンのお化けタレント、杉山某も被害者である貴ノ岩が説明しないのがおかしい、という趣旨のコメントを連発する。このコメントも筆者には理解できない。このたびの事件を、異国で活躍する日本人アスリートに仮構して考えてみよう。ドイツでプレーする日本人サッカー選手は14名ほどいる。彼らがオフタイム、「日本人会」と称して食事や酒を飲むため集まったとしよう。その席上、日本人選手の中でもっとも知名度の高い兄貴分の香川真司(ドルトムント)が若手の浅野拓磨(シュツットガルト)に今回と同じような暴行を加えたとしよう。シュツットガルト側が被害届を警察に提出し、捜査段階だと仮定しよう。ドイツのマスメディアがこのような事件をどのように報道するのかは想像できないが、連日連夜、TVが当事者にコメント求めることはない――周辺の者がメディアに不確実情報を流すこともない――と確信する。粛々と警察が捜査し、起訴または不起訴が決まるものと思われるし、社会も粛々とそれを見届けるだろう。

この段階で、被害者である浅野がTVに出てきて事件について語ることは絶対にない。浅野が、香川から一方的に暴行を加えられた状況をTVで語ることはあり得ない。浅野は事件を理解できないし、肉体的と同時に、いやそれ以上に心的に傷を負っているはずだからだ。同郷(日本)の先輩がなぜ、自分に暴力を振るったのだろうかと。

内面の問題にとどまらない。警察が捜査をしている段階で自分が口を開けば、警察捜査にも影響する。事件について具体的にメディアに語ることは捜査妨害にもなる。ドイツの社会が浅野に対し、メディアに出てコメントしろ、と求めることがあるだろうか――筆者は、そのようなことはあり得ないと確信する。浅野がTVに出てきて、「香川にこんなふうに殴られました、そばにいた日本人選手はだれも止めませんでした・・・」と説明することがあるはずがない。

無責任横審委員長に相撲協会御用達「ジャーナリスト」

日本のTVがこの事件を連日取り上げるのは、視聴率が稼げるからだろう。前出のとおり、捜査段階では、被害者・加害者は立場上、表に出られない。協会(及び協会と利害を一致する関係者)は、“事件はなかった、穏便に済ませたかった”から、被害者不利のデマ情報を流しまくる。公益財団法人評議員会議長という公職にある者が、“巷の相撲ファン”なみのコメントで、協会への責任追及を回避させようと誘導する。横審とかいう老人会が自分たちの任命責任を棚に上げて、協会に「厳正な処分」を求める。

こうして見てみると、TVは相撲協会とその関係者に利用されていることがわかる。コメンテーターの中に一人として、相撲協会の暴力体質を批判する者がいないことがそのことの証明となる。だれもが、被害者(貴ノ岩)と加害者(日馬富士)がなにもなかったように、初場所に出場できることを願っているかのようなコメントが平然と電波にのって日本中(いやモンゴルまで)流されていくことをだれも止められない。その代表的存在が、元NHKの相撲中継アナウンサーで、現在「相撲ジャーナリスト」である杉山某であろう。

残念なのは、暴力事件発生の根源に目を向けない相撲協会及び相撲業界

相撲協会は暴力を追放しようと努力してきたという。だがそれこそ残念ながら、その努力は足りなかったのだ。実行犯の日馬富士はもちろんだが、相撲協会こそが責任をとるべきなのだ。評議委員会議長なのか、理事長なのか、日馬富士が所属する部屋の親方なのか、横審委員長なのか、そのすべてなのか――だがここでも誠に残念ながら、いまのところ、ここに挙げたうちのだれもが責任を感じているようには見受けられない。それこそ残念きわまりない。

2017年11月22日水曜日

フランスからお客様



フランスからジャンさんとアンさん(兄妹)がわが家に。


2017年11月21日火曜日

国(内閣府)は相撲協会の公益財団法人認可を取消せ――日馬富士暴行事件

横綱日馬富士の暴行問題に係る報道が混迷している。マスメディアは暴行事件の事実関係を報道するというよりも、それをひたすらわかりにくくしようとしている。どこからか、この事件の本質追及を回避させるような圧力がかかり、それを受けたメディアが謀略に加担している――そのような構図が筆者の目に浮かぶ。

相撲界に残る暴力体質

事件の概要は、酒の席で日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いたというもののようだ。いま現在のところ明確なのは、加害者は日馬富士で被害者は貴ノ岩ということ。

暴行はもちろん犯罪になるが、そのすべてが刑事事件になるとは限らない。被害の程度にもよるし、互いの事情もある。たとえばサラリーマンの酒の席の場合、それぞれの立場が働いて、謝罪で済ますことも多いし、ことと次第では示談となる。

本件が一般の暴行事案と異なるのは、それが相撲界で起こったということだ。相撲界では過去に深刻な暴力事件があった。それが是正されなかった。相撲界には暴力を肯定する体質が根強く残っているのではないかと。

マスメディアの報道が本質(相撲界の暴力的体質)を隠蔽

ここまでのところ、本件に係るマスメディアの報道は、▽医師の作成した診断書云々、▽ビール瓶ではなく素手だった云々、▽相撲協会と貴乃花親方との確執云々、▽事件のきっかけとなった貴ノ岩の言動云々・・・と、相撲界の暴力的体質を追求する姿勢は見られない。一見すると、事件の「真相」が追及されているようにみえるが、実際は、真相は藪の中にあるかのように仕向けている。事件が内包する本質的問題(=相撲界の暴力体質)追及を回避させようとする力が働いている。

大相撲はここのところ、人気沸騰中だという。マスメディア、とりわけテレビ、スポーツ新聞にしてみれば、相撲は大切なコンテンツの一つ。ここで相撲協会の怒りを買うような番組をつくれば、今後の取材も困難になる。人気力士のメディア出演も断られる・・・と考えているのかもしれない。そこでメディアは、この事件をあやふやにする情報を繰り返し、相撲界の暴力体質への批判をかわそうという戦略に出た。本件に関する憶測、推測、伝聞、虚偽情報を乱発し、本丸である相撲界の闇に至らせないように謀っている。その結果、前出のような不確実な情報がマスメディアにあふれ出し、相撲界の暴力体質追求はどこかに忘れ去られた。

あやふやな情報の出どころは、相撲協会の意を汲む「関係者」だろう。協会幹部はうかつな発言はできない。協会幹部に代わって、元力士、部屋付き親方、相撲解説者(元相撲記者等)らの出番となる。彼らが聞いたような噂をメディアに流し、煙幕が張られる。

相撲部屋制度が暴力的体質を醸成

相撲界の暴力体質はどこからくるのか。不祥事を重ねながら、なぜ是正できないのか。相撲界が暴力体質を一掃できない主因は、親方を頂点とする相撲部屋制度にある。

相撲に限らず、格闘技の場合、格闘家が一人で技を磨くことは不可能だ。それゆえ、MMAなら「チーム○○」、プロボクシングなら「△△ジム」、空手等では「××館、◇◇道場」に所属することになるが、こうした集団は相撲界の部屋とは根本的に異なる。格闘家がそこで集団生活することはほぼない。相撲以外の格闘家の所属先は練習をする場であって、その集団のトップ(ジムの社長、道場等の館長など)に人格的に支配されることはない。ランキングの低い格闘家はジムや道場に通って練習をし、練習が終わればアルバイトをして自分の生活の糧を得る。例外として、才能を認められた若き格闘家にはスポンサーがつき、スポンサーが生活を支えてくれる(という幸運に恵まれることも稀にある)。相撲以外の格闘家は下積み時代は実社会で働きながら、下積みから這い上がろうとする。一般の人と同様に、自力で社会経験を積む。

一方の力士は、相撲部屋に閉じ込められ、練習(稽古)、礼儀(上下関係)、生計に至るまで、すべてを管理される。相撲界では年端のいかない若者が新弟子として相撲部屋に入門し、相撲部屋という閉鎖空間で生活と稽古(練習)を続ける。実社会と隔離した特殊世界で、同じような経験をした兄弟子、同期、弟弟子としか接しない。そこで培われた特異な倫理観、世界観に支配されて年を重ねる。

相撲部屋を伝統的に支配する暴力はそうした生活環境を基盤にして、力士間に共有される。相撲協会は若い力士に研修を重ね教育を怠らないというが、研修で社会性が身につくはずがない。社会経験のない(少ない)若者に対して“社会とはこんなものです”と教育してなんになる。

相撲部屋の伝統とはすなわち儒教的封建遺制

相撲部屋の伝統とは、別言すれば、封建遺制だ。親方を頂点とする儒教的家族主義だ。それは次のように説明できる。

儒教的家族主義の特徴は、構造としての円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序である。その権威の階層性を創りだすものは「文化」(儒教思想)の体得の度合いである。そして、秩序形成における非法制性と主体の重層性である。秩序形成に関する儒教の有名な言い回しとして「修身・斎家・治国・平天下」がある。そこには各人・家・国・世界とアクターを重層的にとらえ、法や制度の体系ではなく修養、教化による秩序形成がポイントになっている。(天児彗「中国の台頭と対外戦略」、天児彗他編『膨張する中国の対外関係』勁草書房)。

相撲界の部屋制度では、新弟子は一般社会の規範となる法体系ではなく、階層性、すなわち親方を頂点とした上下関係の上位者が得ている修養、教化による秩序形成に従属し、人格形成される。そこでは、番付の上の者や年上の者(円錐形の上位者)による暴力支配が修養、教化の安易な道具として使用される。

日馬富士(横綱という上位者)が貴ノ岩(幕内という下位者)に修養、教化として暴力をふるう余地が十二分にあった。暴行の発端は、テレビによると、酒席で上位者が話しているとき、下位者がスマホをいじったことだ、と報道されている。このことは、相撲界の儒教的体質を明確にあらわしている。しかるに、テレビのコメンテーターが、日馬富士が貴ノ岩に暴力(による教化)を施したことを暗黙裡に容認するような解説をしているのを聞いて、筆者は唖然とした。相撲界(伝統社会)だから仕方がない、といいたげなことに・・・

このたびの暴力事件がモンゴル出身力士の間で起こったことは偶然ではない。モンゴル出身者は、“日本に”というよりも“相撲界=相撲部屋”に順応しなければならなかった。その風習・慣習・不文律にいやがおうでも適応することを求められた。彼らは外国人である。だから、部屋に順応することは、相撲界で成功するための最低限の条件だった。その結果、モンゴル出身力士が純粋培養的に相撲部屋の悪しき風習を忠実に実行する者となり得た。

相撲の勝敗はまさにブラックボックス

相撲は近代スポーツとは異なり、大相撲一座の見世物興行的性格をもっている。プロレスに近いが、相撲の取組みの全てがプロレスのようなショー(八百長)ではないし、筋書きがあるわけでもない。相撲は極めて短い勝負だから、ヒールとハンサムが演じ合うようなストーリー性は成り立たない。

相撲の勝負では、互助、思いやり、忖度が幅を利かしている。たとえば、▽結婚した力士を(祝福して)優勝させる、▽スター性があって将来人気が出そうな力士を勝たせる、▽負け越しが決まる相手には負けてあげる……などなど。

最近では、久々に日本出身の新横綱となったKSが横綱初の場所となった2017年3月場所、13日目に寄り倒された際に左肩を負傷。休場の可能性も囁かれたが、左肩に大きなテーピングをして強行出場。14日目は一方的に寄り切られ、この時点で1敗で並んでいたTFに逆転を許してしまう。千秋楽、KSは左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップのTFとの直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて二連勝することが必要なKSの優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、決定戦に望みをつなぐ。引き続いての優勝決定戦ではあっさりともろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めるという信じがたい相撲があった。その後、そのKSは3場所休場し、休場明けの今場所(11月場所)も負けが続き休場した。あの「逆転・奇跡の優勝」とは何だったのか――その答えは、日本出身横綱に花を持たせるため忖度が働いた、という説明でいいと思う。

相撲の「忖度」を外部の者が明らかにするのは困難だ。だれでもがわかる無気力相撲をとれば別だが、一方が勝負所で少し力を抜いたり、足を滑らしたりしても、外部者が「忖度相撲」だと証明することはまず不可能だ。

その一方、力士は鍛錬された格闘家。常人とは比べることができないパワー、忍耐力をもっている。魅せる要素、タレント性もある。実力がなければ上には上がれない。横綱になるには大変な努力がいる。それはそうなのだが、相撲界は他の近代スポーツのように、実力だけで決る世界ではない。虚と実が混在している世界なのだ。

相撲協会は特異な公益法人

日本相撲協会は公益財団法人だ。しかも、公益法人でありながら、営利的かつ職業的な相撲興行を全国規模で開催している唯一の法人だ。日本国において、暴力体質を内在する興行集団に公益性があるのだろうか。そればかりではない。この暴力集団(相撲協会)に公益法人に求められる透明性があるのだろうか。相撲協会は、このたびの暴行事件について、公益法人として、国民の前にまっとうな説明をしただろうか。怪しげな情報を意図的に流布していないだろうか。

筆者は、相撲協会は始めから、公益法人としての要件を備えていなかったと思っている。このたびの事件の発生から、今日までの協会の動向をみれば、暴力体質が一掃されていないことも、透明性が確保されていないことも、火を見るより明らかではないか。

「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」によれば、公益法人の認定と監督は、独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の権限で行われる。協会の場合は国(内閣府)の認定で、内閣府には7人の民間人委員からなる公益認定等委員会が設置され、同委員会が協会を公益法人とした。ならば、国は速やかに相撲協会の公益財団法人認可を取り消すことが妥当だ、と筆者は思うのだが、いかがであろうか。