2022年5月31日火曜日

『新編 現代の君主』

 ●アントニオ・グラムシ〔著〕●上村忠男〔編訳〕●ちくま学芸文庫●1500円+税 

 本書は、イタリアのマルクス主義者、アントニオ・グラムシ(1891-1937)が、ムッソリーニ(ファシズム政権)により投獄されているあいだ、獄中にて書き残した「ノート」を集成したものである。
 グラムシが投獄されたのは1926年、ロシア革命から10年も経過していない。共産主義革命の勢いがヨーロッパを西進する中、革命後のソ連の動向、就中、レーニン亡き後におけるソ連の革命戦略定立をめぐる混迷を反映した言説も見受けられ、全編、緊張感にあふれている。〔後述〕
 本書に集成されたグラムシの記述の大部は、イタリア・マルクス主義研究の先駆者である、ラブリオーラ、クローチェ、ジェンティーレ及びフランスの革命的サンディカリスト、ソレルの言説を踏まえ、主に彼らに対する批判から持論を展開する構成になっている。そのため、彼らの思想を理解していないとわかりにくいのだが、本書の編訳者であり、巻末解説の執筆者である上村忠男の補足・訳注・解説が浅学の筆者には助けになった。それなくして本書の理解は不可能であった。
 なお、本題は〝現代の君主″であるが、 テーマは多岐にわたり、全編が君主論で貫通しているわけではない。よって、筆者が関心を示した部分に絞ってその感想とした。

人間とはなにか 

 Ⅰ章における「人間とはなにか」「構造と上部構造―その歴史的ブロック」「哲学・宗教・常識・政治」が本書のガイストである。その冒頭は文字通り、人間とはなにか、ではじまっている。グラムシの回答は以下の通り。

「人間の本性」とは「社会的諸関係の総体」であるというのが、かくては最も満足のできる答えである。なぜなら、この答えは、生成の観念、人間は生成する存在であって、社会的諸関係の変化に応じてたえず変化していくという観念をふくんでいるからであり、「人間一般」なるものを否定しているからである。じじつ、社会的諸関係は相手をたがいに前提しあっているさまざまな人間集団によって表現される。そして、その統一性は、弁証法的なものであって、形式的なものではない。(P21) 

 この回答はマルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』そのものである。そして、《まさしく歴史に「生成」という意味があたえられ、それが、統一性から出発することはしないが、それ自体のうちに可能な統一性の根拠をもっている「不一致の一致」というように把握されるならば、人間の本性は「歴史」である(そして、この意味において歴史イコール精神であるとすれば、人間の本性は精神である)ということもできる。だから「人間の本性」は個別的な人間のうちにはだれのうちにもみいだすことはできず、人間の歴史全体のうちにみいだすことができるのであって(したがって、「類」という語がもちいられることには、この語自体は自然主義的性格のものであるが、それなりの意味がある)》と続く。 

構造と上部構造 

 この単元を読む前に、マルクスの『経済学批判』の 序言(以下「序言」という)を頭に入れておくことが必要である。 

〔A〕人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
(略)
〔B〕社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が徐々にせよ、急激にせよ、くつがえる。
 このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常にくべつしなければならない。
(略)
〔C〕一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。 

(岩波文庫『マルクス経済学批判』/武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦〔訳〕。便宜上、抜き出し箇所を順にABCの符号を付した。) 

 マルクスのこの言説は、とりわけ20世紀における日本のマルクス主義運動において多くの論争を巻き起こしたし、革命的左翼各派における路線の違いを生じさせる主因ともなった。
 たとえば〔A〕については、上部構造は構造に規定されるのであるから、資本主義システムにおける文化・芸術は反革命的であり、その価値を一切認めないという、ブルジョア文化否定を党是とする党派を存在せしめた。同様に、プロレタリア革命(政治=上部構造)は経済=構造により規定されるという思い込みにより、経済決定論がうまれた。
 また〔B〕については、資本主義システムはいずれ矛盾をきたし、上部構造である政治、宗教、芸術、哲学は破綻するのだから、政治的変革はその危機におよんで画策することが正しい選択であるという、危機論型革命論をうんだ。
 〔C〕についても同様に、資本主義システムが終了する、つまり革命の時期は、物質的諸条件が現存しているか、それができはじめている場合にかぎって発生するということを根拠にして「待機論」をうんだ。
 グラムシはどのように「序言」を読んだのであろうか。グラムシはまずもって、《人間はイデオロギーの場において構造の諸矛盾を意識する》と解し、認識論的な意義をもつ主張だと、そして、《ヘゲモニーという理論的ー実践的原理は、認識論的意義をもつ》ものであるとした。ここでいうヘゲモニーとは、レーニンがロシア革命に際し、ロシア内における圧倒的少数派であるプロレタリアが、知識人、農民、小規模商工業者、兵士といった、それ以外の各層の者をプロレタリア側の主導のもとにおいた、ということを意味する。 

 イリイッチ(レーニン)は、政治の理論と実践を前進させたかぎりにおいて、(哲学としての)哲学をも(実際上)前進させたといってよい。ヘゲモニー装置の実現は、新しいイデオロギーの地盤をつくりだし、意識と認識方法の改革をひきおこすという意味では、ひとつの認識上のできごと、ひとつの哲学的なできごとである。(中略)新しい世界観に適合した新しい道徳を導入することに成功したとき、この世界観の導入も完了する。すなわち、ひとつの全面的な哲学的改革がもたらされるのである。(P28) 

 もうひとつは、構造と上部構造が〔歴史的ブロック〕を形成しているという考え方である。

 上部構造の複雑で不調和な(矛盾した)総体は生産の社会的諸関係の総体を反映している。ここからみちびきだされるのは、(個々のイデオロギーではなくて)ひとつの全体的なイデオロギー体系のみが構造の矛盾を合理的に反映しており、実践の反転〔※〕のための客観的諸条件がどのようなものであるかをあるがままに表現しているということである。イデオロギーの点で100パーセント等質的な社会集団〔※※〕が形成されたならば、このことは、この反転のための前提が100パーセント存在するということ、すなわち、「理性的なもの」が現に行為的に現実的なものであるということを意味している。この論証は、構造と上部構造とが必然的な相互関係(まさに現実的な弁証法的過程であるところの相互関係)にあるということに依拠している。(P29) 
※構造の反転については、編訳者である上村忠男が巻末解説で詳論している。それによると、《グラムシの関心が、上部構造が構造とのあいだに取り結んでいる関係が被規定的な反映の関係であるということよりむしろ、このことを踏まえたうえで、人間主体による実践的活動を介しての上部構造から構造への能動的な反作用の可能性のほうにむけられていることがうかがわれる。いわれるところの「実践の反転」ないしは「反転する実践」の可能性である。(P400~401)》
 ※※=社会階級のこと。検閲を考慮していいかえたもの(訳者注) 

現代の君主 

 本題の君主論である。ここでグラムシは、マキャヴェッリの『君主論』についてまさに論じているのであるが、そのことはさておき、現代の君主について、Ⅱ章〔現代の君主〕及びⅣ章〔「非政治的な」党形態について〕においてさらに扱い、それぞれ次のように定義している。 

 現代の君主、神話としての君主は、実在の人物、具体的な個人ではありえない。それはひとつの有機体でのみありうる。それはひとつの複合的な社会要素であって、それまで行動のうちにあらわれて部分ごとに自己を主張していた集合的意志がひとつのまとまった具体的な形姿をとりはじめたものなのである。この有機体は、歴史の発展によってすでにあたえられている。政党がそれである。政党というのは、普遍的かつ全体的なものとになろうとめざしている集合的意志のもろもろの萌芽がそこに要約されている最初の細胞なのだ。(P74)  

 ・・・『新君主論』の主役は、現代においては、個人的な英雄ではなくて、政党であることになろう。すなわち、そのときどきの条件に応じて、さまざまな国民のさまざまな国内関係のもとにあって、新しい型の国家を創建しようと意図している(そしてこの目的のために合理的かつ歴史的に創設された)特定の党であることになろう。全体主義であると自己規定している体制のもとでは、王室が伝統的にはたしてきた機能が、実際上、この特定の党によってひきうけられていることに注意すべきである。(中略)およそ党というものはすべて、ある社会集団、それもただひとつの社会集団の表現である。しかしながら、それらの特定の党が、一定の具体的な条件のもとにあって、あるひとつの社会集団を代表するのは、ほかでもない、それらが自己の集団と他の諸集団とのあいだいの均衡と調停の機能を遂行し、みずからの代表する集団の発展が同盟諸集団の同意と援助、さらには断固として敵対的な諸集団の同意と援助さえをもとりつけつつ推進されるよう努めるかぎりにおいてである。「君臨するが統治しない」国王または共和国大統領という立憲主義の定式は、この調停者の機能を表現した定式である。それは王冠または大統領を「あらわに」しないでおこうという立憲主義的諸党の配慮なのであって、統治行為については国家元首には責任がなく、内閣に責任があるということにかんするもろもろの定式は、直接に統治している人物やその党がなんであれ、国家は一体であり、非統治者の同意のうえに成立しているという一般的保護原理を具体化したものなのだ。 
 全体主義的な党とともに、これらの定式は意味をうしなう。ひいては、これらの定式にそって機能していた諸制度の力も減退する。しかし、機能自体はその党によって体現されているのであって、その党は「国家」という抽象的な観念を称揚しようとし、さまざまな方策を講じて、「不偏不党の力」という機能が依然として有効に作動いているかのごとき印象をあたえようとこころみるであろう。(P279~280)  

〔現代の君主=党〕とは何か 

 党とはなにかとグラムシは自問自答し、次のように回答する。 

 組織および党ということを形式的な意味ではなくて広い意味に理解する限り、どんな社会においても、だれ一人として組織されていない者はなく、また党をもたない者もいないということは、他の機会に記しておいた。この多数の特殊的な社会(=組織または党)は、自然的という性格と契約的または意志的という性格の、二重の性格をもっている。そして、これらのうちの一つないし複数のものが相対的または絶対的に優位を占め、あるひとつの社会集団の残りの全住民に対するヘゲモニー装置(または倫理的社会)を構成するのであり、これが狭く強制的な政治装置という意味に理解された国家の基礎をなすのである。(P281) 

 グラムシは党が国家であるという立場に立つ。この場合の党とはもちろん、共産党である。グラムシが目指す党とは、《全体主義政治であり、それは(一)ある特定の党の成員が以前には多数の組織のうちにみいだしていた満足のすべてをこの党だけにみいだすようにすること、すなわち、これらの成員の外部の文化的組織に結びつけているあらゆる糸を断ち切ること。(二)他の組織をすべて破壊すること、またはその党がそれの唯一の規制者であるひとつの体系の中にそれらを組み入れれること。P282 》。
  これらの言説は、プロレタリア独裁を換言したものであろう。グラムシの党に対する無限の信頼は、20世紀における失敗をふまえるならば、21世紀のこんにち、肯ぜられことはないと思う。

グラムシは全体主義者なのか 

 本書編訳者の上村忠男は、巻末解説において次のように書いている。 

 ・・・グラムシは・・・文字どおり、一個の全体主義的な社会の構想者でもあり続けたということである。そして、この面こそは、グラムシをして典型的に20世紀の思想家たらしめている面にほかならないのである。
 20世紀という時代は、社会思想的には、なによりも全体主義、あるいは「全体国家」のうちに、幸福な社会の実現の夢を託そうとしたことで特記される時代であった。(P414)

  20世紀前期に成立した全体主義の起源は、▽WW1(ナポレオンの出現という説もある)において欧州各国が必然的に構築せざるをえなかった総力戦体制の経験、▽そこから平時においても戦時体制に国家システムを改変する必要から発生したファシズム=専軍国家群(イタリア、ドイツ、日本)の誕生、▽ロシア革命によってうまれたソ連の誕生ーーであろう。そしてWW2以降、ファシズム国家群の消滅と同時に、▽ソ連の影響力が強まる中、冷戦下で発生した社会主義国家群、▽自由主義国家群が社会民主主義政策を積極的に取り入れて形成された福祉国家群ーーが、世界各国の全体主義化を加速させた。
 しかし、20世紀後半におけるソ連崩壊、東欧の民主化によって、21世紀に入るや、社会主義国家はおおむね消滅し、一方の自由主義圏は新自由主義の台頭により、福祉政策をおろし、弱者切り捨て国家に変容しつつある。現代を帝国主義の時代の再来だと断言する思想家もいる。そんななか、グラムシの思想を振り返る意義はあるのだろうか。現代の君主たる党(=共産党)の失敗をふまえ、全体主義に陥らない新しい社会主義の構築を模索するために乗り越えるべき思想家のひとりと考えるほかないのかもしれない。 

永続革命か一国社会主義か 

 ロシア革命の成功ののち、革命政権内部において、以降の革命路線についての模索があったことが知られている。ひとつはトロツキーの永続革命であり、もうひとつはスターリンの一国社会主義建設であった。結果において、スターリンがトロツキーを国外に追い出し(1929)、刺客を使って亡命先のメキシコでトロツキーを殺害(1940)したことで決着した。トロツキーは殺害されるまで、亡命先で第四インターナショナル結成に向けて奔走していた。一方のスターリンは革命に貢献したボルシェヴィキ幹部を大量粛清し、権力基盤を固めていた。こうしてみると、グラムシが獄中で本書にある「ノート」を書き続けていたとき、トロツキーは存命であるばかりか、革命政権の中枢に残っていた時代なのである。
 グラムシは、Ⅲ章「 情勢または力関係の分析について」のなかで、「政治の分野における機動戦(および正面攻撃) から陣地戦への移行」と題して、路線問題について詳述している。革命後の政治について、軍事用語である機動戦(正面攻撃)と陣地戦をもちだし、革命の永続化を前者に、そして一国社会主義建設を後者にたとえたのである。そのなかで、陣地戦から攻囲戦における勝利か敗北かが国の存立を決定するに等しい最終局面であることを強調している。つまり、史上初めて社会主義革命をなしとげたソ連の存続、すなわち、一国社会主義建設の成功か否かが、ロシア革命以降における世界プロレタリア革命の成否を決すると理解したのである。

 政治の分野においても機動戦(および正面攻撃)から陣地戦への移行が生じたこと。これは、戦後期が提起したもっとも重要な、そして正しく解決することの至難な政治理論の問題であるように思われる。これはプロスティン(トロツキー)がもちだした諸問題(永続革命)とむすびついている。トロツキーは、それが敗北の原因でしかない時期における正面攻撃の政治理論家であるとみなすことができるのだ。政治の分野におけるこの移行が軍事の分野において生じた移行と結びついているのは、ただ間接的であるにすぎない。陣地戦は無数の住民大衆に莫大な犠牲を要求する。だから、未曾有のヘゲモニーの集中、ひいては、反対者にたいしてより公然と攻撃姿勢をとり、内部解体の「不可能性」を永続的に組織するような、いっそう「干渉主義」的な統治形態になる。政治的、行政的、等々のあらゆる種類の統制、支配的集団のヘゲモニーの「陣地」の強化。こういったことのいっさいは歴史的ー政治的情勢の絶頂段階にはいったことを示唆している。というのも、政治においては「陣地戦」は、ひとたび敗北すれば決定的な意味をもってしまうからである。政治においては、決定的でない陣地の獲得が問題になっているあいだは、したがってヘゲモニーと国家のすべての資力を動員しなくてもすんでいるあいだは、運動戦がつづけられる。しかしまた、なんらかの理由でこれらの陣地が価値をうしない、決定的な陣地だけが重要性をもつようになったとき、そのときには攻囲戦に移る。それは圧縮された困難な戦争であって、忍耐と創意工夫の並々ならぬ資質が要求される。政治においては、攻囲戦は、その外観にもかかわらず、相互的である。そして、優勢なほうが自分の全資力をはきださなければならないという事実ひとつをとってみても、それが敵についてどれほどの計算をしているかが明らかになるのである。(P195~196) 

 実践の哲学(=マルクス主義)にしたがえば、それはその創始者が定式化しているところでもよいし、しかしまたとくにその最近の偉大な理論家が精密化しているところからすれば、国際情勢はその国民的〔=一国的〕な側面においてはどのように考察されるべきか、という点である。現実には「国民的〔一国的〕」という関係は、あるひとつの「独自」かつ(ある意味では)唯一の結合の結果生じているものなのであって、この結合は、もしもそれを支配し指導しようとおもうならば、そうした独自性と唯一性において受けとめられ、とらえられなければならないのである。たしかに、発展の方向は国際主義にむかっているものの、出発点は「国民的(=一国的)」である。そして動きだす必要があるのは、この出発点からである。しかし、展望は国際的である。また、そうでしかありえない。
(略)
  ・・・多数派(=ボリシェヴィキ)運動の解釈者としてのレオーネ・ダヴィドヴィッチ(=トロツキー)とベッサリオーネ(=スターリン)のあいだの根本的不一致はあるようにおもわれる。国民主義〔=一国主義〕という非難は、問題の核心にかんするかぎり、不適切である。1902年から1917年までの多数派(=ボリシェビキ)の努力を研究してみれば、その独自性が、国際主義からあいまいで(悪い意味での)純粋にイデオロギー的な要素をあらいおとし、それに現実主義的な政治的内容をあたえようとしたことにあることがわかる。(中略)国際的性格の階級であっても、狭く国民的〔=一国的〕な性格をおびている社会階層(知識人)や、それどころかしばしば国民的ですらなく、個別主義的で地域主義的な階層(農民)をも指導していくものであるかぎりで、ある意味ではみずから国民化〔=一国化〕しなければならないのである。(P210~211)  

 上村の訳注によると、トロツキーは、ロシアのような後進資本主義国家における革命は、プロレタリアートの主導によるブルジョア民主主義革命をもってはじまり、そのまま中断することなく、社会主義革命へと連続していかざるをえないこと、また、その革命は先進資本主義国のプロレタリアートによる社会主義革命へと連続的に発展し、その援助をうけることを必要としていること。 一方のスターリンは、レーニンの『帝国主義論』にある帝国主義の不均等発展から、社会主義革命の勝利も、それぞれの帝国主義国の段階ごとに個別に可能にされていく、すなわち、一国革命を目指すべきだと主張したとされる。
 グラムシは必ずしもトロツキーを支持しているわけではない。スターリンの一国主義が現実的であり、西欧における反革命の勢いは侮れないとしている。しかし、スターリンがボリシェヴィキ古参幹部を次々と粛清していた事実が、獄中にあったグラムシの耳に入らなかったことを理解しなければならない。グラムシの一国化とスターリンが自らの独裁をめざした「一国化」とは全く次元が異なるのである。
 引用にもあるように、《たしかに、発展の方向は国際主義にむかっているものの、出発点は「国民的(=一国的)」である。そして動きだす必要があるのは、この出発点からである。しかし、展望は国際的である。また、そうでしかありえない。》と、グラムとシは強調しているのであるから。(下線は筆者による) (了) 

 

2022年5月24日火曜日

東京国立博物館

 琉球展のついでに、東京国立博物館の全館をざ~と見学。

庭園がきれい。

表慶館


オリエント館

法隆寺宝物館

本館

庭園茶室

同上

庭園 池

特別展「琉球」

 沖縄本土復帰50周年記念「琉球」を見てきました。








2022年5月20日金曜日

いま世界は「帝国主義的段階」にある

 

演説するレーニン

ロシア革命(1917)をなしとげたボルシェビキ政権がロシア帝国に替わる国名としたのがソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)であった。この国名はすべてが抽象的一般名詞で構成されている。ご存知のとおり、ソヴィエトとは評議会という意味であり、古い地名や民族を意味する固有名詞はない。まさにプロレタリア国際主義である。USSRのもと、ロシア・ソヴィエト共和国(以下、共和国を略す)、ウクライナ、白ロシア、ラトビア、エストニア、リトアニア、モルダビア、アルメニア、グルジア、ウズベク、カザフ、アゼルバイジャン、キルギス、トルクメン、タジク等の共和国がその構成に加わった。

革命後、たとえば、いまロシアと戦争状態にあるウクライナの人たちは、自分の国をソ連と思っていたのかそれともウクライナと思っていたのか、あるいは、スターリンの生誕地であるグルジア(現ジョージア)の人はどうだったのか。いまそのことを確認するすべを持っていない筆者の想像にすぎないのだが、ソ連という抽象名詞が連なった国家名は、ロシア各地に住む人々にとって、重圧だったのではなかったかと。 

各共和国の人々がその重圧から解放され、USSRの民としてアイデンティティーを獲得したのは、WW2における対ナチス戦争勝利だったのではないか。その「偉業」はナポレオンの東進を阻んだロシア帝国の偉業に匹敵したと考えたかもしれない。そこから新しいソ連という国家の邁進が期待されたのだと思う。しかし、その夢はわずか40年弱でついえた。ソ連は崩壊し、前出の15のソヴィエト社会主義共和国は連邦形成から離脱し、独立し今日に至っている。ソ連の崩壊は1988-1991にかけてであった。かつての共和国は独立し、それぞれが、ゆかりのある固有名詞を冠した国名を名乗った。USSRは70年余で消滅した。 

さて、USSR崩壊後から30年余りののちに勃発したウクライナ戦争である。筆者が注目していた南部戦線マウリポリ。ウクライナ軍の別動隊アゾフ連隊が立てこもっていた巨大製鉄所が陥落し、アゾフ連隊兵士100名ほどが投降し捕虜となった。ロシア軍がネオナチ=アゾフ連隊との戦いに勝利したことで、プーチンが目的としたこの戦争のミッションの最低限を完了したことになる。この先の戦争の行方は、メディア報道にあるように、正面戦から陣地戦へとかたちを変え、東部・南部におけるウクライナ・ロシア国境付近における消耗戦に入るものと思われる。 


この戦争を開始する前、プーチンが創作した、ウクライナ軍事侵攻正当性に係る物語は、ロシア建国神話、正教、WW2における対ナチス戦争勝利であったといわれている。けれど、筆者はこの戦争をロシアの復古的表象とは考えていない。そのヒントを与えてくれたのが、柄谷行人の「1990年代の動向」(『ニュー・アソシエショニスト宣言』作品社版収録)であった。柄谷は1980年代以降、アメリカで開始された新自由主義政策は帝国主義であると断じている。そして、歴史の反復を120年周期と設定した。その根拠は柄谷の「交換様式」からくるものだが、その説明はここでは省略する。柄谷は世界資本主義(近代世界システム)の歴史的段階を上の表にまとめた(前掲書P49)。1990-120=1870、つまり、1930ー1990というわれわれ世代が経験した安定の時代が自由主義的段階であり、それを挟み、息苦しさを感じ始めた1990年以降いま現在が帝国主義的段階の時代だというのは実感を伴っている。帝国主義的時代の特徴をといえば、ヘゲモニー国家(アメリカ)の没落による新たなヘゲモニーをめぐる争いが生じる段階である。柄谷は次のように書いている。 

アメリカのヘゲモニーが揺らぎ始めたのは、1970年代からです。そして、それを揺るがしたのが(中略)日本とドイツでした。その後に、アメリカから新自由主義が出てきたのです。すなわち、新自由主義という「経済政策」は、アメリカがヘゲモニー国家として没落し始めた段階、そして新たなヘゲモニーをめぐる争いが生じる段階、すなわち、帝国主義的な段階に固有のものです。ゆえに、新自由主義は、自由主義とはまったく異なるものです。また、それはたんに諸国家が任意に選択するような経済政策ではありません。それは「歴史的段階」です。すなわち、ヘゲモニー国家が不在であるような段階です。(前掲書P50) 

帝国主義的段階における特徴的な表出について柄谷は次のように指摘する。

資本主義的な市場経済が進むと、階級格差や対立が生じます。それを、ネーション=国家が課税と再分配によって解消する。資本=ネーション=国家は、そのように、資本主義経済を永続させる装置です。1990年ごろ、ソ連の崩壊とともに流行した「歴史の終わり」とは、そのような装置の完成を意味します。
しかし、実は、まさにそのころから、資本=ネーション=国家はうまく機能しなくなったのです。なぜなら、このような装置がよく機能するのは、自由主義時代、すなわち、資本の蓄積が順調である場合だけだから。(中略)1970年代以降、資本の蓄積が困難になった。簡単にいえば、一般的利潤率が低下しました。そうなると、福祉や労働者保護といった要素は切り捨てられる。いいかえれば、「ネーション」の部分が切り捨てられて、資本=国家が剥き出しになる。そこから、新自由主義的な政策が出てくるのです。ネーションが回復されても、それは空疎で排他的なナショナリズムにしかならない。それは相互扶助的なものではありません。 

だから、1990年において〝終わった”のは、ソ連社会主義だけではありません。自由主義段階で可能であった社会民主主義ないし福祉国家もそうです。(同P51~52) 

柄谷が「1990年代の動向」を著わしたのが2014年4月のこと。なかに次のような予言めいた言説が含まれているので紹介しておく。《ここ(120年周期説)から、今後にどうなるかも予測することができます。現在が、ヘゲモニー国家が没落しつつある帝国主義的時代だとすると、どこが次のヘゲモニー国家となるか、あるいはそこにいたるまでに何があるか・・・放っておけば、もちろん世界戦争です。》 

プーチンが現段階で世界的ヘゲモニー国家をめざしているのかどうかは不明だが、少なくとも、旧ソ連時代の版図におけるヘゲモニー国家でありたいと望んでいることは確かであり、ウクライナ戦争もその帰結であろう。そしてプーチンが信じる過去に遡った神話の再生は、「空疎で排他的なナショナリズム」にほかならない。 

いま日本においては、帝国主義的段階の局地戦争を背景として、「空疎で排他的なナショナリズム」を標榜する右派ポピュリストと、かつての自由主義時代の福祉国家の再来を望む左派ポピュリストが先鋭な対立姿勢を大衆的にして、選挙戦の梃子としようとしている。選挙では左派に投票するしかないのだが、よしんば左派が勝利したとしても、そこから先の展望はない。 (了)

2022年5月14日土曜日

50年前の吉本隆明『南島論』を読み返す

沖縄本土復帰が政治課題として突出したいまから50年前、平林さんご指摘の通り、新左翼各派は沖縄解放、沖縄奪還という闘争方針をめぐって対立を深め、自派の正当性を証明しようと無意味なゲバルト闘争に明け暮れていた。そんななか、吉本隆明は『南島論』を掲げて両者の論争に割って入った。吉本は次のようにいう。 

琉球、沖縄の問題は、たんに米軍基地が存在して、土地の連中(注1)が迷惑しているとか、また基地の存在なしには経済的に成り立たない部分が多数存在するというようなことでもないし、また本土復帰なんていうことをいって、それで終わるということでもありません。本来的にいえば、彼らが彼ら自身(注2)で本土中心あるいはいってみれば天皇制統一国家中心に描かれてきた本土の歴史というものを、根柢から突き崩すだけの問題意識と、それから主要テーマの研究と学問と思想とをひっさげて、本土と一体になるのでしたら、それなりの意味あいがあるとおもうんですけど、そういうことをぬきにして本土に復帰したってどうっていうことはないわけです。つまり〈行くも地獄帰るも地獄〉というやつで、どっちにしたってあまりいいことはないにきまっています。復帰したとかんがえたとしても、本土からみると、ひとつの僻地とか辺境とか離れ島とか、そういうい意味あいのイメージしか持ちえないということなんです。(「宗教としての天皇制」『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社版P21~22)
(注1)(注2)ともに沖縄住民のこと 

沖縄の歴史、および、当時も今も変わらない沖縄のおかれた情況に鑑みれば、吉本の発言は沖縄住民に対していかにも礼を失したものいいである。しかしながらこの50年間、沖縄の情況は 吉本のいうとおり〈行くも地獄帰るも地獄〉であった。観光客の目からすれば、インフラ整備が進み、こぎれいなリゾートホテルが立ち並ぶ南海の楽園のようにみえても、本土との経済格差は縮まる気配がない。もちろん、辺野古に代表される米軍基地問題は縮小よりも拡大に向かっている。そんな沖縄の人々に対して、《本土中心あるいはいってみれば天皇制統一国家中心に描かれてきた本土の歴史というものを、根柢から突き崩すだけの問題意識と、それから主要テーマの研究と学問と思想とをひっさげ》ることにどのような有効性があるのか――50年前のこの文言に新たに直面した筆者の戸惑いは大きい。吉本の無礼な沖縄住民に投げかけた発言のなかにこそ、日本革命の失ってはいけない視座があったことがあらためて直感されたのである。以下、〈南島論〉を大雑把にではあるが、読み返してみた。

(一)家族・親族・国家 

吉本の日本革命論は「南島論」へと展開する。吉本は南島の家族・親族・国家について論究し、南島の親族関係について、伊藤幹治の「八重山群島における兄弟姉妹を中心とした親族関係」から、沖縄の親族関係が父系・母系ではなく、双系であるという結論を援用し、かつ、親族関係の展開の過程で国家的な共同体へと転化する契機として兄弟姉妹関係の機軸を重要視する。父から長男という父系ではなく、母から長女でもなく、そのどちらもありうる双系。そして、兄弟姉妹関係というのは性的タブーであり、性的関係は禁忌とされるものの、親子よりは遠く、その関係は経済的、あるいは、契約的な関係に代替されて発展していくと考えれば、家族集団からの逸脱の始まりと考えていい。〔後述〕 

もう一つの国家成立の概念として、〈グラフト国家=接ぎ木国家〉を提示する。これはある共同体が発展して統一国家に至るという一元的発展だけではなく、複数の共同体(部族国家、氏族国家)が並立する中、そこに横あいからやってきた勢力によって統一国家ができあがる可能性を説明したものだ。つまり、われわれが抱く国家観念というのは、人民が長い歴史をもってそこに住み着き、いろいろな風俗、習慣を強固に持ち、その共同性が上へ上へ展開進化し、高度に洗練されていって統一国家を成立せしめるものだと無意識に思いがちだが、そうとは限らないということだ。日本における天皇制権力の種族的出自についても、騎馬民族説、北九州説、南中国・東南アジア説などが挙げられていて、断定できない段階にあるとされる。以上ふたつの要素から、いうまでもなく、「万世一系」「紀元二千六百年」「紀元節」などというものは、後年のつくり話、神話にすぎない。

(二)祖先崇拝・祖霊信仰と〈來迎神信仰〉 

次なる視点は、南島、本土を含めた宗教性の観念である。それは①祖先崇拝・祖霊信仰、②來迎神信仰の二つに大別される。①の特徴は、宗教性の観念が家族の共同性から逸脱しないこと。②は共同宗教であるということ。先述の通り、家族集団の共同性を逸脱したときに、共同体、あるいは国家の成立の契機が考えらえる。そして、この二つの軸は南島、本土の宗教に差異はない。 

さて、②の共同宗教は、〈宗教→法→国家〉への展開から考えるならば、宗教自体が権力となることを意味する。そういうものと、①の祖霊信仰との錯合がもっとも適切に現れてくるのが日本本土でいえば近代国家における天皇制、あるいは天皇における世襲祭儀(大嘗祭)である。いまわれわれの住む日本国は、ここから一歩も出ていない。 

(三)天皇即位儀礼大嘗祭の構造 

大嘗祭とは皇太子が新天皇になるための通過儀礼である。天皇となるためには、天皇霊を引き継ぐことが必須とされる。まさに祖霊信仰そのものなのだけれど、そこに共同宗教としての、つまり権力、宗教的威力の継承という要素がなければ意味がない。大嘗祭は秘儀とされ、その内容は不明であるが、民俗学者・折口信夫が『大嘗祭の本義』を著わし、新天皇が女性として稲霊と同衾する(真床追衾)という大胆な仮説を唱えたことが知られている。

吉本の解釈は、南島におけるノロと呼ばれる巫女の継承の儀式、それから13~14世紀ころに成立した琉球王国によって制度化されてきた聞得大君(キコエノオオキミ)という最高の巫女の継承の儀式と、天皇の世襲大嘗祭とは〈指向性変容〉(注3)の関係にあるとする。

(注3)指向性変容:吉本の造語で、身近なことについてなら、起こってくる事象をわりあい包括してとらえることができやすいが、身近でないところの問題の場合には、こぼれおちてくる事象があり、その事象はまったく偶発的な〈事実〉としてしか存在しないかのようにみえてしまうという矛盾のあいだの〈距離感〉、〈誤差〉というものをはっきりさせるための概念。関係の構造を把握することのなかで、あらゆる歴史的段階というものは、あらゆる地域的空間に、そしてあらゆる地域的空間というものはあらゆる歴史的な段階に、あるいは、あらゆる世界的な共時性というものは、あらゆる世界的な特殊性というものに、相互転換することができるという。この場合には、天皇の世襲儀礼である大嘗祭は、南島におけるノロの継承儀式及び聞得大君の継承儀礼と同じ構造としてみることができるということになる。 

この先、吉本は大嘗祭と南島の巫女の継承儀礼における宗教的権威の継承の仕方の同一性と差異性および本土の田の神などのそれについて比較詳論するのだが、その内容については省略する。

結論としていえるのは、南島の巫女の世襲儀式と天皇の世襲儀式とが同根であることになる。具体的には、▽天皇制というのは政治的権力、象徴的権力、社会的権力であると同時に、宗教的権力であること。▽宗教的権力である天皇制の問題の実体を解明する鍵が、沖縄における聞得大君の就任儀式にみる宗教的威力の継承の仕方から解明することができるとすれば、その意味もまた大きいということ。▽換言すれば、本土の歴史上であらゆる意味での最高権力の成り立ち方を解明する鍵のひとつが南島にあるということ。▽聞得大君の就任儀礼は南島では〈聞得大君の御新下り(オアラオリ)〉といい、その構造は天皇位の世襲大嘗祭とよく似たというかほぼ同じ構造であるということ。そして、▽聞得大君の神性(御託宣)によって、その兄弟が実際には政治権力を行使するという権力構造があったこと。 

(四)なぜ聞得大君の世襲儀礼を研究することが革命的なのか 

吉本は、南島の聞得大君の世襲儀礼と天皇の世襲大嘗祭が同根であるということをふまえ、それを研究することが、沖縄~本土を貫通する(宗教的)権力による支配構造、すなわち天皇制を覆す鍵であり、沖縄と本土の真の一体化を果すことにつながるのだという。 

聞得大君の継承儀礼にみる宗教的威力・イデオロギー的威力のふき込み方と、天皇の世襲大嘗祭の威力のふき込み方とは殆ど同じものだといえます。こういうふうにいうことは一つの意義があるのです。なぜならば、沖縄は本土の支配に甘ったれており、その裏がえしとして沖縄の人たちは、自分たちが見捨てられた後進地域だという一種の劣等感をもっているのが否定できない現状だとすれば、日本国家における千数百年保持してきた天皇位の世襲大嘗祭の構造と、沖縄の聞得大君の継承祭儀の威力のふき込み方が全く同根であるということの認識は、この沖縄と本土との歪んだ関係づけの仕方を消滅させる意義をもってくるのです。そのことをはっきりさせれば、本土の支配者が〈あいつらは片田舎の県民にすぎない、甘ったれているんだ〉といういい方に対して一つの爆撃となりえるし、沖縄の人たちがいわれない劣等感をもっている現状に対して、それを爆撃するという意義もあると思います。わたしの問題意識からすれば、沖縄の住民が日本人であるということは、申すまでもない前提になっています。だから、現在何が問題かというと、その前提全部を含めて、統一国家として歴史的に固持してきた千数百年という本土中心にみた日本国家の浅さを、根柢的にくずす仕方が、南島にもとめられるということだと考えます。(「南島の継承祭儀について」前掲書P96) 

南島論が日本革命論でなくてなんであろうか。

2022年5月10日火曜日

ロシア軍撤退の唯一の可能性とは

 ロシアにおける「対ナチス戦勝記念日」。プーチンは局面の転換を意味するような演説をしなかった。メディアが予測した「勝利宣言」なし、「戦争宣言」なし、「核を含む大量破壊兵器の使用予告」なし。今回の軍事侵攻が米国(NATO)、ウクライナ側によりもたらされたものだ、という従前のロジックを繰り返しただけだった。   さて、近代の戦争では局面を転換する戦闘が必ずあった。WWllにおける連合軍のノルマンジー上陸作戦の成功が名高い。アジア太平洋戦争では日本海軍が米海軍に負けたミッドウェー海戦。日露戦争における旅順攻囲戦(日本軍勝利)を入れてもいいかもしれない。
その反対に、戦況が膠着状態に陥ったまま、停戦を迎えたものとしては、WWlにおける西部戦線塹壕戦が名高い。独⇔英仏両軍が互いに塹壕に立てこもり、双方が攻撃と防御を延々と繰り返し、戦闘は開戦(1914)から終戦(1918)まで続いた。両軍どちらも軍事的優位を得られぬまま、独は国内事情〔注〕により講和に応じた。WWlにおけるドイツは「戦闘に勝って、戦争に負けた」といわれたという。「相撲に勝って、勝負に負けた」みたいだが。

〔注〕国内事情;ドイツ革命のこと。1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、帝政ドイツが打倒された革命である。ドイツでは11月革命ともいう。なお、ドイツ帝国はその影響で敗戦に及んだが、ドイツ革命は頓挫し、ワイマール共和国というブルジョア民主国家の成立で終わった。
塹壕戦には勝者も敗者もいない。主要な戦場となった仏北部ソンム河畔における4カ月半にわたった激しい塹壕戦「ソンムの戦い」は、最も凄惨な会戦の一つといわれ、戦死者は1日で57千人を数え、結局、双方合わせて40万人超の犠牲者を出した。戦場跡では悲惨な戦いの記憶が、今も語り継がれているという。 
 

そして現代のウクライナである。ロシアとしては、マウリポリの巨大製鉄所に立て篭もるアゾフ連隊(ネオナチ、白人至上主義者で構成)を殲滅して勝利宣言をし、講和に持ち込むというシナリオがあったかもしれないが、戦局がそれを許さないようだ。報道では、6月には米国(NATO)による各種高性能武器がウクライナに到達し、ウクライナの反転攻勢が「期待」されるという。いま(5月)が天王山である。ウクライナ軍がロシア軍に圧倒され敗北を決定的にするのか、逆にもちこたえれば、6月以降、ウクライナ軍が新型兵器を駆使して反撃し、ロシア軍は国境まで押し戻されるかもしれない。そうなれば、ウクライナ、ロシア双方の軍隊がウクライナ東部・南部で展望のない戦闘を繰り返すという膠着状態が複数年単位で継続する。犠牲者はさらに増え続けるだろう。 

 

ウクライナ戦争が終結する唯一の道がある。100年前のWWlの塹壕戦の終わり方の再現である。すなわち、ロシアの国内事情による、ロシアからの講和要請である。ロシア国民の不満、すなわち、「反プーチン革命」である。プーチンに政治的危機が及べば、ロシアは撤退せざるを得ない。


 もちろん、WWlにおける独敗戦の要因は複合的であり、国内政治以外にも、スペイン風邪、飢饉、国民の厭戦気分等を併せ考えなければならない。それらを総合して「革命」というかたちに結晶したと考えれば、いまのロシアに起こっても不思議はない。スペイン風邪→新型コロナ、米国(NATO)等による経済制裁という、似たような条件がないわけではない。

2022年5月6日金曜日

仏大統領選で躍進したルペン氏は何故「極右」と呼ばれるのか

 

フランス大統領選で敗北したルペン。彼女がなぜ極右と呼ばれのかという愚生の疑問に対する満足な回答が得られぬ中、なんと、そのものずばりの論考をネットで見かけた。『論座』にある「仏大統領選で躍進したルペン氏は何故「極右」と呼ばれるのか」(金塚彩乃 弁護士・フランス共和国弁護士)だ。この論考が愚生の疑問に対する回答として「正答」なのかどうかを検証する能力がない。だから、紹介としてお読みいただければ幸いである。 以下、その要約である。

(一)フランスの大統領制について 

金塚は今回の選挙について、以下のような前提を述べる。 

・・・ルペン氏が何故「極右」と呼ばれるのか、どのような「プログラム」を持っているのかということはあまり報道されていない。ルペン氏は様々な主張を行っているが、その根底にあるのは現在の第五共和制憲法の改正である。本稿ではその内容を紹介したい。

大統領の権限は絶大だ。首相及び国務大臣を任免し、閣議を主宰し、下院である国民議会の解散権を有するが、大統領自身は議会に対して責任を直接負うことはない。大統領は軍隊の長であり、条約について交渉し批准する権限を有する。そして、一定の事項について、国民投票を通じて立法をすることが可能となる。 

(二)ルペンが率いる国民連合について 

ルペンが父親が創設した「国民戦線」を引き継ぎ、2018年に党名を国民連合に改称すると同時に、党のイメージ戦略に取り組み、父親時代の過激な反ユダヤ主義や移民排斥、人工妊娠中絶反対などの主張を封印して党の「普通化」「脱悪魔化」を図り、父親の時代よりも広く支持者を集めてきたことはすでに報道済みだ。なお、現在、国民戦線は下院で8議席(577議席中)、地方議会で268議席(1837議席中)、3万人以上のまちで2名の首長(279人中)を擁している。欧州議会においても23人の議員を輩出している。 

(三)フランスの「極右」の定義 

いよいよフランスにおける極右とはなにか――である。金塚はフランスの研究者の団体であるCollectifによる「極右」の定義を紹介している。 

極右による世界観は有機体論、つまり社会を一つの生物のように見るところにある。一つの生命を持つ共同体は、民族、国籍あるいは人種から構成されるとし、「私たち」を強調する一方で他者を排斥し、普遍主義を拒絶する。違った文化を持った他者は、「私たち」が均質な共同体を作ることを阻害する邪魔者である。
また、現在の社会は退化しており、自分たちだけが救済者として社会を救うことができると考える。その際に社会を救う中心となるのは国民であって、救済者である指導者と国民との間に直接の関係性の構築を強調する 。
このようなナショナル・ポピュリズムは、フランスでは19世紀後半から今日まで脈々と存在し続けたが、この定義によれば、その中心を担うのが、現在は国民連合であると指摘される。 

もちろんルペンは、自分たちが極右であると呼ばれることを拒絶しているのだが、この定義によれば、その中心を担うのが、現在は国民連合である。ゆえに、ルペンも国民連合も極右と呼ばれるということになる。 

(四)ルペン(国民連合)の主張について 

①対EU政策

2017年の選挙で訴えていたEUからの脱退を封印し、EU法に対してフランス法を優越させることを訴えた。国境管理の見直しも求めている。国民連合の主張は、フランスによるフランス国境の管理である。現在EU圏内においては物流は自由になされることとなっているが、国民連合はフランス領域に外国からの商品を輸入するにあたり、フランス独自の管理の必要性を主張する。さらに、フランスのEU分担金の削減も国民連合は求めている。 

②対外国人政策 

自国民優先原則を打ち出す。そのなかで、雇用や住居、最低所得補償に関してはフランス人を優先することとし、国籍において血統主義を打ち出すことを主張している。移民に関しても厳格な政策の導入を主張する。難民認定についてもあまりに寛容になされていると指摘する。ルペンの主張によれば、フランスの法律で認められている外国人の「家族呼び寄せ」の制度の下、移民が親や子だけでなく、兄弟姉妹まで呼び寄せることが可能となっているが、その結果、フランスという国家ではなく、移民自身が誰を移民とするかを決定することができる状況が生まれていると訴える。ルペンは、大幅な移民政策の見直しが必要だと主張する。移民に関してもフランス到着後の申請ではなく、出発国のフランス領事館における申請を条件にするべきだと主張する。 治安強化のため、一般的な厳罰化や捜査機関の権限強化に加えて、犯罪を犯した外国人の強制送還の徹底を強調する。イスラム過激派に対しては、非宗教的国家というフランスのアイデンティティや憲法上保障される自由や権利を侵害する団体として、アイデンティティの攻撃という観点から批判がなされ、公的な場所でのイスラム過激派の主張の表明の禁止が目指される。イスラム過激派の主張を表明した帰化外国人からは、フランス国籍の剥奪も約束される。

③国内対策 

2019年からのいわゆる「黄色のベスト運動」の発端となったガソリンに対する付加価値税の軽減や、賃金の1割アップ、年金の支給開始年齢の60歳への引き下げなど、不況とインフレに苦しむフランスの低所得者層を対象とする公約を掲げた。 

要するに、ルペンは、フランスというアイデンティティの下、他者の排斥を叫び、EU秩序の否定や自国民優先主義など、現行の憲法上認められない主張を繰り返している。ルペンの主張を実現可能にするためには、国民と指導者との直接的な関係性を築くこととなり、ナショナル・ポピュリズムが称揚する国民投票の実施を国民に訴えたのである。このことがルペンをして、極右と呼ばれる所以である。 

(五)フランスにおける国民投票制度 

金塚は、フランスにおける国民投票制度を次のように紹介している。

フランス革命時においても「代表制」が重視されていたが、その後も国民投票に対する警戒心は強かった。ナポレオンが政権を掌握したのも、その甥のナポレオン3世が同様に権力を収奪したのもともにクーデタによるものだったが、いずれのクーデタもその後の「プレビシット」と呼ばれる国民投票によって正当化されてきた。このような経験から、イエスかノーだけで回答を迫られる国民投票は独裁者の手段であるとの見方が強い。 それでもなお、代表民主制が国民の意思から乖離することを避けるために、第五共和制憲法においては、一定の国民投票が予定されていた。それが憲法11条及び憲法89条である。
憲法11条においては、政府あるいは両院の提案に基づく大統領の発議により、公権力の組織、経済あるいは社会政策、公役務、憲法に反することのない範囲で、公的機関の運営に影響を有することとなる条約批准の許可に関して国民投票が可能であるとされ、国民投票の結果可決された法律は、15日以内に法律として公布されると定めている。
さらに、国会議員の五分の一以上及び有権者の十分の一の賛成があった場合に、法案を国民投票に付することができる(ただし1年以内に公布された法律を廃止することはできない)ともされ、国民の自発的意思によって国民投票を行い、国会を経由することなく法律を成立することが可能とされている。しかし、国民発議には少なくとも400万人の賛成が必要とされるなど、そのハードルは高く、まだ国民の発議による国民投票が実施されたことはない。また憲法89条は、憲法改正の際の国民投票を定めるが、フランスでは、五分の三以上の国会議員の賛成により国民投票を経ないで憲法改正をすることは可能であるとされ、国民投票による憲法改正は現行憲法ではほとんど実施されていない。 

(七)ルペンが狙う倒錯した憲法改正 

金塚は、ルペンの狙いを次のようにまとめている。

憲法11条による国民投票で、憲法を改正する内容を持つ法律を成立させることにより、憲法を改正するという、憲法が法律に優位するという法秩序を逆転させる手法だ。具体的には、現在のハードルをぐっと下げ、50万人の発議で国民投票を可能にすることを約束する一方、現在公権力の組織等に限られている国民投票の対象をすべての分野に拡大するとして、死刑やEU離脱の問題、国民優先の諸政策、イスラムのスカーフ着用問題なども国民投票の対象にすると主張している。
このような倒錯した憲法改正は不可能ではない。ド・ゴール大統領は1962年、大統領直接公選制を導入するために憲法11条に基づく国民投票を行い、その結果として憲法が改正されることとなった。これは憲法89条が予定してない違憲な改憲ではないかということが争われたが、憲法院は1962年11月6日の判決において、主権者国民が直接投票した法律について、違憲立法審査権は及ばないと判断をした。ルペンは、このド・ゴール大統領の手法を強調し、国民の声をより直接的に反映をさせる国民投票を一般化させるべきだと主張する。 

(八)今回の大統領選の最大の争点だったのは〈国民投票のあり方〉 

日本ではおよそ報道されなかったが、今回のフランスの大統領選で重要な論点となったのは、国民投票のあり方であった。なぜ、報道されなかったのか。岸田政権がめざす日本における憲法改正にとってマイナスだと判断されたからだろう。 

それはそれとして、ここで留意すべきは、ルペンのいう国民投票がどれだけの熟議を可能とするものなのか。また、外国人の問題や宗教の問題などを国民投票の争点とすることにより、国民の意見を聞くという形式を通じて、社会の分断を深める危険である。マクロン政権が試みた国民の意見を聞くという方法は、不十分ながらも、対象を限定しつつ、市民間の議論や熟議を促すものであった点が、社会的争点についてイエス・ノーという二者択一の判断を求めるルペンの国民投票のあり方と異なると言える。 

フランス行政法・EU法を専門とするトゥール大学のオーバン教授はこのような国民に対する態度の違いについて、「法治国家の中の国民か(マクロン)、法治国家に対抗する国民か(ルペン)」と表現する。代表民主制の中で直接民主制を導入するものとして日本でも評価される国民投票だが、それをどう使うかについて、フランスの大統領選挙は警鐘を鳴らすものでもある。 

(九)フランスの「極右」と極右的政治社会情況にある日本 

日本の報道においては、ルペン(国民連合)の主張については分析されることなく、フランスでの極右の躍進という部分のみが強調されていたが、その中心的なポイントは、自国民優先と国民投票という手法の一般化にある。このことは、欧州各国及びフランス特有の政治的危機ではなく、現在の日本の情況において、無視できない課題を突き付けている。 金塚は、日本の現状について次のように警告している。

・日本の外国人受け入れ について

フランスでは許されない、社会福祉政策における国籍条項は、日本の最高裁判決が覆されていない。なおルペン候補とともに極右の候補として大統領選に立候補したゼムールは、移民政策に関しては日本を見習うべきだとも主張していた。また、国民連合の前身である国民戦線の元幹部で当時党首だったルペンの父親のブレーンであったゴルニッシュ(実は、娘のルペンと党首の座を争った)は、日本法のスペシャリストであった。その影響がないとは言えない。
平成元年のいわゆる「塩見訴訟最高裁判決」は、「その限られた財源の下で福祉的給付を行うにあたり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されるべきことと解される」としたが、ルペンの国民連合が主張する自国民優先原則と基軸を一にする。また、平成26年の最高裁判決も、生活保護の法的支給対象が日本国籍を持つ者のみを対象とすることを正当と認めている。つまり、国民連合の主張は、日本とは全く関係のない「極右」の主張ではなく、その中には日本ですでに実施されている政策すら存在する。移民政策や外国人政策に関しては、すでに日本で実施されているものについて、国民連合が求める憲法や裁判所の判断を覆すための国民投票すら、日本では不要の主張となっている。
国民連合のような「極右」の団体が、具体的に何を主張しているかを知らずに、そのまま「極右」と指摘することは、「極右」の主張が対岸の火事に過ぎず、私たちには関係ないという思考停止をもたらすリスクを抱える。極右の主張のコアとなる、ルペンが打ち出すような自国民優先の原則などをどのように考えるかは、すでに一定の分野においてフランスよりも自国民優先の原則が浸透している日本では、決して他人事ではない。重要なことは、フランスの大統領選のようなケースを通じて「極右」の主張の中身を検討し、それを外国の出来事としてではなく、自分たちの社会でも深く考えなければならない問題なのかどうかを、改めて問い直すことだろう。

つまり、日本の現行法体系のなかには、フランスでは許されないものがあるということ。フランスの極右が「日本を見習え」とフランス国民を扇動しているのである。 ルペンは大統領選で負けたとは言え、引退したわけではない。国民連合がこの先、パリに代表される都市とは異なる意識をもつ地方において、下院選挙や地方議会で議席数を増やす可能性も指摘される。(了)

2022年4月23日土曜日

写真展(谷中)

 写真家のカカさんが、谷中のカフェでグループ写真展を開催中。








2022年4月22日金曜日

 リニューアルオープンした上野西洋美術館。ロダンの彫刻はピカピカだ。




根津神社つつじまつり

 





2022年4月21日木曜日

『抵抗と絶望の狭間 1971年から連合赤軍へ』

 ●鹿砦社編集部〔編〕 ●鹿砦社 ●990円(本体900円) 

本書は拙Blogにて取り上げた『1970年 端境期の時代』の続編にあたる。鹿砦社の定期刊行物『紙の爆弾』増刊号で、本書を含め5冊がシリーズ化されている。編集の切り口は発刊年の50年前、新左翼運動が盛んだった時代のそれぞれの年を振り返るというもの。本書の場合、刊行された2021年の50年前、すなわち1971年に焦点が当てられている。

中村敦夫(俳優/1991年に行われたインタビューの再編集掲載)、松尾眞(元中核派全学連委員長)、田所敏夫(フリーライター)、長崎浩(元ブント活動家、著作業)、重信房子(元日本赤軍結成メンバー)ら15人が寄稿している。

長崎浩の連合赤軍への言及 

筆者が最も注目したのは、長崎浩の「連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに」である。筆者は長崎の『叛乱を解放する 体験と普遍史』及び前出の『1970年 端境期の時代』を拙Blogにて取り上げ、そこで、長崎がブント系の赤軍派、連合赤軍、日本赤軍について言及していないことへの不満を表明した。その後、本書に長崎が連合赤軍に関する論考を掲載したことを知り期待したのだが、裏切られた。 

まず、副題からして、腰が引けている。長崎が連合赤軍の母体であるブントの活動家であり、連合赤軍の前身であるブント赤軍派と党内闘争をしていた別派の指導的立場にいたことは知られている。だから、連合赤軍のことを詳しく知らないのは仕方がないのだが、ブントの政治的体質、党内風土を知る者の一人として、他党派もしくは部外の者よりは強いコミットメントが求められて当然だと思う。はなから〝分からない″はない。長崎は革共同戦争と呼ばれる、中核派VS革マル派の内ゲバについては、かなり入念な調べをして、両派の対立の根源と内ゲバの詳細を記述している。にもかかわらずだ。

〈左翼反対派〉という視点 

長崎の連合赤軍による「軍事路線」「リンチ総括」への言及におけるキーワードは、〈左翼反対派〉である。長崎のいう〈左翼反対派〉を以下、筆者なりにに解釈するーー新左翼というのは1960年安保闘争を契機として、既成左翼を批判して革命戦線に登場したわけだから、左翼内の左翼、すなわち〈左翼反対派〉である。〈左翼反対派〉としての新左翼(共産主義者同盟、以下「ブント」及び革命的共産主義者同盟、以下「革共同」)は60年安保闘争時、そしてその敗北後の停滞期から1967年までは既成左翼の〈左翼反対派〉にとどまっていた。ところが、同年の10.8羽田闘争以降、三派系全学連による街頭闘争、全共闘運動の隆盛に伴い、〈左翼反対派〉から自立した左翼としての地位を獲得した。既成左翼(日本共産党・日本社会党)は、実態上、70年安保闘争を筆頭とする体制批判運動に事実上取り組んでいなかったからだ。

ここから、新左翼各派は、それまでの既成左翼に対する〈左翼反対派〉とは異なる位相における〈左翼反対派〉の地位獲得に迫られた。権力との暴力的衝突が激化する中、より過激な路線を提起し、それを実行するセクトが真の革命主体=真の前衛党であるという証明に追い込まれていった。自らが真の前衛党であり続けるためには、自派が〈左翼反対派〉の地位を占め、他党派を既成左翼の地位に貶め続けなければならなくなった。長崎の前衛党論からすると、ブント赤軍派→連合赤軍は、武装闘争を実行しうる真の前衛党として、当時弱体化しバラバラになりかけていたブントの胎内に産み落とされ、革命戦争実行部隊という自らの路線の優越性に基づき、その解体にとどまらず、ブント内〈左翼反対派〉はもとより、革共同ほか新左翼各派を「軍事力」において凌駕しようとする新左翼総体に対する〈左翼反対派〉を目指そうとした、ということになる。

またその一方、連合赤軍のリンチ総括殺人については、山岳アジトという、国家権力から遮断された閉鎖空間において、前衛党の優越性の証明が個人レベル、すなわち「兵士」という身分(立場)において引き起こされた結果とみなされている。幹部と兵士という序列関係の下、「兵士」と「兵士」のあいだにおける革命意識の優越性が問われたというわけだ。連合赤軍という党権力の圧力下、「兵士」は自己の共産主義化の獲得度を幹部(森恒夫・永田洋子)にいかに証明するか迫られ、暴力度の強弱が共産主義化の強弱の指標となったということになる。それが、「堕落」した「兵士」に対する死に至るリンチに発展し、幹部は、そのことにより、自らの権威性を保持できるというメカニズムが稼働したのだと。なお、長崎は優越性という表現を用いていないので、念のため本書の原文に当たっておく。 

日本の新左翼諸党派はブントと革共同から始まり、ほぼおしなべてその系譜を引いているとする。とすれば、これら党派は共産党や社民の「既成左翼」にたいして、定義上左からの反対派の位置に立つ。そして歴史的には、コミュンテルンの分裂以降の20世紀、プロレタリア革命にたいする既成左翼の裏切りを告発するマルクス・レーニン派は、不可避的に左翼反対派の立場に立ったのだ。互いに唯一の「前衛党」を呼号して、両者の関係がしばしば暴力沙汰になるのは周知のことである。だからどんな集団にも発生する左からの反対勢力ではなく、左翼反対派とはマルクス主義の革命(論)における左翼反対派のことであり、これはカテゴリー的歴史的な必然である。
だが、日本でも1968年の大衆叛乱が始まる。この叛乱を地盤として乱立した1968年の新左翼諸セクトは、おしなべて左翼反対派の党ではありながらかつ同時に、もはや既成左翼はその母体ではありえない。社民と労働組合は無関係、共産党民青は初めから敵である。つまり無意識のうちにも、左翼反対派でありかつ左翼反対派ではないという矛盾の内に立たされたのである。むしろ矛盾は新左翼の内部に移されて、今度は新左翼セクトどうしが左翼反対派の関係として唯一の前衛党を競う仕儀に立ち至っている。(P142) 

・・・赤軍派は(したがって連合赤軍は)いわば他の新左翼セクトにたいする左翼反対派であろうとした。なるほど他党派にたいするリンチはしないと赤軍派は宣言した。だが、世間から孤立したちっぽけな集団の内で、幹部たちが左翼反対派として一般党員を責め立てた。「共産主義化」を求める「総括」の強要であり、挙句のリンチ殺人である。いわば左翼反対派由来の三重の拘束がそこに働いていたはずである。左翼反対派の「革命の独占と孤独」がもたらす病理であった。(P142) 

他党派に対する優越性の証明 

長崎の〈左翼反対派〉論を読んでいるとき、思いもかけず『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)が思い浮かんできた。同書はソ連崩壊後の世界のあり方について、ネオリベラリズムが世界を席巻した暁には、世界は自由で安定した国家で満たされ戦争はなくなり、そのとき歴史が終わるという説を展開した、いわばネオリベの経典のようなものだ。フクヤマに対して、エマニュエル・トッドは次のように批判した。 

フクヤマはヘーゲルを単純化して用いたが、その用い方が高度な消費にも耐えたことに、パリ知識人は驚いたのである。歴史は意味=方向を持つが、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である。(中略)現実のヘーゲル、すなわちプロイセンに服従し、ルター派の権威主義を尊重し、国家を崇拝したあのヘーゲルを知っている者にとって、個人主義的民主主義としてのヘーゲルというイメージは、大いに笑えるものだった。(『帝国以後』藤原書店版P30) 

トッドのシニカルなフクヤマ批判は、興味をそそるものだが、自己意識にさかのぼって歴史を考えるという方法を無視してはいけない。そのうえで『歴史の終わり』の第三部〔歴史を前進させるエネルギー 「認知」を求める闘争と「優越願望」〕の章の扉(1 はじめに「死を賭けた戦い」ありき/三笠書房版上巻P239)において、フクヤマは、ヘーゲルとコジェーブを引用する。 

生命を賭けることによってのみ自由は得られる。生命を賭けることによってのみ、自己意識の本質とはたんに生きているということではなく、その最初にあらわれた姿そのものでもないことが試され、そして証明される。・・・生命を賭けなかった個人も、一人の人間としては認められることは確かだが、しかしそういう人は、自立した自己意識として認められるという心理に到達したことにならないのである。(ヘーゲル『精神現象学』) 

人類の発生と進化につきまとう—―いっさいの人間的な欲望――自己意識や人間としての実在性を生み出す欲望――は、結局のところ「認知」を求める欲望の機能を果たしている。そして人間としての実在性を明るみに出すために生命を賭けるというのは、こうした欲望のために生命を賭けるということである。したがって、自己意識の「起源」について語ることは、必然的に「認知」を求めるための死闘について語ることにほかならない。(コジェーブ『ヘーゲル読解入門』) 

このことをもって、新左翼党派が陥った、(長崎がいうところの)〈左翼反対派〉の立ち位置について、それが認知を求める欲望だったと片づけるわけではない。しかしながらフクシマは同書本文で以下のように展開する。

人間の自分自身の価値観と、それを他人に認めさせようとする要求は、今日にいたるまで勇気や寛容や公共心など気高い美徳を生み出し、暴政に対する抵抗の牙城となりリベラルな民主主義を選びとる根拠ともなってきた。しかしそのような認知を求める欲望には暗黒面もあり、そのために多くの哲学者たちが「気概」を人間悪の根源とみなすようになったのである。(下巻P30) 

自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私(フクヤマ)は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(同P31) 

「優越願望」が政治の世界にとってきわめて問題をはらんだ情熱であることは明らかだ。というのも、ある人から自分の優越性を認められて心が満たされるなら、すべての人間からそれを認められれば、当然いっそう大きな満足を得られることになるからだ。最初のうちはつつましやかな自尊心として登場してきた「気概」も、かくして支配への欲望に変身しかねない。この支配欲は「気概」の暗黒面であり、もちろんヘーゲルの描いた血なまぐさい戦いの開始時点からすでに存在していた。認知への欲望は原始的な戦いを煽り立て、それが主君による奴隷の支配をもたらした。そしてついにこの論理は、全世界からあまねく認められたいという欲望、すなわち帝国主義にいたるのである。(同P32) 

フクヤマがいう、気概、認知、優越願望という人間論がその本質かどうかについては、いまは問わない。しかし、フクヤマの論及と、長崎の〈左翼反対派〉という、外形的かつ政治的立ち位置論とを比較するとき、赤軍派、連合赤軍、革共同の内ゲバ等の新左翼党派が陥った暗部の歴史的解明にはなお、深い考察が要求されることをフクヤマが示唆しているとは言えよう。

「レーニン」が機能しなかった「日本革命」

新左翼党派のそれぞれ理論的指導者は当初、レーニンのロシア革命をモデルとして、日本革命実現の道筋を追求した。その忠実な理論化と実践が党派同士のあいだにおける優位性の基準となった。〝組織された暴力”と〝プロレタリア国際主義”のスローガンは、その一つだった。1968年まではかなりうまくまわっていたのだが、権力側の弾圧強化により、新左翼が目指した街頭実力闘争は封じ込まれ、理論的・運動論的に隘路に追い込まれた。ブント系新左翼各派は、レーニン革命論に基づいた実力闘争が行き詰まった段階で、レーニンを「超える」革命論の構築に迫られた。そのひとつが「前段階武装蜂起」だった。ブント赤軍派は、そのことをもって、ブント内他派より優位な位置を得た。それがブント赤軍派誕生の経緯だ。ブント内のセクトでは、赤軍派に負けまいと、たとえば戦旗派は地下組織であるRGを立ち上げた。

一方、レーニン理論のなかの真の前衛党という位相において優位性を競ったのが、革共同両派(中核・革マル)であった。こちらの闘争(内ゲバ)は、レーニン理論から発展し、レーニン以降のソ連共産党=スターリン批判に従った「反帝国主義・反スターリン主義」を党是とする本家争いだから、両派の闘争はとどまるところを知らなかった。ブント、革共同のそれぞれの指導者たちは、革命理論と実践の同一性による政治的優位性、すなわち他者(他党派)に対する優越性を無意識のうちに競い、いつのまにか、暗部へと落下してしまったように思える。 

1971年とはどんな年だったのか

本書には1971年の年表が付されている。主な出来事を拾ってみよう。

(一)新左翼の動き 

学費闘争、沖縄闘争(6.17闘争で爆弾使用)、成田闘争(9.16第二次強制執行阻止闘争で機動隊員3名死亡)が、ほぼこの年、年間を通じて闘われた。4.28ブント関西派、赤軍派、京浜安保共闘、全京都学生連合会など「蜂起戦争派」が初めて清水谷公園で統一集会。8.22赤衛軍事件、10.21国際反戦デー(全国の大学でストなど)、11.14中核派による渋谷暴動、後日、反戦派教師死亡、機動隊員死亡、11.19沖縄強行採決糾弾闘争で警視庁は前日、中核派申請のデモを不許可、中核派は日比谷公園内松本楼に突入し放火炎上、関西、東海でも火炎瓶闘争など展開。12.29警視庁極左暴力取締総本部、「過激派」いぶり出しにローラー作戦開始、急進4派の指名手配26人を写真付きで新聞発表。

(二)爆弾闘争の多発化 

6.17沖縄闘争で手製爆弾により機動隊員26人重軽傷 8.7警視総監公舎と成田署に時限爆弾、8.22東京目黒の警視庁職員宅で爆弾爆発、8.26小型手製爆弾千葉県我孫子市レール上で発見、9.18杉並区高円寺の交番脇で時限爆弾爆発、9.22機動隊独身寮で鉄パイプ爆弾爆発、10.18東京新橋郵便局で小包爆弾爆発、10.23渋谷区・杉並区・板橋区の4カ所の派出所に爆弾仕掛けられる(不発)、10.24都内6か所に爆弾、うち3か所で爆発、10.25豊島区の駅ホームで爆弾見つかる、 11.11東京地検で爆発、千葉県柏、荒川警察署長公舎で爆発、11.12東京中野区の元警視庁警務局長宅にて爆発、葛飾区の警視庁家族寮で爆発、12.18警視庁警務部長土田国保自宅に配送された荷物が爆発、夫人が死亡、四男負傷、12.24新宿伊勢丹デパート前の交番に置かれた爆弾爆発、警官通行人1名が負傷 

メディアが報じた爆弾闘争であるが、実行犯、組織等の詳細部分については、当局から発表されていないものも多い。 

(三)内ゲバ 

沖縄で革マルVS民青内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.20横国大で革マルVS中核内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.30学芸大で革マルVS中核内ゲバ、4人重傷、11.1杉並で革マルVS中核内ゲバ、12.4関西大学構内で革マル派が中核派全学連副委員長ほか1名を殺害、12.13法大内で中核派学生が反帝学評学生に襲われ2人が重傷

(四)公害闘争 

4.12田子の浦ヘドロ訴訟で住民から告発された大昭和製紙等製紙会社社長ら、竹山祐太郎静岡県知事らを静岡地検が不起訴処分、5.24公害都市・大阪西淀川区では1年間に12人の公害認定患者が死亡、患者数は1,741人に。6.30イタイイタイ病訴訟で住民側が勝訴。9.27新潟地裁での水俣病裁判判決を前に、被告の昭和電工が上訴権を放棄、公害追放を叫ぶ住民パワーに大企業が屈す。新潟水俣病裁判で患者側が勝訴、企業から損害賠償を勝ち取る。12.10水俣病認定患者6人と石牟礼道子がチッソ本社社長室でハンスト、会社側が機動隊を導入、 

思いつくままの抜粋であり基準はない。新左翼各派は一年を通じ、沖縄闘争と成田闘争に熱心に取り組んだ。街頭闘争における火炎瓶の使用が多発し、手製爆弾爆発(未遂を含む)が多発した。1960年代より闘争で使用される「武器」はエスカレートしたが、政治的効果はむしろ、マイナスに作用した。

この年、2月11日、京浜安保共闘(革命左派)が栃木県真岡市鉄砲店を襲撃、散弾銃等を強奪。同派の行動が表面化した。5月31日、初めて小袖に山岳アジトを建設。7月15日、京浜安保共闘と赤軍派が合流して統一赤軍を結成。このころから仲間の処刑・粛清始まる。8月中旬、連合赤軍結成。主体の「共産主義化」論。10月には山岳アジトを数か所移動。そして、翌72年2月17日、連合赤軍、森恒夫・永田洋子逮捕。19日、連合赤軍、銃撃戦開始、28日制圧さる。3月5日、連合赤軍リンチ殺人発覚に至る。なお、本書には、「〔年表〕連合赤軍の軌跡」という詳細な資料が収録されている。 

2022年4月19日火曜日

フジの花

サクラが散ってフジがきれい。

谷中

根津

 

2022年4月14日木曜日

日本プロ野球活性化のための再構築計画

 

日本プロ野球(NPB)はストーブリーグ中だが、高額選手のFA移籍もなく、話題が乏しい。トライアウトも話題にはなるが、契約が内定した選手は極めて少ない。毎年100人辞めて100人が入団するというNPBだけれど、筆者はこの時期、戦力外通告、自由契約を宣告され、入団先が決まらない若い選手のことを思うと気が重い。トライアウトをTV映像で見た限り、やれそうだなと思われる選手が何人かいたが、契約の情報はいまのところ、入っていない。

「プロは実力の世界」は思考停止

プロは実力の世界――という言い方は間違いだとは思わないが、いまのNPBに関する限り、それは思考停止の正当化だと筆者は考える。NPBは一軍(セパ6球団合計12球団)、二軍(イースタン、ウエスタン合計12球団)があり、その下部組織として3軍を保持する球団もある。さらに育成契約選手というわけのわからぬカテゴリーも存在している。

一方、NPB以外の野球運営組織(学生を除く)としては日本独立リーグ機構(JPBL)という独自の職業野球組織がある。同機構は、2005年に四国アイランドリーグplusが発足(現在4球団)、2007年にはルートインBCリーグが発足し、現在、東地区4、中地区4、西地区4、合計12球団で運営されている。

さらに日本野球連盟(JABA)が都市対抗野球大会を運営していて、地区予選(1次、2次)を勝ち上がった32チームが本大会で覇権を競っている。いわゆる社会人の野球大会なのだが、企業の支援の下、レベルは高い。

現状、バラバラな運営状態

日本は人口1億人超の大国であり、日本人は野球が大好きだし、競技人口も多い。プロ野球ビジネスは市場性として有望だ。ところがその運営組織がバラバラ。近年、NPBと独立リーグの人的交流は増加したが、選手間の交流はそれほど活発ではない。社会人野球は「アマチュア」を表に出していて、職業野球との交流に消極的だ。

筆者は都市対抗――社会人野球という運営組織が日本のプロスポーツの活性化、スポーツビジネスの阻害要因だと思っている。社会人であるという身分保証が選手の能力開発を妨げる。野球で身を立てるリスクをヘッジして、引退後の職場を担保しているわけだ。それでは伸びない。もちろん、プロでやる自信はないけれど、好きな野球をしたいという人の気持ちを肯定する。そういう人はクラブチーム、草野球で仕事の合間の時間を使って野球をすればいい。ところが、現在の都市対抗は企業の知名度アップ、宣伝PRの材料であって、プロとうたわない偽のアマチュア組織だ。こういう詐欺的名称は早く下ろして、プロ化すべきだ。

既得権益にしがみつく12球団

NPBにも問題がある。12球団がそろって既得権益にしがみつき、球団数増加を規制している。アメリカにならい、MLB→AAA→AA→Aのような形で球団のすそ野を広げるべきだ。日本の場合ならばすでに、一軍、二軍、三軍、育成選手、独立リーグ、社会人があるのだから、NPBがサッカーのJリーグのような統括機構になって、サッカーのJI、J2、J3のようなカテゴリーを設けることが望ましい。そうなれば、トライアウトのようなまやかしの再就職イベントを開催しなくとも、選手の流動性を高めることはできる。一軍、二軍、育成、独立リーグ、社会人の全球団をシャッフルして、リーグを実力ごとに再編成してカテゴリーをつくればいい。一軍はおそらく、現在の12球団から16球団まで増やせるだろう。そうなれば、クライマックスシリーズ(CS)という愚かなイベントも不要だ。CSはマラソンの後、上位6名に100メートル走を強いるくらい愚かだ。16球団ならば地区別4球団のノックアウト方式の勝ち上がりで日本一を決めればいい。

Jリーグを参考にリーグ活性化の仕組みをつくり直せ

消化試合問題の解決方法は、これもJリーグを参考にすればいい。下位球団のカテゴリー入れ替えが一つ。もうひとつは、サッカーの場合、上位3チームがアジア・チャンピオン・リーグ(AFC)への参加資格を得られることだ。つまり、上位・下位が最後まで必死で戦い抜く仕掛けがビルドインされている。AFCで勝てば、世界の強豪と戦うチャンスを得られる。

職業野球の場合、世界~アジア~国を統合する機構が存在しないのでいますぐには無理だが、将来的にはビジネス拡大のタネになる。アジア大会ならば、日本、韓国、台湾、中国、オーストラリアでいますぐにでも開催可能だろう。

選手が異なるカテゴリーで活躍できるようになれば、その上に再チャレンジする可能性が広がる。もちろん給料は下がるだろうがそれこそ実力の世界だ。NPBはドラフトでアマチュア選手を数多く指名し囲い込む一方、そのときのGM、監督、コーチらの主観で不要と判断された選手がポイ捨てされる。あまりの無責任さに腹が立つ。

2022年4月8日金曜日

『1970年 端境期の時代』


●鹿砦社編集部〔編〕 ●鹿砦社  ●990円(本体900円) 

田原総一郎、中川五郎、長崎浩ほか15名による、1970年の振り返りである。それぞれの内容にはバラツキがある。執筆者の一人によると、編集部からの原稿依頼に特段の注文はなく、自由に1970年について書いてくれ、というものだったようだ。 

1970年は新左翼運動における分岐点、いわゆる小熊英二が名付けたパラダイムシフトの年だというのが定説化したきらいがあるが、筆者はその命名は正しくないと考えている。その理由については後述する。もちろん、本書のように年にこだわった特集本であるから、その年に起こったことに注力することはやむを得ない。それぞれの執筆者の事情において、その年を振り返る内容があっておかしくはない。しかし、新左翼政治運動に関与した執筆者であれば、それだけにとどまってほしくない。端境期という面と、持ち越してしまった面の双方を歴史的に比較検証し、その次に起きてしまった要因として突き詰めてもらいたいと思う次第である。 

筆者の印象に残ったのは、①「1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語」(高部務)、②「「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない」(若林盛亮)、③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治)、の3篇だった。これらは1970年における新左翼運動について、誠実に向き合っているように思えた。以下にそれぞれの内容を大雑把に書く。 

①1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語(高部務) 

新宿でフーテンをしたりディスコで遊んでいた筆者の高部が、Sというブント赤軍派オルグと出会い、同派に入党する。1969年9月、高部をはじめとする赤軍派「兵士」およそ50名は、東京・日比谷野外音楽堂にて開催された「全国全共闘結成大会」で「蜂起貫徹 戦争勝利」と連呼し会場に入場する。だが、その後のデモ行進で機動隊に囲い込まれ、高部ら赤軍派「兵士」はバラバラに逃走し自然散会する。

しばらく赤軍派からの連絡が途絶えていた同年10月21日、高部は新宿でSに再会する。Sは「東京戦争」「逮捕された同志の奪還作戦」「警視庁・首相官邸襲撃」などの赤軍派の計画をペラペラと高部に打ち明ける。そして、そのための軍事訓練(山梨県大菩薩峠の山荘)に参加するよう誘う。Sの軽率な言説に不信を抱いた高部は、軍事訓練への参加を見合わせる。そして、11月5日の早朝、高部は大菩薩峠の「福ちゃん荘」に集結していた赤軍派53名が凶器準備集合罪の現行犯で逮捕されたことをニュースで知る。高部が危惧していた通り、「機密」は漏れていた。高部はこう記している。 

腑に落ちなかったのは、赤軍派結成大会前夜、里見寮に集まっていた仲間の姿が何人かあったが、(Sが)200名以上と言っていた参加メンバーはたったの53名だったことだ。それにもまして解せなかったのは逮捕者の中にSの名前がなかったことだ。
どうなっているんだ。僕は一人白ずんだ。
僕の赤軍派に対する幻想はこの時点で消えた。
明けて70年3月31日。赤軍派は「よど号」をハイジャックして北朝鮮に政治亡命した。
6月23日、安保条約自動延長が決まった。
学生運動は勢いを失い、セクト間の内ゲバが本格化した。世間からは「ゲバルトの殺人集団」といった厳しい目が向けられるようになっていった。(P89~90)

70年のパラダイムシフトと呼ばれる新左翼運動の質的変化は、もちろん、同年以前の延長線の事象である。それを象徴するのが高部が体験した、69年におけるブント(共産主義者同盟)赤軍派結成である。そしてそのことは、新左翼総体における、69年11月の「佐藤訪米阻止闘争」の政治的敗北(だんじて軍事的敗北ではない)の裏返りである。粗雑な言い方かもしれないが、新左翼運動は69年11月で実体上、終わっていた。にもかかわらず、政治的敗北を軍事的敗北に転嫁したところに、70年以降の退廃と暴力の進行を許した。高部の書きぶりから、赤軍派内部にスパイがいたことがうかがわれるが、核心はそこではない。世界革命戦争という妄想が新左翼の老舗党派であるブント内に形成されてしまったところにある。 

②「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない(若林盛亮) 

若林盛亮は前出の高部と同様、赤軍派の元メンバーであり、現メンバーでもある。若林は高部と似ていて、ヒッピー、モダンジャズ、ファッションやロックに入れ込んでいた長髪の若者だった。政治的ではなかったものの、当時の日本に強い違和感を抱いていたという。このあたりは、新左翼運動、全共闘運動に参加した若者の一つの典型である。そんな若林が1967年10.8羽田闘争で覚醒する。同志社大学入学後、革命的ロックバンド結成から全共闘に参加、そして赤軍派に入党、1970年3月31日、ハイジャック闘争に参加し「よど号赤軍」の一員となる。爾来50年余り、若林はいま、北朝鮮ピョンヤンにいる。そして、次のように書く。 

戦後世代が提起した戦後日本は「おかしい」、その正体は・・・米国を自由と民主主義の盟主と仰ぎ、「米国についていけば何とかなる」アメリカンドリーム追及・・・戦前と違うのは、侵略戦争をやるのは日本軍ではなく米軍(日米安保基軸)に任せ、それを補助して、その覇権権益のおこぼれに預かるようになったということだ。戦前の覇権主義が対米従属に衣を替えただけで体質は変わらない。これが戦後日本は「おかしい」の正体だったと思う。 (中略)
戦後日本は「おかしい」と問い続けてきた私たちの闘いはまだ終わっていない。私たちは古希前後の老兵ではあるが、頭と体が動く限り、まだやるべき役割はあるはずだ。新しい挑戦者のために私たちの世代が最後の花を咲かせる時ではないだろうか。(P124~125) 

①の高部と②の若林は赤軍派に入るまでの資質に似たところがある。政治的というより情緒的であり、倫理的というより享楽的だったような感じを受ける。70年前後に流行したヒッピー文化、ロック、ファッションに敏感に反応していたように思われる。二人は当時の日本に違和感を覚え、反抗心を抱き、赤軍派への入党につながった。そして、一方は赤軍派のオルグに不信を感じ離脱し、約50年後の現在、芸能、スポーツ関係のトップ屋として活躍している。その一方はハイジャックに参加し、いまなおピョンヤンに住み続け、日本革命に向けて闘志を燃やし続けている。なお、赤軍派を離脱した高部は、よど号をハイジャックした赤軍派の元同志、すなわち若林らのハイジャックを「政治亡命」と言う。 

③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治) 

69年から70年前半にかけて拘置所に拘留され、同年6月、保釈後、ブント叛旗派を立ち上げた三上治の総括である。三上だけが新左翼運動活動家として、それまでの運動の検証を誠実に行っている。三上の核心ともいうべき箇所を書き抜いておこう。 

ロシア革命を継承してきたマルクス主義は権力観(国家観)において失敗し、過剰な権力状態を生み続けてきたが、それを踏襲する左翼は血で血を洗う抗争に歯止めを掛けられなかったのである。そのような理念を革命観において持っていなかったのである。権力がどうあるべきか、権力の性格をめぐる問題は権力の変革を目指す運動の展開の中でも問われているのであり、僕はそれを共産党や革共同の他党派、内部関係の中に垣間見てはいたが、自分たちにも問われる問題としては突き詰めて考えてはいなかった。この点は赤軍派の面々も同じだったと思う。連合赤軍事件ではこれはもっとも露骨に現れるが、これは当時の僕らの思考とは無縁ではなかったのだ。(P165) 

70年安保決戦という掛け声や宣伝は、願望も含めて存在したが、運動が後退局面に入ったことは疑いもないことだった。ここで赤軍派が登場した。・・・彼らは当初、権力との闘争を切り開く先端部隊の創出を主張していたが、それがいつの間にか前段武装蜂起の提起に変わっていった。・・・運動が直面している現実の認識と僕とでは決定的といっていいほど違った。当時の言葉を想起すれば赤軍派の面々は革命的高揚期にあるという認識をもっていた。事態は高揚期どころかどう見ても後退期だった。この認識の違いは決定的だったが、当時の党派の面々は・・・運動が後退局面にあることを認識していたであろうが、それを現実認識として明瞭に、その上で運動の方向を出すということはしていなかったと思う。(P167) 

1969年の段階が反体制・反権力の運動にとって革命的高揚期にあり、武装蜂起の方向を提起すれば、その後退局面を変えられるとは到底考えられなかった。赤軍派の面々はロシア革命に倣って今が革命的高揚期にあり、武装闘争の方向を提起したが、これは彼らの願望によって言うなら主観主義的な現実認識に拠ったものである。(P170) 

67年、老舗の新左翼党派ブント(共産主義者同盟)は復活したものの、69年、リンチ殺人事件を経て赤軍派を生み、戦旗派、情況派、三上率いる叛旗派等と分裂を繰り返した。赤軍派はその後、連合赤軍、日本赤軍へと分離し軍事路線を突っ走った。筆者は、そのことを踏まえた三上の総括をほぼ全面的に受け入れることができる。三上に比べれば、ブントの分派の指導者であった長崎浩の「1970年 岐れ道それぞれ」は、前出の小熊英二の『1968』を書き写しただけの希薄さで、筆者の期待を裏切る内容だった。 

その他

(1)激突座談会〝革マルVS中核″ 

革共同革マル派・同中核派の元活動家、元無党派一般学生、板坂剛(司会)による座談会である。元活動家であって、座談会開催時は革マル派・中核派に属していない。にもかかわらず、のっけから両者は互いに相手を罵倒するというありさまである。「戦争」と呼ばれた両派の内ゲバ犠牲者に対する慰霊の言葉はもちろんない。憎しみというものは、50年余を経過しても晴れないものなのだと感じた。罵倒の言葉は当時と変わっていない。彼らはこの50年余りの年限をどう過ごしてきたのか。あのアジア・太平洋戦争で戦った日本軍・米軍の兵士同士が70年余を経過して互いに和解したというニュースをTVでみたことがあるが、内心はどうなのか心配になるくらいだ。これが「新左翼」なのか、そして「戦争」なのかと。 

(2)「7.6事件」に思うこと(中島慎介) 

同稿は1969年7月6日、第二次ブント内で赤軍派が中央派の仏徳二議長をリンチし、介入した警察により破防法で逮捕状が出ていた仏議長を逮捕に至らしめ、その報復で逆襲した中大ブントが望月上史を監禁し望月が逃亡しようとして転落、のちに死亡した事件の証言である。 

証言内容は本書を読んでただくとして、同稿あとがきにて、中島は《以上の文面は、2019年12月刊行の『追想にあらず』(講談社エディトリアル刊)に寄稿した原文そのままです(ただし本書編集部で誤字や誤記を修正し表記を統一したりした箇所が一部あります)。》と書き、続けて、《入稿後、ゲラを見ると全体の4割が削除され、文面も入れ替えられ、更に残りのゲラの1割の部分も削除され、意味不明の代物とされていました。》と独白している。けっきょく中島は『追想にあらず』編集担当者に対し、「出版拒否」「原稿引き揚げ」を通告したという。 

中島の言い分しかわからないので、これが事前検閲なのか編集権の行使なのか判断できないが、前者であれば許されない。

2022年4月3日日曜日

NPB順位予想(2)

パシフィックリーグ 


開幕後の順位予想で恐縮であるが、所用で投稿が間に合わなかった。 

〈A〉 

パリーグ各球団の格付けとしては、ロッテ、オリックスがA、楽天、ソフトバンクがB、西武、日ハムがCとなる。若手の台頭著しいロッテと自信のオリックスという両球団で、優勝が争われる。 

〈B〉

投打の主軸が最盛期を過ぎ、退潮著しいソフトバンクがどこまで踏ん張れるか。投手力が弱く、主軸打者が高齢化し、若手が伸び悩むという、これまた過渡期に入った楽天がどこまで順位を上げられるか。 

〈C〉

ビッグボスの日ハムはオープン戦までの主役。コスト・カットで、主力選手を自由契約(クビ)にして、チーム力を落とした。選手を大事にしない冷酷経営の日ハムには、勝ってほしくない。クローザーの平良というずば抜けたタレントはいるが、打線がベテラン頼みで不安定。チームの総合力が劣る西武は上位に残れない。 

そんなわけで、順位は以下のとおりである。 

1.ロッテ、2. オリックス、3. ソフトバンク、4. 楽天、5. 西武、6. 日ハム 

2022年4月1日金曜日

満開(谷中霊園)

 


2022年3月29日火曜日

『叛乱を解放する 体験と普遍史』

●長崎浩〔著〕 ●月曜社 ●3200円+税 

著者(長崎浩)は本題の〈普遍史〉について、‶ユダヤ・キリスト教の救済史、世界史を救済の歴史として歴史化することです。この救済をキリスト教ではなく革命と言えば、マルクスの歴史観になりますが、これを世界史の法則と言わないで「普遍史」という。(同書P234)”と定義づけている。〈普遍史〉とは史的唯物論のことだと換言できよう。

ユダヤ・キリスト教の教典ではユダヤ民族が幾多の苦難を乗り越えて、約束の地へたどりつく神話を指すのであり、この世から理想社会へと向かう革命運動をも意味する。理想の世界への道程は普遍宗教、マルクス主義、天皇制ファシズム、国家社会主義、ナチズム等のイデオロギーに基づき導かれる。個はイデオロギーに随伴して、それぞれの体験をその内面に刻む。 

ブント赤軍派、連合赤軍、日本赤軍への言及を欠いた新左翼論 

本書を一言でいえば、新左翼論である。著者(長崎浩)は、《「日本の新左翼とは何だったのか」、これが共同のテーマである。(P386)》、そして、《もし一九六八年の叛乱の経験が今の若い世代にもなんらかの教訓になるとすれば、あれは「世界革命」だったということです。(P235)》と自問自答している。 

60年安保闘争をもっとも激しく闘った第一次ブント(共産主義同盟)の創設から、「68年世界革命」に同伴した著者(長崎浩)が、その後の新左翼運動の混迷と消滅をも含めて「体験」として語ったというわけだが、最後まで読み切ったところで、意外な感じがした。何かが抜けていると。 

著者(長崎浩)は多くの犠牲者を出した革マル×中核の内ゲバ、すなわち‶革共同戦争″についてきわめて饒舌である一方、長崎の出自であるブントから派生したブント赤軍派、そしてさらにそれを母体として結成された連合赤軍及び日本赤軍についての論究がない。ブント赤軍派にはよど号ハイジャック(1970年3月末)があり、連合赤軍には山岳アジト・リンチ同志殺害(1971~1972年)、浅間山荘立てこもり銃撃戦(1972年2月)等があった。日本赤軍にはテルアビブ空港無差別銃撃(1972年5月)、クアラルンプール大使館占拠(1975年8月)、ダッカ空港ハイジャック(1977年9月)等があった。これらを新左翼運動と関連付けないならば、その理由づけを必要とする。筆者の感覚では、それらを取り上げない新左翼論はありえない。なぜならば、1969年のブント赤軍派の誕生とその派生こそが新左翼の完成形であり着地点であり、終着地点であり、消滅地点であったと思うからだ。いち読者として、おおいに不満が残った。 

ブント赤軍派と三島由紀夫 --死を賭して戦う

ブント赤軍派の登場は1969年9月、日比谷野外音楽堂にて行われた全国全共闘大会であった。そして同年11月、大菩薩峠における「軍事演習」において、官憲により参加者が逮捕され、赤軍派活動家の過半を失った。残った幹部と有志が1970年3月、日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮にわたり、今日に至ている。 

当時の世情を象徴するもう一つの出来事が1970年11月に起きた、作家・三島由紀夫と盾の会による、自衛隊市ヶ谷駐屯地における自衛隊員へのクーデター蹶起の檄とその直後の三島、森田必勝の割腹自殺である。生前から三島は新左翼学生運動と接点があり、1969年5月、全共闘学生との討論会に参加している。 

著者(長崎浩)が本書にて言及している革共同両派による内ゲバは、早稲田大学等を舞台にして1960年代から開始されていたが、最初に死者を出したのは1970年8月、法政大学構内における中核派による革マル派活動家・海老原俊夫殺害が最初であった(P340)。この殺人は偶発的だった可能性が高いが、この〈死〉を契機として、両派の暴力は激烈化した。ブントを母体とした連合赤軍・日本赤軍、革共同両派(中核・革マル)、そして三島由紀夫はともに、「死を賭して」戦った。そして、その影響は新左翼において、死を辞さぬ決意主義への傾斜を加速させた。このような動きは、革命路線、革命哲学とはおよそ無縁な、ロマン主義的傾向だと筆者は考える。つまり、党派の方向性を決定したのは「本気度」だったのだと。 

連合赤軍が山岳アジトで行った粛清について、指導者の一人である永田洋子やそこにいた「兵士」たちの証言によると、粛清の動機は、「兵士」が化粧をしていたこと、言葉づかい、仕草といった些細な日常性にあったという。閉ざされた山岳アジトの中で彼らが競ったのは、革命運動に対する「本気度」だったと推測される。権力との直接的衝突がない山岳アジトにおいて、外見等が「本気度」のバロメーターになったのではないか。そればかりではない。反革命的とみなされた「兵士」を総括し、リンチを加えた「兵士」には、これまた決意が試されたのではないか。本気で友を総括する(死に至らしめる)ことが、「自己の共産主義化」 の証明だと自己は思いつめ、まわりの他者は追い詰めたのではないか。

新左翼街頭闘争の終焉 

筆者は、新左翼運動の挫折、敗北、社会からの離反を決定づけたのは、著者(長崎浩)の振り返りとは異なり、連合赤軍がかかわった仲間へのリンチ殺害による粛清だったと考える。

時系列的に振り返れば、新左翼党派の街頭闘争は、1969年4月の沖縄闘争で官憲に抑え込まれた、その一方、学園では全共闘運動が盛り上がり、スト、全学バリケード封鎖等が全国規模で戦われた。その余勢をかって新左翼は同年11月の佐藤訪米阻止闘争に注力したが、権力の厚い壁に阻まれた。この70年安保闘争不発により、新左翼運動は事実上、終止符を打っていた。その時点において、街頭闘争、そして著者(長崎浩)がいう中核派に代表される路線主義は破綻していた。

沖縄闘争の敗北を受けて、ブント赤軍派が他党派を凌駕すべく「軍事路線」「非合法」をその2か月後に前面に出し、ハイジャックを敢行した。そのことを嚆矢として、新左翼各派は競って、「東京戦争」、銃による武装、爆弾闘争、山岳アジト建設、都市ゲリラ戦、国際的革命根拠地づくり、アラブ革命派との連携・連帯・・・世界革命戦争という妄想が肥大化し、新左翼内に決意主義が横溢した。 ブントを母体とした赤軍派とその発展部隊は内部粛清を経て外に向かい、革共同両派は内に向かって死に向かう暴力を先鋭化させた。敢えて言えば、死は「選択肢ではない」にもかかわらず。

死んだ子の年を数えても仕方がないとはいうものの、新左翼党派に求められたのは、69年11月に路線主義・街頭闘争が決定的に行き詰まったところにおける出口戦略だった。出口を求めなかった結果、長期にわたる悲劇が起こり続けた。 新左翼とは何だったのか、という問いを求めるのならば、革共同戦争も重要だが、ブントを母体として発生した軍事路線というテーマを抜きにした「語り」はあり得ない。著者(長崎浩)がブントを出自としたが故にそこに焦点をあてなかったとしたら、本書こそ党派性そのものに彩られたと言わざるをえない。 

普遍史としてのスターリニズムとそこからの解放 

1968年の普遍史という観点からいえば、著者(長崎浩)は触れていないが、その最重要事項の一つに当時の学生大衆における、反スターリニズム体験があったのではないかと思う。 

日本における反スターリニズム運動の源流は1950年代中葉までさかのぼる。1956年のハンガリー動乱、同年になされたソ連フルシチョフによるスターリン批判などを契機として、絶対的権威を保っていた日本共産党(以下「日共」)及びソ連に対する批判が起こり始める。1957年1月、日本トロツキスト聯盟・第四インターナショナル日本支部が結成される。彼らはスターリンによって抹殺されたトロツキーの永続革命論を支持したため、日共により「トロツキスト」と呼ばれ、かつ第四の「ヨン」とトロツキストの「トロ」とを合わせて「ヨントロ」とも略称された。創設者として、太田竜、黒田寛一らがいた。ヨントロは同年12月に革命的共産主義同盟(革共同)と名称変更し、60年代、革命的マルクス主義派(革マル派)、全国委員会(中核派)、第四インターナショナル日本支部の3派に分裂した。

一方、著者(長崎浩)が創設にかかわったブント(共産主義者同盟)は革共同よりほぼ1年遅れで結成され、60年安保闘争の主役となったが、安保闘争の敗北とともにほぼ解党状態に陥った(そののち、60年代半ば第二次ブントとして復活した)。60年安保後におけるブントと革共同の相違点は、後者が「反スターリン主義」を前面に掲げたのに対し、前者はマルクス主義大衆運動に純化した路線をとったところにあった。なお、革共同は、60年安保闘争において勢力を温存した。

60年安保闘争後にできあがった新左翼の基礎 

国民的運動として盛り上がった安保闘争であったが同条約は自動延長され、もっとも過激に闘ったブント(第一次ブント)はほぼ壊滅的打撃を被った。反日共系のブントと革共同とでは、その敗北の総括をめぐって、差異が生じた。後者は安保闘争の敗北を真の前衛党不在として厳しく受け止めた。国民運動を指導した既成左翼(日共・社会党)をスターリン主義者として非難し、彼らの日和見主義が安保闘争を敗北に終わらせたと総括した。 一方の第一次ブントは前出のとおりほぼ壊滅状態にあり、「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3派に分裂し、政治的機能を喪失していた。そこに揺さぶりをかけたのが革共同であった。揺さぶられた第一次ブントのうち、「戦旗派」と「プロレタリア通信派」の一部は革共同に移籍した(なお、「革命の通達派」はのちにブントマルクス主義戦線派を結成したが68年に消滅)。その結果、新左翼の主流はブントから革共同へ移行した。のちの日本の「68年革命」の隆盛、敗北、消滅の主因は、実はここに内在する、というのが著者(長崎浩)の見解である。

「68年革命」と反スターリン主義 

67年の10.8羽田闘争から開始された三派系全学連(中核派、社学同=ブント、社青同解放派)による街頭闘争から始まった新左翼運動を支えた学生大衆にとって、革共同が掲げた反スターリニズムは大発見だった。当時、日本経済は成長過程にあり、戦後の貧困は姿を消し、豊かさを実感しつつも、彼ら彼女らは急激に進む都市化・情報化、そして管理社会の締め付けに危機感を抱いた。その実感は〈疎外〉という概念に集約され、その根源として、世界が帝国主義とスターリン主義によって分割統治されているという事実を発見した。そこから生まれた新左翼共通の革命の標語が「全世界を獲得するために」であった。反スターリニズム、反日共は学生大衆の心情をとらえた。著者(長崎浩)が属したブントは、日本の「68年革命」において、学生大衆の心をその一点においてつかみ損ねた。 

前出のとおり、新左翼第一党だった第一次ブントが分裂し、一部が革共同に移籍し革共同は党勢を増した。著者(長崎浩)は60年安保闘争後、ブントから移籍した一派が中核派を結成し、もともとの革マル派と敵対した経緯に強く焦点をあてている。中核派とは、革共同(唯一の前衛党主義)とブント(大衆運動路線)のアマルガムであると何度も繰り返している。そしてそのアマルガムがもつ熱量が新左翼運動をリードしたのである。中核派は確かに、日本の「68年革命」のリーダーであった。街頭闘争における動員力、戦闘力、組織力、情報発信力において他党派を凌駕していた。

しかしながら、その出生の秘密である第一次ブントと革共同のアマルガムという中核派の資質が、あたかも、日本の新左翼運動沈没の主因のような書きぶりには納得できない。もちろん、中核派の誤謬が与えた影響ははなはだ大なのだが、学生大衆、社会全体に与えた衝撃度において、ブントを母体とした赤軍派、連合赤軍、日本赤軍のあり方を問わない理由はない。 

68年は世界革命ではない 

革共同、ブント、そして構造改革派からレーニン主義に転じた諸々の新左翼革命諸派が等しく67~68年における街頭闘争の「勝利」に陶酔し、69年に台頭した全共闘運動を叛乱だと錯覚し、同年11月に官憲により暴力的に敗北を屈したにもかかわらず、出口戦略を模索せず、内ゲバと無謀な軍事路線に固執したのが新左翼運動のすべてである。 

ついでに言っておくと、68年は世界革命ではない。『ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(スラヴォイ・ジジェク)から長いが引用しておこう。 68年はのちの新自由主義の発展を準備したのである。

(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。 

資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。

この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(P99~103) 

 ジジェクによれば、1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。そのことを踏まえ、ジジェクは、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる、と。

スラヴォイ・ジジェクが挙げた3つの形態、すなわち、①過激な形での性的な享楽の探求、②政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)ー-を日本の精神風土に当てはめてみると、②がブント赤軍派・連合赤軍・世界赤軍、爆弾闘争・革共同戦争(内ゲバ)等であり、③はほぼ四半世紀遅れて顕在化した、オウム真理教によるテロリズムとなった。1968年を「世界革命」と言うのならば、それは勝利の瞬間、敗北したのであり、それは1970年以降の「非抑圧的」な快楽主義という超自我性の直接行為へと向かってしまったのである。

[追記]

本文投稿後、偶然にも、長崎浩の小論「1970年 岐かれ道それぞれ」を読んだ。そこには次のように書かれている。 

小熊英二の『1968』には「1970年のパラダイム変換」と題した長い章が置かれている(下巻第14章)。ちょうどこの年を境にして新左翼の思考と行動の組み立て方が転換するというのである。メルクマールとして挙げられているのが、戦後民主主義と近代合理主義にたいする批判、マイノリティー差別、地域闘争、セクトの建軍路線とゲリラの爆弾闘争、そして内ゲバへの序曲である。パラダイムチェンジというより「日本の1968」が文字通りばらけたということだが、これらメルクマールが「1968」に関わった者たちにとって、それぞれの岐れ道になったのは確かだろう。(『1970年 端境期の時代』P61/鹿砦社編集部〔編〕) 

同小論において、本文において筆者が著者(長崎浩)に投げかけた疑問、すなわち、三島由紀夫の自決、新左翼各派の街頭闘争から本格的武装闘争への方針転換(建軍路線)、すなわちゲバ棒・ヘルメット・投石から、ゲリラ組織による爆弾闘争、赤軍派ハイジャック、連合赤軍による銃撃戦等についてふれているのだが、それはきわめて簡単である。もちろん、連合赤軍による同志リンチ殺害は無視されている。筆者が挙げた疑問に係らなかった事項は、華青闘による新左翼批判とそれに対する新左翼側の自己批判(マイノリティー差別への取組み)だけである。

長崎浩は、1970年以降の新左翼の動向に触れてはいるが、その内容は極めて希薄(紙数制限のためかどうかは不明)である。長崎にとっての1970年以降は、革共同の内ゲバを除けば、およそ新左翼とは無縁だとみなすかのような、そして長崎自身とは無縁な事象だというかのごとく、冷淡な書きぶりである。小熊英二の前掲書を書き写しただけにとどまっている。長崎浩の新左翼論は、草創期ブントと「1968年」の革共同、全共闘運動に偏りすぎていると言わざるを得ない。その理由が知りたいと改めて思う次第である。 

なお言うまでもなく、パラダイム変換というのは自然現象ではない。「1968年」の新左翼が情況変化に対応して戦術的に取り組む対象を広げざるを得なかったまでのことだ。新左翼の反体制運動は連続的に生成されたものであり、70年をもって線引きすることは正しくない。

日本のマルクス主義思想界において、スラヴォイ・ジジェクやアントニオ・ネグリらを輩出し損ねただけなのである。