2013年3月3日日曜日

巨大カエルが出現

一昨日(1日)の夕方、外出しようとしたら、拙宅マンションの1階ピロティに異物を発見。

近づいて確認したら、茶色の大ガエルだった。

たまたま通りかかった同じマンションの住人の話だと、よくあることだというが、小生は初体験。

近づいても怖がらないで悠然としている。

春がきたことを知らせにきたかのようだ。

不思議なことに、外食後、帰ろうとしたら外は大雨。

雨を知らせたかったのかな。

タイルと同色の保護色に変身か?

Zazie、手術、入院、退院

先月末(28日)、Zazieが近くの動物病院において避妊手術を受け、同日、入院。

あくる日( 今月1日)に退院した。

退院したとはいえ、全身を包帯で覆われ、なんとも痛々しい。

麻酔も効いていて、よたよたしていた。

餌を食べるのでひと安心

寝ている姿も痛々しい

2013年2月25日月曜日

梅は咲いたが・・・

近所の梅が咲いてきた。

 
 
@Yanaka

2013年2月17日日曜日

IOCの世俗性を評価する――レスリング、五輪競技除外問題

国際オリンピック委員会(IOC)は12日、スイス・ローザンヌで開いた理事会で、昨夏のロンドン五輪で実施した26競技のうち、レスリングを除外することを決めた。レスリングは次回2016年リオデジャネイロ五輪(ブラジル)では実施されるが、東京都が招致を目指す20年五輪からは行われない公算が大きくなった。

IOCは、夏季五輪の26の「中核競技」を、20年五輪から25に減らす方針を決めていた。中核競技から外れると、IOCが五輪活性化のために進める実施競技入れ替えの対象となる。 20年五輪では25の中核競技に加え、ゴルフと7人制ラグビーも実施される。IOCは5月の理事会で、さらに追加する候補として、野球・ソフトボール、空手、スカッシュなどにレスリングを加えた8競技を検討し、いくつかに絞る。9月の総会で、このうちの1競技を実際に採用するかどうかを決めるが、今回外れたレスリングがすぐに復活する可能性は低い。 レスリングは、近代五輪最初の大会だった1896年アテネ五輪から男子が実施されている伝統ある競技。2004年のアテネ五輪から採用された女子では、55キロ級の吉田沙保里、63キロ級の伊調馨の両選手(ともにALSOK)がロンドン五輪で3連覇を達成するなど日本がメダルを量産してきた。

〈中核競技〉 2007年のIOC総会で導入が決まった制度で、選ばれた競技は組織の腐敗などがない限りは除外されず、優先的に五輪で実施される。実施競技の上限は28。中核競技以外にも、大会ごとの追加枠で採用される「その他の競技」がある。(朝日新聞)

日本人の驚き

レスリングが五輪競技から除外される可能性が高まったという報道は、日本中に驚きを与えた。日本・本家の柔道の不振をよそに、レスリングは「日本のお家芸」と呼ばれてきた。優秀な成績をおさめてきた吉田沙保里が、国民栄誉賞を得たくらいだ。日本が金メダルを期待できる競技が五輪から外れるとは――という驚きが一つ。そして二つ目の驚きは、レスリングという競技は古代ギリシアに起源をもつ五輪の原点にも等しいもの――という確信の崩壊だ。

IOCの「怪しさ」

そもそものところ、五輪の競技種目を決定するIOCという団体の正体がわからない。手っ取り早く言えば、五輪を運営するIOCそのものの実態が日本人には見えていない。会長がいて理事がいて、各国の代表がいて・・・という当たり前の組織のようではあるが、会長、理事の選出方法にも透明性がない。筆者からみれば、西欧の貴族気取りの名士の集まりのようだ。彼らは己の名誉欲と金銭欲を、IOCを舞台にして満たしているようにさえ見える。そんな「偏見」を抱くのは筆者だけではないようで、今回のレスリング除外については、旧ソ連圏・東欧、イスラム圏からも抗議の声が上がったという。五輪のレスリングでは、西欧各国によるメダル獲得は少なく、反対に旧ソ連圏、東欧、イスラムのそれが多いという。日本もその仲間だ。

報道によると、IOCが五輪競技の採用を決定する条件はいくつかの事項の調査結果によるという。チケットの売上枚数、インターネットのアクセス数、TVの視聴率などがあるらしい。レスリングはルールがわかりにくく、世界的なレベルではTV視聴率も低く、また、若者からの支持もないという。古代オリンピックの象徴的競技であるレスリングは、IOCが実施した調査結果からすると、マイナーな競技になりつつあるというわけだ。換言すれば、レスリングの五輪除外には合理的根拠があるということになる。五輪に係る伝統的価値や象徴的価値は意に介さないというわけだ。

頭と四肢――西欧の身体思想

さて、はなはだ回り道的なアプローチであるものの、西欧の視点からスポーツとは何かを問うことも悪いことではなかろう。スポーツの原基は、身体の概念を探ることに代替できる。E・H・カントーロヴィッチ著の『王の二つの身体』によれば、団体は人間の身体に譬えられる。神秘体、有機体の思想だ。そこでは、キリストが頭(かしら)であって、教会は四肢(からだ)に当たる。その概念は王権に昇華し、王が頭であって、国(臣民)は四肢となる。いずれの場合でも、頭(かしら)と四肢(からだ)の間には明確な優劣の序列があり、四肢は頭に劣後する。

一方、日本人の身体に関する考え方はどうなのだろうか。いま、そのことについて明記した書物が思い浮かばないものの、たとえば、「心技体の充実」という言葉が象徴するように、心と体は対等な関係にあるような気がする。この言葉は、日本人が大好きな言葉の一つだ。日本人には、心もしくは頭(かしら)を上位として、四肢を貶めるような考え方はないような気がする。

さらに、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の諺から類推すると、火を涼しく感じる四肢のほうが心頭(かしら)よりも上位にあるかのようなイメージを感じる。 つまり、日本人にとっては、スポーツは頭と四肢が一体化した表現であり、頭(精神)と四肢(肉体)が共振する聖なるものとして尊ばれる。一方、西欧では、スポーツは四肢の躍動であり、頭(かしら)とは分離されたものと位置づけられる。だから、スポーツが占める位置は、エンターテインメント以上ではない。

ここで博学な人々からは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言をもって、筆者の立論に異議を唱えられることだろう。だが、この異議には、『Wikipedia』を参考にして、反証しておこう。

以下、『Wikipedia』からの引用である。
orandum est, ut sit mens sana in corpore sano――この一節は、古代ローマ時代の風刺詩人、弁護士である、デキムス・ユニウス・ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis)が『風刺詩集』第10編第356行に残したものとしてよく知られている。・・・英訳は(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。 そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。
ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。 以上の背景から、単に「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」、つまり願い事には慎ましく心身の健康だけを祈るべきだという意味で紹介されることがあるが、それも厳密には誤りである。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対し誘惑に打ち克つ勇敢な精神を強く求めていたことが窺える。
 その後しばらくは本来の正しい意味で使われていたが、近世になって世界規模の大戦が始まると状況は一変する。ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄し、軍国主義を推し進めた。
その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなった。このような誤用に基づいたスローガンは現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界を始めとする体育会系分野において深く根付いている。
現在は冷戦も終わり軍国主義を掲げる必要がなくなったことや、解釈によっては身体障害者への差別用語にもなりかねないことから、多くの国では身体と精神の密接な関係とバランスを表す言葉として使われている。

ここで明確なように、頭よりも四肢の優位を喧伝してきたのは、西欧では異端のナチズムであり、平和よりも相手を殺戮することを優先する軍隊であり、その思想をそっくり持ち込んだ、日本の体育会系団体等だ。

IOCの世俗性は評価できる

前出のとおり、IOCという団体には怪しさが漂う。報道では、五輪競技として「生き残る」ためには、IOCに対するロビー活動が必要だという。ロビー活動とは、言い換えれば、不正のことだ。それは、公式・正式な議場における代議員の審議を経て決定される正当な結論を、ロビーという非公式な場で覆す行為にほかならない。そこでは、賄賂等の受け渡しという利益誘導が潜んでいておかしくない。直接の金銭の受け渡しはなくとも、政界、財界、宗教界等の権力者の恫喝や便利供与も代議員にあっておかしくない。IOCにはそれが必要だという。ますます、怪しいではない。

だが、そういう政治性が物事の決定には必要なことのほうが現実なのかもしれない。IOCは怪しいが、しかし、少なくとも、世俗的だ。IOCは、五輪競技の決定を、マーケッティング的な手法に求め、しかも、ロビー活動の影響という現実的要素に委ねている。

このたびの「レスリング外し」から明確なように、IOCは古代ギリシアのオリンピアの祭典という神話・伝説に立脚しない。一方、事実上、ナチス政府が開催した五輪ベルリン大会は、五輪というイベントを通じて、「アーリア民族=ドイツ人」の力の誇示という疑似的な宗教性が潤色されていた。「民族の祭典」とは、そういうことだ。

いまのIOCは、五輪=スポーツをナチスのような宗教性・民族主義・排外主義から分断しようと努めている。そういう意味で、筆者はIOCに好感をもつ。日本人は、金メダルが取れる種目を失おうとしていることで、いろいろな想像をめぐらしているが、それはたぶん、見当違いだ。イスラム圏からの抗議もおそらく、見当違いだ。

IOCは非政治的傾向を強めつつあり、非宗教的であり、脱民族主義的であり、脱国家主義的であり、それは商業主義に帰着する。けっこうなことではないか。五輪=スポーツを政治利用したナチスに比べれば、彼らのほうがましであり、これからも商業主義を求めてほしいものだ。

IOCは、五輪=スポーツをエンターテインメントとして理解し、その高度化に向けて努力している。これを機に、日本人は、スポーツはあくまでも世俗的であらねばならないことを改めて認識し直す必要がある。

2013年2月13日水曜日

桜宮高校、生徒自殺問題に進展

大阪市立桜宮高校生徒が運動部顧問から暴力を受け自殺した問題について、事態が動いた。その動きをまとめると以下のとおりになる。

(1)この問題を調査する外部監察チームは、「顧問の行為は『暴力』で、男子生徒を自殺に追い込んだ要因の1つ」と認める報告書を、大阪市教育委員会に提出した。

(2)報告を受けた同市教育委員会は12日、この顧問の処分を協議し、懲戒免職にする方針を固めた。

(3)市教育委員会は12日、桜宮高校の改革担当顧問を新たに設置し、前全日本女子バレーボール代表監督・柳本晶一さん(61)を迎えることを決定した。市教委は、柳本さんがかつての体罰指導から指導方法を変え、低迷していた全日本女子チームを2度のオリンピックに導いた実績から顧問就任を依頼したという。

筆者は、この問題に係る橋下徹大阪市長(以下、肩書等略)の方針を支持してきた。先の入試中止措置については内容が折衷的で気に入らなかったが、外部監察チームの報告及び顧問の処分並びに改革担当顧問の設置等の措置については満足している。もちろん、これらの措置は市教育委員会の名の下に行われてきたものだが、橋下が圧力をかけなければ、教育委員会はここまで動かなかったはずだ。

なによりなのは、生徒の自殺が、顧問の暴力によるものであることが調査結果により明らかになったことだ。生徒の死をかけた告発が功を奏したことになる。そして、そのことが、日本のスポーツ界にはびこっていた暴力を根絶する方向に社会を動かしていった。そのことがなかったならば、女子柔道トップチームにおける暴力問題も明るみには出てこなかっただろう。

残された課題は、処分された顧問が法によって裁かれるか否かであろう。筆者の希望は、もちろん、警察・検察・司法が顧問の暴力を法の下に裁くことだ。そうなれば、自殺した生徒の魂も浮かばれるであろうし、残された遺族の気持ちも少しは楽になるのではないか。

逆に気になったのは、市教育委員会が桜宮高校の入試を中止したときに生起した、「橋下批判」の嵐であった。筆者は、繰り返しになるが、橋下の政治姿勢を容認するものではない。「維新の会」も支持しない。だが、個別この桜宮高校生徒自殺事件に関しては、橋下が大阪市教育委員会にかけた圧力は正解であった。こういう高校を廃校にすることは間違っていない。

そればかりではない。生徒が顧問に「殺された」に等しい教育環境(=桜宮高校)に新入生を迎え入れるべきではない(入試中止)。そんなことに、議論の余地がないはずだ。にもかかわらず、そういう当たり前の措置を大阪市教育委員会は積極的にはとろとしなかった。そして、マスコミ、同校在校生の一部、同校保護者の一部等は、事態の深刻さを自覚しようとしないばかりか、入試強行(連続性)を訴えた。

加えて、反橋下陣営は、〔入試中止=受験生が可哀そう〕という、訳のわからない感情論で同校改革の流れを阻止しようとした。橋下を「暴君」と評した言論人もいたという。彼らは、橋下はこの事件を売名行為として利用としている、と批判したそうだが、まったく見当違いだ。反橋下陣営が、「入試中止」を政治的に利用しようとしたのだ。

桜宮高校に内在している暴力は、日本のスポーツ界全体に内在している悪しき暴力主義以外のなにものでもない。それは、「伝統」「根性」「精神力」「愛の鞭」「指導」という美辞麗句に名を変えて、スポーツをする若者を苦しめ続けてきたのだ。だから、橋下は、桜宮高校を潰そうとした。橋下は積極的に“悪しき日本”と対峙しようとした。そういう意味で、橋下の政治的センスは鋭い。凡庸な、名ばかり「改革派」ならば、そこまではしない。だから、橋下は油断ならない存在なのだ。

2013年2月12日火曜日

東京・五輪招致に反対する



先般、アート系のイベントに行ったとき、入場受付カウンターにこのバッチが無料で配布されていた。

東京にオリンピックを、というのが国民の総意のように報道されているが、そうは思えない。

東日本大地震並みの大地震再来に対する不安、収束できない福島原発事故の影響、そしてなによりも、3.11被災地の復興もままならない。

打つべき手の優先順位が狂っている。

そんな気がする。

2013年2月10日日曜日

Re Cafe

谷根千 にはカフェ、レストラン等の飲食店や美容院が多い。

最近のものはみな、オシャレで現代的だ。

ヨーロッパにあっておかしくないような店もある。

Re Cafeは谷中銀座商店街から路地を一歩入ったところにある。

店内では古着、雑貨等が品揃いされていて、一台の小テーブルでお茶も飲める。
店内
同上

@Yanaka

2013年2月6日水曜日

最近の猫たちの動向

Zazieは夜中の3時と5時ころに騒ぎ出すようになった。うるさい。
ますます人なれしてきたNico
同上
同上

2013年2月1日金曜日

五輪東京誘致を撤回せよ――相次ぐスポーツ不祥事の発覚

ロンドン五輪代表を含むトップ選手15人から暴力行為とパワーハラスメントを告発された柔道女子日本代表の園田隆二監督(39)が1日、全日本柔道連盟(全柔連)に進退伺を提出した。このことで、日本のトップチームにも暴力が横行していることが明らかになった。というよりも、マスメディアを含む関係者はすでにこのことを認識していたのだと推測する。知っていても、書かない、言わない、問題にしない、というのが日本のスポーツ関連メディア業界の際立った特徴である。

自殺者を出した大阪市立桜宮高校をはじめとする高校の運動部、柔道五輪金メダリストの内柴正人による、セクハラ犯罪を筆頭とする大学の体育会、そして、このたびの柔道日本代表チームというトップカテゴリーに至るまで、日本のスポーツ界は「指導者」による暴行、パワハラ、セクハラ、が横溢しているではないか。

先に当コラムで書いた通り、日本のスポーツ界を犯罪天国にしてしまったのは、指導能力をもたない者が「指導者」となったことによる。指導能力よりも選手としての実績がものを言い、指導理論よりも精神論と根性論が先行している。そのため、日本のスポーツ界では「指導者」がもっとも安易な指導方法として暴力を用いることになってしまった。

日本のスポーツ界においては、監督・コーチ(以下、「指導者」という。)と選手の関係をいえば圧倒的に前者が優位にある。選手が独立した事業主として指導者と接するプロ契約選手以外の場合(日本ではアマチュアスポーツと言われるのだが。)には、そのことがきわめて顕著となる。

日本のアマチュアスポーツは、建前上、教育の一環となっているから、必ずしも運動能力ばかりが選手の優劣を決めるとは限らない。品行・言動、キャプテンシー、練習への取り組み姿勢・・・が勘案され、指導者はレギュラーを決める。スポーツをするために高校・大学に入った生徒・学生にとって、レギュラーか控えかは、最も重要な決定事項である。

たとえば、あのバカ騒ぎで有名な甲子園大会の場合、ベンチ入りとそれ以外とでは、待遇、評価、世間の目において、天と地ほどの差がある。さらに、控えとレギュラーとでも同様の開きがある。野球をするために野球強豪校に入学した高校生にとっては、甲子園大会に行けるかどうかは重大問題であり、さらに甲子園で実際にプレーするか否かは、将来にかかわる。それを決めるのが「指導者」であり、「指導者」しか決められない。だから、選手にとって「指導者」は絶対的存在となってしまう。「指導者」の権力の源泉はそこにある。だから部員たちは「指導者」がふりかざす不条理な暴力に屈せざるを得ない。「指導者」に異議を唱えれば、その部員の居場所はない。野球ができなくなった野球特待生は必然的に転校、退学を余儀なくされる。

高校経営者も野球が強ければ、その方法は問わない。甲子園大会に導く「指導者」に全幅の信頼をおく。保護者、地域社会、メディアも同じ考え方にある。だから、高校野球部員に不祥事が多発しても、その根源を暴こうとしない。「強ければそれでいい」のである。

下は野球のリトルリーグ、上は日本代表トップチームに至るまで、「体罰」「しごき」「暴行」「セクハラ」「パワハラ」がまかりとおっているのが日本のスポーツ界の現状である。こうした実態を直視するならば、日本のスポーツ界は以下の決断をすべきであろう。

(1)石原~猪瀬が引っ張る五輪東京誘致運動の即刻撤回

(2)指導者ライセンス制度の創設

(3)すべてのスポーツ団体を対象とした実態調査の実施

(4)暴力指導者永久追放

(5)体罰、暴力、パワハラ、セクハラのあったスポーツ団体の解散

(6)トップアスリートによる暴力追放啓蒙活動の実施

(1)については、日本が世界的スポーツの祭典を開催する資格のないことをとにかく、いま自覚する契機とするためである。この期に及んで、日本のスポーツ界が美しいとは言えまい。青少年の範とするとも言えまい。五輪で浮かれることよりも、その汚れを落とすことをいま最優先とすべきなのである。

(2)については、霞が関の権益とならないよう、民間主導によるライセンス制度が望ましい。スポーツを科学する学部・学科・研究機関の設置も急がれる。

(3)~(5)は一体の事業で、調査による実態解明から処分に至る過程である。処分の結果として、日本のスポーツ界が一時停滞、弱体化しても仕方がない。

(6)については、今日、元読売ジャイアンツの桑田真澄氏の「体罰不要論」の発言が際立っているが、桑田氏だけでなく、トップアスリートのすべてが、反暴力キャンペーンに参加してもらいたい。

日本のスポーツ界は歪んでいる。高校生の課外活動であるスポーツが完全にエンターテインメントの有力コンテンツに成長したことから、そのことは始まっている。このことは何度も繰り返し書いた。勝利至上主義のメダルの表裏にあるスポーツ美談、裏話、アマチュアリズムを含めて、スポーツがメディアによってもてはやされ、歪められ、次第にその本来性を喪失している。高校生の課外活動がプロスポーツよりも高い付加価値がつけられ、消費されていく。そのことによる内部の腐敗の深化には目をつぶり、隠ぺいする。やがてその歪みが、強い地震のような衝撃となって社会内に噴出する。スポーツ高校生の自殺、パワハラ、セクハラ、暴力の恒常化である。何度も繰り返すが、この歪みは、無知な「指導者」、社会の勝利至上主義の共謀により、メディアによるエンターテインメント化によって増幅されているのである。この連鎖を断ち切ることができなければ、いずれ日本のスポーツ業界は滅びるにちがいない、いや、一度、滅びたほうがいい。

2月がスタート

2013年も、あっというまに一カ月が過ぎて、はや2月。 きょうは暖かい。

猫の体重測定をしたので書いておく。

Zazieが2.3㎏で先月からなんと400gの減、

Nicoが6.1㎏で先月から変化なし。

Zazieが減りすぎでちょっと心配。

肩、背中に乗りたがるようになったZazie
Nicoは、日に日に、飼い主に接近してくるようになった。

2013年1月22日火曜日

橋下の負けだ

大阪市立桜宮高校でバスケットボール部主将だった2年の男子生徒が顧問教諭の体罰を受け、自殺した事件で、市教委は21日、臨時の教育委員会議を開き、今春の体育系2科(体育科80人、スポーツ健康科学科40人、定員計120人)の募集を中止し、同じ定員を普通科に振り替えて募集することを決めた。ただ、選抜時期や入試科目は従来の体育系2科と同じ内容とし、受験生に配慮する。

教育委員会決定はきわめて折衷的

この決定は橋下徹大阪市長(以下、肩書略)が描いた桜宮高校改革の第一歩だと評価できるが、きわめて折衷的なところが不満だ。同校の入試はスポーツ関連学科=前期選抜と、後期選抜の普通科(160人)を予定していた。このうち前期選抜の体育系2科を普通科としたものの、新たに普通科とした前期選抜分については、入試科目を体育系2科と同じ国語、数学、英語、運動能力、運動技能の5つとし、入学後のカリキュラムについても、スポーツに特色のある内容とする。通学区域も体育系2科と同じ大阪府内全域とする。つまり、体育系2学科の試験は実施されないが、普通科に看板を架け替えただけにすぎない。橋下もマスメディアがヒステリックに叫ぶ「受験生が可哀そう」の合唱に抗しきれなかったようだ。

生徒有志の市役所内会見の発言に呆れはてる

試験中止のTV報道番組の中に同校の生徒数名が、橋下に対する不満、批判を公衆の面前で行っていたシーンが流れた。市長会見の直前に運動部の主将を務めた8人の生徒が市役所内で記者会見を開き、入試中止の決定に反対を表明した。発言内容は断片的で正確には把握できないのだが、「なぜ高校生の私たちがこんなにもつらい思いをしないといけないのかわかりません」「体育科をなくしたからといって、クラブ活動のなかで体罰がなくなるとか、そういうことにつながらないと思う」「いま1つしかない一瞬のことが、を全部潰されているようにしか思えない」……というものであった。

筆者はこの生徒たちの浅はかさ、薄っぺらさに唖然とした。この生徒たちの橋下批判の映像は、首から上がカットされていて、発言も部分的で全貌はつかめない。もちろん、彼らの発言が公式文書として配布された様子もない。

この映像を流したTV番組のコメンテーターの尾木氏は、学校側や一部保護者の入れ知恵ではないか、と批判した。おそらく、そのとおりであろう。会見した生徒たちの発言からは、学校側が体罰自殺をどう反省し、生徒に教えてきたのか、疑問を感ぜざるを得ない。尾木氏は「これが生徒のすべての声とは受け止められない。なぜこんな会見をやらせたのか。誰がやらせたのか。とんでもない。(会見をやるなら)生徒会長や部長が出るとか、生徒会長名で声明を出すべきです」と怒った。まったくそのとおりだ。

その背景として、尾木氏はこうも付け加えた。「この学校は体育科がメインで、強くなければいけない使命を背負っている。進学重点校の体育版です。橋下市長はそれがゆがんで出てきたと捉えた。校長の言うことを聞かない。校長の権限が及ばず、私物化されている。これは高校教育全体の構造で、全国の高校が自己点検すべき中身が含まれているんです。桜宮高設置のあり方を見直し変えていく第一歩です」

繰り返しになるが、筆者はこの映像を見て驚いた、というよりも、この生徒たちのことをアホかと思った。同胞の自死をわがこととすることのできない未熟さに呆れてしまった。この映像によって、桜宮高校の教育が根本的に間違っていることが確信できた。やはり、橋下が言うように、桜宮高校は廃校にしなければいけない。

体罰は学校、教師(顧問)、保護者、生徒の容認事項

桜宮高校の運動関連学科に生徒を通わせている親及び通学している生徒たちは、生徒たちが3年間スポーツに専念し、優秀な成績をおさめて学校推薦で有名大学(の体育会)に入学することを目論んでいるとしか思えない。彼らが望んでいるのは顧問に叩かれようが蹴られようが我慢して、スポーツ大会で優勝することなのではないか。そんなおり、その暴力に追い詰められた一人の生徒が自殺した。

正常な教師、生徒、保護者が過半を超える高校ならば、生徒の自殺の原因について真剣に考え、二度と起こらないような再発防止の方策を構築するよう努めるだろう。その原因が顧問の恒常的暴力であることがほぼ明らかならば、生徒指導のあり方を根本から改めようと努めるだろう。校内に横行する不条理な暴力が一掃されるまで、新しく生徒を受け入れること(入試)を控えるだろう。恒常的に暴力を加えていることが明らかな顧問(教師)にはそれ相応の処分が必要だと考えるであろうし、そのことを見逃していた校長以下の管理者も処分されて当然だと考えるだろう。

ところが、管見の限りだが、この事件に係る桜宮高校の総括的見解が聞こえてこない。今後の教育方針の転換の内容も聞こえない。当事者である顧問及びその管理者である校長の反省の弁も聞こえない。教育委員会というノッペラボウの教育官僚の事務的会見のみがTV映像に流れるばかりだ。橋下が入試中止と発言したことにより、マスメディアは生徒の自殺問題から、橋下批判に報道内容の舵を切ってしまった。なんと不幸なことなのか。

校長、顧問は自ら教育現場から身を引け

暴力顧問、校長が教育者の端くれならば、そして一人の人間であるならば、自身が行ってきた生徒に対する恒常的暴力=虐待を反省し、教育の現場から自ら離れるのが人の道というものではないか。

2013年1月20日日曜日

谷中の路地の雪蛇

 
 
雪が降ってから一週間近く経つが、溶けない雪の蛇

@Yanaka

改めて巳年

諏方神社
根津のBar.Hidamariでいただいた御年賀の手ぬぐい
同上
谷中の路地の雪だるまならぬ雪蛇。なかなか溶けないぞ
13年前に中国・雲南省の麗江でゲットした木製の皿。

2013年1月18日金曜日

ガンバレ、橋下

筆者は橋下徹大阪市長(以下、肩書略)が嫌いだ。当コラムにおいて幾度となく批判してきた。だが、このたびの大阪市立桜宮高校バスケ部生徒自殺事件に関しては、橋下の発言を全面的に支持する。

自殺した生徒の命を無駄にしないため、桜宮高校をせめて廃校にせよ

橋下の発言については報道が断片的でわかりにくいのだが、筆者なりに解釈すると以下のとおりとなる。

(一)桜宮高校の廃校を目指すこと。

(二)同校のスポーツ関連学科の廃止を早期に実施すること。

(三)今年度の同校スポーツ関連学部の試験を中止すること。

(四)同校における人事異動を年度内に行うこと。

(五)上記(三)及び(四)が教育委員会において年度内に実施されなかった場合、次年度、同校における関連予算を執行停止すること。

橋下発言は項数ごとに段階を追っていて、(一)(二)の実現が年度内はもちろんのこと、短期的に実現するとは思っていないような節がある。早期に実現すべきは(三)(四)であり、その実施の武器として、(五)を持ち出したのだろう。というのも、地方自治体における教育については教育委員会に実施権限があり、首長といえども簡単には踏み込めないからだ。首長と教育委員会が教育問題で対立した場合、首長は教育委員会に対して予算執行権限で対抗する以外にない。

さて、バスケ部生徒自殺問題の原因については前回の当コラムで詳述したとおりだ。自殺のあった桜宮高校の体育関連学科というのは、スポーツ関連の教育を目的としたものではない。同校の場合、

(A)体育系学科に優秀なスポーツ選手を集め、

(B)それらの生徒を課外活動である体育系部活動に所属させ、

(C)彼らを顧問が暴力を使って練習させ強化し、 

(D)各スポーツ大会において優秀な成績を上げさせ、

(E)同校の知名度を高め、

(F)さらに受験生を増やし、

(G)かつ、大学に用意されたスポーツ選手枠を通じて有名大学進学率を高め、

・・・

というメカニズムを構築しているのだ。簡単に言えば、同校の体育系の部活動、たとえばバスケット部、バレー部等が高校生の大会で優秀な成績を上げることによって、桜宮高校は大阪市内有名校として君臨していることになる。

桜宮高校が体育関連学科の名の下に入学させた生徒は、同校が各スポーツ大会で優勝するためにただひたすら部活に励むことになる。もちろん入学した生徒全員がそうだとは言わない。スポーツ全般を学び、体育系大学に進学したい、という志望をもった生徒もいるだろう。ただ、問題はそんなところにあるのではない。同校において、体育系部活動の顧問の恒常的暴力(断じて体罰ではない)によって生徒が自殺に追い込まれた原因を真剣に求めるのならば、この高校に特設された体育系学科の主たる目的が、全国レベルで行われる各競技大会において優勝するために活用されてきた実態に着目することこそが重要なのだ。

体育系学科の目的は、スポーツを科学することにあるのではないのか。優秀な競技者を生むことよりも、そのよき指導者を育成することのほうに力点は置かれるべきではないのか。さらに社会科学的分野においては、現代社会におけるスポーツの意味を問うことではないのか。体育系学科に課せられた、この2つの本来的課題に取り組む教育が実施されていたならば、顧問の暴力が同校において起こり得るはずがない。もちろん、それによる生徒の自殺が起こるはずもない。

ならば、若い尊い生命を賭して告発された同校の悪しき体質を一掃するためには、今年度の入学試験(体育系学科)を中止すべきだ。新年度の人事の一新(=校長、体育系学科責任者、暴力顧問の辞任等)ももちろんであり、最低限の措置となる。入学試験の中止は大きな社会的混乱を生起するという懸念は無用だ。というのは、わが国において、1969年、当時、新左翼系学生運動の活発化の影響により、東京大学、東京教育大学(現・筑波大学)の2校の入試が中止になったことがあったが、それによる大きな社会的混乱は生じていないからだ。当時、マスメディアもそれによって誘導された世論も、入試中止に賛成した。もちろん、両校の体育系部活動(体育会)に影響はあったであろうが、そんなことに社会は関心を示さなかった。当然である。

高校生スポーツ・イベントの巨大化が問題の根源に

さて、大阪市立桜宮高校バスケ部生徒自殺問題における行政措置としては、前出の5項目を(五)から(一)へと順次実施していく、という道筋が見えてきた。次は、この問題をわが日本国の高校生スポーツの実態上の問題として解決する道筋を構築することにある。それこそが、若い命の犠牲に償い、かつ、報いるための唯一の道だろう。

いま、わが国おいてスポーツは大きな産業に成長している。スポーツ用具製造業者、ユニフォーム等を製造するアパレス業者、食料品・飲料品業者、製薬業者、メディア業者・・・オフィシャルサプライヤーを含めれば、全業界がスポーツと無縁ではない。しかもそれは全世界に及ぶ。そのことによって、スポーツイベントは大きな意味を持ってきた。それぞれのスポーツごとに世界大会が開催される。頂点はサッカーワールドカップであり、世界陸上、ワールドベースボールクラシック・・・と、各国、各都市が世界大会誘致に血眼になっている。その頂点の1つがオリンピック(五輪)ということになる。

スポーツの巨大産業化は、それが有するエンターテインメント(娯楽)性にある。スポーツは面白い。このことに議論の余地はない。世界規模で巨大なエンターテインメント・コンテンツに成長したのが現代スポーツなのだ。だから、アマチュアもプロも関係はない。一昔前、五輪ではアマチュア精神が遵守されていたことがあったが、いまはアスリートがプロなのかアマなのか、だれも気に留めない。国民的人気を誇るフィギュアスケートの浅田真央がプロなのかアマなのかを判別することすら不可能だろう。

エンターテインメントとしてのスポーツは今日、それぞれがカテゴリー化を成し遂げて、さらに拡大を遂げている。男女の別、地域の別、年齢の別、社会的属性の別・・・だ。細かくは体重別というのもある。オーバーオールであれば世界王者は一人しか存在し得ないが、それをクラス(体重別)に分ければ、複数のチャンピオンが生まれることになり、世界タイトル戦という興行は複数にのぼる。

日本では、社会的属性別のスポーツコンテンツが有力なものとして成長している。そこでは昔懐かしいアマチュア精神の純粋性が尊ばれる。大学野球の早慶戦、大学ラグビーの早明戦、実業団野球=都市対抗などが有名だが、学生スポーツの、しかも、なかで異常な人気を誇っているのが高校野球の「甲子園大会」だ。

そしてさらに、その影響を受けて、わが国では高校生スポーツの人気が異常に高くなっている。野球の母国米国ではハイスクールベースボールの注目度は低い。米国で人気があるのはカレッジフットボール等くらいではないか。

高校生スポーツはもちろん、繰り返しになるが、一般の部活動の枠を越えている。全国レベルで活躍できる高校生たちは、その実態においてプロフェッショナルと同等だ。もちろん報酬は得ていないが、高校三年間、そのスポーツに集中できる境遇というのは、少なくとも、プロ的であることはまちがいない。

高校生スポーツを巨大なエンターテインメント=イベントに高めたのは、メディアの力にほかならない。甲子園大会の巨大化は、NHKと朝日・毎日の二大新聞の力に負っている。その成功を模範として、読売・日テレが高校サッカーを、毎日・TBSが高校ラグビーを、フジ・産経が高校バレーを巨大化させようとしている。自殺した大阪市立桜宮高校の生徒は野球、サッカー、ラグビー、バレーよりはマイナーなバスケットをやっていたそうだが、同校はバスケの強豪校であり続けるため、暴力顧問をなんと、18年間も在籍させていた。こうして、メディアが高校生スポーツを悪戯に礼賛することによって、高校生の課外活動にすぎなかった運動部のスポーツはことさらゆがみを増していくことになる。

それだけではない。少子高齢化により生徒数が減少して危機感を抱くようになった学校経営者が、経営戦略として、スポーツ強化という方策を打ち出した。このことはすでに何度も書いたので繰り返さないが、大阪市立桜宮高校バスケ部生徒の自殺の原因もそこにある。

桜宮高校は公立高校であるが、生徒が集まらなければ廃校も選択肢としてまるでないわけではない。また、スポーツ有名校として大阪、関西で君臨することによって、そこに配属された教師も悪くない待遇を得ることができる。生徒に暴力を振るってでも、スポーツ大会で優秀な成績を上げれば、指導者(コーチ)としての評価が高まる。その証拠に、この暴力顧問教師がバスケットボール日本代表の年齢別チームのコーチに抜擢されているくらいなのだ。ここに倒錯も極まれるというものだ。また前出のとおり、スポーツ有名大学への推薦枠も増えていくため、同校の有名大学進学率も高まる。

 最後に、繰り返して言う。日本のスポーツ界は時代錯誤にある。運動能力を高めるために必要な心身のトレーニング技術を磨くことはなおざりで、選手を暴力で支配する指導者を優遇している。この事件を踏まえ、高名なスポーツ関係者が、「体罰」の非合理性を説くようになった。けっこうな傾向だ。彼らスポーツ成功者の発言こそが説得力を持つ。

体育系学科創設の目的そしてその教育内容は、スポーツを科学すること、及び、スポーツを社会科学として研究・分析すること等ではないのか。そして、結果として、それがよきスポーツ指導者の育成につながるのではないのか。もちろん、実技の向上も必要だ。

大阪市の教育委員会が教育の原点に返ろうとする意志をもっているのならば、さらに歪んだ高校スポーツのあり方を是正しようと思うのならば、大阪市立桜宮高校の廃校もしくは体育系学科の廃止を急ぐよう努めるべきだ。

また、高校を受験しようとする中学三年生が心配なのは理解できる。だが、桜宮高校の入学試験が中止になることによって、一人の高校生の死について深く考える機会を得たと受け止めてほしい。

マスメディアは、入試中止を迫る橋下の発言を「教育への介入」だと歪めてはいけない。今回の問題に限定だが、橋下の側に理はある。

2013年1月15日火曜日

雪(1月14日)

 
昨日、東京地方は突然、降雪に見舞われた。
 
降り始めて1時間もしないうちに、雪はみるみるつもり、あたりを銀世界に変えた。
 
交通機関は運休となり、まちから人が消えた。
 
とんだ三連休最終日(成人の日)であった。(写真は谷中霊園)
 
 
 


雪だ(1月14日)

東京地方に突然雪が。あっというまに積もった(谷中霊園)
同上
谷中天王寺
同上
墓標も積雪
同上

2013年1月11日金曜日

責任は橋下大阪市長と「甲子園」――大阪バスケ部生徒自殺事件

大阪市立桜宮高校2年の男子生徒(17)が、所属するバスケットボール部顧問の男性教諭(47)から「体罰」を受けた翌日に自殺した。筆者は、この問題の責任は、大阪市行政のトップにある橋下市長(以下、肩書略)及び「甲子園」を筆頭とする歪んだ高校スポーツを礼賛するマスコミ(そして、それに靡く社会風潮)にあるものと考える。

まず橋下――
彼は、大阪市行政改革の目玉の1つとして、教育改革を前面に打ち出していた。にもかかわらず、今回の事件の発覚により、彼の大阪市における教育改革が一向に実績を上げていないことが明らかになった。橋下は、国歌を歌わない教師に厳罰を処することに熱心である一方、生徒に恒常的に暴力をふるう部活顧問の教師の存在を簡単に見逃しているのである。国政(=日本維新の会)の活動に没頭して、肝心の市政が手抜きになっている。橋下の教育改革がまやかしであることは、このことをもって、明らかではないか。

彼の教育改革は偏向したものであって、彼の独自のイデオロギーに毒されている。橋下はまずもって大阪市の高校生が安心して課外部活動に励める環境を教育現場において、実現すべきなのである。橋下が市教育委員会を批判することはできない。橋下は市長なのであるから、教育委員会のトップでもある。橋下は市長として、暴力が日常的に横行するような高校をまずもって一掃すべきである。

橋下とつるんだマスコミは、この件に関する橋下の責任を追及しない。おかしいではないか。報道によると、暴行を加えた顧問は公立高校に勤務しながら18年間も異動していないという。公立高校の教育現場にあって、教師が18年間も異動せず、一つの高校にとどまるとは、常識では考えられない。教員人事に係る基本が蔑にされているのが、大阪市の教育現場なのである。そんなことにも気づかない大阪市上層部は情けない、もちろん、市長失格である。しかも、桜宮高校における顧問による暴行事件はこれが最初ではなかったという。大阪市のトップとして、橋下は責任を感じなければいけない。大阪市民は、「維新の会」などどうでもいいのである。なによりも、大阪市の市政(その一つである教育=高校のあり方)を糺すことが、市長の責任なのではないのか。  

橋下と共犯のマスコミ――
次に、今回の事件の報道のあり方の問題を指摘する。この事件を「体罰」という抽象的領域に導こうとする報道姿勢である。自殺の原因は「体罰」によるものではない。この高校生の自殺は、「体罰」もしくは「指導」という名を借りた恒常的暴力によるものである。なぜならば、スポーツの指導において、暴力の力で技術や体力が向上することはないからである。人々を動かすのは“恐怖=暴力”か“打算=利害関係”のどちらかだ、という極論が跋扈するわが日本国であるが、この二つが一時的に人々を動かすことはあっても、それによって築かれた規律はいずれ破綻する。今回の事件がその良き例である。体罰=暴力がスポーツ能力を向上させることはないにもかかわらず、そして、それにより若い尊い命を失ってもまだ、マスコミや一部のスポーツ関係者は、暴力による指導=体罰の有効性を声高に叫んでいる。なんと、愚かなことであろうか。暴力顧問が行った「指導」はいままさにここに破綻しているではないか。

重要なのは、技術、人格において優れたスポーツ指導者をすべての高校が擁することである。スポーツ指導の最低限の知識・経験を有する者が同校の部活指導者として配されていたならば、このような悲劇は防げた。

体罰による「指導」があったならば、その被害者は直ちに警察に駆け込むことである。ところが、この一見簡単そうに見える逃避行為が実はなかなか難しい。とりわけ、桜宮高校のようなスポーツ有名高校においては、スポーツ特待生という境遇の生徒が少なからず存在するからである。自殺した生徒が特待生であったかどうかは不明であるが、スポーツ有名校の場合、全国からすぐれたスポーツ選手を集めてくる。彼らは課外活動である体育系部活動の枠を越えた運動部に属し、ただひたすら高校の名前を全国に売るため、練習を重ね、試合に勝つことだけを義務付けられる。「スポーツをする=試合に勝つ」ためだけに高校に入った彼らには、顧問や先輩に暴行されようとも、所属する体育系部活から逃げ出すことができない。部活を辞めることは、すなわち学校を辞めることを意味するからである。

今回の生徒の場合はバスケット部に属していたというから、その頂点を争う大会はインタハイ(全国高校総合体育大会)になるのだが、インタハイの規模をはるかに超えているのが、高校野球の甲子園大会である。インタハイ、野球の甲子園大会、サッカーの国立、ラグビーの花園・・・と高校生のスポーツは、学校経営のみならず、マスメディアの有力な収入源となっている。これらの大会で優勝するために行われる指導(練習)が、通常の高校生の課外活動の領域をはるかに超えたものであることを知りながら、政治家、教育行政関係者(公務員)、教育の現場(教師)、知識人、マスメディアは、その弊害について真剣に取り上げてこなかった。彼らは、高校教育の枠を越えた生徒集め(スカウティング)、指導(練習)の実態について批判をしてこなかった。スポーツ有名校の顧問たちが勝つために行う生徒に対する暴行を黙認してきた。管見の限りだが、日本の高校スポーツのあり方を批判したスポーツ関係者は、ブラジル出身のサッカー評論家・セルジオ越後氏以外に知らない。

というわけで、スポーツが得意な若い命を追い込んで失わせてしまった第一の責任は、大阪市の教育改革に真剣に取り組んでこなかった橋下大阪市長にある。そして、第二の責任は、勝利至上主義の歪んだ高校スポーツのあり方を批判してこなかったマスコミにある。橋下を支持する大阪市民も共犯である。さらにいえば、甲子園大会等の異常な高校スポーツの現状を熱心に支持する日本国民にも、その責任の一端はある。若い尊い命の犠牲から、大阪市民、日本国民が反省し学ぶべき点は少なくない。

2013年1月3日木曜日

正月2日

寺もいかにも、正月らしい
庭に不思議な像。仏像か
@Yanaka

正月2日

不忍池にて開催されている骨董市に出かける。
骨董市では、掛け軸、湯呑み、木製フォークをゲット
寛永寺を通って帰宅

謹賀新年

正月2日、不忍池~上野桜木~谷中霊園 を散策
霊園の中、こんな看板を発見
「谷中の猫」が有名になる反面、猫の悲劇も増えているのだ。当方も、以後、霊園内猫の写真の公開を自粛する。

@yanaka

2013年1月1日火曜日

Happy New Year 2013

新年あけましておめでとうございます。

まずは猫たちの体重測定記録から。

Zazieは2.7㎏、Nicoは6.1㎏で、前者が0.1㎏、後者が0.2㎏の増量。

正月早々、頭が痛いNico
正月なんか関係ないZazie

2012年12月23日日曜日

ネット選挙を解禁せよ

今回の自民党大勝総選挙結果については、サッカーのオウンゴールに譬えられる場合が多い。民主党の自滅、第三極の準備不足等が自力のある自民党に有利に働いたという譬えだ。しかし、サッカーでいうならば、相手チームの選手がことごとくレッドカードで退場していなくなり、自民党がやすやすとゴールを量産して大勝した試合展開に最も近いものがある。

その一方、一票の格差の違憲状態が改善されずに総選挙が敢行されたことは、この選挙自体に正当性が認められないわけであり、無効ではないのか。つまり、正式なルールに基づかない試合なのだから、オウンゴールもレッドカードもない。そのことが第一。

とはいえ、総選挙は行われ、野田民主は大敗し、自民党が再登場した。国民がいやがる増税を「決断」することが大政治家の力量であると盲信した野田。彼がだれにどのように洗脳されたかはわからないが愚かだ。彼は自分のことを正直の上にバカがつく者だと自己規定したが、正直がつかないバカそのもの。マニフェストを破った大ウソは証明済みなのだから、野田が正直だと思う国民は皆無だ。

自民党大勝により国民が警戒すべきは、改憲の流れだ。安倍自民党は参院選までは「改憲」を表に出さず、インフレ誘導策によってミニバブルを引き起こす。その結果、株価、地価等が高騰し、それをマスメディアが経済の回復だと誤報すれば、国民はこれで何度、騙されたことになるのだろうか。経済の実態において実需に向かわない余剰マネーがインフレ誘導策で行き場を失い、資産投機に走りだしたのにすぎないのに。

そんな「アベノミックス(ミニバブル誘発政策)」を国民が支持し、参院選で自民党が単独過半数を得れば、改憲は具体的な日程にのぼる。維新、みんな、民主の一部(旧自民及び旧日本新党の残党)も当然、改憲になびいているから、改憲は国会内において現実の流れとなる。日本の改憲、すなわち国防軍改名、集団的自衛権の発動の現実化によって、日本の軍事力膨張を目の当たりにすれば、それを危惧する東アジア各国の緊張は一気に高まる。日中間の軍事衝突もあり得る。それでも有権者は、投票行動を規定する価値観において、「経済回復」を最優先順位とするのだろうか。

自民党はすべての原発の再稼働及び新設をも辞さないかまえだ。核燃料のゴミの再処理及び貯蔵問題の具体策もない。もちろん安全基準も国際水準以下のまま。福島、被災地は見捨てられたままとなる。

さて、今回の総選挙における最大の変移は、選挙運動におけるインターネット活用の是非が現実化したことではないか。マスメディアは、その合法化によって選挙広告掲載料、選挙CM放映料等の減収が予想されるところから、この件については熱心には報じない。

しかし、立候補予定者にとっては、媒体料金、印刷料金、郵送費用等が大幅に節減できるところから、ネット活用の合法化は強い願いとなっている。有権者にとっても、選挙運動中の立候補者の約束が簡易に比較閲覧でき、かつ保存可能なところから、当選後の変貌さえもチェック可能だ。 ネットユーザーが選挙に関心を示せば、棄権者が減少するかもしれない。つまり、有権者の投票意識が変わり、投票行動を変える可能性もある。そのことは当然、政党支持率に変化を生じさせるだろう。そればかりではない。選挙運動をネットに限定した立候補者が現れる可能性もあり、ネット活用が日本の選挙そのものを変える。ネット解禁こそ急務でなくて、なんであろうか。

2012年12月21日金曜日

有権者は民主党を許さなかった

◎世論調査どおりの結果に終わった総選挙

総選挙は自民党の圧勝で終わった。事前に各報道機関等が行った「獲得議席予想」等と称する調査結果どおりだった。2000人程度を母数とした調査が国家規模の選挙の結果を十分予想し得るのである。統計学とはこういうものなのだな、と改めて感心した次第。“世論調査ほどいい加減なものはない”という一部の識者の断言は根拠がないことが証明された。

事前の選挙調査結果を大雑把にまとめれば、以下のとおりだった――▽およそ4割が「支持政党なし、もしくは投票先未定」、▽支持政党の1位は自民党だが、他党(民主、第三極・・・) と大差つかず、▽第三極といわれた新党はドングリの背比べ、▽卒原発=反原発を前面に出した日本未来の党は支持率が伸びず・・・であった。

◎「支持政党なし」「未定」は棄権 に

実際の総選挙の結果もそのとおりとなった。まず、棄権が約4割。これは事前調査における「支持政党なし、未定」にそっくり該当する。比例区の議席獲得結果は、事前調査の支持率の比率を概ね反映した結果に。つまり、自民党の獲得議席は57(民主党30)にとどまった。ところが、小選挙区では自民党237で民主党30を天文学的に上回った。選挙区自民党の固定的支持層が自民党に投票し、その数がその他の政党を上回った結果である。

棄権の4割は、民主党には絶対に投票しないかわりに、ほかの政党にも入れる気がしない、よって投票に行かないと決めった層ではなかったか。

◎有権者は「民主党憎し」の思いを晴らす

今回の総選挙は、有権者が自民党を支持したというよりも、民主党憎し、民主党だけは許せない、民主党に裏切られた恨みを晴らす・・・という有権者の意思表示以外のなにものでもなかった。「民主党憎し」の投票行動としては、消極的意志表示として「棄権」であり、積極的なそれとしては第三極等への投票となったが、後者はすべて死に票で終わった。

投票は政策を見極めてといわれるが、小党乱立の今回のような状況では、政策が入り組んで提示されたため、有権者にとって選択が難しい。たとえば、自民党の経済優先については是とするが、原発推進は困るとか、維新は官僚体制打破のスローガンは是だが、憲法改正は困る…といった具合だ。

このような状況では、支持政党をもたない無党派層は、最終的な価値判断として、「民主党憎し」のみが拠り所なり、民主党は固定的支持母体である労組組織を獲得したにとどまり惨敗した。

◎小鳩は泥船を脱した

総選挙の敗北を予期した民主党創設者・鳩山由紀夫元首相及び小沢一郎元幹事長(以下、「小鳩」と略記)は、沈みゆく野田民主党の下を離れ、大敗北の惨状からいち早く逃亡した。当然である。

自民党から政権奪取に成功した民主党であったが、その立役者であった小鳩はともにマスコミの報道テロで党内主流から追放をうけ、民主党は旧日本新党(細川派=松下政経塾派)にのっとられた形となっていた。このたびの、野田の「自爆テロ解散」の敢行も細川の示唆であるとの噂もあった。

小沢は日本未来の党へと緊急避難し、鳩山は政界引退をした。二人の政治家としての前途ははなはだ暗いが、少なくとも、惨敗の汚名を着ることだけは免れた。賢明な選択だと思う。

◎大勝・安倍自民は暫定政権

大勝した自民党だが、勝負は来年夏の参院選だという説が流れていて、筆者もその通りだと思う。今回の選挙は、前出のとおり、有権者が「民主党消滅」に向けて鉄槌を下したもの。自民党を積極支持したわけではない。有権者はこの先、およそ半年間の自民党の政権運営や政治行動を見届けたうえで答えを出す。その間、民主党はおそらく解体しており、乱立した小党の整理も進む。

しかし、いずれかの第三極が与党・自民党の対抗馬となって成長するには時間が足りない。参院選で自民党独走を阻止するためには、投票日に、およそ4割を占める棄権=無党派層が非自民のいずれかに投票する以外に方法がない。それが<自民党>vs<○○党>という二大政党制の構造を確立する唯一の方法である。

2012年12月14日金曜日

大谷の日ハム入団は密約だ

日本ハムからドラフト1位指名された花巻東・大谷翔平投手(18)が9日、メジャー希望から一転して入団することを正式に表明した。この日、岩手・奥州市内のホテルで栗山英樹監督(51)ら球団側に伝えた。その後に会見に臨み、日本ハムの投手と打者の二刀流での育成方針、交渉過程で示された資料が心変わりする理由になったと説明。騒動に巻き込んだ周囲に謝罪しながらも「1年目からしっかり活躍できるように頑張っていきたいと思います」と所信表明した。
 将来的にあこがれであるメジャーを目指す強い気持ちは現在でも変わらず、日本球界を経由して、挑戦することも明言。「やっぱり最終的にはメジャーリーグ(MLB)に行ってみたいと思いますし、自分のあこがれている場所。それにいたるまでの道として、新しく、ファイターズさんから新しく道を教えてもらったという形」とし、レベルアップして米球界入りをする青写真も披露した。Nikkansports.com
[2012年12月9日21時52分]

大谷の「心変わり」は江川の「空白の一日」に匹敵する犯罪的ドラフト破り

筆者は大谷の日ハム入団を知って驚いた。このようなことは、絶対にあってはならないと思った。日本プロ野球ドラフト史上、江川の「空白の一日」に匹敵する最大の汚点の1つではないのか。

大谷は2012年ドラフト会議開催前、早々とMLB行きを意思表示し、日本のプロ野球球団の指名を拒否していた。大谷本人が正式に拒否したものとは言えなかったのかもしれないが、報道では、大谷が日本球団からドラフト指名を受けても、日本の球団には絶対に入らないと伝えられていた。ところが、日ハムの指名を受けてから、数回の入団交渉を経て、日ハム入りを正式に受諾した。これが密約の結果でなくて、なんであろうか。

日ハム、花巻東高校の悪質な「連携プレイ」

このような「絵」を描いたのは、大谷本人ではなく、おそらく、日ハム球団及び花巻東高校野球部関係者だろう。あまりにも露骨な「連携プレイ」ではないか。MLB行きを明言した大谷の意思を尊重した日ハムを除く日本の球団は彼の1位指名を避けた。交渉権を獲得しても、入団交渉に応じてもらえないのならば、1位指名権の無駄打ちに終わる。2012年ドラフトには有望な選手が複数いるから、入団可能性の高い選手を求めたのだ。プロ球団としては当然の選択である。

ところが、日ハムは大谷を指名して、無抽選で単独指名権を得た。そして、日ハムは「独自」に作成した「資料」とやらを駆使して、大谷の説得に成功したと報道された。茶番である。その「資料」とやらには、米国以外のアマチュア選手が自国プロ球界を経ずに直接、MLBに挑戦するデメリットが説明されていたという。

地に落ちた日ハムのドラフト戦略

これまで、確かに、日ハムのドラフト戦略は正当性があった。昨年ドラフトにおける菅野指名は称賛されたものだ。“その年、一番の選手を指名する”という筋は通している。だが、だからといって、日ハムと大谷の間に密約がなかったは言えない。そもそも、大谷が何の考えもなく、MLB行きを公言したとは思えない。自分の大事な進路なのだ。日本球界を経ずに米国に挑戦するメリットとデメリットを検証したはずである。米国生活の不自由さ、言葉の問題…いろいろな困難は承知の上だろう。ドラフトを前にして、大谷はただ、将来の夢を無邪気に語ったとでもいうつもりか。

花巻東高校が教育機関ならば、学生に適切な進路指導をする義務がある。

日ハムが作成した「資料」で、日本球界を経ることのメリットに気が付くということは絶対にあり得ない。大谷を擁した高校がまっとうな教育機関ならば、大谷の進路について適切なアドバイスをしなければいけない立場にある。日ハムの資料など見なくとも、大谷にとってベストだと思われる進路指導をして当たり前ではないか。筆者が茶番だと速断した根拠は、この「資料」の存在である。怪しいではないか。

繰り返すが、花巻東高校の指導者たちは、米国での競争と生活がバラ色だと大谷に説明したのか。一人の高校生が米国で暮らし、そこで競争をしながらメジャーリーガーを目指すことの困難さを説明しなかったのか。逆に、その困難さを克服することが、大谷にとって人間的成長の機会だと説明することもできなかったのか。筆者は取材をする立場でないので、すべては憶測、推測の域を出ないのだが、マスメディアならば、今回の「大谷事件」の真実を解明することができるはずだ。

被害者が存在しない「犯罪」

さて、大谷が日本球界に「就職」したことで被害者がいるとしたら、大谷を獲得できなかった11球団だけだろう。それも被害者とはいえないくらいの軽微の被害である。指名が重なれば抽選なのだから、獲得できない確率の方が高い。

逆に、得をした者は多い。まず、日ハム球団。逸材の大谷を無抽選で獲得できた。大谷の登板で集客が増える。ダルビッシュ並に成長すれば、ポスティングでMLBに高額で売却できる。さらに、ドラフト戦略の一貫性を称賛され、有効な「資料」作成という企業イメージアップのおまけがついた。

日本の野球ファンも、何シーズンかは大谷の投球が楽しめる。スポーツマスコミも話題の新人がいて大助かりだ。前出のとおり、近い将来、MLB挑戦で話題沸騰すること間違いなし。

大谷自身も日本で実績を積めば、日ハムならば、短い年限ですんなり、MLBに行くことが可能だ。MLBも、日本球界における実績を確認してから獲得できるメリットがある。米国で彼をつぶしてしまったら一大事。一人前になってから獲得しても遅くない。大谷の密約が気に入らず、怒っているのは筆者だけのよう。正義とやらは、どこへ消えたのだ。

2012年12月5日水曜日

谷中・天王寺の紅葉

@Yanaka

2012年12月2日日曜日

沈黙を破った佐野眞一

橋下徹大阪市長(以下、肩書、敬称略)に係る『週刊朝日』の連載中止問題について、これまで沈黙を続けてきた筆者の佐野眞一氏(以下、敬称略)が、管見の限りだが、初めて騒動についてコメントした。

佐野は『東京新聞』朝刊の「こちら特報部」の取材に応じ、「橋下という人物を看過していたら、大変なことになる。あたかも第二次大戦前夜のようなきな臭さを感じた」と、「橋下連載」の動機を語った。

また、橋下の振る舞いについて、1930年代のドイツを想起したとし、「ワイマール憲法下で小党が乱立し、閉塞状況が続く。そこにヒトラーが登場する。彼は聖職者や教師、哲学者らを“いい思いをしている連中”とやり玉に挙げ、求心力を高めた。その手法は現在の橋下と似ている」とも評した。

だが、橋下の政治手法がヒトラーと似ている点はそれだけではない。橋下とヒトラーの共通点は、マスメディアを巧妙に利用する点である。ヒトラーはメディアを自由に駆使し、自らの主張を大衆に浸透させた。一方、結果において佐野の「橋下連載」は、橋下に逆利用され、彼の株を上げてしまった。佐野の「橋下連載」は、彼が意図した橋下攻撃の志と真逆の展開をみせて終息した。

そのことはともかくとして、佐野が橋下に感じた危うさは、筆者の感触と変わらない。筆者も、橋下はヒトラーの政治手法を意識して真似ているか無意識のうちにヒトラー的要素を踏襲しているのかは定かではないが、ヒトラーの縮小的再来だという感覚を共有する。もちろん、橋下は、ヒトラーの才能・狂気の度合いとは相当劣るものの。

佐野の「反橋下」の意思及び週刊誌連載の企ては、ごく自然なものだ。だが、なぜ、ナニワの「小型ヒトラー」の反撃を許してしまったのか、また、結果において、佐野及び『週刊朝日』は、いともたやすく橋下に完敗してしまったのか。

『東京新聞』の取材に答えたコメント内容から、その理由は以下の3点に要約できる。

(一)「差別」について記述や表現に慎重さを欠いたこと

(二)週刊誌編集者が付した「血脈」「DNA」といった見出しの不適切性

(三)タイトルである「ハシシタ」が被差別部落を想起させるものであること
  (※一と重複するが、それがタイトルであったことの重大性)

佐野によれば、(二)(三)は週刊誌の編集者がやったことで自分は印刷後に知った、という意味の説明をしている。しかし、佐野は(三)について、週刊誌の編集部がやったこととはいえ、それでも「ハシシタ」というタイトルについては深く反省をしており、「(略)関西の地名で『ハシシタ』が被差別部落を示唆するケースがあることを知った。読者の方からも(タイトルが)部落を想起させるという指摘を受け、差別される側の気持ちに思慮が至らなかったことに、胸を突かれる思いがした」と語った。

ここまでのところを大雑把に整理すれば、佐野の橋下攻撃の志については、多くの反橋下派の思いと共通する。しかし、表現者・佐野の創作を週刊誌という商品にしたところ、差別を助長、強調する欠陥品として仕上がって世に出てしまったということになる。このミスは、作者である佐野のものとは言えない。『週刊朝日』の編集者が素人だったために起こったことである。表現者は作品の質を問われることはあっても、出版物(=商品)に係るトラブルについては、編集者がその責を負うのが出版界のルールだからである。今回のトラブルは、佐野の説明を全面的に信ずるならば、週刊誌の編集者の力量不足に起因する。

さて、もう1つ重大な問題がある。「ナニワの小型ヒトラー」橋下の言動、思想、哲学、政策・・・を問う方法として、橋下のルーツ(親族、生育環境等)を洗い出し公表する必要があるのかどうか――についてである。

佐野の作品では、その手法は定番であるという。たとえば、ソフトバンク創業者の孫正義氏(以下、敬称略)の評伝『あんぽん』では、孫が在日韓国人(現在は日本国籍を取得)であり、孫の一族、ルーツを、韓国取材を重ねて描いているという。そのことに孫が文句をつけたことはないし、社会問題化してもいない。佐野も、人物の評伝を描く際、生育環境にこだわることは当然として、「人間は社会的な生きものであり、文化的な環境や歴史的背景はその人物の性格や思考に必ず影響している。まして公党の代表であれば、その言動や思想がどういう経緯で形成されたのかを知ることは極めて大切だ」と説明している。

本件では、橋下の人間性、思想性が形成された背景には、差別問題があるということになる。佐野はこう言っている。
「(橋下の)実父が生きた部落では、解放運動が強い力を持っている。そこでは徹底した平等主義が貫かれる。しかし、その環境を背負っている橋下の思想は逆。『力のない奴は生きている価値がない』という過剰な競争主義だ。文楽をめぐる対応が典型だ。その違いを探ることは、おそらく現代社会の病巣を描くことにつながる」

 ここで『東京新聞』の記者は、紙面に“差別と解放運動、アウトローの実父、首長に上り「戦後民主主義の脅威」になった息子。その相関関係に世相を映そうという狙いだったのか”と記事を結び、佐野の「橋下連載」の方法を推測しつつ佐野を擁護しようとする。

結論を言えば、佐野の方法は橋下の政治思想の解明につながらない。なぜならば、橋下は思想の力によって大衆に影響を及ぼすような思想的政治家ではないからである。橋下の思想形成の核を社会(親族、育成環境等)に当たっても、そこからは何も出てこない。なぜならば、橋下を「ナニワの小型ヒトラー」にしたのは、ただただ、日本のマスメディアの力によるからである。日本のマスメディアは、橋下の政策的なあいまいさ、一貫性のなさ、思いつき、並びに大阪府政及び大阪市政の実績等々といった政治的現実を吟味しようとしない。日本のマスメディアは、彼のダーウイン主義的優生思想や、経済政策を検証しようともしない。橋下の経済政策は、彼のブレーンである竹中平蔵の自由市場主義(新市場主義)そのものである。竹下の経済政策は彼が仕えた小泉政権において、日本社会を格差社会に導いた犯罪的なものである。にもかかわらず、日本のマスメディアは、橋下の政治的、政策的本質を問おうとしない。

換言すれば、日本のマスメディアは、それまで、橋下を玩具として弄んでいたのである。彼らにしてみれば、橋下は視聴率や販売部数を稼げる子役だった。橋下には何をやっても許される、と思っていたことだろう。“俺達が橋下を有名にしてやっているのだから”と思っていたことだろう。

ところが、橋下は日本のマスメディアが気づかないうちに次第にその力を増し、もはやマスメディアが制御できない怪物にまで成長していた。そのことをマスメディアは自覚していない。ヒトラーが台頭したことをドイツの当時のメディアも知らなかったように。

佐野は自らが信ずる方法によって、橋下という怪物を解明しようとした。ところが、彼に仕事を持ち込んだ『週刊朝日』というメディアは、大新聞の余剰人員の受け皿だった。日本のマスメディア出身でしかも本社の出世レースに敗北して子会社にふきだまった週刊誌編集者たちは、あいかわらず、橋下を玩具として弄ぶことで販売部数が稼げると目論んだ。ワルノリである。だから、「ハシシタ」「DNA」「奴の本性」といった、下品な見出しがつけられたのだろう。素人週刊誌編集者たちは、同和問題に係る表現コードすら忘却したのである。結果、玩具と思っていた橋下から猛反撃を受け、週刊誌側は全面降伏した。日本のマスメディアが「ナニワの小型ヒトラー」に大敗北を屈したのである。

ただ、思想形成の本質を問う方法として、佐野の方法は有効なのかどうか――という問題は残ったままである。カントが歯痛もちだったから、あのような晦渋な哲学ができあがったという「カント論」もある。貧困家庭で親に学歴がなくとも、親が教育熱心であれば、その子供が学者や思想家になることは珍しいことではない。親族に犯罪者がいること等で、警察官、検事、弁護士を志す者も少なからずいる。 そのような環境の者がすべからく、「小型ヒトラー」に成長するわけではない。

ただこれだけは言える、という面がある。評伝や人物伝においては、対象となる人物の環境が尋常でないほど面白さは増すという法則である。筆者の近辺に、“俺の祖父は満州浪人で馬賊だった”と自称するアウトロー気取りの男がいる。日本には「平家の落ち武者」を出自とする村がいくらでもある。そのようなことからわかるように、人間には、自らの出自をことさらいたずらに神秘化することによって、自らの人間的価値を上げたいという欲求が内在しているものなのである。

大物政治家、大物経済人ならば、その労苦を強調し、そこから這い上がった成功伝をつくりたいと思うのは当然である。佐野のようなキャリアの作家ならば、そのあたりは、取材者(=評伝の対象者)と阿吽の呼吸で分かり合えているはずである。しかし、佐野が仕事着手の始動において、正気を逸していた面がうかがえる。佐野は東京新聞紙面で、「自分らしくもないというか、社会的な使命感が働いた仕事だった」と、本音を明かしている。老練の仕事師が陥った対象への過剰な反応である。

ただ、佐野の以下のコメントは日本のマスメディアに対する警鐘として、ここに書き写すだけの価値があると筆者は信ずる。
「橋下を出せば、視聴率が取れるというメディア。長引くこの不況を脱して、カネもうけができればよいという橋下。そこには共通項がある。ただ、その風潮の行方の恐ろしさについては、ほとんど語られていない」

Zazie, Nico(12月)

早いもので、もう12月。

恒例の猫の体重測定がきてしまった。

今月のZazieは2.6㎏で前月比±0、

Nicoは5.9㎏で同+100g。

体重推移から判断するに、二匹とも成長期は終わったのではないか。

谷中路地の不思議な絵(2)

@Yanaka

紅葉のアート

@Yanaka