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よろしくお願いします。
2009年10月31日土曜日
2009年10月27日火曜日
魔術師マーリン
筆者は、テレビといえば、スポーツ、映画、ニュース・天気予報しか見ないのだが、最近、毎週見ようと思っている番組ができた。久々の「お気に入り」である。
その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。
さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。
マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。
しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。
さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。
そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。
などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。
その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。
さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。
マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。
しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。
さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。
そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。
などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。
2009年10月17日土曜日
あの素晴らしい愛をもう一度
ミュージシャンの加藤和彦が亡くなった。自殺だという。ご冥福をお祈りします。
デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。
自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。
お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。
同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。
けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。
彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・
デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。
自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。
お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。
同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。
けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。
彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・
2009年10月14日水曜日
2009年10月12日月曜日
『1968〈上下〉』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●上下とも7,140円(税込)

党派闘争で100名を超える犠牲者
本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。
生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動
次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。
爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。
日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。
活動家の死と闘争の激化
第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。
最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。
二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。
三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。
四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。
五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。
六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。
七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。
八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。
権力側の死亡者
新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。
三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。
1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。
演劇的革命闘争とメディアの影響
新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。
しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。
学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。
残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。
倫理的な痩せ細りの嘘くらべ
以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。

党派闘争で100名を超える犠牲者本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。
生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動
次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。
爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。
日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。
活動家の死と闘争の激化
第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。
最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。
二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。
三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。
四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。
五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。
六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。
七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。
八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。
権力側の死亡者
新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。
三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。
1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。
演劇的革命闘争とメディアの影響
新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。
しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。
学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。
残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。
倫理的な痩せ細りの嘘くらべ
以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。
こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか(P417~P418)
吉本隆明が批判した詩人の黒田喜夫は新左翼の活動家ではない。だがしかし、新左翼・全共闘運動の活動家、とりわけ、連合赤軍の活動家の実態が記された本書下巻を読むとき、両者がそっくり重なってしまうのである。吉本隆明は、“解放の理想とは、幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになること”だと看破した。
吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・
吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・
『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)

□党派に吸収された全共闘活動家
下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。
しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。
新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。
11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。
□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)
1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。
「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。
「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。
つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。
そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。
同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。
同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。
□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。
彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。
また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。
本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。
□著者(小熊英二)の“結論”について
著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。
1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。
一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。
著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。
上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。
そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。
だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。
次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。

□党派に吸収された全共闘活動家
下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。
しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。
新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。
11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。
□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)
1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。
「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。
「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。
つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。
そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。
同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。
同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。
□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。
彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。
また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。
本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。
□著者(小熊英二)の“結論”について
著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。
1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。
一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。
著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。
上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。
そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。
だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。
次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。
2009年10月10日土曜日
2009年10月3日土曜日
『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)

□新左翼・全共闘運動研究の集大成
本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。
本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。
1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。
1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。
一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。
□東大闘争は特異事例か
著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。
東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。
(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。
新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。
一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。
「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。
東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。
新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。
□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。
ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。
東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。
日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。
体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。
大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。
東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。
換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。
□東大は「革命ロシア」か
一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。
東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。
本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。
さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。
「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。
1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)

□新左翼・全共闘運動研究の集大成
本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。
本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。
1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。
1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。
一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。
□東大闘争は特異事例か
著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。
東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。
- 院生・助手等といった特異な(観念的傾向が強い)階層が中心となった闘争であったこと
- 大学の自治に守られた、抑圧の少ない闘争であったこと=その結果、▽主体の形成、学生活動家の自己否定(論)が意識レベルから思想・運動論レベルに転じたこと、▽機動隊導入による封鎖解除が土壇場までためらわれたこと、▽治外法権と化した構内を舞台に、内ゲバ(新左翼―日本共産党、新左翼党派間)がエスカレート(過激化)したこと
- 共産党(民青)が闘争に強く関与したこと。併せて、新左翼と日本共産党(民青)が全面的にかつ暴力的に対峙したこと
- 事態収拾に文部省(当時)、自民党の強い介入があったこと(入試中止)
- 戦後民主主義、進歩的知識人の思想的立場に問題が波及したこと
(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。
新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。
一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。
「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。
東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。
新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。
□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。
ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。
東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。
日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。
体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。
大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。
東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。
換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。
□東大は「革命ロシア」か
一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。
東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。
本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。
さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。
「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。
1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)
2009年9月23日水曜日
2009年9月22日火曜日
2009年9月21日月曜日
『日本海と北国文化(「海と列島文化」第1巻)』
●網野善彦ほか(著) ●小学館 ●6,627円(税込)

日本は海に囲まれた島国。そのため、外界(外国)との交流が阻まれてきたという話をよく聞くし、日本は稲作中心の農業国だともいわれる。どちらも、日本についての常識的説明だと思われているのだが、根拠を欠いた俗論である。
古代(いまでもそうであるが)、海路は物流の大動脈である。また、農業以外を生業とした日本列島人が、それぞれの神を戴き、地域的権力(武力・統治力)をもち、中央政府と同調、また、拮抗した関係を築いてきた。海に生きる人々は、土地に縛られない、高い流動性をもって暮らしていた。あるネパール人は、「海に囲まれた日本が羨ましい」と筆者に言った。彼らは海(港)をもたないから、重要な物資をインドの港を経由して自国に持ち込む以外ない。そのネパール人は、インドへの依存度が高いことを嘆いたのである。
本書は「海と列島文化・全10巻」の第1回配本(1990)で、日本海と北国を扱っている。かつて日本列島の日本海側は“裏日本”と呼ばれ、冬は寒く豪雪となり夏は短く、「暗い」というイメージが支配的であった。いつの日か“裏日本”という呼称は使用を禁ぜられ、日本海側と呼ばれるようになった。また、日本海沿岸のいくつかの都市で拉致事件が発生したことでもわかるように、そこは大陸、朝鮮半島と一衣帯水である。日本列島の政治の中心地は長らく近畿にあり、17世紀以降、関東(江戸・東京)に移ったものの、ユーラシア大陸との接点という意味において、日本海沿岸の重要性はいまも昔も変わっていない。
さて、日本海を舞台とする海上交通の歴史は、古代以来の出雲(いずも)と越(こし)の二大勢力地域との交流があり、そこに大陸との直接交渉の窓口という特異性がある。本書には、そのことの具体例として、筆者が初めて知ったことが多数記述されている。たとえば、▽山形県最北の飛島という小島が、高麗、渤海、粛慎(みしはせ)、靺鞨からの諸外国使節を迎え入れていたこと、▽海驢(みち/日本アシカ)猟を生業としていた能登(舳倉島)の民、▽北の海の武士団・安藤氏、▽蝦夷地でアイヌを奴隷化した紀州・栖原家、▽蝦夷の民の3類(日ノ本、唐子、渡党)、▽金山で栄えた佐渡の相川の善知烏(うとう)神社祭礼。無秩序の混沌とした様子がうかがえる。相川には、全国から芸能の者が集まったという。いずれも、稲作を生業とした、「日本人」のイメージとも、かつて、日本海が“裏日本”と呼ばれていたイメージとも異なっていて、ダイナミズムとモビリティにあふれている。

日本は海に囲まれた島国。そのため、外界(外国)との交流が阻まれてきたという話をよく聞くし、日本は稲作中心の農業国だともいわれる。どちらも、日本についての常識的説明だと思われているのだが、根拠を欠いた俗論である。
古代(いまでもそうであるが)、海路は物流の大動脈である。また、農業以外を生業とした日本列島人が、それぞれの神を戴き、地域的権力(武力・統治力)をもち、中央政府と同調、また、拮抗した関係を築いてきた。海に生きる人々は、土地に縛られない、高い流動性をもって暮らしていた。あるネパール人は、「海に囲まれた日本が羨ましい」と筆者に言った。彼らは海(港)をもたないから、重要な物資をインドの港を経由して自国に持ち込む以外ない。そのネパール人は、インドへの依存度が高いことを嘆いたのである。
本書は「海と列島文化・全10巻」の第1回配本(1990)で、日本海と北国を扱っている。かつて日本列島の日本海側は“裏日本”と呼ばれ、冬は寒く豪雪となり夏は短く、「暗い」というイメージが支配的であった。いつの日か“裏日本”という呼称は使用を禁ぜられ、日本海側と呼ばれるようになった。また、日本海沿岸のいくつかの都市で拉致事件が発生したことでもわかるように、そこは大陸、朝鮮半島と一衣帯水である。日本列島の政治の中心地は長らく近畿にあり、17世紀以降、関東(江戸・東京)に移ったものの、ユーラシア大陸との接点という意味において、日本海沿岸の重要性はいまも昔も変わっていない。
さて、日本海を舞台とする海上交通の歴史は、古代以来の出雲(いずも)と越(こし)の二大勢力地域との交流があり、そこに大陸との直接交渉の窓口という特異性がある。本書には、そのことの具体例として、筆者が初めて知ったことが多数記述されている。たとえば、▽山形県最北の飛島という小島が、高麗、渤海、粛慎(みしはせ)、靺鞨からの諸外国使節を迎え入れていたこと、▽海驢(みち/日本アシカ)猟を生業としていた能登(舳倉島)の民、▽北の海の武士団・安藤氏、▽蝦夷地でアイヌを奴隷化した紀州・栖原家、▽蝦夷の民の3類(日ノ本、唐子、渡党)、▽金山で栄えた佐渡の相川の善知烏(うとう)神社祭礼。無秩序の混沌とした様子がうかがえる。相川には、全国から芸能の者が集まったという。いずれも、稲作を生業とした、「日本人」のイメージとも、かつて、日本海が“裏日本”と呼ばれていたイメージとも異なっていて、ダイナミズムとモビリティにあふれている。
2009年9月19日土曜日
LEVON HELM


久しぶりに、CDを購入した。リヴォン・ヘルムの「Dirt Farmer」「Electric Dirt」の2枚である。リヴォン・ヘルムは、筆者がこよなく愛した「THE BAND」の3人のヴォーカルのうちの一人であり、「THE BAND」ではヴォーカルとドラムを担当した。
「THE BAND」については、多くを語る必要はないだろう。ボブ・ディランのバック・バンドを務めたことが世に出るきっかけとなった。飛躍のきっかけとして、ハモンド・オルガンの名手・ガース・ハドソンがメンバーに加入し、音楽性における飛躍を成し遂げたことも挙げられよう。
「MUSIC from BIG PINK 」が大ヒットを記録。さらに、彼らの楽曲である「The Weight」が映画『Easy Rider』中の挿入歌として使用されメガヒットし、以降、ロックバンドとして安定した地位を築いた。その間、いくつかの伝説的コンサートも行った。彼らの解散コンサートの模様が、「THE LAST WALTZ」という記録映画となっていることはよく知られている。
「THE BAND」は有名になったけれど、メンバー同士は不仲だったといわれている。中でも、リード・ギターのロビー・ロバートソンとリヴォンは仲が悪く、「THE LAST WALTZ」がロビー主導で撮影されたことをリヴォンは快く思っていなかったという。ボブ・ディランはロビーのギターを賞賛したけれど、リヴォンは、ロビーのギターを“数学的”と評している。(『Levon Helm and the story of THE BAND』)リヴォンの土臭さと相容れないものがあったのだろう。
解散後、ロビーが抜けた「THE BAND」が来日したとき、筆者はもちろん、聞きにいった。そのとき、なぜかツインドラムの構成で、コンサート終了後、リヴォンはスタッフに肩を担がれステージから退場した姿が痛々しかった。
前出の「THE BAND」の3人のヴォーカルとは、リヴォンのほか、リチャード・マニュエル(ピアノ他)とリック・ダンコ(ベース)であるが、二人とももうこの世にいない。残ったリヴォンも咽頭ガンを患い、歌うことができなくなった、といわれていたのだが、奇跡の復活を成し遂げた。
復活後の最初のCD(2007)が、「Dirt Farmer」で、リヴォンの娘のエミー・ヘルムが、ハーモニーヴォーカルで参加。このアルバムは全曲ガチガチのカントリーで、マンドリン、フィドル、アコースティックギターをバックに、リヴォンが切々と歌い上げている。咽頭ガンの手術の影響であろうか、リヴォンの声はかすれ気味に聞こえるのだが、それがかえって哀愁を増している。
「Electric Dirt」は復活後の第二弾(2009)。こちらは、▽ブルース、▽アイリッシュ・トラッド、▽「THE BAND」時代が思い出されるロック、▽カントリー、と多様である。やはり、娘のエミー・ヘルムがハーモニーヴォーカルで参加している。ホーン(アルトホーン、チューバ、テナーサックス、トロンボーン、ソプラノサックス)を交えた重層的サウンド、力強さを増したリヴォンの声と、前作よりパワーアップしている。最終曲は、60年代の懐かしのプロテストソング「自由になりたい」(I wish I knew how it would feel to be free) 。さて、リヴォンはこの名曲をどんな風に料理したのでしょうか。
さて、過日、某FM局でリヴォンのこの曲がかかったのを偶然聞いたのだが、そのときのDJがこんなエピソードを披露してくれた。親日家の彼は、しばしばコンサートのため来日した。彼は、東京から福岡までの移動に新幹線を使用するよう頑強に主張した。もちろん、長時間の移動は非効率的であるし、体調にも影響をする。しかし、リヴォンは譲らなかった。
新幹線が広島に着き、停車時間が過ぎて発車したが、リヴォンは車内にもどっていなかった。心配したスタッフから連絡を受けた関係者が広島市内を探しまわり、リヴォンを見つけたとき、彼は広島の街中を泣きながら彷徨っていた。「俺たちアメリカ人が、この街(広島)にあんなひどいこと(原爆投下)をしたんだ・・・」
2009年9月11日金曜日
9.11
いまから8年前(2001)、米国ニューヨークのワールド・トレード・センター・ビルに旅客機が突っ込み、多数の死者が出た(「9.11事件」)。犯人はアラブ系イスラム原理主義グループの者だと言われている。米国ブッシュ(当時)大統領は以来、「テロとの戦い」を宣戦布告し、「ブッシュの戦争」を始めた。この事件の発生と並行して米国経済は活況を呈し、グローバリズム、新市場主義が世界を席巻した。
日本においては、小泉が首相に就任し、「構造改革」路線を掲げた。その結果として、日本経済も米国経済の活況に牽引されるようにミニバブルが発生し、米国流の金融の「高度化」の必要性が叫ばれた。しかしながら、昨年秋の米国のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックにより、世界同時金融不況が発生し、いま、米国、欧州、日本等が不況に喘いでいる。
この間、09年に米国では共和党政権から民主党(オバマ大統領)に政権交代し、日本も自民党から民主党への政権交代が成就している。そして、新市場主義、グローバリズム(米国流)が見直され、緩やかな保護主義と社会民主主義、環境保護主義が台頭し、世界的共通認識となりつつある。また同時に、米国・ブッシュ政権下、日本・小泉政権下で発生した格差の拡大と貧困層の増大に関して、見直し・反省・是正の機運が高まっている。
「9.11事件」は幾重にも悲劇が積み重なった事件である。ビル崩落で犠牲になったNY市民はもちろんのこと、その後の「ブッシュの戦争」の犠牲になった、戦闘地域市民、そして兵士たち。
同時に、「9.11事件」に並走した経済の歪みによって、貧困に至った市民たち。福祉切捨てによって、悲惨な生活を強いられた弱者たち。数え上げたらきりのないくらいの犠牲者が累々としている。
こうした累々たる犠牲者の発生の主因を、「9.11事件」にだけ帰せようとは思わない。けれど、結果論から言えば、米国が事件の発生を未然に防いでくれたら、と思うばかりである。米国ほどの軍事大国(軍事的情報収集力という意味において)が、なぜ、事件を未然防止できなかったのか・・・悔やまれてならない。
マイケル・ドイル(プリンストン大学国際関係研究所所長)に、「民主主義国家間の戦争は発生しない」(Michel Doyle, Kant, liberal legacies and foreign policy )という預言がある。軍事力に規定された「バランス・オブ・パワー」の國際関係論を超える預言として、筆者は、その到来を夢想する者である。「9.11事件」が筆者の夢想の到来を、少なくとも、10年遅らせた。
日本においては、小泉が首相に就任し、「構造改革」路線を掲げた。その結果として、日本経済も米国経済の活況に牽引されるようにミニバブルが発生し、米国流の金融の「高度化」の必要性が叫ばれた。しかしながら、昨年秋の米国のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックにより、世界同時金融不況が発生し、いま、米国、欧州、日本等が不況に喘いでいる。
この間、09年に米国では共和党政権から民主党(オバマ大統領)に政権交代し、日本も自民党から民主党への政権交代が成就している。そして、新市場主義、グローバリズム(米国流)が見直され、緩やかな保護主義と社会民主主義、環境保護主義が台頭し、世界的共通認識となりつつある。また同時に、米国・ブッシュ政権下、日本・小泉政権下で発生した格差の拡大と貧困層の増大に関して、見直し・反省・是正の機運が高まっている。
「9.11事件」は幾重にも悲劇が積み重なった事件である。ビル崩落で犠牲になったNY市民はもちろんのこと、その後の「ブッシュの戦争」の犠牲になった、戦闘地域市民、そして兵士たち。
同時に、「9.11事件」に並走した経済の歪みによって、貧困に至った市民たち。福祉切捨てによって、悲惨な生活を強いられた弱者たち。数え上げたらきりのないくらいの犠牲者が累々としている。
こうした累々たる犠牲者の発生の主因を、「9.11事件」にだけ帰せようとは思わない。けれど、結果論から言えば、米国が事件の発生を未然に防いでくれたら、と思うばかりである。米国ほどの軍事大国(軍事的情報収集力という意味において)が、なぜ、事件を未然防止できなかったのか・・・悔やまれてならない。
マイケル・ドイル(プリンストン大学国際関係研究所所長)に、「民主主義国家間の戦争は発生しない」(Michel Doyle, Kant, liberal legacies and foreign policy )という預言がある。軍事力に規定された「バランス・オブ・パワー」の國際関係論を超える預言として、筆者は、その到来を夢想する者である。「9.11事件」が筆者の夢想の到来を、少なくとも、10年遅らせた。
2009年9月4日金曜日
2009年8月23日日曜日
挑戦
いよいよ大作『列島と海』全10巻の読破に挑む。本書は、網野善彦、谷川健一らの歴史学者・民俗学者が編集人となっていて、日本列島(日本国ではない)と海に関する研究を集大成したもの。第1巻は、「日本海と北国文化」。
「日本」及び「日本人」というものに対して抱く共同的イメージというと、稲作に象徴される農業に一元化される傾向にある。しかし、日本列島には、狩猟、漁業、商業、製造業…から芸能、宗教関係まで、さまざまな生業に従事する人々がいて、独自の法、掟、信仰等をもっていた。1960年代後半から、多様な日本像を再生する研究が、歴史学を中心に盛んになってきた。本書もそのような流れの中からうまれた。
挫折せずに読み終えることができるだろうか。
「日本」及び「日本人」というものに対して抱く共同的イメージというと、稲作に象徴される農業に一元化される傾向にある。しかし、日本列島には、狩猟、漁業、商業、製造業…から芸能、宗教関係まで、さまざまな生業に従事する人々がいて、独自の法、掟、信仰等をもっていた。1960年代後半から、多様な日本像を再生する研究が、歴史学を中心に盛んになってきた。本書もそのような流れの中からうまれた。
挫折せずに読み終えることができるだろうか。
2009年8月22日土曜日
2009年8月19日水曜日
『新編 明治精神史』
●色川大吉[著] ●中央公論社 ●絶版

明治維新(1868)をもって日本の近代化が開始されたことに異論は少ない。さらに、それが日本の民主化の開始ではないことにも異論はないはずだ。明治維新後、20年余を経過し、(欽定)憲法制定、(帝国)議会開設といった、表面的な議会制民主主義の体裁が整えられていったものの、国民による国民のための政治制度が定着するのは、アジア太平洋戦争の敗戦(1945)の後、すなわち、維新から数えて77年後ということになる。
■豪農層――自由民権運動の隠れた主役
欧米文化の急激な流入が、明治維新の大きな特徴の1つだ。19世紀末、欧州の主要国は市民革命を終えており、さらに、米国は英国の植民地から独立を果たしていた。維新後の日本には、市民革命の理念を説いた思想書が数多く輸入されていたし、翻訳も進められていた。維新後、欧米の進んだ技術の受け入れと同時に、欧米の啓蒙思想、政治思想、議会制度等の民主主義の紹介が進んだ。
その一方、明治10年前後、松方財政による重税とデフレ進行により、日本経済は深刻な不況に陥った。そして、不況の影響を最も強く受けたのが農民層で、彼らは維新後に台頭した金融業者から莫大な負債を負い、困窮に喘いだ。そのような中、封建時代から伝統的に農民層の上に立つ豪農層が、自由民権運動を担う一団として、運動の表層に現れるようになった。彼らは、徳川時代末期に自ら設立した教育機関である「塾」を基盤として、草の根レベルで、欧米の民主主義理念を研究し、欧米の民主主義を日本に定着させようと、働きかけた。彼らは維新革命を成し遂げた「英雄的」な薩長等の出身者とは接点をもっていない。中央においてはまったくの無名の者であり、後年においても、歴史の闇に埋もれてしまった者が多い。本研究は、彼らに光を当て、明治という時代に生きた、若き民権運動家の精神を蘇らせようとする試みである。
■民衆蜂起と自由民権運動
不況下、二つの勢力による、新政府打倒の機運が盛り上がった。その1つは、不平士族・豪農を主体とした「自由民権運動」であり、もう1つは困窮農民による武装蜂起だ。前者は、「西南の役」「佐賀の乱」に代表される士族集団による武装蜂起が挫折した後、国会期成同盟を契機として、政党を中心に政治闘争化した。後者は各所で起こった「困民党」の武装反乱に代表されるような、自然発生的民衆抵抗運動だ。自由民権運動と農民の武装抵抗反乱は、無関係ではないが、同一のものでもない。自由党解党により自由党員と困民党指導者が結合し、組織された暴力として武装蜂起に至ったケースもあるが、そうでないものもあった。留意すべきは、本研究が自由民権運動そのものの研究でもなければ、困民党等農民武装蜂起に関する研究でもないということだ。本研究は士族と農民の二つの勢力と微妙な関係を保った、豪農層の研究である。この点を踏まえないで本書を読むと、著しい不満を覚えることになる。
■明治初期の東京近郊多摩地域
本書は、東京郊外の多摩地区を拠点にした、2人の明治の青年の行動の軌跡を追った章から始まる。2人の青年とは、北村透谷と石坂公歴(まさつぐ)だ。2人は同時期、同地域(東京近郊多摩地区)において、わが国における自由と民権の実現の志を抱きながら、やがて袂を分かち、まったく別の道を進むこととなった。北村透谷は、彼が入党していた自由党が党の方針として武装蜂起を選択したときに離脱、以来、民権の志を内面化、精神化し、文学創造の世界に入っていった。彼は、明治維新後の民権と国権の問題を知識人の問題としてとらえ、知識人としてそれを思想化しようと試みた。しかし、享年27才の若さで自殺。彼が試みた思想の内面化のテーマは宙に投げ出されたまま、しかも、その問題意識を受け継ぐ者が不在のまま、前に進む事がなかった。
一方の公歴は目標とした自由と民権の実現のための活動から召還した後、官憲から逃れるため、米国カリフォルニアに亡命、明治政府を外から批判した後、米国開拓を志し、サクラメント地方に入植するも失敗、その後、米国を放浪した挙句、太平洋戦争の最中(1944)、カリフォルニア州のマンザアナの日本人収容所にて客死を遂げた。透谷は文学者として歴史に名を残したが、一方の公歴についてはまったく、知られることなく、歴史の闇に埋もれてしまった。本研究の意義の1つは、名も知れぬ活動家の半生を素描することによって、日本の民主主義運動の始原の活力を現代に蘇生することにある。
著者(色川大吉)の研究方法の特徴を大雑把に言えば、徹底したフィールドワークに基づいた点だろう。複数の研究者集団が手分けして広大な多摩地区の豪農を一軒一軒あたり、古い資料を採集し、収集した新資料と既存資料とを照合しつつ、それまで知られていなかった明治期の活動家を世に送り出すとともに、活動家を類型化し、その類型の中に日本近代の課題と希望(展望)を探る形をとっている。フィールドワークの間接的成果として、八王子市の古民家から、千葉卓三郎、深沢権八らによって起草された、「平民憲法」の発見も挙げられよう。
本書(新編)が刊行されたのは1973年だが、著者(色川大吉)が旧編(『明治精神史』)を世に出すためにフィールドワークを開始したのは1960年代初めに遡る。そのころといえば、安保闘争直後の前衛的政治運動の退潮期に当たる。安保闘争に取り組んだ日本の知識人の多くが、その敗北によって、思想的虚脱状態に陥った。著者がこの研究に没入した根底には、虚脱し停滞する日本思想の再生、とりわけ、日本の民主主義再生のため、維新期という近代の始原に回帰することにおいて、新たな光明を見出したいという願望と意気込みがあったはずだ。本書を読む者は、本研究の隅々から、明治時代の民権思想の歴史研究に従事する研究者(色川大吉)の熱意と矜持を感じるはずだ。日本の民主主義思想の萌芽を模索する、研究者(色川大吉)のエネルギーを受けとめるだけでも、本書を読む価値がある。
■豪農層研究における総合性の欠如
本書第3部「方法と総括」において、著者(色川大吉)自らが本研究への批判をまとめている。その中で注目すべきは、本研究の対象地域を多摩に限定した根拠が必ずしも明確でないという批判である。豪農層が日本各所において、自由民権運動を領導したのかどうかも、本研究からは明らかでない。だから、多摩とその他の地域とのネットワークの存在の有無も明らかではない。徳川時代の政治・経済の中心であった江戸の近郊である多摩という地域特殊性が、豪農の民権運動参入を育んだのかどうか、いわば、地域特殊性が北村透谷、大矢蒼海、石坂公歴、大矢正夫、村野常右衛門、秋山国三郎らを輩出したのかどうか。もし、そうならば、多摩の風土とはいかなるものなのかが、本書からはうかがい知れない。風土性を明らかにしていないという意味において、本研究には総合性が欠如している。
■豪農層の思想的限界
前出のとおり、本研究が発表された後に寄せられた不満・批判が、本書におさめられていて、著者(色川大吉)が寄せられた批判に答える形をとっている。それを読む限りにおいては、豪農層の思想的限界が本書に対する不満と重なり、本研究批判を加速した感がある。こうした不満と批判は、主に「マルクス主義」陣営側から、プロレタリア革命を志向する観点で発せられたように思う。左翼側からの、自由民権運動(もちろん本研究が発見した豪農層のものを含めて)の限界に対する批判は根強い。当時自然発生的に勃発した農民蜂起と、民権運動が結合するに至らなかったのは両者の限界であるが、どちらかというと、民権運動の限界性として認識されている。しかも、自由民権運動家の多くが、明治20年代において、超国家主義に吸収されてしまったことをたいへん口惜しく思うのである。もちろん、豪農層、士族に限らず、自由民権運動が歴史的に規定された運動であることは仕方がないことであって、後年の我々がいくらその限界性を批判しても始まらないのではあるが。
本研究に対する不満不平ではないが、筆者は明治維新(革命)を否定的にとらえる立場に立つため、豪農層の国家観・民衆観に失望を感じている。明治維新及び維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が捏造した維新史観、人物史観が大衆的に浸透していて、日本の近代化を客観的に評価する試行が国民レベルで妨げられている。筆者は、維新革命、維新政府(指導者)、維新期の自由民権運動家(抵抗勢力)を含めて、明治人の精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信している者である。であるから、司馬遼太郎のように、維新革命を絶対的に肯定する立場(=「栄光の明治政府」という見方)に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、「栄光の明治政府」を相対化する意味において、本研究は最も重要な研究論文の1つであると確信する。本研究は維新政府に抵抗したといわれる、自由民権運動家のうちの豪農層の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしようとする試みだと換言できる。
■豪農層民権家の横顔
しかし、シニカルに言えば、本研究のように自由民権運動(家)をいくら因数分解してみても、日本の民主主義、人民の権利獲得の道筋は見えてこないのではないか。自由民権運動とは、維新政府の権力が脆弱な明治10年前後に発生した、支配層内部における権力内闘争にすぎなかったのではないか。士族、豪農層とは、筆者からみれば、支配層内反対派である。だから、人民(people)による革命運動(ブルジョア市民革命)ではないし、もちろん、労農(プロレタリアート)による階級闘争でもない。維新革命を市民革命と規定するか否かに問題を還元することも、不毛である。
自由民権運動の担い手たちは、西欧を範としたモダニズムに基づき、議会制度や国会開設を望み、維新政府に異議申し立てを行った。ところが、明治20年前後を境として体制を整えた維新政府の強権化と、対外的緊張により高まった愛国主義により、彼らの民権運動は天皇制国家と臣民を待望する、超国家主義思想に収斂していった。
ところで、本書を読めば、このことは彼らの転向でも変節でもないことがよくわかる。けっきょくのところ、自由民権運動の担い手である士族・豪農層には、民衆の生活の困窮が視界にとどまることはついぞなかったのである。なぜならば、維新直後の日本社会とは伝統的階級社会のままであり、維新政府が身分制度を撤廃したところで、一夜にして平等社会が出現するわけもなかったからだ。士族や豪農層といった、社会の上層の青年に限り、学問の機会が与えられ、西欧の社会思想や政治制度が受け入れられ、反政府運動に参加する道が開けたのである。本書から、自由民権運動家である、豪農層のプロフィールを概観してみよう。
豪農層とは、根本的には漢籍の素養を下地して、西欧の近代思想を受け入れた者たちである。彼らが身につけた漢籍における理想的知識人像とは、草深い郊外に蟄居し、自然とともに時を過ごす隠者である。隠者とは、清貧を旨とするから、彼らの価値観からすれば、維新期に勃興した経済的自由人――新技術を駆使した製造業起業家、あるいは、近代的商業、金融業(参入)者(もちろん維新政府と特別な関係を有した「政商」を含めてだが)――を認めることはできなかった。認めないどころか、そのような者を軽蔑すらした。
しかも、彼らの配下にある農民は困窮に喘いでいる。農民層はとりわけ、金融業者から莫大な負債を負っていた。この惨状は資本の本源的蓄積によるものであるのだが、豪農層は国士(憂国の徒)として、農民困窮の事態を招き寄せた松方財政政策=維新政府及び新興ブルジョアジー(金融業者)に対して攻撃を開始した。とはいえ、軍事力は維新政府にあり、武装蜂起もできない。となれば、彼らに残された道は、反政府に賛同する者を集め、西欧の新思想を受容しそれを掲げて政道を説き、難解な言語で維新政府を攻撃する演説家=自由民権運動家となることだけだった。
自由民権運動というが、彼らは本来、民主主義者・人民主義者であるわけではない。彼らは、幕末から維新期に強まった過激な勤皇思想を十二分に受容していた。だから後年、彼らは、民権運動から召還して愛国的、排外主義的侵略主義者(帝国主義者)となった。豪農出身者、士族出身者を問わず、自由民権運動家は、維新政府の強権化、維新政府の富国強兵の進展とともに、必然的に天皇制超国家主義者として、自らを純化することが可能だった。維新政府の殖産興業が次第に現実のものとなり、日本中に工場が設立されるようになったとき、小作農民は土地を追われ、都市プロレタリアートに移行し、工場労働者として従事した。そのころ、明治政府は教育勅語、軍人勅語等を整備し、日清戦争に勝利していて、次なる国家的目標として、条約改正と新たな帝国主義戦争(侵略戦争)の開始を準備していた。自由民権運動はもちろん終焉していて、国士的運動家は、愛国的国家主義者へと変身していった。
以上が、明治の自由民権運動家の大方の精神の推移であり、それが大正・昭和を経て軍部主導の天皇制超全体主義国家の完成につながっていく。自由民権運動がこうした後年の不幸な歴史の抵抗体とならなかったことが、残念でならない。

明治維新(1868)をもって日本の近代化が開始されたことに異論は少ない。さらに、それが日本の民主化の開始ではないことにも異論はないはずだ。明治維新後、20年余を経過し、(欽定)憲法制定、(帝国)議会開設といった、表面的な議会制民主主義の体裁が整えられていったものの、国民による国民のための政治制度が定着するのは、アジア太平洋戦争の敗戦(1945)の後、すなわち、維新から数えて77年後ということになる。
■豪農層――自由民権運動の隠れた主役
欧米文化の急激な流入が、明治維新の大きな特徴の1つだ。19世紀末、欧州の主要国は市民革命を終えており、さらに、米国は英国の植民地から独立を果たしていた。維新後の日本には、市民革命の理念を説いた思想書が数多く輸入されていたし、翻訳も進められていた。維新後、欧米の進んだ技術の受け入れと同時に、欧米の啓蒙思想、政治思想、議会制度等の民主主義の紹介が進んだ。
その一方、明治10年前後、松方財政による重税とデフレ進行により、日本経済は深刻な不況に陥った。そして、不況の影響を最も強く受けたのが農民層で、彼らは維新後に台頭した金融業者から莫大な負債を負い、困窮に喘いだ。そのような中、封建時代から伝統的に農民層の上に立つ豪農層が、自由民権運動を担う一団として、運動の表層に現れるようになった。彼らは、徳川時代末期に自ら設立した教育機関である「塾」を基盤として、草の根レベルで、欧米の民主主義理念を研究し、欧米の民主主義を日本に定着させようと、働きかけた。彼らは維新革命を成し遂げた「英雄的」な薩長等の出身者とは接点をもっていない。中央においてはまったくの無名の者であり、後年においても、歴史の闇に埋もれてしまった者が多い。本研究は、彼らに光を当て、明治という時代に生きた、若き民権運動家の精神を蘇らせようとする試みである。
■民衆蜂起と自由民権運動
不況下、二つの勢力による、新政府打倒の機運が盛り上がった。その1つは、不平士族・豪農を主体とした「自由民権運動」であり、もう1つは困窮農民による武装蜂起だ。前者は、「西南の役」「佐賀の乱」に代表される士族集団による武装蜂起が挫折した後、国会期成同盟を契機として、政党を中心に政治闘争化した。後者は各所で起こった「困民党」の武装反乱に代表されるような、自然発生的民衆抵抗運動だ。自由民権運動と農民の武装抵抗反乱は、無関係ではないが、同一のものでもない。自由党解党により自由党員と困民党指導者が結合し、組織された暴力として武装蜂起に至ったケースもあるが、そうでないものもあった。留意すべきは、本研究が自由民権運動そのものの研究でもなければ、困民党等農民武装蜂起に関する研究でもないということだ。本研究は士族と農民の二つの勢力と微妙な関係を保った、豪農層の研究である。この点を踏まえないで本書を読むと、著しい不満を覚えることになる。
■明治初期の東京近郊多摩地域
本書は、東京郊外の多摩地区を拠点にした、2人の明治の青年の行動の軌跡を追った章から始まる。2人の青年とは、北村透谷と石坂公歴(まさつぐ)だ。2人は同時期、同地域(東京近郊多摩地区)において、わが国における自由と民権の実現の志を抱きながら、やがて袂を分かち、まったく別の道を進むこととなった。北村透谷は、彼が入党していた自由党が党の方針として武装蜂起を選択したときに離脱、以来、民権の志を内面化、精神化し、文学創造の世界に入っていった。彼は、明治維新後の民権と国権の問題を知識人の問題としてとらえ、知識人としてそれを思想化しようと試みた。しかし、享年27才の若さで自殺。彼が試みた思想の内面化のテーマは宙に投げ出されたまま、しかも、その問題意識を受け継ぐ者が不在のまま、前に進む事がなかった。
一方の公歴は目標とした自由と民権の実現のための活動から召還した後、官憲から逃れるため、米国カリフォルニアに亡命、明治政府を外から批判した後、米国開拓を志し、サクラメント地方に入植するも失敗、その後、米国を放浪した挙句、太平洋戦争の最中(1944)、カリフォルニア州のマンザアナの日本人収容所にて客死を遂げた。透谷は文学者として歴史に名を残したが、一方の公歴についてはまったく、知られることなく、歴史の闇に埋もれてしまった。本研究の意義の1つは、名も知れぬ活動家の半生を素描することによって、日本の民主主義運動の始原の活力を現代に蘇生することにある。
著者(色川大吉)の研究方法の特徴を大雑把に言えば、徹底したフィールドワークに基づいた点だろう。複数の研究者集団が手分けして広大な多摩地区の豪農を一軒一軒あたり、古い資料を採集し、収集した新資料と既存資料とを照合しつつ、それまで知られていなかった明治期の活動家を世に送り出すとともに、活動家を類型化し、その類型の中に日本近代の課題と希望(展望)を探る形をとっている。フィールドワークの間接的成果として、八王子市の古民家から、千葉卓三郎、深沢権八らによって起草された、「平民憲法」の発見も挙げられよう。
本書(新編)が刊行されたのは1973年だが、著者(色川大吉)が旧編(『明治精神史』)を世に出すためにフィールドワークを開始したのは1960年代初めに遡る。そのころといえば、安保闘争直後の前衛的政治運動の退潮期に当たる。安保闘争に取り組んだ日本の知識人の多くが、その敗北によって、思想的虚脱状態に陥った。著者がこの研究に没入した根底には、虚脱し停滞する日本思想の再生、とりわけ、日本の民主主義再生のため、維新期という近代の始原に回帰することにおいて、新たな光明を見出したいという願望と意気込みがあったはずだ。本書を読む者は、本研究の隅々から、明治時代の民権思想の歴史研究に従事する研究者(色川大吉)の熱意と矜持を感じるはずだ。日本の民主主義思想の萌芽を模索する、研究者(色川大吉)のエネルギーを受けとめるだけでも、本書を読む価値がある。
■豪農層研究における総合性の欠如
本書第3部「方法と総括」において、著者(色川大吉)自らが本研究への批判をまとめている。その中で注目すべきは、本研究の対象地域を多摩に限定した根拠が必ずしも明確でないという批判である。豪農層が日本各所において、自由民権運動を領導したのかどうかも、本研究からは明らかでない。だから、多摩とその他の地域とのネットワークの存在の有無も明らかではない。徳川時代の政治・経済の中心であった江戸の近郊である多摩という地域特殊性が、豪農の民権運動参入を育んだのかどうか、いわば、地域特殊性が北村透谷、大矢蒼海、石坂公歴、大矢正夫、村野常右衛門、秋山国三郎らを輩出したのかどうか。もし、そうならば、多摩の風土とはいかなるものなのかが、本書からはうかがい知れない。風土性を明らかにしていないという意味において、本研究には総合性が欠如している。
■豪農層の思想的限界
前出のとおり、本研究が発表された後に寄せられた不満・批判が、本書におさめられていて、著者(色川大吉)が寄せられた批判に答える形をとっている。それを読む限りにおいては、豪農層の思想的限界が本書に対する不満と重なり、本研究批判を加速した感がある。こうした不満と批判は、主に「マルクス主義」陣営側から、プロレタリア革命を志向する観点で発せられたように思う。左翼側からの、自由民権運動(もちろん本研究が発見した豪農層のものを含めて)の限界に対する批判は根強い。当時自然発生的に勃発した農民蜂起と、民権運動が結合するに至らなかったのは両者の限界であるが、どちらかというと、民権運動の限界性として認識されている。しかも、自由民権運動家の多くが、明治20年代において、超国家主義に吸収されてしまったことをたいへん口惜しく思うのである。もちろん、豪農層、士族に限らず、自由民権運動が歴史的に規定された運動であることは仕方がないことであって、後年の我々がいくらその限界性を批判しても始まらないのではあるが。
本研究に対する不満不平ではないが、筆者は明治維新(革命)を否定的にとらえる立場に立つため、豪農層の国家観・民衆観に失望を感じている。明治維新及び維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が捏造した維新史観、人物史観が大衆的に浸透していて、日本の近代化を客観的に評価する試行が国民レベルで妨げられている。筆者は、維新革命、維新政府(指導者)、維新期の自由民権運動家(抵抗勢力)を含めて、明治人の精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信している者である。であるから、司馬遼太郎のように、維新革命を絶対的に肯定する立場(=「栄光の明治政府」という見方)に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、「栄光の明治政府」を相対化する意味において、本研究は最も重要な研究論文の1つであると確信する。本研究は維新政府に抵抗したといわれる、自由民権運動家のうちの豪農層の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしようとする試みだと換言できる。
■豪農層民権家の横顔
しかし、シニカルに言えば、本研究のように自由民権運動(家)をいくら因数分解してみても、日本の民主主義、人民の権利獲得の道筋は見えてこないのではないか。自由民権運動とは、維新政府の権力が脆弱な明治10年前後に発生した、支配層内部における権力内闘争にすぎなかったのではないか。士族、豪農層とは、筆者からみれば、支配層内反対派である。だから、人民(people)による革命運動(ブルジョア市民革命)ではないし、もちろん、労農(プロレタリアート)による階級闘争でもない。維新革命を市民革命と規定するか否かに問題を還元することも、不毛である。
自由民権運動の担い手たちは、西欧を範としたモダニズムに基づき、議会制度や国会開設を望み、維新政府に異議申し立てを行った。ところが、明治20年前後を境として体制を整えた維新政府の強権化と、対外的緊張により高まった愛国主義により、彼らの民権運動は天皇制国家と臣民を待望する、超国家主義思想に収斂していった。
ところで、本書を読めば、このことは彼らの転向でも変節でもないことがよくわかる。けっきょくのところ、自由民権運動の担い手である士族・豪農層には、民衆の生活の困窮が視界にとどまることはついぞなかったのである。なぜならば、維新直後の日本社会とは伝統的階級社会のままであり、維新政府が身分制度を撤廃したところで、一夜にして平等社会が出現するわけもなかったからだ。士族や豪農層といった、社会の上層の青年に限り、学問の機会が与えられ、西欧の社会思想や政治制度が受け入れられ、反政府運動に参加する道が開けたのである。本書から、自由民権運動家である、豪農層のプロフィールを概観してみよう。
豪農層とは、根本的には漢籍の素養を下地して、西欧の近代思想を受け入れた者たちである。彼らが身につけた漢籍における理想的知識人像とは、草深い郊外に蟄居し、自然とともに時を過ごす隠者である。隠者とは、清貧を旨とするから、彼らの価値観からすれば、維新期に勃興した経済的自由人――新技術を駆使した製造業起業家、あるいは、近代的商業、金融業(参入)者(もちろん維新政府と特別な関係を有した「政商」を含めてだが)――を認めることはできなかった。認めないどころか、そのような者を軽蔑すらした。
しかも、彼らの配下にある農民は困窮に喘いでいる。農民層はとりわけ、金融業者から莫大な負債を負っていた。この惨状は資本の本源的蓄積によるものであるのだが、豪農層は国士(憂国の徒)として、農民困窮の事態を招き寄せた松方財政政策=維新政府及び新興ブルジョアジー(金融業者)に対して攻撃を開始した。とはいえ、軍事力は維新政府にあり、武装蜂起もできない。となれば、彼らに残された道は、反政府に賛同する者を集め、西欧の新思想を受容しそれを掲げて政道を説き、難解な言語で維新政府を攻撃する演説家=自由民権運動家となることだけだった。
自由民権運動というが、彼らは本来、民主主義者・人民主義者であるわけではない。彼らは、幕末から維新期に強まった過激な勤皇思想を十二分に受容していた。だから後年、彼らは、民権運動から召還して愛国的、排外主義的侵略主義者(帝国主義者)となった。豪農出身者、士族出身者を問わず、自由民権運動家は、維新政府の強権化、維新政府の富国強兵の進展とともに、必然的に天皇制超国家主義者として、自らを純化することが可能だった。維新政府の殖産興業が次第に現実のものとなり、日本中に工場が設立されるようになったとき、小作農民は土地を追われ、都市プロレタリアートに移行し、工場労働者として従事した。そのころ、明治政府は教育勅語、軍人勅語等を整備し、日清戦争に勝利していて、次なる国家的目標として、条約改正と新たな帝国主義戦争(侵略戦争)の開始を準備していた。自由民権運動はもちろん終焉していて、国士的運動家は、愛国的国家主義者へと変身していった。
以上が、明治の自由民権運動家の大方の精神の推移であり、それが大正・昭和を経て軍部主導の天皇制超全体主義国家の完成につながっていく。自由民権運動がこうした後年の不幸な歴史の抵抗体とならなかったことが、残念でならない。
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