2010年9月6日月曜日

『琉球弧の世界(「海と列島文化」第6巻)』

●谷川健一ほか[著] ●小学館 ●6500円(税別)



沖縄については、ヤマト人の立場から、柳田国男、折口信夫、岡本太郎、谷川健一、吉本隆明らの知の巨人たちが、自らの思想の拠点の確認対象の1つとして、積極的に言及してきた。

1960年代くらいまでの沖縄には、日本の基層を感じさせる生活風土が現存していたような気がする。1920年代、柳田民俗学において創出された「沖縄学」は、柳田が沖縄本島から先島を訪問したときの直感がそのスタートになったものと推測する。そのときの沖縄には、本土では消失してしまった「原日本」がアクチュアルにとどまっていたのではないか。

柳田・折口の「沖縄学」の確立が意味するものは何か――という反省的論及が今日まで、いくつかなされてきた。その中には、柳田は、沖縄を無条件に「日本」に取り込む思想的土台を築いた――日本を「南方」へと拡大するための植民地経営の学だったという指摘もある。柳田・折口の「沖縄学」にロマン主義的傾向を認めないわけではないが、二人が沖縄に言及しなかったならば、日本の民俗学、歴史学、文学は、いまよりかなり貧しいものとなったはずだ。

時代はくだって、米軍占領下の沖縄が日本に返還されようとした1970年代初頭、そのとき、沖縄とは何か、戦後日本とは何かが厳しく問われた時代だった。

日本の明治以降の近代化は、古代的天皇制を混合した、独自の統治のあり方を世界史上にとどめている。簡単に言えば、日本は、あの悲惨な“ヒロシマ”を経験してもなお今日まで、共和制国家を志向することがない。

1960~1970年にかけて、日本の左翼が「革命」を夢想する一方、共同体=国家論が複眼的視座で問われた。そして、そのとき、レーニンの『国家と革命』に代表される機能的国家論の相対化の思想的拠点として、沖縄が再びクローズアップされた。日本の基層をとどめる沖縄を「再発見」することをもって、日本(共同体)の国家と権力の源泉を問わんとした。そればかりではない。マルクス・レーニン主義に疲れた転向左翼の一部は民俗学に傾倒し、とりわけ、沖縄から、日本国及び天皇制を問わんとした。古琉球の原始共同体を、「(天皇制)日本」を無化する実体だと看做そうとした。このことについては、後述するが、琉球王府樹立後、その権力構造は、世俗的王権(兄)と聞得大君(妹)の司祭権とが並立する形式として完成した。エケリ(兄=男神)とオナリ(妹=女神)である。この構造は、古琉球における原始的共同体=シマの権力構造が洗練化され、王府に反映し制度化されたものだ。基層をとどめる制度は琉球王府にあり、ヤマトの天皇制にはない、ヤマトの王権(天皇制度)は、基層において、いまのあり方とは異なっていた--という確信が、その正統性を疑う根拠とされ、琉球王府のほうに正統性を感じたのである。

さて、古代倭国の王国の1つである邪馬台国について、『魏志倭人伝』は、以下のとおり記している。
■その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。■ 

卑弥呼が統治したとされる邪馬台国の王権の構造もまた、女帝(姉)=卑弥呼と、それをたすけて統治に関与する男帝(弟)の並立にあった。卑弥呼は「鬼道につかえ」というから、宗教的な儀式や卜を旨としたに違いない。日本列島の某所にあったとされる古代王国・邪馬台国の権力構造は、後年樹立された沖縄王府のそれと同一であった。女帝・男帝の並立は、前出のとおり、古琉球のシマの統治形式を始原としたものが、琉球王府に制度化された統治構造である。

(1)沖縄とはなにか

沖縄の神話、民話、伝承によれば、シマ(始原の共同体)を起こした人間は一対の男女であり、その関係は兄妹だとされる。「おなり(姉妹の神)」「えけり(兄弟の神)」である。「おなり」は守護する者であり、「えけり」は守護される者である。「おなり」は「にーがん(根神)」となって次世代に継承され、これまた次世代へと継承されたシマの行政的首長(男性)=「にーつちゅ(根人)」を守り、この一対の男女によってシマは統治される。祖先崇拝が、沖縄の信仰の根幹をなす。

「おなり」はシマにおいて「祝女(ノロ)」として、神の言葉を伝え(神の代行者となり)、ムラの神事をとりしきり、かつ、共同体の成員の諸々の相談にのったり、厄除けをしたりして、ムラの安寧を維持する。沖縄では、女性は「おなり神」として、神の代行者であるばかりでなく、神そのものなのである。

シマには、神を祀る聖地があり、それは「御嶽(うたき)」と呼ばれる。「御嶽」はシマの根神が祀られることはもちろんだが、外来の神がオボツ山、カグラ山から降誕する聖なる空間である。外来の神は、海の彼方(=二ライ、カナイ)から、直接御嶽にやってくることもあるし、立神、岬を経て、山上であるオボツ、カグラに逗留し、シマの共同体の御嶽に祖霊神とともにやってくる。

前出の「おなり」たちは、現世において、外来の神を迎え、もてなす役割を負っている。「おなり」は外来の神と同衾することもある。また、始原の人間は、海の底もしくは海の彼方(二ライ、カナイ)からシマにやってきたのだから、死後は二ライ、カナイに戻るものと理解されている。シマの神観念は祖先崇拝と並んで、外来の神を迎えるかたちもとる。

祖霊神、外来神は人々に何をもたらすのかといえば、もちろん、富や健康をもたらすのであるが、西欧のサンタクロースのように、品物をもってやってくるわけではもちろんない。だが、農耕に重要な作物の種子や農耕具は、外来の神がもたらしたものだと伝承されている。

しかし、実際は、外来神がもってくるのは物質ではなく、「セジ」と呼ばれる霊力を人々に授ける。セジはヤマトでは「タマ」であり、タマは魂もしくは霊の字があてられる。ヤマトでは、霊力を授かる儀式をタマフリといい、怨霊を抱いた死者のタマが人々に悪事を働くことを恐れ、鎮魂に励むことをタマシズメという。

沖縄、ヤマトを問わず、人力の及ばない超越的パワーを人々は常々畏怖し、尊び、また、それを定期的に迎え入れ、歓待することによって、豊作、豊漁、安寧、子孫繁栄がもたらされると信じた。このような信仰の構造は、沖縄とヤマトの基層において異なるところがない。にもかかわらず、ヤマトで発展した神道は、女神の役割を遠ざけ、神職は男性に占有されるようになってしまった。また、明治維新以降の国家神道--その頂点とされる近代天皇制度においては、天皇は男性に限定されるようになった。しかし、日本の神話時代、古代を含めて、女神、女帝はいくらでもいたし、女帝ではないが、新羅征伐に霊威を発揮したことが伝承される、神功皇后を神女の代表的存在の一人として挙げることができる。もちろん、前出の卑弥呼が、「オナリ神」でなくてなんであろうか。

また、国文学者で沖縄学の研究者である折口信夫は『大嘗祭の本義』において、真床襲衾について考察を加えている。折口の説では、真床襲衾とは、大嘗祭の秘儀中の秘儀であり、その由来は古事記天孫降臨のニニギノミコトが赤子のまま降臨するさいに包まれていた布団のことだと説明している。さらに折口は、その布団が意味するものは、天皇が降臨する稲の霊と同衾することだ、と断じたのである。折口説の正誤を判断する力量はもちろん、もちあわせないものの、沖縄において、オナリを代行する祝女(のろ)がセジ(=たとえば稲の霊)を迎え入れ、それと同衾することは自然のことである。沖縄のノロ(祝神)の役割をヤマトの基層の信仰とみなすならば、折口の真床襲衾の解釈が根拠のないものだともいえない。

しかし、いずれにしても、ヤマトと沖縄は、基層において同根の信仰を形成しながら、時の経過とともに、袂を別ったのである。

(2)沖縄神事を代表する「イザイホー」

久高島において12年に一度の午年に行われる「イザイホー」は、沖縄の神事を最も代表するものの1つだと思われる。

久高島の集落はアガリ(東)の外間とイリー(西)の久高に分かれている。久高島は、沖縄島東南部に位置するため、古くから国人の畏怖と憧憬の対象である海上他界(二ライカナイ)に最も近い地点にあるとされ、対岸にある斎場御嶽(せいふぁうたき)と並んで、王権祭祀の二大祭場とされてきた。

イザイホーについて、本書「久高島と神事」湧上元雄[著]を参照しつつ、紹介をしておこう。

イザイホーとは、端的にいえば、島の女性祭祀集団の加入者儀礼であり、ナンチューホー(成巫儀礼)とも呼ばれる。「ホー」は呪法、儀法のホー、「イザイ」は、いざる、あさる、探る、の意で、神女の適格を判定する神判の意といわれるが、また一方、審判の意をもつとされる神事「七つ梯渡り(ななつばしわたり)」の神遊び始めた乙兼(うとうがた)の童名イザヤーによる、との2説ある。

イザイホーの概要と目的を整理しておこう(神事の詳細は、本書参照のこと)。

■久高島外間村には、始祖百名白樽(ひゃくなしらたる)と母加那志(ふぁーがなしー)夫婦の伝承があり、…(略)…「兄妹始祖型洪水神話」の類型に属している。天降り(あもり)、地中出現、津波からの生き残りを問わず、人の世の原夫婦は、原母(げんぼ)より生じた兄妹でなければならないという島建神(しまだてがみ)の伝承は、沖縄の「おなり(姉妹)神」信仰の基調をなすものであったといえよう。
それは、王権祭祀における国王と、そのおなり神の聞得大君、村落祭祀の根人と根神、家の祭りのえけり(兄弟)とおなり(姉妹)との関係においても、この原理は貫かれている。現行の門中(むんちゅう)祭祀でも、ウミナイウクディ(おみおなりおこで)とウミキーウクディ(おみえけりおこで)という一対の女神役を立てて、門中の祖霊を祀っている。
久高島のイザイホー祭りにおいても、加入儀礼を終えたナンチュ(初めて神女となった人)が、そのインキャー(いせえけりの転訛。勝れた兄弟の意)と対面するアサンマーイの儀式に、

タマガエーヌ ウプティシジ ウリティ イモーネ インキャートゥ ユティキャーシ(ナンチュに憑依した始祖霊が天降って、ナンチュの男兄弟と魂合いなされた)

というウムイ(神歌)が歌われる。
「タマガエー」とは、魂が上がった者、すなわち精霊(しょうりょう)の発動したナンチュのことで、「ウプティシジ」(おぼつせじ)は天津霊威(あまつせじ)、「ユティキャーン」は、行き逢って、の意である。ナンチュは亡祖母のシジ(セジ。霊威)を継承した者の意であるから、この儀礼は、兄妹始祖の原初の時代に立ち返って、おなりとえけりが魂合いをした、ということになろう。(P365~366)■

■イザイホーは、…(略)…冬至の太陽の死と再生という危機を呪術的に克服し、新たに祖霊のウプティシジを豊かに受け、生命力満ちあふれたナンチュが参加する神遊びによって、島の共同体や、わが子わが夫の平安・延命・繁栄の願望を現実化しようとした古代祭祀だったと思われる。(P386)■

聖地・久高島において、午年の11月15日から4日間に及ぶイザイホーは、そのスケールにおいて、また神事の演出の力において、出色のものである。また、4日間に盛り込まれたそれぞれの神事が意味するところは、沖縄・ヤマトの基層の信仰のあり方を示すものともいえる。しかしながら、島の過疎化が進み、1990年、 2002年のイザイホーは中止となっていて、1978年を最後に現在に至るまで行われていない。こんどの午年は2014年であるが、そのときイザイホーが行われるのかどうか心配である。

(3)海上の道

沖縄の稲作について触れておこう。前出の柳田国男は『海上の道』において、日本の稲作は南方から、琉球弧を、海路を使って渡ってきた集団により伝えられたものだと説いた。その後、最古の稲作遺構が北九州で発見されたこともあり、「南方説」は退けられ、朝鮮ルート、華南ルートが有力視されてきた。しかしながら、稲に関する科学的検査方法の進歩にともない、学会においても、南方説が復活する兆しをみせている。

本書の「西表島の稲作と畑作」(安渓遊地[著])では、先島で古くから栽培されている稲の種類が、ジャポニカ、インディカにも属さないブル種(ジャバニカ)に属することが推定されている。また、西表島で行われてきた牛を使った踏耕(ウシクミ)という農耕手法は、東南アジア~八重山~沖縄~ヤマト(種子島、南九州)を結びつける証拠の1つとなっている。

2010年9月2日木曜日

「小沢首相」で決まり

民主党代表選に立候補した菅直人首相と小沢一郎前幹事長による日本記者クラブ主催の討論会が2日、東京・内幸町で行われた。討論会をTV中継で見た印象としては、「小沢首相」で決まり、のように受け止められた。

菅首相は現職にもかかわらず、発言に内容及び迫力を欠き、リーダーシップの乏しさを露呈した。一方の小沢前幹事長には、政治主導推進の期待を感じた。

それにしてもお粗末なのが、討論会最後に用意された、政治記者から質問の時間。内容が情緒的で、小沢=政治とカネという、自分たちがつくりあげた虚像を前提とした質問に終始した。政治記者が、検察の調べ以上の証拠や情報をもっていないのであれば、イメージやレッテルに依拠した質問は厳に慎むべきだ。

日本のイエローペーパー、ゴシップ週刊誌の類は、憶測・推測で人を傷つけ、 販売部数を伸ばしてきたけれど、一般新聞、テレビまでもがそういった手法を引きずっている。「田中角栄=ロッキード報道」で定番化した週刊誌型報道が新聞・テレビに引き継がれ、はや40年以上が経過する。田中角栄をまっとうに評価しようという動きは、日本のジャーナリズム業界では極めて少数派のものだ。

日本の大手マスコミは、米国CIAのコントロールの下にある――というのが、筆者の仮説。

2010年8月31日火曜日

党首を選挙で選ぶのは当たり前のこと

政治政党が代表選挙を行うことはあたりまえ。スターリン主義の日本や中国の共産党、宗教団体を基盤とし、その教祖を事実上の党首とする公明党には路線対立が起りえないから、路線対立を巡る代表選挙が存在しない。代表選挙があっても、形式にとどまる。そういう政党は、民主主義政党ではない。

党内に路線を巡る対立がある場合、革命後のソヴィエト連邦は、党内の権力を奪取したスターリンが反対派を粛清し、党内秩序を維持した。恐怖政治である。また、一昔前の日本の「新左翼」ならば、党内理論闘争を行い、それでも埒が明かない場合は、内ゲバで決着をつけた。

このたびは、日本の政権与党――民主党の話である。同党内における路線の対立は明らか。小沢一郎を担ぐ一派は、政権奪取前に掲げたマニフェストを遵守する原理主義であり、菅首相を担ぐ一派は、修正主義である。この対立は革命後に惹起する、<革命>対<反革命>の図式を投影したもので、このような現象は、市民革命、社会主義革命を問わず、権力交代後に必ず起こる。

決着をつけなければ、先へは進めない。しかるに、民主党の路線対立に対して、批判する報道が絶えない。何が気に入らないのだろうか。マスコミ関係者には、「対立」が「ごたごた」に見えるのか。彼らは、党は「一枚岩」でなければいけないと信じているのか。テレビに出演するコメンテーター氏は、民主党の代表選挙は国民が関与しないと言い出す始末。代議員制度の否定である。直接投票による大統領制度の怖さについては、ポピュリズム=小泉政権の悪しき経験によって克服しえた問題だと思っていたのだが、そうでもないようだ。

民主党の代表選挙に係る報道として重要なのは、小沢~菅のあいだいの路線の違いを明確にすることだ。小沢側の主張と菅側の主張の違いを明らかにすることだ。とりわけ、菅が首相に就任してすぐに消費税10%をもちだした経緯を明らかにさせることが重要だと思う。もう一つは、普天間移設問題だ。前首相の鳩山は、移転問題の期限において危機に見舞われたが、米軍のグアム移転は無期延期になっていて、鳩山はあの時点で決断する必要はなかった。普天間移設報道は、鳩山(小沢)を辞任させる材料の1つにすぎなかった。

民主党が政権に就いて以来、不可解なことがいくつも起っている。今回の代表選挙で、そのうちのいくつかが明らかになればいい。マスコミは、代表選挙を機に、小沢、菅の両陣営に対して、政府民主党内に隠された不可解さの淵源を公表させるような働きかけを行ってほしい。代表選挙は、候補者を通じて不可解さを問う絶好のチャンスだと思う。

2010年8月28日土曜日

「旅の写真集」編集終了


ウエブ版「旅の写真集」の編集が終わりました。

アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア、そしてモスクワを少々。

Blog版「別冊」は完結です。

2010年8月23日月曜日

「コーカサスの旅」連載を開始



[別冊]旅の写真集にて、コーカサスの旅の連載を始めました。

ご高覧のほど、お願いいたします。

2010年8月22日日曜日

バクーあるいはアゼルバイジャンについて

観光したコーカサス地方3カ国のうち、アゼルバイジャンだけがイスラム教国。言語もトルコ語に近い。1991年に旧ソ連から独立したものの、アルメニアとは国境を巡って、いまなお、紛争を抱えている。 ご存知のとおり、20世紀初頭、トルコがアルメニア人を大量虐殺したとされ、トルコに近いアゼルバイジャンとアルメニアは犬猿の仲だ。 アゼルバイジャンは産油国だけあって、観光客の目から見ると、いかにも景気がよさそう。市内のいたるところに建設中の巨大ビルがあり、完成している建物も、みなピカピカ。商業施設等は、どちらかというと、ヨーロッパ風のデザイン。主な建物はみな、夜間、ライトアップされている。

コーカサス地方の旅



今月の13日から20日までという、短い、短い、コーカサス3国の旅が終わりました。

モスクワ経由でまずバクー(アゼルバイジャン)に入り、飛行機でトビリシ(グルジア)へ、そして車でエレバン(アルメニア)に入りました。

帰りは、エレバンから飛行機でモスクワへ。そこで、およそ10時間のトランジットがありましたので、モスクワの「赤の広場」をちょこっと見て、成田に戻りました。

小国の3国ですが、それぞれ個性的で面白かったです。

詳しくは別のサイトで連載の予定です。

※写真は、バクーの旧市街でナンを焼く女性

2010年8月12日木曜日

狸穴からミッドタウンへ





ロシア大使館にてトランジットビザを受け取り、歩いて、六本木のミッドタウンへ。
昔、防衛庁があったところだ。

2010年8月9日月曜日

蓮の花


不忍池に蓮の花を見に行く。

ぽつん、ぽつんと咲いている。

汚いドロの中にいながら、美しい花を咲かす蓮をアジアの人々は尊んできた。



その後、御茶ノ水へ移動。

「ブラタモリ」で有名になった万世橋近くの鉄橋を確認。

2010年8月5日木曜日

猛暑日が続く

いやはや東京は暑い。

街を歩いていると、くらくらする。

昔の夏は、こんなに暑くなかったような気がする。

温暖化かヒートアイランドか。

2010年8月1日日曜日

『ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』

●スラヴォイ・ジジェク[著] ●ちくま新書 ●900円(税別)

本書は、1968年の反乱の再来を熱望するような、原理主義的マルクス・レーニン主義に基づく革命論ではない。であるから、本書にそのような期待を寄せて読めば、裏切られるだろう。暴論すれば、著者(スラヴォイ・ジジェク)の立場は、「反マルクス・レーニン主義」でさえあり、「1968年」革命を徹底的に批判するところから、コミュニズムの(けしてマルキシズムではない)再生を提言するものだといえる。

副題にある、“はじめの悲劇”とは「9.11同時多発テロ」(2001年)を、そして、“二度目の笑劇”とは、2008年に起きた、世界的金融大恐慌をさす。21世紀の最初の10年のはじまりとおわりに起きた衝撃は、フランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり」、すなわち、リベラル民主主義と資本主義経済ユートピアの崩壊にほかならない、というのが著者(ジジェク)の基本的現状認識である。換言すれば、本書は、リベラル民主主義とポストモダン資本主義に対する闘争宣言である。では、ポストモダン資本主義とは何なのか。

著者(ジジェク)は、ポストモダン資本主義について、『資本主義の新たな精神』(リュック・ボルタンスキー、エヴ・チアベッロ[著])を手掛かりにして次のように説明する。ボルタンスキーとチアベッロは、資本主義の3つの連続した精神を――
  • 第一期:起業家の精神と表現し、資本主義の始原から1930年代の大恐慌まで続いた時期
  • 第二期:大企業から給与をもらう立場の取締役が理想=プロテスタンティズムの倫理による資本主義から「組織人」による企業経営の資本主義への移行と相似の時期
  • 第三期:資本主義は生産工程におけるフォーディズム的階級構造を廃していき、代わりに、職場の従業員の主導と自主性のもとに築かれた、ネットワーク型の組織形態を発展させた時期
こうして、資本主義は平等主義のプロジェクトとして是認される。そうやって、自己創出的な相互作用と自己組織化を強めつつ、極左のお得意のフレーズ「労働者による自主管理」までを奪い取って、このアンチ資本主義のスローガンを資本主義のものに変えてしまったのだと。

消費レベルにおける「文化資本主義」もその現われである。いまわれわれが商品を買うのは、利便性のためでも、地位の象徴としてでもない。商品が提供する経験を得るため、生活を楽しく有意義なものにするためである。そのことを本書では、ラカンの三つの「界」、すなわち、〈現実界〉としての、直接の利便性、〈象徴界〉としての、地位、〈想像界〉としての、楽しくて有意義な経験――の連想に照応させる。

さらに、デジタル資本主義である。この事項については、長文になるが、本書から引用する。
資本主義の新たな精神に呼応してか、社会主義が保守的、序列的、管理的に見えるようイデオロギー・歴史の物語全体が構築される。すると、68年の教訓は「さらば社会主義」ということであって、真の革命とはデジタル資本主義である。このこと自体が、68年の反乱の当然の帰結にして「真実」なのだ。もっと過激に表現すれば、68年の一連の出来事は「パラダイム・シフト」の格好の例として銘記される。
ここには神経科学における脳モデルと、社会の支配的イデオロギーのモデルとの相似が見て取れる。今日の認知科学と「ポストモダン」資本主義とは紛れもなく共振している。例を挙げれば、ダニエル・デネットが〈自己〉を措定するにあたり、「デカルト劇場」という意識の中央処理装置の概念から、複数の競合する自己創出的相互作用という発想へ移行させたことは、中央集権支配・計画がネットワーク・モデルへ移行することと、シンクロしていないだろうか?したがって脳が社会化されるだけでなく、社会もまた脳内で自然化されるのだ。・・・(略)・・・脳の意識が資本主義の精神とすっかり同一化してしまうことを避けるために、何をなすべきか?
『マルチチュード』の共著者マイケル・ハートとアントニオ・ネグリまでがこの相似を裏付ける。中心となる〈自己〉の不在を脳科学が教えているように、自ら統治するマルチチュードの新しい社会は、主導する中央集権なしの相互作用体のパンデモニズム(混沌状態モデル)としての自我という、現代認知科学の発想へと接近するだろう。ネグリの考えるコミュニズムが、不気味なほど「ポストモダン」のデジタル資本主義と似てくるのも無理もない。(P98)
  ポストモダン資本主義への移行は、「1968年革命」――先進資本主義国家において発生した反乱を境界として開始された。1968年の反乱を肯定的に評価する潮流は日本の言論思想界にも存在するし、一連の運動の継続的発展を志向するグループもある。しかし、著者(ジジェク)は、「1968年」を以下のとおり批判する。
(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(P99~103) 
 
「ポストモダン」資本主義の出現について、著者(ジジェク)は、1968年の抗議行動とは、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だったと規定する。三本柱とは、①工場、②学校、③家庭、である。しかし、この各領域はのちに脱工業化型へ変容を遂げた。工場は外注化され、ポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。学校は、公的義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている。

1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。そのことを踏まえ、著者(ジジェク)は、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる。
(ポストインダストリアル資本主義では、)搾取はレント(超過利潤)の形をとる。ポストインダストリアル資本主義は「生成する超過利潤」に特徴づけられる(カルロ・ヴェルチュローネ)という。つまり、市場で「自然」発生しない条件を課すための直接権限=超過利潤を引き出す法的条件が必要になる。ここに「ポストモダン」資本主義の根本的「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入と共存が、依存しあっている。
したがって、現代の歴史的変化の地平に見えるものとは、個人的な自由主義と享楽主義が複雑に張り巡らされた国家規制のメカニズムと共存する(そして支えあう)社会である。現代の国家は、消滅するどころか、力を強めている。富の創出に「一般知性」(知識と社会協働)が果たす役割が重く、富の形式が「生産に要した直接労働の時間とつりあわなく」なってきたら、その結果は、マルクスが予期していた資本主義の自己解体ではなく、労働力の搾取によって生じる利潤から、この「一般知性」を私有化して盗みとる超過利潤への漸進的・相対的な変化である。(P238~239)
著者(ジジェク)は、なぜ、多くの人がビル・ゲイツ(マクロソフト社)の製品を買っているのか? と読者に問う――“それは競合他社より低価格の優良ソフトを製造しているからではない。マイクロソフト社がほぼ世界標準化し(事実上)業界を独占して、ある意味、自身を「一般知性」化できたからだ”という。

(マイクロソフト社は、)「一般知性」の特殊形態に、何百万人という知的労働者を参加させて得たレント(超過利潤)をくすねてきたからだ。現代の知的労働者はもはや労働の客観的諸条件から切り離されていない(PCの自己所有など)、すなわちマルクスのいう資本主義の「疎外」とは無縁である、という。だが、根本的には知的労働者は、自らの仕事の社会領域、「一般知性」から分断されたままだ。なぜなら「一般知性」は私的資本によって提供されているのだから。(P240)
そして、著者(ジジェク)は、現代の先進国に出現した、「三つの主な階級」について説明する。生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつある。

この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至るという。

そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだ。

著者(ジジェク)はもちろん、三分割されたプロレタリアートの団結を求めている。だが、“新たな「ポストインダストリアル」資本主義の状況において、労働者階級の三つの部分の団結は、すでに勝利である。しかし、この団結は、これを歴史のプロセスの「客観的傾向」であると規定する「大文字の他者」に保証されるものではない”といい、ここでも俗論的「史的唯物論」に警鐘を鳴らす。

本書の結びに、「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」という唐突なスローガンが掲げられる。

“未来はヘーゲル主義にある。人類を待ちうける唯一真実の選択肢(社会主義とコミュニズムのあいだの道)は、ふたつのヘーゲル主義のあいだの道でもある”という。

その一つは、ヘーゲルの「保守的」な見方=「アジア的価値観をもつ資本主義」、すなわち、階級組織化され、管理する「公僕」と伝統的な価値観をもつ強大な権力国家に統制された、資本主義市民社会(=現代の日本、リーカンユーがつくったシンガポール、そして、中国)であり、もう一つは、ヘーゲルのみたハイチ革命である。

ハイチ革命(1791 – 1804)とは、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命ともいわれる。これにより、自由黒人の共和国としてハイチが建国された。革命が起こった時、ハイチはサン=ドマングと呼ばれるフランスの植民地であった。この革命によって、アフリカ人とアフリカ人を先祖に持つ人々がフランスの植民地統治から解放されただけでなく、奴隷状態からも解放された。奴隷が世界中で使われていた時代に多くの奴隷の反乱が起こったが、サン=ドマングの反乱だけが成功し、全土を恒久的に解放できた。フランス革命で「自由、平等、博愛」を掲げたフランス人は、海外では植民地において奴隷を使役し、自由を抑圧していたのだ。著者(ジジェク)は、バック=モースを引用して、「普遍的人間性が境界でみられる」ことを以下のとおり説明する。
人類の普遍性はむしろ、多様な異なる文化を対等に扱った集団的文化属性を介して間接に認識されるというよりも、歴史の裂け目に生じた出来事に現れる。自分のもつ文化の緊張を限界まで高めた人たちが、歴史の断絶面において限界を超越した人間性を表す。そしてこの人たちの言い分を理解できそうなのは、彼らの未熟で自由で傷つきやすい状態に私たちが同化しているときだ。文化の差異にかかわらず、共通の人間性は存在する。特定の集団に帰属しないでいることが、普遍的・道徳的情操を、現代の情熱と希望の源を引きつけうる、隠された連帯を可能にする。(P188)

前出のとおり、フランス革命(1789年)は、ハイチに波及した。当時の西欧知識人は、ハイチ革命について情熱をもって受け止めたという。その中の1人ヘーゲルがハイチ革命にみたものとは、“社会ヒエラルキーの「私的」序列に定位置を欠く、つまり社会的身体の「器官なき部位」であるがゆえに、普遍性を体現できる集団”であった。
正当なコミュニズム革命の熱狂は、この「器官なき部位」と単独的普遍性という立場との完全な一致に、無条件に根ざしている。(P206)
以下、著者のコミュニズム運動に対する見解を引用しておく。
もしかして解決は、そこで過去のすべてが清算されるという象徴的な〈最後の審判〉の幻想などを伴わない、終末論的な期待にあるのかもしれない。(P244)
新しい運動を起こすことよりも、現在支配的な運動を中断させること。これが今日あるべき政治活動のすることだ。(P244~245)
歴史は直線的に発展するという見方の内側では考えられないこと、それは、自らの可能性を過去に遡って開く選択または行為という概念である。もちろん、ここでいう過去とは、現実の過去ではなく〈SFじゃあるまいし〉、過去の可能性(正式な用語でいえば、過去についての様相命題の価値)である。(P246~247)
未来はわれわれの過去の行為から偶然に生みだされるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。(P247)
真実の行為とは、われわれがそれについて充分な知識をもっている明白な状況への戦略的な介入などではない。逆に真実の行為こそが知識の空隙を埋めるのだ。この考察は、当然ながら「科学的社会主義」――科学的知識に導かれる解放のプロセスという概念を根底からゆさぶるものである。(P249)
そこで、著者(ジジェク)は、20世紀の左派が待望した、哲人王、哲学を学んだ統治者という考えとは決別すべきであり、くじによる選定こそ唯一真の民主主義的選択であるという、柄谷行人の提唱するプロレタリア独裁の形式を重んじる。そして、同様に左派がこれまで依拠してきた、「直接」参加型民主主義=ソヴィエト=評議会を否定する。
「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」これこそ、待望久しいラディカルな社会改造を起こさせる新たな革命行為者の到来を待ち焦がれていた、左派知識人たちに対する唯一の回答である。(P251)
「歴史は人類の味方」だった古典派マルクス主義(プロレタリアートが全人類の解放という宿命的な使命を果たす)とは対照的に、現代では〈大文字の他者〉はわれわれの敵であると位置づけられている。歴史的発展の内なる強制力は、そのまま放っておけば、大惨事へ、破滅へと向かっていく。そのような災厄をくい止められるのは、純粋な主意主義、つまり歴史的必然に対抗する自由意志だけだ。(P254)
今日、アメリカからインド、中国、日本まで、中南米からアフリカまで、中東から東西ヨーロッパまで、世界中で第二、第三のクラフチェンコが登場してきている。そして支配者がもっとも恐れるのは、この人たちの声が互いに響きあい、支えあい、連帯していくことだ。破滅へ向かいつつあると認識しながらも、彼らは、いかなる困難にも立ち向かう覚悟を固めている。20世紀のコミュニズムに幻滅して「そもそもの始まりからはじめ」、新しい土台の上にコミュニズムを再構築している。敵からは、危険なユートピア主義者とけなされながらも、いまなお世界の大半をおおっているユートピア的な夢から実際に目覚めたのは彼らだけだ。20世紀の〈現実に存在した社会主義〉へのノスタルジーではなく、彼らこそわれわれ唯一の希望である。(P257)
※クラフチェンコとは、1944年にソ連から米国に亡命した外交官。回想録『私は自由を選んだ』を書いた。彼の本は、スターリニズムの恐怖、強制された集産主義とウクライナの大飢饉が詳述されている。

最後に、著者(ジジェク)は、コミュニズムへの回帰を呼びかける。
キリスト教世界では、自堕落な暮らしを送った人たちが年老いてから安全な避難所である教会に戻り、神と和解して天に召されるのは、かつては普通のことだった。同様のことが現代の多くの反コミュニスト左派にも起っている。晩年を迎えて、下劣な裏切りの人生ののちに、コミュニズムの〈大文字の概念〉と和解して天に召されたい、と望むのだ。後年になっての転向は、昔のキリスト教徒と同じメッセージを送っている。むなしい反抗に人生を費やしてきたが、心の奥底ではずっとそれが真実だと知っていたということだ。

クラフチェンコのような偉大な反(アンチ)コミュニストでも自分の信ずるところはある意味で戻れるのだから、今日のわれわれのメッセージはこうあらねばならない。恐れるな、さあ、戻っておいで! 反(アンチ)コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!(P258)

スラヴォイ・ジジェクは1949年スロヴェニア生まれ。日本でいう「団塊の世代」に属している。ジジェクが旧ユーゴスラビアでどのようなコミュニズム運動を体験してきたかは不勉強のため知らない。だが、ここで彼が“戻っておいで!”と呼びかけている相手は、日本における「団塊の世代」の者たち、あの「1968年革命」の経験者たち、のように思えてならない。

2010年7月29日木曜日

ロシア大使館

来月からの海外旅行の中継地点はロシアの首都モスクワ。

アルメニアからの帰路、およそ10時間のトランジットがある。

空港で待つか、出国するか迷った挙句、出国することに。

そこで、ロシア大使館にトランジットビザを申請しに行ってきた。

大使館前はものものしい警戒で、機動隊員が入口を固めている。

査証の事務は、正面入口から右に進んだ領事部。

入口がわからなくって行き過ぎてしまった。

中に入ると、銀行にあるような受付順番カードの機械が置いてある。

パスポートを何十冊も抱えた、旅行代理店の人が数人と、在日ロシア人らしき人が2~3人。

カードをとって待つこと数十分、書類審査はあっという間に完了。

交付希望日を聞かれて、出発前の日付を言うと、運よく2週間前だったので、申請費用もかからない。

無料というのは良心的。

2010年7月26日月曜日

手術だ

ちかごろ、左目の視力ががくんと、落ちたように思われた。

そこで、コンタクトレンズを交換しようと、眼科に行った。

眼科に限らず、医者に行くのは何年ぶりになるのだろうか。

視力検査、望遠鏡をのぞくような検査をした後、「白内障ですね」と診断が。手術をすすめられた。

でも、いま申し込んだとしても、手術するのは早くて2ヶ月後とのこと。

都内の有名な大病院を3つほど候補先にあげてくれた。

日帰りのところと、3泊4日のところがあるらしい。

無論、日帰りにします。しかし、手術とは・・・緊張する。

2010年7月19日月曜日

ワールドカップ考現学――南アフリカ大会私的総括

2010年、南アフリカで開催されたワールドカップは、その変容を明確に世界中の人々に示した大会だった。今日、大会参加国民の関心のあり方及び国家の思惑に規定され、代表サッカーは、その戦略・戦術を転換せざるを得なくなった。代表チームは“なによりも負けないサッカー”をすることが重要となった。

経済のグローバル化の進行と、その裏腹に惹起する世界金融危機が断続的に人々の暮らしを襲っている。そうした状況下、国別に戦われるワールドカップは、国民国家の擬似的復権を表象しているかのようだ。ワールドカップとは、失われた国家と国民の一体感を再び獲得する、疑似イベントとなったようだ。

(1)国家的プロジェクトとしての代表チームづくり

ワールドカップを巡って、世界のサッカー界は、2つの異なる立場を明らかにした。1つは、ワールドカップを国家的プロジェクトとしてとらえるものであり、一方は、旧来どおり、スターの寄せ集めチームとして大会に臨む立場だ。前者は、ワールドカップでの好成績がサッカー協会の利益のみならず、国家・国民・政府の利益に通じることを理解している。たとえば、南ア大会途中に崩壊したフランスチームの代表監督は、フランス大統領に、直接、電話で代表チームの混乱状況を説明しなければならなかった。また、今大会中、ドイツの首相、オランダ王室、アメリカの元大統領等の要人が、スタジアムに散見された。国家とワールドカップが一体であることは、このようなことから説明できる。

(2)代表強化を為し得ない国家事情

ワールドカップにおける代表チームの成功は、その国家の成功に通じている――サッカーは政治(統治)の一手段になった。もちろん、そのようなレベルに至らない国家もある。アフリカ勢がその代表的存在だ。とりわけ、ブラックアフリカ諸国は、国内リーグの基盤が脆弱であり、かつ、ナショナルチームづくりに必要なノウハウ、資金、システムが整備されていない。国民が自国代表チームのワールドカップにおける活躍を望みながら、国家がそれを支援するパワーを持っていない。

先進国の中で、国家と代表が一体化しえない事例として、英国の事情を挙げておく。英国は、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドと、代表権が分散している。イングランドは英国の代表ではない。イングランドの成功を望むのは、英国民の一部にすぎない。

もちろん、イングランドのプレミアは、英国内の他のリーグを、その規模、選手層、チームの実力において、大きく上回っている。中村俊輔がプレーしたスコットランドリーグの実力は、イングランドのプレミアリーグと比較すれば、はるかに下のレベルにある。

イングランドのプレミアが英国最強リーグであり、イングランド代表は英国内の他の代表の実力を大きく上回っている。だが、過去のワールドカップにおいて、イングランドが優勝したのは1966年のイングランド開催のみであることに注目していい。イングランド代表はローカル代表であり、国家を背負っていない、というよりも、国家を背負いきれない国情にある。

(3)代表チームを支援するのは民力

ここでいう国家とは、政府という意味ではない。行政を含めた経済力、生活レベル、情報整備網、地域の統合の具合、スポーツ文化等を総合したもの――民力をいう。であるから、ここでいう国家的プロジェクトとは、かつての社会主義国家群が行ったステートアマチュアとは異なる。代表選手を育成するのは私的所有のクラブであり、それを束ねるのは民間のサッカー協会であり、資金は企業が提供するスポンサー契約が土台となる。加えて、代表チームに対して国民的支援を募り、かつ、それを増幅するのは国家のプロパガンダによるものではなく、民間のスポーツ情報産業(メディア)が担う。アフリカ勢は、以上の要素のいずれもが自国内に構築できていない。

(4)ワールドカップの転換点――21世紀最初の日韓大会がもたらしたもの

サッカーが国家的プロジェクトへと成長したのはいつごろなのか。筆者の直感ではかなり最近のことで、21世紀から(2002年の日韓大会)だと思う。20世紀最後の1998年フランス大会では、フランスが優勝しながら、同国内の右派が移民を主体とした自国ナショナルチームに不当な批判を加えた。このことは、ワールドカップの(フランス)代表チームは、国民(国家)から、完全な負託を得ていないことを象徴する。20世紀末、ワールドカップは、サッカーの国際大会の域を脱していなかった。

21世紀最初の日韓大会のいくつかの成功のうち、特筆すべきは、日韓両国民の親和性の獲得だろう。日韓大会以降、両国の文化レベルの交流が急激に進み、両国民の間のわだかまりは緩和された。日韓の相互理解は、ワールドカップ日韓大会の媒介なくしてはあり得なかった。

(5)ナチズムの呪縛からの解放――ドイツ大会

続く2006年ドイツ大会は、東西ドイツの統合をいっそう進めた。74年の西ドイツ大会は東西の融合の阻害要因ではなかったが、ドイツ統合の契機とはならなかった。

こんなエピソードがある。南アフリカ大会開催直前、TVのワールドカップ特集番組に出演したドイツ人女性は、次のような意味の発言をした。「(ワールドカップのすばらしさはいろいろあるけれど、)ドイツ大会の成功により、わたしたちドイツ国民が旗を振って集まっても、ヨーロッパの人から不審な目でみられなくなったのよね」。日本語堪能なドイツ人女性のこのコメントに、筆者は、目から鱗が落ちる思いがした。

アジアに住む人間には理解しにくいコメントだが、ヨーロッパ諸国におけるナチズムの記憶は、2006年(ワールドカップドイツ大会)をもって、ほぼ消滅したといっても過言でない。また、別言すれば、2006年、ヨーロッパの人々がナチズムの記憶を消し去ったというよりも、ドイツ人自身がナチスの呪縛から解放されたといったほうがいいのかもしれない。

そして南アフリカ大会である。この大会の政治的成功については、言うまでもない。第二次世界大戦以降、この国が行ってきた人種隔離政策に代表される同国に係るマイナスイメージは、本大会の成功をもって、ほぼ、表層的には国際的レベルで払拭された。ワールドカップの成功が、南アフリカに対して、国際舞台における一定の地位を約束したはずだ。

(6)政治的・国家的に勝利を求められる代表チーム

■スーパースター依存は失敗のもと

これほどまでのサクセスストーリーを提供するワールドカップ。代表チームには勝利が求められる。ワールドカップに出場する各国代表チームは、必勝という重荷を背負い、これまでの牧歌的戦術――顔見世興行――を変更せざるを得なくなった。必勝に向け、戦略・戦術の転換を強いられた。

必勝のための戦略転換とは、組織・規律・チームプレーの徹底だ。スーパースターに依存するだけの代表チームでは勝てなくなった。代表チーム=寄せ集め集団を、短期間に強いチーム(組織)として機能させるノウハウ(をもった指揮官)が、求められるようになった。40年以上も優勝から遠ざかっているイングランド(サッカー協会)が、カッペロというイタリア人に指揮を託した理由の1つもそこにある(結果は失敗に終わったが)。こうして、メッシ、カカ、C・ロナウドらの現代のスーパースターたちは、マラドーナ、クライフ、ベッケンバウアーといった、過去のワールドカップ英雄伝説の再現を為し得なかった。むしろ、スーパースター依存が勝負にはマイナスとなったのだ。

■スペイン方式――最強クラブ依存型の台頭

今回優勝したスペイン代表は、前出のイングランド代表と似たような環境におかれていた。スペインという国民国家がもちろん存在していて、マドリードを首都とする。しかし、マドリードに対して、バルセロナを首都とするカタルーニャ(という国家)があり、東部山岳地帯にはバスク(という国家内国家)がある。彼らはスペインからの独立をいまなお、強く望んでいる。そのため、これまで、スペインは優勝する実力がありながら、統一チームとしては脆弱だった。それを克服したのが南ア大会のスペイン代表チームだった。

スペインは、(カタルーニャという国内国家の首都に設立された)FCバルセロナという世界で最強の1つのクラブチームに所属する選手を中心にして、代表チームを組成した。オランダとの決勝戦に先発出場した選手のうち、FCバルセロナ以外の選手は、レアルマドリード所属のGKカシージャス、DFラモス、MFのXアロンソの3人と、ビジャレアル所属のDFカプデビラ、バレンシア所属のビリャの5人だった。

それ以外、DFピケ、DFプジョール、MFブスケッツ、MFペドロ、MFシャビ、MFイニエスタがバルセロナFC所属である。

スペイン代表の主力を構成するクラブは、FCバルセロナ(6名)、レアルマドリード(3名)、ビジャレアル・バレンシア(各1名)の4クラブで、FCバルセロナという単一クラブに完全に依存した代表チームであったことは容易に理解できる。

■イングランド方式の失敗――ドリームチームをつくったから勝てるとは限らない

その一方、相変わらずのビッグネームの集積がイングランドだった。ラウンド16でイングランドがドイツに負けた試合の先発メンバーをおさらいしておこう。GKジェームス(ポーツマス)、DFコール(チェルシー)、DFテリー(チェルシー)、DFアッブソン(ウエストハム)、DFジョンソン(リヴァプール)、MFジェラード(リヴァプール)、MFバリー(マンチェスターユナイテッド)、MFランパート(チェルシー)、MFミルナー(アストンビラ)、FWルーニー(マンチェスターユナイテッド)、デフォー(トッテナム)。イングランドも先発全員が自国リーグ(イングランドプレミア)で、他国リーグでプレーする代表選手はいない。しかし、クラブ別に見ると、チェルシー3人、リヴァプール2人、マンチェスターユナイテッド2人、ポーツマス・ウエストハム・マンチェスターシティー・アストンビラ・トッテナム各1人と、完全な分散化傾向を示している。

そればかりではない。イングランドプレミアが、そのローカル性ゆえ、無原則的コスモポリタン性へと進化し(国民国家の制約をうけにくいがゆえに)、同リーグの有力クラブでは、外国人選手ばかりが試合に出場するという、珍現象が生じている。欧州最強リーグの1つであるイングランドプレミアにイングランド人がいないというわけだ。それゆえ、イングランドは代表試合で勝てない、という指摘もある。

しかも、ヨーロッパの各国リーグ最終節は、概ね5月中旬(イングランドプレミアの場合、たとえば、チェルシーの最終節は5月10日、FAカップのチェルシーとポーツマスの対戦が5月15日)であった。ワールドカップ開催日(グループリーグ第1試合開催を起算日として)が6月10日だったから、準備期間は1ヶ月を切っている。イングランドの場合は、寄せ集めのチームにして、代表チームとしての準備期間は1月弱と短い。

そこで思いだされるのが、イングランド―日本の強化試合(5月30日/オーストリア、グラーツ)だ。筆者は、5月31日付の別コラムにおいて、「いまのイングランドなら韓国のほうが強い」を書いた。強化試合の結果は、日本代表のオウンゴールでイングランドが逆転勝ちしたが、イングランドの内容は悪かった。いまにして思えば、イングランドの調整はあのとき、筆者が受けた印象のとおり、けして万全ではなかったのだ。

ワールドカップ出場国には、スペイン方式とイングランド方式があり、両者の比較においては、イングランド方式ではワールドカップに勝てないことがわかってきた。といよりも、イングランドサッカー界は、グローバルスタンダードとかけ離れすぎている。

さりとて、スペイン方式とは、自国リーグが世界最高レベルの1つであるという条件により成り立つ。しかも、その中の最強クラブの1つFCバルセロナに依存したものだ。この方式はむしろ、例外だといえるかもしれない。

(7)ドイツはブラジルと互角の実力者

今回のワールドカップでは、優勝したスペインと並んで、オランダ、ドイツが優秀な成績をおさめた。この2国は、スペイン、イングランドの2方式とは異なる代表強化を行った。オランダの場合は、突出した攻撃陣のタレント(ロッベン、ファンペルシー、カイト、スナイデル等)を擁しており、しかも、戦術として、古典的分業制を貫き、それが結果として、好成績につながった。オランダには代表チームづくりのフォーミュラーがない、と確言できないものの、今大会の強さの継続性は乏しかろう。あれほどのタレントが代表チームに結集することは、そう何度もあることではない。オランダは、今世紀最大のチャンスを逃した。

ドイツは今大会、オランダより下位に甘んじたものの、ドイツこそが、ワールドカップ最強国の1つなのだ。第二次大戦後、ワールドカップは14回開催されたが、ドイツは、うち(西ドイツ時代を含めて)、優勝3回、準優勝4回、3位3回、4位1回という、驚異的成績をあげている。ベスト4をカウントすると、大会14回のうち11回だ。サッカー王国ブラジルは優勝5回、準優勝2回、3位1回、4位1回となり、ベスト4の合計は9回と、ドイツを下回る。ドイツは優勝回数でこそブラジルを下回るが、決勝進出回数で互角、ベスト4進出回数ならば、ドイツのほうがブラジルより2回多い。つまり、ワールドカップの主役はブラジルとドイツなのだ。日本がナショナルチームをつくるうえでの指針とすべきは、ドイツかブラジルかと問われれば、当然のことながら、ドイツだと回答すべきだ。ブラジルはなんといっても、天才の国なのだから、どこも真似できない。

(8)ドイツに肩を並べた日本型システム

今大会優勝国のスペインだが、日本は、スペイン方式を真似したくても真似できない。そのことは、既に見たとおり。Jリーグがスペインリーグと同じレベルに到達するには、まだまだかなりの時間を要する。今回準優勝のオランダもスペインとは違った意味において、日本から遠い。イングランドは環境が違いすぎる。国家組成の歴史的規定により、ワールドカップがナショナルプロジェクトになりにくい。

となると、ヨーロッパから1国を選べば、フォーミュラーとして学ぶべきはドイツということになる。もちろん、ドイツと日本とでは、身長・体重等の体格の面の差があり、戦術的共有はあり得ない。しかし、代表チームの組成技術という面においては、ドイツこそが日本の指針であり、しかも、今大会、日本がベスト16入りを果たせたということは、組織づくりという側面で、日本がドイツに近いレベルに到達したことを証明している。

世界、とりわけ欧州が日本のグループリーグ(E組)突破を驚きをもって迎えたのは、理由がある。日本という個の力量に乏しいチームが、日本を上回る戦力をもったカメルーン、デンマークに勝ったことに驚いたのだ。欧州各国は、100年以上の歴史をもつプロのサッカーリーグを有している。サッカーを見る目は肥えているはずなのだが、近年、欧州サッカーがビッグクラブ中心に回っているため、欧州のメディア及びサポーターがサッカーの本質を忘れかけてしまったようだ。リーグ戦が一流クラブのスター選手を中心に展開しているため、ワールドカップもそのように見てしまったのだ。そのため、サッカーが本来もっている、組織性、集団性、規律、統一された戦術眼の有無等に配慮しなくなったのだ。いや、クラブ戦では、厳しく組織性・集団性に目配りしながら、ワールドカップでは、その視点を曇らせた。

その間隙をついて、グループリーグを勝ち上がったのが、南米の中堅国(ウルグアイ、パラグアイ、チリ)であり、欧州の小国(スロベニア、スロバキア)であり、アジアの日韓であった。

(9)より強化されると予想される、世界各国の代表チームづくり

フランス、イタリアの敗退を含めて、世界各国は、ワールドカップへの取組み方について、根本的見直しを始めることだろう。リーグ戦を縮減してまでワールドカップを支援するかどうかまでは判然としないものの、ワールドカップへのマイナス要素を、いくらかでも排除しようと努めるだろう。その結果として、2014年には、日本が南アフリカで勝ち取った「ベスト16」に至るシナリオが時代遅れになる可能性も十二分にあり得る。日本が南アフリカの成功事例に固執する限り、4年後のブラジルでは、地獄に堕ちる。南アフリカの実績は、ブラジルにおける成功の条件の阻害物になるとも限らない。

日本がブラジルで成功するためには、もてる情報を駆使して、最高の指揮官を探すことだ。オシムを日本に連れてきたのは、日本のサッカー協会ではなく、ジェフユナイテッド千葉というクラブチームだった。2002年日韓大会終了後、日本サッカー協会幹部の頭の中には、オシムの「オ」の字もなかった。2002~2006年までのジーコ監督の時代は、「失われた4年」という表現こそが相応しい。2010年以後――ポスト岡田をだれにするか――代表監督次第で、2014年の結果が左右される。

2010年7月13日火曜日

『隼人世界の島々(「海と列島文化」第5巻)』

●大林太良ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)

本書にて扱われる地域は九州南部の日向・大隈(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)、そして、薩南諸島の島々――甑島、種子島、屋久島、トカラ列島の口之島、臥蛇島、宝島等までで、奄美大島以南は含まれない。

■西海大海島帯

本題にあるとおり、列島の神話時代、同地域は隼人(=クマソ)の勢力圏にあって、後代、大和朝廷勢力が、同勢力を服属させたことになっている。しかしながら、日本神話においては日向こそが大和朝廷勢力の本貫(籍)であったことがうかがえる。また、いくつかの神話の意味するものは、日向に起った一部族(=後に大和朝廷勢力に成長)が、九州南部の先住的勢力と合体し、東征して大和に入った、もしくは、先住勢力の支援を受け、大和へ勢力を伸張させた、と推測されている。

九州南部の先住勢力は、「西海大海島帯」と呼ばれる圏域に属していて、南から、台湾~琉球諸島~南西諸島~奄美諸島~トカラ列島~大隈諸島~甑島~大隈半島~五島列島~壱岐~対馬を経て、朝鮮半島南部に至る島と半島で構成される。その距離は、本州南部から北部までに相当する。隼人=クマソは、「西海大海島帯」に発達した南方海洋起源の勢力の北部住民の別称であろうか。ちなみに、大和朝廷勢力は、この勢力のことを征服前は「クマソ」と、また、征服後は「隼人」と呼んだ。

■種子島に伝わる赤米と踏耕(ホイトウ)

日本列島の水田から姿を消した赤米が、「西海大海島帯」の種子島の宝満神社と、もう一箇所、対馬の多久頭魂神社において、いまなお、栽培され続けている。赤米は、アジア各地で栽培されている「インディカ」、また、日本で一般的な「ジャポニカ」とは種を異にし、「ジャパニカ」に近いとされる。「ジャパニカ」は、その名のとおり、中部ジャワ、さらに東方のインドネシア島嶼域にかけて分布する「ブル」の仲間である。赤米は、ラオス(ビエンチャン)北東部、インド東北部アッサム地方に分布する陸稲兼用種にも近いという。

このことから、種子島に伝えられた赤米が、インド東北部、東南アジアもしくはインドネシアを起源とする種類の稲であり、前出の「西海大海島帯」を北上して、日本にもたらされた可能性を否定できない。「稲の道」の1つ、南方ルートである。

種子島には明治時代まで、踏耕(ホイトウ)と呼ばれる農耕技術が残されていた。「ホイトウ」とは一般には、踏耕(とうこう)、蹄耕(ていこう)といい、何頭かの馬または牛を水を入れた田に追い込んで踏ませ、水田の土を柔らかくし、また床締めをする作業のこと。東南アジアの観光写真等ではおなじみの風景だが、こうした技術が南方を起源として、日本列島にもたらされたと考えるほうが自然である。

ブルの米と踏耕(ホイトウ)は、西はマダガスカルからスリランカ、タイ、マレー、インドネシア島嶼地域、フィリピン、そして「西海大海島帯」(前出のとおり日本では琉球諸島から奄美、トカラ、九州南部を経て日本列島を北上)につながっている。その風景を、マレー・ポリネシア語族の生活空間としてくくり、「オーストロネシア的稲作」と呼ぶ。

■薩南諸島の仮面文化

薩南諸島の仮面文化としては、甑島南部の「トシドン」、トカラ列島・悪石島の「ボゼ」種子島の「トシトイドン」、屋久島の「トシノカンサマ」、三島・竹島の「タカメン」「カズラメン」硫黄島の「メンドン」などがよく知られている。いずれも異形の仮面の来訪神で、長い鼻をもち、蓑で体を覆っている。これらの仮面のデザイン上のルーツについてはよく、分かっていない。また、南九州の海沿い各地には、草被り神、竜神信仰=綱引きが盛んである。

■大和と琉球の境界という概念は危険

本書が扱う圏域を「大和文化圏」、その南側、すなわち、奄美諸島以南を「琉球文化圏」とする認識は、正確ではない。日本列島に特徴的な文化の基層に「西海大海島帯」の文化があり、そこから後年、「大和文化圏」と「琉球文化圏」に分離、発展した時代が続いたまでである。その結果として、奄美諸島以南は琉球的発展を示し、トカラ列島以北は大和的発展をみせた。そのため、トカラ列島、奄美諸島には、双方の融合が見られることもあるし、島内のある地域は大和的であったり、琉球的であったりすることもあり得た。

日本神話(記紀等)にある南方的・海洋的要素を読み解く努力が必要である。

2010年7月12日月曜日

W杯決勝と参院選

午前2時すぎに目が覚め、テレビの前へ。すでにW杯中継が始まっていた。現地のスタジオのゲストがヒデ、日本のスタジオのゲストが岡崎。引退した者、現役という立場の違いはあるものの、話し方、内容、表現力において、両者の頭の中の差異が明白。サッカーにはフィジカル以外にセンスだとかコミュニケーション能力も必要なはず。それがプレーやリーダーシップの差となることもある。だれにどうしろとは言わないけれど、身体だけでなく脳も鍛えなければ一流選手にはなれない。

決勝戦は90分で終わらずに延長戦へ。勝負がついたときには、明るくなっていた。オランダは汚いファウルが多い。身体はでかいけれど、サッカーは上手くない。スペインはパスがつながるが、フィニッシュが弱い。一進一退が繰り返され、なんとかスペインが勝った。サッカー中継のあいだいは、参院選の結果に関心が向かわない。

仮眠して目覚めるも、風の強い、曇天は変わらないまま。昨日は、投票に行ったけれど、何かが起るという期待感はない。前日までのマスコミ調査では、民主党が負けると報道されていた。前の衆院選でも調査結果どおりの投票結果となっていたので、今回も臨場感がわかない。

朝刊を見ると、調査結果どおり。こうなると、投票するのが面倒くさい。調査結果どおりになるのは、投票率が5割程度と低いからだろう。投票率が7~8割に達すれば、調査結果と投票結果が異なることも起り得るのではないか。選挙の専門家がいろいろ講釈を垂れるけど、投票率を高くする方法を提案してほしい。国民の半分の半分強、つまり全体の4分の1強の負託しか得ていない者が、国を動かす結果になっている。

2010年7月9日金曜日

オレンジ軍団は敗北する

(1)決勝の予想はタコに聞け

W杯はいよいよ決勝戦。オランダ-スペインの欧州勢の対決となった。どちらが勝つのかは、まったく分からない。開催前、筆者が優勝候補に上げたのがイタリア。グループリーグで敗退してしまった。準準決勝のオランダ―ブラジル戦もブラジルの勝ちを予想していた。そればかりではない。いまでは遠い昔のような話になってしまったけれど、グループリーグE組では、日本の敗退を予想していた。

そんなわけで、決勝戦の展開もわからない。ドイツの水族館で飼われているタコの「パオロ」に聞いたほうがいい。それでも敢えて邪推を繰り返せば、オランダが負ける(スペインが勝つのではなく)と思う。その根拠は、オランダと南アフリカの歴史的関係を振り返るが故である。

(2)オランダ人の南ア入植

ご承知のように、南アフリカは、大航海時代(1482)、ポルトガル人バーソロミュー・ディアスにより欧州世界から「発見」され、以降、欧州からの入植が開始された。17世紀、最初に海岸沿いに入植を開始したのがオランダ人で、アフリカ系先住民から土地を奪った。彼らは「アフリカーナー」「ボーア人」と呼ばれた。

次にやってきたのがフランス人(ユグノー)だった。ところが、南アの地勢的重要性に気づいた大英帝国が南ア進出を企てる。大英帝国は先に入植した「アフリカーナー」(オランダ人)を追いたて、追い立てられた「アフリカーナー」は内陸部に進出し、アフリカ系先住民から土地を奪い取った。そして、1852年「アフリカーナー」が内陸部(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)に「トランスヴァール共和国(首都プレトリア)」を、1854年「オレンジ自由国(首都ブルームフォンテーン)」を建国した。

(3)オランダの後退と大英帝国の進出

1869年、「オレンジ自由国」の首都ブルームスフォンテーンの北、キンバリーでダイヤモンドの採掘(さいくつ)が開始され、1872年、トランスヴァール東部で金が発見される。そこに生まれた町がヨハネスブルグである。

1880~1881年、第一次ボーア戦争が大英帝国と「アフリカーナー」との間で戦われた。大英帝国が「トランスヴァール共和国」を併合しようとしたのだ。ボーアとは農民の意味で、南アに最初に入植したオランダ人「アフリカーナー」と同じ意味だ。そのためトランスヴァール戦争とも呼ばれる。大英帝国はまず、ケープを占領。本国オランダより植民地譲渡を勝ち取る。その結果、東部海岸沿いのナタール地方が正式に大英帝国の植民地となった。つまりナタール地方とケープ地方は大英帝国系白人が支配し、「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」は「アフリカーナー」が支配することになった。

1899年~1902年、大英帝国は、ダイヤモンドと金の採掘権を奪い取ろうと、「オレンジ自由国」および「トランスヴァール共和国」の2つの共和国に侵略する。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収される。この戦争が第二次ボーア戦争である。

(4)血塗られた植民地戦争――大英帝国がオランダ系南ア人を大量殺戮

南アを植民地化してアフリカ系先住民から土地を奪ったオランダ、そして、金、ダイヤモンドの採掘権を奪取しようとしてボーア戦争を仕掛けたイギリス。南アの近世・近代史は、血塗られた歴史にほかならない。なかでも大英帝国側が行ったボーア人殺戮は現代のホロコーストの原型ともいわれている。1900年、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開しはじめる。これによって12万人のボーア人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払らわれた。この収容所では2万人が死亡したとされる。

(5)オランダ系南ア人の復権と人種隔離政策

第二次世界大戦後、南アの支配はイギリスから「アフリカーナー」勢力に移行し始め、イギリスと強い結びつきを持つイギリス連邦から脱退(1960年)して、国名を「南アフリカ連邦」から「南アフリカ共和国」に変えた。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定める人種隔離政策(アパルトヘイト)をおし進めた。

(6)アパルトヘイト政策の撤廃

今日、アパルトヘイト政策は撤廃(1994年)され、すべての南ア人に自由と平等が保障されるようになった、といわれているが、実態はどうなのか。

そんなわけで、南アとオランダは深い結びつきがあり、南アにおけるオランダ系住民の歴史は複雑なものがある。二度のボーア戦争でイギリスに敗れ、南アの支配権を奪われたものの、第二次大戦後に復権、南アに過酷な人種隔離政策を進めたのがオランダ系南ア人である。オランダ系南ア人と現在のオランダ人とは関係がないともいえるし、同胞だともいえる。南アはいってみれば、オランダの“準ホーム”と言えるかもしれない。(筆者としては、植民地を宗主国の“ホーム”と呼ぶことは憚れるが)

(7)オレンジ軍団の敗北――決勝の地は滅亡した「トランスヴァール共和国」

W杯南アフリカ大会決勝は、同国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある「サッカーシティースタジアム」で行われる。ヨハネスブルグといえば、前出のとおり、第二次ボーア戦争によって、「アフリカーナー(オランダ系南ア人)」が大英帝国に奪われたトランスヴァール地方に位置する。オランダは再びこの地で「敗北」する(と筆者は思っている)。相手は大英帝国ではなく、スペインではあるが。

なお、オランダ代表のナショナルカラー「オレンジ色」の由来は、オランダ王家の名前(オラニエ=ナッサウ家といい、かつてフランスのオランジュ領主だった)にあるといわれている。ただ、オラニエ、オランジュに「オレンジ色」の意味があるかどうかは、筆者にはわからない。

2010年6月27日日曜日

テキトーなところで幕引きの予感―角界「野球賭博」事件

このたびの角界「野球賭博事件」は今後、どのような展開を見せるのか。筆者の直感では、テキトーなところで、なんとなく曖昧な幕引きが行われると思っている。その推定根拠は以下のとおり。

(1)角界と一体化した「相撲記者クラブ」

本件、そして朝青龍事件が同一の週刊誌報道から発覚したことは何度も当該コラムで書いてきた。つまり、週刊誌が報道しなければ、直近の2つの角界の不祥事が世の中に報じられることはなかった可能性が高い。

ご存知のとおり、相撲業界に関する「公式報道」は、「相撲記者クラブ」を本源とする。同クラブは政界・官界における記者クラブと同質で、大新聞・TV等以外の雑誌、フリーランス、ウエブ等のジャーナリストは入れない。同クラブの「相撲記者」は相撲協会幹部・力士と接する特権をもっていて、力士に最も近い位置で取材ができる。ということは、このたびの事件、過去の諸々の角界の不祥事を取材しやすい立場にあるはずなのだが、前出のとおり、本件、朝青龍「暴行」事件、薬物事件、若手力士暴行事件等を報道してこなかった。本件と朝青龍事件は同一の週刊誌のスクープだ。

すなわち、「相撲記者クラブ」は角界に都合の悪いことは報道しない。彼らは相撲人気を煽り、相撲ファンを増やし、相撲報道を独占する特権的地位を確保し、相撲ニュースを独占販売する利権集団なのだから。もちろんNHKもその1つで、「相撲記者クラブ」が増幅する相撲人気を基盤とし、相撲中継で安定した視聴率を稼いでいる。相撲はNHKの優良なコンテンツになっている。であるから、角界と一体化している「相撲記者クラブ」が角界追及を本気で行うはずがない。

(2)有識者も特殊性論で角界を「援護」

一部の有識者は、本件を含めて角界について達観するシニシズム的傾向をもっている。この傾向を大雑把に言うと、日本国そのものが闇社会を包摂した存在なのだから、相撲界だけに浄化を求めても無駄だと説明しているように聞こえる。

戦後日本に民主主義体制が確立したにも関わらず、日本の政治家・大企業は闇社会と深く結びついていた。60年安保闘争と右翼テロ、政治家と街宣車、大企業と総会屋、金融業と債権回収、不動産業と地上げ、芸能界と興行権・・・等々に闇社会の影がちらついていた。相撲が芸能である以上、地方巡業と興行師の関係は否定しようもない。だから、いまさら、角界と闇勢力が「野球賭博」を介してつながっていたとしても、昔からのことなのだから騒ぐに値しないと。

このような達観傾向の一部は、当たっている。戦後日本の国家機能に闇勢力がビルトインしているという指摘は正しい。とりわけ、日本の保守勢力が闇勢力を駆使して問題処理に当たっていたことは否定しようもない。だが、近年、企業においてはコンプライアンスが徹底され、株主総会から総会屋が排除されている。日本社会がその筋との関係を完全に清算・根絶できないまでも、排除に努力する姿勢を強めているなかにあって、角界は「しょうがない」という論法はいただけない。一部の有識者の角界達観視が、本件の追及を阻害している。

(3)本気になれない文科省

本件発覚の後、相撲協会が公益法人であるところから、その監督官庁である文科省を攻撃する論調が盛り上がった。公益法人については公益法人制度改革に係る3法が2008年12月1日に施行されていて、すべての公益法人は、その日から5年以内に新制度に準じた新しい法人に移行しなければならない。現在のところ財団、社団といわれている法人は、その定款、寄付行為等を見直し、「一般」か「公益」を選択し、法施行から5年以内に内閣府(認定委員会)に再申請をする。再申請先が内閣府であることは、すべての公益法人が各省庁の所管から離れることを意味する。いま現在とは、各公益法人が「一般」か「公益」か選択して移行する期間に当たっている。

相撲協会は現に財団法人と呼ばれているが、相撲協会に限らず概ねすべての公益法人は、法的には特例民法法人であって、同協会はいずれ、「一般」「公益」を選択していずれかに移行するはずである。そして、そのときをもって、相撲協会は文科省の所管から外れる。文科省にしてみれば、極めて近い将来、自らの所管から外れる法人のトラブルに関心を持てないのではないか。新公益法人の申請を審査する認定委員会の委員の人事についても文科省の関与はない。

前出のとおり「財団法人日本相撲協会」という法人は法的には存在せず、いま現在は新公益法人への移行期とはいえ、移行が完了しない間は、相撲協会が文科省の監督下にあると考えられるから、本件に関する文科省の指導・監督責任は厳しく問われてもいい。

また、現に相撲協会の寄付行為第3条に、「この法人は、わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を練磨し、その指導普及を図るとともに、これに必要な施設を経営し、もって相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする。」と、「相撲道」が「国技」である旨を定めている。

新法施行前の公益法人制度では、所管官庁の文科省が相撲協会の寄付行為を認可したことになるから、国が「相撲道」を「国技」と定めたとみなしていい。よって、“協会が勝手に相撲を「国技」だといっているだけだ”というマスコミに登場するコメンテーターの指摘は正しくない。相撲協会が作成し提出した寄付行為(第3条)を文科省が認可しているのであるから、国=文科省は、相撲協会寄付行為第3条が規定する相撲は「国技」であることを認めたと考えられ、となれば、文科省が「相撲道」を「国技」である旨のお墨付きを与えたと考えるのは自然である。換言すれば、相撲が国技である根拠とは、文科省が同協会を公益法人として認可したことと、同協会の寄付行為の規定を認可したこととがが、一体的であることに求められる。

であるから、国技に係る者が野球賭博を反社会的勢力の影響の下に行っていたという本件の責任は、ただただ、文科省にある。相撲協会が今後いかなる法人格を選択するのかは定かではないが、いまのところ、本件の文科省の監督責任は厳しく問われるべきなのだが、「相撲記者クラブ」が相撲協会のみならず文科省とも一体化しているから、これ以上の文科省批判は湧き上がるはずがない。

(4)マスコミが厳しい批判を行わないから、当局も動かない

当局はどうなのか。当局の捜査の加減は、マスコミの動性に左右されるから、「相撲記者クラブ」が相撲協会と一体化している以上、厳しい捜査は期待できない。ごく一部の力士、角界関係者等に捜査が及んで、何人かの者に逮捕状が出されて終わるのではないか。

(5)協会に自浄能力を期待するのは・・・

当事者である相撲協会が調査を行い、自浄能力を発揮することは、過去の同協会の「実績」からみて、あり得ないと考えるほうが自然だろう。当局、マスコミ(相撲記者クラブ)、監督官庁・・・が協会を守っている以上、協会に危機感は生まれまい。その結果、事件は風化し、角界内部の悪は温存される。そして・・・

2010年6月23日水曜日

大名時計博物館

@Yanaka

2010年6月22日火曜日

社会の良識で相撲協会に制裁を―NHKは名古屋場所TV中継を中止せよ

「野球賭博」の当事者がTVに登場して“真実”をコメントし始めたことにより、相撲協会幹部の“作り話”が崩壊しつつある。当該コラムで前述したが、相撲協会幹部、親方、力士は平気で嘘をつくように筆者には思える。暴行事件のときも薬物疑惑のときもそうだった。“謝罪”もその場しのぎのものばかり、それが証拠に、疑惑が次から次へと湧き出してくる。

相撲協会は今回の事件をきっかけにして、反社会的勢力との結びつきを絶つことができるのか。それとも、曖昧な決着により、いままでどおり不適切な関係を続けるつもりなのか。

協会は、これまで、社会的批判を受け止めることがなかった。反省は見せ掛けで、その筋との不適切な関係を維持してきた。今回もそのつもりのようだ。協会の名古屋場所開催の意向が、そのことを物語っている。もちろん、当局・文科省・マスコミも協会を制裁することはないだろう。

だが、社会の良識が働けば、協会に法的制裁が及ばなくとも、協会を制裁することができる。その方法の第一は、生活者の制裁。人々がチケットを購入しないこと、第二は、企業の協力。企業が懸賞金を出さないこと、力士をCMに起用しないこと、第三が、メディアの協力。力士をメディアに登場させないこと、第四に、NHKの決断。公共放送がTV中継をしないこと――だ。いずれも協会の収入を断つことが目的であり、なかんずく、NHKが相撲中継を中止し、放映料を支払わないことが重要だ。NHKはこれまで、相撲協会が幾度となく不祥事を起こしながら、中継を取りやめなかった。

このたびの事件のカネの流れを大雑把に言えば、①庶民・企業等が相撲観戦のために支払ったチケット代、②企業が広告宣伝費として、力士・協会に支払った懸賞金等、③マスコミが力士・協会に支払った出演料(ギャラ)、④TV放映料・・・が協会の収入となり、その一部が親方・力士等の給料等として支払われ、受け取った力士等は給与の一部もしくは全部あるいはそれ以上の額を「野球賭博」に使い、賭け金の一部は胴元を通じて反社会的勢力の懐に入っている。つまり、相撲協会の①~④の収入は、野球賭博を通じて、反社会的勢力に流入している。

名古屋場所を開催しなければ、協会は経営的に打撃を受け、力士等に給与を払えなくなるという。当然である。一般企業が不祥事を起こせば、売上が減少し、経営は立ち行かなくなる。かりに、反社会的勢力と癒着していることが判明した企業が不買運動を起こされ、あるいは事業免許を取り上げられ、経営が危ぶまれたとしても、同情をしてくれる人はいない。当然の報いと理解される。相撲協会だけが例外とされる理由はない。

協会の収入は、賭博を通じて、反社会的勢力に流入している。協会の収入を断つことが、反社会的勢力の収入を断つことに通じる。NHKが生活者から徴収した視聴料は、TV放映料として相撲協会に入り、「野球賭博」を通じて、その筋の「収入」になっている。名古屋場所を協会が開催するのは勝手だが、NHKはTV中継を取りやめ、協会に放映料を支払うべきではない。同様に、企業等が提供する本場所中の懸賞金、優勝力士、三賞等の顕彰に係る報奨金、メディアが行う力士等のインタビュー等も同様に中止し、それに係るギャラの支払いを中止すべきだ。

社会が相撲協会に対して、その収入を絶つのは懲罰の意味もあるが、そればかりではない。賭博に関与した力士が名古屋場所を休場するのならば、日々の取組み自体が異常なものなのだから、そもそも、コンテンツとして崩壊している。協会は、名古屋場所で瑕疵のある興行を催し、それを正規の料金で見せるつもりなのだろうか。販売済みの前売り券については、もちろん、払い戻しを希望する者にはそうすべきだ。

多くの力士が疑惑により休場した結果、名古屋場所の取組みは不完全・不均衡なものとなり、通常の場所とはつりあわない相手との勝負が増えるだろう。そんな異常な本場所で「優勝」した力士に賜杯を渡し顕彰できるのか。異常な名古屋場所を見に行く人は、相撲偏愛者か、それとも・・・だと思うが。

小堂

@Yanaka

上野周遊

拙宅近くの最大の繁華街は上野。洗練された街とは言えないが、多彩な顔を持っている。
ここで、その一端をご紹介しよう。

■芝生の上の彫刻(上野公園)



■レトロな外観の国立科学博物館(上野公園)



■静寂の東照宮(上野公園)







■蓮の不忍池(上野公園)



■コリアン・タウン(東上野)



2010年6月21日月曜日

鬼瓦もしくは・・・

@Yanaka

2010年6月20日日曜日

風が強く吹く一日



曇天、強風、湿度も高い。

そのうえ、昨日の肩のトレーニングで首を曲げると痛い。

瓢箪



@Yanaka

核心に迫れるか―相撲界野球賭博事件―

いまが正念場だ、角界の暗部を暴くことができるのかどうかの――

野球賭博事件問題の核心は、角界のだれとだれが野球賭博をやっているかではない。当該コラムで書いたように、今般、日本中の職場の多くにおいて、高校野球が賭博の対象になっていることは、珍しくない。そのことで、生活者が処罰されることはないし、問題となることはない。賭けマージャン、賭けゴルフ等々もしかりだ。

今回の角界の野球賭博事件で最も重要なことは、角界と反社会的勢力とのつながりの一点につきる。野球賭博に反社会的勢力がどのように関与しているのか、賭け金の流れ、賭けに負けた力士が、賭けの資金をどこに求めたか、また、胴元が反社会的勢力そのものなのか、角界関係者が胴元になっていたとしても、その背後に反社会的勢力の存在が認められるのかどうか――にある。

いまのところのマスコミ報道を見聞きする範囲では、その解明については不十分だ。現在の報道の状況としては、親方、力士、床山…のだれだれが野球賭博に関与していました、すいませんでした、で終わりそうな気配だ。角界の野球賭博事件は、それをやっていたことの罪を問うことで終わりそうな気配がする。

繰り返すが、事件発覚の状況は、朝青龍の暴行事件のときと似ている。朝青龍事件を報じたのは、新聞・TVといったマスコミではなく、某週刊誌だった。朝青龍暴行事件の現場は、六本木の某クラブで、その店は事件当時、麻薬取引関係者の出入りが頻繁にあったという噂が絶えなかった。事件当時といえば、芸能人の麻薬事件がしばしば報道されていたころだった。だからといって、朝青龍及び「被害者」が麻薬取引に関与していたというつもりはないが、本場所中のアスリート(=朝青龍)が顔を出すような場所でないことだけは確かではないか。

重要なのは、朝青龍事件も今回の野球賭博事件も、週刊誌が報じなければ、明るみに出なかった可能性が高いことだ。つまり、日本の(スポーツ)マスコミは、先の朝青龍暴行事件も、このたびの野球賭博の蔓延の事実も、知ってかしらずか、報じなかった。

筆者の推測では、相撲界と反社会的勢力は、巡業興行権を媒介として、戦後一貫してつながりがあった。また、その筋から角界関係者に対して、多額の交際費のような不適切なカネの流れがあった。力士・親方等は、その筋の関係者と親密な交際を行っていた。ところが、当局、(スポーツ)マスコミ並びに文科省(公益法人である相撲協会を所管する監督官庁)の3者は、そのことを見過ごしてきたばかりでなく、マスコミは相撲人気を煽り、当局・文科省は「国技」としてお墨付きを与えていた。その間、相撲界には「銃刀法違反」「八百長疑惑」「暴行事件」「麻薬事件」「朝青龍問題」などが起ったが、報道は一過性であり、文科省の指導も形式的であり、当局の捜査も生温かった。

「朝青龍事件」の場合、週刊誌報道がきっかけとなって、マスコミ報道が白熱する一方、朝青龍と「被害者」との間に示談が成立した。その結果、警察の捜査が朝青龍側に及ぶこともなく、朝青龍の突然の引退をもって、事件の真相はうやむやのまま、フェードアウトした。しかし、一部の専門メディアは、示談には反社会的勢力が関与したことを報じた。朝青龍事件の背後に反社会的勢力の存在がうかがえた。

今回も、同じ週刊誌の報道がきっかけとなって、賭博事件が明るみに出た。繰り返すが、大新聞は角界で野球賭博がほぼ恒常的に行われていたことを1行たりとも書いたことはないし、TVも1秒たりとも、流したことはない。(スポーツ)マスコミは相撲協会の広報宣伝の機能を果たし、公共放送は不祥事が多発する相撲のTV中継を休むことはなく続けていた。日本の公共放送は、視聴者から視聴料を取り続けながら、反社会的勢力と関係する団体が行う興行を中継し続けた。大企業は、その取組みに懸賞金を出し続けた。そればかりか、その「優勝者」を国をあげて顕彰した。

これまで角界で起きた事件に係る報道は、マスコミによって大量の「情報」が流れる一方、事件の真相・核心に迫るものはなく、むしろ、真相・核心を隠蔽する働きをしてきたように思える。麻薬事件の場合も、朝青龍暴行事件の場合も、背後に反社会的勢力の関与がうかがえたにも関わらず、報道がそこを突くことはなかった。今回の事件に先立って、「維持員席」のチケット販売をめぐって、相撲協会と反社会的勢力との深い結びつきが暗示されていたにもかかわらず、マスコミは角界の暗部を突くような報道をしなかった。逆に、(スポーツ)マスコミ、当局、文科省は、一貫して、相撲協会を守り続けてきた――なぜか

2010年6月18日金曜日

三四郎池



夏目漱石の小説の舞台となった池。東京大学(本郷)の中にある。

地蔵

@Yanaka

2010年6月17日木曜日

相撲協会は解散

相撲界で野球賭博が行われていることが問題になっている。文科省を始めとする関係者等が、ようやく、ことの深刻さを認識し始めたようだ。相撲界の不祥事及び事件が報道されるのは、もちろん、今回が初めてではない。問題発生のたびごとに、相撲協会内に「××調査委員会」や「○○機関」などが設置されるものの、真相は隠蔽されたままだ。

お気づきの方も多いと思うが、今回の野球賭博事件が明るみに出たのは、週刊誌報道からであって、(スポーツ)マスコミによるものではなかった。これは、朝青龍事件のときも同様だ。あのときにも、(スポーツ)マスコミは、朝青龍・相撲協会側に対して、説明責任を追及することはなかった。そればかりではない。相撲協会は財団法人(公益法人)であり、所管の文科省に監督責任がありながら、文科省も協会に対して、適正な指導を行わなかった。適正な指導と監督が継続されていれば、不祥事の再発は防げた。

筆者が腹立たしく思うのは、TVカメラの前に出てくる協会役員(親方=元力士)が、「やっていない」「そんなことは知らない」とまず否定し、事件報道の進捗とともに「反省している」「膿を出す」に変わり、やがて、「雲隠れ」することだ。彼らのコメントからは、時の経過とともに、「事件」「疑惑」がうやむやになることを見越しているようなのだ。つまり、責任をとること=角界からの追放、刑事罰等が降りかかることはないと、高を括っていることがその表情から明らかなのだ。

彼らが高を括っていられるのは、▽自分たちは、絶対にマスコミから厳しい追求を受けないこと、▽文科省の指導が形式的なこと(法人解散には至らないこと)、▽角界からの追放処分という厳罰は絶対に受けないこと――が了解されているからだろう。厳しい処分がくだらない背景には、相撲が「国技」と認識されているからだろう。本場所の優勝者の顕彰には、「総理大臣杯」が含まれている。文科省が手を出せない「タブーゾーン」なのだろうか。

週刊誌が火をつけ、マスコミが後追い報道し、文科省のそれなりの指導があり、処分がくだり、「表」の人事が一新され、本場所が始まれば「はい、それまで」。本場所は公共放送が中継をしてくれるし、チケットもそれなりに売れる。不祥事・事件が協会を経営的に圧迫することもない。だから、“のらりくらり”とした、なまぬるい「反省」と「処分」が繰り返されだけなのだ。

今回の野球賭博事件等は、反社会的勢力と角界が深く結びついていることを暗示している。この結びつきの延長線上あるものは、角界に対して恒常的に指摘されるところの「八百長」の存在だ。野球賭博の裏側には、「相撲賭博」があり、力士が野球賭博を行っている裏側には、力士の八百長相撲と相撲賭博が結びつき、反社会的勢力は、野球賭博と八百長=相撲賭博において、角界と結びついている。こう考えることが自然だ。

賭博にはいろいろある。職場で高校野球が賭博の対象になっていることは常識だが、そこでは、サラリーマン等がささいな金銭をかけているにすぎない。生活者が行う、賭けマージャン、賭けゴルフ、賭け花札・・・が問題視されることはない。組織的賭博に反社会的勢力が介在することにより、賭け金が大きくなり、不正な金銭の動きが恒常化し、その流れが反社会的勢力の資金源として「成長」していくことを防がなければならない。

角界の暗部の解明をどうするか。文科省が真相究明を放棄し、当局も捜査を控えれば、角界の不祥事は「許される」という「タブー」が社会に定着する。協会幹部は「表の責任」をとるだけ。そうなれば、一般常識をもった人ならば、角界は反社会的勢力とつながった団体だと認識する。そんなところに、自分の子供を預けようとは思うまい。相撲は「国技」と呼ばれながら、それを担う角界は特殊視され、反社会的勢力と結びついた怖い団体の1つとして、社会から疎外される。

それでいいのだろうか。協会、文科省、当局が本気で解明をする気があるのならば、次回に予定されている名古屋場所を中止し、角界全体が真相解明に尽力していることを表明すべきなのだ。

相撲が伝統芸能として貴重なことは言うまでもない。が、それを保存する方法はいくらでもある。いまのように、財団法人(公益法人)のまま、興行を続けるという「あり方」に限る必要はない。真相究明の方法として、協会解散という選択肢から考えるべきなのだ。

2010年6月14日月曜日

入梅か

@Yanaka

関東地方も梅雨入りとか。アジサイが一段と色鮮やかに、咲き乱れます。

2010年6月11日金曜日

古い洋館のイメージ



大正・昭和初期の金持ちは、自分の家を洋館に改築し、庭に大きな熱帯性の樹木を植えた。

いわゆる西洋館といわれる庭付き戸建て住宅が、東京都内の閑静な住宅街に増えた。

庭に熱帯植物が植えられているのは、日本がアジア大陸に進出したころの社会背景を投影したものであろうか。

いま大名時計博物館として公開されている敷地と建物は、もともとは、旧勝山藩の別邸である。

2010年6月9日水曜日

『東シナ海と西海文化(「海と列島文化」第4巻)』

●網野善彦ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)



本書がとりあげる地域は、九州西北部、佐賀、長崎、熊本の3県の海沿いである。この当たりの地図を眺めてみると、有明海、大村湾といった内海や、平戸島、五島列島、天草諸島といった島々、そして、西彼杵半島、島原半島、長崎半島などが入り組んだ、複雑な地形をなしていることに驚く。そこから西に東シナ海が広がり、直線で済州島を経て、中国の長江(揚子江)の下流域にぶつかる。以後、この地域を本書に従って、“西海地方”と呼ぶ。

こんにち、西海地方が日本の政治・経済の中心であるとは言い難い。が、本書にあるとおり、弥生時代から徳川時代末まで、世界と日本列島を結ぶ重要な役割を担ってきた。近代以前の西海地方は、日本列島の中にあって、世界に向かって開かれた唯一の窓であったと言って言い過ぎでない。

[1]弥生時代と西海地方

◎弥生文化は中国江南地方から伝えられたのか

西海地方が海外と接触を始めたのは、弥生時代(紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間)に遡る。弥生時代とは、日本列島が大陸文化の影響を受け、それまで築いてきた縄文時代の社会・文化が大きく変容を遂げた時代だと考えられる。

大陸文化は、日本列島に、稲作技術、金属使用等を伝えた一方、列島内の各所には、一定規模を有する権力機構(クニ)が整備され、有力な支配者が誕生した。その中の一つの「邪馬台国」と、その支配者(女王)・卑弥呼の名前が中国の文献に記されている。

大陸文化が日本に流入した有力な経路としては、朝鮮半島から対馬・壱岐を経由して、北九州に上陸したとされる「朝鮮半島ルート」が挙げられてきた。ところが、近年の弥生時代研究の進展により、中国江南地方から東シナ海を経て、西海地方に直接流入したとされる「江南ルート」が注目されるようになった。大陸文化の流入経路として「江南ルート」が「朝鮮半島ルート」より有力視されるようになった考古学上の契機の1つが、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の発見であった。同遺跡は現在の地図上では内陸に位置するが、当時、有明海は同遺跡の間近まで迫っていた。すなわち、同遺跡は海岸沿いに開けた“クニ”の址なのである。

◎倭人の姿は、江南地方の越人と同じ

そればかりではない。『魏志倭人伝』には、
■又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
(略)
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。■

とあり、倭人が中国を訪れたとき、自らを夏(王朝)の末裔(太伯の後裔)であると称していることも江南地方との関係を推定させる根拠となっている。夏王朝とは、紀元前2070年頃~ 紀元前1600年頃にあったと伝承される中国最古の王朝で、夏后ともいう。近年、江南地方において考古学資料の発掘が相次ぎ、実在が見直されてきている。非漢民族系の水上民族だという説も有力である。

夏王朝の末裔を自称する民族は中国周辺にいくつかあり、その1つが、春秋時代の紀元前600年頃~紀元前334年、中国江南地方(浙江省)に建国された越である。越の首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。もちろん、非漢民族系であると考えられている。また、時代は下って、紀元前220年~同80年の三国時代(魏・呉、蜀)には、江南地方には呉が建国されていて、呉も越人の国であった。

さらに、『魏志倭人伝』には、倭人が海中で鮫等の襲撃から身を守るため文身(刺青)をしていると記録されているが、江南地方の越の人々も鮫等の襲撃から身を守るため、倭人と同様、文身(刺青)をし、海中に潜って漁をしていたことが確認されている。なお、『魏志倭人伝』には、末盧國(現在の佐賀県松浦郡に推定)で、海に潜って漁をする人々の姿が記録されているが、西海地方にはいまなお、海人による潜水漁が伝えられている。

◎中国の東方憧憬信仰と日本の「徐福伝説」

徐福という方士(道士)が、中国を統一した秦(紀元前778年~紀元前206年)の始皇帝に対して、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述が、司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』にある。日本側からみると、これがいわゆる「徐福伝説」で、有明海沿岸各地に徐福伝説が残されている。なお徐福の来訪地といわれるところは、日本の各所にある。

この伝説を素直に読めば、中国から東方に向けて、3000人が移住したわけで、東方とは日本列島であると推定される根拠がある。すなわち、中国側から「徐福伝説」を読み解くと、中国に古くから伝わる「東方憧憬信仰」の1つだ考えることが自然である。東方に方士を差し向けたことは、始皇帝が最初ではない。

古代中国では、東方に理想郷もしくは不老不死の国があるという東方憧憬信仰が、秦の建国以前から信じられていた。周代(紀元前1046年頃~紀元前771年)に、倭人と越人が交流し、倭人が暢を貢いだことが、後漢代の江南の学者王充の『論衡』にある。暢(草)とは神聖な祭事に欠かせない薬草もしくは神酒だといわれている。暢を東方の倭人が貢いだという情報が、東方憧憬信仰の形成要因の1つとなった可能性もあるし、併せて、江南地方と倭の交易ネットワークが、周の時代には整備されていたとも考えられる。

◎「家船」と「蛋民」

西海地方に近年まで残っていた家船(えぶね)といわれる水上生活者の存在を、中国南部の水上生活者(=「蛋民」)と比較する研究も進められている。蛋民研究も西海地方と江南地方を結びつける手掛かりの1つだと考えられている。

◎水稲栽培は中国江南地方からこの地にもたらされたのか?

いずれにしても、西海地方は、日本列島における弥生文化の最先端地域の1つだった。ならば、西海地方における稲作技術の受容については、どのような状況であったのだろうか。

稲作技術の流入経路としては、①華北説、②華中説、③華南説の3説がある。①は、大陸文化流入の「朝鮮半島ルート」に、②が「江南ルート」に、それぞれ対応する。③は柳田国男が唱えた「海上の道」説で、中国広東省から台湾~南西諸島(沖縄)を経て南九州に入ったとするルートであるが、今日の学会では支持者は少なく、稲作流入でも、②華中説=「江南ルート」が主流である。

日本最古の水田址遺跡は特定されていないが、弥生時代前期初頭の水田遺構は、福岡平野の板付遺跡や野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等で発見されている。また、縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。いずれにしても、稲作関連の遺構は、西海地方からの発見ではない。近年の研究では、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが、紀元前10世紀まで遡る可能性を指摘する。

[2]遣唐使と西海地方

時代はくだって、中国に強大な唐王朝(618年~907年)が成立。倭国はこの文化先進国から学問・政治制度、技術等を学ぶため、遣唐使を派遣した。彼らが唐に向かう遣唐使船は、西海地方の美美良久(みみらく)=福江島三井楽から出航した。西海地方は、奈良・平安時代における大陸・東シナ海世界の一環にあった。

[3]倭寇が跋扈する海域

中世になると、中国江南地方、朝鮮半島南部海岸地域、済州島、壱岐・対馬、西海地方を含めた海域は、倭寇が勢力を振るう圏域となった。倭寇とは同海域において、漁撈、交易、海賊行為を行った人々の総称と考えられ、必ずしも倭人とは限らない。倭寇は国家統治や国境を意識しない自由な民であり、まさにグローバルに経済活動を行った集団だった。

[4]近世、大航海時代と西海地方

中世末(1543年)、ポルトガル人が種子島に漂着して以降、日本は大航海時代の西欧世界と接触を開始した。1570年には長崎が開港し、1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にやってきた。16世紀なると、西海地方は、日本が産する銀を求めるスペイン、ポルトガルが行う世界貿易の一環に組み込まれ、世界貿易と同時にキリスト教(カトリック)が西海地方に伝えられた。キリスト教布教の本格化とともに、長崎、平戸、五島列島、天草地方等々に教会、聖堂が建設されたりしたが、秀吉によって「禁教令」が発せられ、キリスト教は弾圧対象となった。以降、長崎は江戸幕府の鎖国政策の中にあっても、朝鮮貿易、オランダ貿易の日本で唯一の窓口=世界貿易港であり続けた。

本書によって、西海地方は、古代から近世に至るまで、日本列島内において、最もドラスティックに海外と接触を続けた地域であったことを知る。

2010年6月8日火曜日

お揃いの

@Yanaka

廃墟か



しばらく前に火事のあったところ。

道路沿いの建物が撤去されたため、隠れていた焼け跡が出てきたようだ。

火事があってから、少なくとも、半年は経っているはずだけど・・・

@Yanaka

2010年6月7日月曜日

巨大サボテン

@Yanaka

『1Q84』

●村上春樹[著]    ●新潮社   ●Book1~2 1800円 Book3 1900円(いずれも税別)





民主党のトップ二人が辞任した背景に何があるのか、実際のところはわからない。参院選に向けたイメージチェンジだというのが一般的見方だ。おそらく、その解釈で正しいのである。がしかし、どうにも不自然ではないか。

政権交代後の民主党を追い込んだのは、検察とマスコミが一体化した、鳩山と小沢に対する執拗な追及であり、追求の大義名分は“政治とカネ”だった。とりわけ、小沢一郎に対する検察とマスコミの追求は常軌を逸していた。小沢一郎という政治家は大衆に理解しにくいところがあるといわれるし、いかにも強面で、裏がありそうに見える。小沢一郎の顔が嫌だという人もいる。

危険なベストセラー『1Q84』

ところで、再び『1Q84』である。昨年、Book1~Book2が超ベストセラーとなり、今年の4月に続編のBook3が刊行された大作である。同書に関しては様々な解釈がなされているものの、天吾という青年と青豆という「殺し屋」の女性との純愛が大筋を構成するという見方に異論は生じないだろう。しかし、純愛というテーマでは割り切れない危険な要素が、この小説には散りばめられているように思う。フィクション、伝奇物語、現代の御伽噺・・・ではすまされない。とりわけ、BOOK3において、大きく扱われる牛河という私立探偵(調査員)に係る作者(村上春樹家)の人物像の付与については、看過できないものがある。

物語は、青豆がある謎の老婦人の依頼を受け、「さきがけ」という教団のリーダーを殺害(リーダーは自殺したとも解されるが)したところから大きく展開する。(「さきがけ」はオウム真理教を、そして、そのリーダーは麻原彰晃をイメージさせるが、そのことは物語の大筋に関与しない。)

教団のリーダーの抹殺を青豆に依頼した老婦人については、DV被害女性を救済するためには何でも実行する謎の大金持ちという設定である。この老婦人は、教団のリーダーが何人もの少女を淫行しているという疑いをもち、少女たちを守るため、青豆に殺害を依頼したことになっている。青豆はリーダーの殺害にいちおうは成功するが、その結果、教団から追われることになる。

牛河については、教団側が青豆の居場所を探すために雇った調査員という設定である。作者(村上春樹)が牛河に付与したキャラクターは、以下のとおり。
外見において、牛河は例外的な存在だった。背が低く、頭が大きくいびつで、髪がもしゃもしゃと縮れていた。脚は短く、キュウリのように曲がっていた。眼球が何かにびっくりしたみたいに外に飛び出し、首のまわりには異様にむっくりと肉がついていた。眉毛は濃くて大きく、もう少しでひとつにくっつきそうになっていた。それはお互いを求め合っている二匹の大きな毛虫のように見えた。学校の成績はおおむね優秀だったが、科目によってむらがあり、運動はとにかく苦手だった。(P250)
醜い少年は歳月の経過とともに成長して醜い青年となり、いつしか醜い中年男となった。人生のどの段階にあっても、道ですれ違う人々はよく振り返って彼を見た。子供たちは遠慮なくじろじろと正面から彼の顔を眺めた。醜い老人になってしまえばもうそれほど人目を惹くことはないのではないかと、牛河はときどき考える。老人というものはたいてい醜いものだから、・・・(P254)


ここに挙げた牛河に関する描写は、同書中のごく一部にすぎない。このような描写がしばしば繰り返される。「彼を見た者のだれもが嫌悪を抱く」と、作者(村上春樹)はこの小説中、執拗に何度も何度も繰り返して、その醜さを強調する。なぜ、牛河の醜さがこうまで、強調されなければならないのか、最初のうちは理解しにくい。

牛河は、物語の終幕近く、彼が青豆の居場所を発見する寸前、青豆の雇い主である謎の老婦人が差し向けたタマルというボディーガードに殺されてしまう。醜悪な牛河の手によって、青豆が教団に差し出される寸前、牛河がタマルによって窒息死させられる場面には、多くの読者が拍手を送り、快感を覚えたに違いない。

ボディーガード・タマルのキャラクターは、完璧な仕事人で、青豆を助けるためにあらゆる援助を惜しまない者であり、肉体的にも精神的にも美しいゲイである。タマルは、拳銃、食料、衣服等々青豆が逃走するに必要な物品の調達から、隠れ家の手配、そして、ついには、青豆や老婦人を脅かす調査員(牛河)の抹殺まで、ありとあらゆる仕事を完璧にやってみせる。いわゆる、その道のプロ(殺し屋)だ。たとえば、イスラエルの特殊部隊(モサド)を髣髴させる。

『1Q84』の第一の特徴は、美と醜の二元論が貫徹している小説であることだ。「美」に属する者は、青豆、天吾、謎の老婦人、タマル、フカエリであり、「醜」は、牛河、天吾の父親(NHKの集金人)、青豆の母親(証人会という信仰宗教の信者)であり、天吾の下宿の住民であり、その他諸々の生活者たちだ。

第二の特徴は、「正」と「悪」が倒錯した世界であることだ。青豆がDV被害女性救済のため、謎の老婦人に雇われた殺し屋であることは既に書いた。それはそれで、マンガであるのだから、問題とするに及ばない。しかし、青豆が教団のリーダーを殺害(リーダーは自らが殺されることを容認していたとしても)したことは、錯誤による殺人であって、老婦人、青豆に義はない。さきがけ教団のリーダーは、淫行犯ではなかったのだから。

リーダーを殺された教団がその犯人=青豆を捕らえようとすることは当然の措置であり、義は教団の側にある。青豆は錯誤によって無益な(物語上は極めて重要だが)殺人を犯した者にすぎない。教団が警察を恃まずに内々で殺人犯をとらえるため、私立探偵(=牛河)を雇うことも当然(義)であり、牛河が青豆を追いかけることも当然(義)だ。

ところが、牛河は、その醜さゆえに、義をもたない側、錯誤に基づいて教団のリーダーを抹殺した側=老婦人(その代行者タマル)によって、逆に殺害されてしまう。青豆は牛河の殺害に直接関与していないとはいえ、青豆が天吾との純愛を追求するという利己的欲求のため、青豆を追いつめんとした牛河を死に至らしめたことは明白だ。牛河を殺したのは、謎の老婦人に司直の手が及ぶことを阻止しようとしたタマルによってであるが、牛河を死に至らしめた主因は、前出のとおり、青豆の身勝手さ(純愛の貫徹の欲望)からだ。

読者は、村上春樹が周到に準備した毒素によって、醜悪な牛河が抹殺される場面に快感を覚え拍手をし、安堵する。正義と邪悪とが倒錯した世界が村上と読者の間で共有され、醜悪な者に対するスティグマが一掃されることを喜びあう世界が完成する。

前出のとおり、タマルはモサドをイメージする。パレスチナのテロが失敗と多くの犠牲を伴う反面、イスラエルが公然と行うパレスチナ人民に対するテロは完璧であり、モサド側の犠牲を伴わずになしとげられる。イスラエル、西欧及び米国からみれば、アラブ・パレスチナは醜悪であり、スティグマの対象である(オリエンタリズム)。

『1Q84』にはいろいろな解釈が可能のようであり、それぞれの解釈が文芸評論家等々によって開陳されている。しかし、牛河がタマルに殺害される箇所は、「美」が「醜」に対して、無条件に優位にあるという村上春樹の前提によって描かれた世界だ。邪悪と正義の倒錯が完成され、「醜」の抹殺、つまり、スティグマの解消が快感を伴って許容される世界だ。この牛河抹殺の箇所こそが、「村上ワールド」の完成の場面なのだ。スティグマを一掃するためには、理由も理屈も要らない、美しいものが醜いものを排除することが快い――という世界観が達成された場面にほかならない。

小沢排除に通じる『1Q84』の人間観

人々は、生活、倫理、法といった、面倒くさいものを日々払いのけたいと願い、美が醜に勝るという価値観をもって、そのとおりに、すなわち「自由」に、行動することを望む。「醜」なる者が唱える理屈(理論、仕事、作品)はその存在に規定されて「醜」であるに違いないと盲信し、スティグマを一掃する扇動に身を委ねたがっている。

これまで、マスコミは、小沢一郎の政策や理念をたった一行も報道しない代わりに、繰り返し、彼のイメージ(醜)に従って、報道の基準とした。マスコミは、小沢一郎を論理的・政治的にではなく、美醜の基準で抹殺した。と同時に、人々は、小沢一郎をその外見等々によって嫌悪した。彼の辞任(排除)に安堵し、彼の政治的退場に喝采を送っている。このことは、日本の言論界が「村上ワールド」そのものになっていることを意味しないだろうか。『1Q84』は極めて危険なベストセラーなのである。

2010年6月6日日曜日

W辞任

政権与党・民主党の代表(鳩山)と幹事長(小沢)の二人が同時に(W)辞任した。後任の代表は菅直人(現副総理)に決まった。国会での指名後、菅首相が誕生する。

辞任した鳩山首相の場合、普天間問題への取組み方及びその結論が不透明かつ不可解であった。取組み方、その結果導かれた結論は、国民の理解を得にくいものだった。しかし、普天間移転問題というのは、旧政権の場合、結論を十数年放置したままであったわけで、その間、那覇の中心街に米軍が駐留し基地を使用し続けていたわけであるから、自民党に批判する資格はないし、鳩山が移転を急いだことは間違っていない。

「移転」に反対する人はいない。沖縄に行ったことのある人ならば、普天間基地の危険性は自明のことである。移転先として、鳩山が「沖縄県外」と主張したことも間違っていない。沖縄にこれ以上基地負担を押し付け続けることは、公平性に欠ける。鳩山がその解決のために真正面から取り組もうとした姿勢に間違いはない。

しかし、結論を5月末に設定したこと、そして、代替地案の模索・公表の過程については、迷走以外のなにものでもなかった。さらに驚くべき事実として、日本中が、普天間の移転先であることを公然と拒否したことを挙げなければならない。沖縄の人々の基地負担を考慮するならば、公然と反対を唱えることを憚るのが一般的感受性だと思う。沖縄ならいいが、自分たちのところは困る、という主張は、公然たる沖縄差別にほかならない。そうした地域のエゴイズムについて、少なくとも、日本のマスメディア及び野党自民党は同調した。というよりも、受入れ拒否を公然と支持した。マスメディアと自民党は、「沖縄差別」を扇動した。そのことの深刻さを、国民の誰一人が感じていないことが情けない。

ご存知のとおり、辞任直前、鳩山は普天間基地の移転先を同じ沖縄県の辺野古と定め、米国と同意した。「最低でも県外」という鳩山の思惑は実現せず、自民党政権時代の「辺野古」に逆戻りした。このことが「辞任」の主因の1つだといっていいだろう。

不可解なのは、「辺野古」に逆戻りした言い訳である。鳩山の表現は、筆者にはよく理解できない内容だった。普天間に駐屯している海兵隊の一部はグアムに移動することが決まっている。残留が決まったわずかばかりの米海兵隊について、鳩山はなんと「抑止力」だと改めて“再定義”をしたのだ。それだけではない。鳩山は、「(そのことを)勉強しなおした結果、抑止力であることが改めて認識できた」と弁明した。この言葉は、鳩山の移転の意図を潰した“大きな力”の存在をうかがわせる。鳩山は挫折を余儀なくされた。

普天間基地移転問題は、本質の議論がないまま政局として大きく報道され、鳩山の“辞任”をもって終焉した。しかし、この一連の騒動を自然だと感じる人はそう多くはないと思う。普通の感性の人ならば、なんとも不可解・不自然な流れだと思うはずだ。その不可解さは、おそらくは、日米の力関係の帰結だと想像する以外に解釈のしようがない。

この問題に関する日本のマスコミ報道を振り返ると、米軍駐留の本質に係る議論は一切なかったといっていいすぎでない。日米同盟のあり方、米軍の駐留の是非、日本の防衛のあり方・・・基地問題=沖縄問題の解決とは、日米関係そのものを問うところから始めなければならなかったはずなのだが。

一方、鳩山が意図したであろう(と想像する)普天間移転問題の解決プログラムは、国民の総意として、米軍の駐留を拒絶する情況をつくりだすことではなかったか。鳩山は米軍の駐留を拒絶すること=米軍基地なき日本国の実現に向け、その第一弾として、普天間問題に着手しようとしたのではないか。普天間問題とは、「駐留なき同盟」を実現する第一歩なのだと。鳩山が「抑止力について勉強する前」、すなわち、昨年の総選挙までは、「(普天間問題は)少なくとも(沖縄)県外」だと公言していたことから、そのことは十分想像がつく。

前出のとおり、鳩山の最終目標は、「(米軍の)駐留なき(日米)同盟の(実現)」だったように思う。彼は手始めに沖縄の普天間基地を県外に移転させ、そのことによる、国民的支持――対等な日米関係を待望するナショナリズムの台頭――をもって、駐留なき同盟の実現のための足元を固めたかったに違いない。鳩山は、そういう意味で、ナショナリストなのである。ところが、鳩山(政権)は、かつて鳩山同様に対等な日米関係の実現に向けて暴走し崩壊した、細川政権と同じ道を歩んだ。細川(当時首相)の後ろにいたのが、鳩山とともに民主党幹事長職を辞した、“小沢一郎”その人であることは偶然ではない。

民主党政権誕生後から今日まで、鳩山と小沢の二人に対しては、検察とマスコミによる、執拗なまでのネガティブキャンペーンが続いた。細川の場合も、政治とカネのスキャンダルが騒がれたし、それと同様の手法として、田中角栄の失脚(ロッキード事件)も思い出される。田中角栄が首相のとき、彼は米国と厳しく対立した。そのことは、このコラムで何度も書いたので繰り返さない。

田中、細川、そして鳩山・小沢が政権の座を追われた構図は、それぞれの政治信条やイデオロギー、対立する団体等々の動きとは関係していない。民主党政権の誕生によって、たとえば、国民生活が著しく不安定化したとか、増税があったとか、景気が後退したという現象は生じていない。鳩山と小沢の退陣は、「政治とカネ」という国民の間に生じたスティグマ(嫌悪感)による。しかも、その嫌悪感は、マスコミによって誘導された「民意」によっている。小沢に対する嫌悪感とは、検察とマスコミから一方的に流される「報道」によって醸成されたものであって、国民(生活)の危機(感)からではない。

マスコミの攻撃を受けた3人の首相(及び小沢)に共通点があるとしたら、ただ一点、彼らがともに“米国離れ”を志向した政治家であった、ということだけだ。

2010年6月4日金曜日

スッポンだ



根津神社の池にスッポンがいた。カメかと思ったけれど、甲羅が違うように思うが。

捕獲されて食べられないことを祈っている。

2010年6月3日木曜日

猫の喫茶店

@Yanaka

2010年5月31日月曜日

小道



日暮里駅西口から谷中霊園に入る階段を昇ると、桜並木の小道がある。お彼岸や桜の咲く時期はお墓参りの人や観光客で騒々しいが、いまは人通りも少なく閑散としていて、歩くと気分がいい。

小道を進むと、天王寺に突き当たる。

猫町

@Yanaka

2010年5月30日日曜日

新緑の候


@Yanaka

2010年5月29日土曜日

疲れた

昨晩は、夕方の6時半から、谷中のY通りの居酒屋「T」、少し離れたH小路の韓国人ママの居酒屋「M」にて、12時半ころまで痛飲。

旧友のS氏のW杯南ア取材の壮行会である。

「M」の韓国人ママは日本語がまだまだで、おそらく、会話の半分くらいは理解していない可能性もあるが、明るく気さくな人である。カラオケが好きで、歌い方に迫力がある。

どういう経緯で言葉の分からない異国にあって、しかも、H小路という、ほんとに“どん詰まり”みたいなところで、居酒屋を始めたのか知る由もないのだが、とにかく、店がうまくいくことを祈っている。

きょうはそんなわけで、水分の取りすぎによる下痢ぎみだったけれど、いつもの時間にスポーツクラブへ。汗をたっぷりかいて、気分転換を図るつもりだった。しかし、あまり力が出ない。考えてみれば、6時間も飲んだり食ったり話したり歌ったりしたわけだから、疲れていてあたりまえか。

2010年5月26日水曜日

『玄界灘の島々(「海と列島文化」第3巻)』

●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6627円(税込)

本書が取り上げる主な地域は、対馬、壱岐、沖ノ島、鐘崎(福岡県宗像郡玄海町)等である。そこは日本列島とアジア大陸・朝鮮半島の境界でもある。

■韓国から見た対馬、壱岐

アジア大陸から日本列島にいたる経路は、『魏志倭人伝』にあるとおり、朝鮮半島の金海(狗邪韓国)から海路で対馬~壱岐(一支国)を経て九州北部に入ったようだ。当時、北九州には、「末盧国」(佐賀県松浦)「伊都国」(福岡県糸島郡)「奴国」(福岡県博多)などがあり、その先に女王卑弥呼が統治する「邪馬台国」があると記されている。この記述は、朝鮮半島から島伝いに日本列島の中心(当時)に向かう安全かつ最短の順路であったと思われる。なかでも、対馬、壱岐は海路の中継地点として、重要な存在だった。当時、倭国より先進地域であった中国、朝鮮から、ヒト、モノ、情報、カネなどが、この地域を媒介して、倭国にもたらされた。

本書の諸論文中、「玄界灘に残る韓国文化」(任東権/イムドンクォン[著])が、朝鮮から見た対馬・壱岐の典型的認識を示す論文だと思われる。イムドンクォンによると、人類の移動は、寒冷地から温暖地へと向かうものだという。それが自然過程なのだと。このことは、一見自然のようだが、民族の正統性が「北」にあるというイデオロギーと不可分のものでもある。韓国人の常識には、日本列島の北に位置する朝鮮から南へ、すなわち、寒冷な朝鮮半島から、温暖な日本列島に向けて、民族移動があったはずだという前提があるようだ。

モンゴロイドの起源を特定することは不可能であるものの、彼らが地球の寒冷期への突入と同時に、北から南へ移動を開始した可能性は高い。しかし、歴史時代になると、人間集団(民族)の移動は、気候的要素に一元化できるものではない。朝鮮半島の住民が、対馬、壱岐を経て、日本列島に移動し定着したとはいい難い。しかし、朝鮮半島と日本列島が、もちろんその住民同士が活発に交流したことはまぎれもない事実である。同論文にあるとおり、韓国起源の山神信仰が対馬に残されているのは、明らかに、韓国からの影響であり、ヒトの移動を伴っていた。また、漂流神、天道(天童)信仰、檀君信仰等も、朝鮮半島~日本列島に広く分布する。海の正倉院といわれる沖ノ島には、中国・朝鮮を原産地とする遺物が多数奉納されており、古代のある時期、大陸文化が日本列島に一方的に流入した事実を否定しようもない。

地名についてみると、壱岐の全地域にいまも残る、「触(フレ)」のつく地名は、韓国語の古語の「村」を意味する、パル、パラ、ピレ、ヒラを起源とするのではないかという指摘も興味深い。

韓国語の古語と日本語の関係でいえば、対馬において、海神神社(いわゆる海神系の神社)に関するイムドンクォンの指摘に注目したい。日本においては、「ワタツミ」は、海神、和多都美と表記されるが、「ワタ」は“渡る”の意で、韓国語のパダ(海)に由来すると解されるという。つまり、日本の海神神社の起源は、朝鮮からの渡来神を起源としていることが、海神(ワタツミ)の語源から推察できるというわけだ。さらに、対馬にある海神神社は、海岸または海が臨める小高い丘の上に存するのであるが、そのことは、かつて海を渡ってきた人々の上陸地点か、または、定着した後に、故郷を臨める地点に信仰の中心地が建設された、と推測するのである。

■移動する海人

現代の漁業従事者というのは、港近くに居を構え、船にのって漁を行い、獲れた魚を販売することで糧を得る、いわゆる定住者のイメージが強い。家庭~港~出漁~帰宅というパターンである。ところが、「鐘崎と海人文化」(伊藤彰[著])を読むと、そんな漁民=定住民のイメージは吹き飛ぶ。海人の移動は「アマアルキ」といわれ、彼らは、「より良好な漁場があり、周辺に海産物を求める農村があり、そして領主の入漁保証と小屋掛けするだけの海辺の土地供与があればどこでも移住の対象地となった」(P396)という。鐘崎海人と隣接する大島海人(筑前)の分村は、瀬戸島(島根県)、夏泊(鳥取県)、輪島(石川県)に至っている。海人とは、「移動する民」なのである。彼らが漁業従事者であると同時に、海の軍事(海軍)を担う民であったことはいうまでもない。

ほかに、中世鎌倉時代から江戸時代に至るまで、日本の朝鮮外交を専門的に担ってきた、 宗氏の存在も忘れてはならない。

2010年5月24日月曜日

『1Q84 BOOK3』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●1900円(税別)

本書BOOK2において、落雷と激しい雨の降る日、青豆はさきがけ教団のリーダーを殺害し、天吾を守るために自らの命を絶つ(はずだった)。一方、そのとき、天吾はリーダーの娘・フカエリと性交をした。その後、天吾は入院している父親の病床で、空気さなぎのなかに横たわる青豆の姿を幻視した。

BOOK3では、青豆は自殺せず、天吾の子を身籠って、生き延びていた。彼女は黒幕であり彼女の雇い主である老婦人らが考えた、教団の追跡を逃れる計画を変更し、天吾を見た高円寺の小さな公園の近くのマンションに潜伏する。そこで、日夜、ベランダから公園の監視を続け、天吾が現れるのを待つ。思わぬ展開である。読者は青豆が自殺することが必然だと感じていたはずだ。天吾と青豆が高円寺で接近するような展開を予想していなかったはずだ。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2にて拡散した物語全体が縮小され、その舞台は、天吾が住み、青豆が潜伏する高円寺という町と、天吾の「父」が入院する「猫の町」の二箇所に集約される。そして、天吾と青豆の接近を媒介するのが牛河という、さきがけ教団に雇われた調査員である。牛河については後述する。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2の「落ち」とも思える、リーダーの殺害~天吾の救済~青豆の自殺という設定が全否定され、荒唐無稽な展開を見せる。しかし、作者(村上春樹)が、これまで無秩序に拡散してきたイメージの集約化を意図しているのであろうか、説明・解説的記述が増えた分、全体がとても落ち着いた感じになっている。

この小説は伝奇的エンターテインメントであって、歴史(時代)、社会のあり方、権力の核心構造等の解明を意図したものではない。作者(村上春樹)がインタビューで述べているように、思春期、生活過程において、疎外された男女(天吾と青豆)の純愛を軸としている。天吾はNHKの集金人を父に、そして青豆は、新興宗教の熱心な信者の母をもつ。天吾は集金に、青豆は布教のための戸別訪問に同行させられたことになっている。このことは、思春期の二人にとって屈辱であり、理不尽このうえなかった。そんな二人があるとき啓示的な愛に打たれる。この小説の出発点は、二人の啓示的純愛であり、それを盛り上げるために、作者(村上春樹)の中に蓄積された様々なイメージが盛り込まれているにすぎない。

それはそれでかまわないのであって、面白くて読者が楽しめればいいのだが、純愛とアイロニーを描いた『春の雪』をスタートに、日本の近代史の核心を突いた、三島由紀夫の『豊饒の海』に及ばない。三島由紀夫と村上春樹の同質性はたびたび指摘されるところだけれど、『1Q84』3部作と『豊穣の海』4部作を比較するならば、エンターテインメントの質、作品の構想力(スケール)、時代を射抜く勢い(パワー)において、三島作品のほうが勝っている。

蛇足だが、作者(村上春樹)が、牛河という調査員の外形を、かくも必要以上に異形に描くことに違和感を覚えた。牛河という調査員は、過去に理想的家庭生活を営みながら、わけあってそこから離脱を余儀なくされ、人から軽蔑されるような下種な調査員に身を落としている男と設定されている。彼は、俗にいうところの「左脳」人間であって、地道に資料を集め、人に会って裏を取り、執拗なまでに時間をかけ、依頼された仕事を完成させようとする。牛河が導く結論は分析的であり、計算づくである。そして、その外形は、なぜか、恐ろしく醜い。なぜ醜くなければならないのだろうか…

本書の登場人物において、「牛河」の側に属すのが、NHKの集金人の天吾の「父」であり、新興宗教の熱心な信者の青豆の「母」だ。天吾の「父」は自分を裏切った妻が産んだ天吾を男手一つで育てたことになっているのだが、そのことは読者には明らかにされるものの、天吾に告げられることがない。天吾の「父」の集金人としての働きぶりは実直であり、それが滑稽に通じ、結果として不細工であるかのように描かれる。しかも、天吾の「父」の集金の仕事ぶりは常軌を逸していて、昏睡状態で寝たきりの「父」の魂は幽体離脱し、潜伏する青豆らを脅す。そればかりではない。「父」が火葬にふされるとき、NHKの集金人の制服を着ることになるのだが、それは真面目な生活者の滑稽さを揶揄したもののように思える。NHKの集金人を肉親に持つ人々は、本書のこの場面をどうのように受け止めたことであろうか。

その一方、青豆・天吾はもちろんのこと、青豆の黒幕である老婦人、老婦人を守るタマル、そして、フカエリは身体的に美しく、シェイプアップされ、生活臭を帯びず、すっきりとしていて、テンポのよい俗にいうところの「右脳」人間になっている。彼らには実生活、労働、人間関係、家族関係、倫理、法・秩序の煩わしさが感じられず、臭いすらない。天吾が寝たきりの「父」を入院先の病院に長い間見舞い、結局、「父」の死に遭遇するのであるが、それでも、天吾と「父」の関係は、実生活上の肉親の死に遭遇した者が迫られる状況とは異なっている。

前出の牛河は、老婦人に雇われている美しいゲイの殺し屋であるタマルに殺害される。この場面は、ナチスドイツがユダヤ人虐殺と同時に行った、身障者迫害を連想させる。肉体的に美しい「優性民族」が、劣性とされる民族や、ハンディキャップを負った人々を排除するのである。牛河がタマルに殺される場面は、牛河が青豆やその黒幕の老婦人を危機に陥れるから殺害されるのではなく、彼が醜い外形であるが故に、抹殺されるかのように受けとめられる。作家(村上春樹)の小説上の排除の傾向は、いくらフィクションの世界であっても、安易に容認されるべきではない。

物語の終幕、天吾と青豆が「1Q84」の世界からの脱出に成功し、“こちら側”で結ばれる。それは、ハッピーエンドを示唆するが、もちろん、“BOOK4”が書かれたとき、このハッピーエンドがひっくり返される可能性はある。とにかく「何でもあり」なのが村上ワールドなのだから。4部作となるかどうかはもちろん、わからない。

何年か経ったとき、2010年にこの3巻の小説が異常に売れたことを覚えている人は、あまり多くはないだろう。

2010年5月23日日曜日

『ルポ 貧困大国アメリカ 2』

●堤未果[著] ●岩波新書 ●756円

本書は、米国社会の実相ルポの第二弾だ。第一弾は、アフガン・イラク戦争、サブプライムローン破綻、リーマンショック下の、そして、本書では、オバマ大統領誕生以降の、米国の姿が扱われている。

前書では住宅ローン破綻で家を奪われた人々や、借金苦の若者が「対テロ戦争」にかり出されていく構造が報じられたが、本書では、国民皆保険制度に反対する医産複合体(保険業界、医療業界)のロビー活動の結果、病人が高額な債務を背負わされるプロセスや、債務者が戦争に行く代わりに刑務所に放り込まれ、刑務所で強制的低賃金労働に従事させられる実態が明らかにされている。まったくもって、信じられない話だ。

米国で生活をしたことがない者には、本書が米国の「真の姿」であるのか、誇張された「虚の姿」であるかは断じるすべがない。だがそれでも、筆者は本書を信じる。なぜならば、その内容が、日本のマスコミがこれまで意図的に報じてこなかった米国民の悲惨な姿だと推測するからだ。筆者は、21世紀の米国社会とは、富めるものと貧なるものが固定化した、強固な階層社会だと確信する。また、米国=豊かな中産階級国家という神話が崩壊したことをも確信する。この神話は、日本が米国との戦争に敗れた後、1960年代を通じて日本国民に刷り込まれた“情報”だった。

米国に逆らってはいけない、米国は自由主義の旗手であり、自由主義に基づく理想の国家なのだ--というのが日本の国家権力及びマスコミの共通認識であり、そのようなメンタリティーの下で、「日米同盟」は維持されてきた。米国のありのままの姿を日本国民に知らせないことが、日本の権力者とその同伴者たるマスコミの情報戦略だった。そしてそのことは、いままさに普天間問題報道で維持されている。

本書を読む限り、かつての“栄光の米国中産階級”はとっくに二極分化過程を終え、極端な富者と極端な貧者に分断・固定化されてしまっている。そのことをなぜ、日本のマスコミは報じないばかりか、“自由なアメリカ”“アメリカンドリーム”を喧伝し続けるのか。

米国の一般的学生が学費ローンの「蟻地獄」に取り込まれるプロセスが本書に詳しい。米国の若者は、有名大学を卒業しなければ、「まともな就職」ができない、という恐怖に陥っているようだ。そうでなければ、薄給(時給)の外食産業従事者、不安定な非正規労働者にしかなれないことを知っているからだ。このあたりの事情は悲しいかな、日本は米国に近づいている。

若者は高額な学費を必要とする有名私大に入学するため、学費ローンを組む。ところが、超エリート大学には最初から、入学できない仕組みになっている。米国の超エリート大学とは、たとえば、“アイビープラス”と呼ばれる(ブラウン、コロンビア、コーネル、ダートマス、ハーバード、プリンストン、ペンシルバニア、イエールの“アイビー”に、マサチューセッツ工科、スタンフォード、デューク、シカゴ、カリフォルニア工科、ジョンズ・ホプキンスを加えたもの)。この“アイビープラス”には、いくら優秀でも、裕福な家庭の学生以外は、入学できないといわれている。その理由は公表されていないが、大学側が、大学施設を維持するために必要な寄付金を入学者に期待しているからだろう。

超エリート大学への入学の道を不本意にも閉ざされた中産階級以下の大量の学生たちは、次のクラスの大学に入学せざるを得ない。そこで彼らは、卒業後に高額な年収を得られるという見込みのうえで学費ローンを組む。しかし、実際には卒業後の彼らにまともな職はない。とりあえず、仕方がないので、低額時給のファーストフード業等に従事し食いつなぐ。彼らの低い収入では当然、学費ローンの返済は滞ることになるから、借入利子が膨らんで、不良債務者に転落していく。

だが、そうなれば、学費ローンを学生に供給したローン業者も大量の不良債権を抱え込んで経営が立ち行かなくなるのではないか・・・と思うのだが、ここに米国が掲げる「金融立国」の問題点が潜んでいることがわかる。

米国では学費ローンは、公的セクターが担ってきたが、いつの間にか民営化されていた。学費ローン企業は、“債権の流動化”と称して、学生に貸し付けた債権を傘下の債権回収業者(サービサー)、債権取立て代行業者等に売り払う。債権の流動化というのは、日本でも古くから行われていて、たとえば手形の割引や、借金の取り立て代行などが該当する。100万円の借金の取立てができなくなった債権者が、回収ゼロよりは…という思いで、それを専門業者に50万円で売り払う。債権を引き継いだ専門業者が債務者から50万円以上を取り立てれば、その分が利益となる。利息を計算すれば、100万円の債権はたとえば200万円くらいに膨らんでいることもあるかもしれないから、サービサー等が利息を含めた借入額全額を回収できれば莫大な利益を得られる。

米国の学生が借り入れを返済できなくなった学費ローンの利子を含めた総額は、時の経過とともに額面上は莫大な(債権)額に膨らんでいるわけであるから、それをサービサーが次から次へと転売(=流動化)していくことにより、架空の(未実現でありながら利息計算上の)利益を得られるように見える。典型的な「ババ抜きゲーム」だ。債務者である学生には、過酷な取立てが行われる一方で、流動化の出口でババを掴んだサービサーは当然破綻する。サブプライムローンと同じ結果だ。学費ローンの未実現の債権はいろいろな金融商品に織り込まれているから、証券を購入する投資家には見えない。それがどこかで破綻すれば、一気に金融危機がやってくるというわけだ。

学生が過剰な学費ローンを組むからいけないのだ、というかもしれないが、高校を卒業したばかりの若者には、大学進学以外に職を得る道がないと思うのは当然だし、将来、ローン返済が不可能になるとは思わない。ナイーブな若者を食い物したローンビジネス=債権流動化(証券化)ビジネスが諸悪の根源にある。

さて、本書がささやかながら伝えているのが、“オバマ大統領の真実”だ。就任当初7割という支持率から比べれば、現在5割に支持率は落ちたというものの、およそ半分の米国民はオバマを支持している。50%という数値は、オバマが“貧困大国アメリカ”の救済者なのか、所詮はブッシュと同じ、富者のための大統領なのかについて、米国民が判断しかねていることを表しているようにみえる。大統領選挙前から、3割はオバマを社会主義者だとして支持しないリバータリアンだろうから、オバマに期待した国民のうちの2割が彼を見切ったことになる。

この先、オバマの支持率は更に低下するであろうし、おそらく、米国の貧困も改善されないだろう。よしんば改善されたとしても、「××バブル」のおかげだろう。日本国民は、そんなオバマの米国をまだ信奉し続けるつもりなのだろうか。

2010年5月15日土曜日

読書の整理

2010年3月以降、今日まで、『海と列島文化3-玄界灘の島々-』『エクリチュールと差異-下』(ジャック・デリダ[著])『1Q84book3』(村上春樹[著])を読了。

いま、『貧困大国アメリカⅡ』(堤未果[著])を読み始めた。すぐ読み終えるだろう。

2010年5月5日水曜日

GW終了

GWが終わった。

久々に日本で過ごした。

拙宅界隈は、観光客で大賑わい。

相変わらずの「下町ブーム」のようである。

2010年5月3日月曜日

復活

風邪が完全に抜けたとはいえない中、スポーツクラブへ。

病み上がりということで、「軽め」のはずのトレーニングが、結構厳しい。

とりわけ、スクワットがきつかった。

家に帰り、昼寝から目覚めると、風邪が抜けた感じ。

いつまでも「病気」の意識がかえって、「病気」を長引かせていたのかもしれない。

2010年5月2日日曜日

教会


@Nezu

スターリンの亡霊



旧共産圏の東欧には、支配者だったソ連や、その権力者・スターリンを揶揄する定番のジョークがあった。

“この街で一番の景色を見るとしたら、どこがいいのかね?”

“そりゃあ、あの塔の上が一番さ”

“どうして・・・”

“だって、あの塔が絶対に見えないじゃないか”

往時、東欧を支配したソ連は、東欧各国の主要都市に高い塔や無骨な高層建築物を建てまくった。この手のジョークは、それがいかに醜く、東欧の歴史的街並みにそぐわないものであったかをいまに伝えるものの1つだ。

さて、「東京スカイツリー」である。筆者は、この鉄の塔の存在を忌々しく思っている。東京の街並み、とりわけスカイラインは破壊尽くされ、いまさらスカイツリーが建てられたとしても、美観に影響を及ぼさない、といえるかもしれないが、筆者の拙宅の窓から見えることが気に入らないのである。

幸いにして、日本で一番高かった東京タワーは拙宅から絶対に見えない位置にあるので気にならない存在だが、スカイツリーは嫌でも、ベランダの真正面に聳え立つ。それは、不気味な墓石のようにも、また、壮大な無意味さ、虚無のようにも映る。

さて、20世紀の到来を記念して、パリにエッフェル塔が建てられようとしたとき、パリ市民の多くが反対をした。しかし、時の経過とともにエッフェル塔はパリを代表する建築物になった。古いものを守ることも大事だが、新しいものを受け入れることも大切だといわれる。それが、生活に必要な電波環境の向上のために必要なのだから、高い塔を建てることは必然なのだと説明される。パリにエッフェル塔が必要だったように、東京にも、いま、スカイツリーが必要なのだと。

科学に無知な筆者には、「東京タワー」が無用になった理由が分からない。エッフェル塔が電波塔なのかどうかもわからないのだが、パリに2つも塔はないし、新しく建てる計画も聞いたことがない。ニューヨークやロンドンにはあるのだろうか、なぜ、東京には、2つもの高い電波塔が必要なのだろうか・・・

筆者には、だから、スカイツリーを観るたびごとに、日本には、「日本型スターリン」が存在しているのだと確信している次第である。

2010年5月1日土曜日

不覚にも



GW前に風邪を引いた。

風邪を引いたのは何年ぶりかのこと。

調子がよかっただけに誠に残念。

家でゴロゴロして休養するしかない。




@Yanaka