●辻 啓一[著及び撮影] ●角川書店 ●875円+税
本書は、パリ在住の日本人写真家が「フランスでも最も美しい村100選」というフランス観光局公認の村々を取材・撮影したもの。雑誌『マリークレール日本版』に連載した記事を大幅加筆して編集したという。「美しい村」に公認されるためには、電線を地中化しなければいけないなど、厳しい基準を満たさなければいけないらしい。
本書では、(1)パリ近郊、(2)アルザス周辺、(3)ブルゴーニュ周辺、(4)ローヌ・アルプ・プロヴァンス、(5)ミディ・ピレーネ周辺、の5地区・26村が紹介されている。26の村々のなかで筆者が訪れたことがあるのは、コンクだけ。ほかの村々については名前さえ知らなかった。
これらの村々は日本における知名度は低いものの、中世の面影を色濃く残し、古い教会(多くはロマネスク様式)、石積みの建物、石畳の舗道等々で構成されたところばかりだ。むろん、村には、十分な観光施設が備えられているとは言えないけれど、雰囲気はある。また、名所・旧跡というほどのスポットがあるわけではないけれど、いかにも“ヨーロッパ”という景観を残していて、村を訪れた人は、中世にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるに違いない。
著者はそんな村で暮らすアーチストやホテルのオーナーを紹介しつつ、村の特産料理やワインに舌鼓を打っている。長いゴールデンウイーク、東京でくすぶっている筆者にはうらやましい限り。著者は、このような村の滞在は2日間で十分だというが、筆者には行きたいようないきたくないような、判断に迷うところもある。というのも、景観としては魅力的だが、霊気や怨念といった、歴史的な重みにやや欠けるような気がするからだ。
2005年5月5日木曜日
2005年5月4日水曜日
『物語 カタルーニャの歴史』
●田澤耕[著] ●中公新書 ●780円+税
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
カタルーニヤとは現在スペインがフランスと接する、地中海沿岸の地域。バルセロナが「首都」に当たる。この地域ではいまでもカタルーニヤ語が話され、マドリードを中心としたスペインとは異なる文化圏だといわれている。
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
まず、イベリア半島に先住していていた民族はアフリカ系のイベロ人と呼ばれた。その後、印・欧語族のケルト人がやってくる。ケルト人はイベロ人と混血して、セルティベロ人と呼ばれ、現在のスペイン人の祖先になった。やがて、ケルト勢力はローマに滅ぼされ、この地はラテンの支配を受けるようになる。そのローマ人はゲルマン系諸族の侵入により滅亡し、ゲルマン系の一派である、西ゴート族がこの地の支配者となる。西ゴートはローマからキリスト教をもってくる。しかし、イスラム勢力の台頭により、西ゴート王国は滅亡、イベリア半島はイスラムの支配を受け、キリスト教勢力は北部に追いやられてしまう。しかし、北部に残されたキリスト教勢力が巻き返しを図り、レコンキスタ(祖国回復)が開始される。カタルーニヤはアラゴンと連合して、この時代から、現在のスペイン内部で独立した勢力となり、中世初期からから近世のはじめまで、カタルーニア・アラゴン王国として繁栄した。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
『世界のイスラム建築』
●深見奈緒子[著] ●講談社現代新書 ●740円(税別)
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
2005年3月31日木曜日
『ケルト映画紀行』
●武部好伸[著] ●論創社 ●価格不明(古本)
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
本書は、ケルト民族、ケルト文化をテーマにした映画の舞台となった、アイルランド、ウェールズ、コンウォール、マン島、スコットランドを旅行した印象をまとめたもの。その地にちなんだ映画の粗筋、名場面、俳優、監督の紹介や、その地の人々とのふれあいもあり、また、簡単なケルト民族、ケルト文化の解説もある。
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
2005年3月21日月曜日
『十字軍』
●ジョルジョ・タート[著] ●創元社 ●1400円

私が注目したのは、十字軍遠征に伴うイスラム教徒の殺害をだれがどう合理化したのかだった。つまり、キリスト教の教えの中に、異教徒抹殺の信仰的基盤が根ざしているのかどうか――この問については、本書資料編の聖ベルナールがテンプル騎士団の修道士たちに向けて行った、「良心的参戦拒否者に対する説明」を読むことによって、解答を得られる。
聖ベルナールは本来、修道士の集まりだったテンプル騎士団を軍隊化する過程で、戦闘に参加することを拒否しようとした良心的宗教者に対して、軍事活動=異教徒殺害は、神の教えに適うというような意味の説明を行った。以降、異教徒に対する虐殺、拷問、略奪などの暴力が神の名において許されたと解釈できる。
聖ベルナールの「説明」は、西欧の侵略主義の根拠となって、その後の南仏のカタリ派弾圧=アルビジョア十字軍や、近世の新大陸植民地化、アジア・アフリカの植民地化、そして今日の米国のアフガン、イラク戦争にまで続いていくことになる。
西欧のキリスト教は基本的に侵略主義であると考えてさしつかえない。軍事的にそれが実現できないときには、彼らは西欧に引きこもって時を待つ。十字軍から今日まで、西欧側からの侵略の歴史は、その繰り返しだった。西欧のキリスト教は、十字軍以前と以降では、根本的に異なるものだと考えなければいけない。だから、聖書に「汝、殺すなかれ」と書かれているから、キリスト教は平和主義だと考えてはいけない。そんな幻想を抱いている人は、聖ベルナールの「説明」を読んでほしい。キリスト教が、この「説明」の誤謬を指摘したという事実は、管見の限りない、のだから。
2005年3月12日土曜日
『アラブが見た十字軍』
●アミン・マアルーフ[著]/牟田口義郎[著] ●ちくま学芸文庫 ●1500円+税
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
十字軍とは、ローマ帝国崩壊後、中原ヨーロッパ世界の混乱を経て政治的安定期を迎えたゲルマン系諸族のアラブ侵略をいう。十字軍の中心勢力がゲルマン系のフランク族=フランク(王国)であったため、十字軍はアラブから「フランク」と呼ばれた。キリスト教に帰依したフランク王国はローマ教皇と共同でイスラムに奪われたキリスト教の聖地・エルサレムを「奪回」するため、当時地中海の覇権をアラブ勢力と争っていたベネチア、東ローマ帝国(アラブから「ルーム」と呼ばれた)と協力して、地中海沿岸エジプト、シリア、アラブ、トルコ(セルジュークトルコ)を侵略して植民地化し、エルサレム王国を建国する。
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
2005年1月5日水曜日
『物語 イタリアの歴史Ⅱ』
●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●740円+税
本書は前書『イタリアの歴史』の続編のようなタイトルで、記述の方法も同じである。各時代の歴史のキーパーソンについて語りつつ、「イタリア」の歴史を辿る。もちろん、物語といってもフィクションではない。一見すると、直前に紹介した前著の続編のようだが、以下の点で趣を異にする。
前書は「イタリア」各地を舞台にしていたのだが、本書はローマにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)を舞台とし、そこで暗躍した人物を物語る設定になっている。
トップに登場するのは、聖天使城を建造したローマ皇帝ハドリアヌス。ハドリアヌスは政治家であることはもちろんだが、建築家でもあり、ありとあらゆる芸術に通じた賢帝だったという。彼の時代、ローマは最も安定していたとも言われている一方、同性愛者として知られ、その生涯は謎に満ちている。
彼が築いたこの城がどういう目的で築かれたのか私はよく知らない。が、後世、陰謀渦まく、歴史の裏舞台となったことを知る。
さて、本書から「イタリア」通史を理解することはできない。その理由は、舞台を聖天使城に限ったため。登場する場所が限定されたため、登場人物が時間的に間が空きすぎる。同城を舞台に活躍した人物が「イタリア」の歴史に決定的な役割を果たしたとも言い難い。
加えて、出版・編集上の問題もある。登場する人物のたとえば、メディチ家については、前書と重複する記述もある。本書を読めば、「イタリア」の歴史が一部・二部で完結するという期待を抱いた読者を裏切った面も否定できない。私見では、その責任は著者にではなく、本題を『イタリアの歴史Ⅱ』と題して販売した、出版・編集サイドに帰すると思う。
出版・編集サイドが、「イタリア」の歴史の続編が読みたいという前書の読者からの希望を真摯に受け止めたのならば、こういう形の出版になるはずがない。前書が優れていただけに、本書を受け持った出版・編集サイドの歴史に対する姿勢が残念でならない。本書はあくまでも、聖天使城をめぐる歴史のサイドストーリーなのであって前書を補完・補遺するものではない。
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本書は前書『イタリアの歴史』の続編のようなタイトルで、記述の方法も同じである。各時代の歴史のキーパーソンについて語りつつ、「イタリア」の歴史を辿る。もちろん、物語といってもフィクションではない。一見すると、直前に紹介した前著の続編のようだが、以下の点で趣を異にする。
前書は「イタリア」各地を舞台にしていたのだが、本書はローマにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)を舞台とし、そこで暗躍した人物を物語る設定になっている。
トップに登場するのは、聖天使城を建造したローマ皇帝ハドリアヌス。ハドリアヌスは政治家であることはもちろんだが、建築家でもあり、ありとあらゆる芸術に通じた賢帝だったという。彼の時代、ローマは最も安定していたとも言われている一方、同性愛者として知られ、その生涯は謎に満ちている。
彼が築いたこの城がどういう目的で築かれたのか私はよく知らない。が、後世、陰謀渦まく、歴史の裏舞台となったことを知る。
さて、本書から「イタリア」通史を理解することはできない。その理由は、舞台を聖天使城に限ったため。登場する場所が限定されたため、登場人物が時間的に間が空きすぎる。同城を舞台に活躍した人物が「イタリア」の歴史に決定的な役割を果たしたとも言い難い。
加えて、出版・編集上の問題もある。登場する人物のたとえば、メディチ家については、前書と重複する記述もある。本書を読めば、「イタリア」の歴史が一部・二部で完結するという期待を抱いた読者を裏切った面も否定できない。私見では、その責任は著者にではなく、本題を『イタリアの歴史Ⅱ』と題して販売した、出版・編集サイドに帰すると思う。
出版・編集サイドが、「イタリア」の歴史の続編が読みたいという前書の読者からの希望を真摯に受け止めたのならば、こういう形の出版になるはずがない。前書が優れていただけに、本書を受け持った出版・編集サイドの歴史に対する姿勢が残念でならない。本書はあくまでも、聖天使城をめぐる歴史のサイドストーリーなのであって前書を補完・補遺するものではない。
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2005年1月1日土曜日
『物語 イタリアの歴史』
●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●860円+税
強大だったさしものローマ帝国が東西に分裂。西ローマ帝国の成立をみるが、その前後、北方から、いわゆる蛮族の侵入が始まった。この混乱の時代から「イタリア」に統一勢力は存在しなくなり、分裂状態が続くことになる。
西ローマ帝国滅亡以降の「イタリア」の歴史というのは、きわめて複雑だ。本書を一読しただけでは、なにがどうなったのか、体系的に理解することが難しい。そもそも、「イタリア」という統一的な地域(国家)概念が形成されたのが、つい最近のことなのだから。
本書は、分裂した「イタリア」が国民国家として統一を迎えるまでのおよそ1500年の歴史を、各時代のキーパーソンの活動を踏まえて辿った歴史物語である。もちろん物語といっても、フィクションではない。
かの地が複雑な歴史をたどった第一の理由は、ローマ教会総本山の存在だろう。そのローマ教皇ですら、ローマに留まり続けたわけではない。一時期、南フランスのアビニヨンに移動したくらいだ。このことは、欧州列強がローマ教会に影響力発揮した結果だが、その逆も多い。
さて、蛮族の侵入後、かの地の支配者となったのはゲルマン系の東ゴート族だった。その東ゴートが東ローマ帝国に滅ぼされ、同系のランゴバルト族が支配権を確立。ところが、ランゴバルト族の支配もつかの間、フランク族のカール一世がこの地を統一する。カール一世の背後には、それを望むローマ教皇がいた。
その後、ノルマン族、イスラム勢力、マジャール族等が「イタリア」侵入を果たすが、10世紀、この地に侵入したオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝となり、支配者となる・・・と書き続けていたのだは、書評にならない。
中世以降はフィレンツェに代表される都市が群雄割拠し、ルネサンスを迎えたことはよく知られている。その都市国家も衰亡、オスマントルコ、フランス、スペイン、ハブスブルク(墺)といった欧州各国が「イタリア」を、全域的に、そして、部分的に、かつ、直接的に、間接的に、支配することになる。
「イタリア」の歴史は、欧州諸勢力に蹂躙され続けた歴史と言える。本書を手がかりに欧州の戦争の歴史から何を学ぶべきなのか。ローマ教会とは何であったのか。
たとえば、われわれはいまの日本を独立した民主国家だと考えている。が、よく見れば、米国の軍隊が駐留し、日本は米国の圧倒的な軍事的支配下にある。この状態は「イタリア」の都市が、当時強大な軍事力を誇ったフランスの支配下にあった状況と似ている。安全保障上の対等性とは、日米双方の軍隊が双方の国家に駐留することだ考えられるが、日本の軍隊(自衛隊)が米国本土に駐留することになったならば、米国民はどのような反応を示すだろうか。
米国に「NOと言える日本」になるためには、日本のオールドライトが考える以上のリスクと、米国の抵抗を覚悟しなければいけない。彼等の勇ましい発言ほど、簡単なことではない。安全保障の名を借りた米国の支配を日本人はどう、考えるべきなのか。
国益とか国際関係の認識というのは観念的なものではなく、人々の経験から導き出されるものなのだろう。日本は国際関係において、欧州ほど経験を積んでいない。両者には、プロとアマほどの格差がある。戦後(敗戦)の総括にもそのことが現れている。だからといって、戦争の経験を積むことはできない。
歴史を学ぶことの重要性の1つとして、戦争を擬似体験することが挙げられる。たとえば、「イタリア」のシチリアはマフィア発祥の島として名高いが、この島の支配者がどれだけ交代したかを知ることは無駄ではない。ざっと数えるならば、ギリシア・ローマ・ゲルマン・ビザンチン・イスラム・ノルマン・ナポリ・フランス・スペイン・・・この島には幾重もの異なる文化の痕跡が残されているという。行って見る価値はありそうだ。
強大だったさしものローマ帝国が東西に分裂。西ローマ帝国の成立をみるが、その前後、北方から、いわゆる蛮族の侵入が始まった。この混乱の時代から「イタリア」に統一勢力は存在しなくなり、分裂状態が続くことになる。
西ローマ帝国滅亡以降の「イタリア」の歴史というのは、きわめて複雑だ。本書を一読しただけでは、なにがどうなったのか、体系的に理解することが難しい。そもそも、「イタリア」という統一的な地域(国家)概念が形成されたのが、つい最近のことなのだから。
本書は、分裂した「イタリア」が国民国家として統一を迎えるまでのおよそ1500年の歴史を、各時代のキーパーソンの活動を踏まえて辿った歴史物語である。もちろん物語といっても、フィクションではない。
かの地が複雑な歴史をたどった第一の理由は、ローマ教会総本山の存在だろう。そのローマ教皇ですら、ローマに留まり続けたわけではない。一時期、南フランスのアビニヨンに移動したくらいだ。このことは、欧州列強がローマ教会に影響力発揮した結果だが、その逆も多い。
さて、蛮族の侵入後、かの地の支配者となったのはゲルマン系の東ゴート族だった。その東ゴートが東ローマ帝国に滅ぼされ、同系のランゴバルト族が支配権を確立。ところが、ランゴバルト族の支配もつかの間、フランク族のカール一世がこの地を統一する。カール一世の背後には、それを望むローマ教皇がいた。
その後、ノルマン族、イスラム勢力、マジャール族等が「イタリア」侵入を果たすが、10世紀、この地に侵入したオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝となり、支配者となる・・・と書き続けていたのだは、書評にならない。
中世以降はフィレンツェに代表される都市が群雄割拠し、ルネサンスを迎えたことはよく知られている。その都市国家も衰亡、オスマントルコ、フランス、スペイン、ハブスブルク(墺)といった欧州各国が「イタリア」を、全域的に、そして、部分的に、かつ、直接的に、間接的に、支配することになる。
「イタリア」の歴史は、欧州諸勢力に蹂躙され続けた歴史と言える。本書を手がかりに欧州の戦争の歴史から何を学ぶべきなのか。ローマ教会とは何であったのか。
たとえば、われわれはいまの日本を独立した民主国家だと考えている。が、よく見れば、米国の軍隊が駐留し、日本は米国の圧倒的な軍事的支配下にある。この状態は「イタリア」の都市が、当時強大な軍事力を誇ったフランスの支配下にあった状況と似ている。安全保障上の対等性とは、日米双方の軍隊が双方の国家に駐留することだ考えられるが、日本の軍隊(自衛隊)が米国本土に駐留することになったならば、米国民はどのような反応を示すだろうか。
米国に「NOと言える日本」になるためには、日本のオールドライトが考える以上のリスクと、米国の抵抗を覚悟しなければいけない。彼等の勇ましい発言ほど、簡単なことではない。安全保障の名を借りた米国の支配を日本人はどう、考えるべきなのか。
国益とか国際関係の認識というのは観念的なものではなく、人々の経験から導き出されるものなのだろう。日本は国際関係において、欧州ほど経験を積んでいない。両者には、プロとアマほどの格差がある。戦後(敗戦)の総括にもそのことが現れている。だからといって、戦争の経験を積むことはできない。
歴史を学ぶことの重要性の1つとして、戦争を擬似体験することが挙げられる。たとえば、「イタリア」のシチリアはマフィア発祥の島として名高いが、この島の支配者がどれだけ交代したかを知ることは無駄ではない。ざっと数えるならば、ギリシア・ローマ・ゲルマン・ビザンチン・イスラム・ノルマン・ナポリ・フランス・スペイン・・・この島には幾重もの異なる文化の痕跡が残されているという。行って見る価値はありそうだ。
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