2021年11月6日土曜日

 Yさんと猫とで寛ぐ




2021NPB順位確定(その2)パリーグ編


2021のNPB(日本プロ野球)、パリーグの順位である。

〈パリーグ〉

1オリックス(70勝55敗18引分、勝率.560、打率.247、防御率3.31

2ロッテ(67勝57敗19引分、勝率.540、打率.239、防御率3.67

3楽天(66勝62敗15引分、勝率.516、打率.243、防御率3.40

4ソフトバンク(60勝62敗21引分、勝率.492、打率.247、防御率3.25

5日本ハム(55勝68敗20引分、勝率.447、打率.231、防御率3.32

6西武(55勝70敗、18引分、勝率.440、打率.239、防御率3.94

筆者の開幕前の予想

1. ソフトバンク、2.楽天、3.ロッテ、4.西武、5.オリックス、6.日本ハム

であったから、こちらも外れた。楽天、ロッテをAクラスにあげていたのがせめてもの救いか。

主力の故障と高齢化――ソフトバンクBクラス転落の主因

ソフトバンクのBクラス転落は考えもつかなかった。順位表でわかるように、チーム打率はオリックスと同率ではあるが1位、防御率も1位である。投打のバランスは数字上、最も良い。なぜ4位なのか。

ソフトバンクは選手層が厚いと思われるのだが、それでも、エースの千賀滉大、先発ローテーションの一角・東浜巨、クローザーの森唯斗、中継ぎのリバン・モイネロ、打撃陣では、ジュリスベル・グラシアル、周東佑京といった主力選手に故障が相次いだことが、成績を落とした主因だろう。加えて、松田宣浩、アルフレド・デスパイネ、ウラディミール・バレンティンらベテラン陣の不振も重なった。主軸が活躍しないと勝負所で勝てないし、チームも波に乗れない、ほかのチームにプレッシャーをかけられない――といった勝負の綾があるのかもしれない。4年連続で日本一となったあとの2021シーズン、選手・監督のモチベーションが上がらなかった可能性も高い。

オリックス中嶋監督、指導力を証明

オリックス優勝の立役者は2020シーズン途中からチームを率いた中嶋監督である。現役時代、コーチ時代を含めて印象にない野球人であるが、セリーグの高津監督(ヤクルト)と同様、最下位チームを優勝に導いたのだから、指導者としての実力の証明としてはじゅうぶんすぎる。

このチームは投の山本、打の吉田正という日本球界を代表する選手を擁していた。2021はその山本がリーグ最多勝の18勝、高卒2年目の宮城が13勝、田嶋と山﨑福がキャリアハイの8勝を挙げた。野手陣も前出の吉田正が.339で2年連続首位打者及び.429で初の最高出塁率、杉本が32本塁打で初の本塁打王を獲得するなど、山本、吉田正はもちろん、それ以外の選手の才能が一気に花開いた感がある。オリックスはFAや前MLB選手といった派手な補強をしていない。むしろ、育成型の球団である。2022以降、このチームがどのような姿になっていくか注視していきたい。

2021年11月5日金曜日

2021NPB順位確定(その1)セリーグ編



 2021のNPB(日本プロ野球)のペナントレースは予想を超えた結果となって幕を閉じた。セパ両リーグで昨シーズン最下位球団が優勝をさらったのである。第1回目はセリーグから。まずは順位を見てみよう。

〈順位表〉

1ヤクルト(73勝52敗18引分、勝率.584、打率.254、防御率3.48)

2阪神(77勝56敗10引分、勝率.579、打率.247、防御率3.30)

3読売(61勝62敗20引分、勝率.496、打率.242、防御率3.63)

4広島(63勝68敗12引分、勝率.481、打率.264、防御率3.81)

5中日(55勝71敗17引分、勝率.437、打率.237、防御率3.22)

6 DeNA(54勝73敗、16引分勝率 .425、打率.258、防御率4.15)

筆者の開幕前の予想

1.読売、2.阪神、3.DeNa、4.中日、5.広島、6.ヤクルト、であったから、まったく外れた。以下、弁明を書く。

順位予想の手順

(一)既存戦力

順位予想に係る確定要素としては、まず既存戦力の見極めがある。既存戦力をみるには、前シーズンの実績があり、新たに台頭する戦力の予測が加わる。前者はわかりやすく、前シーズンに活躍した選手は次のシーズンも活躍すると見なしがちである。だから、前シーズン上位の球団はそのままスライドしがちである。一方、後者を予想するのは難しい。どの選手が力をつけて公式戦に参入するのか。6球団に目を向けるのはそうとうの労力を要す。

(二)新規加入戦力

新規加入戦力としては、新人と移籍がある。新人は難しい。2021は新人豊作の年で、新人王候補が目白押しである。シーズン前、これほどの新人の活躍を予想することはできなかった。それに比べれば、移籍はわかりやすい。入団した選手の力量と移籍したそれとを比べれば、球団の戦力アップ、ダウンの判断は容易である。

(三)補強が実を結ばなかった読売

たとえば筆者がセリーグ首位と予想した読売の場合、新人を除いた新戦力としては、FA=井納翔一:5試合 0勝1敗 防御率14.40、同=梶谷隆幸:61試合 64安打4本塁打23打点11盗塁 打率.282、MLBからシーズン途中=山口俊:14試合 2勝8敗 防御率3.56、日ハムからシーズン途中=中田翔:30試合 12安打3本塁打7打点 打率.150、MLBから新入団=テームズ:1試合 0安打 打率.000、同=スモーク:34試合 31安打7本塁打14打点 打率.272、ヤクルトからトレード=広岡大志:75試合 17安打3本塁打9打点2盗塁 打率.175、AAAからシーズン途中=ハイネマン:10試合 4安打0本塁打2打点0盗塁 打率.160。

これだけ新戦力を集めた読売なのだから、首位で終わって当然である。ところが、期待され入団した外国人2選手がシーズン途中で退団、怪我のためとはいえ、テームズがわずか1試合しか出場できなかったのは大誤算。FA移籍してきたDeNAの2選手も戦力にならなかったし、シーズン途中の補強も実を結ばなかった。難しいものだ。

既存戦力の底上げにも失敗した。昨年より実力を上げた既存戦力は松原ただ一人。野手の坂本、丸、大城、ウイラー、吉川も成績を落とした。投手陣も先発陣では、菅野以下成績を落としたし、ブルペンもシーズンをとおして安定しなかった。しかも、読売はチーム打率でリーグ5位、防御率で同4位であった。これだけ数字を落としながらCS出場を果たしたのは奇跡に近い。

ヤクルトの躍進

反対に最下位からリーグ優勝したヤクルトの場合は、攻撃面における外国人2選手の活躍がチームを引っ張った。中村捕手の打撃開眼、トップバッター塩見の成長、脅威の8番打者・西浦、チームリーダー・青木の健闘、不動の四番に成長した村上――と、攻撃の破壊力は昨シーズンを大幅に上回った。驚異的な成長を見せたのは投手陣である。中継ぎ陣の成長、抑えのマクガフがシーズンを通して安定して活躍した。ここまでたて立て直した監督・コーチに敬意を表する。

残念な阪神

阪神はチャンスを逃した。2位に甘んじたのは、9回延長なしの「コロナ禍ルール」である。Jリーグが採用している勝点制度(勝3点、引分1点、負0点)ならば、阪神は問題なく優勝していた。不運というほかない(ヤクルト=73勝×3+18引分×1=237、阪神=77×3+10引分×1=241)。筆者は、勝者をリスペクトする立場から、NPBも勝点制度を採用すべきだと考える。

第49回衆議院議員総選挙を総括する

2021/10/31、第49回衆議院議員総選挙が行われた。当該選挙の焦点は野党共闘であった。立憲、共産、社民、れいわの左派系野党が候補者調整を行い、小選挙で与党を上回る票の獲得を目指した。ところが、結果は与党の勝利に加え、極右政党である維新が議席数を大幅に伸ばし、立憲は後退した。立憲民主党党首・枝野幸男は選挙結果を受け、引責辞任した。

野党共闘は誤りである

 今回の総選挙、就中、野党共闘を次のように総括する。野党共闘は間違っていたと。なぜならば、立憲民主党は安易な足し算選挙を選んだからである。まわりも、そうけしかけた。立憲の、いや日本の左派の他力主義である。民主党が下野(2012.11)して以来、同党は自力再生、地域における票の掘り起こし、党員獲得・・・当たり前の政治活動を怠り、連合頼みの党運営、選挙運動しかしてこなかった。幹部が当選すればそれでよし、気楽な野党業に勤しんできた。
 これまでの国政選挙においては、日本共産党(以下「日共」)が独自候補を立ててきた。選挙が終わって票を集計すると、当選した自公よりも立憲と日共を合わせた票の方が多い。小選挙区で勝つには野党共闘しかない。だれでもそう思う。野党共闘の原理はこの単純な足し算主義である。筆者もそう思って、日共主導の人民戦線を支持した。しかし、この足し算選挙路線が誤りだった。

日本共産党とはいかなる政治勢力なのか

 日本の左派系文化人・言論人は日共を見誤っている。彼らはスターリニズム政党である。維新がナチ党に例えられるように、日共はスターリンが率いたソ連共産党に例えられる。管見の限りだが、前出の左派系文化人・言論人の中で日共を批判したのは、中島岳志の次の発言だけだと思われる。

小選挙区で共産党が議席を獲得するためには、共産党のあり方もさらに変わる必要があります。もっと候補者の個性が見えなければ、浮動票は集まりません。従来の<比例の票起こし>のための選挙区での戦いを大きく変え、党内に残っているパターナリズムを払しょくする必要があります。
 きわめて控えめな批判だが、間違っていない。そのパターナリズム(父権主義)こそが同党のエリート主義、官僚主義、密室的党運営の根源にある。ところで、左派系言論人の前官僚・前川喜平は、有権者をつぎのように罵倒した。《政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ》。有権者(大衆)はほんとうに愚かなのか、いまさら吉本隆明の「大衆の原像」をもち出すつもりはないけれど、有権者の日共アレルギーは健全な拒否反応かもしれない。立憲の安易な足し算選挙路線を批判し、お灸を据えたと考えられないか。

日共のパターナリズムの淵源

 前出の中島の発言にある日共のパターナリズムとはどんなものか。それはロシアマルクス主義の「唯物(タダモノ)論」に平和と民主主義の二段階革命論を接合した修正主義である。日共内ではその修正主義をいかにも「普遍的」に理論化した者が〈父〉として君臨する。敗戦直後においては、非転向獄中組の精神性が加わって幹部の無謬性が高じ、神格化されるにいたった。日共はその後、路線上の紆余曲折を経ながらも、その頂点に立ち続けた宮本顕治は同党の家父長として最高指導者の座に居座り続けた。現下の日共幹部は「ミヤケンの子供たち(かなり年のいった)」にすぎない。
 日共の体質に内在する封建遺制については、かつて新左翼により、批判され尽くされたのだか、安倍政権の長期化と日本の右傾化が強まることにシンクロして、日共は「健全な市民政党」として、左派系内部で評価を高めた。白井聡、内田樹、適菜収といった、体制批判論者ですら、日共批判は時代遅れ、不当な中傷、右派によるフェイクニュースとして退けられ、封印された。日共こそが日本の救世主であるかのように。野党共闘を推進した左派系言論人たちは、日共の甘言に弄され、同党の本質を見誤っているのである。

来年に控える参院選をどう闘うべきなのか

 左派系言論人と日共が合作した「日本を取り戻す」ための政権奪取戦略が市民(=野党)共闘だったが、これは頓挫した。来年の参院選で野党共闘を継続することはけっこうなことである。再チャレンジしてもかまわない。だが、結果はあまり期待できないものに終わるだろう。もちろんこの先何があるかわからないけれど、一年弱で状況を一変させることは考えにくい。

永田町を離れ、現場で汗を流せ

 旧民主党の下野から今日までは、野党にとってというよりも、国民にとって「失われた10年」である。旧民主党の瓦解は、風頼み、連合頼み、百合子頼み、そして今回は日共頼みと右往左往した旧民主党の議員たちの体質に起因する。彼等の仕事場は永田町であり、彼等はその住民である。
 彼等の本来の仕事場は、地域、職場、高校、大学であり、彼等の本来の仕事は、そこで活動するありとあらゆる反ファシズム運動に携わる人々との共闘のための組織拠点を構築することである。連合の組合員の中にもベースアップにしか興味をもたない者ばかりではないはずだ。地球温暖化対策、ジェンダー問題、夫婦別姓問題、反入管、自民党のモリカケ・サクラ、甘利・河合夫妻問題、新型コロナ対策への怒り・・・等々、良心に基づく政治を希求する人々が少なからずいるはずだ。彼等と共闘するべく汗をかくべきなのだ。

極右維新を警戒せよ

 維新の大幅議席増については、ツイッター情報によると、在阪のテレビ局による維新偏重報道の影響が大きいという。吉本興行の芸人をコメンテーターに起用して、徹底して、吉村知事を応援。吉村は、コロナ禍を乗り切った英雄として扱われているといわれている。維新が府政・市政を担って以来の病床数減、病院閉鎖は大きく取り上げられない。
 そればかりではない。大阪人の反東京、反中央意識は根強い。また、大阪人の金銭感覚が庶民から大企業まで、新自由主義とみごなまでに融合してしまったことは不幸である。たとえば、大阪人が支持する萬田銀次郎(漫画『難波金融伝・ミナミの帝王』の主人公)の金貸し哲学は、貸した金は地獄の底まで取り立てる、という徹底した借り手の自己責任論に帰着する。〈貸し〉〈借り〉〈トイチの高金利〉は、緊縮に通底している。なお、『難波金融伝・ミナミの帝王』は超B級映画制作会社の伝説のVシネマが、竹内力主演で映画化し大ヒット、テレビシリーズも人気を博した。テレビシリーズでは、俳優時代の山本太郎が銀次郎の舎弟役で出演している。これまでのような、立憲の曖昧な福祉策では、大阪人のエートスに食い込むことはこれからさきも、かなり、やっかいかもしれない。

維新という政党は謎だらけ

 維新が大阪ばかりでなく、比例全国区で議席を増やしたことは、大阪人のエートスでは説明つかない。報道では、立憲が日共と組んで左傾化したことで、有権者が離れたから、との理由付けがされている。たしかに戦後日本の選挙の歴史をみると、中道右派が一定程度、議席を得ることは珍しくなかった。古くは社会党から右へスピンした民社党、その反対の新自由クラブ、20世紀末には、自民からやや左へ流れた新党さきがけ、日本新党などが存在感を示した。維新もそうなのかというと、筆者の感覚的受け止めとしては、どうもこれまでの中道政党とは性格を異にしているように思われる。
 その第一は、維新が徹底して極右ポピュリズムから出発し、それに徹していることである。いわば、日本版ナチ党である。ナチはドイツ、ミュンヘンを地盤とし、維新は大阪である。また、これまでの党のように、左右どちらかから真ん中によるという政治力学が働いていない。
 第二は、維新の資金の出どころがわからないこと。冷戦下なら、左から右はCIAだったけど、それはないだろう。維新の資金力は、これまでの日本の中道政党のそれをはるかにか上回っているのである。
 第三は、マスメディアを実態上、支配していること。先述したように、関西圏のテレビ局は、維新に完全支配されている。全国レベルでは、橋下徹が宣伝媒体として、テレビに出まくることで、維新の政治的主張が全国的に行き渡る仕組みが構築されている。加えて今回は、コロナ禍を吉村大阪知事が政治利用した。
 このような党は、かつて日本の政党史には例がないものの、維新の議席数は41であり、今回選挙が上限かもしれない。しかし、維新がこの先の国政選挙で議席数を着実に増やすとなると、憲法改正が現実のものとなる。憲法改正はアメリカのジャパン・ハンドラーの日程にすでに上がっているという(孫崎享)。自衛隊を海外に派兵するためには、憲法改正が必要であり、アメリカ軍の代わりに世界の「紛争地域」に自衛隊を派兵することが、アメリカにとっての合理性である。日本は変わらない、どころではない、憲法改正を機に、とんでもない方向に変わるのである。

2:3:5の壁を突破せよ

 日本の有権者の分布比率は、革新2、保守3、無党派5とされている。だから小選挙区では、革新はなかなか勝てない。今回の野党共闘で革新2に無党派の一部がプラスされて勝った選挙区もあったし、大阪のように維新という第三勢力が自公という保守に代替されたところもあった。そのなかにあって、維新=ファシズムと、日共=スターリニズムの暗黒の政治勢力が表の顔として、両極に顕在化してきた。そして、今回総選挙では、局部的に両極に引っ張られたものの、全体の構造に変化は起きなかった。つまり総体として、革新=2に変化はなかったのである。革新が票の積み増しに相も変わらず失敗し続けているのである。
 今後、無党派層は棄権という眠りから、目覚めるのだろうか。無党派層を目覚めさせるのは、憲法改正阻止、反ファシズム、反新自由主義といった、あたりまえの政策を掲げて(日共も掲げている政策なのだが)、ここが重要なのだが、透明で非官僚的体質の政党が地道な努力を続ける以外の方法はないのである。

2021年10月29日金曜日

ジム友と「緊急事態明け」の飲み会

緊急事態宣言解除に伴い、ジム友と飲み会。


 

2021年10月19日火曜日

『ニュー・アソシエーショニスト宣言』

●柄谷行人〔著〕 ●作品社 ●2400円+税

エンゲルス以降の「マルクス主義」における史的唯物論は、一般に次のように説明される。それは「生産様式」から、つまり、誰が生産手段を所有するかという観点から、社会構成体の歴史的段階を見るものとされる。先ず原始的な共産主義があり、それが階級社会に転化する。資本制生産の段階では、生産手段をもつ資本家とそれをもたないプロレタリアという階級関係があり、階級闘争があるということになる。

柄谷は、それだけでは、信用をふくむ資本制経済の体系を理解することなどできないとして、マルクスの『資本論』を史的唯物論とは異なる見方をしたものと理解する。つまり、マルクスは商品交換から始めて、貨幣、資本、そして信用体系にいたる資本主義システムの全体を解明しようとしたと。その際、マルクスは国家をカッコに入れて、純粋に資本制経済のメカニズムをとらえようとした。

自分と同じような観点から、『資本論』を読んだのが宇野弘蔵だ、と柄谷はいう。すなわち、資本制経済の原理を純粋に解明する著作として『資本論』を読んだ、つまり、イギリスの経済を通して、「純粋資本主義」の原理(原理論)を見ようとしたと。

宇野は、その一方で、国家がとる経済政策によって、資本主義の歴史的段階を区別しようとした。具体的には、イギリスは〈重商主義的→自由主義的→帝国主義的〉と呼ぶべき経済政策をとってきた。宇野は、それが資本主義の歴史的段階だといった(段階論)。そして、現状の資本主義経済について、それがどのような状況にあるかを現状分析として措定した。

しかし、宇野のこのような考え方は、その内部で、つまり、鈴木鴻一郎や岩田弘によって批判された。資本主義は、本来、一国だけで考えられるものではない、ゆえに「世界資本主義」という観点が必要だと。柄谷は、その通りだと思ったが、それをどう考えたらいいのかわからなかったという。ただ、このことがずっと気になっていたと。

柄谷は、この疑問がのちの柄谷自身が創出した、「交換様式」という着想に結びついたと述懐している。柄谷が岩田らの宇野経済学批判をあらためて考えるようになったのは、20世紀末になってからだという。柄谷の交換様式の着想が1960年代末に起きた、ブント内における宇野弘蔵の三段階論をめぐる論争だったことは興味深いものがある。

理念(統整的理念)は義務として外からやってくる
では柄谷が創出した交換様式とはなにか。柄谷はそれを歯医者で治療中、身動きできない状態にあったときに、ふと思いついたという。ここが本書の肝だと思われるので、長いが引用する。

昔から、カントの「義務に従うことが自由だ」という命題が、難問としてありました。義務は他律的で自由は自律的ですから、背反します。これをどう考えたらいいかわからない。(中略)通常は、義務と自由は両立しません。しかし、私はふと思った。「それに従うことが自由であるような」義務が一つある、そして一つしかない。それは「自由であれ」という義務です。逆にいうと、「自由であれ」という至上命令がなければ、自由はありえない。

カントの場合、自由とは自発的という意味です。スピノザは、自由(自発性)はない、人の意志は多重的な原因によって決定されている、ところが、それがあまりに複雑なので、自由(自発性)と思い込んでいるだけだ、といいました。彼の見方はまちがっていません。カントもそれを認めた上で、こう考えたのです。確かに、人間に自由はない。が、やはり自由はある。ただ自由であれという義務に従うときにのみ、それがある。そう考えれば、謎はない、と・・・(略)

人間には自由はない、自由だと思うのはイデオロギーでしかない。確かにそうですが、それだけでは足りません。積極的なものが出てこない。「自由であれ」という命令があるからこそ、自由が生じる。問題は、では、その命令は、どこから来るのかということです。カントはそれを、神の命令ではなく、理性の奥に内在する道徳法則だと考えました。が、そうではない。それは人間の理性に内在するものでもない、それはやはり「外から」来るのです。しかし、それを「神」という必要はない。私は、交換様式からそのことを説明できると考えました。(略)

あらためていうと、理念(統整的理念)は義務としてやってくる。それはたんなる観念ではなくて、反復強迫的なものである。ヘーゲルは、理念はカントがいうのとは違って、現実的であると、いいかえれば、歴史的な現実においてあるといった。しかし、別の意味で、カントのいう理念もリアルなのです。歴史的現実を通して迫ってくるのだから。(P32~33)

史的唯物論を交換様式の観点から再構築する
このような積極的な倫理性を裏づける論理として、交換様式を、逆説的にいえば、史的唯物論を、交換様式の観点から再構築することが柄谷のNAMの原理として措定される。では、交換様式とはなんなのか、となるのだが、それを説明する前に、柄谷が前出の史的唯物論について、《それは歴史を経済的下部構造から見るもの》という一般的な説明をしりぞける論理に着目すると、わかりやすくなる。よって以下、引用する。

史的唯物論では、歴史を経済的下部構造から見ます。そして、それが生産様式(生産関係)です。国家、宗教、哲学などは政治的・観念的上部構造であり、経済的下部構造によって規定されるということになる。しかし、そうすると・・・理論的に多くの困難が生じます。そこで、観念的上部構造の相対的自立性を唱え、そのあげく、経済的下部構造を事実上無視するようになる。それに対して、私は交換様式を、経済的下部構造と見なす。その意味では、私は断乎として「経済決定論」者なのです。

交換様式が経済的下部構造だとすると、観念的上部構造がそれによって規定されていることははっきりわかります。(P34~35)

交換様式A、B、CそしてD
いよいよ、交換様式の説明に入る。以下は柄谷の交換様式(原文)に多少の補足説明を加えたものである。

・交換様式A
史的唯物論では、前資本主義社会を「生産力と生産関係」という観点から説明しようとすると、うまくいかない。たとえば氏族社会に関しては、何もいえない。たんに未開で、生産力が低いというほかない。氏族社会の性格は、この社会が今もって模範的と見える性格は互酬交換という交換様式であり、これは原始の遊動民の時代にはなく、彼らが定住した後に生まれたものである。互酬とは人あるいは集団が相互に有形・無形のものを、特定の期待感や義務感をもって、与え、返礼しあうことによって成立しているものが多い。人間の行為の多くは相互的行為、あるいは一種の交換ということができる。物の交換以外の互酬交換の例としては首長制がある。首長は権力をもつけれども、その役割が果たさなければ辞めさせられたり殺されたりする。互酬交換を交換様式Aという。

・交換様式B
交換様式Bとは、支配-保護という関係である。支配する側は、被支配者を保護する義務がある。そして、被支配者は自発的に服従する。ここに国家権力の秘密がある。国家の「力」はたんに武力によるものではなく、自発的な服従にもとづいている。

・交換様式C
その次が商品交換Cである。これが優位に立つのは、近代のブルジョア社会段階である。ここで柄谷が力を入れて注意喚起するのは、社会構成体が、このような複数の交換様式の接合としてある点である。たとえばブルジョア社会では交換様式Cが支配的であるが、AやBが消えてしまうわけではないということ。Bは近代国家として残り、Aは「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としてネーションとして残る。だから、近代では資本-共同体(ネーション)-国家(ステイト)となる。

・交換様式D
交換様式Dとは、具体的にいえば、古代に帝国が成立した時点で普遍宗教としてあらわれたものであり、交換様式A・B・Cの複合体に対抗して、抑圧された原遊動性が回帰したものである。マルクスは、共産主義は「氏族社会の高次元における回復」だといった。その言い方を借りれば、Dは交換様式Aの高次元の回復である。したがって、それは、古代に帝国が成立した時点、つまりBが決定的に支配的となった時点で、普遍宗教としてあらわれた。それはまた、資本制経済(C)が決定的に優位になった時点で、共産主義という理念であらわれたわけである。

ここで注意しなければならないのは、たとえば、資本主義社会を中世や共同体のロマン主義的な回復によって乗り越えることはできないということ。それはファシズムになってしまうだけである。だから、Aの回復は‶高次元での回復″でなければならない。交換様式Dとはそのようなものでる。

あらためていうと、交換様式DはBやCを超克するものだが、人が積極的に、意識的に構成するようなものではない、カント的にいえば、それは構成的理念ではなく、統整的理念である。つまり、人間の願望・意志によって綿密に計画されるようなものというより、逆にそれに反して‶向こうから″(強迫的に)到来するものだということ。したがって、それは歴史的には最初、普遍宗教として出てきた。つけ加えれば、普遍宗教はたんなる観念ではなく、広い意味で経済的な交換様式に根ざしている。DはAの高次元の回帰であり、このようなAの「回帰」を、フロイトの「抑圧されたものの回帰」という見方によって説明できると。つまり、定住以前の人類がもっていた「原遊動性」は定住以後に抑圧されたが、それが反復強迫的に回帰したと。

交換様式Dと普遍宗教
交換様式Dが普遍宗教としてあらわれたとはどういうことか。この問いは当然、だれもがもつ疑問である。そのことについて柄谷は次のように説明する。

普遍宗教(たとえば原始キリスト教)は、呪術などの原始宗教とは異なる。その違いは交換様式からみると、明らかである。呪術は、神に贈与して、そのお返しを強いる(たとえば、お賽銭⇔幸運)。これは交換様式Aである。

ところが、交換様式Dは普遍宗教としてあらわれた。それは人間の願望や計画ではなく、神の意志として到来した。もしそれが人間の祈願によるものならば、それは呪術(神強制)と同じである。もちろん、今日「世界宗教」といわれている宗教も、事実上、祈願=神強制にもとづいていて、人間が考え作った制度を神の考えとして強制しているが、柄谷が普遍宗教と呼ぶのは、そのような考えを拒否することであり、いいかえれば、普遍宗教は、AやBやCを斥けるDとしてあらわれたということになる。

キリスト教は普遍宗教として出現しながら拡大するうちに、ローマ帝国の国教になってしまったが、その根底にあるDが消えてしまうことはなった。それがのちに、千年王国や異端の運動としてあらわれた。19世紀前半でも、ヨーロッパの社会主義運動はほとんどすべて、千年王国のような宗教的社会運動の伝統に根ざしていた。

マルクス主義運動も事実上、宗教的であった。マルクス主義の理論では、最初に原始共産社会があり、それが階級社会に転落し、資本主義の後に、共産主義社会が到来することになっている。実は、これは聖書のエデンの園、失楽園、楽園回帰という神話(物語)と同形である。だから、マルクス主義者はそれをいわないようにしている。そのかわりに、歴史を生産力の発展と生産関係の変化から説明しようとする。実際には、人を動かすのは宗教的な原理あるいは終末論なのだが、だからこそ、あえて宗教的なものを否定し、経済的な観点をとろうとしてきた。

本書の構成
NAMの運動は、資本ー共同体ー国家の外に出るものである、ということになる。運動の具体的な構想と実践については本書を参照されたい。

本書の構成としては、①柄谷行人が2000年頃に開始した、NAM(New Associationist Movement(ニュー・アソシエ―ショニスト運動)を回顧・検証・再考する書下ろし(2011~2018年執筆)と、②運動開始時期に書かれた、〔NAM(運動)の原理〕〔NAM(運動)結成のために〕が付録としてついている。アソーシエショニスト(Associationist)とは聞きなれない言葉であるが、辞書的には連合主義者と訳されるようだが、柄谷はその訳をきらって、アソーシエショニストと英語のまま使用するといっている。

この時期(2021.2に刊行)、過去のNAM(運動)とNAM(宣言/Manifesto)を併せて出版した意図は、《コロナ禍、日本社会を含めた世界全体が未経験の困難に直面していることにより、アソーシエショニスト運動が見直されているのではないか、すなわち、前出の通り、未来の社会は「向こうからくる」》からと柄谷はいう。具体的には、《生産、流通、金融などの現在の諸システムの問題点が浮き上がり、自給自足や地域通貨をはじめとする地域ネットワークの重要性に気づきはじめてきたから》だとも。《困難とともに、新たなアソーシエーションの可能性が向こうからやってきた》というわけである。

2021年10月17日日曜日

緊急事態宣言明けの根津へ

 Bar Hidamari





2021年10月15日金曜日

『1932年の大日本帝国 あるフランス人記者の記録』

 ●アンドレ・ヴィオリス〔著〕 ●草思社 ●2600円+税

副題にあるとおり、アンドレ・ヴィオリスというフランス人ジャーナリストが1932年(昭7)の日本に滞在した記録である。ヴィオリスは「第一次上海事変」(1932.1.28)の最中に上海に滞在していて、日本軍と中国軍のあいだで繰り広げられた激しい戦闘を体験した直後、本邦にやってきた。

本書から、新たな歴史的事実が得られたわけではないのだが、日本で刊行されている近現代史の研究書等とは異なる視点から、日本(人)が破滅へと向かう過程が鮮明に読み取れるのが不思議である。その過程から、後世の者である筆者は、悲しみのような、不思議な感慨を覚えずにはいられなかった。そして、なによりも本書の貴重なところは、当時の日本軍のトップ、政治家、裁判官、事業者、社会主義者、国家社会主義者、極右愛国者といった、日本社会の各層の生の姿が再現されたところにある。歴史とはすなわち、人間の生の記録であることをあらためて思い知らされる。

ヴィオリスは日本の産業・経済・政治(家)・軍事(軍人)・都市問題・成金(資本家)・労働者・農民・人口問題などに対して、インタビュー取材とは別に彼女なりの分析を加えている。世界をまたにかけた百戦錬磨のジャーナリストの視線は、当時の日本に対してすぐれて批判的である。今日でも、‶世界は日本をどう見ているのか″という、外国人の言説に従った日本批判が行われることが少なくない。またその一方で、外国人の日本批判を嫌悪する傾向もなくはない。しかし、「日本」というものを常に相対化していくという意味において、外国人の日本批判をおろそかにしてはならない。そのことを本書から学ぶことができる。

興味深いのは、日本の議会(国会)について取材を重ねると同時に、独自のルートから情報を入手し、先入観にとらわれない見解を書きつけている点である。本邦では1925年には衆議院議員選挙についての男子普通選挙法が成立し、1924~32年にかけては〈憲政の常道〉の名のもとに、衆議院の多数派に基礎をおく政党内閣が実現したといわれている。しかしながら、天皇を統治権の総攬者とする帝国憲法の基本原理のもと、制度上も、衆議院に対する貴族院の原則的対等性、天皇(の勅令)による立法制度、予算審議権に対する制約、さらには統帥権独立の原則や、枢密院・重臣・元老などの存在によって制約をうけ、帝国議会の中心的地位を占めることはできなかった。日本の議会は「天皇」を超えるものではなかったのである。ヴィオリスは前出の通り、当時(明治憲法下)の日本の議会制度の構造的欠陥を踏まえつつ、政党の腐敗と堕落に鋭いメスを入れている。ヴィオリスを信じるならば、1930年代の日本が議会制民主主義国家であったなど、夢思わぬことである。軍部の独走を許した主因がそこにあった。

2021年9月28日火曜日

[原郷から幻境へ、そして現況は?]

 GENKYO 横尾忠則[原郷から幻境へ、そして現況は?](東京都現代美術館)をみてきました。

「天才ハ 忘レタ コロニィ ヤッテ 狂ぅ」だそうです。最大級の横尾忠則展。お見逃しなく。

Y字路の作品多数あります。




2021年9月24日金曜日

2021年9月21日火曜日

中秋の名月

 谷中から見る月とスカイツリー。



2021年8月31日火曜日

セリーグの本当の首位はどこだ

NPBセントラルリーグが混戦模様になってきた。2021.08.31.17:00 時点の上位3球団の順位は以下の通り。

1.読売=50勝、37敗、12分、勝率 .575、ゲーム差-

2.ヤクルト=47勝、35敗、11分、勝率 .573、同0.5

3.阪神=55勝、41敗、3分、勝率 .573、同-1

2位と3位のゲーム差が「マイナス1」というのはいかにも奇異というほかない。

これに反して、サッカーJリーグが採用している勝点制度(勝=3、負=0、分=1)で計算すると、

阪神=55×3+1×3=168点

読売=50×3+1×12=162点、勝点差4

ヤクルト=47×3+1×11=152点、2位と勝点差10、首位との勝点差14

となり、阪神が1位、2位が読売、3位がヤクルトとなる。

仮に残り2試合を残してシーズンが終わるとすると、阪神が全敗した場合、読売は2勝なら首位、1勝1分けでプレーオフどまり。阪神が1勝すれば巨人はとどかない。2位ヤクルトは問題外となるくらいの差なのである。

これは、NPBの勝率計算が、引分を試合数から除去することにより生じたもの。読売はNPBのレギュレーションを理解して引分けに持ち込む試合展開を進めているのに反し、阪神は監督が未熟なため、そのような試合運びができていないことによる。阪神の弱点が監督にあることは筆者がたびたび指摘していることでもある。

しかし、NPBの順位決定がこれでいいわけはない。勝負は勝ち・負けを競うもの。勝利を重んずる哲学を根本としなければ嘘である。MLBは引分がない。

よしんば、コロナ禍という状況を鑑みるなら、9回同点ならば、その先、タイブレークを採用する選択肢もあった。この方式は日本人が大好きなオリンピックで採用されていて、予選で日本がアメリカに勝った。タイブレークがなじまないという論理はない。試合時間短縮ならば、勝点制度がベスト。勝利に勝点=3点を与えて、敬意を表すべきである。

『都市の経済学----発展と衰退のダイナミズム』

 ●ジェーン・ジェイコブズ ●TBSブルタニカ ●2000円+税

国民経済という概念を取払い、都市単位における財・サービスの出入を指標として、経済を考え直すという試みである。

著者(ジェイコブズ)は次のように書く。

経済活動はイノベーションによって発展する。つまり輸入代替によって拡大する。この二つの主要な経済過程は、密接な関連をもっており、ともに都市経済の関数である。さらに、輸入代替がうまくいく場合には、生産計画、原材料、生産方法の適応を伴うことが多く、このことは、とりわけ生産財とサービスのイノベーション、および臨機応変の改良を意味するインプロビゼーションを必要とする。(P46)

ある地域(国、都市、村…)が存続し続けるためには、そこで調達できないモノやサービスを他から調達する必要がある。その際、調達(輸入)ばかりしていれば、そこは経済的に自立できない。永続的に輸入(調達)を続けるためには、その地域で産み出されたものを他の地域に輸出しなければならない。つまり、ある地域と、それとは別の地域――別の都市、農村地帯、工業地帯――とは、トレードオフの関係にある。輸入と輸出の相互性、一つの都市から見れば、経済活動の拡大は輸入代替(もしくは輸入置換)によってなしとげられる。別言すれば、都市の発展は輸入代替に規定される。

都市が持続的な輸入代替を可能とするのがイノベーション、つまり、新たな価値創造であり、インプロビゼーション、つまり即興性である。後者はモダンジャズ演奏やダンス等の世界ではあたりまえのことで、形式や約束事にとらわれない自由な発想と解釈でパフォーマンスを行うことをいう。
その結果として、都市は外延的に拡大する。それを‶都市地域″の形成(拡大)という。

都市における重要な輸入代替は、爆発的に発生し、五つの大きな経済的拡大力を生み出す。すなわち、新しい様々な輸入品に対する都市の市場、都市における仕事の急増、農村の生産と生産性の上昇のための技術、都市の仕事の移植、都市で生み出された資本である。これら全部が同時に揃って現れるのは、都市に直接隣接する後背地においてだけである。(P56)

これが都市の拡大の論理である。しかし、このような論理が都市のすべてに当てはまるわけではない。情況の変化(技術革新)、経済的競争、政治の仕組みなどで都市の発展拡大は阻害されることもある。

経済活性化の試みとして用いられるのが、移植工場とよばれる手法である。「工場を誘致する」ために税制を優遇する、用地を整備するなどが行政の手によってなされ、生産を高めたい企業に呼び掛ける。工場ができれば(著者は移植工場と呼ぶ)、生産された工業製品は他地域に輸出されるが、その集荷先は遠方の都市の市場や軍隊であり、地元のニーズに合ったものは僅かであり、その地域の住民(工場に雇用された住民と新住民=移住してきた労働者)が必要とする財とはトレードオフしない。そればかりではない。移植工場の経営も永遠ではない。市場性、技術革新等によって、経営が困難になる場合もある。閉鎖である。

このような困難を乗り越えたのが台湾である。まず首都・台北が輸入代替都市となり、台北で構築された産業から分化した業種が高尾に移動した。台北は一時衰退するが、前出のインプロビゼーションで再興すると、台北~高尾の軽工業群が台湾経済を支えるようになる。

こうして著者(ジェイコブズ)は、経済が興隆し繫栄するときに生ずる三種類の変化を次のようにまとめる。

第一に、全体として見れば経済活動の都市化が進み、農村的色彩がより少なくなる。都市の仕事と都市間交易は、絶対的にも相対的にも最大の利益をもたらす。農村の生産と交易も増大するが、しかしそれは、都市活動の副産物としてである。
第二に、都市間交易の拡大につれて、それは主として最低生存地域か供給地域であったような不随的都市に活気を生じさせ、それらを流動的な都市交易のネットワークの中に引き込む。
第三に、生産されるすべての財・サービスの量と種類が増大し、それが都市に輸入されてその地で輸入代替過程に入り込む。これは、先行する二つの変化の結果であり、またそれらの変化が続く条件でもある。
こうした変化は、経済的拡大と発展、すなわち活動状態にある発展のダイナミクスにほかならない。(P226~227)

著者(ジェイコブズ)は都市を国家の上位においた経済学を唱えながら、自ら都市の経済学を否定する。彼女は、国家は血なまぐさい軍事力によって成立したといい、国家は軍神(マルス)の申し子のようにふるまい、多くの国民は、そのことゆえに国家を崇めるのだという。

国家の神秘性は、人間の犠牲の上に成り立った強力で陰惨な魅力によるものである。国家とその統一を裏切ることは、血を流したすべての人間を裏切ることになる。経済的向上のために国家を裏切ることは、栄光ある民族の歴史のページをただの喧騒と凶暴とに変えてしまうように思われる。国民国家の政府のほとんど(略)と、大部分の国民は、分断状態のまま繫栄し発展するよりは、国家の統一が維持されるための犠牲たらんとして、むしろ衰退し朽ち果てるほうを選ぶだろう。(P258)

本書は1984年に上梓されたもので、著者によって取り上げられた国、都市の事例は、現状(2021)とは異なっているものもある。だが、ダム、軍事産業、補助金、交付金といった、国家(政府)が行う産業政策が、逆に都市の衰退から国家の衰退にまで及ぶ事例を伴った論証は、説得力に富む。国家を超える経済発展のあり方を考えるうえでいま、読むに値する。

2021年8月24日火曜日

下町のイスラム

 イスラムレストラン「ざくろ」(西日暮里)の店頭。

この店は、日暮里駅から谷中銀座に行く途中、夕やけ段々の向かいにある。

トルコ、イラン、ウズベキスタンなどの料理をだすが、今回はその店頭の物販を。



諏方神社



谷中の氏神様・諏方神社(西日暮里)が夜間、提灯をともしている。




 

2021年7月31日土曜日

谷根千論争

  半月前くらいのことだろうか、東京の下町、谷根千地域について、ツイッター上で論争があった。発端は、谷中に開業したYANAKA SOWという宿泊施設の紹介記事からだった。同施設は閑静な寺町谷中に、著名な企画会社が企画をたて、積水ハウスが開発したもの。建設に際し、近隣から反対もあった。

『rojiroji‐magazine』 

 谷根千地域には、『rojiroji-magazine/ロジ・ロジ・マガジン』(以下『roji誌』)というタウン誌がある。同誌は谷根千界隈の小規模で個性的な飲食店等を取材・紹介し、紹介した店舗及び地元の書店等に雑誌を卸し販売してもらうという仕組みの雑誌である。刊行は不定期のようだ。
 同誌の編集・発行人のA氏が『Forbes』において、YANAKA SOWの紹介記事を書いた。その記事がYANAKA SOWの編集タイアップ広告記事なのか純粋取材記事なのか定かではないが、A氏は『Forbes』ではライターとして紹介されていて、そこに掲載されたプロフィールによると、複数のファッション誌の編集者を歴任後、通販サイトAmazonを経て、谷根千において前出の『roji誌』の編集発行に至ったとある。

M氏による『roji誌』攻撃

 『Forbes』におけるYANAKA SOWの記事をツイッターで攻撃したのがM氏。M氏は谷根千の名付け親であり、地域振興専門家として講演活動などをする一方、作家としても活躍している。M氏と谷根千の関係性については後述する。
 M氏のA氏に対する攻撃は常人の理解を超える内容だった。M氏はかねてより、谷根千界隈の変容ぶりを嘆いていた、というよりも怒っていた。外から来た資本による出店ラッシュにより、古い趣ある住宅、旅館、町工場、商店、公衆浴場等が撤退もしくは閉店する。その替わりに出店する店舗は谷根千らしくなく、表参道や代官山などの新しい繁華街のものとかわらないと。
 M氏の攻撃は、そうした谷根千の変容の責任のすべてが『roji誌』にあるかのような書きぶりだった。『roji誌』の編集発行人A氏の経歴から、M氏はあたかもA氏が高級ファッション企業=大資本の代表者であるかのように攻撃した。『roji誌』の最新刊特集が谷根千地域のファッション店の特集だったことからM氏がそう思ったのかもしれないが、そうであれば、M氏の認識の誤りである。
 ツイッター上で、M氏を支持する派と『roji誌』擁護派の双方が参戦し、論争は混乱した。短文のツイッター上における論争は、本筋から外れることが多く、今回も生産性に欠けた。かみ合わない論争に辟易したと思われるM氏が「ツイッターしばらくお休み」宣言を発して、論争は終息した。

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』 

 『roji誌』を攻撃したM氏は、1984年に地域情報雑誌『谷根千』(正式には『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』)を創刊したメンバーの一人。前出のように、その後、作家として名を成すと同時に、〝まちおこし″の専門家として活躍中である。
 さて、谷中・根津・千駄木地域の特徴は、①東京大空襲の被害を免れた戦前からの古い町並みが残っていること、②神社仏閣が多い(谷中は江戸期からの寺町で、しかも広大な谷中霊園がある)こと、③高級住宅地と古い木造のしもた屋が混在していること、④小規模だが個性的飲食店、商店が集積していること、⑤レトロな商店街が発展していること、⑥行き止まりのような細い路地が多数あること、⑦界隈に猫が多く、猫好きが集まる地域でもあること(最近は減少)――である。いわゆる、下町レトロな風情を残した地域である。加えて近くには、東京芸大(上野公園)、東京都美術館(同)、国立西洋美術館(同)、上野文化会館(同)、太平洋美術会(西日暮里)等があり、音楽・芸術系の学生及びそのOBも多く住む。谷中には朝倉彫塑館、千駄木には森鴎外記念館もあり、文化的雰囲気が色濃い地域である。
 M氏らは、これら3地域の歴史、文化、生活に関する情報を自ら取材し、印刷加工し、『谷根千』という雑誌として販売し一定の読者を得た。まさに手づくりの地域雑誌の範を示した。 その影響として、▽企業誘致や大規模開発でまちおこしを行うことに注力していた従来の地域活性化手法に反省を促したこと、▽地域を新しい価値観で見直すことを提唱したことーーなどが挙げられる。
 また、谷中(やなか)・根津(ねづ)・千駄木(せんだぎ)の頭文字をとった「や・ね・せん」という名称は同地域の総称として、いわば固有名詞として全国に流通するほどの知名度を得た。そればかりではない。谷根千の知名度アップを嚆矢として、下町ブーム、レトロブームが巻き起こったと説明する者もいる。雑誌『谷根千』の創刊・発行は同地域の発展ばかりか、全国の地域活性化に計り知れない好影響を与えた。なお、同誌は2009年、94号をもって休刊した。

谷根千の変容

 谷根千の知名度アップと並行して、まちのようすは変わってきた。古くからの商店等は撤退、閉店し新しい店が出店し始めた。大資本のスーパーマーケット、マンションもなくはないが、多くは新たな事業機会を得ようと開業した若い起業家たちだ。カフェ、コーヒーショップ、レストラン、ワインバー、ハンバーガーショップ、クラフトビールパブ、手づくりアクセサリー・雑貨・靴のデザイン工房兼ショップ、蕎麦屋、古着屋、バッグ・帽子のアトリエ、骨董品店、居酒屋、惣菜店、ギャラリー・・・それらのショップ等の事業者がどのような状況を背負って谷根千にやってきたのかはわからないが、かれらは地上げをして谷根千に入ってきたのではないことだけは確かである。古くからの店舗・住宅等が閉店、撤退した理由もわからないが、後継者難、相続税対策、売上不振などが予想できなくもない。谷根千の新参者たちは、その結果生じた空き物件を借り受けて出店したのである。

谷根千の変容の契機、旅館「澤の屋」

 谷根千の変容の契機となったのは、私見では、旅館「澤の屋」(谷中)の営業方針転換からだと思われる。同旅館は創業70年余の老舗だが、外国人宿泊客を顧客ターゲットとしたことから、インバウンド観光客が谷根千地域に増加するようになった。さらに近年のSNSによる情報発信が盛んになったことにより、外国人の谷根千評価が高かったことが、逆輸入となって日本人に伝わり、とりわけ日本人の若者が谷根千に注目し始めた。コロナ禍前、谷根千は外国人と日本人の若者にとって、新たな価値を持ったまち(地域)として見直された。加えて、テレビの影響も大きかった。谷根千のどこかで、毎日のように、テレビクルーと思しき者がロケをしている光景が見られるようになった。もちろん、著名なタレント、俳優等の姿もある。このようなまち歩き番組のロケは、コロナ禍でもあいかわらず盛んである。
 旅館「澤の屋」が谷根千を破壊したと言いたいのではない。まちは変わる、それだけのことだ。大資本が古い建物を壊し新しいマンションやスーパーをつくる開発行為と、新鮮な価値を求めて集まる人々のための諸施設を準備する現象は異次元の話である。『roji誌』が取材・発信する谷根千情報は大資本とは無縁だし、「澤の屋」の集客戦略の変更も、それとは無縁である。『roji誌』は、M氏が地域雑誌『谷根千』を発刊していた時代とは異なる世代の嗜好に合わせた情報の発信媒体であり、「澤の屋」は、それまでの日本人客から外国人に合わせて情報を発信し、新たな顧客創造を成し遂げたまでのことである。

「受動的経済」

 手元に、『都市の経済学』(ジェーン・ジェイコブズ著)がある。そこにフランスのバルドー(バルドともいう)というまちの話が載っている。バルドーはローマ時代、ガリアがその属州になったとき、近隣の鉄製品の製造地域と道路でつながって発展したところだが、ローマ帝国の撤退をもって衰退が始まり、以降、20世紀に至ると、わずか3世帯が残るまでに落ち込んだ。ところが1966年、たまたま通りかかったドイツ人とアメリカ人のハイカー(フランス人ではない)に発見され、彼らが老人から土地を買い取り、さらに周辺の土地の買取りに成功すると、金利生活者、出版関係者らがやってくる地域へと変容した。さらにキャンパーなどがもたらす収入も増えるようになった。ある映画会社がロケ地としてこの村を借りることになったとき、お礼として水道配管設備を残してくれたという。ジェイコブズはバルドーの再興を「受動的経済」と呼ぶ。つまり、自力で経済的変化を創造せず、遠方の都市で生じた力に対応するだけの経済を示す例だという。バルドーの再興と谷根千の活性化は規模と時間に大きな隔たりがあるが、いずれも「受動的経済」の事例として近似している。
 もちろん、まちが経済的に発展すればいいというものではない。バルドーがローマ時代の風情をなくせば、都市の人々は離れていくだろうし、谷根千も下町レトロ風情を喪失すれば、観光客はこなくなる。

地域に根差した交流の場としてのパブ 

ビアパブイシイ
 谷根千らしさを維持する勢力として筆者が期待を寄せるのは、地元客と密着しつつ、小規模ながら個性的な店舗を運営する他所からの新参者たちだ。彼らの奮闘が、大資本の乱暴な進出を阻むパワーになる。その好例として、2013年、「よみせ通り」(谷中/千駄木)に出店した「ビアパブイシイ(BPI)」を挙げたい。BPIが開店準備に入った当時の「よみせ通り」は、夜になるとひっそりと人影もなく、飲食業が新たに開店するのは難しいように思えた。ところが、BPIは開店以来、地元の固定客とその関係者及びフリーの観光客が集うパブとしてうまく運営されている。地元の情報発信基地であり、自然で自由な交流の場として親しまれている。
 『roji誌』はBPIが育むような人と人の交流を媒介する地元タウン誌であり、M氏が断定したような、金持ち資本の情報誌では断じてない。M氏は戦う相手を間違えた、というか、戦うべき相手と戦わずして、〈M氏〉のもつ知名度・権威性をもって、弱小タウン誌に攻撃を加えた。谷根千で働く者に分断と差別をもちこんだ。その罪はけして軽くない。

2021年7月23日金曜日

猫さまから注意を受けるワレ

 昨夜、夕食後睡魔に襲われそのまま爆睡。

深夜3時ころ目が覚めて水分補給などしてふたたびベッドインしたものの、

飼い猫のニコがニャンニャンと鳴いて起こしにかかる。

あまりにうるさいので起きたものの、

エサはあげたばかりだし、水も新しい。猫用トイレもきれい。

家中チェックしたが異常なし。

ふたたびベッドに戻ったが、ニコが鳴き止まない。

いつもと違うのはなんなんだろうと考えたところ、

わかった‼︎愚生がパジャマに着替えていない!

まさかと思いながら、着替えてみたら、

ニコは静かになってどこかに消えた、恐るべし。

この先、飼い猫に説教される愚生の未來が見えてきたよ。

飼い主に対して、説教する猫になりそう

2021年7月17日土曜日

『啓蒙の弁証法』

 ●ホルクハイマー、アドルノ〔著〕 ●岩波文庫 ●1320円+税

本書が扱う啓蒙とは

本書の章立ては以下のとおりである。

・序文

Ⅰ.啓蒙の概念

Ⅱ.〔補論Ⅰ〕オデュッセウスあるいは神話と啓蒙

Ⅲ.〔補論Ⅱ〕ジュリエットあるいは啓蒙と道徳

Ⅳ.文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙

Ⅴ.反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界

Ⅵ.手記と草案 

難解だといわれる本書だが、そのわかりにくさは、各章の関連が認めにくいところからくるのではないかとも思えてくる。各章が独立していて、読む者の前に放り出されているような感さえある。だが、関連性は十二分にある。Ⅰ章の書出しは次の通り。

古来、進歩的思想という、最も広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに、あます所なく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている。啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放すること〔2〕であった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった。(P23)

訳者・徳永恂の訳注〔2〕を参照すると--

世界を呪術から解放すること(die Entzauberung der Welt);言うまでもなく、マックス・ヴェーバーが「合理化」の過程として世界史を捉えた定式を踏まえている。このことは、本書の批判の射程が、たんに18世紀以降のいわゆる「啓蒙期」や、近代合理主義批判に尽きるものでなく、歴史の発端以来の人類史の全体に関わることを示している。(P92)

この訳注がたいへん参考になるもので、このことを意識して読み進めると、全体の意図が明確になる。すなわち、啓蒙を概念化し(Ⅰ)、それを、神話等を使って補足し(Ⅱ、Ⅲ)、現在の情況(亡命先米国の情報化、大量消費社会、及び、米国・欧州で脅威となっている反ユダヤ主義)を批判する――という構成であることが理解できる。

神話と啓蒙

古い起源をもつ神話ではあるが、それは概ね以下のような物語性を有しているーー英雄が凶暴な荒ぶる神々の猛威等により危機に陥るのだが、それらを切り抜け、成功を勝ち取る。英雄は危機に対して、機知に富む判断や合理的行動によってそれらを退ける。荒ぶる神々は、異教・蛮族であり、彼らによって崇められた自然そのものの象徴である。

また、ときに英雄は見知らぬ神の呪術により身動きできなくなることもあるのだが、そのとき良き援助者の助けにより薬草等をすすめられ、意識・体力を回復することがある。このとき英雄が飲む薬草等は後世の科学を、英雄を助ける者は同じく科学者を暗示する。人類はこうして、啓蒙的思想を自然に身に着け、進歩を続けてきたと考えられている。

啓蒙と唯一神

ユダヤ的宗教の神への信仰は啓蒙なのか、反啓蒙なのか。答えは次のとおりである。

ヒュームやマッハによって否定された自我という実体は、自我という名辞とは同一のものではない。家父長の理念が神話の否定にまで進んで行くユダヤ的宗教においては、名辞と存在との間の紐帯は、神の名を口にしてはならないという戒律によって、依然認められている。ユダヤ人の「呪術から解放された」世界は、死すべきものすべての絶望に慰めを保証するような、いかなる言葉をも容赦しない。この宗教においては、希望はただ一つ、偽神を神と、有限なものを無限なるものと、偽を真と呼んではならないという戒律につながれている。(P56)

ユダヤ的宗教の神こそが啓蒙の根源である。18世紀以降、神を啓蒙と言い換えたのである。啓蒙批判を繰り返したロマン派を退けて、ホルクハイマー・アドルノは次のように主張する。

啓蒙の非真理は、その敵であるロマン派が昔から啓蒙に浴びせかけてきたような、分析的方法、諸要素への還元、反省による解体、などへの非難のうちにあるのではない。啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理があるのである。数学的方法においては、未知のものは方程式の未知数になるとすれば、ある価値がまだ代入される前に、未知のものは、前から知られていたものという徴づけを帯びていることになる。自然は量子力学の出現の前後を問わず、数学的に把握されなければならないものである。わけのわからないもの、解答不能や非合理的なものさえ、数学的諸定理によって置き換えられる。よく考え抜かれた数学化された世界と、真理とが同一化されることを先取りして、啓蒙は神話的なものの復帰の前にも安穏としていられる。啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。(P58~39)

重要なのは〝啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理がある″という箇所である。あらかじめ決定されている――決定しているのは神であり、神の決定を前提としているのが啓蒙なのだから、啓蒙は真理ではないと。

本書の今日性

本書全体に箴言のように読む者を覚醒する言辞が散りばめられている。ジェンダー問題、環境問題に対する、回答のような箇所を書き抜いておこう。

男は外に出て敵と戦って生き、活動し努力しなければならない。女性は主体ではない。女性は自ら生産にたずさわることなく、ただ生産する者の身の廻りの世話をやくだけだ。それは、はるか昔に消え失せた閉鎖的家内経済の時代の生きた記念碑である。女性にとって、男性から強制的に割り当てられた分業体制は、有利なものではなかった。女性は生物学的な機能を体現し、自然を象徴する者としてイメージされたが、この自然を抑圧することによってこそ、この文明に栄えある称号が授与されるのである。はてしなく自然を征服し、調和にみちた世界を無限の狩猟区に変えることが、数千年にわたる憧れの夢だったのだ。男性社会における人間の理念は、この夢に添ったものだ。これが人間が鼻にかけてきた理性の意味だったのだ。(P510~511)

今日のジェンダー問題、地球環境問題の根っこに啓蒙があることが、この言説から読み取れる。前出の数学の箇所に関連して、デジタル化、IT化の問題がある。啓蒙の延長線上に新自由主義思想とその経済活動があると筆者は考えている。本書は1939~1944年にかけて執筆されたというが、70年以上前とは思えない慧眼である。それらを今日的課題として深堀りする作業がいまの世代に投げかかられている。

2021年7月11日日曜日


 

2021年7月4日日曜日

PUNK! The Revolution of Everyday Life

加計学園が設立した倉敷芸術科学大学だけど、いいイベントだったようだ。
コロナ禍で見に行けなかったのでカタログだけネットにて購入。
デヴィッド・グレーバー、ウィーン世紀末芸術の代表者、カール・クラウスの短い論考も掲載されていいる。
パンクの文化的・社会的・政治的意味についても、この際だから、併せて考えてみたい。







 

2021年7月3日土曜日

中国茶

 Yanさんから中国茶をいただきました。

雲南省産のプーアル茶です。



Nicoが来た日

10年前のきょう、Nicoがうちにやってきた。



 

2021年5月31日月曜日

あじさい寺(長久院)







 

2021年5月13日木曜日

DeNA、ヤクルトは外国人抑え投手を補強せよ

 NPB(日本プロ野球)が開幕から30試合以上を消化した。セリーグ優勝の行方は、早くも阪神・読売の上位2チームに絞られた感がある。3位ヤクルトについては、筆者の予想に反して、ここまで善戦しているといえる。だが、問題もある。そのことは後述する。最下位DeNAは外国人の合流がおくれた影響をもろに受け序盤でつまずいた。広島、中日はこんなものだろう。

阪神は筆者の予想以上に勝ち進んでいる。要因は新人佐藤の活躍、外国人選手の好調、内野の層が厚くなったことなどだが、もちまえの豊富な投手陣が順調なこと、失策・盗塁失敗・走塁ミスなどが減少し、チームに安定性が増したことは特筆すべきだろう。

2位の読売は、ほかのチームなら下位に沈むくらいの危機的チーム状況だが、層の厚さで持ちこたえている。序盤にコロナ禍で主力選手が長期の登録抹消、さらに新外国人のテームズがデビュー試合でケガ、しかも重症で今シーズンはほぼ戦力外となる見込みだ。加えて、クローザー2人(デラロサ、ビエイラ)も離脱したかと思えば、今度はエース菅野が肘の故障、キャプテン坂本が指の骨折で離脱した。それでも、なんとかしぶとく持ちこたえて2位をキープしているのは、ひとえに選手層の厚さのおかげだ。

読売は確かにしぶといのだけれど、読売を助けている球団の存在も見逃せない。DeNAは対読売戦、0勝5敗3引分(2021/05/13現在)と勝ちがない。もっとも首位を行く阪神はヤクルトに6勝0敗1引分(同)とカモにしているのだが。

DeNA・三島一輝投手

DeNAとヤクルトの弱さには共通点がある。両球団ともクローザーの調子が上がっていないことだ。中盤までリードしていながら、勝ちパターンのセットアッパー、クローザーを投入して、失敗するという負け方で勝星を拾えない。

下位チームの負け方を見るとき、どうしても救援失敗が印象に残り、そこに非難が向かいがちだが、実は構造的弱点がある。救援投手を例に挙げると、DeNAの場合は、三島を切り札に指名して、三島の調子が上がっていなくても彼を起用し続けなければならないという構造を崩せないでいる。ヤクルトの場合は石山だ。読売の場合、クローザー第一候補のデラロサが離脱してビエイラをその任に充てたが、通用しないと見切るや、中川、鍵谷、高梨を状況に応じて使い分けている。このような選手起用が可能なのが、読売の選手層の厚さの象徴なのだ。

選手の使い分けは、投手陣だけではなく、野手にも通じている。読売の場合は、他球団の2倍余りの選手を擁していると換言できる。捕手〈大城、炭谷、他球団ならレギュラーの小林が二軍〉。野手は近年、複数のポジションを守れることが読売のレギュラーの条件になっているので、截然と2選手を並べるのは難しいのだが、一塁〈中島、ウイラー、スモーク、香月〉、二塁〈若林、吉川、廣岡〉、三塁〈岡本、若林、吉川、廣岡〉、遊撃〈坂本、吉川、廣岡〉。外野は左翼〈ウイラー、重信、亀井〉、中堅〈丸、松原〉、右翼〈梶谷、松原、香月〉。つまり、レギュラーが調子を崩せば、調子のよい選手にすぐ代えられる。

DeNA、ヤクルトは、いますぐにでも外国人クローザー候補を複数見つけて入団させなければ、コロナ禍の外国人の入国に係る困難さに鑑み、間に合わない。今シーズンに限らないが、最後を任せられる投手は人材難で、国内トレードは無理だろう。筒香がMLBをクビになってNPBのどの球団に入団するかは不明だが、古巣のDeNAの補強ポイントは筒香ではない。

新戦力の手配は、現場(監督)ではなく、フロント(GM)の仕事だ。読売は確かに金満球団だが、カネがあるからといって何もしなければ、チームは強くならない。DeNA、ヤクルトがシーズン序盤で阪神、読売に白旗を上げるようでは、セリーグは終わったようなものだ。プロ麻雀の対局で、上位2名がトップ争いを繰り広げると、逆転の可能性がない下位の2名は手組をせず、どちらかに振り込むようなことのないよう、初手から降りてしまうことがあるという。DeNA、ヤクルトの選手は勝とうと必死なのだろうが、精神力、必死さだけでは勝てない。

2021年5月10日月曜日

大谷翔平はほんとうに「二刀流」なのか


MLBエンゼルスの大谷翔平が「二刀流」で大活躍と、メディアが騒いでいる。確かに大谷の打撃成績は良い。一方の投手としてはどうなのか。2021/05/10現在、1勝0敗、防御率2.41である。試合ごとの成績は以下の通り。

4/5 Wソックス戦=5回、被安打1、4四死球、7奪三振。自責点0

4/21 ㇾンジャース戦=4回、被安打1、7四死球、7奪三振、自責点0

4/27 ㇾンジャース戦=5回、被安打3、3四死球、9奪三振、自責点4

5/6 レイズ戦=5回、被安打1、3四死球、7奪三振、自責点0

この成績をどう評価するか---筆者は先発責任回数の5回をどうにかクリアしているものの、クオリティ・スタート(6回以上自責点3以下)が一度もないことが気になっている。大谷の投手としてのチーム貢献度は、いまのところ、芳しくない。

投球内容としては、四死球が多すぎる。さらに気がかりなのが、ストライク(空振り)をとれる球種がスプリットに限られているため、この球種を多投する傾向に陥っていること。筆者は、手術明けの大谷が肘の負担の大きいスプリットを多投することを大いに心配する。

結論として、大谷の「二刀流プロジェクト」の成功か否かの判断については、今シーズンの終わりまでできないということになる。

筆者は大谷の選手生命という観点から打撃一本に絞り、一年でも長くMLBでプレーしてほしいと願うばかりである。それにしても、大谷の投手としての才能がもったいない。投手に専念していたら、日米合計200勝の可能性はじゅうぶんあった。



2021年5月8日土曜日

『コロナと無責任な人たち』

 ●適菜収〔著〕 ●祥伝社新書 ●860円+税

本書はコロナ禍が、日本社会の真の危機を明らかにしたことを、――また、それまで不可視だった社会矛盾を可視化したことを、――そして、劣化した日本社会を正常に戻す政治的手段の選択を――われわれひとり一人に迫る最適な書の一つである。

さて、著者(適菜収)は、本書最終章〝「保守」の劣化″の冒頭で、「保守主義はフランス革命に端を発します(P205)」と書き、次のように続ける。

急進派のマクシミリアン・ロベスピエールは、理性によって社会を合理的に設計することを目指しました。結果、自由の名のもとに大量虐殺が行なわれました。これに対して異を唱えたのが保守主義です。彼らは近代啓蒙思想をそのまま現実社会に当てはまることを批判しました。彼らは理念(抽象)ではなく現実(常識)に立脚していました。(同)

ニーチェに傾倒する適菜が、啓蒙主義批判を展開することは自然だ。ポスト啓蒙主義として台頭したのが国家、民族、全体を重視する潮流であり、「保守主義」もその一つである。さらに、「フランス革命において理性は神格化されましたが、新型コロナ下においても理性を妄信するマッド・サイエンティストたちが大活躍したわけです」(P207)と締めくくる。

今般のコロナ禍日本の混乱ぶりは、果たして啓蒙主義的理性の暴走なのだろうか。日本のコロナ対策に欠けているのはむしろ、啓蒙主義的態度(絶対化ではない)ではないのだろうか。そのことを換言すれば、最新の科学技術に基づいた感染症対策ではないのだろうか。正確な感染者数の把握、感染源の特定、変異株の遺伝子解析、治療薬開発、ワクチン開発、ワクチン接種の体制づくり、コロナ用医療機器の充実・提供、PCR検査に係る実施及び判定技術の高度化・・・

マスメディアで報道されている現下の医療崩壊は、コロナの広がりから一年以上経過した今日(2021.05.08)までのあいだいに、更新・改善するに足る事柄であった。にもかかわらず、「日本はコロナに打ち勝った」云々の権力者側の驕り、非科学的認識によって、打ち勝ったのではなく「打ち捨てられた」とみるべきだ。適菜がいうマッド・サイエンティストが具体的にどこのだれを指すのか不明だけれど、「私は医者でも感染症の専門家でもありません・・・だから新型コロナウイルス自体やこの先の見通し、対策の在り方を論じるつもりはありません」(P3)と、冒頭で宣言しながら、最期に及んで日本のコロナ対策の在り方について、保守主義擁護の観点から批判し自戒を解いてしまったのは残念だ。

だがしかし、新型コロナは「バカ発見器」、反日売国奴=安部批判、陰湿なチンパンジー=菅批判、以下、肥大化した自己愛=小池百合子、イソジン詐欺師=吉村洋文、デタラメな政治家=麻生太郎、トランプ、小泉進次郎、黒岩祐治、三原じゅん子、新型コロナ流行下でデマを流した言論人=ネトウヨ、橋下徹、高須克弥、三浦瑠璃らのぶった切りは痛快だ。

併せて、第4章の「社会不安に乗ずるデマゴーグ」において、〈インフルエンザのほうが死者が多い?〉というデマを飛ばした者はやはり、前出のとおり、科学を無視した態度であり、啓蒙主義に反する感情的、情緒的、非合理的な発言の結果だと思われるがどうか。

コロナ禍が明らかにしたのは、なんといっても、日本の権力者の無能ぶり、日本の科学技術の遅れ、大衆の民度の低下、マスメディアの無力--だ。そのことをもっとも顕著に反映するのが、東京オリパラ開催・中止に係る関係者のビヘイビアだろう。筆者はもちろん太平洋戦争を体験していないが、今般の状況はおそらく、降伏、敗戦に至る過程と相似形なのではないだろうか。日本の危機は経済指標よりも、著者が第6章でとりあげた、▽生活の変化、▽正常なリーダーの不在、▽言葉が軽くなりすぎた、▽「保守(常識)」の劣化――といった社会現象として生活過程に滲み出てくるように思われる。

著者(適菜収)には、この先、コロナ禍と「啓蒙主義の弁証法(ホルクハイマー/アドルノ)」を論じていただきたいと思う。

2021年5月7日金曜日

谷中キッテ通り

 


2021年5月3日月曜日

『主権者のいない国』

 ●白井聡〔著〕 ●講談社 ●1700円+税

著者(白井聡)の悲憤、義憤に満ち満ちた書だ。1945年の敗戦直後から今日の安部‐菅政権に至る日本国の欺瞞性が次々と暴かれていく。そのさまに小気味良さを覚えるとともに不安に駆られる――いったいこの国はこのさき、どうなるのだろうかと。

〈否認〉の戦後史

著者(白井聡)の論点はおよそ〈否認〉という一言に集約できる。戦後日本はなにを否認してきたのか。時代順に記せば、敗戦の、戦争責任の、平和憲法の(再軍備)、米国従属の、米軍基地容認の、沖縄同胞の苦難の、米国の侵略戦争加担の、3.11(福島原発事故)の、新型コロナによる災厄の・・・否認である。

その否認も安倍政権終期(モリカケ・サクラなど)においては、極めて姑息な否認に堕した。国会における事実隠蔽、虚偽答弁のあげく、安部本人の自己防衛、安部一派の組織防衛のために、ついには公文書改ざん・廃棄という〈否認〉を糊塗する犯罪が白昼堂々、中央官庁において常態化するに至った。

安部‐菅政権及び政権与党のありようを端的に称するならば、〈否認〉が否認しきれないまま自己破綻した――にもかかわらず、醜くも政権にしがみつく――政治屋たちが、腐臭を放ちながら、国会、行政機関をわがもの顔で跋扈している状態だといえよう。

〈否認〉の根源は敗戦の総括にあった。著者(白井聡)はそれを永続敗戦レジームという概念で結んでいる。戦争末期、敗色濃厚となった日本帝国は国体護持(天皇制の継続)にふくみを持たせ戦争終結を先延ばしにした。そのため、沖縄地上戦、都市大空襲、広島・長崎原爆投下、シベリア抑留等の悲劇を生んだ。こうした国民の多大な犠牲を経てけっきょく無条件降伏を受け入れ、天皇が「玉音放送」というかたちで国民に敗戦を終戦と言い換えて告知した。進駐米軍は天皇の戦争責任を免責し、少数の軍人を処刑するにとどめた。その背景には、進駐米国軍人の安全確保と、東西冷戦激化の予想の二つの要素が混在していた。1950年、後者は朝鮮戦争勃発として現実化し、そのことを契機として、米軍は戦犯を解放し、平和憲法を〈否認〉し再軍備を進め、戦犯を使って日本国を東アジアにおける反共の砦として再生しようと企図し、成功した。

本来、戦争犯罪者として裁かれるべき者が国政に復帰することが現実化したということは、戦争責任者の側から見れば、敗戦ではなく終戦である。その筆頭が、統帥権をもった天皇であり、天皇に仕えた政治家、役人である。天皇の責任が問われないのならば、天皇にとっても敗戦ではなく終戦である。平和憲法が軍隊をもたないと明記しながら、警察予備隊という名称で、平和憲法が〈否認〉され(再軍備)されたのだから、軍人にとっても敗戦ではなく終戦である。こうして、総力戦(国民総動員の戦争)に参加した国民ひとりひとりにも戦争責任はなくなる。日本国および日本国民は、敗戦を〈否認〉した。

星条旗はためく戦後の国体

敗戦を否認した後に訪れた繁栄の時代、為政者・国民を問わず強固に形成された新しい国のありよう――永続敗戦レジームの基盤となった新しい日本のかたち――こそ、対米従属にほかならなかった。そのことを著者(白井聡)は、かつての最高権力者である天皇の代わりにアメリカが君臨する構造だと看破し、それを〈戦後の国体〉と命名した。菊の上に星条旗がはためくというわけだ。白井はそれを『国体論 菊と星条旗』としてまとめた。

東西冷戦の激化によって占領軍から戦争責任を免責された者が戦後の日本の進路決定者となり、国を事実上、動かしてきた。彼らは「親米保守派」と呼ばれるのだが、その最終ランナーが安倍晋三(とその傀儡・菅義偉)であった。なぜ安部が最終走者なのかといえば、東西冷戦の終焉から米国の対日政策も変化し、米国の傘の下でのうのうと金儲けに専念することが難しくなったからだ。安倍政権下で次々に立法化された安保法制(集団的自衛権行使容認等)、特定秘密保護法成立、「共謀罪」の構成要件を改める「改正組織犯罪処罰法」成立などは、平和憲法否認の枠を超えた解釈改正にほかならない。国際情勢が、〈否認〉ではすまされない事態に親米保守派を追い込んでいる。

否認とはなにか

著者(白井聡)は〈否認〉について、以下の通りの論を展開する。

現代デモクラシーが、再階級社会化した新しい階級構造における「下流」「B層」「ヤンキー」に依拠するようになったという主張に賛同(『日本をダメにしたB層の研究』適菜収著ほか)しつつ、これらの新しい階級は、いずれもスペクタクルな消費者、反知性的存在として措定されるという。そして、その傾向は資本主義のネオリベ化の結果であり、それを促進するとし、政治権力は、「下流」「B層」「ヤンキー」らを最も重要な票田とし、経済権力にとっては最も重要な購買層になるとする。

その一方で、ネオリベ化の進行のなかでの反知性主義を啓蒙主義の物語の放棄と定義する。この〝啓蒙主義の物語の放棄″という白井の論点を頭の中に入れていただきたい。白井は、今般の日本社会を覆う反知性主義の跳梁の根本には、「人間とは何か」というイメージの著しい変化を読み取ることができるという。こうした状況の総体を「ネオリベ的文化状況」と名付け、前出のように反知性主義がデモクラシーの基盤化することと並行して啓蒙主義のプロジェクトがなかば公然と捨てられようになったという。このことは、アドルノ=ホルクハイマーが警鐘を鳴らした「道具的理性による自然支配の進行=近代的な野蛮」(『啓蒙の弁証法』)、すなわち、一切の束縛から解放されて全面化へ向かう事態である。

『啓蒙の弁証法』にはどんなことが書かれているのか。未読なのだが、概要をつかんでみよう。

ホルクハイマーとアドルノは、人間が啓蒙化されたにも関わらず、ナチスのような新しい野蛮へなぜ向かうのかを批判理論によって考察しようとした。その考察を開始するために、啓蒙の本質について規定した。啓蒙は、人間の理性を使って、あらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは、人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。したがって、理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。ホルクハイマーとアドルノは、このような事態を「啓蒙の弁証法」と呼んだ。(中略)人間は、外部の自然を支配するために、内面の自然を抑制することで、主体性を抹殺した。また、論理形式的な理性によって、達成すべき内容ある価値は、転倒してしまう。さらに、芸術においても、美は、規格化された情報の商品として、大衆に供給される。ホルクハイマーとアドルノは、反ユダヤ主義の原理に啓蒙があったと考えており、啓蒙的な支配によってもたらされた抑制や画一化の不満が、ユダヤ人へと向けられたと位置づける。啓蒙の精神は、自らの本質が支配にあると自覚することで、反省的な理性を可能にするものでもある。この反省によって、啓蒙における理性と感性の融和が、可能となりうると考えられる。(Wikipedia)

啓蒙主義の後になぜ、ヒトラーのファシズムのような野蛮が出現したのか。また、そのヒトラーと戦った、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカはどうなのか。『啓蒙主義の弁証法』のなかの「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。新しい技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。(「知の快楽-哲学の森に遊ぶ」河合政之著)

今般のアカデミアで起きている反知性主義の流れについて、学問における啓蒙主義の公然たる放棄は、直接には、学問に課せられた「人間の完成」という理念をアカデミアから追放することを意味するという。19世紀末においてすでに、自然支配に役立つ技術的な学と啓蒙主義以来の理念を保持している学との解消困難な分離が、哲学者のあいだで痛切に意識されていた。それでも啓蒙主義のプロジェクトを公然と否定することは憚れてきた。しかし、代表制民主主義が、治者が被治者に敬意を持ち、被治者が治者を信頼するという理想を半ば公然と捨て去ったとき民主制が愚衆性を基本モードとする状態に落ち込んでゆくのと同様に、学問の制度が「綺麗事」から解放されたとき、その中身は必然的に変化する。そうした変化は、例えば人文主義的学問伝統の抑圧として現れるという。「人間とは何か」を問う学問の代わりに、「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めることになる、と続けている。これらを踏まえ、白井の論考の展開を追うと、以下のように進展する。

新しい人間(=今日出現した新しい主体、精神なき主体)は、現代の反知性主義の担い手であると推論し、啓蒙派の精神分析学者フロイドの精神分析方法と対比しつつ、ラカン派精神分析医の立木康介(ついき・こうすけ)の論を援用する。

立木によると、新しい主体の在り方の核心には「否認」があるとする。精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防衛機制の一つであり、外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、現実の一部または全部を、それを現実と認知することを拒絶するところにあるという。また、主体の基本モードが「抑圧」から「否認」へと移り変わることには、人間像のトータルな変化が含まれている。フロイトの措定した近代的人間像が「抑圧」をベースとしていた、すなわち、エディプス・コンプレクスによって自らの原初的欲望を「抑圧」した後、「抑圧されたものの回帰」と折り合いをつけることによって主体化(成熟)するという基本的な精神発達史の物語を背負っていたのに対して、「否認」をその心的生活の基礎に置いたポスト啓蒙主義時代の主体は、このような主体化のドラマを持たず、母子一体の段階において経験される(そしてやがて失われるはずの)幼児的万能感を手放そうとしない、と。

ではそれは、どのような主体であり、具体的行為としては何をするのか。そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語をもたない。いいかえれば過去や祖先や系譜にたいして引き受けるべき負債(ラカンの言う「象徴的負債」)をもたない。ネオ主体はだから、なんでも自分を基準に選びたがる。たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない(わが国でいわゆるキラキラネームが流行る一因もこれだ。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)

白井は次のように結論する。

ここで語られている「ネオ主体」の姿が、今日の歴史修正主義的欲望を噴出させている人々のそれに重なるのは偶然ではあるまい。無暗矢鱈と「愛国」が振りかざされているにもかかわらず、そこには伝統への真剣な参与や歴史の奥行きある思い入れも徹底して欠けている。それらの代わりに彼らは、「自分を基準に選んだ」都合の良い歴史の語りを好む。彼らは、自分たちの歴史における不都合ないし不名誉な要素を認めてそれを乗り越えるという苦行に一切耐えられない。つまり、ここにおいて、ナショナリズムの心情は、あけすけな自己肯定のための、幼児的万能感を維持するためのネタとして利用されているにすぎない。(P127-129)

主権者の復権--東京オリパラ中止を決定する者

今般、コロナ禍におけるオリンピック・パラリンピック東京大会の開催の是非が議論されている。現状(2021.05.03)のまま、新型コロナの変異種の感染が進めば、日本の大都市に医療崩壊が訪れるのは目に見えている。現に大阪はその状態にある。そこに何万単位の外国人が訪日し、選手団、関係者、外国メディアが集団生活に入れば、常識的に考えて東京は地獄と化す。ここにきて、プロ野球球団の集団感染が次々と発覚するようになってきた。選手を隔離しても感染は防ぎきれない。いわんや関係者、メディアの行動を制限することは不可能だ。彼らは日本国の検疫を通過した者なのだから。彼らが日本中を歩き回れば、東京のみならず感染拡大は必至だ。ところが、大会の返上を申し出るような空気は感じられない。

この期に及んで中止を決定できないのは、日本の総理大臣がこれまで重要事項の決定に与ってこなかったからだろう。戦前までは天皇が、戦後は星条旗が総理大臣に指示を出してきた。オリパラの最高権力者は欧州のバッハという興行師であって星条旗とは関係ない。星条旗もオリパラに関与はできない。

親米保守派がお手上げだからといって、中止の決定を下せる者がいないわけではない。それこそが、本書にある「主権者」にほかならない。天皇でもなく星条旗でもない、まさにあたりまえの主権者が中止の意思表示をすれば、オリパラごときの中止はわけもない。オリパラ中止は、「主権者のいる国」であることを証明する絶好の機会ではないか。

2021年5月1日土曜日

悠久の中国茶

中国人留学生のYさんから中国茶をいただいた。

 中国のお茶の文化は驚異的。広い国土の至るところに名産がある。飲み方もいろいろ。漢方薬のような薬用的効果も期待できる。

有机白茶は文字通りの白茶、普洱茶はプーアル茶。石斛龙井は大きめのポットに一粒入れて大勢で飲む。桂花はお茶にまぜて金木犀の香りをつける。いい匂いがする。

Yanさん、ありがとう。