2013年8月23日金曜日

サイン盗みに「カット打法」--ここまでやるか甲子園

2013夏の甲子園大会(全国高校生野球大会)が終わった。毎年、筆者は甲子園大会開催期間になると、憂鬱になる。その理由は簡単、偽善であるから。

今年も信じられないような報道があって驚いた。1つは、花巻東高校による、二塁走者の捕手のサイン盗み。これはプロ野球でも違反行為として禁止されている。

2つ目も花巻東高校の千葉翔太外野手(3年)による「カット打法」とかで、打者が打てない投球をハーフスイング、もしくはバントでファウルにしてねばり、相手投手にたくさん球数を投げさせ、四球等で出塁するというもの。これは高校野球特別規則で違反と規定されている。3つ目は、相変わらず、投手の投球数過多問題だ。

残念ながら、筆者は前出の2プレーを見ていないので、よって当コメントは報道に基づくものである。誤りがあればご指摘をお願いしたい。

まずサイン盗みについてだが、驚いたことに、主催者(新聞社等)をはじめ、テレビ、新聞が管見の限り、このことを一切報道しない。サイン盗みがあった試合の審判も、試合後の高野連も、このことを問題としなかった。つまり「なかったこと」にして葬った。そりゃそうだろう、甲子園は「聖地」にして、球児たちは「無辜」で「純真」な野球少年、サイン盗みをするような「悪い子」であるはずがない、というわけか。

「カット打法」については、議論が噴出している。花巻東は2回戦から出場し、9-5で彦根東に勝利。続く3回戦は、好投手・安楽を擁する済美に7-6で勝利した。千葉翔太が行った「カット打法」が安楽攻略に一役買った面もあった。さらに、準々決勝に進んだ花巻東は鳴門に5-4で勝ち準決勝に進んだ。千葉翔太は鳴門戦ではファウルで粘りに粘って5打席全出塁。相手投手に41球も投げさせた。

ところが準々決勝・鳴門戦後に異例の確認を行った大会本部は、千葉の「カット打法」に対して、「特別ルール違反につき、やらないように」を旨とする「お達し」を出した。そのため、千葉は「カット打法」を封印した。案の定、準決勝、花巻東は延岡学園に0-2で負け、大会から姿を消した。「カット打法」がNGとなった千葉翔太は、この試合4打数無安打。

千葉擁護派は、予選~準々決勝までOKなのに、なんで準決勝からNGなのか、と主張しているらしい。確かに、予選から3回戦までOKとしたのは、主審のミスジャッジ。千葉擁護派は、千葉翔太の「カット打法」を打撃技術とむしろ賞賛した。予選段階から主審が即座に特別ルール違反を適用、千葉にNGを宣告しておけば、こんな見苦しい議論を呼ばなかったものをという主張だ。この主張は一見正しいように思えるが、果たしてそうだろうか。

筆者は千葉翔太の「カット打法」は野球(スポーツ)の本質に外れる行為なので、特別ルールを適用するまでもなく、やってはいけない打法だと解釈する。筆者は野球の本質について、投手は全力で投げ、打者はそれを全力で打ち、走ることだと考える。野手はきた球を全力で捕球し、走者を刺すために全力で塁に送球することだと思っている。だから、筆者は犠牲バントを好まない。犠牲バントは、高校生ではなく、職業野球業界において、目先の「一勝」を稼ぐために行う非常手段だと考えている。

高校生のスポーツの目的は、目先の「一勝」ではない。大会開催の趣旨も、大会を通じて、高校生のスポーツ能力を高めることだと勝手に確信している。相手投手に投球数を多く投げさせ、疲れさせて勝つという戦術もある。だが、そのような戦術をもって高校野球においての勝利を目的とするのならば、そのような戦術を指示する監督も、それに従う選手も、野球(スポーツ)をやめたほうがいい。スポーツの本質から外れた、偏屈な勝利至上主義が、いったい、だれのためになるというのだ。

日本人の野球観戦には、自己犠牲を好む傾向を否定できない。犠牲バント、故意死球、球数無制限の先発完投、連投に次ぐ連投等がそれを象徴する。組織のために自分が犠牲になる、それは国のために自分を犠牲にした、アジア太平洋戦争の皇軍の精神性へとつながっている。8月中旬、高校生の野球大会は、なぜか、敗戦間近の学徒出陣に重なるイメージが拭えない。夏の炎天下、郷土を背負った「無辜」な若者が、●●のために一生懸命汗を流し、ひいては己を犠牲にして闘う姿――日本国民はその姿――に、いったい何を重ね合わせようとしているのか。

甲子園大会の無謬性を強調するマスメディアは、意図的ではないのかもしれないが、人々の心情と甲子園大会の何かへの重ね合わせに協力的以上の役割を果たしている。それをナショナリズムと表現してしまえば、あまりにも薄っぺらすぎる、ではいったいそれをなんと表現すれば・・・

昭和の歌姫

加藤和彦(62歳没)、尾崎紀世彦(69歳没)、そして藤圭子(62歳没)・・・筆者が若いころ大スターだった歌手が、60代でこの世を去っていった。うち、加藤と藤は自死による。

彼らの全盛期――時代は高度成長期、時代がそして人々が、豊かさに向けて疾走していたときだった。歌手はその希望を、そして不安を、あるいは呪いを歌った。

この3人の歌手はそれぞれ個性的だったし、それぞれ役割を分担していた。加藤は当時の若者の心情を素直に歌い、尾崎は日本のPOPSを洋風に完成させてみせた。そして、藤は、演歌を「怨歌」たらしめた。

芸能界においては、人間そのものが商品だ。商品(レコード・CD等)を売るためばかりではない、ライブのチケットを完売し、TV・雑誌等の媒体露出度を上げるためには、歌手の人間的部分(=個性)を捏造することも常識の範囲だ。貧しい少女時代、暗い生活を背負い、豊かさの裏側に潜む闇の世界から突然やってきた歌姫・・・そんなイメージ設定で若手女性演歌歌手を売り出すこともあっただろう。藤圭子はそんなイメージ・コンセプトに基づき、売り出された「歌手」だったかもしれないし、事実そのとおりの「歌手」だったかもしれない。無数の消費者のなかの一人にすぎない筆者には、藤、尾崎、加藤の本当の顔を知るよしもない。

筆者はそういう芸能界のあり方が正しくないとは思わない。人々が望むものが「良い商品」である限り、芸能(エンターテインメント)界がそうであっていけないはずがない。エンターテインメント業者が芸術的価値よりも、売れる(支持される)価値を求めて悪いはずがない。だから、3人が犠牲者だとは思わない。人が死ぬのは、死因のいかんを問わず、神が決定する。

改めて偉大な3人の芸能人に 合掌

2013年8月15日木曜日

『(株)貧困大国アメリカ』

●堤未果[著] ●岩波新書 ●760円+税

はじめにことわっておく。筆者はアメリカに長期間滞在した経験がない。アメリカ社会の研究者でもない。つまり、本書の内容を検証する力量がない。だから本稿は、著者(堤未果)が本書に書きとどめた事例等について、事実として受け止めたうえでの内容となっている。筆者がそう考える根拠は、著者(堤未果)の前作、前前作である『貧困大国アメリカ』『貧困大国アメリカⅡ』に対して、同書の記述内容に係る反論が(管見の限りだが)なかったことによる。それどころか、前前作は「日本エッセイストクラブ大賞」「新書大賞2009」を受賞した。つまり、日本のジャーナリズム・出版業界・アメリカ研究者等が、著者(堤未果)のルポ内容を事実として認定したと考えられる。むしろ、筆者としては、アメリカ社会研究者、アメリカ経済称賛者等から、本書に係る反論・反証を聞きたいと思っている。これらのことも管見の限り、行われていないように思われる。

●アメリカは変わった

本年7月18日、財政破綻した米中西部ミシガン州デトロイト市が連邦破産法第9条の適用を申請した。本書第4章(「切り売りされる公共サービス」)にも、破綻申請直前のデトロイト市の荒廃ぶりが紹介されている。本書によると、“全米の自治体の9割は、5年以内破綻する”状況にあるというから、デトロイトの破綻申請は特別な事件ではないのかもしれないが、筆者にとっては衝撃的な出来事だった。

筆者の年代の者にとってデトロイトは、「繁栄するアメリカ」を最も象徴する都市の1つだった。ビッグ3と呼ばれる自動車メーカーが本社を構え、全米一ともいわれた組織力を誇る全米自動車労働組合(UAW)の本部もここにある。デトロイトから始まった自動車のベルトコンベア方式による生産様式と労働形態はフォーディズムと呼ばれているが、もちろんそれは、この街に誕生した自動車メーカーであるフォード社に由来する。フォーディズムは、高度成長を支える大量生産・大量消費の代名詞でもある。そのデトロイト市が財政破綻したということは、アメリカが(以前の)アメリカでなくなったことを認識するに余りある出来事ではないか。

●コーポラティズムが今日のアメリカを支配する

フォーディズムを“卒業”したアメリカが行き着いた産業(ビジネス)モデルこそが、コーポラティズムにほかならない。アメリカは規制緩和、自由競争を旨とした、新自由主義、新市場主義の国だと言われる。日本でもテレビに登場するアメリカ寄りの経済学者や政治家が、アメリカを範とする規制緩和を提唱し、公正な競争による日本(経済)の活性化を目指すことを力説するシーンがしばしば見られる。そのような“アメリカかぶれ”たちは、アメリカの実体が見えていない者か、見えていても敢えてアメリカの神話を語ることで利益を得ている者のどちらかだろう。

コーポラティズムとは何かについて、大雑把に整理しておこう。
いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。(略)
グローバリゼーションと技術革命によって、・・・無国籍化した顔のない「1%」とその他の「99%」という二極化が、いま世界中に広がっている。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業寄りの法改正で、“障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。(P274)
本書にはコーポラティズムに基づいて、多国籍企業がアメリカ政府に働きかけた規制緩和及び規制の数々の「成果」事例が紹介されている。たとえば、遺伝子組み換え作物(GM作物)に関する法規制をアメリカ国内において換骨奪胎させる手口だ。開発企業を守るため、規制緩和と称して、GM作物の表示義務を撤廃する一方、一般の科学者がGM種子を実験に使用することですら、特許法を盾に許可されない。開発企業に不利な表示義務は、規制緩和の名の下に撤廃され、また、開発企業にとって不利となる実験行為等は、特許という法規制によって守られる。消費者の選択する権利は規制緩和によって奪われ、GM作物の安全性を解明しようとする科学的行為は特許法という合法によって阻止される。これがアメリカ流の「新自由主義」の実態だ。どこに「自由」があるというのだ。

多国籍企業はアメリカ国内を合法的に支配したのち、アメリカ方式をグローバルスタンダードと称し、世界進出を企てる。それがコーポラティズムの進化の図式だ。

●コーポラティズムの恐怖はTPPとともに日本に押し寄せる

先の参院選では、日本のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加について論議が盛んだった。参院選でTPP推進派の安倍政権が信任され日本のTPP参加は既定路線となり、いま日本政府は、参加に向けた具体的作業に入っているところだ。

TPPの恐怖は、多国籍企業がアメリカ政府に働きかけてつくりあげたアメリカの法制度のほうが、参加国の国内法に優先することだ。先述したとおり、GM作物の表示義務は、アメリカにはない。日本がTPPに参加した時点で、アメリカから日本に輸入されたGM作物は、日本の市場で表示のないまま、国内産と同様に販売されてしまう。

GM作物が人体にとって安全なのかそうでないかは、現時点で科学的に証明できないという。安全かもしれないし、長期にわたり摂取し続けることによって人体に害が生じるかもしれない。それはそれでいい。重要なのは、消費者がGM作物に係る選択権をもつことだ。GM作物だっていいよ、という消費者はそれを買い、GM作物は危険だと感じる消費者は買わない、という単純な自由だ。ところが、TPP参加国の消費者から、そのような選択権を奪うのがコーポラティズムなのだ。

もう一つの恐怖は、TPPに先立ってアメリカとそのほかの国の2国間で交わされたFTA(自由貿易協定)のなかのISD(Investor-State Dispute Settlement)条項がTPPにおいても適用されることだ。
これ(=ISD条項)はたとえば韓国に投資したアメリカの投資家や企業が、韓国の国内政策によって経済的に損害を被るかその恐れがある際に、世界銀行傘下の国際投資紛争仲裁センターに提訴できるという内容だ。世界銀行はアメリカ支配が最も強く、裁判は密室で行われ上訴は不可、そして判決の基準は公益ではなく、「投資家にとって不利益があったかどうか」になる。(P160)
アメリカがTPPを積極的に推進しようとする背景には、世界最大規模の市場であるEC内においては、アメリカを本籍とする多国籍企業が思うとおりの経済活動ができない実態があるためではないか。ECは、社民主義の伝統が根強く、アジア・太平洋地域よりも厳しい経済規制をしいている。アメリカ政府は、人口増及び経済成長を続けるものの、ECに比べて社会の成熟度が低いアジア・太平洋圏の経済支配を狙って、TPPを梃にした外交を展開しようとしているように思える。そのことは無論、多国籍企業の意に沿ったものだ。TPPの恐怖はそこにもある。

三番目の恐怖は、マスメディアの沈黙だ。これは日本におけるTPP参加問題においても同様の機運が形成されたので、記憶に新しい事柄だろう。“TPPはわからないことだらけです”“TPP交渉は外部に情報を漏らしてはならないことになっています”等々の言説が、日本のテレビに登場する経済学者、学識経験者、「ジャーナリスト」と称する人々からまことしやかに語られたものだ。

オバマ大統領は今回新しく、議会の承認が不要なUSDA(合衆国農務省)直属機関である食糧農業国立研究所を政府内に設立、所長にはモンサント社が出資するダンフォース・プラント科学センターのセンター長だったロジャー・ビーチを指名した。ビーチは大統領選挙の際、オバマ陣営の選挙資金に大きく貢献した一人だ。
TPP交渉における要職である、USTR(合衆国通商代表部)農業交渉主任には、以前クリントン政権下のUSDAでバイオテクノロジーを推進したイスラム・シディキが任命された。彼は世界の農薬市場の四分の三を占めるモンサント他五社を代表するロビー団体「クロップ・ライフ・アメリカ」の副社長でもある。
USDA総合担当弁護士にはラモーナ・ロメロ。モンサント社についで世界トップの農薬・種子企業デュポン社の元顧問弁護士だ。
最高裁判所の裁判官には、GM小麦アルファルファと有機農家が戦った訴訟で、モンサント社側の弁護士を務めたエレナ・カーデンが選ばれた。
モンサント社といくつもの共同事業を進めるバイオテクノロジー研究の「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」で農業開発管理者だったラジプ・シャアは、オバマ大統領によってUSDA教育研究所次官に指名されている。(P81~82)
「TPPのことはわからない」のではない。本書のこのくだりを読めば、多少の想像力を働かすまでもなく、TPPとは、アメリカを本籍とするバイオ関連の多国籍企業による、世界的規模の農業・穀物支配戦略の一環であることが明白となろう。ではなぜ、日本のマスメディアは、このくらいのアメリカ政府のTPPシフト人事について報道しないのだろうか。

その回答をする前に、アメリカ国内においても、政府と業界の癒着が国民に知らされてこなかった経緯があるという。
「レーガン政権のEPA(合衆国環境保護庁)長官とFDA(合衆国食品医薬品局)長官は、どちらもモンサント社の役員でしたし、ブッシュ政権のアン・ベネマン農務長官は元バイオ企業役員でした。クリントン政権の通商代表は元モンサント社の役員、内政アドバイザーとFDA局局長代理はその後モンサント社の役員と子会社役員にそれぞれ就任しています。こうして挙げていけばきりがありませんが、アメリカの食に関する規制緩和が、信じられないようなスピードで進められていった背景には、こうした政府と業界の癒着があったのです」
「国民はこうした変化に気がついていたのでしょうか」
「・・・未だに多くの国民は、こうした事実を知りません。彼らにとって、FDAやEPA、USDA神話は、まだ強固なままなのです」
「それはどんなイメージですか」
「自分たちの食の安全や、環境と農業を誠実に守ってくれる政府の専門機関。FDAはアメリカ国民にとって最も信頼される機関の一つだと言われ、諸外国からも信用されています。近年大きなブームとなっているオーガニック食品は、USDAの認証ラベルがひとつの安心めやすになっていますからね」
かつてリンカーン大統領は、国民のいのちの元である食を守る「人民の省」としてUSDAを設立した。そのイメージは、今も消えていないのだ。
「こうなった原因はどこにあると思われますか」
「独占禁止法の規制緩和と寡占化で企業規模が大きくなりすぎたこと、そこに1999年の〈グラススティーガル法(金融規制法)〉撤廃が想像を超えた儲け方を可能にしてしまった。勝ち組になったウォール街と企業がタッグを組んで、途方もない資金力でマスコミや政府を買うようになってしまったのです」
「国民の多くが知らないうちにですか」
「大半は何が起こっているのかさっぱりわかっていないでしょう。国民が法律そのものに関心をまったく払わないことに加えて、企業はその資金力で政府だけでなく、必ずマスコミも一緒に押さえるからです。こうすれば国民に気づかれずに都合のいい法改正を行える。一日の平均視聴時間が8時間以上のテレビ社会アメリカでは、国民の思考は番組制作者が形成するのです」(P83~84)
前出のとおり、アメリカは変わった――にもかかわらず、アメリカ国民はそのことを知らない。そして、アメリカで起こったことが、いま日本に起こりつつある。もちろん、日本国民もそのことに気づくことがない。

●アメリカ二大政党制の幻想

アメリカの政治のあり方を根底的に変える出来事――「市民連合判決」があった。これは2010年1月、保守派主導の最高裁が出した「企業による選挙広告費の制限は言論の自由に反する」という違憲判決だ。これにより、アメリカでは企業献金の上限が事実上撤廃されたという。この判決は企業も有権者と同等に政治に意向を伝える権利があるという意味で「市民連合判決(Citizens United)」と呼ばれている(P226)。これによって利益団体は、候補者か対立候補を落とす広告費の名目で、無制限に政治献金ができるようになった。

テキサス州フォートワース在住の調査ジャーナリスト、アレン・クリフトンは、この判決は、80年代から年々ぼやけてきていた二大政党の対立軸を、完全に消してしまうだろうと言う。「アメリカ国民にとっての選択肢は、大金持ちに買われた小さい政府か、大金持ちに買われた大きい政府か、という二者択一になりました」(P225~226)

市民連合判決後、大量の政治献金が堰を切ったようにじゃぶじゃぶと政界へ流れ始めた(P230)。2010年の中間選挙、2012年の大統領選および上下院選挙では総額60億ドル(約6000億円)というアメリカ史上最高記録を更新している。「選挙とは国の支配権をかけた効率の良い投資である」(政治学者トーマス・ファーガソン)となり、企業の意思表示が無制限に保護された結果、選挙は有力企業と、その意向を代表するコンサルタント、広告代理店、世論調査会社が演出する巨大な劇場となっていったという(P233)。

市民連合判決で最も潤ったのが言うまでもなく大手テレビ局だ。2008年に5億ドル(約500億円)だった選挙広告費は、2012年には8倍以上の42億ドル(約4200億円)に跳ね上がった。しかも、企業であっても個人であっても何億、何兆ドルでも無制限に集められ、集めた総額、寄付者の名前も一切公表しなくてよくなくなった。その仕組みを担保したのがスーパーPAC(特別政治活動委員会)だ。スーパーPACは、表向きは候補とは関係ない団体なので、ライバル候補者に対する根も葉もない醜悪なネガティブCMを流したとしても、候補者本人は自分とは一切関係ないと言えるという。つまりこうして、選挙は「なんでもあり」の劇場と化したわけだ。

さて、アメリカの「民主主義」を象徴するのが二大政党制と、国民の直接選挙による大統領選挙だ、と日本では信じられている。二大政党制は政権交代を即座に国民が選択できる合理的制度であり、大統領選挙は国民が自らの手でアメリカのトップを決めることができる、直接民主主義という最善手であると。日本でも、アメリカの二大政党制を参考とした、小選挙区制度が取り入れられた総選挙が1996年に行われ、その後、2009年に民主党が自民党から政権を奪った。また、首相公選制度を要望する声は後を絶たない。ところが—
80年代から加速した規制緩和と民営化、垂直統合、政府・企業間の回転ドア、ALEC(米国立法交流評議会)、そして市民連合判決といった動きが、アメリカを統治政治から金権政治へと変えていった。寡占化によって巨大化した多国籍企業は、立法府を買い、選挙を買い、マスメディアを買うことでさらに効率よくその規模を広げてゆく。
「最大の問題は、こうした動きが国民の知らないところでスピードを上げていることです」そう言うのは、2010年の中間選挙でカリフォルニア州の第三党から州議会議員に立候補したジル・スタインだ。
「大企業は吸収や合併を繰り返し巨大化するにつれ、無駄がなくシステマティックになってゆきます。この動きは年々加速しているにもかかわらず、あまりに洗練されているので国民の意識がついていけない。その時差をマスコミがさらに利用するのです」
「どんなふうに利用するのでしょうか」
「たとえば、選挙の時期になるたびに、マスコミはこの国にまだ二大政党制が機能しているかのようなイメージを振りまいてきました。保守対リベラル、共和党対民主党、赤い州対青い州、といった具合です。大衆は分かりやすい構図を好みますし、CMも二つの対立軸を煽るように作られている。国民を高揚させるようにデザインされているのです」
「そのことの弊害とは何でしょうか」
「国民がマスコミと政治家によって見せられるイメージと、実際に起きていることのギャップの大きさです。2012年の大統領選挙では、「1%」の代表であるロムニーが金権政治の象徴で、オバマがその逆であるかのようなイメージが、テレビ画面を通じてリベラル派の間に広がりました。反ロムニー感情を煽られたリベラル派の多くは、あっという間に忘れてしまったのです。オバマ大統領が2008年に就任した直後に、いったい国民の税金を何に使ったのかを」
2008年、政治資金監視団体の「オープン・シークレット(Open Secrets.Org)」は、オバマ大統領が公的資金注入を実施した大手保険企業であるAIG社から、選挙の際に10万4332ドル(約1043万円)の献金を受け取っていた事実を公表している。
「税金から1730億ドル(約17兆円)もの公的資金を受けて経営破綻を逃れたAIGは、その後幹部に1億6500万ドル(約165億円)、従業員に2億3000ドル(約230億円)のボーナスを支払い、国民の怒りを買いました。国内の失業率が10%を超えているのに、救済金は一般市民や中小企業ではなく金融機関幹部に流れた。その行く先はオバマ大統領の選挙スポンサーリストとピッタリ合っているのです」
たしかに政治献金の内訳を見ると、当選後の政策と明らかにリンクしているのが分かる。2008年のオバマへのトップ献金元リスト上位に並ぶのは大手金融機関だ。AIG社が受け取った公的資金の半分が流れた同社の大株主で最大債権者のゴールドマン・サックスは、オバマ献金リストの第二位にいる。(P234~236)
アメリカの二大政党制は――繰り返し述べることになるが――マスメディア、とりわけ大手テレビ局がつくりあげたイメージの産物でしかない。民主党もしくは共和党のどちらの候補者が大統領になっても、多国籍企業、投資家・株主、一部のIT企業といった「1%」の側の利益となる政策が遂行されるだけだ。

●アメリカという空虚なビークルが目指すもの

さらにいえば、アメリカという国家は、多国籍企業、金融業、投資家・株主、政治家、役人、IT企業という「1%」のために、そして、「99%」を路上に置いたまま――走る、空虚なビークル(vehicle/乗り物)のようなものだとさえ言える。

金融業、投資家は莫大な資金というエネルギーを用意し、多国籍企業は車体もしくはエンジンのようなものか。政治家や役人はビークルの進行を阻害する障壁を規制緩和で取り除く一方、対向車や競争車に対しては規制によってそれらを排除する。IT企業はコンピュータを駆使してビークル運行の効率を高め、一直線に利益を目指せるようにナビゲートする。運転手は民主党でも共和党でもかまわない。どちらも政治献金で縛られたロボットなのだから。

ビークル「アメリカ号」は、まずアメリカ国内においてそのビジネスモデルを試行し、成功すると、さらに貪欲にグローバルな枠組みへと巨大化する。やがて、世界(市場)の半分以上がビークルと化す。その目的達成のため、「自由」「競争」「公正」「民主主義」「規制緩和」「市場主義」といった美辞麗句がメディアをつかって流され、イラク戦争、アフガニスタン戦争、FTA、TPPが仕掛けられる。ビークルはだれにとがめられることなく、拝金主義、成果主義をまっとうし、ビークルの株主に対し利益還元を成し遂げる。

いま日本においても空虚なビークル「アベノミックス号」が走りだそうとしている。そのデザイン、仕様は、アメリカのそれと瓜二つだ。

2013年8月2日金曜日

民主党の悪霊――菅、野田、岡田、前原、安住・・・

民主党が先の衆院選に続き参院選でも大敗した。小鳩体制で自民党から政権を奪取した当時の勢いはもう完全に消失した。参院選敗北の総括もできないまま、公認問題で「反党行為」をしたとされる菅元首相、はては政界をすでに引退した鳩山元首相の「尖閣発言」までもちだして、執行部批判をかわそうとしている。その姿は醜い。

そもそも、民主党が大きく後退した要因は、日本の実体的権力が仕掛けた鳩山及び小沢に対するテロ攻撃に悪のりし、旧日本新党(松下政経塾)一派が菅を挟んで党内権力を掌握したことに端を発する。民主党崩壊の主犯は、消費税率アップを政策の柱とした菅、野田、前原一派にほかならない。しかるに彼らは、先の衆院選敗退以降、敗戦処理を海江田、細野にまかせ、表から消えた。その行動は狡猾で、無責任きわまりない。野田も前原も、民主党を崩壊させた責任を取り、議員バッジを外せと言いたい。

そんなおり、あるウエブサイトが、同党OB・元参議院議員の平野貞夫氏の見解を掲載していたので紹介しておく。
民主党大物OB 党再生に菅、野田氏ら「悪霊」の「除霊式」提案

今回の参院選では27議席減、先の衆院選では174議席減という選挙結果が示す通り、民主党は堕ちるところまで堕ちた感がある。「もはや解党するしかない」という声も上がるが、ここまでくればもう守るものなんてない。ぜひ決死の覚悟で「再生プラン」をブチ上げていただきたい──。誠に僭越ながら、勝手に民主党再生プランを考えてみました。

同党の大OBである元参議院議員の平野貞夫氏が、愛憎込めて提言するのは「除霊式プラン」である。

「民主党が国民の信頼を取り戻せないのは、ひとえにマニフェストを反故にし、消費増税を決めた裏切り行為にある。主要政策のための予算16兆8000億円は“財源がない”ということになってしまったが、徹底した歳出見直しや埋蔵金探しをすれば必ず出たはず。

それなのに民主党執行部が官僚に手玉にとられて、予算作りを放棄してしまった。消費増税にしても、財務官僚や自民党にコロッとだまされて決めてしまったこと。この党が新たな道を進むには、それらを推進した民主党内の“悪霊”たちを一気に追放する“除霊式”を大々的にやるしかない。菅直人、野田佳彦の両首相経験者は当然のこと、岡田克也、前原誠司、安住淳ら元執行部は全員“悪霊”だ」

「キョンシー」に出てくるような除霊のお札を、この面々のおでこに「バチーン!」と貼れたらさぞ痛快に違いない。除霊式には民主党員のみならず相当の観衆が集まるはずだ。(『週刊ポスト2013年8月9日号』より引用)
筆者も平野氏の見解に全面的に同意する。民主党政権と一口に括ることが多いが、政権奪取当時の小沢一郎幹事長及び鳩山由紀夫代表(首相)を執行部とする第1次民主党政権と、菅、野田が首相となった第2~3次民主党政権とは、その性格が水と油ほども違う。第1次民主党政権は、普天間移転問題で「県外」を掲げてマスコミに袋叩きにあい、さらに、政治資金問題に係る検察・マスコミのテロで倒壊してしまった。鳩山の場合は、実母からの政治資金提供疑惑、小沢の場合は「陸山会事件」である。その結果、小鳩はほどなく政界から事実上、追い出された形となって今日に至っている。

小鳩を民主党の中枢及び日本政界から「追放」したのは、検察(霞が関)・マスコミであるが、その裏には米国の意向が働いたと筆者は推測している。もちろん、推測であって証明できないのだが、鳩山が進めた「東アジア経済圏構想」や「普天間基地国外・県外移転」、そして、小沢の親中国的政治姿勢は、米国にとって脅威であった。だから、マスコミが民主党政権になって日米同盟がぎくしゃくしてきた、という主張は、第1次民主党政権には当てはまる。

ところが、第2~3次民主党政権になると、TPP参加、消費税率アップ、普天間基地辺野古移転等々、米国の意向のままに政策が展開していくことになる。この時期に比べれば、今日の安倍政権の「憲法改正」「国防軍構想」等の右寄り政策のほうが、米国にとって脅威となっているように思える。そして、このたびの麻生副首相の「ナチスに学べ」発言である。この発言は、安倍政権が米国にとって危険な存在であるという思いを確信させる契機となったに違いない。

さて、そんなことより、日本国民にとって、民主党の崩壊をどう受け止めるべきなのかが重要である。

民主党は寄せ集め集団だった。
  1. “日本のネオコン”にも匹敵する松下政経塾出身者の最右派(前原がその代表)
  2. 親中派の小沢・鳩山の最左派
  3. その間の旧民社党(旧同盟系労働組合)
  4. おなじく旧社会党(旧総評系労働組合)
  5. 菅に象徴される市民運動出身者

が蠢いていた。この烏合の衆が、小鳩がいなくなった後、何をトチ狂ったか、消費税率アップに猪突猛進し、自爆したというわけだ。

だから、民主党は解党したほうがいい。それぞれが本家に帰るべきなのだ。そして、左派は、生活の党(小沢)、旧民社党系及び旧社会党系の労働団体(同盟+総評=現連合)を母体として、さらに他党――たとえば、かつて袂を分かった社民党や、環境派(緑派)、市民運動家らを巻き込んで、左派連合を形成したらいい。小沢が先に主唱した「オリーブの木」構想である。共産党との連携もあり得るかもしれない。

その一方、旧日本新党(松下政経塾出身者)及び中間派は、みんなや維新といった右派勢力に吸収されたほうがすっきりする。さらに民主党内に残存する市民運動派、日本新党出でありながら左派的である海江田グループ等は、政界引退するか、小沢の生活の党に合流するしかないだろう。そうなると、日本の政党は、
  • みんな・維新の[超右派]、
  • 自民・公明の[右派・中間派]、
  • 連合(=労働組合)、市民団体系の[左派連合]、
  • [共産党]
――の4つに分類される。

この先、収入増なきインフレの進行、消費税率アップ、円安、株安、雇用不安等を背景として、社会・経済不安が増大することから、超右派、右派・中間派が後退する局面に入っていく。そんなとき、左派連合を糾合するスーパースター的な政治家の出現が待望される。

8月は波乱の幕開け

昨晩、珍しく家人がカラオケに行きたいと言い出した。

カラオケ嫌い、居酒屋嫌いの者なので珍しいな、と思いつつ、ならばカラオケ好きの旧友S氏を誘おうとメールしたら、なんと、彼のパートナーのMさんのお父上がいましがた、亡くなったという訃報が返ってきた。

Mさんのお父上は享年103歳、大往生である。筆者はお会いしたことはないが、100歳を過ぎてもお元気で、TVによるナイター観戦と晩酌が日課であったという。心からご冥福をお祈りします。

それにしても不思議なのは、家人の「カラオケ発言」である。

前出のとおり、普段、自分からカラオケに行こうなんて言わない者がそのことを言い出したのは、私に対して、早くS氏と連絡したほうがいいよ、という暗示のようにも受け取れる。

オカルトは信じない筆者だが、6センサーのような人間の潜在的能力については、否定しきることは難しい。

さて、恒例の猫の体重測定を記録しておく。

Zazie(サビ猫)が4㎏ちょうど。前月から300gの減。

Noco(シロ猫)が6㎏ちょうど。同じく100gの減。

二匹とも夏痩せかな。

Zazie

Nico

ここのところの猫たちの変化としては、Nicoが異常に人懐っこくなって、ナデナデをしばしばせがむようになったことだ。

写真のとおり――筆者のベッドの前、すなわち枕元の小箪笥の上――が定位置で、筆者の睡眠中でもニャオ、ニャオ鳴いて、ナデナデを迫る。

無視すると、前足で筆者の頭を軽くパンチしたり、髪の毛を引っ張るのだ。

睡眠のペースが狂ってしまい、これには困っている。

2013年7月28日日曜日

『現代オカルトの根源――霊性進化論の光と闇』

●大田俊寛[著]  ●ちくま新書  ●800円+税

本書はその本・副題が示す通り、現代のオカルト集団の教義と宗教体系教等を霊性進化論という概念を基軸にして説明する試みである。霊性進化論とは耳慣れない言葉だが、著者(大田俊寛)は、それをダ―ウインの唱えた進化論に影響を受けて考え出された神智学を発端とする宗教思想である、と定義づける。神智学とは何かについては後述する。現代オカルティズムは、ダーウィンの進化論の影響なくしては生まれなかった、ということになる。

●現代オカルトの根源=神智学の創始者及び継承者

本書は、まず、19世紀後半から20世紀初頭に隆盛を極めた神智学系の宗教思想(者)として以下の人物及び思想を紹介する。

①その祖であるブラヴァツキー夫人(1831~1891)の宗教思想、
②神智学をヨーガと合体(チャクラ)させ、神智学を継承的に発展させチャールズ・リードビーター(1854~1934)。彼は大師(マスター)を頂点とするハイアラーキ―(階層組織)及びイニシエーション(通過儀礼)を取り入れた教団の原型を創出した人物ともいえる。
③人智学の祖ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)
④アーリアン学説、ユダヤ陰謀論からナチズムに強い影響を与えたアリオゾフィ(アリオゾフィとは、アーリアのArio+叡智Sohiaの合成語)。;グイド・フォン・リスト(1848~1954)、ランツ・フォン・リーベンフェルト(1874~)、トゥーレ協会創設者であるルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ(1875~1945)、ヒトラーを中心とするナチズムの主要メンバー

次に、第二次世界大戦後、大陸ヨーロッパにおいて後退した神智学が米国・英国に渡って発展したポップ・オカルティズムとして、
⑤催眠時人格により前世との交信を実現したとされるエドガー・ケイシー(1877~1945)
⑥UFOと宇宙の哲学を創設したジョージ・アダムスキー(1891~1965)
⑦マヤ暦と終末論を展開したホゼ・アグエイアス(1939~2011)
⑧爬虫類人陰謀論のデービット・アイク(1952~)

さらに、日本の新宗教を代表とするものとして、
⑨日本シャンバラヤ計画、竜王界創始者/三浦関三(1883~1960)
⑩「国際宗教・超心理学会会長」の本山博(1925~)
⑪阿含宗創始者/桐山靖雄(1921~)
⑫オウム真理教創始者/麻原彰晃(1955~)
⑬幸福の科学創始者/大川隆法(1956~)

●神智学とはなにか

神智学とはどういう学なのか――ということの詳細は本書を参照していただきたいのだが、大雑把には、19世紀末、ウクライナ生まれのブラヴァツキー夫人がつくりあげた神秘思想である、と言える。ダーウィンの進化論、天文学、インド・チベット(ヒンドゥー教、仏教の輪廻転生・弥勒思想)の宗教哲学、占星術、超古代歴史観(アトランティス大陸、アーリア人至上主義)等を折衷・融合させたもの。彼女はヨーロッパを拠点として、米国(1873年~)、チベット(1856~1863年)、インド(1878年~)、北アフリカ等を放浪し、その間、以下のような要素を神智学に盛り込んだとみられる。

ブラヴァツキーはまず、ヨーロッパにおいて、エリファス・レヴィの魔術を始めとするオカルティズム、エソテリシズム(秘教)、グノーシス主義、新プラトン主義、ユダヤ教カバラ、ドイツ神秘主義等の教義を学び、さらにフリーメイスンと接触することにより、宗教的秘密結社に関する知見を得る。

米国では、当地で隆盛を極めた心霊主義(スピリチュアリズム)の影響を受ける。と同時に、そのころ米国内で生起したダーウィンの『種の起源』をめぐる対立をみることにより、宗教と科学の対立矛盾を解決する道を探求する契機も得たという。心霊主義(スピリチュアリズム)とは、(幽)霊との交信が可能となった少女の存在から、人間は肉体の死後もその魂が霊界で生き続けられるのだという宗教的世界観である。このことにつては、後述する。また、チベット・インドでは、人種・文化論におけるアーリアン学説とヒンドゥー、仏教の輪廻転生論の影響を受ける。

ところで、ブラヴァツキーの神智学は、当時の米国の社会情況から最も強く影響されて形成されたという。米国では、伝統的なキリスト教が全体として弱体化・狭隘化する一方、新たな科学的世界観として台頭する進化論と、その真逆である新たな宗教的世界観として流行する心霊主義が流行するという混然とした社会情況があった。
表面的には彼女は、進化論と心霊主義の両者を、截然と否定した。すなわち、進化論に対しては、生命の物質的側面のみに着眼した誤った理論であると批判し、心霊主義に対しては「夢魔」のような低級霊に憑依されることによって生じた幻の現象にすぎないと断じたのである。
とはいえ、ブラヴァツキーの真意が、この両者を単に否定し去ろうとすることであったとは思われない。むしろ彼女は、進化論と心霊主義の構想を巧みに融合させ、人間の生きる目的は、高度な霊性に向けての進化にあることを明らかにしようとしたのである。(P33)

●神智学の体系『シークレット・ドクトリン』

ブラヴァツキーの神智学を体系化した書物が『シークレット・ドクトリン――科学・宗教・哲学の総合』(以下「SD」と略記)である。第一巻の「宇宙発生論」と第二巻の「人類発生論」からなる。筆者は同書を読んでいないので著者(大田俊寛)の要約に従うと、同書の中心的位置を占めるのは、『ジャーンの書』と呼ばれる神秘的テキストで、ブラヴァツキーによればその文書は、中央アジアの聖地において、霊的熟達者(アデプト)たちによって太古から保存されてきたものであり、世界中の多くの宗教は、そこに記された知恵から派生していったものだという。

さて、SDの第一巻(宇宙発生論)では宇宙の原初状態から、太陽系が誕生するまで経緯が描かれる。
原初においては、「永遠の親」という女性の神格が存在し、彼女は「処女卵」を抱いて眠り込んでいた。するとあるとき、そこに一条の光が差し込み、処女卵は「世界卵」に変容する。やがて世界卵は孵化し、そこから「子なる神」と呼ばれる宇宙意識が誕生する。子なる神は、宇宙を創造するために、「七大天使」や「十二星座天使団」と呼ばれる天使たちを生み出す。そして神と天使たちは、光線を降り注がせることによって、太陽系の惑星霊たちを創造する。
太陽系の創造者である宇宙意識としての神は、「デミウルゴス(ギリシャ語の「創造者」)」や「ロゴス(ギリシャ語の「言葉」)」、あるいは「太陽系」と称される。そして神は太陽系に7つの周期(ラウンド)を設定することにより、その進化を促進しようとする。(P35~36)

著者(大田俊寛)が指摘する通り、「それは全体として、グノーシス主義、新プラトン主義、ユダヤ教バカラといった古代以来の神秘思想における流出論的な宇宙発生説を基礎に置きつつ、近代天文学の知見をそこに盛り込んだものと理解することができる」(P36)

SD第二巻(人類発生論)では、このような第一巻で説明されたプロセスから創造された太陽系において、人間の霊が誕生し、進化を遂げる過程について描かれる。
先に述べたように太陽系においては、進化に関する「七つの周期」が設定された。そしてSDによれば、地球に霊が誕生したのは、七周期のうちの第四期に当たる。そして七つの周期は、地球上での人類の進化においても反復される。すなわち、地球においては人類は、7つの段階の「根幹人種」を経て進化してゆくのである。(P36~37)
地球は最初自らの力のみによって生命体をつくりだそうとしたが失敗し、結果として誕生したのは半漁人、有翼人、山羊人間といった半人半獣の奇異な怪物たちばかりであった。天使たちはその肉体を嫌悪し、そこに霊を住まわせようとはせず、炎によって彼らを絶滅させたという。それを見た地球は太陽神に対して、知恵を備えた霊的生命体を授けるよう祈念する。太陽神はそれに応えて七大天使たちに人間を創造するよう命じた。その結果、天使たちがそれぞれ人間の原型を作成し、それをもとに、地球に生み出されたのが7つの根幹人種ということになる。根幹人種の概念は、今日のオカルト思想にしばしば応用されるものなので、少し長いが全貌を見ておこう。
地球における最初の人類、すなわち第一根幹人種は、北極周辺に存在する「不滅の聖地」に出現した。しかしその場所は、不可視の非物質的領域であり、そこに現れた人間も、天使によって与えられた「アトラス体(星気体)」という霊的身体をもつにすぎなかった。不滅の聖地は、地球における人類発祥の地であると同時に、人類が第七根幹人種にまで進化した際に再び回帰する場所とされる。(P38)
以下、その名称(及び出現した場所)等を記す。

第二根幹人種;ハイパーポーリア人。現在のグリーンランド近辺にあったとされる「ハイパーポーリア大陸」と呼ばれる極北の地に誕生。「エーテル体(生気体)」という霊体を有し、分裂によって増殖する性質を備える。大規模地殻変動が起こって厳寒の冥府となり、第二根幹人種は滅亡。

第三根幹人種;レムリア人。「レムリア大陸」に誕生。第二根幹人種の一部から、進化した者。彼らは当初、卵から生まれ、両性具有の存在であったが、やがて男性と女性に分化し、生殖行為と胎生によって子孫を増やすようになった。人類として初めて、物質的身体を有するようになった。惑星霊に属する「光と知恵の子」と呼ばれる者たちは、第三根幹人種の身体を好ましく思い、そのなかに降下した。こうして地球に、高度な霊性の種子を有する人間たちが現れることになった。彼らは、後の「大師(マスター)」の原型となる。しかしこの段階において、人類がある程度の知性と自由を獲得したことは、悪への転落を生じさせる契機ともなった。大師の原型が生み出される一方、「炎と暗い知恵の主」と呼ばれる者たちも人間のなかに降下し、彼らはルシファーを始めとする「悪魔」の原型となった。火山の爆発によりレムリア大陸は海中に没した。

第四根幹人種;アトランティス人。プラトンが論じた伝説の地「アトランティス」で発展を遂げた。高度な文明を築いたものの、第三根幹人種において発生した善と悪の対立が継続反復され、第四根幹人種は「光の子」と「闇の子(=巨人族)」に分化。アトランティスは大洪水によって沈没し巨人も滅びた。

第五根幹人種;アーリア人。アトランティス王国を統治していた聖人たちは洪水を逃れてヒマラヤやエジプトなどの各地に離散し、「大師」として人々を導くことによって、新たな文明を築いていった。その営みから誕生したのがアーリア人である。SDではアーリア人が現在の世界の支配種族として位置づけられている。

第六根幹人種;バーターラ人。アーリア人の文明は、(SDが書かれた当時は)世界各地に点在しているが、今後はアメリカ大陸が中心地となり、将来的にはその場所で第六根幹人種が誕生する。新しい人種の子供たちは、出現の当初は精神的・肉体的な奇形児と見なされるが、徐々にその数を増加させてゆき、やがては人類の多数派を占めるようになる。しかしその頃には火山の爆発や津波が頻発し、最終的にはアメリカ大陸も沈没する。現在の第六根幹人種は、こうして死滅するに至る。

第七根幹人種;バーターラ人は海洋から新たに浮上する大陸でさらなる進化を遂げ、物質的身体の束縛から急速に離脱してゆく。彼らのなかから第七根幹人種が生み出されるが、そのとき人類における物質的周期は終了し、完全な霊性の段階に移行することになる。地球における人類の進化の歴史は、こうして終焉を迎える。神人として不滅の聖地に回帰する。

●ブラヴァツキーの神智学の中心的要素

著者(大田俊寛)は、神智学の中心的要素を以下の8項目にまとめている。これらの事項も現代オカルト思想に準用されているものなので、かなりの分量になるが書き抜いておく。(P46~47)
  1. 霊性進化――人間は、肉体の他に「霊体」を持つ。人間の本質は霊体にあり、その性質を高度なものに進化させてゆくことが、人間の生の目的である。
  2. 輪廻転生――人間は、霊性を進化させるために、地上界への転生を繰り返す。地上での行いは「カルマ」として蓄積され、死後のあり方を決定する。
  3. 誇大的歴史観――霊体を永遠不滅の存在であるため、個人の歴史は、天体・人種・文明等の歴史全体とも相関性を持つ。これらの集合的存在もまた、人間と同様に固有の霊性を有し、円環的な盛衰を繰り返しながら進化を続けている。
  4. 人間神化/動物化――人間は霊的な成長を遂げた結果として、神のような存在に進化しうる。しかし、霊の成長を目指さず、物資的快楽に耽る者は、動物的存在に退化してしまう。
  5. 秘密結社の支配――人間の進化全体は「大師」「大霊」「天使」等と呼ばれる高位の霊格によって管理・統括されており、こうした高級霊たちは、秘された場所で結社を形成している。他方、その働きを妨害しようと目論む悪しき低級霊たちが存在し、彼らもまた秘密の団体を形成している。
  6. 霊的階層化――個々の人間・文明・人種は、霊格の高さに応じて階層化されている。従来の諸宗教において「神」や「天使」と呼ばれてきた存在の正体は低級霊である。
  7. 霊的交信――高級霊たちは、宇宙の構造や人類の運命など、あらゆる事柄に関する真実を知悉しており、必要に応じて、霊媒となる人間にメッセージを届ける。
  8. 秘教的伝統・メタ宗教――霊性進化に関する真理は、諸宗教の伝統のなかに断片的な形で受け継がれている。ゆえに、それらを総合的に再解釈し、隠された心理を探し当てる必要がある。


ブラヴァツキーが創設した神智学は、以降、前出の神智学者らによって発展的に継承され、ヨーロッパにおいてはナチズムの伏流として勢い増し、やがてナチズムに統合化されていった。ナチズムは神智学の一派が強調したアリオゾフィを「アーリア人至上主義」に単純化するとともに、神智学が唱えた「陰謀史観」を国家統合と世界戦争完遂のイデオロギーとして大いに利用した。その結果、多くの戦争犠牲者を出しただけでなく、ヨーロッパ各所においてユダヤ人等大量虐殺という悲劇を招いた。

ナチス・ドイツの敗戦とともに、神智学は後退し、それが戦後の思想界、宗教界に大きな影響を与えることはなくなったように思えた。

●第二次世界大戦後のオカルト思想――ニュー・エイジ運動

ヨーロッパにおいて後退、衰退したと思われた神智学だが、第二次大戦後、新大陸アメリカにおいて、ヒッピームーブメント(または、ニュー・エイジ運動)として復活を遂げ、1960年代後半から70年代初頭にかけて隆盛を極め、現在にも多大な影響を与え続けている。

本書ではニュー・エイジ運動よりも、英米で開花したポップ・オカルティズムの動きを追っているのだが、筆者の経験では、神智学の系譜は、フラワーチルドレンを自称したヒッピー(ムーブメント)が支持した、ニュー・エイジ運動のなかに求められると思っているので、本書とは関わりがないが、大衆レベルに浸透したヒッピー文化とニュー・エイジ運動を紹介しておきたい。日本でも団塊前後の世代は、ヒッピームーブメントを同時代的に経験している者が多いと思う。

彼らの世界観及び生活実践は、ニュー・エイジ運動と多くの点で合致する。両者とも、現代文明の物質性、科学性、政治・経済システム等を否定し、超自然的・精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などから解放された、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする点である。

ヒッピーは、ラブ・アンド・ピースを掲げるとともに、超自然性、精神性を重視し、近代的自我を超えた超自我を探求した。そのための彼らの実践方法としては、LSD、サイケデリック等に代表される薬物を使用したトリップ体験があった。また、西欧文明を象徴するキリスト教(教会)を拒否して異教(道教、チベット仏教、ヒンドゥー教等の輪廻転生)を信仰し、かつ、それらの修行方法である、禅、ヨーガ=呼吸法・さまざまな整体術等の身体技法、瞑想法を取り入れた。また、宇宙(人)、前世とのチャネリング/リーディング、前世療法・催眠療法等の心理療法、心霊治療、アロマテラピー、パワーストーン、アメリカ先住民の原始信仰、シャマニズム、さまざまな波動系グッズ利用などを実践した。性の解放(一夫一婦制結婚制度の否定)もその一部である。

ヒッピームーブメントとニュー・エイジ運動がまったく同一なものというわけではなかったが、両者は似たような世界観を共有し、同じような価値観を信奉し、同じような自我解放手法を実践した。

なお、ヒッピー発祥の地は米国西海岸サンフランシスコであるが、彼らは既存の国家(境)を越え、世界中に自分たちのコミューンを形成しようとした。ヒッピーの聖地となり得た地域は麻薬が手に入りやすいところであった、ということもあるが、アジアの場合は、異教の聖地と重なるところもある。世界各地のヒッピーが集まった代表的な地域は、クタ(バリ島/インドネシア)、カトマンズ(ネパール)、ゴア(インド)、イビサ(スペイン)、カーブル(アフガニスタン)、クリスティアニア(コペンハーゲン/デンマーク)である。なかで、カトマンズ、カーブル、ゴアはヒッピーの「三大聖地」と呼ばれている。

●ニュー・エイジ運動とミュージカル『ヘアー』

ヒッピームーブメントとニュー・エイジ運動の相似を示す格好な事例があるので紹介しよう。当時、爆発的ヒットとなったミュージカル『Hair(ヘアー)』である。オフブロードウエイの上演は1967年、ブロードウエイでの初上演は1968年である。日本では1969年に渋谷東横劇場で公演されている。

ストーリーは、ベトナム戦争中のアメリカが舞台。多くの若者が戦場に召集されていた。田舎の青年、クロードもその1人。入隊前のわずかな時間を楽しむために、彼は大都会ニューヨークに立ち寄る。そこで、バーガーを初めとする自由奔放な、長髪のヒッピーグループと出会い、彼らの反社会的な生き方に呆れながらも、親交を深めていく。そして戦争に行かないよう、仲間たちから説得されるが……。

このミュージカルは、当時の若者サイドの強い反戦メッセージが感じ取れる一方、当時のヒッピームーブメントをリアルに伝える作品でもある。前出のラブ・アンド・ピース、ビーズ・アンド・フラワーズ、ビー・イン(Be in)と呼ばれたヒッピーたちの集会、マリファナやLSDなどの麻薬によるサイケデリック体験・トリップ感覚、フリーセックス、インド精神哲学の流行(クリシュナ信仰)などが盛り込まれている。またタイトルにもなっている、Hair(髪)を長く伸ばすのも、ヒッピーの大きな特徴の一つである。

この劇のストーリーやテーマは知らなくとも、テーマソングとも思われる「Aquarious〜Let The Sunshine In」は知っている人が多いのではないか。このミュージカルの最初と最後の曲をメドレーにしてカバーした、フィフス・ディメンションの「Aquariousu〜Let The Sunshine In / 輝く星座」は、1969年のグラミー賞最優秀レコード賞を獲得した。また1979年には、ミロス・フォアマン監督によって映画化されている。ちなみに、Aquariousとはいうまでもなく、水瓶座のことである。

Aquarious〜Let The Sunshine In の歌詞は以下のとおり。

When the moon is in the Seventh House
月が第7宮にあり

And Jupiter aligns with Mars
木星が火星と直列するとき

Then peace will guide the planets
そのときこそ、平和が諸々の惑星を導くことだろう

And love will steer the stars
そして愛が星々の舵を取るのだ

This is the dawning of the age of Aquarius
いまは水瓶座の時代の夜明けのとき

The age of Aquarius
水瓶座の時代だ

Aquarius! Aquarius!
アクエリアス! アクエリアスだ!

Harmony and understanding
調和と理解と

Sympathy and trust abounding
共感と信頼が満ち溢れる

No more falsehoods or derisions
インチキやバカげたものはもうおしまい

Golden living dreams of visions
ヴィジョンに溢れた光り輝く生の夢

Mystic crystal revelation
神秘的な透徹とした黙示

And the mind's true liberation
そして心の真の解放

Aquarius! Aquarius!
アクエリアス! 水瓶座!

When the moon is in the Seventh House
月が第7宮にあり

and Jupiter aligns with Mars
木星が火星と直列するとき

Then peace will guide the planets
そのとき、平和が諸々の惑星を手引きするだろう

And love will steer the stars
そして愛が星々の舵を取るのだ

This is the dawning of the age of Aquarius
いまや水瓶座の時代が明けようとしているのだ

The age of Aquarius
水瓶座の時代

Aquarius! Aquarius!
アクエリアス! アクエリアスだ!

Let the sunshine,
陽の光を

Let the sunshine in
太陽の輝きを差し込ませよう

The Sunshine in
陽の光を入れるんだ

Let the sunshine,
太陽の輝きを

Let the sunshine in
陽の光を入れるんだ

The Sunshine in
太陽の光が差してくるぞ

●ニュー・エイジ――水瓶座の時代への「転換」

この歌詞は、ニュー・エイジ運動を知らないと、その本意が理解できない。宇宙的規模な壮大さと愛と調和が盛り込まれた美しい歌詞だと思っている日本人が多いと推測するが、そんなものではない。

まず、ニュー・エイジ運動を定義しよう。以下、本書の参考文献にも掲げられている『現代社会のカルト運動』(S・V・シュヌーアバイン著)からの引用である。
「現代の危機」から霊的脱出路を求めている・・・西欧と北米の人びとは、伝統的宗教組織に心の支えを見出しているのでもないし、世界を解明し、改革し得ると主張する世俗的組織(いわば政治的イデオロギーと科学的世界観)によってこうした問題を解決できるとも思っていない。だから、彼らのうちには意味の空白を満たしてやろう、と呼びかけてくる秘教的、あるいはオカルティズムの教えに惹かれる人たちもいる。いわゆるニュー・エイジ運動は、これらの教えを受け容れる貯水池となっている。
この運動を正確に述べるのは、難しい。というのは、この運動は統一的組織をもたず、拘束的教義もなく、世界観の共通性も僅かしかないからである。この運動を結び付けているのは、ある種の強い帰属感情である。したがって、ニュー・エイジ運動とは、「合理的に伝達されて、広い範囲に影響を及ぼす拘束力よりも、並列している諸傾向の感情的結合を強調する、新しいタイプの社会《運動》である。」(Pilger/Rink)
こうした諸傾向には、神秘主義、秘教、オカルティズム、現代の西欧自然科学、すなわち心理学(とくにW・ライヒとC・Gユングのそれ)の諸要素、心理療法のさまざまな流れ、ある種の再生思想という西洋宗教の概念装置、それに前キリスト教、あるいは非キリスト教の種族宗教もしくは自然宗教のインパクトがある。とくに、後者には「シャマニズム」「新魔女(ノイエ・ㇸクセン)」、それにケルトとゲルマンの「叡智の教え」がある。
(略)
この運動は、現代社会が生存の危機に陥り、破滅の淵に瀕している、という意識をもち、調和に満ちた、新しくより高度な時代――ニュー・エイジの名称も、ここに由来するのだが――の到来に備えて、「転換期」に生きる思想に革新する。
この「転換期」は占星術的解釈を取り入れた天文学のモデルによって説明されている。「地軸が徐々に回転することによって、天の赤道と黄道の交点は黄道の獣帯(黄道十二宮)上を逆向きに移動してゆく。」今日、この交点は黄道十二宮の魚座と水瓶座の間にあり、それゆえ新しい時代はニュー・エイジ運動では「水瓶座時代」と呼ばれている。
危機意識から生じた意味喪失感から、多くの人びとは宗教問題に対し関心をもつようになっている。現代の産業社会の、絶えず増大している現世志向と世俗化傾向は――マックス・ヴェバーはこれを「世界の脱呪術化」と特徴づけた――多くの現代人にはいまや自明の事柄であるし、あるいはまさにこの傾向こそが、現代の体制危機の原因だと考えられている。かといって伝統的な教会に戻ることもできない。教会こそが現代の危機を招来した共犯者である、と時には考えられているのだから。
これに対してニュー・エイジ運動は、「世界の再呪術化」と呼びうるような、そして前近代的で神秘主義的――呪術的世界像の諸要素を復権させるような、一種のパラダイム転換を要求しているのである。
さらにニュー・エイジ運動は、現代社会の方向喪失現象に対して、秘教思想の入り混じったさまざまな心理療法の技法によって、「自己の根源と根底」を再発見することを提唱する。こうすることによって、合理的・直線的思考とは異なる、水瓶座時代への移行にふさわしい、全体的・循環的な「新しい意識」も人間のうちに目覚めさせられるのだ、と云う。
結局のところ、彼らは、支配的な科学にある自然科学の一面的な合理的見方に代わって、現代自然科学の成果と宗教的・神秘的内容を混ぜ合わせることによって、「全体的世界観」を生み出そうと望んでいる。この点で、とくにエコロジーの傾向が重視されている。
ニュー・エイジ運動の歴史的基盤と資源は神智学である。神智学はすでに一世紀以上も前に、当時の人びとのオカルティズムや仏教・ヒンドゥー教の宗教の装置と、当時流行していた自然科学理論、とくにダーウィン主義・ヘッケルの一元論を、ニュー・エイジと似たようなやり方で綜合していた。神智学とニュー・エイジの親近性は、たんに世界像と個々の思想が似ている点だけでなく、ニュー・エイジの主導的支配者らが、かつて神智学運動に加わっていたし、現在も参加している、ということでも示されている。(前掲書P2~4)

『ヘアー』は、ニュー・エイジ運動の世界観である水瓶座の世界への転換を強調したミュージカルなのである。『ヘアー』は今日でも世界各地で再演されているというが、今日の観客がどれだけニュー・エイジ運動を意識しているかはわからない。が、少なくとも、このミュージカルがつくられ上演され多くの若者が支持した当時(1960年代末から70年代初頭)の米国の時代背景の内側に、ニュー・エイジ運動があったことだけは知っておいてほしい事柄である。

●日本のニュー・エイジ運動――その影響と悲劇

さいわいにして、当時日本に上陸したヒッピームーブメントは、長髪、ベルボトムのジーンズ、絞りのTシャツやフラワープリントのシャツ、サイケデリックアート、サイケデリックロックの流行というファッションのレベルにとどまり、ニュー・エイジ運動の思想的影響については軽微であった。

だがしかし、ヒッピームーブメントからおよそ10年余の年限を経た1980年代から20世紀末、ニュー・エイジ運動はオウム真理教に代表される新宗教の台頭という形で、日本において再生をはたした。そのようななか、ニューアカデミズムと呼ばれた新進思想家グループの一人として、オウム真理教を積極的に支持した宗教学者・中沢新一がいた。彼が、チベット密教の瞑想修行を体験的に記録した『虹の階梯』を上梓したのは、おそらく、1981年のことであったと記憶する。中沢は、日本を代表するニューエイジャーの一人である。

しかし、日本のニュー・エイジ運動は、オウムの暴走(地下鉄サリン事件等の勃発)という悲劇的結末をもって幕を下ろしたはずだった。ニューエイジャー・中沢新一も、オウム騒動のなかで沈黙し、著作活動・思想営為を休止し、事実上潜伏したように見えた。ただ、残念なことに、中沢は自らのオウム支持に係る思想的総括を公表していない。

●3.11以降、日本にニュー・エイジ運動が復活する兆し

東日本大震災と福島原発事故は、人々の心の中に、自然に対する畏怖、拝跪の念を強めさせた。と、同時に、現代科学技術、産業主義・物質主義に対する懐疑の念を一層深いものとした。もちろん、既存のイデオロギー及び政治政党への不快の感情も、とりわけ多くの若者の意識のなかに、深く沈潜するようになった。

そんななか、反原発を主唱するグリーンアクティブの「指導者」として、ニューエイジャー・中沢新一がいつのまにか復活した。中沢の復活は、日本におけるニューエイジ運動の浸透力の強さ、根深さを象徴するものと言える。

今日の反原発運動については、安倍政権が進める「原発安全基準策定」及び原発輸出政策は批判されて当然であるし、東電救済政策、根本的には電力エネルギー政策及びその体制への批判も支持できる。だが、それが単純な科学技術否定や産業否定に直結し、オルタナティブなエコロジー主義(循環型社会信仰)、秘教、神秘主義の肯定に結びつくようなことにはならないようにしなければならない。

今日の日本の反原発運動については、前出のマックス・ヴェバーの言葉に従えば、 “現代の産業社会の、絶えず増大している現世志向と世俗化傾向”を高度化すること、すなわち、「“原発”の脱呪術化」を極めることにおいて、なされなければならない。反原発運動は、原発を制御しうる、あるいは、原発を越える科学技術もしくは産業技術の高度化達成にむけて、政府に圧力をかけるような運動でなければならない。

2013年7月14日日曜日

山本太郎&三宅洋平選挙フェス(渋谷ハチ公前広場)

三宅洋平の演説と演奏

三宅の前座バンド

広場で配られた扇子


友人の勧めで、三宅洋平を聴きに行った。あいにく雷雨に見舞われ、小一時間、ビルの軒下で雨宿り。

雨が止んだところで、太郎の演説、それからTPP反対の山田某(前民主党)の演説が入り、真打・三宅の演奏となった。

太郎は東京から、三宅は全国区で、それぞれ緑の党からの参院選立候補のようだ。

筆者は「緑派」全般を容認しないので、緑の党は支持しない。

だが、太郎の反原発の姿勢は支持するし、三宅の素朴な若者らしい反体制的姿勢も支持する。

がんばれ、若者よ!

冷房がきつい

暑がりの猫だが、冷房の効いた部屋は苦手のようだ。



2013年7月12日金曜日

福島原発事故原因の究明は闇の彼方へ

吉田昌郎・元東京電力福島第1原発所長(58歳/以下、肩書等略)が食道がんで急逝した。ご冥福をお祈りします。

さて、マスメディアは、吉田の死後、彼を英雄のごとく報道した。事故収束にむけて決死隊を組織した、吉田のためなら死んでもいいという部下が何人もいた、崖っぷちの日本を救った・・・云々。死者を鞭打つなかれ、とは言うものの、原発事故に関しては過剰に抒情的な報道は避けるべきではないのか。

原発事故対応については、吉田の存在なしでは、事故の拡大があったかもしれない。また、東京電力という官僚的企業風土のなかで彼のような存在は異質であり、そのことが事故処理対応にとってプラスに働いたことも否めないかもしれない。

だが、吉田の事故当時の肩書は『執行役員』であった。経営幹部だ。当然のことながら、事故を起こした責任者の一人であり、しかも、東電が08年に想定外の津波の可能性を把握した際、彼は対策を先送りした原子力設備管理部の部長だったという。つまり、事故の原因をつくった犯人の一人ということになる。

テレビ報道で不愉快なのはそれだけではない。吉田に密着取材して「吉田本」を書いたというフリージャーナリスト(門田隆将氏、以下敬称略)が自著の宣伝も兼ねて、吉田をヨイショしっぱなしなのには驚いた。取材者が取材対象と一体化しでどうする。門田は、吉田の宣伝マンなのか。対象に思い入れれば、客観性を失う。門田は間接的に原発事故原因に係る究明を阻害する役割を果たしている(但し、筆者は門田の著書を読んでいないので、推測の域を出ないが)。死の淵にある吉田に密着しながら、原発事故原因の真相を吉田から聞き出そうともしていない。

吉田が真に果たさなければならなかったのは第一に、事故前、吉田本人が元気だったころ、福島原発の安全対策に万全を期すことだった。前出のとおり、吉田はその職にあった。にもかかわらず、そのことを全うできなかった。吉田の職務怠慢は追及されてしかるべきだろう。

第二は、事故後、吉田が重病に犯されていたことに同情するものの、彼が果たすべきは、二度と悲惨な原発事故を繰り返さないという観点から、福島原発の事故原因の真相を日本国民のために話すことだった。吉田は東電に「守られ」、その真相を墓場まで持っていってしまった。このことは、吉田一人の責任ではないかもしれない。吉田を「守りつつ」、世間から遮断したのは東電だったのかもしれない。悔やまれるのは、吉田が病状にあったとき、前出の門田というジャーナリストが密着取材をしていながら、吉田から福島原発事故原因についてなんにも聞き出していないことだ。

吉田が事故処理に尽力したことは評価するものの、吉田が現場から離れたとき、吉田の使命は、最も現場近くにいた者として、事故原因の真相を語ることだった。吉田の近くにいた取材者の使命もまた(やれ事故直後、東電本社とやりあっただの、政治家のだれそれがどうのこうのではなく)、吉田から福島原発の事故原因を聞き出すことだった。

けっきょくのところ、吉田は(そして門田も)、「原子力ムラ」の住人であることにかわりがない。

2013年7月11日木曜日

夏バテ猫

 
暑い日が続き、猫たちも元気がない。

2013年7月1日月曜日

Zazie, Nico(7月)

筆者と猫たち


7月だ。2013年も半分過ぎた。

猫たちの体重を記録しておこう。

Zazieは4.3㎏、先月から700gも増えた。

Nicoは6.1㎏、同じく200gの増。

Zazieの体重増がすごい。


2013年6月30日日曜日

花は咲く(3)

谷中にはいろいろな種類の花が、民家・寺院の庭先や路地に咲いている。



@Yanaka

クチナシの花

ヒマラヤ杉をのぞむ一本の路地にクチナシが群生し、いかにも甘い香りをあたり一面にふりまいている。

「クチナシの道」と命名しておこう。



@Yanaka

ヒマラヤ杉が危ないか

谷根千のなかで最も驚異的な景観の一つであるヒマラヤ杉が伐採の危機にあるかもしれないという。

伐採はよくない、保存してほしい。

これは、一本の大木を伐採するというエコロジー的な問題にとどまらない。

人々はこの杉の木の存在に生態象徴的な意味を見出してたからだ。

そこに詩的に住まうことの意味を重ねていたからだ。

このような景観は、人間が人為的にいくらつくり出そうとしてもつくりだせない。

長い年限にわたる人と自然の調和がなければ成立しないのだ。

都心・谷中におけるヒマラヤ杉は、誠に稀有な現象なのだ。



@Yanaka

自己責任論の倒錯

「保守派」を気取るテレビタレント(自称「ニュースキャスター」)・辛坊治郎がテレビ番組の企画のため、ヨットで太平洋横断を試みたが、ヨットが浸水して失敗。海上自衛隊に救助された。辛坊治郎はかつてイラクで人質にされた日本人を日本国が救済したことに腹を立て、「自己責任論」をもちだして、人質にされた人物及び救済した日本国を声高に非難した“前歴”があったようなのだ。今回は「救済される側」にまわった辛坊治郎、立場が逆転して、お前を助けるために税金を使ったぞ、と非難されている。

人質救済に税金を使うのは間違っていると主張した側が、こんどは海難事故で救助される側に逆転したわけだ。しかも、ヨット旅行はテレビ番組の企画のため、つまり、事業活動の一環なのだ。タレント活動中のタレントを救助するために多額の税金を使ったぞ、どうするつもりか、弁済するのか、と納税者の一部から非難されている(笑)

このような非難の声は気持ちとして了解できるし、辛坊治郎に反省を求めるという意味でわからないではないが、基本的には間違っている。

おもしろい、実におもしろい。国家が危機にある国民を救済すること(理由の如何を問わない)は、国家の機能の一つ。税金をそこに使わずして、いつ使うのか。自分はいつもタックスペイヤーであって、タックスイーターを見るたびに腹が立つ。しかし、今回のように己がタックスイーターになったとき、腹を立てた自分はいったいなんだったのかと、反省しなければならなくなる。情けない話だ。生半可な「自己責任主義者」の虚像が崩壊したにすぎない。哀れな「保守派・自称ニュースキャスター君」。

さて、それはそれとして、わが国では「自己責任」という概念が倒錯しているので、整理をしておこう。日本で「自己責任論」を声高に叫ぶ人物の多くは保守陣営、愛国主義者、国家主義者のグループに属している場合が圧倒的だ。彼らの多くは、国家主義を強く貫く者だ。このタレントもそのような立場の発言を繰り返しているという。

ところが、本来、自己責任を貫く立場というのは、究極的には国家の廃絶を望む思想でなければおかしい。本来の自己責任主義者は国家が、たとえば警察、軍隊、裁判所、その他救助組織を税負担によって保有することを嫌悪する。警察に己を守ってもらうのではなく、自己もしくは民間が自らを守るという立場をとる。よって、人民武装が必須となり、銃規制は考えられない。彼らはその共同の敵については、民間武装組織(自警団もしくは民兵)によって対する。争いごとの解決に国家が介入することを排し、よって訴訟を否定し、当事者同士が(結局は暴力的手段によって)決着をつけることを望む。犯罪者は私刑によって裁かれる。

それだけではない。国家が経済、文化、思想、宗教、性差等に対して介入することを嫌う。だから、国家等が人種差別、性差別、学歴差別等を制度化することにも反対する。あらゆる分野において、人種・宗教・身体性を超えた自由競争(=自己責任)が前提となる。このような思想は、米国ではリバタリアニズムと呼ばれ、共和党の超右派勢力として現存する。

自己責任という言葉は、リバータリアンとして、少なくとも以上述べた如くの覚悟がなければ、唱えてはいけない。犯罪者に対しては警察に、国防に対しては軍隊に、天災に対しては行政、消防、軍隊に依存しておいて、他者の災難に対してのみ自己責任を声高に叫ぶというのは、いかにも情けない。普段、国家(警察、軍隊、行政組織等)に依存する者に「自己責任論」を唱える資格はない。

さて、自衛隊に救助されたテレビタレント・辛坊治郎は、「(悪天候の中、自分を助けてくれた優秀な救援部隊を有する)日本に生まれてよかった」と涙ながらにコメントしたという。辛坊治郎よ、君はどこまでお調子者なのか、リバータリアンが国家を礼賛してどうする。

辛坊治郎は海難事故にあってから、タレント活動は休止中のようだが、己の「自己責任論」の浅はかさを反省して、おもしろいタレントとして出直してほしいものだ。

2013年6月16日日曜日

猫が来てから2年が経った

窓の外、寺の屋根に群がるカラスの大群にかたまった二匹
Zazieがわが家にやってきたのが2011年の6月13日、Nicoが同年7月3日。二匹とも誕生日はおよそ、その2ヵ月前だから、満二歳を過ぎたことになる。

2011年6月といえば、東日本大震災の直後。家人の心境に変化が生じ、猫を飼いたいと思うに至ったようだ。筆者は動物、すなわち生き物に煩わしさを感じていて、猫に限らず犬も鳥も飼うことに反対をしていた。

ところが、家人がいきなり猫を連れてきた。正直、驚いた。しかも、その直後、1月も経たないうちに、二匹目を連れてきた。こんどは驚きを通り越して、呆れかえってしまった。

しかし、猫を追い出すわけにはいかない。飼い始めてしまった以上、飼い主かペットのどちらかがくたばるまで、一緒にいなければならない。それが定めというものだ。覚悟を決めてペットを飼い始めたのではなく、ペットがいるから覚悟を決めた、というわけだ。

あれから2年も経った、早い、とにかく早い。

2013年6月14日金曜日

加藤良三NPBコミッショナーはサイテー男

日本野球機構(NPB)が「統一球問題」で不祥事を起こした。“飛ぶボール”から“飛ばないボール”、そして今シーズンから、再び“飛ぶボール”に逆戻りをしたのだ。そのことを、NPBは選手にもファンにも告知しなかった。むしろ、秘密にしていたようだ。

ところが、先般、選手会から使用球に関する質問が正式にあり、隠し切れなくなって、とうとう6月12日、加藤良三NPBコミッショナーが会見を開き、変更を認めた。この 問題の核心は、①変更した事実を隠したこと、②さらに、変更を隠蔽するよう指示したトップが、隠蔽の罪を部下に負わせようとしたこと――の2点にある。

公式球の仕様を変えることは、そのことを事前に告知しておれば、問題にするに値しない。プロサッカーにおいても、公式球の変更は少なくない。最近では、日韓W杯から導入された無回転シュートが可能なボールの導入や、ぶれておちるシュートが可能になったボールへの変更が記憶に新しい。NPBと異なるのは、公式球への変更について、現場もファンも事前に知っていて、その対策を十分にしていたことだ。だから、ファンは新しい公式球がもたらすスリルを楽しむことができた。現場も十分な対策という技術向上が果たせた。そこが今回のNPBの姿勢と著しく異なる点だ。

加藤コミッショナーは「知らなかった」と事務局内の意志の疎通を欠いたことは認めたが、責任については「不祥事ではない」と突っぱねた。その姿は惨め極まりない。加藤コミッショナーは、聞けば国家公務員上がりだという。日本の役人特有の自己保身、責任逃れの体質を丸出しにしている。しかも、告知しなかった責任を部下(事務局長)に負わせようとしている。“この問題に私は関与していない、報告も受けていない、関係ない、部下が勝手に・・・”という、逃げの姿勢を記者会見で露わにした。TV映像の態度から、この人の人品の卑しさがにじみ出ていた。

報道によると、NPBは公式試合で使用する公式球のすべてに、加藤良三コミッショナーの名前を入れているという。いわば、コミッショナー自身が、公式球として認める判をついたようなものではないか。それでも、自分は知らない、というつもりなのか。

さらに言えば、プロ野球にいくらか関心のある人ならば、今シーズンはホームランが多いな、と感じていたのではないか。スポーツ番組でも使用球の変更の疑惑については、しばしば話題になっていた。昨シーズンの1試合当たりのホームラン数を今シーズンのそれと比較してみれば、使用球が変わったことは容易に想像がつく。それをコミッショナー自身が「知らなかった」というのならば、そもそもプロ野球そのものを「知らない」か、もしくは「見ていない」のではないのか。

なんでこんな人物をプロ野球業界はトップに迎え入れたのだろうか、と不思議に思わずにいられない。プロ野球に限らず、プロスポーツ業界というのは、結果責任を厳しく問われる世界ではないか。打てない打者、打たれる投手は給料が下がり、トレードされ、それでも成績低迷が続けば解雇される。勝てない監督はくびになる。言い訳は許されない。その潔さに、ファンは喝采を送る。スポーツの競技の内容以外の「人事」にも、ファンは関心を寄せる。プロ野球の監督は、チーム成績低迷に係る言い訳は一切しない(中にはコーチに責任をとらせる者もいるようだが)、概ね、自身の責任をまっとうし、それでもだめならば、シーズン途中であっても辞める。ファンは、その姿に男の美学、ロマンを感じとる。それがファンというものだ。それが、スポーツの広がりのある文化というものだ。

今回のNPB加藤良三コミッショナーの態度は、プロ野球選手及びその指導者が示してきた潔さと、真逆のものだ。醜悪な自己保身、責任逃れ、言い訳、開き直り・・・おそらく、日本プロ野球史上、最悪、最低の出来事だ。こんな最低男をコミッショナーに仰ぐなんて、プロ野球の現場にとって、悲劇にほかならない。社会がこういう態度を許してしまえば、スポーツマンシップを子供に教える立場がないではないか。

2013年6月7日金曜日

『終わらないオウム』

●上祐史浩・鈴木邦夫・徐裕行 ●鹿砦社 ●1500円+税

拭えぬ違和感

本書に登場する徐裕行は、1995年、オウム真理教最高幹部の一人だった村井秀夫を殺害した人物だ。彼は2007年に刑期を満了し出所。そしてこうして、同じくオウムの最高幹部の一人であった上祐史浩と顔を合わせ、第三者(鈴木邦男)を挟んで対峙している。いかにも奇異な組合せというほかない、というよりも、本書の広告を見たとき、強い違和感を抱いた。 というのは、徐裕行と上祐史浩という、かつての「敵同士」が面談することではない。ほかでもない、あの村井を殺(やっ)た犯人がもう出所したのか――というそれだ。殺人者が刑に服する期間が12年とはなんと短いものなのか。  

村井は徐裕行に殺されなくとも、サリン事件の主犯格として死刑判決を受けた可能性は高い。だが、村井が殺されたときには、もちろん村井は逮捕もされていなければ、有罪判決も受けていない。事件当時、村井はマスコミ報道等から推察する限り、かなり怪しく思えたが、証拠があったわけではない。いわば、村井は当時、一介の教団幹部の一人にすぎなかった。ゆえに、徐裕行の犯行が免罪される根拠はない。情状酌量の余地もない、徐裕行は第一級の殺人者だ。そういう者が12年という短期間の服役で済むものなのか――という違和感だ。法律上の人間の生命の軽さに、改めて愕然とした次第だ。殺された側はたまらない。殺された者の人生は絶対に二度と、もどることがないのだから。

もう一つの違和感は遺族への配慮についてだ。殺された村井に妻子があったのかどうかは知らない。だが、村井に限らず親は絶対にいるはずだ。徐裕行が村井の遺族にどういう態度をとったのかはわからないが、残された村井の遺族は徐裕行を無条件で許したのだろうか。村井の両親は息子を殺害した徐裕行をどう思っているのだろうか。 

このような観点に立つとき、殺人を犯した者が刑期を終えからといって、公の場で発言することへの違和感は拭えない。もしも自分の肉親が殺害されたとしたら、刑期を終えた元殺人犯の公での発言をどのような気持ちで受け止めるのかについては、想像しにくい。刑期を全うしたということは更生したことを意味する、と頭の中で了解し得たとしても、感情のレベルで納得がいかない。もちろんだからといって、殺人犯をすべて死刑に処せと言っているわけではない。更生した証として懺悔を聞きたいわけでもない。殺害された被害者とその遺族への同情のほうに感情が傾くことを避けられないだけなのだ。 

徐裕行の発言は内容的にも量的にも貧しすぎる 

その一方、徐裕行の犯行には組織的背景があったのではないか、という疑念がずっと世間を支配していた。村井殺害の犯行の過程を振り返ると、疑惑・疑念をもつことのほうが自然な部分もあった。だから、徐裕行がそのことを全部話さないまでも、なにか暗示するところはないのかどうか、本書に期待する面があった。かりに、村井殺害の“真相”の一端が明らかになれば、遺族への配慮を超え、徐裕行の本書の発言が歴史的重要性をもつとも思えたからだ。だから、違和感を振り払って本書を読んでみた。

本書において、徐裕行は犯行の組織的背景を否定し、単独犯であることを強調した。そのうえで、村井を標的にしたことも否定した。徐裕行は、村井・上祐・青山(オウム教団の顧問弁護士)のうち、(殺す対象は)だれでもよかった、と発言している。つまり、サリン事件の主犯格であり、教団のサリン関与の全貌を知る(であろうと世間が想像した)村井を狙って殺害したという疑惑を全面否定している。徐裕行は村井を殺害したのは偶発的だった、という意味の発言をしている。そして、「あの時、本当に殺そうとしたのは上祐さんだった」とも。

徐裕行の発言は、その公判記録等に当たれば明白なのだろうが、裁判ではなく、私的な発言として、事件当時の生々しい“真実”がわかるのではないか――という“ウブな期待”は裏切られた。 

本書において、世間が期待する徐裕行による“真相告白”もしくは“新しい事実”の露呈はない。というよりも、徐裕行の発言そのものの分量が少ない。この期に及んで村井殺害に関し、語るべきものはなにもない、というのが徐裕行のスタンスなのだろう。 

上祐史浩が展開する「オウム論」 

では、本書200数十ページにわたる本文にはどのような内容で占められているのかと言えば、かつてオウム教団の幹部の一人であった上祐史浩の発言ということになる。  

上祐史浩は、地下鉄サリン事件当時ロシアに滞在しており、同事件への関与なしとして、別の軽微な罪科で刑に服した後、出所後は麻原を積極的に否定し、麻原の路線を継承すると言われているアレフ教団と袂を分かった。そして現在、「光の輪」というサークルを立ち上げ宗教的活動を続けている。 

なぜ、オウムは巨大化したのか  

本書において、上祐はオウム教団がなぜ、1990年代中葉、かくもあのように活発な宗教活動、非合法活動そして無差別テロまでを展開し得たのかについて、かなり分析的な発言を繰り返している。オウムを生んだ社会状況にも切り込んでいて、オウムは日本の合わせ鏡だともいう。彼なりの日本の現代社会の病理・病巣への危惧もある。また、「陰謀説」の危険性にも警鐘を鳴らしているし、当時もいまも日本のマスコミの危険性に対する指摘も的確だ。そういう意味で上祐は、怪しげな陰謀説を振りまくメディアに出没するコメンテーターよりは良質だ。教団に深くかかわっていた者であるだけに、彼の「オウム論」に耳を傾ける価値はある。

(一)「カルト的なもの」を社会に浸透させたマスメディア 

当時、オウム真理教が台頭し始めた1990年代を振り返ると、「カルト的なもの」を容認する社会的風潮があった。それまでにも、「ノストラダムスの大予言」に代表される終末論が紹介され、終末論をテーマにしたアニメが流行り、UFO・スプーン曲げ、超能力等に人々の関心が集まっていた。当初、それらはマイナーな専門雑誌で紹介される程度だったのだが、TV等のマスメディアがエンターテインメントのひとつのコンテンツとしてそれを積極的に取り上げることにより、世代を超えて「カルト的なもの」が日本社会に浸透した。この潮流は、オウム教団の台頭の基盤となった。  

これらの現象は世界的な潮流であり、ワイマル共和国の研究者であるウルリヒ・リンゼは、カール・クリスティアン・ブライの『偽装された宗教』から引用して、次の項目を挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。  

また、マスメディアはオウム教団を興味本位に取り上げた特別番組や教団批判番組を多数、お茶の間に届けた。その結果、多くの若者がオウム教団に興味を示すと同時に、オウム信者は過剰な自己防衛感情を高ぶらせ、組織の硬化を促進させた。マスメディアが、オウムの膨張及び組織強化を助長したことに異論はなかろう。オウムはメディアが大きくした、と言って過言ではない。 

また一方、バブル経済が崩壊した当時、人々は「経済的な価値」に失望し、「精神的な価値」を求めるようにもなっていた。ここでいう「精神的価値」というのは、即席で安易な癒し(ヒーリング)効果であり、理屈を排除した非合理的・直感的神秘主義の類だ。ヨーガ、瞑想、風水身体論、似非チベット仏教、霊媒師、ニューエイジ思想、オルタナティブなエコロジー思想、日本の縄文信仰などを適当に組み合わせた新宗教(新宗教教団の具体名は省略する)が立ち上げられた。その中の一つがオウム教団だった。こうした新宗教を積極的に取り上げたのもマスメディアだった。 

なお、「カルト」について体系的に把握されたい方は、『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 (S. フォン・シュヌーアバイン 著、恒星社厚生閣)を参照されたい。

(二)バブル経済の隆盛と崩壊、そしてマルクス主義の衰退  

オウム教団を取り巻くもう一つの大状況としては、バブル経済の崩壊を挙げておく必要がある。バブル経済崩壊は、人々の価値観を大きく変えた。とりわけ、日本社会において長らく厚い信任をおかれた大手銀行の企業としての、あるいはそこに従事する者の、数々のモラルハザードの発覚は、人々の社会観を変容させるに十分だった。不良債権処理問題、闇社会との癒着、公的資金導入は、とりわけ若者の純粋な正義感を刺激した。

なかで特筆すべきは、マルクス主義の衰亡ではないか。1970年代までの日本社会においては、若者の正義感の発露と反体制意識の受け皿は左翼思想が受け持っていた。とりわけ知的大衆(学生)が社会の諸矛盾に鋭く反応する場合、彼らの急進的思想と行動主義を吸収したのはマルクス主義組織であった。多くの学生が一時(いっとき)、おのが人生を「共産主義革命」に賭けようとした。「世直し」のために。  

しかし、1990年代になると、日本の左翼陣営はほぼ組織的に壊滅していた。学生を中心とした若者が、バブル崩壊の衝撃とそれに付随して生起したモラルハザードに対して純粋に怒りを感じたとしても、マルクス主義政治組織は機能し得なかった。その結果として、オウム真理教がマルクス主義に代わって、彼らの怒りの受け皿となった。マルクス主義もオウム真理教も「千年王国」を標榜する点で差異はない。両者はともに「革命」を志向する点で共通する。それゆえ、その台頭と暴力主義的運動論及び運動実態、それを支える厳格かつ禁欲的組織形態とその運営実態、さらには、官憲の追及に窮して行った内部粛清から崩壊に至る過程は、「連合赤軍」と共通する部分も多い。  

そんな中、マルクス主義に代わるモダニズム、すなわち、ニューアカデミズムの旗手の一人として登場したのが中沢新一だった。中沢は、いまや「反原発」の理論的指導者の一人として多くの支持者をあつめているが、当時はオウム教団の理解者であり、彼がチベット密教を体験修業してまとめた『虹の階梯』はオウム教団のポアの思想と同質のものであった。いま現在、中沢は、当時、自分がオウム支持者であったことについて一切ふれようとしない。このような中沢の姿勢に対する思想的攻撃は宗教学者・大田俊寛が繰り返し行っているところなので、その内容に興味がある方は、『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)等の著作を当たることをお奨めする。  

さて、オウムを取り上げた代表的TV番組の1つとして、本書司会役の鈴木邦男は、1991年に放映された『朝まで生テレビ!』について、次のように話している。
鈴木 ・・・『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でやった「激論 宗教と若者」(91年)でのオウムと幸福の科学との対決とかもすごかったですね。あれでオウムはすばらしいと思った人たちもいたし、ぼくもそれを見てオウムは本物だと思いました。そのオウムに熱狂していく過程を知らずに今の結果だけを見れば、なんであんなバカらしいものにかぶれるのだろうと思うだけですよね。(P102)
鈴木のこの発言は、テレビがものごとの本質を伝えにくい媒体であることの恐ろしさをついているという意味で貴重だ。“本物”という意味は、本気で殺人・無差別テロをするまでの覚悟があるように見えた、という意味ならば、鈴木の慧眼に恐れ入るのだが、鈴木はTV討論番組に出演した麻原をはじめとするオウム教団の幹部の正体をつかめなかった。そのことを鈴木は、もっと率直に反省・懺悔すべきなのだ。おそらく、鈴木を含めて、多くの視聴者は、オウムを宗教団体として“本物”だと感じたのだ、テレビを通じて。幸福の科学は、金儲けの似非宗教だが、オウムは違う、宗教団体としてしっかりしていると。この感覚がオウムを膨張させた主因の一つではないのか。

オウムをオウムたらしめたもの

以上指摘してきた事項は、大きな社会状況である。こうした社会背景の下、数多くの新宗教、神秘主義的集団が日本社会に群生した。これらの事項は、新宗教等が群生する根拠にはなるが、だからといって、それらのすべてがオウム教団のような暴力主義、革命主義、テロリズムに走ったわけではない。オウムがオウムになった個別的要因はなんだったのか。

(一)麻原の父権的カリスマ性
上祐 気という霊的なエネルギーというのがあって、それを感じ取って操ったりする、つまり相手のエネルギーを感じたり、相手に自分のエネルギーを入れるという力は、麻原にかぎらず、多くの人が経験しています。そういった力は、麻原には、かなりあったなと思います。(P116)
上祐 われわれの麻原への狂信の下、麻原からの誘導があるんです。麻原が親族をやれと言う場合があったとすれば、その親族がかなり教団を攻撃していて、このままではその親族は将来地獄に落ちてしまうから、お前は親族を救うために形としての親族を殺せ、親族の魂を救ってやるために殺せと言うでしょうね。親族への愛を使って殺すように仕向けるのです。(P117)  
鈴木 上祐さんは麻原に父親を見たと言ってましたよね。
上祐 オウムに入る人には、親との関係が悪い者が少なくなく、麻原に理想の父親像を見たというのは私以外にも多分にあると思います。(P119)

上祐 私は、麻原は真実を自覚したら生きていけないから、サリン事件をやったと考えています。サリン事件に合理的な利益はないのに、それをやった理由は、そうしなければ、彼が信じ込んだ、自分は弾圧と戦って勝利する救世主であるという虚構のアイデンティティが崩れるからだと思います。その虚構の維持は、彼をコンプレックスの強い不遇な一人の男から、彼を救世主と信じる教団の教祖にした根源ですから、彼にとって命よりも大切なことであり、それを守るためには、社会と妥協しないでしょう。(P124)

上祐 私は、教祖型の精神病理というのがあると思います。教祖型の人格障害、超自己愛型の人格障害・・・人格障害とは、社会生活が送れない精神病とはちがって、非常に高い能力やカリスマ性を持つ場合があるとされています。けれど、一方で狂気も持っているわけです。わかりやすく言えば、ヒトラーですよね。ですから、カリスマ型人格障害という心理学的な理論が必要ではないでしょうか。研究が足りないと、社会に免疫も生まれませんしね。(P125)
カリスマ的宗教実践者については、「精神病質者」と規定する見方もある。詳しくは、『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』(ウルリヒ・リンゼ[著]、ミネルヴァ書房)を参照されたい。

(二)麻原の世界観
上祐 ・・・麻原の世界観の本質はなんだったのかと考えた結果、これは過去の日本の暗部の亡霊ではないかと感じました。自分たちの教団を神の集団とし、そのトップを生き神とし、米国を悪魔と位置づけ、日米決戦に勝って正しい世界ができるといった予言など。そういう誇大妄想に加え、被害妄想や陰謀説も組み込んでいった。それが国家規模で起こるのがナショナリズムなんでしょうね。自己存在価値に飢えているから、自分たちは正しくて相手が悪いと思いたい。(P168)

鈴木 麻原彰晃という人が内乱を起こそうとした。そこまではまだわかるんです。ところが、このままだと自滅すると思った時に、麻原一人が自決するとか、あるいは南米の人民寺院事件のように集団自殺するというのは悲惨な結果だけれども、まだ理解できるんですよ。ところがそれが、なぜ外に暴力が向いてサリンをまいてしまったのか?
(略)
上祐 それは自分たちは神の集団だから勝てるはずだ、それをやらないといけないんだという麻原の思考が根底にあるんです・・・麻原は神から戦う救世主だという予言を、啓示を受けていた、と思い込んでいた。彼は自分の存在価値が戦うことにあったのだから、立ち止まって考え直すことなくやり続けるということなんです。
鈴木 でも、殉教の宗教者だと思い込んでいたわけでしょう?
上祐 殉教というか、彼には戦う救世主というイメージ・アイデンティティがあって、それをどうしても手放せなかったのではないかと思うんです。(P156~157) 

オウム問題の現代社会における意義

(一)オウム問題の根源

オウム問題の根源について、上祐史浩は次のように本書終章でまとめている。
オウムの危険な要素の中で、今や社会全体に感染していると思われるものは、陰謀説の流行や、右傾化、排外主義だけではない。スピリチャアルブームの一部も同様である。そのすべてが悪いわけではないが、中には妄想的な性質のものもあるように見える。
問題は、これらの傾向の背景に、同一の根本原因があると思われることだ。それは、現実的に健全に自尊心・自己価値の充足ができないために、一種の妄想を抱き、その中で自尊心を満たすことだ。そこで、自分たちこそが正しく、他は悪であるという善悪二元論が出てくる。(P234)
(オウムの問題の根源は)暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題であり、誇大妄想的な自己特別視、被害妄想的な排外主義の問題である。さらに、その背景には、現代社会に広がった、未熟な妄想的な自己愛、間違った自尊心の充足という問題である。それによって、世界を善と悪に二分化し、自分こそが善だと思い込む未熟な精神の問題だと思う。(P241)
(二)宗教とはなにか

上祐のオウム問題の根源についての発言は間違っていない。しかし、オウム問題の根源は、暴力主義を肯定するタイプの運動や活動、学生運動、右翼運動、国家による戦争などに共通する問題というよりも、宗教がもつ根源の問題だと言いなおした方がいい。彼は宗教の本質がわかっている。以下、鈴木とのやりとりを書き抜いておこう。
鈴木 カルヴァンは宗教改革を行った正義の人なんです。そして、自分に厳しいだけじゃなく他人にも厳しい。だから、スイスで権力を握ると、神についてこれない人、自分についてこれない人を徹底的に弾圧するんです。また、ルターも宗教改革をやって、100%正義の人ですけれども、その後、ドイツ農民戦争なんかを徹底的に批判して、自分についてこれない人を殺してもいい、そういう反乱を鎮圧することが神の意志だとする。そういう意味で、カルヴァンもルターも正義の人なんだけれども、妥協しない怖さというものがありますよね。
(略)
上祐 ルター、カルヴァンと麻原の共通性は、自分こそが善で、他は悪だという考え方ですね。一方、両者のちがいは、現実への対応能力だと思うんです。麻原は、小規模な一教団で革命を起こすという妄想に陥って自滅した。ルターやカルヴァンは現実に相当の支持者を得て、宗教戦争を戦い抜く力を持ち、自滅することはなかった。(P151)
このやりとりは、見事にすれちがっている。鈴木は宗教が天国を地上化する運動である以上、内部に粛清を、外部に弾圧を伴うものであると言いたかったのに対し、それを受けた上祐は、宗教家が独善的だというふうに論旨をそらし、しかも、「現実への対応能力」という世界史的な成功と失敗という結果にちがいを求めてごまかした。上祐の論点のすり替えは巧みだ。

オウムに限らず、宗教というものが地上に天国を建設する運動である限り、その本質として、現実社会の基本的な仕組みに対して軋轢を生じせしめ、現実のシステムに対し、非妥協的姿勢を取らざるを得なくなるものだ、ということを了解しあってくれれば、上祐に対する信用は高まった。さらに言えば、世界史的成功とされる宗教運動の裏側には、無数の殉教と迫害――弾圧され消滅した教団とその信者の命が――あったのではなかろうか。宗教指導者のちがいとは現実への対応能力の結果ではなく、民衆がその宗派に注いだ宗教的情熱と現実のエネルギーがどれだけの力量で融合したかのちがいだけだと思われる。

上祐が現在行っている光の輪の活動は、西洋の学者が釈迦の教えを「これは宗教じゃない。これは自己訓練の哲学だ」と評したことを援用し、宗教というよりも「宗教的な知恵の学習・実践センター」のイメージだと力説している。しかし、地上に天国を築くことを諦めれば、そこに宗教的求心力は生じない。上祐の目指す光の輪がこれからも持続的に知恵の実践センターであり続けるのかどうか。光の輪については、もう少し時間をかけて注視する必要がある。

(文中敬称略)

2013年6月5日水曜日

サッカー日本代表に構造改革必要

サッカー日本代表は4日、オーストラリアとホームで引き分け、W杯ブラジル大会出場を決めた。ザッケローニは、代表監督として、最低限のミッションを果たした。

試合内容は、全体として日本やや優位で試合を進めたものの、後半36分、相手クロスがゴールインという不運な失点でオーストラリアに先行された。しかし、タイムアップ直前、相手選手のハンドの反則でペナルティーキックを得、本田が落ち着いて決めドローとした。日本は1998年フランス大会以降、自国開催の2002年日韓大会を含め、5大会連続のW杯出場を果たした。

日本はW杯アジア予選B組において1試合を残しているが、日本のW杯出場決定により、少なくともアジアでベスト4に入ることを証明した。A組では韓国、ウズベキスタン、イランがしのぎを削っていて、3チームのうちどこが勝ち残るか予断は許されない状況だ。一方、B組の残り1枠は、勝ち点2差で2位オマーン(18日・アウエーでヨルダン戦)、3位オーストラリア(11日・ヨルダン戦、18日・イラク戦いずれもホーム)の争いになっている。残り2試合をホームで戦うオーストラリアが優位にあることは間違いなさそう。オマーンがアウエーのヨルダン戦に勝って勝ち点3を積み上げても、最終の勝ち点は12までしか伸ばせない一方、オーストラリアは2勝すれば勝ち点を最終13まで伸ばすことができる。

日本はアジアの4強にすぎない。課題は多い。第一に、オーストラリアとは2試合戦って2試合ともドロー、つまり勝っていない。当コラムで何度も書いていることだけれど、オーストラリアはドイツ大会の代表選手がいまだ主力を構成する、ロートルチーム。若手育成に失敗していて、どの試合も後半、運動量がガクッと落ちる。それでも、日本は勝てない。パワーで劣る相手に、日本は勝ちきれない。オーストラリア戦の前の親善試合に0-2で負けたブルガリア戦からもその傾向は明らかだ。ブルガリアはW杯欧州予選では2位を確保できない欧州の中堅クラス。このクラスとアウエーで五分に渉りあえるくらいでないと、W杯ベスト8の常連国にはなれない。

課題の第二は、アウエーにおける試合の進め方がうまくないことだ。アウエーではオーストラリアと引き分け、オマーンに勝ち、ヨルダンに負けた。格下のヨルダンに競り負けるようでは、この先、アジアでベスト4の地位を確保できるとは限らなくなる。日本には、ここ一番のアウエー戦に負けないような自力はついていない。

課題の第三は攻撃力の弱さだ。パスサッカーが日本の進む道だとは思うが、ゴール前で相手を完全に崩し、GKと1対1をつくって決めるというイメージが強すぎるのではないか。世界レベルのサッカーでは、とにかくまず、“シュートありき”ではないか。強いストライカーの不在が日本の最大の弱点の1つだ。

課題の第四は、とにかく“本田頼み”の日本代表だということ。課題の四にしたけれど、第一番目かもしれない。精神的にもボールキープという面でも、本田不在の日本代表はあらゆる面での「弱さ」が目立つ。

ザッケローニは、W杯予選の全過程を通じて、固い選手起用をしてきた。それが、予選突破という最低限の目標達成の最善手だったことを否定しない。結果が示す通り、ほかに打つべき手はないかのように思える。グローバルに選手が分散する今日のサッカー状況においては、代表チーム強化の手法としては、これしかないのかもしれない。しかし、日本代表が海外から呼ばれて試合ができるようになれば、いろいろな選手を起用できるのかもしれない。キリン(カップ)に縛られた国内親善試合を消化するだけでは、代表選手の発掘も実戦において果たされないのではないか。日本代表のあり方、進め方を構造改革する時期に来ている。

2013年6月2日日曜日

6月の猫(Zazie, Nico)

Zazie

Nico

6月になってしまった。

恒例の猫の体重測定記録を残しておこう。

まず、Zazieが3.6㎏で先月の3.6㎏と変わっていない。

NIcoは5.9㎏で、先月の5.8㎏から0.1㎏の増加。

手術後に体重を増やしてきたZazieだが、ここにきて安定してきたようだ。