2014年が半分すぎた。
国内はあわただしい。
集団的自衛権容認を閣議決定するファシズム安倍政権。
憲法も議会も民意も無視するこの男、
日本をどうしたいというのだ。
こういう状況になってくると、やはり、党の必要性を思い知らされる。
最後は権力闘争、権力奪取の手段を問わず、党がなければ先には進まない。
<自立>、マルティチュード、サバルタン・・・
と言っても、反ファシズム運動には、党の存在が不可欠のように思える。
マスメディアの報道姿勢も不可解。
完全に安倍政権にコントロールされている。
どんな取引をしたのだろうか。
さて、7月の猫の体重測定記録。
Zazieが4.3キロ(前月比-200g)、Nicoが5.9キロ(同-200g)。
二匹とも200g減ったか。
2014年6月27日金曜日
サッカー日本代表をめぐる危機的言語空間
サッカーW杯ブラジル大会グループリーグ(GL)が終了した。日本は1分け2敗の勝ち点1で、C組の最下位に沈んだ。十分予測されたこととは言え、残念な結果である。勝負に勝ち負けはつきものだから、負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手、関係者の今後の一層の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。
「自分たちのサッカー」という超主観主義
「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。
ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。
選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。
この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。
戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの
「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。
オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。
逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。
サッカーはフィギュアスポーツとは異なる
「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。
また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。
フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。
現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間
結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。
本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。
本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。
親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手
日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。
とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。
日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。
そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。
大手代理店主導の「代表バブル」の終焉
日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。
日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。
「自分たちのサッカー」という超主観主義
「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。
ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。
選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。
この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。
戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの
「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。
オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。
逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。
サッカーはフィギュアスポーツとは異なる
「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。
また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。
フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。
現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間
結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。
本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。
本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。
親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手
日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。
とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。
日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。
そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。
大手代理店主導の「代表バブル」の終焉
日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。
日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。
2014年6月24日火曜日
2014年6月22日日曜日
閉幕しない小保方劇場――小保方が現場復帰?
「STAP細胞」問題で小保方が論文の取下げを表明。あとは理研の処分発表を待つばかりと思われたが、ここにきて問題はより複雑化してきているようだ。
状況証拠は固まった?
いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。
6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。
6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。
さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。
厳正処分といいながら検証実験参加とは?
ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。
TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。
それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。
小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か
それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。
下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。
はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。
理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。
状況証拠は固まった?
いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。
6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。
6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。
さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。
厳正処分といいながら検証実験参加とは?
ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。
TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。
それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。
小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か
それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。
下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。
はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。
理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。
2014年6月13日金曜日
西村主審の笛がブラジル国家を救ったかもしれない--サッカーW杯開幕
サッカーW杯ブラジル大会が始まった。開幕試合は主催国ブラジルとクロアチア。ネイマールの活躍でブラジルが3-1で勝った。
W杯は「代理戦争」ではない
サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。
ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。
ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。
このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。
サッカーがいちばんうまい国はどこか
サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。
西村主審の笛がブラジル国内を安定化?
冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。
ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。
この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。
しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。
ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策
もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。
W杯は「代理戦争」ではない
サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。
ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。
ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。
このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。
サッカーがいちばんうまい国はどこか
サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。
西村主審の笛がブラジル国内を安定化?
冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。
ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。
この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。
しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。
ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策
もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。
2014年6月10日火曜日
2014年6月6日金曜日
小保方劇場いよいよ終幕か――明かされた小保方マジック(錬金術)
いろいろと話題を提供してきた、理化学研究所と小保方晴子による「STAP細胞」騒動もいよいよ終幕に近づいたい。「STAP細胞は、ありま~す」と絶叫した小保方晴子もついにギブアップ。論文取下げに同意した。
小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)
小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。
(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。
(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。
遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。
さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。
「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?
それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。
筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。
笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。
つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。
笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。
「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。
平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊
それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。
恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。
筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。
そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。
小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)
小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。
(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。
(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。
遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。
さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。
「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?
それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。
筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。
笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。
つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。
笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。
「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。
平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊
それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。
恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。
筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。
そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。
2014年6月1日日曜日
2014年5月28日水曜日
AKB48の握手会は「フーゾク」的
人気アイドルグループのAKB48が握手会というイベントに出演中、メンバー2人がノコギリで暴漢に襲われる事件が起きた。無防備の女性を刃物で襲撃するという卑劣な犯行で、許しがたい。犯人は被害者に謝罪し、深く反省し、刑に服してほしい。
握手会は「フーゾク」的営業
さて、事件は事件として、握手会というイベントから、AKB48が抱える2つの問題点が見えてくる。まずは、その仕掛けだ。筆者はファンと握手会をつなぐ仕掛の内容を報道で知って、驚きを禁じ得なかった。
TV報道によると、AKB48の全国握手会の場合、シングルCD初回盤(限定版)に封入されている、「イベント参加券」を使うらしい。全国のいくつかの場所で行われており、“メンバーとファンの直接的交流の場であって、とても大事なもの”と、その位置づけが説明されている。確かにそのとおり。ファンがアイドルである若い女性メンバーと握手し、言葉を交わすことができるとは、まさにかけがえのない場であろう。なぜならば、日常生活において、たとえば年頃の男子高校生が、通学途中の電車でいつも会う可愛い女子高生に思いを寄せたとしよう。その男子高校生がいきなり、女子高校生に握手を求めたとすれば、それは犯罪に近い。痴漢行為に間違えられて不思議はない。
一方、AKB48の握手会の場合、ファンはTV映像や遠いステージでしか認識できないメンバーが、実際に自分の目の前に現れ、握手できる。これは、ファンにとって、貴重な体験だろう。ファンという立場ゆえに許される、特権的行為にほかならない。
だが、この特権的行為は、先述のとおり、握手券(=「イベント参加券」)の入手によって可能になる。報道によると、握手券1枚でメンバーと握手できる時間は概ね3秒。握手会の会場では、ファンは受付で握手券(の枚数)を差し出し、そこでメンバーとの握手時間が確認される。前出のとおり1枚なら概ね3秒、それを超えて手を握っていると、「はがしや」と呼ばれる警備員がやってきて、制限時間を超えて握手するファンを排除するらしい。
長時間握手したいファンは当然、AKB48のCDを大量に買い込むことになる。CD1枚で3秒ならば、1分間メンバーの手を握りたければCD20枚を購入する計算だ。AKB48のCDの値段はよくわからないが、かりに1000円だとすると総額2万円、つまり、1分間の握手の値段は概ね2万円ということになる。
この仕組みは「フーゾク」とかわらない。しかもかなり“法外”な価格設定だ。「フーゾク」の頂点であるソ●プ●ラ●ドの場合、おそらく60分であのサービスを受けて、1万5千円が相場だろう。とはいえ、「フーゾク」の業界における価格は、各人の欲望の対象にみあって設定されるものだから、「相場」「平均」は無意味という考え方もある。各人の嗜好に沿った価格が設定されるわけだから、AKB48の熱烈なファンにとって、メンバーとの握手3秒で1000円、1分ならば2万円は当然、高いとはいえないという論理だ。
だがそれでも筆者には、AKB48の握手会商法は悪質だと思える。その理由は、AKB48のプロモート側が、“握手会はファンとの直接的交流の場”という嘘にある。筆者の感覚からは、握手会はCDを買わせるための「フーゾク」的営業活動にうつる。もちろん、ファンはそんなことは承知のうえで、ファン各人の欲望充足のために敢えて仕掛にノッテいるのだから、他人がとやかくいうべきではない。AKB48のメンバーとの握手のために自分の全財産をつぎこんだとしても、それはけっこうなことであって、とめることはできない。だが、その仕掛が「フーゾク」的営業であるならば、それなりのリスクは覚悟しなければならない。「フーゾク」の業界というのは、欲望の中でも過激な性衝動を対象としたものだからだ。
しかも、看過できないのは、メスメディアがAKB48握手会を“ファンとの貴重な交流の場”と、AKB48のプロモート側の嘘を無批判的に報道する愚かさだ。AKB48をプロモートする側が握手会をそのように位置づけようとも、メディアはそれを真に受けて報道することはいかがなものか。握手会がAKB48のメンバーの肉体的接触を媒介としたCDの販売促進だとなぜ、いわないのか。もちろん、マスメディアに限らず、AKB48のCD販促が違法だとはいえないし、ファンに参加するなともいえない。だが、握手会商法は、AKB48のメンバーの人格をひどく損ねているように、筆者には思えるし、この事件をまつまでもなく、彼女たちをひどく危険にさらしているように思える。この危険性については次に述べる。
スターとファンが近づくことの危険性
二番目の問題点は、スターとファンとの距離に関する。このたびの事件は、いまのところ(5月28日時点)の報道では、AKB48の特定のメンバーを狙ったものではないとされている。だが、真相はわかっていない。たとえ、今回の事件が無差別的暴力事件の類型だったとしても、だからといって、握手会が容認されるわけではない。
なぜならば、ファンがスターに近づきすぎると、そこには思わぬ危険を招くからだ。今回の事件を機に、AKB48のプロモート側がファンとの交流イベントの開催を中止したことは幸いだ。AKB48にあっては、今後一切、握手会等の交流イベントをやめることが望ましい。若い女性を不特定多数と接触させないファンとの交流の方法は、いくらでもある。
一般に、スターとファンの間には、絶対に越せない溝を設けるべきだ。スターとはファンにとっては幻想的存在であり、それゆえ、スターをプロモートする側は、ファンをむやみに近づけてはいけない。ファンがスターに抱く感情は、無垢なものばかりとは限らない。スターへの偏愛が屈折した、危険な傾向をもってしまうことを否定できない。勘違い、思い違い・・・から、特異な感情が醸成され、爆発することもある。
それがどのような結果を招くかについては、映画『ザ・ファン』(ロバート・デニーロ主演)が描き出している。ファンがスターに近づきすぎると、思わぬ悲劇(犯罪)を引き起こす可能性が十分すぎるほどあり得る。
2014年5月24日土曜日
2014年5月23日金曜日
2014年5月18日日曜日
鎌倉市海水浴場命名権事業の愚行――名称変更しなかった豊島屋は素晴らしい
鎌倉市(松尾崇市長)は新たな財源確保を目的として、同市が保有する公有財産、物品、印刷物、WEB ページ等に民間事業者等の広告を掲載する事業を開始した。このたびその一環として、同市にある3か所の海水浴場のネーミングライツ(命名権)を公募し、命名権者と名称が決定した。
愚かな話である。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。海水浴場の名前といっても、それは地名である。地名は大地に刻まれた刺青ともいわれるくらい、歴史学、民俗学にとって重要な指標である。地名を失えば、その地域の成り立ち、堆積された記憶、人々の所縁を失う。柳田国男、谷川健一ら知の巨人たちが、地名の重要性を訴え続けてきた。そのことを知らない鎌倉の市長以下同市公務員たちは、“財源確保”という錦の御旗の下、いくばくかのはした金のために、地名という重要な財産を売り払おうとした。許されない暴挙である。
同市のHPによると、この事業は鎌倉行革市民会議が中心になって立案したらしい。同委員会の構成は、北大路信郷(明治大学専門職大学院ガバナンス研究科教授=専門委員)を会長として、以下、副会長に田渕雪子(行政経営コンサルタント=同)、坂野達郎(東京工業大学大学院社会工学専攻准教授=同)、友田景 (ビズデザイン株式会社取締役=同)、一ノ瀬美和子(市民委員)、稲垣康明(市民委員)、倉岡明子(市民委員)となっている。[*敬称略]
おそらくこの委員の面々には、柳田や谷川らが提唱してきた地名の重要性の言葉は届いていない。この面々には、歴史・民俗のもつ価値・重要性が理解されていない。それらを探る手がかりの一つ(=地名)を一度失ってしまえば、この先、とりもどすことの困難さもわかっていない。いまの鎌倉市長以下、同市の行政に携わる公務員に、日本のみならず世界的に貴重な歴史都市・鎌倉を任せられるのか、おおいに疑問が残る。
だが、“不幸中の幸い”が起こった。鎌倉市海水浴場のネーミングライツを獲得した株式会社豊島屋(久保田陽彦社長)が、3か所(「材木座海水浴場」「由比ガ浜海水浴場」「腰越海水浴場」)の名称を変更しなかったのだ。豊島屋の決断は素晴らしい。称賛されるべき快挙である。豊島屋の社長の英断に比し、同市が行った事業の姑息さがいかにも対照的である。賢明な民間事業者の手によって、行政の暴挙・愚挙が阻まれた。
それにしても理解できないのが、鎌倉市の暴挙・愚挙に対し、マスメディアが何の反応も示さなかったことである。地名に対する無理解がそうさせたのか。同市が掲げる“財源確保”という建前に沈黙したのか。財源確保は重要なことだけれど、かけがいのない財産を勝手に処分してもらっては困るのである。
2014年5月13日火曜日
『黒潮の道(「海と列島文化」第7巻)』
●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6311円(+税)
本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。
縄文時代は黒曜石の生産地
黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11
本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。
同地域には、源氏・北条氏が当地の水軍の協力を得て、武士政権を樹立した鎌倉が含まれるが、本書では政治史に係る記述は少なく、前出の各地域における黒潮との関わり――主な産業である漁業と漁撈儀礼、地域文化及び地域民俗信仰等――を採集し、その意味を問うものとなっている。
縄文時代は黒曜石の生産地
同地域が日本史において最初に特記される事項は、黒曜石をめぐる交易だ。黒曜石とは火山活動によって形成された黒色のガラス質火山岩のこと。先時時代、縄文時代を通じて、主としてナイフ型石器や石槍、石鏃などの石器の素材(石材)として利用された。日本列島における黒曜石の原産地は40か所ほどといわれるが、うち、伊豆七島の神津島の砂糠崎・恩馳島が本書「黒潮の道」に位置している。神津島の黒曜石は200㎞以上の遠隔地に運搬されていることがわかっている。このことは、先史時代の交易空間の広大さを実証する。近年、縄文時代遺跡の発見事例の増加に伴い、神津島産黒曜石が発見される頻度が高くなり、関東にとどまらず、石川県まで神津島産黒曜石が運ばれていることが判明している。神津島産黒曜石は、古代文化形成に伊豆諸島がはたした役割の代表的事例の一つといえる。
流人の地
中近世になると、伊豆諸島は流罪に処せられた罪人等が流入することとなり、同地域が独特の文化を醸成する契機となった。ちなみに、伊豆諸島がわが国の記録に初めて現れるのは、文武天皇3年(699)、讒言によって妖惑の罪を受けた役小角が伊豆諸島へ流刑されたという『続日本記』の記事だという。また、三宅島の島名の由来となった多治比真人三宅麻呂が養老6年(722)、伊豆島に遠流の刑に処せられている。最も名高いと思われる流人は鎮西八郎源為朝だろうか。彼は平安末期、保元の乱(保元元年/1156)で敗れ伊豆大島に流され、『吾妻鏡』によれば、この地で工藤介茂光に攻め滅ぼされている。だが、後世、この不世出の英雄を死なすにはしのびないとする島民たちによって、為朝は伊豆諸島各島を平定し、やがては琉球王にまで仕立てられている。現在でも、伊豆諸島各島にかならず為朝神社とその伝説がある。
漁撈と民俗
この地域の民俗の特性としては黒潮がもたらす水産資源に関連した漁撈儀礼がまず挙げられる。今年(2014年5月半ば)は、黒潮がもたらす海の幸の代表、鰹(カツオ)の水揚げが悪いという。今日、その原因の探索については、海洋学、気象学等が駆使されるが、近代以前の人びとにとっては、カツオが漁場から遠ざかったのは、超越的存在(神)の意志によるものと理解された。超越的な存在への畏怖、畏敬、感謝が黒潮の民俗宗教となって今日に至っている。具体的には、豊漁祈願や海難事故を忌避するための信仰・神事、漁船の正月乗初め、模擬漁撈とその芝居化等だ。また、水死体(ムエン)を漁の神、エベスサンとして祀る習俗(ムエン供養)もある。もっとも、水死体を祀る習俗は日本列島共通の観念であり、この地に限ったことではないが。
物忌みの神事
伊豆諸島神津島には、旧暦1月24日から26日にかけて、ニジュウゴニチサマと呼ぶ行事がある。一般の村人にとっては、ふつうの歳時習俗と同じく、家ごとの行事だ。これを仕舞正月という。24日と25日の夜は、「二十五日さま」というおそろしい神が村の中をめぐるといって、村人たちは家の中にこもる。村人たちは前日までに供え物をつくったりして神をむかえる準備をし、24日は仕事を休みその日の夕方から忌みごもりに入る。一方、村の氏神の物忌奈命神社の神主と、4人の祝は神事を行う。このような神事は大島、利島、新島、三宅島、御蔵島にもある。来訪神の信仰だ。
神津島、三宅島では、「忌の日」に、神々が島の山に集まるという。来訪神は大島ではヒイサマ(日忌さま)、利島ではカンナンボウシ(海南法師)、新島では海南法師が釜をかぶってくるという。御蔵島では24日の夜訪れる神をキノヒノミョウジン(忌の日の明神)と呼ぶ。三宅島神着では25日をキノヒ(忌の日)と呼ぶ。
ところで、超メガ都市・東京の近場で手軽なリゾート地として名高い熱海には、大楠の神木と梅の存在で多数の観光客を集める来宮神社がある。来宮(キノミヤ)の「キ」が「忌」であるとすると、これは漢語だ。前出の島々でいわれている「キ」の呼称も「忌」であるとすると、島にも熱海にも、中国的な陰陽道の知識があったことになる。もっとも忌の宮は、伊豆半島を中心に周辺地域にも多く分布していて、熱海の来宮はその一つで、古く走湯山権現(伊豆山神社)に「来宮明神」があったことが『走湯山縁起』巻二にみえている。肉、酒を忌む縁起が伝えられているが、これは仏教の影響だろう。
「キノミヤ」にまつわる肉や酒を忌む縁起は、列島各地において広く人々が実践していた、ものを忌む行為が、後年、仏教、神道によって教理化され、忌の宮(キノミヤ)信仰となって今日に至ったものと推定される。
11月23日は、大師講などとも呼ばれ、神来訪の伝えが広くみられる日である。朝廷などの新嘗祭や、その根底にある冬至祭にも相当する、一年のうちでも、最もたいせつな折目ではなかったかといわれている。その日が忌の宮精進の日であることは、きわめて興味深い。伊豆半島などの忌の宮で、禁を犯すと火難にあうというのも、火伏せの信仰の裏と表である。伊豆半島の忌の日が1月24日であったのも、愛宕信仰の縁日が24日であったことと無関係ではあるまい。「忌の日」が、11月の下弦の行事からひと続きであった可能性は、この点からも出てくる。
日本の旧暦は、立春を1月の指標にする中国歴であるが、中国でもかつては、冬至を新年の指標にする歴法が行われていた。ヨーロッパの暦がずっとそうであるように、北半球の温帯域の文明では、太陽がいちばん衰えて再生する冬至が、新年に最もふさわしい日であった。日本でも、朝廷の大嘗の日、後世の新嘗祭が、本来の新年儀礼であったと思われる。新嘗は、新たに獲れた穀物の祝いで、新嘗を神に捧げ、人々とともにいただく収穫儀礼であるが、それが冬至祭のかたちをとり、一年の切れ目になっていたらしい。(P376)
地方の新嘗については、伊豆半島のほか、下総、南武蔵、三浦半島南端、新潟県北蒲原郡、琉球諸島、奄美群島等にも散見される。なかで北蒲原郡では1月24日の夜におそろしい神霊が訪れる「オッカナノバンゲ」という忌みごもりの習俗がある。この夜、蓑笠を着て屋根の上にあがると、化け物の姿が見えるとか、逆さになって見ると、一年のうちに死ぬ者がわかるとか伝えられている。これを岡見(物見という地方もある)という。岡見、物見に併せて、吉兆占いをするところが多い。この習俗は、神津島、三宅島、琉球諸島、奄美群島にある。
ドイツなどのゲルマン諸族では、12月25日のクリスマスから1月6日の三人の博士の日までの12日間の夜を、「十二の夜々」と呼ぶ。キリスト教ではクリスマスの行事になっているが、古代ゲルマンの冬至祭を基盤にした新年であった。このとき、この世とあの世の往来ができるといい、死者や神の出現を表す行事があり、自分の将来をはっきり目で見ることができるといって、占いや予言をしたという。これは「忌の日」の伝えにきわめて近い。ゲルマン諸族でも、岡見は新年儀礼だったのである。(P381)
黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11
2011年3月11日、この地域は東日本大震災・大津波・福島原発事故という未曽有の大惨事に見舞われた。この地は黒潮(暖流)の北限にあたり、親潮(寒流)とぶつかりあう。そのため、自然界の諸領域において混合的特徴が見られる。たとえば、漁業資源においては、カツオ、マグロといった黒潮の幸と、サケ、マス、タラといった親潮の幸の両方が捕獲され、漁撈文化の多様性をかもしだす。さらに南北の宗教、婚姻形態、「蝦夷征討」の痕跡とアイヌ語地名の現存といった具合に、南と北が併存する。
当然のことながら、漁撈信仰、海や魚にまつわる伝承も多種多彩であった。ところが、3.11の影響で沿岸集落の多くが壊滅的被害を被った。物理的被害もさることながら、この地に伝えられていた民俗・文化の被害についてはいま、どのような状況にあるのだろうか。被災地の人口流出も止められないという。この先、われわれ日本は、黒潮の道の北限の文化をまもることが、できた、あるいは、できる――のであろうか。
2014年5月11日日曜日
2014年5月9日金曜日
小保方劇場、舞台は劇場から法廷か――理研調査委、再調査不要の判断
STAP細胞の論文問題で理化学研究所の調査委員会が8日、記者会見し、小保方晴子研究ユニットリーダー(30)の不服申し立てに対し、「データの加工で、結果が真正でないものとなった。改竄(かいざん)と捏造という不正は明らか」と、再調査を不要とした判断の理由を説明した。理研は同日、懲戒委員会を設置した。小保方氏や理研発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の笹井芳樹副センター長らの処分を決めるほか、所属長らの管理責任も問う。
調査委は、弁護士の渡部惇委員長らが会見。STAP細胞が存在するかどうかの検証実験に関連して、渡部氏は「STAP細胞の有無と関わりなく、研究に不正が認められた。科学的問題とは切り離して考えた」と説明した。
理研の規定によると、研究不正が認定された場合は諭旨退職か懲戒解雇の処分が原則だが、場合によってはそれより軽い処分もあり得る。(産経ニュース/2014.5.8 19:34)
理研調査委の判断は当然
理研の同委員会の判断は当然のもの、小保方が論文不正を行ったのは明らか、小保方側が調査委の調査結果を覆すだけの証拠を示せなかった――筆者はそんな印象を受けた。理研はこれを受けて、粛々と規定に従い、小保方及び関係者に処分をくだしてほしい。小保方側が法廷闘争にもちこむのならそれもよかろう。法廷で新しい事実が出てくる楽しみがある。
筆者は会見をLIVEで見ていないので正確に把握できてはいないが、質疑応答では、マスメディア側が知りたいことと、理研調査委員会側の話したいこととは、かなりの開きがあったのではなかろうか。双方の問題意識のすれちがいはおそらく深刻で、むだな時間ばかりが浪費されたのではなかろうか。
調査委は理研を代表しない
マスメディア側及び大衆側が感じる焦燥感、質問しても核心に至らない痛痒の感覚は、どこからやってくるのかといえば、会見を主催する主体にある。いまさらいうまでもなく、会見の主体は理研の中の「研究論文の疑義に関する調査委員会」であって、この委員会は理研全体を代表するものではない。つまり、同委員会の調査対象も権限も限定的なのだ。
小保方問題は理研の構造に起因する
一方、小保方問題は、小保方の論文不正に限定できない。理研の野依良治理事長が発言したように、複合的な要因から発生した。そのことは以前、拙Blogにて指摘した。ここで念のため、野依の発言を以下に引用しておく。
理化学研究所の野依(のより)良治理事長(75)は9日午前、衆院文部科学委員会に参考人として招致され、STAP細胞論文不正問題の原因について、「若手研究者の倫理観や研究の不足と、責任分担の不明確さ、理化学研究所の組織としてのチェック体制の不十分さなど、複合的な原因で生じた」と述べた。
野依理事長は、終始はっきりした口調で質問に答えた。笠浩史(りゅうひろふみ)氏(49)=民主=から責任の所在などを問われると、「若手の研究者については、経験が不十分であるがゆえに有するリスクへの認識が相当に甘かった」と反省の弁を述べた。その上で、「若手からベテランまで、博士いうものは科学者としての基本的な指導訓練が完了しているという認識のもと、研修体制をつくってきた。ここが組織としての反省点」と述べ、再発防止に取り組む姿勢を示した。(2014.4.9 20:57産経ニュース)
小保方問題は野依がいうとおり、「複合的な原因で生じた」。複合的な原因とは野依がいうところの、▽若手研究者の倫理観や研究の不足、▽責任分担の不明確さ、▽理化学研究所の組織としてのチェック体制の不十分――に限定できない。むしろ、野依が「など」と表現して曖昧化した部分に核心が隠されている。
理研の構造的欠陥
複合的原因の核心部分を指摘しておけば、
- 理研は税金で丸抱えされていて、適正な競争原理が働かない組織であること
- その結果、研究に戦略性がないこと
- おなじく、研究のプライオリティーが内部(幹部)の恣意性に委ねられてしまっていること
- 換言すれば、理研幹部の情が個々の研究者の研究活動に影響していること。本件の場合は、小保方と笹井芳樹(発生・再生科学総合研究センター副センター長)の交情ということになる。
- (会見で理研幹部がはからずももらしたことであるが、)理研が巨大な組織であるため、研究者の「自主性」という美名の下、理研幹部が個々の研究者の研究実態を把握できないでいること
- 理研には不正の土壌が組織的に培われていること(理研幹部=同委員会委員長にも小保方とおなじ手口の論文不正が行われていたという疑惑が生じている。)
現状の理研の解体と戦略的再構築の道筋
これらのことから、理研を解体して戦略的に再編成する必要性が見えてくる。つまり、“なんでもあり”の時代遅れの百貨店から、専門性に特化した小規模な研究機関に再編成する道筋だ。それにより、研究テーマと成果が視覚化、透明化できる。さらに、個々の研究者の自主性を担保しつつ、その実態の把握も容易となる。小規模であれば、天下り人材の受入れも不可能だろうし、研究費以外(外国の高級家具などの購入)の余計な経費を使う機会も減る。
マスメディアが小保方問題の核心を聞きたければ、野依理事長をひっぱりだせ
さて、前出のとおり、会見ではマスメディア側から小保方の論文不正以外の質問(たとえば、特許問題、処分問題、理研幹部研究者=調査委員による論文不正疑惑など)が続出したようだが、理研側からは(自分たちの任務は論文不正に限定された委員会だという論拠で)、しばしば回答を引きだせず終わったようだ。
先述したように、この会見は「(小保方の)研究論文の疑義に関する調査委員会」が主催したものであって、同委員会は限られた目的のために限られた権限しか与えられていない。だから、理研全体の問題を質問しても、回答する権限をもたない。
マスメディアに託された使命は、小保方問題の原因、つまり、理研に内在する(野依の言葉に従えば、)複合的原因について、理研のトップ=野依良治理事長に聞き質すしかない。野依をひっぱりださなければ、小保方問題の全体的解明は難しい。
調査委がセッティングした会見にのこのこでかけ、理研全体の話をききだそうとしても時間の無駄というもの。野依が出てこない、というのであれば、周辺取材、調査取材をするしかなかろう。それが本来のマスメディアの使命というもの。もちろん、理研全体の問題については、理研のトップには話す義務がある。理研は税金が投入され運営されている組織だからだ。
2014年5月4日日曜日
小保方劇場、出し物は『オセロ』ならぬ“オセロゲーム”
東京新聞が以下の通り報じた。以下引用する。
STAP細胞の論文問題で、小保方晴子氏の不正を認定した理化学研究所調査委員会の委員の論文に、画像の切り貼りなど加工の疑いが指摘されていることが一日、分かった。理研は、本格的な調査が必要かどうかを判断するための予備調査を始めた。オセロゲームというのがある。シロとクロがプレーヤーの一手一手でめまぐるしく反転するあれだ。理研を舞台とした小保方劇場はまさしく、その様相を呈してきた。先日、小保方の論文不正を調査し、不正ありと判定した「研究論文の疑義に関する調査委員会」委員長の石井俊輔の論文不正が明るみに出て石井は同委員会委員長を辞任したばかり。それに次いで、今度は同委員の面々が小保方と同様、実験画像の切り貼りや使い回しをしていたのだ。つまり、小保方がクロ、理研の調査委員会はいかにもシロの集団だったのだが、このことにより、委員会もクロに反転してしまったのだ。つまり、小保方劇場出演者全員がほぼクロである。
調査委では、委員長だった石井俊輔上席研究員の論文に画像の切り貼りが見つかり、石井氏は「不正ではない」としたが委員長を辞任している。
新たに指摘があった調査委員は、理研の古関明彦グループディレクターと真貝洋一主任研究員、東京医科歯科大の田賀哲也教授。
二〇〇三~一一年に発表された論文のうち、古関氏が責任著者を務めた四本や、石井氏と真貝氏の共著の一本、田賀氏が責任著者である二本の計七本に指摘があった。DNAを分離する電気泳動という実験の画像の切り貼りや、細胞の写真の使い回しがあるのではという内容で、理研は田賀氏の論文を除く五本を予備調査の対象とした。古関氏は取材に「指摘の部分は、理研に報告している。現段階で個人的なコメントは差し控えたい」と回答した。(東京新聞/5月2日朝刊)
これは困った。演劇といのは一般に善人と悪人があって、最後に善が勝つという物語で構成されているものなのだが、全員が悪人ならば物語は成立しない。小保方劇場は当初、小保方=善、理研=善で開幕し、第二幕は論文不正の発覚により、小保方=悪、理研=善でドタバタがあり、この第三幕で小保方=悪、理研=悪という結末に至った。
もっとも筆者は最初から小保方=クロ、理研=クロの立場を貫いてきたので驚いてはいない。が、それにしても理解に苦しむのが調査委員会の面面の精神構造だ。小保方の論文不正は日本中いや世界中が注目した問題。その調査委員を拝するということは、世界中の注目を浴びる。このことは火を見るより明らかではないか。自分の過去を振りかえってみて、自分に非がある可能性を自覚できれば、調査委員会に名を連ねるリスクを避けるのが普通だろう。“もし自分の不正がばれた”ならば、その反動の大きさは計り知れない…なのに…である。
ここからは推測だが、小保方も理研の調査委員会の面々も、あるいは先に論文不正を咎められたノーベル賞の山中伸弥も含めて、論文に掲載する画像に係る故意の加工は一般的行為であって、「不正」ではないとされていたのではないか。“そんなことは当たり前”という「常識」がまかり通っていたのではないか。拙Blogで何度も書いたことだけれど、小保方が「不正はない」と繰り返してきた根拠には、論文における画像等の加工等は「私だけでなく、諸先輩のだれもがやってきたこと」という確信があるのではないか。だから、「なんで私だけが不正と咎められるのですか」という論理に行き着くのではないか。
それにしても笑わせるのは、理研の野依良治理事長の言いぐさである。野依はかつて理研調査委員会の調査結果発表の記者会見で小保方を「未熟な研究者」と切って捨てた。小保方だけに論文不正の責任があるかのように小保方を断罪した。野依の断罪は、理研に非が及ばぬよう、理研に内在する不正の流れが明るみに出ぬよう、小保方でくい止めたいという願望からだろう。だがそうはいかなかった、理研の幹部が、しかも小保方をクロと判定した委員会の委員の多くが、小保方と同様の手口で論文作成において不正を行っていたのだ。もはや理研の組織的腐敗は明らかだ。小保方論文不正問題とは、理研という組織風土が生みだしたもの。「小保方」は、理研という腐った土壌に開いた、ドギツイ毒茸にほかならない。
こうなれば、小保方の不正よりも、理研の幹部たちの不正のほうが「罪」は重い。よって野依良治は一日も早く理事長職を辞任することだ。野依の辞任を出発点として、理研解体へと進むことが日本の科学研究分野を正常化する近道となる。
2014年5月2日金曜日
2014年4月29日火曜日
小保方劇場、底なし沼へ――ノーベル賞・山中教授にも論文不正疑惑
またまたネットが、注目すべき研究論文に係る疑惑を指摘した。疑惑を指摘されたのは、なんと、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発者でノーベル医学生理学賞を受賞した京都大の山中伸弥教授。山中が、2000年に欧州の専門誌に発表した論文の画像に不自然な加工した形跡があるという。
これを受けて山中教授が所長を務める京大iPS細胞研究所が調査したところ、山中教授の実験ノートなどから、実験は1998年ごろ行われたことを確認した。論文で発表した細胞は現在も使われており、再現性に問題がない点から「論文の内容が正しいことは明らか」と判断。切り貼りの跡がないことも確認した。
しかし、調査を担当し、その結果を公表したのが京大iPS細胞研究所の森沢真輔副所長。部下が上司の不正を問題視するはずもなく、この調査が公正に行われたかどうかは疑わしい。しかも、実験の生データは山中教授のノートでは確認できなかったという。共に研究の中心となった中国出身の研究者のノートに記録されている可能性もあるが、連絡が取れないという。
あれあれ、山中といえば、あの小保方の論文不正について、「実験ノートが重要・・・」とかなんとかご高説を垂れた者ではなかったか。
山中は会見で論文と同様の結果を示す実験の生データと図を示し、「学生に厳しく指導している私と昔の自分(の違い)を思い、恥ずかしい」と話したという。また、山中は不正を否定した上で、論文共著者の実験ノートが手元に保管されておらず、自分のノートにも実験の生データがなかったとして「日本の科学に対する信頼が揺らいでいる状況でこのようなことになり、誠に申し訳ありません」と陳謝したという。
ここで小保方の論文不正問題である。小保方は先の記者会見でも「論文に不正はない」を繰り返していた。そういえば、小保方の理研の上司で、小保方の論文不正の調査委員長を務めた石井にも論文不正が発覚したばかり。山中、石井といった小保方を上回るキャリアと実績をもった研究者が論文不正を行っていたことから「画像の差し替え、加工は不正に入らない」というコードが日本の科学界に常態化していると想像できまいか。
山中の疑惑は時効だという説もある。だが、山中の研究者倫理はどうなのだ、ノーベル賞をもらい、論文の正しさが証明されているから、山中はシロなのか。ならば、小保方も、「STAP細胞」の実在が証明されれば、シロということになる。となると、理研の調査と調査結果は無効に近い。つまり、「STAP細胞」の実在が証明されるまで小保方は処分されないでよいことになる。
となれば、論文に不正があっても、仮説の正しさが結果において証明されれば、不正を問わないでいい、というコードが科学界を出発点として、社会に敷衍することになる。科学者、研究者の退廃はとどまるところを知らない。小保方劇場は、ドロ沼ならぬ底なし沼状態に陥った。
これを受けて山中教授が所長を務める京大iPS細胞研究所が調査したところ、山中教授の実験ノートなどから、実験は1998年ごろ行われたことを確認した。論文で発表した細胞は現在も使われており、再現性に問題がない点から「論文の内容が正しいことは明らか」と判断。切り貼りの跡がないことも確認した。
しかし、調査を担当し、その結果を公表したのが京大iPS細胞研究所の森沢真輔副所長。部下が上司の不正を問題視するはずもなく、この調査が公正に行われたかどうかは疑わしい。しかも、実験の生データは山中教授のノートでは確認できなかったという。共に研究の中心となった中国出身の研究者のノートに記録されている可能性もあるが、連絡が取れないという。
あれあれ、山中といえば、あの小保方の論文不正について、「実験ノートが重要・・・」とかなんとかご高説を垂れた者ではなかったか。
山中は会見で論文と同様の結果を示す実験の生データと図を示し、「学生に厳しく指導している私と昔の自分(の違い)を思い、恥ずかしい」と話したという。また、山中は不正を否定した上で、論文共著者の実験ノートが手元に保管されておらず、自分のノートにも実験の生データがなかったとして「日本の科学に対する信頼が揺らいでいる状況でこのようなことになり、誠に申し訳ありません」と陳謝したという。
ここで小保方の論文不正問題である。小保方は先の記者会見でも「論文に不正はない」を繰り返していた。そういえば、小保方の理研の上司で、小保方の論文不正の調査委員長を務めた石井にも論文不正が発覚したばかり。山中、石井といった小保方を上回るキャリアと実績をもった研究者が論文不正を行っていたことから「画像の差し替え、加工は不正に入らない」というコードが日本の科学界に常態化していると想像できまいか。
山中の疑惑は時効だという説もある。だが、山中の研究者倫理はどうなのだ、ノーベル賞をもらい、論文の正しさが証明されているから、山中はシロなのか。ならば、小保方も、「STAP細胞」の実在が証明されれば、シロということになる。となると、理研の調査と調査結果は無効に近い。つまり、「STAP細胞」の実在が証明されるまで小保方は処分されないでよいことになる。
となれば、論文に不正があっても、仮説の正しさが結果において証明されれば、不正を問わないでいい、というコードが科学界を出発点として、社会に敷衍することになる。科学者、研究者の退廃はとどまるところを知らない。小保方劇場は、ドロ沼ならぬ底なし沼状態に陥った。
2014年4月26日土曜日
ドロ沼化する小保方劇場
論文不正の調査委員長に論文不正が発覚
小保方晴子のSTAP細胞に関する論文に改ざんやねつ造があったと結論付けた理化学研究所の調査委員会で委員長を務めている石井俊輔・理研上席研究員が、委員長と委員を辞任することになった。その理由は、石井が責任著者になっていた論文に対して、ネット上で画像の切り貼りが指摘されたためだ。指摘された部分については、すでに訂正の手続きを行っているというのだが、石井は、小保方の「真正な画像データが存在している」という主張を「不正の認定は『論文投稿時にどういう行為が行われたか』なので、それは関係ない」と一蹴した経緯がある。
論文不正の調査委員長がねつ造の常習者だったというのだから、理研という組織が腐りきったそれだということを立証したようなものだ。筆者が拙Blogにて繰り返すとおり、小保方もクロだが理研もクロなのだ。理研を舞台とした小保方劇場は、これでますます先の読めないドロ沼状態に陥った。
小保方問題で後れを取る日本のマスメディア
石井の論文不正がネットからの指摘であったように、そもそも小保方論文不正問題の「報道」については、ネットがマスメディアに先行していた。小保方の学位論文、海外の科学専門雑誌に掲載されたSTAP論文について、コピペ、画像の切り貼り等を指摘したのはネットから発信されたものだ。また、「STAP細胞」そのものに疑義を発したのもネットからだった。
日本のマスメディア(新聞・TV・雑誌)はまるで不正を見抜けなかった。ネットが不正を発信していたにもかかわらず、日本のマスメディアは理研の広報戦略にのせられ、小保方を「リケジョ」ともてはやし、その割烹着姿を嬉々として垂れ流していたわけだ。
日本のマスメディア(新聞・TV・雑誌)はまるで不正を見抜けなかった。ネットが不正を発信していたにもかかわらず、日本のマスメディアは理研の広報戦略にのせられ、小保方を「リケジョ」ともてはやし、その割烹着姿を嬉々として垂れ流していたわけだ。
だからいまだに小保方擁護、「STAP細胞実在」を声高に叫んでいるのが、日本のマスメディア、とりわけ、TVなのだ。自分たちが論文不正に気付かず、まんまと理研に騙されていた愚かさを帳消しにしてくれるのは、「STAP細胞が存在すること」だからだ。それさえ存在してくれれば、自分たちのバカさが消えるという論理構成だ。小保方は正しかった、だから俺たちの報道姿勢に誤りはなかった、と納得したいのだ。一方、雑誌メディアは、小保方の論文不正発覚後、得意の下半身報道に舵を切り替えた。小保方と笹井芳樹の不倫報道に基軸を取り、そのことで販売部数増を図った。
小保方論文不正問題の核心を外す日本のマスメディア
日本のマスメディアは、論文不正が発覚したのちも、小保方問題が内包している2つのポイントを敢えて外して報道しているように思える。2つのポイントとは、
- 論文不正というルール違反、科学者倫理の逸脱について、それを批判する姿勢をもつのかもたないのか
- 理研という巨大組織の腐敗を批判するのかしないのか
日本のマスメディアが、衆人にとっていかにも明確なこの2つのポイントを敢えて避けようとしているのは、ネットが論文不正に係る報道を先行させた悔しさからだけではない。もう一つは、理研のボスがノーベル賞受賞者であること、いわゆる「ノーベル賞タブー」だ。
小保方・理研批判は安倍「成長戦略」のまやかしの批判
小保方・理研批判は安倍「成長戦略」のまやかしの批判
日本のマスメディアがこの問題の核心を敢えて外す理由は、彼らの自己正当化や理研のボスに対する忖度だけではない。理研が、安倍政権が進める「成長戦略」と不可分の関係にあることだ。安倍政権の広報部隊である日本のマスメディアは、小保方も理研も本気で批判報道できない。
なぜならば、STAP細胞論文が発表された背景には、安倍が掲げた「成長戦略」があるからだ。安倍の「成長戦略」を「実体化」する象徴的分野が再生医療だ。「成長戦略」では再生医療が国を挙げた重点投資の目玉になっている。「STAP細胞」はだれにもわかりやすい再生医療分野だ。第二に、「成長戦略」が掲げる「女性の活用」だ。小保方は「女性の活用」を象徴するまさに「看板娘」というわけだ。第三が理研を予算額が大きい「特定国立研究開発法人」に指定することだ。
(以上の指摘は、Blog「世に倦む日日」から引用した。)
(以上の指摘は、Blog「世に倦む日日」から引用した。)
われわれはもはや、ネットに期待するしかない
[安倍の「成長戦略」-理研-STAP細胞-小保方晴子]の虚構の構造は、論文不正で一気に瓦解した。安倍の「成長戦略」をシンボライズするはずだった理研及び小保方は、論文不正で挫折すると同時に、その内部腐敗が次々と明るみに晒されてきた。だが、日本のマスメディアはその核心に目をつぶり続ける。日本のマスメディア、TV・新聞の現場は科学に暗く、雑誌が得意なのは下半身報道、そしてそのどちらの幹部も安倍政権の圧力に縛られて手も足も出ない。われわれはもはや、ネットに期待するしかないのである。
2014年4月25日金曜日
『遊動論』――柳田国男と山人
●柄谷行人[著] ●文春新書 ●800円(+税)
本題となっている「遊動」とは何かから始めたい。著者(柄谷行人)が本書あとがき(P198)にて説明しているように、本書は後半に収録されている付論「二種類の遊動性」を先に読んだほうがわかりやすい。
柄谷は「交通(移動・戦争等)」及び「交換」といった観点から人類史を問う方法論を用いていて、本書もその方法が駆使されている。本書は人類の社会の始原から、現代の国家と資本の原理を超える道筋を「遊動」という観点から明らかにしようという試みである。社会の始原とは“人類が定住する前の社会のありよう”と換言できる。
定住以前の狩猟採集民社会
では柳田が日本列島の遊動民として実態的に見たものはだれだったのか。柄谷は柳田の『九州南部地方の民風』という論文を引用する。
それは、前出のとおり、定住した狩猟採集民のことだ。彼らは定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性がありながら、つまり、国家の形成にいたる道がありながら、それを斥けた民であった。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステム=贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)を維持した民であった。定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てを行った民であった。
柄谷の柳田国男論を大雑把にまとめれば、柳田は、人々の自治と相互扶助、つまり協同組合あるいは「協同自助」の問題を追及し続けた思想家(民俗学者)であった、ということになる。柳田は山人からはじまって山民に出会い、そこに国家と資本の原理を超える社会主義の原理を発見したということになろうか。
本題となっている「遊動」とは何かから始めたい。著者(柄谷行人)が本書あとがき(P198)にて説明しているように、本書は後半に収録されている付論「二種類の遊動性」を先に読んだほうがわかりやすい。
柄谷は「交通(移動・戦争等)」及び「交換」といった観点から人類史を問う方法論を用いていて、本書もその方法が駆使されている。本書は人類の社会の始原から、現代の国家と資本の原理を超える道筋を「遊動」という観点から明らかにしようという試みである。社会の始原とは“人類が定住する前の社会のありよう”と換言できる。
定住以前の狩猟採集民社会
柄谷によれば、原初の社会を推論するには、人類学が扱ってきた漂泊的バンド社会〔註〕の考察から可能だという。
そこ(漂泊的バンド社会)から、定住以前の狩猟採集民社会について、ある程度推測できるだろう。・・・バンドの凝集性は、共同寄託や供食儀礼によって確保される。バンドの結合は固定的ではなく、いつでも出ていくことができる。バンドは概ね、25-50名ほどの小集団である。その数は、食料の共同寄託(平等な分配)が可能な程度以上に増大せず、また、共同での狩猟が可能である程度以下にも減少しない。また、バンドが固定的でないだけでなく、家族の結合も固定的ではない。・・・家族と家族の間の関係は、もっと不安定である。ゆえに、親族組織は未発達であり、また、バンドを超える上位の集団を持たない。(本書P181)
狩猟採集によって得た収穫物は、不参加者であれ、客人であれ、すべての者に、平等に分配される。これは、この社会が狩猟採集に従事しているからではなく、遊動的だからである。彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。ゆえに、それを所有する意味もないから全員で均等に分配してしまうのだ。(本書P182)柄谷は定住以前の社会について、きわめて自由度の高いものとしてイメージする。自分たちが狩猟採集したものを平等に分配できる範囲の定員が保たれ、そこから出るのも入るのも自由、家族の結合も緩やかで、バンドを超える集団、すなわち支配権力層をもたない。柄谷によると、このような社会形態を規定するのは狩猟採集という生産形態ではなく、遊動的生存という条件によって強いられたものだという。つまり、狩猟採集とは獲物となる動物や食料となる植物等を求めて遊動する必要があるから、それを可能とする社会として、前出のようなイメージの社会集団が形成されていたということになる。
〔註〕バンド(band); 文化人類学の用語としてはもっとも未発達な進化段階の社会組織を意味する。衣食住のための物質文化もきわめて単純であり、また生産、保存貯蔵、運搬などの技術も未発達な集団で、ほぼ採集・狩猟に生計を依存し、動植物資源を追って季節的に移動する。生活単位は夫婦とその子どもからなる核家族で、資源が豊富なときは一時的に30人から100人ほどの集団をつくるが、また家族単位で離散してしまう。
次に、柄谷はこのことを贈与論の観点からみる。
柄谷によれば、人類の定住は農耕技術を習得したことによって開始されたのではない、つまり、定住があって、その後、農耕と牧畜=遊牧が二極に分化したという。その証拠となるのが日本列島の縄文時代で、縄文文化は新石器文化であり、縄文人は簡単な栽培や飼育を行っていたのだが、それは彼らが定住することにより、その結果、自然に生まれてきたものだという。
柄谷の立論の際立った特色は、定住から国家へと進む中間に、定住する以前の遊動民社会が有していた社会システムを維持した集団を措定することにあり、そこに国家を超える可能性を見いだそうとしていることだ。このことは後で詳述する。
農耕と牧畜は「原都市」で出現した
柄谷は、一般に定説だと思われているゴードン・チャイルドが唱えた「新石器革命」について、ジェイン・ジェイコブズの『都市の経済学』を引用しつつ否定する。
柄谷はそのことを踏まえて、流動民(ノマド)の概念を拡大するとともに、二種類に峻別する。ノマドは、(一)焼畑農民。多くの場合、彼らは狩猟採集も行う。(二)漂泊的商人・手工業者。彼らが交換様式C(商品交換)を担った。(三)遊牧民。だが、遊牧民が焼畑農民、漂泊的商人・手工業者と異なるのは、しばしば結束して農耕民を征服し従属させるということである。それによって国家が形成された。
ノマドといえば、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』(1980年)が思い浮かぶ。柄谷は、このノマドロジーに対して、以下のとおり批判する。
ここで柳田国男である。柳田は日本で遊動民に注目した思想家だ、と柄谷はいう。しかも重要なのは、柳田が二種類の遊動性を弁別したことだという。
(この全員均等分配は、)「純粋贈与」であって互酬的ではない。収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということであり、昨日のことを覚えていないということである。したがって、贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になった時からだといえる。そうすると、定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである。」(本書P182)
国家を回避する互酬制原理
柄谷によれば、人類の定住は農耕技術を習得したことによって開始されたのではない、つまり、定住があって、その後、農耕と牧畜=遊牧が二極に分化したという。その証拠となるのが日本列島の縄文時代で、縄文文化は新石器文化であり、縄文人は簡単な栽培や飼育を行っていたのだが、それは彼らが定住することにより、その結果、自然に生まれてきたものだという。
・・・たとえば、縄文時代は新石器文化である。もちろん、そこで始まった栽培・飼育が、農耕・牧畜へと発展する可能性はあった。また、定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性があった。それは早晩、国家の形成にいたるだろう。しかし、そうならなかったのは、定住した狩猟採集民がそれを斥けたからである。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステムを創りだした。それが贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)なのである。ゆえに、農耕・牧畜と国家社会の出現を「新石器革命」と呼ぶのであれば、われわれは、それを阻止することをむしろ革命と呼ぶべきであろう。その意味で、私はこれを「定住革命」と呼ぶ。
一般に、氏族社会は国家形成の前段階として見られている。しかし、むしろ、それは定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てとして見るべきである。その意味で、氏族社会は「未開社会」ではなく、高度な社会システムだといえる。それは、われわれに或る可能性、つまり、国家を超える道を開示するものとなる。
くりかえすと、定住とともに、集団の成員は互酬性の原理によって縛られるようになった。贈与を義務として強いることによって、不平等の発生を妨げたからである。もちろん、これは人々が相談して決めたことではない。それはいわば「神の命令」として彼らに課せられたのである。(本書P183-184)
柄谷の立論の際立った特色は、定住から国家へと進む中間に、定住する以前の遊動民社会が有していた社会システムを維持した集団を措定することにあり、そこに国家を超える可能性を見いだそうとしていることだ。このことは後で詳述する。
農耕と牧畜は「原都市」で出現した
柄谷は、一般に定説だと思われているゴードン・チャイルドが唱えた「新石器革命」について、ジェイン・ジェイコブズの『都市の経済学』を引用しつつ否定する。
・・・チャイルドが唱えた新石器革命(農業革命)という概念によれば、農業・牧畜が始まり、生産力の拡大とともに、都市が発展し、階級的な分解が生じ、国家が生まれてきた。・・・(その一方、ジェイコブズによれば)・・・その逆に、農業は「原都市」で始まったのである。「原都市」は、共同体と共同体の交易の場として始まった。そこでは、さまざまな情報が交換、集積された。農耕はその結果として生じた、と彼女はいう。私(柄谷)は、この仮説を支持する。(本書P186-187)柄谷は加えて牧畜についても、それは原都市で発明されたもので、その後、農耕民と遊牧民の分化が生じたと考える。狩猟採集民の後に出現した遊牧民も遊動性が高い生活様式を維持しているが、遊牧民の遊動性と、狩猟採集民のそれとは異質だという。
農耕と牧畜は原都市で出現した。とともに、それらの分化、いいかえれば、農耕民と遊牧民の分化が生じた。遊牧民は、原都市を出て遊動するようになる。彼らはある意味で、遊動的狩猟採集民にあった遊動性を回復した。しかし、彼らは狩猟採集民とは異質である。遊牧は農耕と同様、定住生活の中で開発された技術であり、また、遊牧民は農耕民と分業関係にある。彼らは農耕民と交易するだけでなく、商人として共同体との間の交易をになう。(本書P188)二種類の遊動民
柄谷はそのことを踏まえて、流動民(ノマド)の概念を拡大するとともに、二種類に峻別する。ノマドは、(一)焼畑農民。多くの場合、彼らは狩猟採集も行う。(二)漂泊的商人・手工業者。彼らが交換様式C(商品交換)を担った。(三)遊牧民。だが、遊牧民が焼畑農民、漂泊的商人・手工業者と異なるのは、しばしば結束して農耕民を征服し従属させるということである。それによって国家が形成された。
この場合、国家を形成するのは、たんなる暴力ではない。それは、服従すれば保護する、というかたちでの「交換」である。私はこのような交換のあり方を、交換様式Bと呼ぶ。すると、遊牧民は、交換様式Cとともに、交換様式Bの発展を担ったということができる。(中略)国家あるいは王権が成立するためには、外部からの征服という契機が不可欠である。それが遊牧民である。とはいえ、すべての国家が征服によって形成されるわけではないし、また、つねに征服が遊牧民によってなされるわけでもない。ただ、征服が現実になくても、遊牧民に対する防衛という動機が、首長制国家を集権的な国家に変容するのである。(P188-189)柄谷によれば、原都市=国家で生まれた農耕・牧畜、あるいは農耕民と遊牧民があいまって、国家を形成したことになる。遊牧民の遊動性はしたがって、遊動的狩猟採集民のそれとは似て非なる。遊牧民は共同体の間にあり、商業ないし戦争を通して、共同体の中に浸透、侵入、支配するにいたる。遊牧民の遊動性は、交換様式でいえば、Aではなく、BとCに導かれるという。さらに、遊動民の中に、遊牧民に似た者として、(四)山地民を加える。
遊動民一般をノマドと呼ぶとすれば、その中には、狩猟採集遊動民、遊牧民、山地民(焼畑狩猟民)が入る。また、遊動性という観点からみれば、漂泊する商人や手工業者を入れてもよい。定住農耕民からみれば、ノマドは不気味な存在である。彼らは非農耕民を軽蔑するが、それに依存するほかない。なぜなら、彼らとの交換がなければ、共同体の自給自足的経済はなりたたないからだ。一方、ノマドも、定住農民の生き方を軽蔑していると同時に、さまざまな意味で、後者に依存している。このように、各種のノマドが、交換様式C(商品交換)の発展を担ったし、また、しばしば交換様式B、すなわち国家形成に関与してきたのである。(本書P190)ドゥルーズ&ガタリの“ノマドロジー”は帝国を創り出す
ノマドといえば、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』(1980年)が思い浮かぶ。柄谷は、このノマドロジーに対して、以下のとおり批判する。
このノマドロジーは、定住性やそれに伴う領域性や規範を超えるとしても、国家と資本を超える原理ではない。それどころか、国家や資本を飛躍的に拡張する原理である。たとえば、戦争機械としての遊牧民は、国家を破壊するが、より大きな国家(帝国)を創り出す。資本も同様である。たとえば、金融資本は、脱領域的であり、領域化された国家経済を破壊する。柄谷は、ドゥルーズ&ガタリのノマドロジーを否定しつつ、資本=ネーション=国家を超える手がかりとして、遊動性を掲げる。柄谷のそれは、遊牧民的遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性だ。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。
米ソの冷戦体制が揺らぎはじめた1970年代以後、ノマドロジーは、この冷戦構造を解体する脱領域的・脱構築的な原理と目された。しかし、ソ連邦が崩壊し、資本主義のグローバリゼーションが生じた90年代以後、それは「資本の帝国」、あるいは新自由主義を正当化するイデオロギーに転化した。・・・90年代に入ると、それは新自由主義のイデオロギーと区別できなくなる。(本書P191-192)
定住以前の遊動性を高次元で回復するもの、したがって、国家と資本を超えるものを、私は交換様式Dと呼ぶ。それはたんなる理想主義ではない。それは交換様式A(互酬)がそうであったように、「抑圧されたものの回帰」として強迫的に到来する。いわば、「神の命令」として。したがって、それは最初、普遍宗教というかたちをとってあらわれたのである。だが、交換様式そのものは宗教ではない。それはあくまで経済的な交換の形態なのである。柳田国男は先住民(山人)と遊動民(山民・芸能的漂泊民)を区別した
交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(本書P193)
ここで柳田国男である。柳田は日本で遊動民に注目した思想家だ、と柄谷はいう。しかも重要なのは、柳田が二種類の遊動性を弁別したことだという。
先ず、彼(柳田国男)は「山人」の存在を主張した。山人は、日本列島に先住した狩猟採集民であるが、農耕民によって滅ぼされ、山に逃れた者だという。ただ、山人は山民(山地人)とは違って、その実在を確かめることができない。彼らは多くの場合、天狗のような妖怪として表象されている。さらに、柳田は、移動農業・狩猟を行う山民、および、工芸・武芸をふくむ芸能的漂泊民に注目した。しかし、柳田はそのような遊動民と山人とを区別していた。つまり、遊動性の二種類を区別したのである。(本書P194)次に網野善彦である。網野に代表される柳田民俗学批判は、後期の柳田がその関心を、遊動民から定住農耕民に向けるようになったため、定住農民と国家を超える視点を無くしたというものだ。網野に代表される柳田批判は、商人・職人・芸人のような遊動民を重視し、そこに、定住農民による国家権力(天皇制)を超える契機を見い出だそうとした。
しかし、このような芸能的遊動民は山人とは異質である。遊牧民が定住農民の社会の間にあって、それらを交易などで媒介しつつ、時には定住農民を支配する国家を形成するように、芸能的遊動民は定住農民共同体の間にあって、それらを媒介することによって生きつつ、他方では、定住農民を支配する国家(王権)と、直接・間接的に結びつく。つまり、彼らは一方で定住民に差別される身でありながら、他方で、定住民を支配する力をもったのである。柳田は山民の中に「社会主義の理想」を見た
一方、根本的に「国家に抗する」タイプの遊動民は、山人である。しかし、山人は当初から実在するとはいいがたい存在であった。山人の存在を唱えた柳田は嘲笑され、次第に自説を後退させた。が、けっして放棄することはなかった。定住農民(常民)に焦点を移しつつ、彼は「山人」の可能性を執拗に追及したのである。最終的に、彼はそれを「固有信仰」の中に見出そうとした。彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未来的なものである。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、交換様式Dである。(P194-195)
では柳田が日本列島の遊動民として実態的に見たものはだれだったのか。柄谷は柳田の『九州南部地方の民風』という論文を引用する。
彼(柳田国男)はこの論文に、「社会主義の理想の実行さるる椎葉村」という小見出しを付した。《・・・此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の出現で、一つの奇跡であります。併し実際住民は必ずしも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居るため、何等の面倒もなく、斯かる分割方法が行わるるのであります。(『九州南部地方の民風』)》(本書P68)柳田国男が生きた時代、椎葉村では焼畑農業と狩猟が人々の生計を支えていた。柳田国男はそこに伝えられていた資料を使って『後狩詞記』を書いた。椎葉村の人びとは、伝承となって妖怪化した山人ではなく、実際に生きている山民であった。柄谷は、柳田は椎葉村の暮らしの中に「稲作農耕民以前の狩猟採集民」の生活形態をみた、と考える。
それは、前出のとおり、定住した狩猟採集民のことだ。彼らは定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性がありながら、つまり、国家の形成にいたる道がありながら、それを斥けた民であった。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステム=贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)を維持した民であった。定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てを行った民であった。
柄谷の柳田国男論を大雑把にまとめれば、柳田は、人々の自治と相互扶助、つまり協同組合あるいは「協同自助」の問題を追及し続けた思想家(民俗学者)であった、ということになる。柳田は山人からはじまって山民に出会い、そこに国家と資本の原理を超える社会主義の原理を発見したということになろうか。
2014年4月18日金曜日
保身と裏切り――理研副センター長笹井芳樹会見
毒が溜まった
先の拙Blogにて「小保方劇場閉幕、以降、このことに言及しない」と宣言しておきながら、前言を撤回する。その理由は、16日、小保方晴子の新型万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の共著者で理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹(52)の記者会見をLIVE中継で見てしまったからだ。TV映像で笹井とメディア関係者とのやりとりを見聞きしているうちに身体中に毒が充満し、その毒をどうしても吐かないではいられなくなったからだ。笹井の登場によって、「小保方劇場」第二幕が上がった。
ヒール笹井の登場
笹井はいわば「ヒール」。小保方の上司にあたり、小保方と情を通じていたとされている。にもかかわらず、理研の論文不正問題調査結果で笹井はシロ、小保方はクロ。小保方の「単独犯」と判定された。調査結果公表後、笹井は姿を消し、小保方を擁護するような発言を一切しなかった。そのため、笹井は世間から、上司でありながら部下(小保方)に責任をなすりつけ、姿をくらませた卑劣な男として評価されていた。そんな男が会見するのだから、世間の注目が集まって当然だ。
保身のため小保方を裏切った笹井
会見は退屈だった。質問者も回答者も核心に迫らない。会見において笹井にメディアが尋ねるべきポイントは以下の2点、それ以外はどうでもよかった。その2点とは、(一)笹井は理研の調査結果を受けいれるのか否か、(二)なぜ、論文不正が起きたのか――に尽きる。
(一)で笹井が「受けいれる」と明言するのならば、それは小保方に対する裏切りを意味する。つまり、“自分は理研において保身する、小保方さん、サヨウナラ”というわけだ。笹井と小保方がどのような感情で結ばれていたのか、例えば肉体関係まであったのかどうかまでは筆者はわからない。ただ十分言えるのは、(A)先輩研究者と若手研究者同士、師弟的及び同志的絆で結ばれていたか、あるいは、(B)互いに利用しあう打算的関係だったか――のどちらかだ。(A)(B)どちらでも、それが男女の関係に移行することは大いにあり得る。
もちろん、会見で笹井が小保方との私的関係を明言するはずもなく、うやむやな答弁で終始しただろうから、そんな質問は時間の無駄だという見方もある。だが、このたびの理研の不祥事の根幹には、小保方が理研でユニットリーダーの地位を得、海外の研究雑誌に不正論文を発表してしまった主因の一つとして、笹井と小保方の間の緊密な関係という事項があったことだけはまちがいないのだから、少なくとも、このたびの論文不正問題を注視する世間の目を代表して、メディアはそのことをこの会見で笹井にぶつける義務があった。
笹井は会見において、筆者が掲げたような直接的質問形式に対してではないが、小保方について言及した。笹井の心情を意訳すれば、“君は研究者として未熟である。幹部の僕は理研で生き残る、論文不正のすべての責任を君にとってもらう”ということが一つ。笹井のこのような態度は、日本のエリート特有のものだ。保身と責任転嫁で一貫している。部下の成果はわがものとし、部下の失敗は部下のものとする――という姿勢だ。このような姿は、上司に部下とともに呼び出された部長が「お前のことは俺が守る」と言いながら、上司に詰問されるなり「そんなことは知りません」と言って責任を部下にかぶせるlotoのCMそのものではないか。
しかし、笹井はそれだけに終始したわけではない。彼は“STAP細胞は有力な仮説として存在する”と言い続けた。そうすることで、“間接的に小保方を擁護する”姿勢を滲ませた。だが、そう言い続けることは、小保方のみならず自身を弁護し続ける最良の言説である。笹井はそのことをよく知っている。まったくもって、煮ても焼いても食えない男だ。
笹井と小保方――あまりにも悲惨な男女関係の結末
論文不正は研究者にとって罪だ。その責任はとらねばならない。その一方で、笹井と小保方が理研という組織内部で交わした男女の関係性という面で見れば、これほどの悲劇を大衆に晒した場面をしらない。会見中継とは無慈悲なものだ。一組の男女のあまりにも残酷な結末がメディアを通じて世間に晒された。男女間の結末が、しかも芸能人でなく一般人の関係が、全国に中継配信されたのだ。このような異常な状況がこれまでにあっただろうか、筆者の記憶にはない。笹井と小保方の関係が(A)なのか(B)なのかはわからない、(A)でも(B)でもないかもしれないにしても、“哀れ”という言葉以外が見つからない。
責任回避に終始した笹井
第二点目の「論文不正が起きた」主因について――この論点については、すでに理研の野依理事長が「いくつかの複合的な要因が重なって、本件のような問題が発生してしまった」という意味の答弁をしており、その通りだと思う。笹井もこの複合的要因について会見で詳しく述べているので繰り返さないが、彼が展開する論旨を大雑把に言えば、STAP細胞論文の主要な実験とデータ収集等は若山研で終わっており、自分(笹井)はそれについて疑義をはさむことができなかった――ということに尽きる。つまり、笹井に言わせれば、問題は若山と小保方がコンビを組んでいた時期に仕組まれた、と言ったのだ。
この笹井の認識は、理研の調査委員会の調査結果とシンクロする。これもまた世間の常識から見れば、奇怪というほかない。調査委員会(笹井も同様だが)は、小保方を管理する者はシロ(建前上は、「責任はある」という表現だったが)、小保方はプレーヤーだからクロという認識で一致している。
このような主張が通るならば、理研は管理者を高給で雇用する必要はなくなる。理研は管理者=功労者という位置づけなのか。不祥事において当事者のクロは当たり前だが、管理者に管理責任が生じないという業務規程ならば、理事長以下全員がプレーヤー(ユニットリーダー)というフラットな組織で十分だ。プレーヤーが研究成果に応じて給与を決定するシステムでいい。理研には同類の法人及び官庁と似たような職制が構築されていて、管理者がその責任の度合いに応じて高額給与を受け取る給与規程が具備されているはずだ。笹井のように自分に管理責任はないという「逃げ」が許されるのならば、理研は笹井の給与の管理分に該当する額を削るべきだ。本件を契機に、笹井を管理職から外し、プレーヤーに戻したらいい。併せて、理研の組織をプレーヤー型に改組し、スリム化すればいい。
当たり前の民間企業ならば、管理者は「責任は俺がとるから、お前ら、思いっきりやれ」と言って、若手を前線に送り出すのではないのか。若手はそんな管理者の意気に感じて成長し、力をつけていくのではないのか。
論文不正の主因は理研幹部が小保方に情を働かせたこと
さて、本件の主因について、実のところ筆者は、まったく別次元の因子を考えている。まず理研が小保方を採用したことに始まり、若山との共同研究に起用し、彼女をユニットリーダーに抜擢し、さらに、一度不採用になった『Naitur』論文を笹井が手直しをして再投稿し、それが採用されるまでに至った過程で、小保方の不正をだれも指摘できなかった要因ということになる。換言すれば、その全過程で理研に客観的・科学的知見が働かなかった理由ということになる。このことは、理研という優秀な、頭脳明晰な研究者の集団の内部で、いかにも不自然な話なのだが、次のような観点に立てばその謎は解ける。つまり、理研内部の関係者すべてが、小保方という若い女性の魅力に情が働いていたと。
そのように考えるならば、すべて辻褄が合う。笹井は、小保方を採用したのは人事委員会及び前任者だと会見で話していたから、その採用責任者も含め、理研内部が小保方という若い女性研究者を前にして、正常な判断が働かなくなったのだ。理研の管理職にある幹部研究者が、小保方の前でのぼせ上っていたのだ。それくらい、小保方に魅力があったかどうかはわからない。が、理研が不正を発見できずにこのような不祥事を起こしてしまった要因は、複合的なものである以上、まったくそのとおりで、複合的な要因の、しかも大きなそれは、小保方に対して小保方の上司たちが情を働かせたことで説明できる。
科学の問題というよりも人間の問題
つまり、こういうことだ。理研は、科学者、研究者の聖域ではないということ。理研に生じる問題は、ほかの、たとえば営利追求組織で起こることと同じレベルなのだ。男女関係、嫉妬、足の引っ張り合い、派閥争い・・・不正まで。そのことは官庁、警察組織、企業、教育機関、軍隊・・・と変わらない。そう考えれば、理研における小保方の不正は、組織(人間集団)において惹起する問題の一つに過ぎないとも言える。(だから仕方がないというわけではない。)
不正が起こる背景を男女関係にのみに還元することはよろしくない。だが、複合的要因を科学や研究上の技術という領域に絞って考えるのも正しくない。“Love is Blind”というではないか。小保方を採用した者を含め、若山も笹井も小保方を巡る理研の幹部級研究者すべてが小保方に対し、Blindの状態だったのだ。このことは結果において、認めざるを得まい。
小保方はクロ、理研は解体
ここまでいささかシニックに、敢えて本件について斜に構えてコメントしてきたが、今回の論文不正事件の本質は、理研という適正な競争を伴わない、税金によって運営される巨大組織が必然的に孕む問題と、すべての組織に共通する問題の二面が絡み合っていることだ。
繰り返せば、競争を伴わない組織には恣意性が働き、それが人事も研究内容も左右するということだ。恣意性とは本件においては男女関係、すなわち情だ。それが(笹井の表現を借りれば)研究を俯瞰する立場の目を曇らせ、客観性を失わせてしまったのだ。この先の笹井の選択は理研を辞めることだ。あの会見で笹井を信頼する者は理研内には存在しないだろう。研究者はロボットではない。笹井は一人の女性を公衆の面前で裏切るという重い十字架を、事件のあった理研という「聖域」で背負って行くつもりか。
そのことと同じように、理研という適正な競争を伴わない組織では、この先、新たな「小保方事件」が発生することは間違いなかろう。小保方もクロ、理研もクロなのだ。本件を機に、小保方ほか理研幹部は理研を辞し、その後、理研は解体へと向かうのが筋というものだ。
先の拙Blogにて「小保方劇場閉幕、以降、このことに言及しない」と宣言しておきながら、前言を撤回する。その理由は、16日、小保方晴子の新型万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の共著者で理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹(52)の記者会見をLIVE中継で見てしまったからだ。TV映像で笹井とメディア関係者とのやりとりを見聞きしているうちに身体中に毒が充満し、その毒をどうしても吐かないではいられなくなったからだ。笹井の登場によって、「小保方劇場」第二幕が上がった。
ヒール笹井の登場
笹井はいわば「ヒール」。小保方の上司にあたり、小保方と情を通じていたとされている。にもかかわらず、理研の論文不正問題調査結果で笹井はシロ、小保方はクロ。小保方の「単独犯」と判定された。調査結果公表後、笹井は姿を消し、小保方を擁護するような発言を一切しなかった。そのため、笹井は世間から、上司でありながら部下(小保方)に責任をなすりつけ、姿をくらませた卑劣な男として評価されていた。そんな男が会見するのだから、世間の注目が集まって当然だ。
保身のため小保方を裏切った笹井
会見は退屈だった。質問者も回答者も核心に迫らない。会見において笹井にメディアが尋ねるべきポイントは以下の2点、それ以外はどうでもよかった。その2点とは、(一)笹井は理研の調査結果を受けいれるのか否か、(二)なぜ、論文不正が起きたのか――に尽きる。
(一)で笹井が「受けいれる」と明言するのならば、それは小保方に対する裏切りを意味する。つまり、“自分は理研において保身する、小保方さん、サヨウナラ”というわけだ。笹井と小保方がどのような感情で結ばれていたのか、例えば肉体関係まであったのかどうかまでは筆者はわからない。ただ十分言えるのは、(A)先輩研究者と若手研究者同士、師弟的及び同志的絆で結ばれていたか、あるいは、(B)互いに利用しあう打算的関係だったか――のどちらかだ。(A)(B)どちらでも、それが男女の関係に移行することは大いにあり得る。
もちろん、会見で笹井が小保方との私的関係を明言するはずもなく、うやむやな答弁で終始しただろうから、そんな質問は時間の無駄だという見方もある。だが、このたびの理研の不祥事の根幹には、小保方が理研でユニットリーダーの地位を得、海外の研究雑誌に不正論文を発表してしまった主因の一つとして、笹井と小保方の間の緊密な関係という事項があったことだけはまちがいないのだから、少なくとも、このたびの論文不正問題を注視する世間の目を代表して、メディアはそのことをこの会見で笹井にぶつける義務があった。
笹井は会見において、筆者が掲げたような直接的質問形式に対してではないが、小保方について言及した。笹井の心情を意訳すれば、“君は研究者として未熟である。幹部の僕は理研で生き残る、論文不正のすべての責任を君にとってもらう”ということが一つ。笹井のこのような態度は、日本のエリート特有のものだ。保身と責任転嫁で一貫している。部下の成果はわがものとし、部下の失敗は部下のものとする――という姿勢だ。このような姿は、上司に部下とともに呼び出された部長が「お前のことは俺が守る」と言いながら、上司に詰問されるなり「そんなことは知りません」と言って責任を部下にかぶせるlotoのCMそのものではないか。
しかし、笹井はそれだけに終始したわけではない。彼は“STAP細胞は有力な仮説として存在する”と言い続けた。そうすることで、“間接的に小保方を擁護する”姿勢を滲ませた。だが、そう言い続けることは、小保方のみならず自身を弁護し続ける最良の言説である。笹井はそのことをよく知っている。まったくもって、煮ても焼いても食えない男だ。
笹井と小保方――あまりにも悲惨な男女関係の結末
論文不正は研究者にとって罪だ。その責任はとらねばならない。その一方で、笹井と小保方が理研という組織内部で交わした男女の関係性という面で見れば、これほどの悲劇を大衆に晒した場面をしらない。会見中継とは無慈悲なものだ。一組の男女のあまりにも残酷な結末がメディアを通じて世間に晒された。男女間の結末が、しかも芸能人でなく一般人の関係が、全国に中継配信されたのだ。このような異常な状況がこれまでにあっただろうか、筆者の記憶にはない。笹井と小保方の関係が(A)なのか(B)なのかはわからない、(A)でも(B)でもないかもしれないにしても、“哀れ”という言葉以外が見つからない。
責任回避に終始した笹井
第二点目の「論文不正が起きた」主因について――この論点については、すでに理研の野依理事長が「いくつかの複合的な要因が重なって、本件のような問題が発生してしまった」という意味の答弁をしており、その通りだと思う。笹井もこの複合的要因について会見で詳しく述べているので繰り返さないが、彼が展開する論旨を大雑把に言えば、STAP細胞論文の主要な実験とデータ収集等は若山研で終わっており、自分(笹井)はそれについて疑義をはさむことができなかった――ということに尽きる。つまり、笹井に言わせれば、問題は若山と小保方がコンビを組んでいた時期に仕組まれた、と言ったのだ。
この笹井の認識は、理研の調査委員会の調査結果とシンクロする。これもまた世間の常識から見れば、奇怪というほかない。調査委員会(笹井も同様だが)は、小保方を管理する者はシロ(建前上は、「責任はある」という表現だったが)、小保方はプレーヤーだからクロという認識で一致している。
このような主張が通るならば、理研は管理者を高給で雇用する必要はなくなる。理研は管理者=功労者という位置づけなのか。不祥事において当事者のクロは当たり前だが、管理者に管理責任が生じないという業務規程ならば、理事長以下全員がプレーヤー(ユニットリーダー)というフラットな組織で十分だ。プレーヤーが研究成果に応じて給与を決定するシステムでいい。理研には同類の法人及び官庁と似たような職制が構築されていて、管理者がその責任の度合いに応じて高額給与を受け取る給与規程が具備されているはずだ。笹井のように自分に管理責任はないという「逃げ」が許されるのならば、理研は笹井の給与の管理分に該当する額を削るべきだ。本件を契機に、笹井を管理職から外し、プレーヤーに戻したらいい。併せて、理研の組織をプレーヤー型に改組し、スリム化すればいい。
当たり前の民間企業ならば、管理者は「責任は俺がとるから、お前ら、思いっきりやれ」と言って、若手を前線に送り出すのではないのか。若手はそんな管理者の意気に感じて成長し、力をつけていくのではないのか。
論文不正の主因は理研幹部が小保方に情を働かせたこと
さて、本件の主因について、実のところ筆者は、まったく別次元の因子を考えている。まず理研が小保方を採用したことに始まり、若山との共同研究に起用し、彼女をユニットリーダーに抜擢し、さらに、一度不採用になった『Naitur』論文を笹井が手直しをして再投稿し、それが採用されるまでに至った過程で、小保方の不正をだれも指摘できなかった要因ということになる。換言すれば、その全過程で理研に客観的・科学的知見が働かなかった理由ということになる。このことは、理研という優秀な、頭脳明晰な研究者の集団の内部で、いかにも不自然な話なのだが、次のような観点に立てばその謎は解ける。つまり、理研内部の関係者すべてが、小保方という若い女性の魅力に情が働いていたと。
そのように考えるならば、すべて辻褄が合う。笹井は、小保方を採用したのは人事委員会及び前任者だと会見で話していたから、その採用責任者も含め、理研内部が小保方という若い女性研究者を前にして、正常な判断が働かなくなったのだ。理研の管理職にある幹部研究者が、小保方の前でのぼせ上っていたのだ。それくらい、小保方に魅力があったかどうかはわからない。が、理研が不正を発見できずにこのような不祥事を起こしてしまった要因は、複合的なものである以上、まったくそのとおりで、複合的な要因の、しかも大きなそれは、小保方に対して小保方の上司たちが情を働かせたことで説明できる。
科学の問題というよりも人間の問題
つまり、こういうことだ。理研は、科学者、研究者の聖域ではないということ。理研に生じる問題は、ほかの、たとえば営利追求組織で起こることと同じレベルなのだ。男女関係、嫉妬、足の引っ張り合い、派閥争い・・・不正まで。そのことは官庁、警察組織、企業、教育機関、軍隊・・・と変わらない。そう考えれば、理研における小保方の不正は、組織(人間集団)において惹起する問題の一つに過ぎないとも言える。(だから仕方がないというわけではない。)
不正が起こる背景を男女関係にのみに還元することはよろしくない。だが、複合的要因を科学や研究上の技術という領域に絞って考えるのも正しくない。“Love is Blind”というではないか。小保方を採用した者を含め、若山も笹井も小保方を巡る理研の幹部級研究者すべてが小保方に対し、Blindの状態だったのだ。このことは結果において、認めざるを得まい。
小保方はクロ、理研は解体
ここまでいささかシニックに、敢えて本件について斜に構えてコメントしてきたが、今回の論文不正事件の本質は、理研という適正な競争を伴わない、税金によって運営される巨大組織が必然的に孕む問題と、すべての組織に共通する問題の二面が絡み合っていることだ。
繰り返せば、競争を伴わない組織には恣意性が働き、それが人事も研究内容も左右するということだ。恣意性とは本件においては男女関係、すなわち情だ。それが(笹井の表現を借りれば)研究を俯瞰する立場の目を曇らせ、客観性を失わせてしまったのだ。この先の笹井の選択は理研を辞めることだ。あの会見で笹井を信頼する者は理研内には存在しないだろう。研究者はロボットではない。笹井は一人の女性を公衆の面前で裏切るという重い十字架を、事件のあった理研という「聖域」で背負って行くつもりか。
そのことと同じように、理研という適正な競争を伴わない組織では、この先、新たな「小保方事件」が発生することは間違いなかろう。小保方もクロ、理研もクロなのだ。本件を機に、小保方ほか理研幹部は理研を辞し、その後、理研は解体へと向かうのが筋というものだ。
2014年4月11日金曜日
小保方劇場の閉幕――会見で論文不正がより明確に
小保方問題を楽しんだ国民
STAP細胞の論文が不正と認定された問題で、理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダー(30)が9日に大阪市内で記者会見した。この問題についてはずいぶんと楽しませてもらった。小保方の不正はもちろん、理研のいい加減さ、研究機関としてふさわしくない実態が暴露され、そのことも人々を楽しませた。小保方と男性上司との不倫報道まであって、“研究所というと固そうだが、なんだ、うちの会社と変わんないな”なんて面白がった人も多かったかもしれない。
だが、理研はエンターテインメント・コンテンツを国民に提供する機関ではない。税金で科学的研究を行い、研究成果をもって世に資することが求められている。だから、このたびの不祥事における理研の責任は追及されるべきだ。税金を返せ、こんなことやっているのなら廃止しろというのが重税にあえぐ国民の声だ。
筆者も理研小保方騒動を楽しんだ者の一人だが、今回をもってこの問題に関する発言を打ち止めにする。昨日(9日)の会見にサプライズはなく、小保方の強度の思い込み、はったり、願望、希望を再確認したからだ。小保方は人間性に著しく欠陥を抱えた、思い込みが激しく、善悪の判断及び倫理性に欠けた人格を有した者であることが明確になったからだ。その小保方は理研に未練たらたらで、会見内容は筆者の予想したとおりだった。
会見は異端審問のような様相
会見風景は、あたかも西欧中世の異端審問所審査の様相を呈していた。小保方はSTAP細胞作製の方法として、コツとレシピだという。中世の錬金術師か魔術師のようだ。科学の実験なのだからその方法も客観的に記述するべきだろうが。「私にしかできない」STAP細胞というのは、いったいなんなのだ。秘伝の味か?あるTV番組で、「小保方一人を魔女狩りにしてはならない」とコメントした知識人がいたが、小保方信者のお一人だろうか。小保方は「STAP細胞」をあやつる、現代の魔女ともいえるのだ。
さらに小保方は「STAP細胞は存在しま~す」と悲痛な叫びをあげた。この絶叫はガリレオが異端審問にかけられたときに発した「それでも地球は回っている」を自己に投影させたものか。自分は無知な宗教者(理研)によって理不尽な審判をくだされたけれど、ガリレオがそうであったように、真理は私にあるのよ、というつもりだったのか。
STAP細胞の存在の有無と論文不正は別の問題
小保方はSTAP現象の「真実性」を無媒介に訴えた。しかも以下のとおり、見え見えの虚言を吐いた。▽その作製には200回以上成功していること、▽複数の研究者がその存在を認めていること、▽別の研究者が再現実験に成功していること――を公言した。一方、論文の不正については故意(悪意)ではなく不注意によるミスだと強調した。つまり、不正については一切口をつぐみ、ことさら「STAP細胞」の発見と作製の成功を強調する戦術だ。小保方の「発見し製作したもの」については後述する藤沢数希のBlogの説明が筆者にはわかりやすい。
けっきょくのところ、小保方及びその弁護団は「STAP細胞」はあるぞ、だから、論文不正を見逃せ、見逃さなければ法廷闘争だぞ、と理研を暗に恫喝し、涙の小保方を見せメディアを味方にし、小保方にこの先も理研で研究活動を続けさせる戦術のようだ。
小保方の研究については、管見の限り前出の藤沢数希のBlogがきわめて的確で、純文系の筆者の参考となった。小保方は本人が言うとおり研究者として未熟で、思い込みが激しく、思い込みを論文にする過程で研究者としては信じられない不正を働いた。研究者としては技術的にも倫理的にも欠格だ。だから、この件に関しては、理研が理研の規程に基づき、粛々と小保方を処分することを要望する。再調査の必要もない。その結果、訴訟に至るのならば受けて立って、シロクロをつけてほしい。不正を見逃すような妥協だけは困る。
なお、小保方が主張する「STAP細胞」の発見と作製の真偽については、小保方側は国民の前に、STAP細胞研究に係るすべての研究ノートを提出すべきであろう。小保方は理研の調査では手元にあった2冊の実験ノートを調査委に渡しただけだ、といった。ならば入手可能なすべての実験ノートを提出すべきだ。いまからでも遅くない。また、小保方が言うSTAP細胞を確認した第三者の存在を公にし、その証言も公表すべきだ。もちろん、そのときの実験ノートの記載が裏付けとして必要だ。
理研を舞台とした小保方劇場はあの会見をもって閉幕した。STAP細胞は仮説であり、日本の科学界は、STAP細胞という仮説を証明する努力を続けることとおなじくらい、日本の科学史上最大・最悪の不正事件である小保方を許容しないよう、声を上げていただきたい。STAP細胞があるかないかわからないのだから、小保方はシロだという小保方弁護団及び日本のマスメディアの誘導を科学的見地から阻止してほしい。
この先、他の研究者がSTAP細胞の作製に成功したとしても、それは小保方の功績ではない。小保方の「STAP細胞」は、論文に不正があった時点で、アウトなのだ。このことを日本のマスメディアははっきりと報道してほしい。
成果の上がらない研究者を税金で雇用し続けることは不可能
若い研究者に研究機会を与えることは重要だ。だが、成果の上がらない研究者を長期間、税金で雇用し続けることはできない。それは研究者に限らない。ましてや研究不正を働いた研究者を税金が投入された研究機関が雇用し続けるのは、著しいモラルハザードに当たる。小保方弁護団と小保方擁護のメディアの連合軍の恫喝に、理研は屈してはならない。筆者は、理研については廃止・解体が筋だとは思っているし、理研の肩を持つ気にはならないが、理研はこと小保方の不正についてだけは妥協しないで闘い続けてほしい。“小保方、理研で研究続行”という、理研と小保方の談合に至らないことだけを祈っている。
STAP細胞の論文が不正と認定された問題で、理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダー(30)が9日に大阪市内で記者会見した。この問題についてはずいぶんと楽しませてもらった。小保方の不正はもちろん、理研のいい加減さ、研究機関としてふさわしくない実態が暴露され、そのことも人々を楽しませた。小保方と男性上司との不倫報道まであって、“研究所というと固そうだが、なんだ、うちの会社と変わんないな”なんて面白がった人も多かったかもしれない。
だが、理研はエンターテインメント・コンテンツを国民に提供する機関ではない。税金で科学的研究を行い、研究成果をもって世に資することが求められている。だから、このたびの不祥事における理研の責任は追及されるべきだ。税金を返せ、こんなことやっているのなら廃止しろというのが重税にあえぐ国民の声だ。
筆者も理研小保方騒動を楽しんだ者の一人だが、今回をもってこの問題に関する発言を打ち止めにする。昨日(9日)の会見にサプライズはなく、小保方の強度の思い込み、はったり、願望、希望を再確認したからだ。小保方は人間性に著しく欠陥を抱えた、思い込みが激しく、善悪の判断及び倫理性に欠けた人格を有した者であることが明確になったからだ。その小保方は理研に未練たらたらで、会見内容は筆者の予想したとおりだった。
会見は異端審問のような様相
会見風景は、あたかも西欧中世の異端審問所審査の様相を呈していた。小保方はSTAP細胞作製の方法として、コツとレシピだという。中世の錬金術師か魔術師のようだ。科学の実験なのだからその方法も客観的に記述するべきだろうが。「私にしかできない」STAP細胞というのは、いったいなんなのだ。秘伝の味か?あるTV番組で、「小保方一人を魔女狩りにしてはならない」とコメントした知識人がいたが、小保方信者のお一人だろうか。小保方は「STAP細胞」をあやつる、現代の魔女ともいえるのだ。
さらに小保方は「STAP細胞は存在しま~す」と悲痛な叫びをあげた。この絶叫はガリレオが異端審問にかけられたときに発した「それでも地球は回っている」を自己に投影させたものか。自分は無知な宗教者(理研)によって理不尽な審判をくだされたけれど、ガリレオがそうであったように、真理は私にあるのよ、というつもりだったのか。
STAP細胞の存在の有無と論文不正は別の問題
小保方はSTAP現象の「真実性」を無媒介に訴えた。しかも以下のとおり、見え見えの虚言を吐いた。▽その作製には200回以上成功していること、▽複数の研究者がその存在を認めていること、▽別の研究者が再現実験に成功していること――を公言した。一方、論文の不正については故意(悪意)ではなく不注意によるミスだと強調した。つまり、不正については一切口をつぐみ、ことさら「STAP細胞」の発見と作製の成功を強調する戦術だ。小保方の「発見し製作したもの」については後述する藤沢数希のBlogの説明が筆者にはわかりやすい。
けっきょくのところ、小保方及びその弁護団は「STAP細胞」はあるぞ、だから、論文不正を見逃せ、見逃さなければ法廷闘争だぞ、と理研を暗に恫喝し、涙の小保方を見せメディアを味方にし、小保方にこの先も理研で研究活動を続けさせる戦術のようだ。
小保方の研究については、管見の限り前出の藤沢数希のBlogがきわめて的確で、純文系の筆者の参考となった。小保方は本人が言うとおり研究者として未熟で、思い込みが激しく、思い込みを論文にする過程で研究者としては信じられない不正を働いた。研究者としては技術的にも倫理的にも欠格だ。だから、この件に関しては、理研が理研の規程に基づき、粛々と小保方を処分することを要望する。再調査の必要もない。その結果、訴訟に至るのならば受けて立って、シロクロをつけてほしい。不正を見逃すような妥協だけは困る。
なお、小保方が主張する「STAP細胞」の発見と作製の真偽については、小保方側は国民の前に、STAP細胞研究に係るすべての研究ノートを提出すべきであろう。小保方は理研の調査では手元にあった2冊の実験ノートを調査委に渡しただけだ、といった。ならば入手可能なすべての実験ノートを提出すべきだ。いまからでも遅くない。また、小保方が言うSTAP細胞を確認した第三者の存在を公にし、その証言も公表すべきだ。もちろん、そのときの実験ノートの記載が裏付けとして必要だ。
理研を舞台とした小保方劇場はあの会見をもって閉幕した。STAP細胞は仮説であり、日本の科学界は、STAP細胞という仮説を証明する努力を続けることとおなじくらい、日本の科学史上最大・最悪の不正事件である小保方を許容しないよう、声を上げていただきたい。STAP細胞があるかないかわからないのだから、小保方はシロだという小保方弁護団及び日本のマスメディアの誘導を科学的見地から阻止してほしい。
この先、他の研究者がSTAP細胞の作製に成功したとしても、それは小保方の功績ではない。小保方の「STAP細胞」は、論文に不正があった時点で、アウトなのだ。このことを日本のマスメディアははっきりと報道してほしい。
成果の上がらない研究者を税金で雇用し続けることは不可能
若い研究者に研究機会を与えることは重要だ。だが、成果の上がらない研究者を長期間、税金で雇用し続けることはできない。それは研究者に限らない。ましてや研究不正を働いた研究者を税金が投入された研究機関が雇用し続けるのは、著しいモラルハザードに当たる。小保方弁護団と小保方擁護のメディアの連合軍の恫喝に、理研は屈してはならない。筆者は、理研については廃止・解体が筋だとは思っているし、理研の肩を持つ気にはならないが、理研はこと小保方の不正についてだけは妥協しないで闘い続けてほしい。“小保方、理研で研究続行”という、理研と小保方の談合に至らないことだけを祈っている。
猫は寒がり
冬が終わり春になったにもかかわらず、猫は寒がり。
夜、ベッドの上に2匹が次々と上がってくる。
最初はNico。筆者がベッドに入るや否や、足元で寝つく。
深夜、寝静まった頃、なんだか重いなと感じて目を覚ますと、Zazieがやはり脚の上にいる。
狭いシングルベッドに、人間1人と猫2匹がひしめきあって寝ているというわけだ。
そんな状況をカメラに残せないのは残念だが、就寝中なので仕方がない。
猫がベッドを離れるころは、きっと季節は夏へと変わっているにちがいない。
夜、ベッドの上に2匹が次々と上がってくる。
最初はNico。筆者がベッドに入るや否や、足元で寝つく。
深夜、寝静まった頃、なんだか重いなと感じて目を覚ますと、Zazieがやはり脚の上にいる。
狭いシングルベッドに、人間1人と猫2匹がひしめきあって寝ているというわけだ。
そんな状況をカメラに残せないのは残念だが、就寝中なので仕方がない。
猫がベッドを離れるころは、きっと季節は夏へと変わっているにちがいない。
Zazieは、筆者がテレビを見ているとき、胸元にあがって寝付く。
一方のNicoは、せいぜい足元にあがるくらい。
2014年4月8日火曜日
小保方晴子と『罪と罰』
理研の発生・再生科学総合研究センター研究ユニットリーダー・小保方晴子が引き起こした、このたびの論文不正問題について、整理をしておこう。小保方(STAP細胞論文筆頭著者、責任著者)ほか3名(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=共著者)は、刺激惹起性多能性獲得細胞(STAP細胞)を発見しその作製に成功した旨の論文を外国の科学雑誌に発表した。この研究発表を大雑把に言えば、「万能細胞」の発見というものだろうか。この論文が本当だとすれば、これまでの科学的常識を覆す大発見だった。
ところが、この論文についていくつかの瑕疵が指摘され、それを受けた理研は内部調査を行い、小保方の論文にいくつかの不正があると結論付けた。理研は、不正を行った小保方に対し処分の可能性を示唆したが、共著者の笹井、若山に対しては重大な責任があるという指摘にとどまり、また、同じく丹羽は免責され、STAP細胞の有無を検証する研究の責任者に任命した。すなわち、小保方はクロ、ほかの3人はシロという判定だ。
理研と争う小保方
これを受けた小保方側から理研の調査結果に対して不服申し立てがあり、明日(4月9日)、小保方本人が反論の記者会見を開く予定だという。小保方の主張は「STAP細胞は存在する」という根拠に基づくものとなる見込みだが、前出の小保方の上司にあたる丹羽は4月7日の謝罪会見で、「STAP細胞は仮説の段階に戻った」と発言した。
小保方は「STAP細胞は存在する」と主張し、理研は「STAP細胞は仮説だ」と主張する。おいおい、そういう論争を研究所でいくども繰り広げ、仮説を本説に磨き上げていくのが科学者・研究者というものなのじゃないのかい、庶民ならばだれしもそう思う。少なくとも、発表する前に内部で徹底的に議論すべきじゃないの、と言いたくなる。理研の職員(研究者)及び理研という組織は、まったくもってどうしようもない、とだれもが思うだろう。税金を使って若い女性に割烹着を着せて、遊んでいるんじゃないよ、というのが正直なところだ。
理研がへまをやらかした主因(理研の動機)
この問題を動機という観点で考えてみよう。まず、理研である。小保方の「STAP細胞」に検証もなしで飛びついた動機は何なのか。これについては、Blog「世に倦む日日」が次のように指摘している。
筆者はこのBlogの著者の指摘に全面的に同意する。すなわち、理研というところは、いかにも研究機関にふさわしくない組織なのだ。安倍政権の政策が実現しつつあるかのような仮象性を人々に与える機関。そして政府に気に入られて組織を拡大し、莫大な予算を獲得して天下りを受け入れ、その予算を使って関連業界と癒着する機関。このことは拙blogで繰り返し指摘した。だから結論もまた明白で、理研を廃止する方向で整理すればいい。少なくとも、研究機関として存続すべきではない。
小保方晴子の動機――夢の実現という己の無謬性信仰
次に小保方晴子である。彼女の不正の動機は何なのか。本人は現時点で反省していない。少なくとも、STAP細胞はあると主張している。つまり、万能細胞の存在を信じていて、しかも論文に不正はないという。
小保方の主張は一見無茶苦茶な論理だが、まったく否定されるべきもの、一笑に付されるべきものでもない。科学は仮説から――換言すれば夢からスタートする。人類が空を飛びたいという願望を擁いたのがいつのことだったかは知らないが、人類はそれをおそらく気の遠くなるほどの長い年限をかけて実現した。月に行きたい、ペストを克服したい…いくらでもそういった科学の勝利を挙げることができる。だから万能細胞、夢の若返り細胞の発見という夢を信じることは科学の第一歩だ。
しかし、問題はそこからだ。信ずることは結構なことだけれど、それを作製したと宣言することは簡単ではない。たとえば万能型ロボットのドラえもんの作製可能性を信ずることは勝手だけれど、そのことはそれを実現することとはまったく次元が異なる。ドラえもんを作製したと言って、その画像を模造したり、画像を切り貼りしたり、コピーペーストしたりしてドラえもん研究論文を発表したとしたら笑いものだが、STAP細胞ならば、その発見と作製を信じることができる。直近にips細胞(誘導多能性幹細胞)の発見があったからだ。だから筆者は、小保方の論文不正の動機は、自分の仮説(夢)を実現したいという一念だったのだと推論する。
普通の精神の研究者ならば、論文作成に不正をしてまで夢の実現を急がない。ところが小保方は論文に偽造を施し科学雑誌に公表した。その後ろ盾になったのは、理研という日本では権威のある研究組織の中で認められ、共同研究者のお墨付きまでもらったことだろう。理研の後ろ盾は小保方の自信になったのではないか。ところが、論文発表後、各所から不正を指摘され、心の支えだった理研内部から不正と断じられた。 それでも、小保方は己の夢にしがみついている。万能細胞は存在するのよ、私の夢はだれも否定できないのよ、(それが仮説であっても)私にはあるのよ、そうでしょう、だから不正ではないのよ――と叫び続けるつもりだ。こんな幼稚な精神をもった研究者が存在すること自体が奇跡だ。
小保方とラスコーリニコフ
筆者は小保方の精神構造の中に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフをみる。「選ばれし者は、より大局的な正義をなす為ならば、既存の法や規範を超越する資格を持つ」というわけだ。「選ばれし研究者の正義(=夢)の実現のためならば、既存の論文作成の手法を超越する資格をもつ」という論理構造だ。「目的のためならば手段を選ばず」という論法ではない。万能細胞は世の中に必要だ、これが実在すれば多くの人が救われる。わたしは理研という日本で有数な研究機関でそれを研究している。あとは発見するばかり。そして発見した(と錯誤した)。残る作業はそれを証明するだけ。そのためには発見したと思わせる「見やすい」画像を流用しましょう、コピペだって正義よ…だって、万能細胞は人類の発展に貢献するもの、人の命をすくうものなのだから…という具合だ。
小保方はオウム信者に似ている
この心的構造は、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の信者とよく似ている。彼らも人類救済を夢見た。そして、オウムに敵対する人々(悪霊にとりつかれた人々)を救済するためには、ポアが必要だった。つまり悪霊に取りつかれた人を殺害し、この世からあの世=天国に向かわせることが必要だった。それが人類を救う神の節理、神の教えだと。大局的な正義、人類を救済するための行為は、すべて正当化されるという論理だ。
このような自己に対する無謬性=自己絶対化はどこから生ずるのか。それは若者にありがちな傾向だとも言えるが、自己相対化の訓練を怠ってきたことから生ずる場合が多い。ラスコーリニコフの場合は高利貸しの老婆を殺害したのちに、己の信じた絶対正義の貫徹の思想の相対化を迫られた、すなわち苦悩が始まったのだ。ラスコーリニコフは行為の後に、人間の当たり前の思想的営為を取り戻した。だが、小保方には、いまだそれが訪れていない。
おそらく小保方という人間は、自己絶対化のなかでここまで生きてきたのだろう。夢の実現の連続の人生だったのではないか。その道はおそらくここまで順風満帆だったのかもしれない。だから小保方はラスコーリニコフと同じように、「法と規範を超越した行為」に挫折なく行き着いてしまったのではないか。
懐疑せよ、小保方的不幸人間になる前に
この先、小保方と理研が裁判で争うことになるのだろうが、不毛だ。今度は倫理(規範)を超えた近代法の争いになる。理研には解体という可視的な措置が可能だが(もちろん、理研解体を唱えているのは筆者だけだが)、小保方にはそのような具体的措置はくだらない。人間性の問題だから、だれかが小保方の精神を糺すこともできない。理研が勝訴すれば、理研の規程に基づいた処分が小保方にはくだるのだろうが、せいぜい戒告程度だろう。小保方はおそらくドストエフスキーを読まないだろうから、ラスコーリニコフの苦悩をわがものとすることも生涯あり得ない。小保方はまことにもって狭隘不幸な人生をこれからも歩むことになろう。だから、若い研究者にあっては、自己が信じた仮説を信ずることとおなじくらいそれを疑うことをすすめたい。第二、第三の小保方にならないために。
繰り返せば、夢を実現する、己の信じる道を歩む、正義を実現する――といった正論に誤りがあるはずがないのだが、そう盲信する前に、自然科学、社会科学を問わず、立論=仮説を得ることよりも、その実証、証明に至る道の方がはるかに困難だということを思い返してほしい。
小保方は理研と争う姿勢である限り、小説の後半のラスコーリニコフであることに至らず、物語の始まりの「老婆殺し」の「大局的正義」に立ち戻ろうという気でいる。不幸な人間だ。筆者は彼女に対しいま、哀れみすら感じている。
ところが、この論文についていくつかの瑕疵が指摘され、それを受けた理研は内部調査を行い、小保方の論文にいくつかの不正があると結論付けた。理研は、不正を行った小保方に対し処分の可能性を示唆したが、共著者の笹井、若山に対しては重大な責任があるという指摘にとどまり、また、同じく丹羽は免責され、STAP細胞の有無を検証する研究の責任者に任命した。すなわち、小保方はクロ、ほかの3人はシロという判定だ。
理研と争う小保方
これを受けた小保方側から理研の調査結果に対して不服申し立てがあり、明日(4月9日)、小保方本人が反論の記者会見を開く予定だという。小保方の主張は「STAP細胞は存在する」という根拠に基づくものとなる見込みだが、前出の小保方の上司にあたる丹羽は4月7日の謝罪会見で、「STAP細胞は仮説の段階に戻った」と発言した。
小保方は「STAP細胞は存在する」と主張し、理研は「STAP細胞は仮説だ」と主張する。おいおい、そういう論争を研究所でいくども繰り広げ、仮説を本説に磨き上げていくのが科学者・研究者というものなのじゃないのかい、庶民ならばだれしもそう思う。少なくとも、発表する前に内部で徹底的に議論すべきじゃないの、と言いたくなる。理研の職員(研究者)及び理研という組織は、まったくもってどうしようもない、とだれもが思うだろう。税金を使って若い女性に割烹着を着せて、遊んでいるんじゃないよ、というのが正直なところだ。
理研がへまをやらかした主因(理研の動機)
この問題を動機という観点で考えてみよう。まず、理研である。小保方の「STAP細胞」に検証もなしで飛びついた動機は何なのか。これについては、Blog「世に倦む日日」が次のように指摘している。
小保方晴子とSTAP細胞の発見は、安倍晋三の進める「成長戦略」のプロモーション・シンボルだった。その中味は三つあって、第一に、再生医療への国家を挙げた重点投資が「成長戦略」の目玉になっていたことに関わっている。安倍晋三とマスコミが「成長戦略」を宣伝するときは、必ず再生医療が引き合いに出され、「成長戦略」を正当化し訴求する看板商品になっていた。第二に、「女性の活用」がある。1/20に産業競争力会議が出した「成長戦略進化のための今後の検討方針」では、その第一の課題項目が「女性の活躍推進」になっている。第三に、教育の分野での研究開発投資の戦略的重点化で、「特定国立研究開発法人」を設置して巨額の予算を投入し、年収1億円以上の研究者をゴロゴロ出すことが策定されていた。つまり、安倍晋三の「成長戦略」の柱であるところの、再生医療、女性、研究開発重点投資の三つのキーワードが結節したところに、「小保方晴子のSTAP細胞」の花火の打ち上げあったということになる。実際に、安倍晋三は1/11に理研を視察し、笹井芳樹から説明を受ける場面をマスコミに撮影させて宣伝報道させていた。(2014/3/25)
筆者はこのBlogの著者の指摘に全面的に同意する。すなわち、理研というところは、いかにも研究機関にふさわしくない組織なのだ。安倍政権の政策が実現しつつあるかのような仮象性を人々に与える機関。そして政府に気に入られて組織を拡大し、莫大な予算を獲得して天下りを受け入れ、その予算を使って関連業界と癒着する機関。このことは拙blogで繰り返し指摘した。だから結論もまた明白で、理研を廃止する方向で整理すればいい。少なくとも、研究機関として存続すべきではない。
小保方晴子の動機――夢の実現という己の無謬性信仰
次に小保方晴子である。彼女の不正の動機は何なのか。本人は現時点で反省していない。少なくとも、STAP細胞はあると主張している。つまり、万能細胞の存在を信じていて、しかも論文に不正はないという。
小保方の主張は一見無茶苦茶な論理だが、まったく否定されるべきもの、一笑に付されるべきものでもない。科学は仮説から――換言すれば夢からスタートする。人類が空を飛びたいという願望を擁いたのがいつのことだったかは知らないが、人類はそれをおそらく気の遠くなるほどの長い年限をかけて実現した。月に行きたい、ペストを克服したい…いくらでもそういった科学の勝利を挙げることができる。だから万能細胞、夢の若返り細胞の発見という夢を信じることは科学の第一歩だ。
しかし、問題はそこからだ。信ずることは結構なことだけれど、それを作製したと宣言することは簡単ではない。たとえば万能型ロボットのドラえもんの作製可能性を信ずることは勝手だけれど、そのことはそれを実現することとはまったく次元が異なる。ドラえもんを作製したと言って、その画像を模造したり、画像を切り貼りしたり、コピーペーストしたりしてドラえもん研究論文を発表したとしたら笑いものだが、STAP細胞ならば、その発見と作製を信じることができる。直近にips細胞(誘導多能性幹細胞)の発見があったからだ。だから筆者は、小保方の論文不正の動機は、自分の仮説(夢)を実現したいという一念だったのだと推論する。
普通の精神の研究者ならば、論文作成に不正をしてまで夢の実現を急がない。ところが小保方は論文に偽造を施し科学雑誌に公表した。その後ろ盾になったのは、理研という日本では権威のある研究組織の中で認められ、共同研究者のお墨付きまでもらったことだろう。理研の後ろ盾は小保方の自信になったのではないか。ところが、論文発表後、各所から不正を指摘され、心の支えだった理研内部から不正と断じられた。 それでも、小保方は己の夢にしがみついている。万能細胞は存在するのよ、私の夢はだれも否定できないのよ、(それが仮説であっても)私にはあるのよ、そうでしょう、だから不正ではないのよ――と叫び続けるつもりだ。こんな幼稚な精神をもった研究者が存在すること自体が奇跡だ。
小保方とラスコーリニコフ
筆者は小保方の精神構造の中に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフをみる。「選ばれし者は、より大局的な正義をなす為ならば、既存の法や規範を超越する資格を持つ」というわけだ。「選ばれし研究者の正義(=夢)の実現のためならば、既存の論文作成の手法を超越する資格をもつ」という論理構造だ。「目的のためならば手段を選ばず」という論法ではない。万能細胞は世の中に必要だ、これが実在すれば多くの人が救われる。わたしは理研という日本で有数な研究機関でそれを研究している。あとは発見するばかり。そして発見した(と錯誤した)。残る作業はそれを証明するだけ。そのためには発見したと思わせる「見やすい」画像を流用しましょう、コピペだって正義よ…だって、万能細胞は人類の発展に貢献するもの、人の命をすくうものなのだから…という具合だ。
小保方はオウム信者に似ている
この心的構造は、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の信者とよく似ている。彼らも人類救済を夢見た。そして、オウムに敵対する人々(悪霊にとりつかれた人々)を救済するためには、ポアが必要だった。つまり悪霊に取りつかれた人を殺害し、この世からあの世=天国に向かわせることが必要だった。それが人類を救う神の節理、神の教えだと。大局的な正義、人類を救済するための行為は、すべて正当化されるという論理だ。
このような自己に対する無謬性=自己絶対化はどこから生ずるのか。それは若者にありがちな傾向だとも言えるが、自己相対化の訓練を怠ってきたことから生ずる場合が多い。ラスコーリニコフの場合は高利貸しの老婆を殺害したのちに、己の信じた絶対正義の貫徹の思想の相対化を迫られた、すなわち苦悩が始まったのだ。ラスコーリニコフは行為の後に、人間の当たり前の思想的営為を取り戻した。だが、小保方には、いまだそれが訪れていない。
おそらく小保方という人間は、自己絶対化のなかでここまで生きてきたのだろう。夢の実現の連続の人生だったのではないか。その道はおそらくここまで順風満帆だったのかもしれない。だから小保方はラスコーリニコフと同じように、「法と規範を超越した行為」に挫折なく行き着いてしまったのではないか。
懐疑せよ、小保方的不幸人間になる前に
この先、小保方と理研が裁判で争うことになるのだろうが、不毛だ。今度は倫理(規範)を超えた近代法の争いになる。理研には解体という可視的な措置が可能だが(もちろん、理研解体を唱えているのは筆者だけだが)、小保方にはそのような具体的措置はくだらない。人間性の問題だから、だれかが小保方の精神を糺すこともできない。理研が勝訴すれば、理研の規程に基づいた処分が小保方にはくだるのだろうが、せいぜい戒告程度だろう。小保方はおそらくドストエフスキーを読まないだろうから、ラスコーリニコフの苦悩をわがものとすることも生涯あり得ない。小保方はまことにもって狭隘不幸な人生をこれからも歩むことになろう。だから、若い研究者にあっては、自己が信じた仮説を信ずることとおなじくらいそれを疑うことをすすめたい。第二、第三の小保方にならないために。
繰り返せば、夢を実現する、己の信じる道を歩む、正義を実現する――といった正論に誤りがあるはずがないのだが、そう盲信する前に、自然科学、社会科学を問わず、立論=仮説を得ることよりも、その実証、証明に至る道の方がはるかに困難だということを思い返してほしい。
小保方は理研と争う姿勢である限り、小説の後半のラスコーリニコフであることに至らず、物語の始まりの「老婆殺し」の「大局的正義」に立ち戻ろうという気でいる。不幸な人間だ。筆者は彼女に対しいま、哀れみすら感じている。
2014年4月7日月曜日
2014年4月4日金曜日
理研を廃止せよ――民主党政権の事業仕訳けは正しかった
小保方はクロ、しかも「単独犯」――理研最終調査結果
新型万能細胞「STAP細胞」の論文問題で、理化学研究所(神戸)は最終調査結果を発表し、そのなかで小保方晴子研究ユニットリーダー(30)が論文を捏造、改ざんしたと断じた。理研は小保方をクロと断定したわけだが、小保方以外の3人の調査対象者(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=以下論文共著者)に研究不正は認められなかったと結論付けたが、うち、山梨大学の若山照彦教授と理研発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長については、データの確認などを怠ったとして「責任は重大」とした。「責任は重大」という調査結果の文言は、3人の行為が同研究所の定めるなにがしかの規程のどの部分に該当し、それが処分対象になるものなのかならないものなのかについては報道されていないのでわからない。責任は重大だけど、処分には当たらないよ、という解釈でいいのだろうか。しかも、STAP細胞論文の共著者で、理研において同研究で小保方にもっとも近い位置にいる丹羽仁史の責任が免責されているのは不可解極まる。
理研は小保方の不正の動機を明らかにせよ
そればかりではない。不祥事に係る最終調査結果を発表する場合、不祥事を起こした本人が調査結果に納得していることが一般的だ。調査結果を受容し、その結果に基づいて今後行われる処分に潔く従います、というのが筋だ。そこに反省の気持ちが見られれば、処分が軽微に及ぶことも多々あろう。当事者が若く未熟である場合、再起の機会を与えることを滲ませる処分もあるだろう。その度合いを斟酌するのは、当事者の動機次第というものだ。今回の場合、小保方はなんのために捏造をしたのか、それこそが調査の肝に当たる。小保方は、理研の記者会見を受けて、理研に不服申し立てをするという。小保方は反省していない。理研と争うつもりだ。これには驚いた。(この件については後述する。)
今回の最終調査結果では、画像のすり替えや等、論文を構成する部材にばかり焦点が当たっていて、小保方の精神性――不正や捏造に至った精神の現象性について触れていない。理研の調査委員会は小保方にヒアリング調査をしたというが、ヒアリングをしたのならば、そのことを通して、小保方の具体的反論や論文作成の過程が明らかになったはずだ。調査委員はそれを受けて、小保方に非のある部分を示し、小保方に指導をし、反省を促すべきではなかったのか。小保方の精神性をスルーして調査が進んだのはなぜなのだろうか。そもそも、小保方が反省をしないというのは小保方のどのような精神構造からなのか。
問われるべきは理研の体質
理研は小保方の「単独犯」で幕引きを図ろうとしているようにみえる。しかし、理研には税金が投入されている。一人の「未熟な研究者」が論文を捏造して世間を騒がせて申し訳ない、ですまされる問題ではない。理研においては、小保方のような「未熟な研究者」が自由気ままに研究を続け、その輩に税金を使って給与を払い続けているのではないか。小保方の件は世間に知られたけれど、われわれが知らない「未熟な研究者」による捏造や無駄な研究がほかにもたくさんあるのではないか。この先、理研から第二第三の小保方が出てくる可能性は皆無なのか――そう考えて当然だろう。本件を契機として、理研の管理責任こそが問われなければならない。 再発防止策が求められる。
もっとも同調査結果は小保方の論文に不正があったかどうかを判定するものだから、再発防止や組織管理の問題については触れない、という観点は正しい。ならば、なおのこと、理研のあり方を糺す第三者機関による理研解体作業に着手しなければならない。理研の中に、「未熟な研究者」を野放しにする体質が内在しているのではないか。「未熟な研究者」の研究結果を検証する科学的能力が不足しているのではないか・・・本件を契機として、理研の問題点をさまざまな角度から問う、理研解体のための調査委員会設置が望まれよう。
理研は税金の無駄遣い機関
さて、ネオリベラリストの経済学者ミルトン・フリードマンが生きていてこの問題を知ったならば、理研不要論を声高に唱えたことだろう。フリードマンらの市場原理主義の視点からすれば、政府が科学研究に税金を投入することは悪なのだから。
フリードマンはその著『資本主義と自由』のなかですぐさま廃止すべき政府の政策・制度として、▽農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度、▽輸入関税または輸出制限、▽家賃統制、全面的な物価・賃金統制、▽法定の最低賃金や価格上限、▽細部にわたる産業規制、▽連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制、▽現行の社会保障制度、▽事業・職業の免許制度、▽公営住宅、▽平時の徴兵制、▽国立公園、▽営利目的での郵便事業の法的廃止、▽公有公営の有料道路――を挙げている。
税金が投入された政府機関には自由な競争原理が働かない。理研はその典型だ。今回のように、「未熟な研究者」(小保方)が勝手気ままに不正を行えたのは、理研という政府が税金を投じた研究機関だからだ。そこでは正しい競争が行われないから、大きな研究成果を期待することは難しい。ミルトン・フリードマンならば、理研という存在にすぐさま廃止すべき政府の機関を見たに違いない。研究成果を促進するのは、自由な競争原理が働く民間の研究機関においてだ、と断じただろう。
小保方側の提訴で理研に裁判費用が
筆者は市場原理主義者ではないけれど、このたびの理研の不祥事の報道を見聞きするたびに、フリードマンに賛同したくなってくる。その気持ちさらに強くさせたのが、理研の最終報告の直後、クロと断じられた小保方が、理研の見解に「とても承服できません」と憤り、2日には「論文の撤回に同意したことは一度もなく、取り下げるつもりはない」とのコメントを出し、週明けに理研に不服申し立てをする意向で、8~9日を念頭に会見を開く予定でいるという報道があったことだ。
つまり、小保方は理研を相手取り、訴訟をおこす構えなのだ。小保方が訴訟をするとなると、理研もそれに応じて弁護士を立てることになる。その金はどこから出るのかといえば、理事長のポケットからではなかろう。当然、税金の一部が訴訟費用に充てられる。おいおい、たいした研究成果もあげていない、しかも不祥事を起こした研究所が、こんどは訴訟費用なんかで税金を使うのかよ、というのが庶民の正直な気持ちだ。
民主党政権下の「事業仕訳け」は正しかった
理研といえば、2009年、当時の民主党政権が行った「事業仕分け」において、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことについて、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判したことが思い出される。
理研理事長であるノーベル賞受賞科学者・野依良治は、事業仕分け結果について、まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈した。
当時、事業仕分けチームが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、独立行政法人の理研が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。
当時、理研のスパコン開発は利権がらみ。それだけではない。理研は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だった。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、理研に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはないような「研究機関」なのだ。理事長の野依良治は当時、「歴史の法廷」という言葉を吐いた。今回の不祥事を前にして、「歴史の法廷」に立つのは、「未熟な研究者」小保方晴子及び「その無能な管理者」野依良治の両名なのだ。
新型万能細胞「STAP細胞」の論文問題で、理化学研究所(神戸)は最終調査結果を発表し、そのなかで小保方晴子研究ユニットリーダー(30)が論文を捏造、改ざんしたと断じた。理研は小保方をクロと断定したわけだが、小保方以外の3人の調査対象者(笹井芳樹、若山照彦、丹羽仁史=以下論文共著者)に研究不正は認められなかったと結論付けたが、うち、山梨大学の若山照彦教授と理研発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長については、データの確認などを怠ったとして「責任は重大」とした。「責任は重大」という調査結果の文言は、3人の行為が同研究所の定めるなにがしかの規程のどの部分に該当し、それが処分対象になるものなのかならないものなのかについては報道されていないのでわからない。責任は重大だけど、処分には当たらないよ、という解釈でいいのだろうか。しかも、STAP細胞論文の共著者で、理研において同研究で小保方にもっとも近い位置にいる丹羽仁史の責任が免責されているのは不可解極まる。
理研は小保方の不正の動機を明らかにせよ
そればかりではない。不祥事に係る最終調査結果を発表する場合、不祥事を起こした本人が調査結果に納得していることが一般的だ。調査結果を受容し、その結果に基づいて今後行われる処分に潔く従います、というのが筋だ。そこに反省の気持ちが見られれば、処分が軽微に及ぶことも多々あろう。当事者が若く未熟である場合、再起の機会を与えることを滲ませる処分もあるだろう。その度合いを斟酌するのは、当事者の動機次第というものだ。今回の場合、小保方はなんのために捏造をしたのか、それこそが調査の肝に当たる。小保方は、理研の記者会見を受けて、理研に不服申し立てをするという。小保方は反省していない。理研と争うつもりだ。これには驚いた。(この件については後述する。)
今回の最終調査結果では、画像のすり替えや等、論文を構成する部材にばかり焦点が当たっていて、小保方の精神性――不正や捏造に至った精神の現象性について触れていない。理研の調査委員会は小保方にヒアリング調査をしたというが、ヒアリングをしたのならば、そのことを通して、小保方の具体的反論や論文作成の過程が明らかになったはずだ。調査委員はそれを受けて、小保方に非のある部分を示し、小保方に指導をし、反省を促すべきではなかったのか。小保方の精神性をスルーして調査が進んだのはなぜなのだろうか。そもそも、小保方が反省をしないというのは小保方のどのような精神構造からなのか。
問われるべきは理研の体質
理研は小保方の「単独犯」で幕引きを図ろうとしているようにみえる。しかし、理研には税金が投入されている。一人の「未熟な研究者」が論文を捏造して世間を騒がせて申し訳ない、ですまされる問題ではない。理研においては、小保方のような「未熟な研究者」が自由気ままに研究を続け、その輩に税金を使って給与を払い続けているのではないか。小保方の件は世間に知られたけれど、われわれが知らない「未熟な研究者」による捏造や無駄な研究がほかにもたくさんあるのではないか。この先、理研から第二第三の小保方が出てくる可能性は皆無なのか――そう考えて当然だろう。本件を契機として、理研の管理責任こそが問われなければならない。 再発防止策が求められる。
もっとも同調査結果は小保方の論文に不正があったかどうかを判定するものだから、再発防止や組織管理の問題については触れない、という観点は正しい。ならば、なおのこと、理研のあり方を糺す第三者機関による理研解体作業に着手しなければならない。理研の中に、「未熟な研究者」を野放しにする体質が内在しているのではないか。「未熟な研究者」の研究結果を検証する科学的能力が不足しているのではないか・・・本件を契機として、理研の問題点をさまざまな角度から問う、理研解体のための調査委員会設置が望まれよう。
理研は税金の無駄遣い機関
さて、ネオリベラリストの経済学者ミルトン・フリードマンが生きていてこの問題を知ったならば、理研不要論を声高に唱えたことだろう。フリードマンらの市場原理主義の視点からすれば、政府が科学研究に税金を投入することは悪なのだから。
フリードマンはその著『資本主義と自由』のなかですぐさま廃止すべき政府の政策・制度として、▽農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度、▽輸入関税または輸出制限、▽家賃統制、全面的な物価・賃金統制、▽法定の最低賃金や価格上限、▽細部にわたる産業規制、▽連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制、▽現行の社会保障制度、▽事業・職業の免許制度、▽公営住宅、▽平時の徴兵制、▽国立公園、▽営利目的での郵便事業の法的廃止、▽公有公営の有料道路――を挙げている。
税金が投入された政府機関には自由な競争原理が働かない。理研はその典型だ。今回のように、「未熟な研究者」(小保方)が勝手気ままに不正を行えたのは、理研という政府が税金を投じた研究機関だからだ。そこでは正しい競争が行われないから、大きな研究成果を期待することは難しい。ミルトン・フリードマンならば、理研という存在にすぐさま廃止すべき政府の機関を見たに違いない。研究成果を促進するのは、自由な競争原理が働く民間の研究機関においてだ、と断じただろう。
小保方側の提訴で理研に裁判費用が
筆者は市場原理主義者ではないけれど、このたびの理研の不祥事の報道を見聞きするたびに、フリードマンに賛同したくなってくる。その気持ちさらに強くさせたのが、理研の最終報告の直後、クロと断じられた小保方が、理研の見解に「とても承服できません」と憤り、2日には「論文の撤回に同意したことは一度もなく、取り下げるつもりはない」とのコメントを出し、週明けに理研に不服申し立てをする意向で、8~9日を念頭に会見を開く予定でいるという報道があったことだ。
つまり、小保方は理研を相手取り、訴訟をおこす構えなのだ。小保方が訴訟をするとなると、理研もそれに応じて弁護士を立てることになる。その金はどこから出るのかといえば、理事長のポケットからではなかろう。当然、税金の一部が訴訟費用に充てられる。おいおい、たいした研究成果もあげていない、しかも不祥事を起こした研究所が、こんどは訴訟費用なんかで税金を使うのかよ、というのが庶民の正直な気持ちだ。
民主党政権下の「事業仕訳け」は正しかった
理研といえば、2009年、当時の民主党政権が行った「事業仕分け」において、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことについて、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判したことが思い出される。
理研理事長であるノーベル賞受賞科学者・野依良治は、事業仕分け結果について、まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈した。
当時、事業仕分けチームが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、独立行政法人の理研が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。
当時、理研のスパコン開発は利権がらみ。それだけではない。理研は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だった。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、理研に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはないような「研究機関」なのだ。理事長の野依良治は当時、「歴史の法廷」という言葉を吐いた。今回の不祥事を前にして、「歴史の法廷」に立つのは、「未熟な研究者」小保方晴子及び「その無能な管理者」野依良治の両名なのだ。
2014年4月1日火曜日
平成26年度、スタート
4月新年度のスタート。
メディアは「消費税」狂想曲。
税率アップの是非は問われない。
さて、猫の体重測定結果を記しておく。
Zazieは4.3㎏、前月比300g減った。
Nicoは6.1㎏、同400g減った。
2匹とも増えたり減ったり・・・
メディアは「消費税」狂想曲。
税率アップの是非は問われない。
さて、猫の体重測定結果を記しておく。
Zazieは4.3㎏、前月比300g減った。
Nicoは6.1㎏、同400g減った。
2匹とも増えたり減ったり・・・
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