@Yanaka
2014年7月15日火曜日
W杯ブラジル大会閉幕
ドイツの強さは総合力
サッカーW杯ブラジル大会がドイツの優勝をもって終了した。北中南米開催のW杯で欧州勢が優勝したのはドイツが初めてのこと。しかも、セミファイナルでブラジルを、ファイナルでアルゼンチンを退けての栄冠であるから価値が高い。
ドイツ優勝の要因はいくつかあろう。才能のある若手がまさに旬の勢いで本大会に臨んだこと。GKの鉄壁の守備。高い組織力と規律、そしてフィジカルの強さ。戦術の巧みさ、選手層の厚さ等々・・・列挙すればきりがない。
いわゆる総合力が勝り、攻守のバランスがとれていたことだろう。言い古された言辞ではあるが、勝った方が強いわけであって、2014年時点において、ドイツが世界で一番サッカーの強い国である。
日本の“実力”は、出場国中、下から数えて1番目か2番目
本大会の総括はすでにスポーツメディアでなされていて、それに付け加えるものはない。ただ、はっきりしたのは、日本の実力のなさ。日本の力は、本大会出場国(32か国)中、下から数えて一番目か二番目という事実。もちろんこれは結果論を含んでの評価だが。
世界サッカーの進化のスピードは、日本が思う以上に早かった。前回南アフリカ大会終了からの4年間、日本はその変化についていけなかった。日本サッカーの関係者が、本田圭佑がまき散らした毒素に染まり、謙虚さを失い、自信過剰になり天狗になっていた。この事実を真摯に受け止めなければならない。
日本の話題はサポーターのゴミ拾いのみ、というさびしさ
思えば、開幕戦のブラジル-クロアチア戦は、日本人の主審が裁いた。さっそうと登場した日本人主審だったが、ブラジルのFWのダイブに騙されてPK判定をしてしまい、世界中から非難を受けた。
グループリーグ(GL)C組の日本は1分け2敗の勝ち点1で同組最下位に沈み、日本代表は早々と日本に帰国した。
本大会における日本がらみの話題と言えば、日本人サポーターのゴミ拾いという寂しいもの。選手も審判もだめで、ゴミ拾いの日本人が称賛されるという珍現象だけが開催国メディアの注目を集めた。
日本サッカーのガラパゴス化
日本人の主審がブラジル選手のダイブに簡単に騙されたのは、日本人主審のミスという次元の問題ではない。日本人の審判団が仕事をするJリーグに問題の根源がある。つまり、Jリーグのガラパゴス化である。日本のトップカテゴリーであるJリーグは、世界サッカーの潮流とは無関係に、独自の進化を遂げている。主審の判定基準で言えば、接触プレーに著しく厳しい。タックルで倒されれば(ボールに向かったものでも)、倒れた側に必ずファウルが与えられる。正当なショルダーチャージでも(選手が倒れれば)、倒された側にファウルが与えられる。
激しい当たりにはすぐイエローが出され、選手は退場を恐れて激しいプレーを控えるようになる。そればかりではない。日本のサッカー風土がお嬢様サッカー風のパス主体の試合を好むところから、激しいチャージを行う選手は、審判、ファン、メディア、選手間で嫌われる。その結果、Jリーグの選手は球際の競り合いに極端に弱い。この現象は、JリーグクラブがACLで勝てなくなったことで実証されている。
お嬢様サッカーはアマチュアの少年サッカー、中高大の学校クラブ活動でじっくりと醸成される。お嬢様サッカーは、プロのクラブのユースチームでも、指導者が同じような指導方法なので、是正されない。フィジカルの強さよりも、ボール捌きが器用で上手な選手がレギュラーになり、おとなしく闘争心のない試合を10代で繰り返す。
強いフィジカル、闘争心をもった代表選手が必要
本大会に日本代表に選ばれた選手をみると、似たようなタイプの選手ばかり。これはザッケローニが選んだのか広告代理店が選んだのか定かではないが、戦い方の幅を感じさせない選手ばかり。そしてその共通点は、みなフィジカルが弱いこと。
サッカーは格闘技的要素もあるが、相手を倒すことにフィジカル強化の目的があるわけではない。拙コラムで何度も繰り返すように、(相手との)競り合い、走りあい、ボールの奪い合い――に必要なフィジカルを身につければいいのであって、筋肉をつけて大きくなればいいというものではない。大型化が必要なのはゴールキーパー(GK)とセンターバック(CB)。この2つのポジションは、身長が高いほうが有利だが、それ以外のポジションは必ずしも大型であればいいというわけではない。
フィジカルの強さを実効性の高いものとするのは、強い精神力・闘争心である。本大会において世界の代表選手は、その点ではるかに日本を凌いでいた。日本代表選手は、精神力・闘争心で世界に引けを取っていた。今後の日本代表の強化ポイントは、フィジカル強化、精神力・闘争心の鍛錬となろう。簡潔に言えば、W杯という舞台は戦いの場であるということだ。「自分たちのサッカー」をなんて寝言を言っていたのでは勝てないということだ。
We will play our own brand of football.(自分たちのサッカーをするだけ)
このことは拙コラムですでに書いたことだけれど、「自分たちのサッカーをする」という言い回しは、We will play our own brand of football.の日本語訳であって、この言い回しは外国人選手・監督等が試合前のインタビュー等に答えるときの常套句の一つにすぎない。この言い方に深い意味はない。日本人選手の間では「がんばります」が意味をもたない常套句の一つとして定着していたし、「最善を尽くします」と言うのもあった。だが近年、これらの常套句が陳腐化してきたので、気の利いた言い方の一つとして、「自分たちのサッカーをするだけ」が流行りだした。
しかし、いかにもばかげているのは、この空疎な常套句が、日本のサッカーの方向性を決定してしまったことだ。日本は攻撃的サッカーで勝たなければいけないと。このカラクリについては、すでに拙コラムで繰り返し書いてきた。
本大会を見ると、強豪国は相手次第で多様な戦略・戦術・選手起用を試行してきたことがわかる。そして、最後には、もっとも攻守のバランスのとれたチーム(ドイツ)が勝ち残った。勝負事というのは、そういうものだ。サッカーに「勝利の方程式」があるわけではない。いまの日本人のサッカーの実力で「自分たちのサッカー」で相手に勝ち切れるほど、世界は甘くない。相手によって、やり方はいろいろある。W杯においてなによりも大切なのは、監督・選手が、勝ち抜くために必要な選択を重ね、それを実行することにある。
守りを蔑ろにしたチームは上には行けない。筆者が今大会もっとも印象に残ったチームは、日本と同じC組で退場者を出しながら日本と引分け、最終戦、コートジボワールを追加時間のPKで退けGLを勝ち抜けたギリシャである。
サッカーW杯ブラジル大会がドイツの優勝をもって終了した。北中南米開催のW杯で欧州勢が優勝したのはドイツが初めてのこと。しかも、セミファイナルでブラジルを、ファイナルでアルゼンチンを退けての栄冠であるから価値が高い。
ドイツ優勝の要因はいくつかあろう。才能のある若手がまさに旬の勢いで本大会に臨んだこと。GKの鉄壁の守備。高い組織力と規律、そしてフィジカルの強さ。戦術の巧みさ、選手層の厚さ等々・・・列挙すればきりがない。
いわゆる総合力が勝り、攻守のバランスがとれていたことだろう。言い古された言辞ではあるが、勝った方が強いわけであって、2014年時点において、ドイツが世界で一番サッカーの強い国である。
日本の“実力”は、出場国中、下から数えて1番目か2番目
本大会の総括はすでにスポーツメディアでなされていて、それに付け加えるものはない。ただ、はっきりしたのは、日本の実力のなさ。日本の力は、本大会出場国(32か国)中、下から数えて一番目か二番目という事実。もちろんこれは結果論を含んでの評価だが。
世界サッカーの進化のスピードは、日本が思う以上に早かった。前回南アフリカ大会終了からの4年間、日本はその変化についていけなかった。日本サッカーの関係者が、本田圭佑がまき散らした毒素に染まり、謙虚さを失い、自信過剰になり天狗になっていた。この事実を真摯に受け止めなければならない。
日本の話題はサポーターのゴミ拾いのみ、というさびしさ
思えば、開幕戦のブラジル-クロアチア戦は、日本人の主審が裁いた。さっそうと登場した日本人主審だったが、ブラジルのFWのダイブに騙されてPK判定をしてしまい、世界中から非難を受けた。
グループリーグ(GL)C組の日本は1分け2敗の勝ち点1で同組最下位に沈み、日本代表は早々と日本に帰国した。
本大会における日本がらみの話題と言えば、日本人サポーターのゴミ拾いという寂しいもの。選手も審判もだめで、ゴミ拾いの日本人が称賛されるという珍現象だけが開催国メディアの注目を集めた。
日本サッカーのガラパゴス化
日本人の主審がブラジル選手のダイブに簡単に騙されたのは、日本人主審のミスという次元の問題ではない。日本人の審判団が仕事をするJリーグに問題の根源がある。つまり、Jリーグのガラパゴス化である。日本のトップカテゴリーであるJリーグは、世界サッカーの潮流とは無関係に、独自の進化を遂げている。主審の判定基準で言えば、接触プレーに著しく厳しい。タックルで倒されれば(ボールに向かったものでも)、倒れた側に必ずファウルが与えられる。正当なショルダーチャージでも(選手が倒れれば)、倒された側にファウルが与えられる。
激しい当たりにはすぐイエローが出され、選手は退場を恐れて激しいプレーを控えるようになる。そればかりではない。日本のサッカー風土がお嬢様サッカー風のパス主体の試合を好むところから、激しいチャージを行う選手は、審判、ファン、メディア、選手間で嫌われる。その結果、Jリーグの選手は球際の競り合いに極端に弱い。この現象は、JリーグクラブがACLで勝てなくなったことで実証されている。
お嬢様サッカーはアマチュアの少年サッカー、中高大の学校クラブ活動でじっくりと醸成される。お嬢様サッカーは、プロのクラブのユースチームでも、指導者が同じような指導方法なので、是正されない。フィジカルの強さよりも、ボール捌きが器用で上手な選手がレギュラーになり、おとなしく闘争心のない試合を10代で繰り返す。
強いフィジカル、闘争心をもった代表選手が必要
本大会に日本代表に選ばれた選手をみると、似たようなタイプの選手ばかり。これはザッケローニが選んだのか広告代理店が選んだのか定かではないが、戦い方の幅を感じさせない選手ばかり。そしてその共通点は、みなフィジカルが弱いこと。
サッカーは格闘技的要素もあるが、相手を倒すことにフィジカル強化の目的があるわけではない。拙コラムで何度も繰り返すように、(相手との)競り合い、走りあい、ボールの奪い合い――に必要なフィジカルを身につければいいのであって、筋肉をつけて大きくなればいいというものではない。大型化が必要なのはゴールキーパー(GK)とセンターバック(CB)。この2つのポジションは、身長が高いほうが有利だが、それ以外のポジションは必ずしも大型であればいいというわけではない。
フィジカルの強さを実効性の高いものとするのは、強い精神力・闘争心である。本大会において世界の代表選手は、その点ではるかに日本を凌いでいた。日本代表選手は、精神力・闘争心で世界に引けを取っていた。今後の日本代表の強化ポイントは、フィジカル強化、精神力・闘争心の鍛錬となろう。簡潔に言えば、W杯という舞台は戦いの場であるということだ。「自分たちのサッカー」をなんて寝言を言っていたのでは勝てないということだ。
We will play our own brand of football.(自分たちのサッカーをするだけ)
このことは拙コラムですでに書いたことだけれど、「自分たちのサッカーをする」という言い回しは、We will play our own brand of football.の日本語訳であって、この言い回しは外国人選手・監督等が試合前のインタビュー等に答えるときの常套句の一つにすぎない。この言い方に深い意味はない。日本人選手の間では「がんばります」が意味をもたない常套句の一つとして定着していたし、「最善を尽くします」と言うのもあった。だが近年、これらの常套句が陳腐化してきたので、気の利いた言い方の一つとして、「自分たちのサッカーをするだけ」が流行りだした。
しかし、いかにもばかげているのは、この空疎な常套句が、日本のサッカーの方向性を決定してしまったことだ。日本は攻撃的サッカーで勝たなければいけないと。このカラクリについては、すでに拙コラムで繰り返し書いてきた。
本大会を見ると、強豪国は相手次第で多様な戦略・戦術・選手起用を試行してきたことがわかる。そして、最後には、もっとも攻守のバランスのとれたチーム(ドイツ)が勝ち残った。勝負事というのは、そういうものだ。サッカーに「勝利の方程式」があるわけではない。いまの日本人のサッカーの実力で「自分たちのサッカー」で相手に勝ち切れるほど、世界は甘くない。相手によって、やり方はいろいろある。W杯においてなによりも大切なのは、監督・選手が、勝ち抜くために必要な選択を重ね、それを実行することにある。
守りを蔑ろにしたチームは上には行けない。筆者が今大会もっとも印象に残ったチームは、日本と同じC組で退場者を出しながら日本と引分け、最終戦、コートジボワールを追加時間のPKで退けGLを勝ち抜けたギリシャである。
2014年7月11日金曜日
がんばれアルゼンチン!
王国の悲劇
準決勝最初の試合はブラジル-ドイツ。この試合についてはすでに多くの論評があり、言い尽くされた感がある。1-7という大差のブラジルの敗北をどう評価すべきなのか。どこかの監督の言葉どおり、「サッカーは非論理的」なのだろうか。
スポーツ評論のすべては結果論だ。スポーツが試合前に論理的に結果が判明していたならば、それを見る価値はない。スポーツは現在進行にのみ意味と価値のあるドラマなのだ。だから、ブラジルの大敗を予想した者がいないのは当然だ。筆者は本大会の優勝者をブラジルと予想した。戦力的には難のあるチームだったが、ホームの利があると信じたからだ。
ドイツ戦の敗因は
エース、ネイマールの欠場、守備の要、Tシウバのサスペンションによって、ブラジルが苦戦するであろうことはだれもが予想できた。それでも、1-7のスコアは想定外だった。
拙コラムで書いたことではあるが、こういう大会では、大差の試合が起こらないわけではない。本大会グループリーグ(GL)において、前回王者のスペインがオランダに1-5で大敗しているし、わが日本もコロンビアに1-4で惨敗している。前者は精密機械(スペイン)の歯車が狂い、制御不能に陥ったためだ。後者はGL敗退寸前に追い詰められた日本が、ノーガードで前に出たためだ。それでも、スペイン、日本ともに7失点はしていない。そればかりではない。ドイツに大敗したのがブラジルでなければ、たとえばアジアの日本とか韓国だったら、さほど話題にもならなかっただろう。W杯史上まれな大差の敗北の当事者が王国ブラジルだったことが衝撃だった。
ブラジルが大敗したこの試合、ドイツの良いところはいくつか指摘されている。先取点のスクリーンプレーは各メディアがとりあげているように、実に頭脳的で見事なものだった。だが、ドイツの良さだけで、大量7点が上げられるとは思えない。やはり、ブラジルに自壊現象が生じた、と考えるべきだろう。
コロンビア戦の“削りあい”がすべて
ブラジル大敗の要因は、ベスト4をかけた南米対決、コロンビア戦にあった。ブラジルは2-1でコロンビアに勝ったが、試合内容は褒められたものではなかった。この試合のファウル数は54(ブラジル31、コロンビア23)あり、イエローはともに2枚だった。ブラジルに出されたそのうちの1枚が、前出したとおりTシウバに出された。
ベスト4のもう一方、ドイツ-フラン戦のファウル数は33(ドイツ15、フランス18)、イエロー2(ドイツ2、フランス0)だった。多くも少なくもない数字だろう。ファウルやイエローは審判の主観に負うが、それでもブラジル-コロンビア戦におけるブラジルのファウル数は異常数値だった。
自らが仕掛けた削りあいでブラジルはコロンビアには勝ったものの、その代償は、ブラジルに重くのしかかることとなった。ネイマールがコロンビアDFのハード・ブリッツを受けて骨折し、以降出場不能となった。その背景として、この試合の主審がファウルに寛容であり、多少の“削りあい”を容認したからだ。そのなかで、両チームの選手にハードな接触プレーが誘発された。やられたらやりかえせ、主審の笛の範囲の接触はOKなのだからと。
その結果、ブラジルの守備の要、キャプテンのTシウバは、通算2枚目のイエローをもらい、準決勝に出場できなくなってしまった。この結果は南米サッカーの光と影の象徴だ。彼らの悪しき伝統“削りあい”という影の部分が、開催国ブラジルを覆った。
セルフ・コントロールに失敗したブラジルの選手たち
そればかりではない。GLから決勝トーナメント(T)を通じて、ブラジル選手の異常な興奮ぶりが目に付いた。PK戦勝利による涙、コロンビア戦におけるファウルの多発などなど、開催国のプレッシャーに自制(セルフ・コントロール)がきかなくなる寸前まで追い詰められた感があった。
ブラジルの選手の精神状態は、引っ張られすぎて切れる寸前のゴム紐のようなものだったのではないか。そしてドイツ戦である。試合開始早々、どちらかといえば、ブラジルは興奮状態がプラスに働いて、好調のように見えた。よく言われる、「試合の入り方としては悪くなかった」というやつだ。ところが、セットプレー(前半11分)でドイツに先制点を奪われたところで、ブラジルの選手たちの精神状態は、興奮状態から不安もしくは焦りへと変わりつつあったのではないか。そして前半23分に失点すると彼らの緊張、不安、焦りは一挙にしかも重層的に高まり、ゴム紐はぷつんと切れた。つまり、瓦解した(29分までの6分間で4失点)。
結果論として、ブラジル大敗の分析は合理的に説明がつく。サッカーは、けして非論理的ではない。しかし、ブラジルが序盤で先制点を上げていたら、ブラジル選手の興奮度はエネルギーに変換していたかもしれない。その結果、大敗したのがドイツだったかもしれない。どちらに転ぶかは、神のみぞ知るところなのだ。
南米サッカーの秘められた力=堅守
ブラジル大敗の翌日行われたオランダ-アルゼンチン戦は、前日とは実に対照的な試合となった。両チームともに昨日の試合の衝撃を引きずって試合に臨んだようだ。そのことを一言で言えば、“恐怖”だろう。両チームとも過度な攻撃性を抑制し守備的になった。アルゼンチンはオランダのリアクション・サッカーを警戒し中盤を省略、オランダの3バックの両側のスペースにロングボールを供給する作戦に出た。中盤からの攻撃はメッシ一人にお任せ。そのメッシに対して、オランダは最大3人で守った。
オランダも得意のリアクション・サッカーを封じられ、しかも、頼みのロッベンがサイドのスペースに走りこまないため、チャンスがつくれなかった。この試合のファウル数は25(オランダ15、アルゼンチン10)、イエローは3(オランダ2、アルゼンチン1)だった。前出のブラジル-コロンビア戦と比べれば、ファウル数は半分以下。いかに接触プレーが少なかったかがわかる。“削りあい”を回避し、ケガ及び先制点を恐れた。
アルゼンチンの守備の要、ハビエル・マスチェラーノの好プレーも特筆されるべきだ。この選手、身長はそう高くないが、粘り強さ、スタミナ、走力、判断力、ポジショニングに優れていて、オランダの決定機をことごとくつぶした。体格に恵まれない日本人が模範としたい選手の一人だ。
両チームがリスク回避のマネジメントを優先したとはいえ、南米の伝統である堅守が、フィジカルのオランダを止めた試合だと言える。メッシばかりに目を奪われがちなアルゼンチンだが、南米特有の守りのDNAをいかんなく発揮した。ブラジル-ドイツ戦とは異なる、緊張感のあるいい試合だった。
決勝戦はドイツ有利だが、筆者はアルゼンチンに勝ってほしい
条件からすれば、決勝戦(日本時間・14日早朝)におけるドイツ有利は動かない。準決勝はブラジルに90分の楽勝。しかも休養日は、対するアルゼンチンより1日多い中4日。ブラジル相手の大勝は選手に自信を与えたはずだ。アルゼンチンはオランダと延長戦(120分)を戦っての中3日。これは苦しい。
それでも、アルゼンチンに希望があるのは、メッシが元気でいることだ。いまのところ、故障、ケガの情報はないし、コンディションも悪くなさそうだ。守備の要のマスチェラーノも健在だ。準決勝のブラジルは、ネイマール(攻撃の要)、Tシウバ(守備の要)を欠いてドイツに敗れたが、アルゼンチンはどちらの要も試合に出場できる。オランダを封じたアルゼンチンの守備が崩壊しなければ、僅差の勝利が期待できる。もちろん、決勝点はメッシの信じられないプレーによる得点というわけだ。
筆者は、アルゼンチンに優勝してもらいたい。なぜならば、W杯の歴史を振りかえると、30年ウルグアイ大会=ウルグアイ優勝、50年ブラジル大会=ウルグアイ優勝、62年チリ大会=ブラジル優勝、70年メキシコ大会=ブラジル優勝、78年アルゼンチン大会=アルゼンチン優勝、86年メキシコ大会=アルゼンチン優勝、94年アメリカ大会=ブラジル優勝と、北中南米開催のW杯では、南米勢が優勝しているからだ。この地勢的サイクルからすれば、今回南米ブラジル開催の優勝国は、アルゼンチンでなければならない。
南米開催のW杯において、欧州(ドイツ)が優勝することはあり得ない。ここでドイツが優勝すれば、サッカーの覇権は欧州ということになってしまう。そんな事態だけはなんとしても避けなければならない。がんばれ、アルゼンチン!
準決勝最初の試合はブラジル-ドイツ。この試合についてはすでに多くの論評があり、言い尽くされた感がある。1-7という大差のブラジルの敗北をどう評価すべきなのか。どこかの監督の言葉どおり、「サッカーは非論理的」なのだろうか。
スポーツ評論のすべては結果論だ。スポーツが試合前に論理的に結果が判明していたならば、それを見る価値はない。スポーツは現在進行にのみ意味と価値のあるドラマなのだ。だから、ブラジルの大敗を予想した者がいないのは当然だ。筆者は本大会の優勝者をブラジルと予想した。戦力的には難のあるチームだったが、ホームの利があると信じたからだ。
ドイツ戦の敗因は
エース、ネイマールの欠場、守備の要、Tシウバのサスペンションによって、ブラジルが苦戦するであろうことはだれもが予想できた。それでも、1-7のスコアは想定外だった。
拙コラムで書いたことではあるが、こういう大会では、大差の試合が起こらないわけではない。本大会グループリーグ(GL)において、前回王者のスペインがオランダに1-5で大敗しているし、わが日本もコロンビアに1-4で惨敗している。前者は精密機械(スペイン)の歯車が狂い、制御不能に陥ったためだ。後者はGL敗退寸前に追い詰められた日本が、ノーガードで前に出たためだ。それでも、スペイン、日本ともに7失点はしていない。そればかりではない。ドイツに大敗したのがブラジルでなければ、たとえばアジアの日本とか韓国だったら、さほど話題にもならなかっただろう。W杯史上まれな大差の敗北の当事者が王国ブラジルだったことが衝撃だった。
ブラジルが大敗したこの試合、ドイツの良いところはいくつか指摘されている。先取点のスクリーンプレーは各メディアがとりあげているように、実に頭脳的で見事なものだった。だが、ドイツの良さだけで、大量7点が上げられるとは思えない。やはり、ブラジルに自壊現象が生じた、と考えるべきだろう。
コロンビア戦の“削りあい”がすべて
ブラジル大敗の要因は、ベスト4をかけた南米対決、コロンビア戦にあった。ブラジルは2-1でコロンビアに勝ったが、試合内容は褒められたものではなかった。この試合のファウル数は54(ブラジル31、コロンビア23)あり、イエローはともに2枚だった。ブラジルに出されたそのうちの1枚が、前出したとおりTシウバに出された。
ベスト4のもう一方、ドイツ-フラン戦のファウル数は33(ドイツ15、フランス18)、イエロー2(ドイツ2、フランス0)だった。多くも少なくもない数字だろう。ファウルやイエローは審判の主観に負うが、それでもブラジル-コロンビア戦におけるブラジルのファウル数は異常数値だった。
自らが仕掛けた削りあいでブラジルはコロンビアには勝ったものの、その代償は、ブラジルに重くのしかかることとなった。ネイマールがコロンビアDFのハード・ブリッツを受けて骨折し、以降出場不能となった。その背景として、この試合の主審がファウルに寛容であり、多少の“削りあい”を容認したからだ。そのなかで、両チームの選手にハードな接触プレーが誘発された。やられたらやりかえせ、主審の笛の範囲の接触はOKなのだからと。
その結果、ブラジルの守備の要、キャプテンのTシウバは、通算2枚目のイエローをもらい、準決勝に出場できなくなってしまった。この結果は南米サッカーの光と影の象徴だ。彼らの悪しき伝統“削りあい”という影の部分が、開催国ブラジルを覆った。
セルフ・コントロールに失敗したブラジルの選手たち
そればかりではない。GLから決勝トーナメント(T)を通じて、ブラジル選手の異常な興奮ぶりが目に付いた。PK戦勝利による涙、コロンビア戦におけるファウルの多発などなど、開催国のプレッシャーに自制(セルフ・コントロール)がきかなくなる寸前まで追い詰められた感があった。
ブラジルの選手の精神状態は、引っ張られすぎて切れる寸前のゴム紐のようなものだったのではないか。そしてドイツ戦である。試合開始早々、どちらかといえば、ブラジルは興奮状態がプラスに働いて、好調のように見えた。よく言われる、「試合の入り方としては悪くなかった」というやつだ。ところが、セットプレー(前半11分)でドイツに先制点を奪われたところで、ブラジルの選手たちの精神状態は、興奮状態から不安もしくは焦りへと変わりつつあったのではないか。そして前半23分に失点すると彼らの緊張、不安、焦りは一挙にしかも重層的に高まり、ゴム紐はぷつんと切れた。つまり、瓦解した(29分までの6分間で4失点)。
結果論として、ブラジル大敗の分析は合理的に説明がつく。サッカーは、けして非論理的ではない。しかし、ブラジルが序盤で先制点を上げていたら、ブラジル選手の興奮度はエネルギーに変換していたかもしれない。その結果、大敗したのがドイツだったかもしれない。どちらに転ぶかは、神のみぞ知るところなのだ。
南米サッカーの秘められた力=堅守
ブラジル大敗の翌日行われたオランダ-アルゼンチン戦は、前日とは実に対照的な試合となった。両チームともに昨日の試合の衝撃を引きずって試合に臨んだようだ。そのことを一言で言えば、“恐怖”だろう。両チームとも過度な攻撃性を抑制し守備的になった。アルゼンチンはオランダのリアクション・サッカーを警戒し中盤を省略、オランダの3バックの両側のスペースにロングボールを供給する作戦に出た。中盤からの攻撃はメッシ一人にお任せ。そのメッシに対して、オランダは最大3人で守った。
オランダも得意のリアクション・サッカーを封じられ、しかも、頼みのロッベンがサイドのスペースに走りこまないため、チャンスがつくれなかった。この試合のファウル数は25(オランダ15、アルゼンチン10)、イエローは3(オランダ2、アルゼンチン1)だった。前出のブラジル-コロンビア戦と比べれば、ファウル数は半分以下。いかに接触プレーが少なかったかがわかる。“削りあい”を回避し、ケガ及び先制点を恐れた。
アルゼンチンの守備の要、ハビエル・マスチェラーノの好プレーも特筆されるべきだ。この選手、身長はそう高くないが、粘り強さ、スタミナ、走力、判断力、ポジショニングに優れていて、オランダの決定機をことごとくつぶした。体格に恵まれない日本人が模範としたい選手の一人だ。
両チームがリスク回避のマネジメントを優先したとはいえ、南米の伝統である堅守が、フィジカルのオランダを止めた試合だと言える。メッシばかりに目を奪われがちなアルゼンチンだが、南米特有の守りのDNAをいかんなく発揮した。ブラジル-ドイツ戦とは異なる、緊張感のあるいい試合だった。
決勝戦はドイツ有利だが、筆者はアルゼンチンに勝ってほしい
条件からすれば、決勝戦(日本時間・14日早朝)におけるドイツ有利は動かない。準決勝はブラジルに90分の楽勝。しかも休養日は、対するアルゼンチンより1日多い中4日。ブラジル相手の大勝は選手に自信を与えたはずだ。アルゼンチンはオランダと延長戦(120分)を戦っての中3日。これは苦しい。
それでも、アルゼンチンに希望があるのは、メッシが元気でいることだ。いまのところ、故障、ケガの情報はないし、コンディションも悪くなさそうだ。守備の要のマスチェラーノも健在だ。準決勝のブラジルは、ネイマール(攻撃の要)、Tシウバ(守備の要)を欠いてドイツに敗れたが、アルゼンチンはどちらの要も試合に出場できる。オランダを封じたアルゼンチンの守備が崩壊しなければ、僅差の勝利が期待できる。もちろん、決勝点はメッシの信じられないプレーによる得点というわけだ。
筆者は、アルゼンチンに優勝してもらいたい。なぜならば、W杯の歴史を振りかえると、30年ウルグアイ大会=ウルグアイ優勝、50年ブラジル大会=ウルグアイ優勝、62年チリ大会=ブラジル優勝、70年メキシコ大会=ブラジル優勝、78年アルゼンチン大会=アルゼンチン優勝、86年メキシコ大会=アルゼンチン優勝、94年アメリカ大会=ブラジル優勝と、北中南米開催のW杯では、南米勢が優勝しているからだ。この地勢的サイクルからすれば、今回南米ブラジル開催の優勝国は、アルゼンチンでなければならない。
南米開催のW杯において、欧州(ドイツ)が優勝することはあり得ない。ここでドイツが優勝すれば、サッカーの覇権は欧州ということになってしまう。そんな事態だけはなんとしても避けなければならない。がんばれ、アルゼンチン!
2014年7月6日日曜日
W杯、ベスト4をかけた死闘
南米対決となったブラジル―コロンビア戦は、壮絶な戦いとなった。その前に行われた欧州対決、ドイツ―フランス戦が規則に基づく競技であるならば、南米対決は規則に基づく戦闘のように思えた。
展開は序盤で先制点を上げたブラジルが優位。だが試合内容は点差とは関係ない。両チームの個々の選手同士がせめぎ合う、潰し合いだった。とりわけブラジルのネイマールとコロンビアのロドリゲスに対するブリッツは厳しかった。
この試合を裁く主審が競り合いに寛容で、イエローカードをなかなか出さない。Jリーグの審判だったら、イエローが何枚だされたかわからない。だが、両チームがこの試合の主審の笛を基準として争った代償は、勝ったブラジルにとって、大きなものだった。ブラジルのエース・ネイマールがコロンビアの選手の後ろからのチャージを受けて背骨を骨折し、試合に出られなくなってしまったのだ。
ネイマールが受けたバックチャージは、TV映像(のビデオ)を見る限り、それほどのものに見えなかった。打ち所が悪かったのだろうか。もちろん、チャージしたコロンビアの選手にイエローは出ていない。プロレス技のフライングニーバット、空中飛び膝蹴りのような格好だった。ビデオで見る限り、バックチャージだからイエローの対象だろう。
南米サッカーの守備は厳しい。南米は攻撃陣に多彩な技を繰り出すタレントが豊富だから、守備陣も自然と厳しくならざるを得ない。やらっれっぱなしだったら、選手を続けられなくなる。守備の選手が生き残るには、きわめて厳しい環境のようだ。
こんな試合を見せられると、日本代表の試合ぶりのおとなしさが際立ってしまう。日本選手はサッカーは上手なのだろうが、生き延びるためのサッカーをした経験はないのではないか。海外組といっても、海外クラブをクビになったら、Jリーグに戻ってスターでいられる。J1がだめならJ2・・・引退すれば解説者、コメンテーター、タレント・・・と生き延びられる。日本代表に選ばれ、W杯に出ればそれで安泰なのだ。
南米選手の堅い守備のDNAが、W杯という晴れ舞台でも呼び起こされる。勝つために何をするのか、負けたコロンビアだが、彼らが「自分たちのサッカー」をしたことだけは、間違いない。
展開は序盤で先制点を上げたブラジルが優位。だが試合内容は点差とは関係ない。両チームの個々の選手同士がせめぎ合う、潰し合いだった。とりわけブラジルのネイマールとコロンビアのロドリゲスに対するブリッツは厳しかった。
この試合を裁く主審が競り合いに寛容で、イエローカードをなかなか出さない。Jリーグの審判だったら、イエローが何枚だされたかわからない。だが、両チームがこの試合の主審の笛を基準として争った代償は、勝ったブラジルにとって、大きなものだった。ブラジルのエース・ネイマールがコロンビアの選手の後ろからのチャージを受けて背骨を骨折し、試合に出られなくなってしまったのだ。
ネイマールが受けたバックチャージは、TV映像(のビデオ)を見る限り、それほどのものに見えなかった。打ち所が悪かったのだろうか。もちろん、チャージしたコロンビアの選手にイエローは出ていない。プロレス技のフライングニーバット、空中飛び膝蹴りのような格好だった。ビデオで見る限り、バックチャージだからイエローの対象だろう。
南米サッカーの守備は厳しい。南米は攻撃陣に多彩な技を繰り出すタレントが豊富だから、守備陣も自然と厳しくならざるを得ない。やらっれっぱなしだったら、選手を続けられなくなる。守備の選手が生き残るには、きわめて厳しい環境のようだ。
こんな試合を見せられると、日本代表の試合ぶりのおとなしさが際立ってしまう。日本選手はサッカーは上手なのだろうが、生き延びるためのサッカーをした経験はないのではないか。海外組といっても、海外クラブをクビになったら、Jリーグに戻ってスターでいられる。J1がだめならJ2・・・引退すれば解説者、コメンテーター、タレント・・・と生き延びられる。日本代表に選ばれ、W杯に出ればそれで安泰なのだ。
南米選手の堅い守備のDNAが、W杯という晴れ舞台でも呼び起こされる。勝つために何をするのか、負けたコロンビアだが、彼らが「自分たちのサッカー」をしたことだけは、間違いない。
2014年7月4日金曜日
サッカー日本代表への提言
ブラジルW杯はベスト8が決定。5~6日(日本時間)の朝にベスト4が決まる。ベスト8には、グループリーグ(GL)各組の首位チーム(ブラジル、コロンビア、フランス、ドイツ、オランダ、コスタリカ、アルゼンチン、ベルギー)が残った。コスタリカ以外は順当な結果だ。コスタリカ以外ならば、どこが優勝してもおかしくない。
世界の代表選手は闘争心が旺盛
GLから決勝トーナメント(T)における出場国のサッカーを見ていて感じるのは、日本代表のそれとの違いだ。パス、クロスおよび選手の走りにおけるスピードの違い、競り合いの強さの違い、高さの違い、持続力の違い・・・いわゆるフィジカルの違いだ。そして忘れてはならないのが、日本以外のチーム(選手)の集中力の高さだ。勝とうとする意思の強さは、代表選手のプライドの高さに直結している。一言でいえば闘争心の違いだ。
終盤になると足を痙攣させる選手も目に付く。味方、敵を問わず、動けなくなった選手の脚を伸ばしてあげるシーンは、おなじみの光景になっている。日本のGL3試合において、脚が痙攣するまで走った日本人選手はいたのだろうか。管見の限りだが、見かけなかった。脚を痙攣するほど走らなかったのか、鍛錬しているので痙攣しないのか、筆者は前者だと感じている。
「リアクションサッカー」が今大会のキーワード
以前の拙コラムで書いたことだけれど、世界のサッカーのトレンドは明らかに、フィジカル重視になってきている。攻守の切り替えの速さ、裏に飛び出す速さ、ゴールに向かう速さ、いわゆる走力(のスピード)は、現代サッカーの必要絶対条件の一つになっている。もちろん、パス、クロスも速い。速いパスをうまくトラップする技術も必要だし、クロスに合わせられる身体的強さ、反応・判断力も求められている。
攻守の切り替えが速いということは、カウンター攻撃が主流だと換言できる。GLでパスサッカーのスペインを粉砕したオランダの監督が、自らのサッカーを「リアクションサッカー」と臆面もなく表現した。その「リアクションサッカー」は、Jリーグではネガティブな古い戦法だと言われていて、そこからの脱却、すなわち、自分たちが仕掛けるサッカーを目指していたから皮肉なものだ。その影響は日本代表が掲げた「攻撃的サッカー」にも言える。日本はいつの間にか、一周遅れのトップランナーになっていたのだ。間抜けな話だ。
ファンファーレ監督の言うところの「リアクションサッカー」は、相手がボールをもった瞬間から攻撃が開始される。相手ボールを奪う強いプレス、たとえ奪えなくともミスを誘発し、マイボールにしたその瞬間、攻撃が始まる。相手ボールをマイボールにする確率は、守備に人数を割くことだ。それが5バックの採用だろう。
日本代表選手となる条件
ボールを奪ったならば、それを一気に相手ゴールまで運ぶ。この一連の動作を書くことは簡単だけれど、それを90分間続けることは極めて難しい。持続力の強さが必要だ。これらを総じて「リアクションサッカー」と呼び、それを可能にする基盤が選手のフィジカルの強さということになる。
日本代表がこのトレンドに乗ることは必要なのだろうか。もちろん、このトレンドに乗らなければ日本は世界で勝てない。今後、日本のサッカー選手が日本代表となる条件の第一は、強いフィジカルをもっていることとなる。
CBの重要性
「リアクションサッカー」の説明としては、ここまでで半面が終わったにすぎない。残りの半面は、守りの強さだ。もちろんその要となるのは、センターバック(CB)。CBで重要な要素は、第一に「高さ」ということになろう。例外もある。16強に入ったチリだ。チリは先発全員が身長180cm以下という特異なチームだった。そんなチームがないわけではないが、日本のフィジカルエリートの体格の平均身長に鑑みて、180~190cm台のCBを育成することはそれほど難しくない。むしろ、チリのようなDFをつくることの方が困難だろう。Jリーグならば、神戸の岩波拓也が代表クラスのCBになる可能性を秘めている。
ボランチの弱体化が日本の敗因の一つ
守備において重要なのが守備的MFだ。守備的MFでチーム力は決まると言っても言い過ぎでない。もちろん、強いフィジカルが求められる。
日本がブラジルで惨敗した要因の一つが守備的MFの選手の代表選考にあった。ザッケローニが日本代表を率いてから、W杯予選、親善試合を重ねるうち、人材が豊富といわれる日本の中盤に変化が起きていた。長谷部(キャプテン)・遠藤で鉄壁だと思われていたこのポジションに、コンフェデ大会あたりから綻びが生じていたのだ。
第一は、長谷部のケガ、第二は遠藤の衰えだ。ザックジャパンは「本田のチーム」だと言われるが、全体から見れば、「長谷部のチーム」だ。その長谷部が長期離脱し、本番にはいちおう間に合ったものの、GL3試合にフル出場してチームを牽引するまでのフィジカルの回復は無理だった。遠藤の場合も、アジア地区予選終了後、急激に衰えを見せ始めた。そこで若手の山口、青山を起用して親善試合に臨んだが、完成するに至らなかった。ボランチのポジションにおける筆者の序列は、ナンバー1に細貝萌、2位山口、3位青山であったが、ザッケローニは細貝を評価しなかった。
本田と心中せざるをなかったザッケローニ
ザッケローニは日本代表監督に就任して以来、パス回しを基本にした「攻撃サッカー」を戦い方のコンセプトにしたが、それは本田を中心にしたチームという意味でもある。長友、香川がいる左サイドを基点として、中央の本田が決定的な仕事をするというイメージだろう。そのような組立には、守備的MFの遠藤の攻撃的センスが不可欠だった。つまり、本田と遠藤は有機的関係なのだ。
この本田中心のイメージは、第一に前線のセンターフォワード(CF)にボールを集めるポストプレーの可能性を排除した。2014W杯に向けて、日本代表におけるワントップの候補選手としては、大久保、豊田、ハーフナー、佐藤寿、川又らが挙がって当然だったが、ハーフナーの場合は本田が意図的に代表選考を妨害したとの情報も流れている。そのため、日本のワントップは柿谷、大迫、大久保に落ち着いたが、3選手とも似たようなタイプで、ポストプレーに迫力を感じさせないことに共通項が見いだせる。しかも、大久保の代表選出は、W杯開催の直前だった。ザッケローニは本大会直前、本田の調子が上がらないことに焦り、急遽、大久保を代表に選んだのだと思う。
それでも大久保は本番のコートジボワール戦、ギリシャ戦においてトップではなく、サイドで使われた。本田のイメージは、サイドでできた基点に自分が積極的に絡み、▽自分が得点を上げること(この形は、初戦のコートジボワール戦で実現している。)、▽決定力のある右サイドの岡崎に決定的パスもしくはクロスを上げること、▽相手ファールを誘って自分がフリーキックを決めること――の3パターンだったに違いない。いずれのシーンも自分をビッグクラブに引き上げる原動力となる。本田の上昇志向(=利己心)にチームが利用されるということだ。
一方、世界のサッカートレンドは、日本のW杯前最後の親善試合ザンビア戦の勝ち越し得点シーンであるボランチ(青山)からトップ(大久保)への最速パスのような速い攻めの流れにシフトしていた。ザッケローニはそのことにおそらく気が付いていた。気が付いていながら、(青山のように)FWに速いパスを供給できるセンスをもった守備的MFを攻撃の基点にするサッカーを構築することができなかった。時間がなかったのだ。ザッケローニは、本大会に臨んだ日本代表チームの欠陥を承知していたと思う。たぶん、コンフェデ杯のころには、これではだめだと感じていたと思う。だが、いまさら遠藤~本田に象徴される「攻撃サッカー」を更新するサッカーを身に着ける時間がないことも承知していたのだろう。ザッケローニは本田の回復を信じて、彼との心中を決意した。
日本はコートジボワール、ギリシャには勝てた
結果論でなく、日本が入ったC組はコロンビアが群を抜いていて、残りの日本、ギリシャ、コートジボワールの力は拮抗していた。しかもコートジボワール戦、ギリシャ戦は日本に有利な形で試合が展開していた。コートジボワール戦では先制できたし、ギリシャ戦では相手に退場者が出るという幸運に恵まれた。
勝利に執着できなかった日本代表の精神的弱さ
そればかりではない、この2チームはチームづくりとしては古風で、コートジボアールには組織力が欠如し、ギリシャには攻撃に係る戦力・戦術が欠如していた。つまり、本大会のベスト8に残ったチームが持つ規律、組織力とチーム・バランスが欠如していた。それでも日本が勝てなかったのは、日本選手に闘争心とフィジカルが欠けていたからだ。脚が痙攣するほど、走らなかったからだ。勝負に対する執着心、攻撃性、集中力が不足していたからだ。チームのために献身するという意識が希薄だったからだ。
本田がコンフェデ杯ころから、「個の力」を重視した発言をしだしたころから、日本代表のサッカーは何かを失った。サッカーは個人の上昇志向の道具ではない。中心選手の中に、自分を高く売るために代表を利用しようという魂胆が見え隠れするような者がいれば、チームは弱体化する。
結論として言えば、これからの日本サッカーを背負うことができる人材に必須の条件は、「個」よりも「チーム」の勝利のために献身する精神をもった者の出現ということに尽きる。個人の夢を第一義にする利己的存在ではなく、チームへの献身を第一義とする精神性を発揮できる存在ということになる。ビッグクラブへの道は、その結果として自ずとついてくるものだ。
そのような人材を育成するためには、日本代表として、興行的親善試合を減らし、勝負にこだわった試合をできる限り多くセットし、勝つための訓練を積み重ねるしかない。
世界の代表選手は闘争心が旺盛
GLから決勝トーナメント(T)における出場国のサッカーを見ていて感じるのは、日本代表のそれとの違いだ。パス、クロスおよび選手の走りにおけるスピードの違い、競り合いの強さの違い、高さの違い、持続力の違い・・・いわゆるフィジカルの違いだ。そして忘れてはならないのが、日本以外のチーム(選手)の集中力の高さだ。勝とうとする意思の強さは、代表選手のプライドの高さに直結している。一言でいえば闘争心の違いだ。
終盤になると足を痙攣させる選手も目に付く。味方、敵を問わず、動けなくなった選手の脚を伸ばしてあげるシーンは、おなじみの光景になっている。日本のGL3試合において、脚が痙攣するまで走った日本人選手はいたのだろうか。管見の限りだが、見かけなかった。脚を痙攣するほど走らなかったのか、鍛錬しているので痙攣しないのか、筆者は前者だと感じている。
「リアクションサッカー」が今大会のキーワード
以前の拙コラムで書いたことだけれど、世界のサッカーのトレンドは明らかに、フィジカル重視になってきている。攻守の切り替えの速さ、裏に飛び出す速さ、ゴールに向かう速さ、いわゆる走力(のスピード)は、現代サッカーの必要絶対条件の一つになっている。もちろん、パス、クロスも速い。速いパスをうまくトラップする技術も必要だし、クロスに合わせられる身体的強さ、反応・判断力も求められている。
攻守の切り替えが速いということは、カウンター攻撃が主流だと換言できる。GLでパスサッカーのスペインを粉砕したオランダの監督が、自らのサッカーを「リアクションサッカー」と臆面もなく表現した。その「リアクションサッカー」は、Jリーグではネガティブな古い戦法だと言われていて、そこからの脱却、すなわち、自分たちが仕掛けるサッカーを目指していたから皮肉なものだ。その影響は日本代表が掲げた「攻撃的サッカー」にも言える。日本はいつの間にか、一周遅れのトップランナーになっていたのだ。間抜けな話だ。
ファンファーレ監督の言うところの「リアクションサッカー」は、相手がボールをもった瞬間から攻撃が開始される。相手ボールを奪う強いプレス、たとえ奪えなくともミスを誘発し、マイボールにしたその瞬間、攻撃が始まる。相手ボールをマイボールにする確率は、守備に人数を割くことだ。それが5バックの採用だろう。
日本代表選手となる条件
ボールを奪ったならば、それを一気に相手ゴールまで運ぶ。この一連の動作を書くことは簡単だけれど、それを90分間続けることは極めて難しい。持続力の強さが必要だ。これらを総じて「リアクションサッカー」と呼び、それを可能にする基盤が選手のフィジカルの強さということになる。
日本代表がこのトレンドに乗ることは必要なのだろうか。もちろん、このトレンドに乗らなければ日本は世界で勝てない。今後、日本のサッカー選手が日本代表となる条件の第一は、強いフィジカルをもっていることとなる。
CBの重要性
「リアクションサッカー」の説明としては、ここまでで半面が終わったにすぎない。残りの半面は、守りの強さだ。もちろんその要となるのは、センターバック(CB)。CBで重要な要素は、第一に「高さ」ということになろう。例外もある。16強に入ったチリだ。チリは先発全員が身長180cm以下という特異なチームだった。そんなチームがないわけではないが、日本のフィジカルエリートの体格の平均身長に鑑みて、180~190cm台のCBを育成することはそれほど難しくない。むしろ、チリのようなDFをつくることの方が困難だろう。Jリーグならば、神戸の岩波拓也が代表クラスのCBになる可能性を秘めている。
ボランチの弱体化が日本の敗因の一つ
守備において重要なのが守備的MFだ。守備的MFでチーム力は決まると言っても言い過ぎでない。もちろん、強いフィジカルが求められる。
日本がブラジルで惨敗した要因の一つが守備的MFの選手の代表選考にあった。ザッケローニが日本代表を率いてから、W杯予選、親善試合を重ねるうち、人材が豊富といわれる日本の中盤に変化が起きていた。長谷部(キャプテン)・遠藤で鉄壁だと思われていたこのポジションに、コンフェデ大会あたりから綻びが生じていたのだ。
第一は、長谷部のケガ、第二は遠藤の衰えだ。ザックジャパンは「本田のチーム」だと言われるが、全体から見れば、「長谷部のチーム」だ。その長谷部が長期離脱し、本番にはいちおう間に合ったものの、GL3試合にフル出場してチームを牽引するまでのフィジカルの回復は無理だった。遠藤の場合も、アジア地区予選終了後、急激に衰えを見せ始めた。そこで若手の山口、青山を起用して親善試合に臨んだが、完成するに至らなかった。ボランチのポジションにおける筆者の序列は、ナンバー1に細貝萌、2位山口、3位青山であったが、ザッケローニは細貝を評価しなかった。
本田と心中せざるをなかったザッケローニ
ザッケローニは日本代表監督に就任して以来、パス回しを基本にした「攻撃サッカー」を戦い方のコンセプトにしたが、それは本田を中心にしたチームという意味でもある。長友、香川がいる左サイドを基点として、中央の本田が決定的な仕事をするというイメージだろう。そのような組立には、守備的MFの遠藤の攻撃的センスが不可欠だった。つまり、本田と遠藤は有機的関係なのだ。
この本田中心のイメージは、第一に前線のセンターフォワード(CF)にボールを集めるポストプレーの可能性を排除した。2014W杯に向けて、日本代表におけるワントップの候補選手としては、大久保、豊田、ハーフナー、佐藤寿、川又らが挙がって当然だったが、ハーフナーの場合は本田が意図的に代表選考を妨害したとの情報も流れている。そのため、日本のワントップは柿谷、大迫、大久保に落ち着いたが、3選手とも似たようなタイプで、ポストプレーに迫力を感じさせないことに共通項が見いだせる。しかも、大久保の代表選出は、W杯開催の直前だった。ザッケローニは本大会直前、本田の調子が上がらないことに焦り、急遽、大久保を代表に選んだのだと思う。
それでも大久保は本番のコートジボワール戦、ギリシャ戦においてトップではなく、サイドで使われた。本田のイメージは、サイドでできた基点に自分が積極的に絡み、▽自分が得点を上げること(この形は、初戦のコートジボワール戦で実現している。)、▽決定力のある右サイドの岡崎に決定的パスもしくはクロスを上げること、▽相手ファールを誘って自分がフリーキックを決めること――の3パターンだったに違いない。いずれのシーンも自分をビッグクラブに引き上げる原動力となる。本田の上昇志向(=利己心)にチームが利用されるということだ。
一方、世界のサッカートレンドは、日本のW杯前最後の親善試合ザンビア戦の勝ち越し得点シーンであるボランチ(青山)からトップ(大久保)への最速パスのような速い攻めの流れにシフトしていた。ザッケローニはそのことにおそらく気が付いていた。気が付いていながら、(青山のように)FWに速いパスを供給できるセンスをもった守備的MFを攻撃の基点にするサッカーを構築することができなかった。時間がなかったのだ。ザッケローニは、本大会に臨んだ日本代表チームの欠陥を承知していたと思う。たぶん、コンフェデ杯のころには、これではだめだと感じていたと思う。だが、いまさら遠藤~本田に象徴される「攻撃サッカー」を更新するサッカーを身に着ける時間がないことも承知していたのだろう。ザッケローニは本田の回復を信じて、彼との心中を決意した。
日本はコートジボワール、ギリシャには勝てた
結果論でなく、日本が入ったC組はコロンビアが群を抜いていて、残りの日本、ギリシャ、コートジボワールの力は拮抗していた。しかもコートジボワール戦、ギリシャ戦は日本に有利な形で試合が展開していた。コートジボワール戦では先制できたし、ギリシャ戦では相手に退場者が出るという幸運に恵まれた。
勝利に執着できなかった日本代表の精神的弱さ
そればかりではない、この2チームはチームづくりとしては古風で、コートジボアールには組織力が欠如し、ギリシャには攻撃に係る戦力・戦術が欠如していた。つまり、本大会のベスト8に残ったチームが持つ規律、組織力とチーム・バランスが欠如していた。それでも日本が勝てなかったのは、日本選手に闘争心とフィジカルが欠けていたからだ。脚が痙攣するほど、走らなかったからだ。勝負に対する執着心、攻撃性、集中力が不足していたからだ。チームのために献身するという意識が希薄だったからだ。
本田がコンフェデ杯ころから、「個の力」を重視した発言をしだしたころから、日本代表のサッカーは何かを失った。サッカーは個人の上昇志向の道具ではない。中心選手の中に、自分を高く売るために代表を利用しようという魂胆が見え隠れするような者がいれば、チームは弱体化する。
結論として言えば、これからの日本サッカーを背負うことができる人材に必須の条件は、「個」よりも「チーム」の勝利のために献身する精神をもった者の出現ということに尽きる。個人の夢を第一義にする利己的存在ではなく、チームへの献身を第一義とする精神性を発揮できる存在ということになる。ビッグクラブへの道は、その結果として自ずとついてくるものだ。
そのような人材を育成するためには、日本代表として、興行的親善試合を減らし、勝負にこだわった試合をできる限り多くセットし、勝つための訓練を積み重ねるしかない。
2014年7月1日火曜日
7月
2014年が半分すぎた。
国内はあわただしい。
集団的自衛権容認を閣議決定するファシズム安倍政権。
憲法も議会も民意も無視するこの男、
日本をどうしたいというのだ。
こういう状況になってくると、やはり、党の必要性を思い知らされる。
最後は権力闘争、権力奪取の手段を問わず、党がなければ先には進まない。
<自立>、マルティチュード、サバルタン・・・
と言っても、反ファシズム運動には、党の存在が不可欠のように思える。
マスメディアの報道姿勢も不可解。
完全に安倍政権にコントロールされている。
どんな取引をしたのだろうか。
さて、7月の猫の体重測定記録。
Zazieが4.3キロ(前月比-200g)、Nicoが5.9キロ(同-200g)。
二匹とも200g減ったか。
国内はあわただしい。
集団的自衛権容認を閣議決定するファシズム安倍政権。
憲法も議会も民意も無視するこの男、
日本をどうしたいというのだ。
こういう状況になってくると、やはり、党の必要性を思い知らされる。
最後は権力闘争、権力奪取の手段を問わず、党がなければ先には進まない。
<自立>、マルティチュード、サバルタン・・・
と言っても、反ファシズム運動には、党の存在が不可欠のように思える。
マスメディアの報道姿勢も不可解。
完全に安倍政権にコントロールされている。
どんな取引をしたのだろうか。
さて、7月の猫の体重測定記録。
Zazieが4.3キロ(前月比-200g)、Nicoが5.9キロ(同-200g)。
二匹とも200g減ったか。
2014年6月27日金曜日
サッカー日本代表をめぐる危機的言語空間
サッカーW杯ブラジル大会グループリーグ(GL)が終了した。日本は1分け2敗の勝ち点1で、C組の最下位に沈んだ。十分予測されたこととは言え、残念な結果である。勝負に勝ち負けはつきものだから、負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手、関係者の今後の一層の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。
「自分たちのサッカー」という超主観主義
「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。
ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。
選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。
この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。
戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの
「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。
オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。
逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。
サッカーはフィギュアスポーツとは異なる
「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。
また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。
フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。
現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間
結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。
本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。
本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。
親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手
日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。
とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。
日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。
そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。
大手代理店主導の「代表バブル」の終焉
日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。
日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。
「自分たちのサッカー」という超主観主義
「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。
ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。
選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。
この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。
戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの
「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。
オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。
逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。
サッカーはフィギュアスポーツとは異なる
「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。
また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。
フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。
現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間
結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。
本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。
本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。
親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手
日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。
とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。
日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。
そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。
大手代理店主導の「代表バブル」の終焉
日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。
日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。
2014年6月24日火曜日
2014年6月22日日曜日
閉幕しない小保方劇場――小保方が現場復帰?
「STAP細胞」問題で小保方が論文の取下げを表明。あとは理研の処分発表を待つばかりと思われたが、ここにきて問題はより複雑化してきているようだ。
状況証拠は固まった?
いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。
6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。
6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。
さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。
厳正処分といいながら検証実験参加とは?
ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。
TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。
それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。
小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か
それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。
下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。
はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。
理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。
状況証拠は固まった?
いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。
6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。
6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。
さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。
厳正処分といいながら検証実験参加とは?
ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。
TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。
それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。
小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か
それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。
下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。
はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。
理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。
2014年6月13日金曜日
西村主審の笛がブラジル国家を救ったかもしれない--サッカーW杯開幕
サッカーW杯ブラジル大会が始まった。開幕試合は主催国ブラジルとクロアチア。ネイマールの活躍でブラジルが3-1で勝った。
W杯は「代理戦争」ではない
サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。
ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。
ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。
このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。
サッカーがいちばんうまい国はどこか
サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。
西村主審の笛がブラジル国内を安定化?
冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。
ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。
この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。
しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。
ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策
もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。
W杯は「代理戦争」ではない
サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。
ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。
ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。
このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。
サッカーがいちばんうまい国はどこか
サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。
西村主審の笛がブラジル国内を安定化?
冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。
ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。
この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。
しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。
ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策
もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。
2014年6月10日火曜日
2014年6月6日金曜日
小保方劇場いよいよ終幕か――明かされた小保方マジック(錬金術)
いろいろと話題を提供してきた、理化学研究所と小保方晴子による「STAP細胞」騒動もいよいよ終幕に近づいたい。「STAP細胞は、ありま~す」と絶叫した小保方晴子もついにギブアップ。論文取下げに同意した。
小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)
小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。
(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。
(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。
遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。
さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。
「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?
それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。
筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。
笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。
つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。
笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。
「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。
平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊
それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。
恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。
筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。
そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。
小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)
小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。
(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。
(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。
遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。
さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。
「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?
それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。
筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。
笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。
つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。
笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。
「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。
平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊
それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。
恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。
筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。
そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。
2014年6月1日日曜日
2014年5月28日水曜日
AKB48の握手会は「フーゾク」的
人気アイドルグループのAKB48が握手会というイベントに出演中、メンバー2人がノコギリで暴漢に襲われる事件が起きた。無防備の女性を刃物で襲撃するという卑劣な犯行で、許しがたい。犯人は被害者に謝罪し、深く反省し、刑に服してほしい。
握手会は「フーゾク」的営業
さて、事件は事件として、握手会というイベントから、AKB48が抱える2つの問題点が見えてくる。まずは、その仕掛けだ。筆者はファンと握手会をつなぐ仕掛の内容を報道で知って、驚きを禁じ得なかった。
TV報道によると、AKB48の全国握手会の場合、シングルCD初回盤(限定版)に封入されている、「イベント参加券」を使うらしい。全国のいくつかの場所で行われており、“メンバーとファンの直接的交流の場であって、とても大事なもの”と、その位置づけが説明されている。確かにそのとおり。ファンがアイドルである若い女性メンバーと握手し、言葉を交わすことができるとは、まさにかけがえのない場であろう。なぜならば、日常生活において、たとえば年頃の男子高校生が、通学途中の電車でいつも会う可愛い女子高生に思いを寄せたとしよう。その男子高校生がいきなり、女子高校生に握手を求めたとすれば、それは犯罪に近い。痴漢行為に間違えられて不思議はない。
一方、AKB48の握手会の場合、ファンはTV映像や遠いステージでしか認識できないメンバーが、実際に自分の目の前に現れ、握手できる。これは、ファンにとって、貴重な体験だろう。ファンという立場ゆえに許される、特権的行為にほかならない。
だが、この特権的行為は、先述のとおり、握手券(=「イベント参加券」)の入手によって可能になる。報道によると、握手券1枚でメンバーと握手できる時間は概ね3秒。握手会の会場では、ファンは受付で握手券(の枚数)を差し出し、そこでメンバーとの握手時間が確認される。前出のとおり1枚なら概ね3秒、それを超えて手を握っていると、「はがしや」と呼ばれる警備員がやってきて、制限時間を超えて握手するファンを排除するらしい。
長時間握手したいファンは当然、AKB48のCDを大量に買い込むことになる。CD1枚で3秒ならば、1分間メンバーの手を握りたければCD20枚を購入する計算だ。AKB48のCDの値段はよくわからないが、かりに1000円だとすると総額2万円、つまり、1分間の握手の値段は概ね2万円ということになる。
この仕組みは「フーゾク」とかわらない。しかもかなり“法外”な価格設定だ。「フーゾク」の頂点であるソ●プ●ラ●ドの場合、おそらく60分であのサービスを受けて、1万5千円が相場だろう。とはいえ、「フーゾク」の業界における価格は、各人の欲望の対象にみあって設定されるものだから、「相場」「平均」は無意味という考え方もある。各人の嗜好に沿った価格が設定されるわけだから、AKB48の熱烈なファンにとって、メンバーとの握手3秒で1000円、1分ならば2万円は当然、高いとはいえないという論理だ。
だがそれでも筆者には、AKB48の握手会商法は悪質だと思える。その理由は、AKB48のプロモート側が、“握手会はファンとの直接的交流の場”という嘘にある。筆者の感覚からは、握手会はCDを買わせるための「フーゾク」的営業活動にうつる。もちろん、ファンはそんなことは承知のうえで、ファン各人の欲望充足のために敢えて仕掛にノッテいるのだから、他人がとやかくいうべきではない。AKB48のメンバーとの握手のために自分の全財産をつぎこんだとしても、それはけっこうなことであって、とめることはできない。だが、その仕掛が「フーゾク」的営業であるならば、それなりのリスクは覚悟しなければならない。「フーゾク」の業界というのは、欲望の中でも過激な性衝動を対象としたものだからだ。
しかも、看過できないのは、メスメディアがAKB48握手会を“ファンとの貴重な交流の場”と、AKB48のプロモート側の嘘を無批判的に報道する愚かさだ。AKB48をプロモートする側が握手会をそのように位置づけようとも、メディアはそれを真に受けて報道することはいかがなものか。握手会がAKB48のメンバーの肉体的接触を媒介としたCDの販売促進だとなぜ、いわないのか。もちろん、マスメディアに限らず、AKB48のCD販促が違法だとはいえないし、ファンに参加するなともいえない。だが、握手会商法は、AKB48のメンバーの人格をひどく損ねているように、筆者には思えるし、この事件をまつまでもなく、彼女たちをひどく危険にさらしているように思える。この危険性については次に述べる。
スターとファンが近づくことの危険性
二番目の問題点は、スターとファンとの距離に関する。このたびの事件は、いまのところ(5月28日時点)の報道では、AKB48の特定のメンバーを狙ったものではないとされている。だが、真相はわかっていない。たとえ、今回の事件が無差別的暴力事件の類型だったとしても、だからといって、握手会が容認されるわけではない。
なぜならば、ファンがスターに近づきすぎると、そこには思わぬ危険を招くからだ。今回の事件を機に、AKB48のプロモート側がファンとの交流イベントの開催を中止したことは幸いだ。AKB48にあっては、今後一切、握手会等の交流イベントをやめることが望ましい。若い女性を不特定多数と接触させないファンとの交流の方法は、いくらでもある。
一般に、スターとファンの間には、絶対に越せない溝を設けるべきだ。スターとはファンにとっては幻想的存在であり、それゆえ、スターをプロモートする側は、ファンをむやみに近づけてはいけない。ファンがスターに抱く感情は、無垢なものばかりとは限らない。スターへの偏愛が屈折した、危険な傾向をもってしまうことを否定できない。勘違い、思い違い・・・から、特異な感情が醸成され、爆発することもある。
それがどのような結果を招くかについては、映画『ザ・ファン』(ロバート・デニーロ主演)が描き出している。ファンがスターに近づきすぎると、思わぬ悲劇(犯罪)を引き起こす可能性が十分すぎるほどあり得る。
2014年5月24日土曜日
2014年5月23日金曜日
2014年5月18日日曜日
鎌倉市海水浴場命名権事業の愚行――名称変更しなかった豊島屋は素晴らしい
鎌倉市(松尾崇市長)は新たな財源確保を目的として、同市が保有する公有財産、物品、印刷物、WEB ページ等に民間事業者等の広告を掲載する事業を開始した。このたびその一環として、同市にある3か所の海水浴場のネーミングライツ(命名権)を公募し、命名権者と名称が決定した。
愚かな話である。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。海水浴場の名前といっても、それは地名である。地名は大地に刻まれた刺青ともいわれるくらい、歴史学、民俗学にとって重要な指標である。地名を失えば、その地域の成り立ち、堆積された記憶、人々の所縁を失う。柳田国男、谷川健一ら知の巨人たちが、地名の重要性を訴え続けてきた。そのことを知らない鎌倉の市長以下同市公務員たちは、“財源確保”という錦の御旗の下、いくばくかのはした金のために、地名という重要な財産を売り払おうとした。許されない暴挙である。
同市のHPによると、この事業は鎌倉行革市民会議が中心になって立案したらしい。同委員会の構成は、北大路信郷(明治大学専門職大学院ガバナンス研究科教授=専門委員)を会長として、以下、副会長に田渕雪子(行政経営コンサルタント=同)、坂野達郎(東京工業大学大学院社会工学専攻准教授=同)、友田景 (ビズデザイン株式会社取締役=同)、一ノ瀬美和子(市民委員)、稲垣康明(市民委員)、倉岡明子(市民委員)となっている。[*敬称略]
おそらくこの委員の面々には、柳田や谷川らが提唱してきた地名の重要性の言葉は届いていない。この面々には、歴史・民俗のもつ価値・重要性が理解されていない。それらを探る手がかりの一つ(=地名)を一度失ってしまえば、この先、とりもどすことの困難さもわかっていない。いまの鎌倉市長以下、同市の行政に携わる公務員に、日本のみならず世界的に貴重な歴史都市・鎌倉を任せられるのか、おおいに疑問が残る。
だが、“不幸中の幸い”が起こった。鎌倉市海水浴場のネーミングライツを獲得した株式会社豊島屋(久保田陽彦社長)が、3か所(「材木座海水浴場」「由比ガ浜海水浴場」「腰越海水浴場」)の名称を変更しなかったのだ。豊島屋の決断は素晴らしい。称賛されるべき快挙である。豊島屋の社長の英断に比し、同市が行った事業の姑息さがいかにも対照的である。賢明な民間事業者の手によって、行政の暴挙・愚挙が阻まれた。
それにしても理解できないのが、鎌倉市の暴挙・愚挙に対し、マスメディアが何の反応も示さなかったことである。地名に対する無理解がそうさせたのか。同市が掲げる“財源確保”という建前に沈黙したのか。財源確保は重要なことだけれど、かけがいのない財産を勝手に処分してもらっては困るのである。
2014年5月13日火曜日
『黒潮の道(「海と列島文化」第7巻)』
●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6311円(+税)
本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。
縄文時代は黒曜石の生産地
黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11
本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。
同地域には、源氏・北条氏が当地の水軍の協力を得て、武士政権を樹立した鎌倉が含まれるが、本書では政治史に係る記述は少なく、前出の各地域における黒潮との関わり――主な産業である漁業と漁撈儀礼、地域文化及び地域民俗信仰等――を採集し、その意味を問うものとなっている。
縄文時代は黒曜石の生産地
同地域が日本史において最初に特記される事項は、黒曜石をめぐる交易だ。黒曜石とは火山活動によって形成された黒色のガラス質火山岩のこと。先時時代、縄文時代を通じて、主としてナイフ型石器や石槍、石鏃などの石器の素材(石材)として利用された。日本列島における黒曜石の原産地は40か所ほどといわれるが、うち、伊豆七島の神津島の砂糠崎・恩馳島が本書「黒潮の道」に位置している。神津島の黒曜石は200㎞以上の遠隔地に運搬されていることがわかっている。このことは、先史時代の交易空間の広大さを実証する。近年、縄文時代遺跡の発見事例の増加に伴い、神津島産黒曜石が発見される頻度が高くなり、関東にとどまらず、石川県まで神津島産黒曜石が運ばれていることが判明している。神津島産黒曜石は、古代文化形成に伊豆諸島がはたした役割の代表的事例の一つといえる。
流人の地
中近世になると、伊豆諸島は流罪に処せられた罪人等が流入することとなり、同地域が独特の文化を醸成する契機となった。ちなみに、伊豆諸島がわが国の記録に初めて現れるのは、文武天皇3年(699)、讒言によって妖惑の罪を受けた役小角が伊豆諸島へ流刑されたという『続日本記』の記事だという。また、三宅島の島名の由来となった多治比真人三宅麻呂が養老6年(722)、伊豆島に遠流の刑に処せられている。最も名高いと思われる流人は鎮西八郎源為朝だろうか。彼は平安末期、保元の乱(保元元年/1156)で敗れ伊豆大島に流され、『吾妻鏡』によれば、この地で工藤介茂光に攻め滅ぼされている。だが、後世、この不世出の英雄を死なすにはしのびないとする島民たちによって、為朝は伊豆諸島各島を平定し、やがては琉球王にまで仕立てられている。現在でも、伊豆諸島各島にかならず為朝神社とその伝説がある。
漁撈と民俗
この地域の民俗の特性としては黒潮がもたらす水産資源に関連した漁撈儀礼がまず挙げられる。今年(2014年5月半ば)は、黒潮がもたらす海の幸の代表、鰹(カツオ)の水揚げが悪いという。今日、その原因の探索については、海洋学、気象学等が駆使されるが、近代以前の人びとにとっては、カツオが漁場から遠ざかったのは、超越的存在(神)の意志によるものと理解された。超越的な存在への畏怖、畏敬、感謝が黒潮の民俗宗教となって今日に至っている。具体的には、豊漁祈願や海難事故を忌避するための信仰・神事、漁船の正月乗初め、模擬漁撈とその芝居化等だ。また、水死体(ムエン)を漁の神、エベスサンとして祀る習俗(ムエン供養)もある。もっとも、水死体を祀る習俗は日本列島共通の観念であり、この地に限ったことではないが。
物忌みの神事
伊豆諸島神津島には、旧暦1月24日から26日にかけて、ニジュウゴニチサマと呼ぶ行事がある。一般の村人にとっては、ふつうの歳時習俗と同じく、家ごとの行事だ。これを仕舞正月という。24日と25日の夜は、「二十五日さま」というおそろしい神が村の中をめぐるといって、村人たちは家の中にこもる。村人たちは前日までに供え物をつくったりして神をむかえる準備をし、24日は仕事を休みその日の夕方から忌みごもりに入る。一方、村の氏神の物忌奈命神社の神主と、4人の祝は神事を行う。このような神事は大島、利島、新島、三宅島、御蔵島にもある。来訪神の信仰だ。
神津島、三宅島では、「忌の日」に、神々が島の山に集まるという。来訪神は大島ではヒイサマ(日忌さま)、利島ではカンナンボウシ(海南法師)、新島では海南法師が釜をかぶってくるという。御蔵島では24日の夜訪れる神をキノヒノミョウジン(忌の日の明神)と呼ぶ。三宅島神着では25日をキノヒ(忌の日)と呼ぶ。
ところで、超メガ都市・東京の近場で手軽なリゾート地として名高い熱海には、大楠の神木と梅の存在で多数の観光客を集める来宮神社がある。来宮(キノミヤ)の「キ」が「忌」であるとすると、これは漢語だ。前出の島々でいわれている「キ」の呼称も「忌」であるとすると、島にも熱海にも、中国的な陰陽道の知識があったことになる。もっとも忌の宮は、伊豆半島を中心に周辺地域にも多く分布していて、熱海の来宮はその一つで、古く走湯山権現(伊豆山神社)に「来宮明神」があったことが『走湯山縁起』巻二にみえている。肉、酒を忌む縁起が伝えられているが、これは仏教の影響だろう。
「キノミヤ」にまつわる肉や酒を忌む縁起は、列島各地において広く人々が実践していた、ものを忌む行為が、後年、仏教、神道によって教理化され、忌の宮(キノミヤ)信仰となって今日に至ったものと推定される。
11月23日は、大師講などとも呼ばれ、神来訪の伝えが広くみられる日である。朝廷などの新嘗祭や、その根底にある冬至祭にも相当する、一年のうちでも、最もたいせつな折目ではなかったかといわれている。その日が忌の宮精進の日であることは、きわめて興味深い。伊豆半島などの忌の宮で、禁を犯すと火難にあうというのも、火伏せの信仰の裏と表である。伊豆半島の忌の日が1月24日であったのも、愛宕信仰の縁日が24日であったことと無関係ではあるまい。「忌の日」が、11月の下弦の行事からひと続きであった可能性は、この点からも出てくる。
日本の旧暦は、立春を1月の指標にする中国歴であるが、中国でもかつては、冬至を新年の指標にする歴法が行われていた。ヨーロッパの暦がずっとそうであるように、北半球の温帯域の文明では、太陽がいちばん衰えて再生する冬至が、新年に最もふさわしい日であった。日本でも、朝廷の大嘗の日、後世の新嘗祭が、本来の新年儀礼であったと思われる。新嘗は、新たに獲れた穀物の祝いで、新嘗を神に捧げ、人々とともにいただく収穫儀礼であるが、それが冬至祭のかたちをとり、一年の切れ目になっていたらしい。(P376)
地方の新嘗については、伊豆半島のほか、下総、南武蔵、三浦半島南端、新潟県北蒲原郡、琉球諸島、奄美群島等にも散見される。なかで北蒲原郡では1月24日の夜におそろしい神霊が訪れる「オッカナノバンゲ」という忌みごもりの習俗がある。この夜、蓑笠を着て屋根の上にあがると、化け物の姿が見えるとか、逆さになって見ると、一年のうちに死ぬ者がわかるとか伝えられている。これを岡見(物見という地方もある)という。岡見、物見に併せて、吉兆占いをするところが多い。この習俗は、神津島、三宅島、琉球諸島、奄美群島にある。
ドイツなどのゲルマン諸族では、12月25日のクリスマスから1月6日の三人の博士の日までの12日間の夜を、「十二の夜々」と呼ぶ。キリスト教ではクリスマスの行事になっているが、古代ゲルマンの冬至祭を基盤にした新年であった。このとき、この世とあの世の往来ができるといい、死者や神の出現を表す行事があり、自分の将来をはっきり目で見ることができるといって、占いや予言をしたという。これは「忌の日」の伝えにきわめて近い。ゲルマン諸族でも、岡見は新年儀礼だったのである。(P381)
黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11
2011年3月11日、この地域は東日本大震災・大津波・福島原発事故という未曽有の大惨事に見舞われた。この地は黒潮(暖流)の北限にあたり、親潮(寒流)とぶつかりあう。そのため、自然界の諸領域において混合的特徴が見られる。たとえば、漁業資源においては、カツオ、マグロといった黒潮の幸と、サケ、マス、タラといった親潮の幸の両方が捕獲され、漁撈文化の多様性をかもしだす。さらに南北の宗教、婚姻形態、「蝦夷征討」の痕跡とアイヌ語地名の現存といった具合に、南と北が併存する。
当然のことながら、漁撈信仰、海や魚にまつわる伝承も多種多彩であった。ところが、3.11の影響で沿岸集落の多くが壊滅的被害を被った。物理的被害もさることながら、この地に伝えられていた民俗・文化の被害についてはいま、どのような状況にあるのだろうか。被災地の人口流出も止められないという。この先、われわれ日本は、黒潮の道の北限の文化をまもることが、できた、あるいは、できる――のであろうか。
2014年5月11日日曜日
2014年5月9日金曜日
小保方劇場、舞台は劇場から法廷か――理研調査委、再調査不要の判断
STAP細胞の論文問題で理化学研究所の調査委員会が8日、記者会見し、小保方晴子研究ユニットリーダー(30)の不服申し立てに対し、「データの加工で、結果が真正でないものとなった。改竄(かいざん)と捏造という不正は明らか」と、再調査を不要とした判断の理由を説明した。理研は同日、懲戒委員会を設置した。小保方氏や理研発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の笹井芳樹副センター長らの処分を決めるほか、所属長らの管理責任も問う。
調査委は、弁護士の渡部惇委員長らが会見。STAP細胞が存在するかどうかの検証実験に関連して、渡部氏は「STAP細胞の有無と関わりなく、研究に不正が認められた。科学的問題とは切り離して考えた」と説明した。
理研の規定によると、研究不正が認定された場合は諭旨退職か懲戒解雇の処分が原則だが、場合によってはそれより軽い処分もあり得る。(産経ニュース/2014.5.8 19:34)
理研調査委の判断は当然
理研の同委員会の判断は当然のもの、小保方が論文不正を行ったのは明らか、小保方側が調査委の調査結果を覆すだけの証拠を示せなかった――筆者はそんな印象を受けた。理研はこれを受けて、粛々と規定に従い、小保方及び関係者に処分をくだしてほしい。小保方側が法廷闘争にもちこむのならそれもよかろう。法廷で新しい事実が出てくる楽しみがある。
筆者は会見をLIVEで見ていないので正確に把握できてはいないが、質疑応答では、マスメディア側が知りたいことと、理研調査委員会側の話したいこととは、かなりの開きがあったのではなかろうか。双方の問題意識のすれちがいはおそらく深刻で、むだな時間ばかりが浪費されたのではなかろうか。
調査委は理研を代表しない
マスメディア側及び大衆側が感じる焦燥感、質問しても核心に至らない痛痒の感覚は、どこからやってくるのかといえば、会見を主催する主体にある。いまさらいうまでもなく、会見の主体は理研の中の「研究論文の疑義に関する調査委員会」であって、この委員会は理研全体を代表するものではない。つまり、同委員会の調査対象も権限も限定的なのだ。
小保方問題は理研の構造に起因する
一方、小保方問題は、小保方の論文不正に限定できない。理研の野依良治理事長が発言したように、複合的な要因から発生した。そのことは以前、拙Blogにて指摘した。ここで念のため、野依の発言を以下に引用しておく。
理化学研究所の野依(のより)良治理事長(75)は9日午前、衆院文部科学委員会に参考人として招致され、STAP細胞論文不正問題の原因について、「若手研究者の倫理観や研究の不足と、責任分担の不明確さ、理化学研究所の組織としてのチェック体制の不十分さなど、複合的な原因で生じた」と述べた。
野依理事長は、終始はっきりした口調で質問に答えた。笠浩史(りゅうひろふみ)氏(49)=民主=から責任の所在などを問われると、「若手の研究者については、経験が不十分であるがゆえに有するリスクへの認識が相当に甘かった」と反省の弁を述べた。その上で、「若手からベテランまで、博士いうものは科学者としての基本的な指導訓練が完了しているという認識のもと、研修体制をつくってきた。ここが組織としての反省点」と述べ、再発防止に取り組む姿勢を示した。(2014.4.9 20:57産経ニュース)
小保方問題は野依がいうとおり、「複合的な原因で生じた」。複合的な原因とは野依がいうところの、▽若手研究者の倫理観や研究の不足、▽責任分担の不明確さ、▽理化学研究所の組織としてのチェック体制の不十分――に限定できない。むしろ、野依が「など」と表現して曖昧化した部分に核心が隠されている。
理研の構造的欠陥
複合的原因の核心部分を指摘しておけば、
- 理研は税金で丸抱えされていて、適正な競争原理が働かない組織であること
- その結果、研究に戦略性がないこと
- おなじく、研究のプライオリティーが内部(幹部)の恣意性に委ねられてしまっていること
- 換言すれば、理研幹部の情が個々の研究者の研究活動に影響していること。本件の場合は、小保方と笹井芳樹(発生・再生科学総合研究センター副センター長)の交情ということになる。
- (会見で理研幹部がはからずももらしたことであるが、)理研が巨大な組織であるため、研究者の「自主性」という美名の下、理研幹部が個々の研究者の研究実態を把握できないでいること
- 理研には不正の土壌が組織的に培われていること(理研幹部=同委員会委員長にも小保方とおなじ手口の論文不正が行われていたという疑惑が生じている。)
現状の理研の解体と戦略的再構築の道筋
これらのことから、理研を解体して戦略的に再編成する必要性が見えてくる。つまり、“なんでもあり”の時代遅れの百貨店から、専門性に特化した小規模な研究機関に再編成する道筋だ。それにより、研究テーマと成果が視覚化、透明化できる。さらに、個々の研究者の自主性を担保しつつ、その実態の把握も容易となる。小規模であれば、天下り人材の受入れも不可能だろうし、研究費以外(外国の高級家具などの購入)の余計な経費を使う機会も減る。
マスメディアが小保方問題の核心を聞きたければ、野依理事長をひっぱりだせ
さて、前出のとおり、会見ではマスメディア側から小保方の論文不正以外の質問(たとえば、特許問題、処分問題、理研幹部研究者=調査委員による論文不正疑惑など)が続出したようだが、理研側からは(自分たちの任務は論文不正に限定された委員会だという論拠で)、しばしば回答を引きだせず終わったようだ。
先述したように、この会見は「(小保方の)研究論文の疑義に関する調査委員会」が主催したものであって、同委員会は限られた目的のために限られた権限しか与えられていない。だから、理研全体の問題を質問しても、回答する権限をもたない。
マスメディアに託された使命は、小保方問題の原因、つまり、理研に内在する(野依の言葉に従えば、)複合的原因について、理研のトップ=野依良治理事長に聞き質すしかない。野依をひっぱりださなければ、小保方問題の全体的解明は難しい。
調査委がセッティングした会見にのこのこでかけ、理研全体の話をききだそうとしても時間の無駄というもの。野依が出てこない、というのであれば、周辺取材、調査取材をするしかなかろう。それが本来のマスメディアの使命というもの。もちろん、理研全体の問題については、理研のトップには話す義務がある。理研は税金が投入され運営されている組織だからだ。
2014年5月4日日曜日
小保方劇場、出し物は『オセロ』ならぬ“オセロゲーム”
東京新聞が以下の通り報じた。以下引用する。
STAP細胞の論文問題で、小保方晴子氏の不正を認定した理化学研究所調査委員会の委員の論文に、画像の切り貼りなど加工の疑いが指摘されていることが一日、分かった。理研は、本格的な調査が必要かどうかを判断するための予備調査を始めた。オセロゲームというのがある。シロとクロがプレーヤーの一手一手でめまぐるしく反転するあれだ。理研を舞台とした小保方劇場はまさしく、その様相を呈してきた。先日、小保方の論文不正を調査し、不正ありと判定した「研究論文の疑義に関する調査委員会」委員長の石井俊輔の論文不正が明るみに出て石井は同委員会委員長を辞任したばかり。それに次いで、今度は同委員の面々が小保方と同様、実験画像の切り貼りや使い回しをしていたのだ。つまり、小保方がクロ、理研の調査委員会はいかにもシロの集団だったのだが、このことにより、委員会もクロに反転してしまったのだ。つまり、小保方劇場出演者全員がほぼクロである。
調査委では、委員長だった石井俊輔上席研究員の論文に画像の切り貼りが見つかり、石井氏は「不正ではない」としたが委員長を辞任している。
新たに指摘があった調査委員は、理研の古関明彦グループディレクターと真貝洋一主任研究員、東京医科歯科大の田賀哲也教授。
二〇〇三~一一年に発表された論文のうち、古関氏が責任著者を務めた四本や、石井氏と真貝氏の共著の一本、田賀氏が責任著者である二本の計七本に指摘があった。DNAを分離する電気泳動という実験の画像の切り貼りや、細胞の写真の使い回しがあるのではという内容で、理研は田賀氏の論文を除く五本を予備調査の対象とした。古関氏は取材に「指摘の部分は、理研に報告している。現段階で個人的なコメントは差し控えたい」と回答した。(東京新聞/5月2日朝刊)
これは困った。演劇といのは一般に善人と悪人があって、最後に善が勝つという物語で構成されているものなのだが、全員が悪人ならば物語は成立しない。小保方劇場は当初、小保方=善、理研=善で開幕し、第二幕は論文不正の発覚により、小保方=悪、理研=善でドタバタがあり、この第三幕で小保方=悪、理研=悪という結末に至った。
もっとも筆者は最初から小保方=クロ、理研=クロの立場を貫いてきたので驚いてはいない。が、それにしても理解に苦しむのが調査委員会の面面の精神構造だ。小保方の論文不正は日本中いや世界中が注目した問題。その調査委員を拝するということは、世界中の注目を浴びる。このことは火を見るより明らかではないか。自分の過去を振りかえってみて、自分に非がある可能性を自覚できれば、調査委員会に名を連ねるリスクを避けるのが普通だろう。“もし自分の不正がばれた”ならば、その反動の大きさは計り知れない…なのに…である。
ここからは推測だが、小保方も理研の調査委員会の面々も、あるいは先に論文不正を咎められたノーベル賞の山中伸弥も含めて、論文に掲載する画像に係る故意の加工は一般的行為であって、「不正」ではないとされていたのではないか。“そんなことは当たり前”という「常識」がまかり通っていたのではないか。拙Blogで何度も書いたことだけれど、小保方が「不正はない」と繰り返してきた根拠には、論文における画像等の加工等は「私だけでなく、諸先輩のだれもがやってきたこと」という確信があるのではないか。だから、「なんで私だけが不正と咎められるのですか」という論理に行き着くのではないか。
それにしても笑わせるのは、理研の野依良治理事長の言いぐさである。野依はかつて理研調査委員会の調査結果発表の記者会見で小保方を「未熟な研究者」と切って捨てた。小保方だけに論文不正の責任があるかのように小保方を断罪した。野依の断罪は、理研に非が及ばぬよう、理研に内在する不正の流れが明るみに出ぬよう、小保方でくい止めたいという願望からだろう。だがそうはいかなかった、理研の幹部が、しかも小保方をクロと判定した委員会の委員の多くが、小保方と同様の手口で論文作成において不正を行っていたのだ。もはや理研の組織的腐敗は明らかだ。小保方論文不正問題とは、理研という組織風土が生みだしたもの。「小保方」は、理研という腐った土壌に開いた、ドギツイ毒茸にほかならない。
こうなれば、小保方の不正よりも、理研の幹部たちの不正のほうが「罪」は重い。よって野依良治は一日も早く理事長職を辞任することだ。野依の辞任を出発点として、理研解体へと進むことが日本の科学研究分野を正常化する近道となる。
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