2014年8月10日日曜日

24時間女装のママのBar HIDAMARI(根津)

「町人」から日付変更してのはしごで根津へ。

観音通りの「ナカーサ」で軽く飲んで、隣にいたK氏と合流し、バー「ヒダマリ」へ。

この店のママはッボーイ・ジョージさん。

ボーイ・ジョージの熱狂的ファンらしい。

「24時間女装」が売りである。

某衛星テレビで特集されたのでご覧になった方もいるかもしれない。


フォトジェニックなので、筆者はいつも何枚か写真を撮ることにしている。




2014年8月9日土曜日

フレンチ居酒屋「町人」(谷中)

店主のF氏が石垣島に移住し、常連客だった若手が引き継いだ。

 フレンチを中心にメニューをリニューアルし、ワインの種類も増えた。

 店内のまがまがしさは変わらないが、気のせいかいくらかすっきりしたようにも感じる。







@Yanaka

2014年8月5日火曜日

笹井芳樹は自裁を選んだ--真相解明に向かわなければ、死者の魂は永久に浮かばれない

理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長(52)が自殺した。兵庫県警によると、笹井は5日朝、発生・再生科学総合研究センターに隣接する先端医療センター研究棟の4階と5階の間の踊り場で、ひものようなもので首をつった状態で見つかったという。遺書が近くのかばんの中にあり、小保方に宛てた遺書には「あなたのせいではない」「STAP細胞を必ず再現してください」という趣旨のことが書かれていたという。また、別の理研関係者宛の遺書には、「疲れた」という趣旨や謝罪する内容が書かれていたという。まさに無念の自殺であろう。衷心よりお悔み申し上げる。

さて筆者は先の拙Blogにおいて、▽笹井が「STAP細胞」問題のキーパーソンであること、▽この問題の舞台が神戸の埋立て人口島「ポートアイランド」で起きたこと――の2点を強調しておいた。笹井が自宅ではなく、職場である人口島の研究棟を自死の場に選んだことは、筆者の直観があながち外れていなかったことを傍証しているようで、気味が悪かった。

埋立て人口島の先端医療センター研究棟――いかにも人の温もりを感じさせない場ではなかろうか。筆者がポートアイランドを訪れたのはいまから20年以上前のことだ。バブル崩壊と震災の影響で同所を訪れる機会が失われてしまったものだから、現在の状況はわからない。しかし、人口島は人口島、そこには人の所縁、温もり、記憶、絆が薄い。コンクリートの箱、すべすべしたタイル、金属製の手すり・サッシ、冷たいガラスで覆われた、ピカピカの「職場」であったに違いない。研究棟ならばなおいっそう、人と人を結びつける息づかいすら聞こえにくいのではなかろうか。植栽が施されていたとしても、その緑や花は、埋立ての人口島の厚化粧の一環に過ぎない。

そんな人口島の一角に医療研究施設と医療関連企業をテナントとして集めること――それが国と神戸市、理研から笹井に課せられた特命だった。そしてその切り札として「STAP細胞」研究というテーマが、若い女性研究者とともに舞い込んだ。笹井はそのことにより、人生を狂わせた…

笹井は「STAP細胞」問題のキーパーソンであった。だから墓場まで持っていかざるを得ない情報やら事情を抱えていた。笹井が問題の真相を語れば、国、神戸市、理研は崩壊する。ノーベル賞受賞者の理研理事長もただではすまない。口を閉ざし続けることの重荷は計り知れないほど重かったのだろう。

それだけではない。笹井を追い込んだ要因は幾つかある。笹井が会見において「存在する」と力説した「STAP細胞」に関する科学アカデミーからの反証が当たり前のように報道されるようになったことだ。その中には笹井より科学者として“序列の低い者”――理研の研究員、科学ジャーナリスト、ネット情報――からのものが圧倒的だった。そして、それらを集大成したのが『NHKスペシャル――STAP細胞 不正の深層』の放映だった。(この番組については筆者も拙Blogで感想を書いておいた)

笹井に圧力をかけたのは、それだけではない。日本学術会議は7月25日、「研究全体が虚構であったのではないかという疑念を禁じ得ない段階に達している」と指摘。改革を早急に進めること、保存されている関係試料などを調査し、不正が認定されれば速やかに関係者を処分することなどを求めていた。この声明は、日本を代表する科学コミュニティーから発せられたものだ。

同会議の声明の根底には、理研が「STAP細胞」問題に関する情報を必要以上に隠蔽する姿勢を崩さないことへの不信感がある。科学研究というのは、自由に議論し合うことで切磋琢磨され真理へ近づくものである。理研は各界から提起された疑問や疑念に答えるための真相解明に着手しようとしないばかりか、議論する姿勢すらみせない。

理研の姿勢と共通するのが、小保方(弁護団)である。小保方(弁護団)も科学的見地からの質問や指摘に対しては一切の回答を拒否し、一見強気なヒステリックな決めつけ的言語で逃げている。つまり、理研も小保方も、科学的真相解明を拒否する姿勢において共通する。両者は、争っているように見えて、実は真相解明を忌避する姿勢において利害を一にする存在なのだ。

理研も小保方(弁護団)も真相解明の動きを遮断する盾として、「STAP細胞」の再現検証実験を掲げる。真相解明とは、それを換言すれば、小保方、笹井ほかの関係者の処分に行き着く。しかるに、前出のとおり、理研も小保方もそのことの先延ばしに奔走してきた。そして、その裏側で不正に係る証拠物等の処分を内密に進めようとしていたのではないか。ところが、理研と小保方(弁護団)が処分を留保しようとすればするほど、理研の脇の下から、不正に係る情報、証拠、証言がこぼれ落ちてくる。それらを掻き集めれば、小保方、笹井らの不正が傍証されてくる。そうした状況に耐えきれなくなったのが、笹井のこのたびの自死ではなかったのか。本日(8月5日)の理研の会見で「処分を保留したことが自殺の原因ではなかったのか」という質問があったそうだが、筆者もこの質問をしたメディア関係者と見解を同じくする。

笹井の自殺の原因は何かということになるのだが、遺書が公開されていない段階では推察するしかない。筆者は、笹井が「自裁」を選んだ、と推理する。笹井は「STAP細胞」に関わる(小保方の)着想・実験・論文作成、すなわち、この問題の全過程における不正、捏造等を知っていたはずだ。(にもかかわらず笹井が小保方と共謀して「STAP細胞」論文を世に出した主因については、拙Blogで繰り返し書いてきたので省く。)

すでに論文が撤回され、不正も明らかになった。この期に及んで、当たり前の組織ならば、関係者は処分され、処分後に新しい人生を歩むことになったであろう。犯罪者が服役後、新しい人生を歩むように。

ところが、筆者が拙Blogで書き続けてきたように、当たり前の処分は留保された。張本人の小保方は、弁護士を立てて引きこもり、“真相隠蔽”において共通する理研と共闘して、「STAP細胞」の再現検証実験という無限時間の中に身を置くことを選んだ。

一方の笹井は、一流の研究者という自負において、「再現検証実験」の無意味さを自覚し、処分留保の時間的圧迫に一人、身をさらさねばならなかった。つまり、自己の行き場所を完全に失いつつあった。笹井は「不正」を自白することもかなわず、科学者の良心と不正の隠蔽という葛藤に悩み、自らの不正を自らが裁く方法、すなわち自裁の道を選んだ。

笹井の自死はもちろん、先述したように回避できた。笹井を自裁に追い込んだのは、理研(とその上にある文科相、官邸)であり、小保方(弁護団)である。なによりも真相解明に向けて当事者が口を開かなければ、死者の魂は永久に浮かばれない。

2014年8月4日月曜日

誕生日

8月6日が誕生日。

娘夫婦が東京でも珍しい、生ハムと肉の専門料理屋にて祝ってくれた。

とてもおいしかった、ありがとう。



さて、このことは何度も書くことだが、6日は広島の原爆記念日だ。

人類史上、最初に原子力兵器が使用され、多くの市民が命を落とした。

原爆で命を落としたのは、戦争を始めた張本人ではない。

張本人たちは東京で、これまた米軍の空爆で命を落としている市民をよそに、

頑丈な防空壕のなかで、「終戦」の道筋を探っていた。

戦後、自分たちが延命する方策を弄していた。

その間に、沖縄戦があり、大空襲があり、広島・長崎への原爆投下があった。

筆者が「その日」に生まれたのは偶然だけれど、

「悲劇」がなぜ、起きたのか、それを繰り返さないために何が必要なのか。

生涯、そのことを忘れないように生きていこうと思う。




2014年8月3日日曜日

イスラエルの無差別殺戮は許せない

イスラエルによるガザ攻撃が開始され、この2日でひと月(26日目)近くたった。この攻撃は、イスラエルによる同地区のパレスチナ人の大量虐殺であって、戦闘や戦争ではない。双方の戦力はあまりにも非対称的である。ガザはイスラエルが開発するハイテク装備と最新兵器の実験場と化しているという。

イスラエルが同地区を攻撃した理由は明らかで、先の選挙によって成立した同地区の自治政府にハマスの勢力が合流したからだ。そのことを機に、イスラエルは謀略を通じて侵攻の火ぶたを切った。26日間のイスラエルの殺戮行為により、ガザでのパレスチナ人の死者は1700人を超え、負傷者は9000人以上になったらしい。その中には、民間人(子供、女性)が多く含まれている。

近年の中東の混乱はすべからく、イスラエル(アメリカ)による、アラブ弱体化の帰結である。20世紀末、それまで安定していた中東において、アメリカは世紀を挟んだ二度のイラク戦争により、イラク=フセイン政権を打倒し、イラクを内戦状態に追い込んだ。

エジプトではイスラム同胞団の新政権を軍部クーデターにより打倒し、親米(親イスラエル)政権を樹立した。相前後して、シリアのアサド政権(シーア派)に対して、イスラム教スンニ派過激勢力を使って内戦状態に追い込み、いま現在のシリアも内戦状態にある。

ヨルダンはすでに、親米(親イスラエル)国家となっていて、脅威ではない。アメリカとイスラエルは、イスラエルに好意的でない周囲のアラブ諸国をすべからく、内戦・内乱状態に陥れ、その弱体化に成功している。そのうえで、ガザ地区パレスチナ人の大量殺戮に踏み切った。イスラエルの脅威となる周辺国は内乱状態もしくは親米(親イスラエル)国家となっているから、イスラエルの安全が損なわることはないという読みである。

イスラエルによる空爆と民間人無差別虐殺は、イスラエルによる、(ナオミ・クラインがその著書名とした)『ショック・ドクトリン』と呼ばれる支配方策の実践である。激しい空爆と地上戦における無差別殺人を受けた側は、恐怖によって頭の中が真っ白になり、軍事作戦終了後、抵抗や反抗の意思を喪失してしまう。アジア太平洋戦争末期、アメリカは日本中に激しい空爆を続け、そのことにより、焦土に残された日本人は戦争終了後、アメリカに対し抵抗する意思を無くした。

1970~80年代、チリ、ブラジル等の南米南部地域の軍事政権が国内の社会主義勢力や市民運動家に対して行ったのは、空爆・砲撃等の軍事行動ではなく、拉致、誘拐、拷問(電気ショック等)及び無差別処刑であった。おそらくガザ地区では、軍事作戦と並行して、反イスラエル活動を行ってきたパレスチナ人活動家に対し、報道されていないが、前出のような非人道的弾圧が繰り返されているに違いない。

筆者は昨年(2013年)12月、イスラエルに観光旅行に行った。もちろん、ガザ地区を訪れたわけではないが、観光ガイド氏は、イスラエル国内のユダヤ人とアラブ人は、互いに共存の道を模索していると説明していた。

当時、筆者が訪れた観光地はみな平穏で、今の状態を想像することはできなかった。ガザの悲劇をよそに、エルサレム、テルアビブ、ファイファといった主要都市は平穏なのかもしれないが、イスラエル国内各所のパレスチナ人がガザの虐殺に憤って決起しないとも限らない。情勢は予断を許さない。
子供たちの殺戮を許すことはできない(イスラエル・ナザレ市内/筆者撮影)



2014年8月1日金曜日

8月の猫

暑い。 盛夏である。

 猫の体重を記録しておく。

 Zazieが4.3キロ、Nicoが5.9㎏で前月と変わらなかった。

 さて、2匹の猫の性格について書いておく。

 さび猫のZazieきわめて人懐っこく、気温が低くなると、人の胸の上にのって寝てしまう。

 無理やり抱かれるのは好きではないが、気が向くと人の胸に飛び込んでくる。

 気性が荒く、あまり鳴かない。

 一方の白の大型のNicoは、人に抱かれるのが大嫌い。

 そのかわり、人と、遠からず近からず、ほどよい距離(自分の距離)でいることが多い。

 性格は温厚だが屈折している。

 要求が多く、年中、鳴いてあれをしてほしい、これをしてほしい、とせがんでいる。

 ブラッシングと手でなでられるのが大好き。

一方のZazieは、これらをまったく受けつけない。

まるで正反対の性格の猫が2匹。

何の因果でわが家にやってきたのか、神の悪戯だろうか。

落ち着いた状態、満腹か遊んだあと

窓の上を通過する鳥を見据えた状態。野生に戻った瞬間かも

新聞を読んでいると必ず邪魔をしにくる。新聞紙の上に乗ってしてやったりの顔。

2014年7月29日火曜日

Nスぺ、「STAP細胞 不正の深層」

7月27日に放映された、「NHKスペシャル/『STAP細胞 不正の深層』」を見た。同番組を見た筆者の印象は以下の4点に集約される。


  1. 小保方晴子の「STAP細胞」に係る実験及び論文に不正があった証拠は概ね、そろっていることが確認できた
  2. 小保方の不正を許容しないグループが理研内部に存在している(理研内部の反小保方グループが同番組の制作に協力している)ことが確認できた
  3. 「小保方単独犯」ではなく、理研ぐるみの不正である(この問題のキーパーソンは笹井芳樹である)ことを確信した
  4. 小保方にフォーカスしすぎることは、「木を見て森を見ず」


1.不正の証拠

不正の証拠とはすでに報道された、マウスの差し替えやES細胞の混入等の事項である。純文系の筆者はこれらの証拠について詳論できない。ただ、提示された証拠は、科学コミュニティからのものである以上、小保方は科学者・研究者として、科学的に回答する義務がある。ところが小保方は弁護士を立てて引きこもるばかり。小保方が科学者・研究者ならば、それらの指摘に対して、自由に討論する場を設けてもいいはずだ。小保方の弁護士は、科学的指摘をすべて、「リンチ」「言いがかり」等の非科学的言語で退けようとしている。このような頑迷な態度は、科学が本来もつべき自由で創造的な議論、検証の場の創造を崩壊させる。

小保方は小保方で、乱暴なメディアの取材を恐れるかのような素振りで、代理人の法的権威の向こう側で沈黙するばかり。自分に非がないのなら、不正の証拠として提起された事項に対して正々堂々と反論するなり、議論したらいい。

2.理研内「反小保方勢力の存在

同番組において、理研の内部資料のコピー等が明らかにされた。小保方が若山研究室からES細胞を盗んだことを窺わせる証言や、小保方と笹井の「親密メール交換」までもが公開された。正直、これらの映像には驚いた。NHKが独自取材で集められるものではなかろう。

3.不正のキーパーソンは笹井芳樹

笹井は、理研再生科学総合研究センター副センター長の職にあり、小保方の「STAP細胞」論文の作成を全面的に指導したと言われている。また小保方と個人的に親しい関係にあり、情を通じていたとされる。再生科学分野の世界的権威者の一人であり、研究者としての実力、実績、知名度において、小保方をはるかに凌ぐ。小保方は海外の科学雑誌に2度ほど投稿しながら採用が見送られたが、笹井が論文作成を指導した途端、雑誌『ネイチャー』に採用され、それがこの問題の発端になったことはよく知られている。

笹井ほどの実力者がなぜ、小保方の不正に気が付かなかったのか――というのは誰もが抱く疑問である。笹井の説明では、実験過程は若山、論文作成過程は自分(笹井)だと単純に割り切きって抗弁しているが、科学論文は一般文書の校正、添削や、広告宣伝パンフレット・カタログ等のグラフィックデザインの手なおし作業ではなかろう。

同番組では、笹井は小保方の不正を承知していたことを示唆していたが、筆者もその視点に同意する。不正がばれれば、自分の科学者としてのキャリアに傷がつくし、それ以上の最悪のケースも想定されたはずだ。それを承知で、なぜかくも高いリスクをとったのか想像しにくいが、もしかしたら小保方への特別な感情と功名心が絡み合った結果かもしれない。人間は説明のつかない行動をとることがないわけではない。それが転落への道であったとしても。

4.「STAP細胞」問題発生の舞台

同番組の後半、あ、この問題の舞台となったのが、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(所在地:兵庫県神戸市中央区港島南町)、すなわち、神戸のポートアイランドであったことを再認識した。筆者はこのことを軽視していた。

Wikiによると、
ポートアイランドは、神戸市中央区、神戸港内にある人工島。1966年に六甲山の土で埋め立てが始まり、その後、2005年には神戸空港が新たにつくられた。
開島に合わせ、1981年(昭和56年)にポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)を開催。その後の地方博ブームのさきがけとなった。また、街開きにあたって博覧会を開催するという手法は横浜博覧会(横浜市・みなとみらい21地区)など各地で用いられるようになった。
阪神・淡路大震災の際には、島内全体が液状化現象で水浸しになって至る所に段差が生じた。市内の需要をカバーするため、一期地区に大量の仮設住宅が建設される。神戸大橋も橋脚にズレが生じただけではなく、水道管2本のうち通水していた1本(もう1本は将来需要を満たすために作られたもので通水されていない)が陥落して人工島の防災上の弱さを露呈した。
その後、一期地区は、その港湾施設の統合に伴って島の西部で旧バースの売却が行われ、神戸学院大学、神戸夙川学院大学、兵庫医療大学の3大学がキャンパスを新しく開設した。さらに、重機販売会社や中古車販売会社が集積して輸出を行う巨大中古車市場も設けられている。震災後、二期地区は土地の売却が進まずに問題となり、神戸市は、神戸医療産業都市構想を立案して医療機関や関連企業の誘致を図っている。その結果2009年(平成21年)8月現在では、理化学研究所など11の研究関連施設と158の医療関連企業が進出し、国内最大級の医療クラスターとなっている。2002年(平成14年)には三宮地域と神戸空港を結ぶ重要な都市軸上に位置している西側の区域が、「神戸ポートアイランド西地域」として政令による都市再生緊急整備地域に指定されている。

筆者の記憶で正確さを欠くが、ポートアイランドは華々しく「まちびらき」をした後、当時、神戸の有力な地場産業であったアパレルメーカー各社が本社を移転させ、〝ファッション都市神戸"の顔となった。ところが、ファストファッション等の台頭により、日本のアパレル産業に地殻変動がおこり、神戸の同産業は、ほぼ壊滅状態に陥った。1980年代の最盛期、ポートアイランドに十数社集積していたアパレルメーカーのうち、今日、残っているのは、ワールドほか数社にすぎない。

それに代わってポートアイランドに集積されたのが、前出のとおり、理化学研究所再生科学総合研究センターを中核とした医療研究機関と関連企業であった。同番組が報じているように、現在、理研同センターの別棟の建設が進められており、同時に医療関連企業の誘致も進んでいるようだ。

同番組によると、笹井は研究者として有能であるばかりか、国、企業との折衝能力に長け、一研究者という枠組みを越え、マネジャー、コーディネーターとして活躍しているという。笹井の役割は、研究費の支援要請であろう。笹井が問題発生後、マスメディアを集めて記者会見を行ったが、そのときの態度は自信に満ち溢れていた。彼は国、地方自治体、企業等との折衝の場数を踏むことで、交渉力を鍛え上げたのだろう。とりわけ資本との折衝は厳しいものがある。メディア関係者の手ぬるい追及など、笹井には恐れるに足らずだったのではないか。

われわれは、「STAP細胞」問題をみるとき、どうしても小保方晴子という、特異な小悪魔的キャラクターにフォーカスしがちである。その不正に目が行きがちである。それはそれで仕方がない。研究不正や論文不正が許されるはずがない。だが、小保方は、国、神戸市、理研が一体化した国策推進に偶然か必然かわからないが、巻き込まれた駆け出しの研究者にすぎない。

笹井の関与のエネルギーもその一環である。そしてその国策は、いま現在、アベノミックスとして肥大化し、強力なものとなっている。アベノミックスが立ち上がる前、神戸市は前出のとおり、神戸医療産業都市構想を立案して医療機関や関連企業の誘致を図っていた。この構想に後付けをしたのが、アベノミックスが掲げた国家戦略特区の一つ「医療等イノベーション拠点、チャレンジ支援(関西編)」であり、成長産業としての「医療産業都市構想や新たな市場の創出」であろう。後者の具体例として、▽世界共通の課題に取り組む中での新たな市場の創出 → 最新医療機器の認証の迅速化、最先端の研究開発を総合的に指揮する機関の創設 等が挙げられており、主要な成果目標(KPI)として、「医薬品、医療機器、再生医療の医療関連産業の市場規模を2020年に16兆円(現状12兆円)に拡大する」とある。

「STAP細胞」とはもちろん、再生医療の分野に属する。理研、笹井、小保方らが進めた研究は、まさに国策中の国策に格上げされたのだ。いや、笹井は格上げされたからこそ、「STAP細胞」にのめりこんだに違いない。そこにアベノミックスが掲げた「女性の活用」を加えてもいい。だから、6月12日に発せられた、「研究不正再発防止のための提言書」にあった、再生センターの解体(その物理的解体)はもちろんあり得ない。それは国策及び神戸市(ポートアイランドのテナント誘致計画)に反するからだ。

幕引きは、理研と小保方の談合的和解か

今日、科学研究とは、言うまでもなく、純粋に自立して存在することはできない。資本・政治に従属して、その方向性はいかようにも左右される。ときには、その結果までもが捻じ曲げられる。日本においては、その中立性・客観性を担保する制度、機関等は貧弱である。そればかりではない。原発事故や原発再稼働をみても、「安全性」に係る基準は、科学的判断だけに委ねられていない。

今日の科学者は、自分のしたい研究をするわけではない。研究の優先順位の第一は、資本のニーズにこたえることであり、政治もその手助けをする。「STAP細胞」はまさに、資本と政治が望むものだった。そこに「不正」が暴走する源があった。

理研が小保方を処分しない、いや処分できないのは、裁判闘争に至れば、不正に連座する者が数人の幹部に及ぶことを恐れているからだろう。加えて、国策にもひびが入る。小保方側(弁護団)は、理研を告発できる材料(証拠)を、小保方の不正の証拠を上回る数、揃えていることだろう。だから、理研(その背後にある国と神戸市)と小保方の間の落としどころは、和解である。しかし、このまま和解に至れば、理研の規程に反するばかりか、不正の解明抜きの談合ということになり、理研は研究機関としての信頼性を大いに損なう。

つまり、いま現在、理研と小保方の力関係において優位にあるのは、小保方の側であって、理研ではない。理研が優位に立って和解する条件は、小保方がこだわっている「STAP細胞」の実在を切り崩すことである。つまり小保方が検証実験に参加し、それが作製できなければ、小保方の劣位は決定的なものとなる。だが、そう簡単に結論に至らないで引き延ばし作戦がとられるにちがいない。ひきのばしの期間とは、事件の風化であり世間が関心を失うまでとなる。この問題が忘却され風化するに、そう長い時間はかかるまい、1年か2年で十分だろう。それまでの間に理研は組織と予算の拡大に成功し、ポートアイランドにおいては、先端医療関連企業のテナント誘致が進んでいる。処分を保留された笹井は、マネジャーとして、コーディネーターとして、これまでと変わらず、その手腕を発揮し、一方の小保方は一人、理研の隔離された実験室に閉じこもり、存在しない「STAP細胞」の再現実験をもくもくと繰り返し続けるというわけだ。

2014年7月25日金曜日

アギーレに期待しない

サッカー日本代表監督にメキシコ人のアギーレが就任する。8月に来日し、9月に予定されている国際親善試合(ウルグアイ戦/5日、ベネズエラ戦/9日)の指揮をとるという。

それに先立ち、日本代表(日本サッカー協会=JFA)はアディダス社との大型のスポンサー契約に合意している。また、このたびの親善試合も日本代表のメーンスポンサーであるキリン社の冠大会。かくして日本代表は、2018年ロシアW杯の開催に向けて、いつか来た道を歩みだす。

アギーレ・ジャパンは短命?

筆者の直観を申し述べれば、アギーレ・ジャパンは短命に終わりそうな気がする。なぜならば、アギーレが日本代表を取り巻くマーケティング的状況を理解することはあり得ないと思うから。おそらく、彼は純粋なサッカーの指揮官であって、大手広告代理店とJFAが共管する日本代表に嫌気がさし、早々に指揮を放棄すると思う。

逆に言えば、アギーレが監督を続けている状況とは、日本代表がブラジル大会と同じ状況にあることを意味する。ものわかりがよくなったアギーレとは、自身のサッカー哲学から外れ、代理店主導のカネまみれの日本代表のあり方と妥協している状況をいう。アギーレ一人に、JFAと代理店を黙らせる力はないだろう。

キリン杯のために「海外組」が犠牲に

さて、欧州のトップリーグの2014-15シーズンの開始日をみると、イタリアが8月31日、イングランドが16日、ドイツが22日になっている。前出のキリン社の冠大会は、欧州各国リーグの開幕直後に組まれている。日本代表の「海外組」がこの時期に欧州から日本に帰ってきて親善試合をすることで、彼らのコンディションを上向かせる要素は見いだせない。

キリン杯がFIFAの公認の大会だったとしても、「海外組」が日本に戻ることは、クラブにとっても選手にとっても、きわめて大きなマイナス行動となる。選手とクラブの間における拘束に係る契約の詳細を知らないが、なによりも、「海外組」にとって重要なのは、所属チームのレギュラーポジションを獲得すること、試合に出場することだ。開幕直後にチームを離れることのマイナスは計り知れない。

レギュラーこそが代表の条件

ブラジル大会惨敗の要因の一つに、代表主力選手が試合に出ていないことが挙げられる。いくら練習でフィジカルを上げても、公式戦では通用しない。代表強化の最善策の一つとして、個々の選手が、所属チームでリーグ戦という公式試合において、勝利に貢献すること、真剣勝負の経験を積むこと。これらのことがらは、ブラジルW杯惨敗によって、確認済みの事項だったはずだ。

日本のプロ野球には、「ブルペン・エース」という言い方がある。ドラフト上位で指名され、期待された投手。練習では素晴らしい投球をするものの、いざ試合に出ると制球を乱したりして勝てない。そうこうしていくうちに、チャンスが与えられなくなり、球界から去っていく。才能があっても、試合で発揮できなければ、プロではやっていけない。つまり試合で結果を残すことがプロスポーツ選手の最低限の存在証明なのだ。資格、過去の実績、ネームバリューやマスメディアの露出度ではない。

日本の海外組は「ブルペン・エース」と同じようなものだ。彼らはJリーグで活躍し、海外クラブと契約に至る。しかし、海外クラブでは試合に出られないまま、「海外組」という「資格」において日本代表入りする。彼らの役割は、海外クラブの広告塔、日本国内におけるCMタレントである。

公式試合で鍛えられていない精神と肉体は、W杯という真剣勝負では通用しない。むしろ、日本のJリーグでレギュラーをはっている選手に劣る。前者がブラジルにおける本田、香川、長谷部、長友、吉田であり、後者が大久保、山口、青山だった。

「海外組」の数少ないレギュラーでありながらブラジルに行けなかった2選手

「海外組」でレギュラーでありながら、W杯の代表選手に選ばれなかった事例もある。この事例は、ブラジル大会惨敗を検証するうえで、きわめて重要なものだ。代表選考に不正があったとは言わないが、選手の実力とは異なる力学が選考過程に作用したことの傍証となる。

ブラジル大会日本代表に残れなかったハーフナーマイクは、W杯後、オランダ1部からスペイン1部のコルドバに移籍した。彼はオランダ1部フィテッセに所属し、2年連続で10得点以上を記録した。オランダで実績を残しているハーフナーが代表から漏れ、イングランドやイタリアで1~2点しかとっていない「海外組」が、なぜ代表に選ばれたのか。

もう1人は、細貝萌だ。彼はドイツ1部ヘルタベルリンに所属し、13-14シーズンに33試合に出場している。その一方、日本代表キャプテンの長谷部は同じくニュルンベルグでわずか14試合の出場にとどまっている。しかもシーズン後半は故障であった。どちらが、ドイツ1部で活躍していたかは、その成績こそが物語っている。

筆者は、ブラジルW杯開催直前の代表選考発表の日から、繰り返し、ハーフナーと細貝が選に漏れたことに疑問を呈してきた。ザッケローニが代表監督を退いた今、その理由を技術委員長(現専務理事)に明らかにしてもらいたいものだ。

アギーレが真の監督の仕事に全うできる条件

さて、アギーレである。アギーレがJFAと広告代理店の横槍を退け、普通の代表強化に取り組むチャンスが皆無というわけではない。わずかではあるが、アギーレが代表監督の職を全うできる条件を挙げておく。

その第一は、日本惨敗の主因を日本のサッカージャーナリズムが真剣に取り上げ、その是正に向けたキャンペーンを行うことだ。つまり、日本国民が、日本代表のこれまでのあり方に疑問を呈すること。そうなれば、アイドル的な代表人気をつくりあげてきた広告代理店が、これまでとってきた日本代表に係るマーケティング戦略を後退させる可能性もないとは言えない。

そうなれば、国際親善試合に対する価値相対化も現実化する。親善試合に勝ってもそれが実力測定には当たらないという認識の一般化だ。親善試合とは、いわばボクシングの公開スパーリングのようなものだ、ということが国民レベルで理解が進めば、国民の関心のあり方が変わる。相手は練習不足かつ体重コントロールもしていない。交代枠は6人だから、ヘッドギア着用と同じだ。勝った、負けた、の話ではない。代表とは名ばかりの中身が知れれば、国民は不当表示だとJFAを糾弾するだろう。チケット代を返せと。

第二には、日本代表がブラジルで惨敗した結果、代表選手のタレント価値が低下したことだ。「海外組」に対する期待度、好感度は下落した。つまり、彼らをCMタレントとして起用する意味がなくなってきた。代表選手の媒体露出は低下し、JFA(広告代理店)も代表選手起用について、監督を束縛しなくなる。もちろん、キリン社及びアディダス社の影響は残るだろうが、ブラジル大会前ほどではないだろう。代表監督は代表選手の選出及び起用における自己裁量権はザッケローニのときよりも拡大する。

“アギーレ”は代表祭りが始まるぞ、の大号令

しかし、こう書きながらも、アギーレ日本代表監督就任の媒体の取り扱いを見る限り、筆者が挙げてきた条件とやらも怪しくなる。一部メディア(ネット及び活字媒体)には総括なしの監督選びを非難する見出しも散見するが、TVがまるで駄目だ。“アギーレ”は、これから4年間、代表祭りが始まるぞ、の大号令に聞こえる。

結論を言えば、9月のキリン杯までに外国ブランドの代表監督を就任させることが、(スポンサー様のため、広告代理店のために)JFAにくだされた大命令なのだ。4年後のロシア大会に期待できない。

2014年7月21日月曜日

行田、さきたま古墳群、氷川神社、川越

行田古代蓮の里


さきたま古墳群


氷川神社


小江戸川越



2014年7月20日日曜日

権力の側にある者は罰を受けない――小保方晴子問題と忍び寄るファシズムの暗い影

筆者は小保方晴子と理化学研究所が引き起こした「STAP細胞」問題について、あまりに軽く考えてきたことを深く反省する。「小保方劇場」というタイトルも金輪際使用しない。この問題は筆者が思っていた以上に深刻化し、かつ、いま日本国で起きている諸々の修正主義的傾向の一環となって表出している。それは倫理・正義・法体系といった、国家と国民に対する最低限の縛り・約束事の崩壊を伴う社会の変質の象徴である。端的に言えば、小保方晴子を免罪しようとする勢力の台頭は、ファシズム(的支配体系勢力)の台頭と換言できる。

理研は小保方の処分を留保し、理研復帰を容認

拙コラムで触れたとおり、小保方らの「STAP細胞」論文は撤回され、その前後に若山および理研内部研究者等の調査・検証により、「STAP細胞」の実験結果にも不正・捏造があったという客観的証拠が公表されていった。このままならば、小保方が「自白」をせず弁護士を立てて引きこもっている以上、理研が小保方に処分をくだし、それを不服とした小保方が法廷闘争にもちこみ、えんえんと裁判が続くのかな、そうなれば、われわれが知らない理研と小保方の怪しげな関係も明るみに出て、それはそれでおもしろいのかな、と理研の処分発表とそれに対する小保方側の反応が出る日を心待ちにしていた。

ところが、政府(文科相)・改革委・理研(野依理事長)の三者が、「STAP細胞」の存在に係る検証実験について、小保方の参加を支持しだしたころから、法廷闘争の雰囲気が消え、承知のとおり、実際に小保方が期限付きではあるが理研に復帰してしまった。理研は自ら備えた規程を自ら逸脱し、小保方に対する処分言い渡しを留保した。

早稲田大、博士論文調査委の驚愕の詭弁

その一方、7月17日、小保方の「博士論文」をめぐり、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は、小保方の博士論文に数々の「問題点」を指摘しつつも、小保方の行為が「学位取り消しの規定にあたらない」と結論付けた。その説明はいかにも不自然で、草稿をあやまって提出してしまった、という小保方の言い訳を全面的に受け入れての検証結果であった。「学位取り消しに当たらない」という結論が先にあって、それを正当化するための詭弁で構成された、驚きの内容の調査結果であった。もちろん、最終的に判断するのは早稲田大学であるから(本日=7月20日現在)、「学位取消しに当たらない」と決定されたわけではないが、調査委の結論を大学が覆す可能性はない。つまり、小保方はここでも処分を免れた。

小保方の理研復帰(検証実験参加)と、早稲田大学(調査委)の「学位取り消しに当たらない」という判定には密接な関係がある。両者に共通するのは、いずれもが「小保方は処分されない」という、「STAP細胞」問題の最終結論に向けた、露払い的役割を担っている点である。

小保方は「STAP細胞」問題で処分されない――その論拠は

論文が取下げられ、不正の状況証拠が出揃っている以上、ノーマルな社会ならば小保方のクロが確定し、組織の規程に従って処分される。犯罪ならば法律で裁かれる。自白がなくても証拠によってシロ、クロが判断される。小保方の場合は、大学が定めた規程及び理研という政府系研究機関が具備する規程に従う。もちろん、不服があるときは規程ではなく法律に委ねることもできる。法廷闘争である。

だが小保方の場合は大学で処分を免れ、理研でも免れそうな状況にある。このことは明らかに、尋常ならざる圧力が小保方を処分する側(早稲田大学・理研)にかけられていると考えることが自然であろう。尋常ならざる圧力とは何かといえば、国家権力以外にない。なぜ国家権力が小保方を守るのか。

国策の誤りは「なかったことにする」という修正主義が横行

それは、国家が国家にとって不都合な事件、事案は、すべからく“なかったこととする”からだ。修正主義である。「STAP細胞」研究は国家プロジェクトであった(現在もそう)。それは理研という日本国直営の研究機関において発想されてものだからだ。国策の一環なのである。ところが承知のとおり、それは見事に頓挫し、世間の笑いものになった。理研(の一部機関の)解体までが提案され、小保方とその周辺の幹部研究者との醜聞までが公表されるに至った。これ以上のマイナスが及べば、すなわち、小保方及び論文共著者等が理研により処分されれば、国家の威信を著しく損なう。それだけは避けよう、というのが小保方を処分しない側の本心である。

原発事故、平和憲法、侵略行為、アジア太平洋戦争までもが修正される

この構造は「原発」と同じである。原発は国策であり、福島原発の事故は国家にとって、“あってはならない”ものだった。だから、「事故はなかったものとする」というのが日本国の基本姿勢である。この姿勢は政党・政権を問わない。「STAP細胞」問題も論文取下げで決着し、すべて「なかったものとする」というのが、国家の姿勢であり、その姿勢を堅持するために小保方は、不正を問われることなくいま、理研に復帰している。

原発事故においても、東電、経産省ほか、原子力発電の安全基準を審査してきた諸々の機関・委員会等に関わった者の責任が問われることはない。そしていま、福島原発事故は風化しつつあり、マスメディアによって、それがなかったこととする、記憶と記録の封じ込めが進行している。

日本国憲法についても同じような修正が加えられている。集団的自衛権行使容認が憲法改正を経ずに閣議決定で「合法化」されてしまう。満洲国建国、アジア諸国への侵略、アジア太平洋戦争の開始、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下もなかったこととする。「東京裁判」「戦後民主主義」「不戦の誓い」「戦争放棄」「永久平和主義」もなかったこととする。そればかりではない。日本人の戦没者数310万人の犠牲さえもなかったこととされようとしている。筆者にとって一世代前の人間がたかだか70年余前の戦争で310万人も亡くなったのである。そのことを忘却して、集団的自衛権の問題は議論できないのではなかろうか。現政権によって進行している日本国家の再編作業は「歴史修正主義」を基本としている点において、中国・韓国の指摘は間違っていない。

国策を担う者は処分されない

第二点目は、小保方が国家の側の人間であるからである。このことは前段の同義反復である。国家の側に属する者というのは、国策を担う者なのだから、同じことだ。だから処分されることがない。国家公務員、政治家、経営者、研究者、教育者・・・ジャンルを問わず、国家の側に属する者に官憲等の力は及ばない。ところがひとたび反権力側に押し出されれば、ジャンルを問わず排除される。その最適事例が田中角栄であり小沢一郎であり田中真紀子であり、鈴木宗男であり、佐藤優であり、ホリエモン・・・である。

小保方晴子が国家に属するようになったのは、彼女が発想した「STAP細胞」故であり、それに国家権力が捩じりより、小保方はもちろん国家の敷いた路線で彼女なりに頑張った。その頑張り方は実験結果の捏造、論文における画像の切貼り・無断転載など滅茶苦茶な作法を伴い、科学者倫理を逸脱したものに満ち満ちていた。だが、その仕事ぶりを糺す者は、少なくとも理研という政府系研究機関にはいなかった。学位論文でも然りである。早稲田大学が小保方の論文を適正に審査していたならば、彼女のキャリアはいまとは違ったものとなっただろう。そこに問題の出発点があったという者もいるが、筆者はそうは思っていない。早稲田でなくとも、どこかの大学が彼女の博士論文を通していただろう。(多少の時間的ズレはあったかもしれないが。)

小保方を止められなかったのは、日本各所の原発建設が止められななかったことと同じであり、事故後の原発再稼働の動きを止められないのと同じ構造である。

小保方晴子が備える「政治家」としての資質

国策にのった「STAP細胞」は国策により発信され、小保方の不正の発覚により頓挫した。しかしその張本人小保方を国家が処分することはない。これも噂だが、彼女の資質――科学者よりも「政治家」としてのそれ――を見越して、自民党が小保方を参院選候補者に立てるという説もあるらしい。

思えば、あれだけの状況証拠が後日明らかになりながら(本人は百も承知で)、「STAP細胞」はある、200回以上も製作した、と大勢のメディア関係者の前でミエを切った小保方の度胸と厚顔ぶりは、日本の「政治家」としての資質を十分に備えている。

科学コミュニティからの科学的指摘に一切耳をかさない忍耐力、いや鈍感力も然りである。政務調査費の使途を問われて絶叫号泣した兵庫県議会議員と比べてみれば、その存在感は圧倒的である。おまけに、いわゆる「女子力」とやらも備えているらしい。小保方が着用した洋服は売れるという説も聞いたことがある。つまり、これほどのタマはそう簡単に見つかるものではない、というのが選挙のプロの目なのではないか。自民党の比例代表名簿の上位者になれば、まず落選はない。自民党の比例代表獲得票数の増加も期待できる。

小保方が選挙に立候補するまで「STAP細胞」検証実験は終わらない?

もちろん、選挙戦まで、「STAP細胞」のあるなし(検証実験結果の公表)は留保され続ける。見つからない条件を挙げ続けてその修正を大義として実験を引き延ばせば、おそらく何年でも留保は可能である。何年もしないうちに、「STAP細胞」の不正も捏造も人々の記憶から消える。処分されない「女子力」の高い小保方晴子の虚像だけが人々の前に国会議員候補者として蘇るのである。それは筆者には悪夢に等しいが、そう思わない有権者の方が圧倒的多数だろう。小保方が日本の国会議会になったとしたら、まさに世の終わり(終末)である。

2014年7月18日金曜日

日本代表サッカーの暗部と深部

管見の限りだが、もっとも簡潔にして的確なサッカーW杯ブラジル大会の日本代表についての論評は、レビー・クルプ(元セレッソ大阪監督)のそれだろう。

筆者は全面的にクルプの論評を支持するし、そのとおりだと思う。ただ、クルプはその立場上、日本サッカー、なかんずく代表サッカーが陥っている構造的問題についての論及を控えている。彼には、日本において仕事をする機会がまだ残されているからだ。彼はセレッソ監督時代に現マンチェスターUTの香川真司を育て、次いで清武弘嗣、柿谷曜一郎、山口蛍を育てて代表に送り出している。その手腕については、だれもが認めるところ。だから、クルプを代表監督に推挙する声すらある。日本のサッカー協会との関係悪化は望むまい。

日本サッカー協会の問題点

(一)協会の担当者は責任をとってまず辞任すべき

というわけで、クルプが触れなかった日本代表の問題点である。まず、協会がブラジル大会惨敗の責任をとろうとしないことだ。もちろんまだ検証の段階だという言い訳はとおる。そう簡単に敗北の原因究明はできません、という主張もありだろう。しかし、負けたことは事実なのだから、協会として、敗退が決定した時点で代表強化の職にあった者は辞任すべきだ。いきなりトップというわけにはいかないだろうから、まずは技術委員長が辞めるべきだ。

W杯南アフリカ大会終了後からブラジル大会に至るまでの4年間、技術委員長が日本代表を実質上マネジメントしてきた。その具体的一歩が代表監督選びであり、ザッケローニの招聘であった。ザッケローニの代表監督招聘は結果的には失敗だった(失敗の詳細については後述する)。

(二)誤った強化策

次に問われるべきは、強化策のあり方であり、その失敗の構造改革なしでは先に進めない。なかで重要なのが、強化試合の組み方だ。日本代表が日本国内で海外の代表チームと行う親善試合(=強化試合、練習試合)のあり方だ。

親善試合は(TV視聴率が高く、また、種々のメディアの注目度が高いため)広告代理店にとってドル箱のイベント(マーケティング上の)になっている。そのため、海外の代表と銘打って、調整不足の海外「代表チーム」が強行日程で試合をするケースが軒並みだった。しかも、日本と欧州等のサッカー日程の違いから、有力選手が集まらないケースも少なくなかった。それでも試合開催時には国歌が演奏され、大使等が観戦に訪れ、代表戦の体裁だけが整えられる。

それだけではない。代表戦というだけで盛り上がる日本の脳天気「代表サポーター」が多数集まり、公式戦さながらの応援をしてくれる。メディアもやってくる「海外代表」の実態を報道しない。有力選手が不在でもそのことを報じない。

玉石混交の「代表」選手で構成された「代表チーム」が日本にやってきて、日本代表と試合をするだけで、サッカー協会には巨額のカネが集まり、代理店にとっては価値の高いイベント(コンテンツ)として高く売れる。TV局は高視聴率が取れ、印刷媒体も売れる。日本代表の国内親善試合は、概ね日本の勝利で終わり、スタジアム、あるいはTVの前の「代表サポーター」が満足する。

協会、代理店、メディア、「サポーター」の4者にとってウイン・ウインの国際親善試合だが、もちろん日本代表チームの強化には結びつかない。加えて、欧州から日本に帰国する日本代表の「海外組」も長距離移動でコンディションを壊しクラブでのレギュラー争いに負ける要因となる。つまり、カネもうけにはなるが、代表強化には何の益もないのが「国際親善試合」の実態なのだ。こんなことは、サッカーを知る者には承知のことだが、カネの力には勝てない。このビジネスモデルを協会が諦めなければ、代表強化は無理だ。なぜ、海外組がたかが親善試合に呼ばれるのか、そのことは後述する。

(三) メディアに巣食うサッカー「解説者」を自称する“太鼓持ち”たちを一掃せよ

サッカー解説者と称して、いったい何人の“太鼓持ち”コメンテーターがTV出演したことか。中継中に大声で叫ぶだけの応援団的なコメンテーターの方が多数派だ。根拠のない対戦予想が花盛りで、「3-0」で日本勝利が定番化している。うち幾人かはサッカー解説をする者もいるものの、いずれ日本サッカー協会等から「お声」がかかる身だから、日本代表を批判する者は極めて少数派となる。

例外はセルジオ越後ただ一人。彼は日本サッカーに対して実にクールな立場を堅持し続けている例外的存在だ。セルジオ越後がいまの立場を堅持できるのは、サッカー協会やJリーグに取り込まれる可能性を自ら否定しているからだろう。セルジオ越後を除いたコメンテーターは就職がかかっているのだ。

この状況を換言すると、日本には専門職としてのサッカーコメンテーターは、セルジオ越後以外存在しないということ。もちろん、サッカーを専門的に扱うメディアもない。前出のとおり、代表サッカーを支配しているのは大手代理店である。メディアは代理店に隷属しているから、代理店が(コンテンツとして)大切にしている日本代表を貶めるような記事・報道を控える。

だれからも、どこからも批判の矢が飛んでこないのが、日本代表という存在なのだ。代表は大手広告代理店のメディア支配に守られている。この体制を脱して、日本代表を自由に批判し、その問題点を糺すようなメディア環境(サッカージャーナリズム)が日本に醸成できれば、日本代表のあり方は、そう長い時間を要さず、変えていけるかもしれない。

ブラジル大会前、“太鼓持ち”の多くは、日本代表がグループリーグを悠遊突破し、ベスト8に入ると予想していた。景気づけのつもりなのか、本心なのか、保身なのか・・・代表というお座敷を盛り上げるのが彼らの仕事なのだからそれはそれで仕方がないとはいえ、根拠のない楽観論にはウンザリ。彼らを一掃することも、代表強化の周縁的事業の一つとなる。

大手広告代理店の負の影響力

(一)スポーツメディア支配から、代表支配へ

その実態について確実な取材していないので、以下の記述は推定にすぎない。だが、そう考えた方が自然だと思うので書いておく。その根拠は以下の4点だ。
  1. 日本代表試合が広告代理店にとって有力なコンテンツになった
  2. その結果、無益な海外チームとの親善試合が国内で興行目的のイベントとして仕掛けられた
  3. メディアも大手代理店の意向をうけ、代表批判を控えてきた
  4. W杯はその総集編とも呼ぶべきビッグイベント
大手広告代理店がW杯までに仕込んできたものとは、日本代表の価値を高めることだ。その結果、日本代表は国民的支持を得て、その動向には、国民的関心事にまで高まった。代理店はそれを事業化する。代表選手のCM(タレント)起用である。代表試合に出場する選手、とりわけ「海外組」を、CMタレントとして起用し、スポンサーからCM制作料と媒体料を稼ぐ。スポンサーへの見返りに、代表試合にはCM起用した代表選手を先発で起用する。選手の露出を高めて宣伝効果を高めることだ。その総集編=大舞台が4年に1度のW杯である。


(二)代表選手選考、戦術への介入

広告代理店が代表選手の選考や戦術に影響を及ぼすとしたら、どうだろうか。そんなことは不可能だと考えるか、いやそんなの常識だよ、と考えるか。前者のようなナイーブ(ウブ)な観点の「代表論」は、筆者にとって魅力がない。つまり、前者の立場のカテゴリーの代表論は、前出のレビー・クルプの代表論で言い尽くされているからだ。

今回のW杯の日本代表、とりわけ試合に出場した選手たちの顔ぶれは、CMキャラクターとしてメディアに露出した顔ぶれとシンクロしている。実力がある選手だから海外に移籍し、メディアの話題となり、そのことを価値としてCMに起用されるというのが自然の流れだ。だれもがそう考える。

ところで、W杯ブラジル大会のMVPがメッシ(アルゼンチン)だったことには、だれもが疑問をもった。メッシが大活躍した記憶がないからだ。しかし、彼がアディダスの契約選手だったとわかれば、驚かない。同社はW杯の有力スポンサー企業である。

日本代表の背番号10はアディダスとの契約選手で受け継がれている(例外は2002年:トルシエが代表から外した中村俊輔)。もちろん現在の背番号10の香川真司もアディダス契約選手。

本大会に臨む前の香川真司はどうだったのか。イングランドで試合に出られず、日本代表試合でも活躍していない。香川真司に代わる人材はいなかったのか?こうしたメーカー等とスポーツ選手との密接な関係は、日本代表にも認められる。余談だが、筆者は圧力に屈せず中村俊輔を代表から外したトルシエをその一点で評価している。

(三)代表選手選考およびその起用とCM出演の関係性

本田圭佑はW杯開催前後、NTTドコモ(携帯電話)、オリンパス(カメラ)、ミンティア(菓子)、キリン(ビール)、ユニクロ(衣料品)、マクドナルド(外食)、TBC(エステ)、コカコーラ(飲料)、ベンツ(自動車)等々のTVCMに出演している。ほかにも、スポーツメーカー、腕時計、サングラス等のメーカーとの専属契約もあるという。こうしたCM契約と出演は広告代理店の主たる業務である。

その本田圭佑だが、彼は本業のサッカーでは調子が上がっていなかった。おそらく選手としてのピークも下り坂にさしかかったのではないか。ACミラン移籍後は点がとれない。フィジカルもおかしい。それでも本田圭佑は日本代表の中心選手として君臨し続けた。

日本代表監督のザッケローニは、香川真司と本田圭佑を攻撃の中心としたチームづくりをしてきた。しかしながら、彼らの調子が上向かないことが現実となった時、それに代わる人材と戦術に切り替えるチームづくりを怠った。とたとえば、本田圭佑を経由しないセンターフォワード(CF)を基点とする攻撃スタイルを模索する道筋もあった。CF候補としては、豊田陽平、ハーフナーマイク、佐藤寿人、川又堅碁がいた。ザッケローニは代表選考において、彼らを排除した。その背後に代理店と結託した日本サッカー協会(技術委員長)がいたことは想像に難くない。また、本田圭佑が彼らを個人的に排除したとも言われている。ザッケローニは、トルシエが中村俊輔を切ったような強硬的選考を回避した。前出の「ザッケローニの失敗」とは、このことをさす。

長谷部誠にも同じことがいえる。彼もキリンレモン(飲料)、ニベア(化粧品)、ボルビック(飲料)、アテッサ(時計)、日本ユニセフ協会等のTVCMに出演しており、書籍の刊行もある。ドイツではレギュラーもおぼつかなく、しかも故障あがりでありながら、彼が実力以上に評価されたのは、キャプテンシーというよりも広告代理店にとって重要だったからではないか。その影響で代表選考から漏れたのが、細貝萌だ。彼はドイツでレギュラーであり、実力では長谷部誠を大きく上回りながら、日本代表に残れなかった。

大手広告代理店が海外組をCMキャラクターとして企業に売り込み契約をし、その見返りとして、日本代表試合に出場させてメディア露出を保証する。そんな仕組みで日本代表ビジネスが成り立っているとしたら、日本代表はサッカーをする前に負けている。CM出演が実力に優先するような代表サッカーの構造を改革しなければ、日本は強くなれない。

ロシア大会に向けて何をなすべきか

(一)海外ブランド漁りが大好きなサッカー協会(技術委員長

ザッケローニというイタリア高級ブランドに手を出して失敗した日本サッカー協会は、W杯敗北の検証も終わらないうちに、こんどはメキシコブランドに触手を伸ばしているという。メキシコのサッカー事情を知らない筆者だが、体格は日本人と同程度で小柄ながらW杯ではつねにベスト16以上をキープしているという。海外移籍が盛んでなく、メキシコ国内リーグで活躍する選手を主体とした代表チームづくりが特徴だという。

(二)ロシア大会は国内組が主力か

W杯で不調だった日本代表だから、海外移籍は前の4年間より盛んではなくなる傾向になろう。W杯終了後に海外移籍が決まった代表選手は柿谷曜一郎だけ。欧州サッカーにおける来季(14-15シーズン)、本田圭佑(イタリア)、香川真司(イングランド)のリーグ戦出場機会はさらに減少するだろう。2人とも海外遠征メンバーとして残るのが精いっぱいではないか。

この2選手がリーグ戦に出場する機会は激減するだろうが、もちろん契約解除には至らない。彼らはジャパンマネーの集金マシーンであり広告塔だからだ。「海外組」=実力のある選手、という等式に疑問をもつべきなのだ。モダンサッカーを動かすのは選手の実力もあるが、カネの流れも重要なのだから。

ドイツは世界王者となったため、優秀な海外選手の流入も増えそうだ。当然、清武弘嗣、大迫勇也、乾貴士、岡崎慎司、酒井高徳、酒井宏樹、長谷部誠、原口元気、細貝萌らがレギュラーとして保証されたわかではない。海外組でほぼレギュラーがとれそうなのは、内田篤人(ドイツ)と長友佑都(イタリア)しかいないのではないか。

(三)日本代表の暗部に目を向けなければ強くはなれない

そんななか、国内リーグ選手を中心とした日本代表づくりという状況を迫られるのならば、メキシコに目を向けることも悪くない。だが、メキシコ代表には、大手広告代理店が介入するような環境は絶無だろう。外形的サッカー情報でメキシコサッカーとその監督に適格性が見いだせたとしても、日本代表の暗部と深部に向けて構造改革がなされなければ、どこのだれが監督になっても変化は期待できない。代理店の圧力を排除できるような人物ならば、国籍、サッカー観はあまり関係ないような気もする。そう感じるほど、日本の代表サッカーは腐っているということだ。

猫族の世界

ペットを飼う楽しみはいろいろある。 観賞用、愛玩用、癒し効果・・・人それぞれである。 筆者の場合、下の画像にある2匹の猫について、目的をもって飼い出したわけではない。 このことは以前に書いたことだが、ある日、突然、猫が拙宅に存在したのだった。 だから、目的をもって飼育を始めたのではなく、とにかく追い出すわけにいかないから、共存したのである。

共存してからというもの、猫族の魅力を新鮮に発見して驚くばかりである。 それは筆者には未知の領域だった。 なかで興味深いのは、猫族とのコミュニケーションのあり方だ。 猫族は人間と交信する。 声、仕草、近づいて注意を促す・・・方法は多種であり、彼らの目的によって、それぞれ使い分ける。

筆者は、犬は人になつくが、猫は人になつかないと思っていた。 ところが猫は犬以上に愛情が深い。意外と飼い主に気を遣うのである。

たとえば、熱帯魚、亀、トカゲといったペット類の場合、餌や水をあげるだけで終わってしまう。おもしろみはない。一方、猫とのやりとりは複雑であり、しかも犬のそれとも違う。猫の行動、言動?は論理性に乏しく、一貫性はない。矛盾だらけなのだ。それでも最後は、友情と愛情の世界で落ち着く。猫とはいかにも、不思議な生き物なのである。




2014年7月17日木曜日

百合の花

門さきにうつむきあふや百合の花(正岡子規)


@Yanaka

2014年7月16日水曜日

谷中天王寺




@Yanaka

2014年7月15日火曜日

W杯ブラジル大会閉幕

ドイツの強さは総合力

サッカーW杯ブラジル大会がドイツの優勝をもって終了した。北中南米開催のW杯で欧州勢が優勝したのはドイツが初めてのこと。しかも、セミファイナルでブラジルを、ファイナルでアルゼンチンを退けての栄冠であるから価値が高い。

ドイツ優勝の要因はいくつかあろう。才能のある若手がまさに旬の勢いで本大会に臨んだこと。GKの鉄壁の守備。高い組織力と規律、そしてフィジカルの強さ。戦術の巧みさ、選手層の厚さ等々・・・列挙すればきりがない。

いわゆる総合力が勝り、攻守のバランスがとれていたことだろう。言い古された言辞ではあるが、勝った方が強いわけであって、2014年時点において、ドイツが世界で一番サッカーの強い国である。

日本の“実力”は、出場国中、下から数えて1番目か2番目

本大会の総括はすでにスポーツメディアでなされていて、それに付け加えるものはない。ただ、はっきりしたのは、日本の実力のなさ。日本の力は、本大会出場国(32か国)中、下から数えて一番目か二番目という事実。もちろんこれは結果論を含んでの評価だが。

世界サッカーの進化のスピードは、日本が思う以上に早かった。前回南アフリカ大会終了からの4年間、日本はその変化についていけなかった。日本サッカーの関係者が、本田圭佑がまき散らした毒素に染まり、謙虚さを失い、自信過剰になり天狗になっていた。この事実を真摯に受け止めなければならない。

日本の話題はサポーターのゴミ拾いのみ、というさびしさ

思えば、開幕戦のブラジル-クロアチア戦は、日本人の主審が裁いた。さっそうと登場した日本人主審だったが、ブラジルのFWのダイブに騙されてPK判定をしてしまい、世界中から非難を受けた。

グループリーグ(GL)C組の日本は1分け2敗の勝ち点1で同組最下位に沈み、日本代表は早々と日本に帰国した。

本大会における日本がらみの話題と言えば、日本人サポーターのゴミ拾いという寂しいもの。選手も審判もだめで、ゴミ拾いの日本人が称賛されるという珍現象だけが開催国メディアの注目を集めた。

日本サッカーのガラパゴス化

日本人の主審がブラジル選手のダイブに簡単に騙されたのは、日本人主審のミスという次元の問題ではない。日本人の審判団が仕事をするJリーグに問題の根源がある。つまり、Jリーグのガラパゴス化である。日本のトップカテゴリーであるJリーグは、世界サッカーの潮流とは無関係に、独自の進化を遂げている。主審の判定基準で言えば、接触プレーに著しく厳しい。タックルで倒されれば(ボールに向かったものでも)、倒れた側に必ずファウルが与えられる。正当なショルダーチャージでも(選手が倒れれば)、倒された側にファウルが与えられる。

激しい当たりにはすぐイエローが出され、選手は退場を恐れて激しいプレーを控えるようになる。そればかりではない。日本のサッカー風土がお嬢様サッカー風のパス主体の試合を好むところから、激しいチャージを行う選手は、審判、ファン、メディア、選手間で嫌われる。その結果、Jリーグの選手は球際の競り合いに極端に弱い。この現象は、JリーグクラブがACLで勝てなくなったことで実証されている。

お嬢様サッカーはアマチュアの少年サッカー、中高大の学校クラブ活動でじっくりと醸成される。お嬢様サッカーは、プロのクラブのユースチームでも、指導者が同じような指導方法なので、是正されない。フィジカルの強さよりも、ボール捌きが器用で上手な選手がレギュラーになり、おとなしく闘争心のない試合を10代で繰り返す。

強いフィジカル、闘争心をもった代表選手が必要

本大会に日本代表に選ばれた選手をみると、似たようなタイプの選手ばかり。これはザッケローニが選んだのか広告代理店が選んだのか定かではないが、戦い方の幅を感じさせない選手ばかり。そしてその共通点は、みなフィジカルが弱いこと。

サッカーは格闘技的要素もあるが、相手を倒すことにフィジカル強化の目的があるわけではない。拙コラムで何度も繰り返すように、(相手との)競り合い、走りあい、ボールの奪い合い――に必要なフィジカルを身につければいいのであって、筋肉をつけて大きくなればいいというものではない。大型化が必要なのはゴールキーパー(GK)とセンターバック(CB)。この2つのポジションは、身長が高いほうが有利だが、それ以外のポジションは必ずしも大型であればいいというわけではない。

フィジカルの強さを実効性の高いものとするのは、強い精神力・闘争心である。本大会において世界の代表選手は、その点ではるかに日本を凌いでいた。日本代表選手は、精神力・闘争心で世界に引けを取っていた。今後の日本代表の強化ポイントは、フィジカル強化、精神力・闘争心の鍛錬となろう。簡潔に言えば、W杯という舞台は戦いの場であるということだ。「自分たちのサッカー」をなんて寝言を言っていたのでは勝てないということだ。

We will play our own brand of football.(自分たちのサッカーをするだけ)

このことは拙コラムですでに書いたことだけれど、「自分たちのサッカーをする」という言い回しは、We will play our own brand of football.の日本語訳であって、この言い回しは外国人選手・監督等が試合前のインタビュー等に答えるときの常套句の一つにすぎない。この言い方に深い意味はない。日本人選手の間では「がんばります」が意味をもたない常套句の一つとして定着していたし、「最善を尽くします」と言うのもあった。だが近年、これらの常套句が陳腐化してきたので、気の利いた言い方の一つとして、「自分たちのサッカーをするだけ」が流行りだした。

しかし、いかにもばかげているのは、この空疎な常套句が、日本のサッカーの方向性を決定してしまったことだ。日本は攻撃的サッカーで勝たなければいけないと。このカラクリについては、すでに拙コラムで繰り返し書いてきた。

本大会を見ると、強豪国は相手次第で多様な戦略・戦術・選手起用を試行してきたことがわかる。そして、最後には、もっとも攻守のバランスのとれたチーム(ドイツ)が勝ち残った。勝負事というのは、そういうものだ。サッカーに「勝利の方程式」があるわけではない。いまの日本人のサッカーの実力で「自分たちのサッカー」で相手に勝ち切れるほど、世界は甘くない。相手によって、やり方はいろいろある。W杯においてなによりも大切なのは、監督・選手が、勝ち抜くために必要な選択を重ね、それを実行することにある。

守りを蔑ろにしたチームは上には行けない。筆者が今大会もっとも印象に残ったチームは、日本と同じC組で退場者を出しながら日本と引分け、最終戦、コートジボワールを追加時間のPKで退けGLを勝ち抜けたギリシャである。

2014年7月13日日曜日

蓮の花

昼中の堂静かなり蓮の花(正岡子規)



2014年7月12日土曜日

夏草や兵どもが夢の跡





@Yanaka

2014年7月11日金曜日

がんばれアルゼンチン!

王国の悲劇

準決勝最初の試合はブラジル-ドイツ。この試合についてはすでに多くの論評があり、言い尽くされた感がある。1-7という大差のブラジルの敗北をどう評価すべきなのか。どこかの監督の言葉どおり、「サッカーは非論理的」なのだろうか。

スポーツ評論のすべては結果論だ。スポーツが試合前に論理的に結果が判明していたならば、それを見る価値はない。スポーツは現在進行にのみ意味と価値のあるドラマなのだ。だから、ブラジルの大敗を予想した者がいないのは当然だ。筆者は本大会の優勝者をブラジルと予想した。戦力的には難のあるチームだったが、ホームの利があると信じたからだ。

ドイツ戦の敗因は

エース、ネイマールの欠場、守備の要、Tシウバのサスペンションによって、ブラジルが苦戦するであろうことはだれもが予想できた。それでも、1-7のスコアは想定外だった。

拙コラムで書いたことではあるが、こういう大会では、大差の試合が起こらないわけではない。本大会グループリーグ(GL)において、前回王者のスペインがオランダに1-5で大敗しているし、わが日本もコロンビアに1-4で惨敗している。前者は精密機械(スペイン)の歯車が狂い、制御不能に陥ったためだ。後者はGL敗退寸前に追い詰められた日本が、ノーガードで前に出たためだ。それでも、スペイン、日本ともに7失点はしていない。そればかりではない。ドイツに大敗したのがブラジルでなければ、たとえばアジアの日本とか韓国だったら、さほど話題にもならなかっただろう。W杯史上まれな大差の敗北の当事者が王国ブラジルだったことが衝撃だった。

ブラジルが大敗したこの試合、ドイツの良いところはいくつか指摘されている。先取点のスクリーンプレーは各メディアがとりあげているように、実に頭脳的で見事なものだった。だが、ドイツの良さだけで、大量7点が上げられるとは思えない。やはり、ブラジルに自壊現象が生じた、と考えるべきだろう。

コロンビア戦の“削りあい”がすべて

ブラジル大敗の要因は、ベスト4をかけた南米対決、コロンビア戦にあった。ブラジルは2-1でコロンビアに勝ったが、試合内容は褒められたものではなかった。この試合のファウル数は54(ブラジル31、コロンビア23)あり、イエローはともに2枚だった。ブラジルに出されたそのうちの1枚が、前出したとおりTシウバに出された。

ベスト4のもう一方、ドイツ-フラン戦のファウル数は33(ドイツ15、フランス18)、イエロー2(ドイツ2、フランス0)だった。多くも少なくもない数字だろう。ファウルやイエローは審判の主観に負うが、それでもブラジル-コロンビア戦におけるブラジルのファウル数は異常数値だった。

自らが仕掛けた削りあいでブラジルはコロンビアには勝ったものの、その代償は、ブラジルに重くのしかかることとなった。ネイマールがコロンビアDFのハード・ブリッツを受けて骨折し、以降出場不能となった。その背景として、この試合の主審がファウルに寛容であり、多少の“削りあい”を容認したからだ。そのなかで、両チームの選手にハードな接触プレーが誘発された。やられたらやりかえせ、主審の笛の範囲の接触はOKなのだからと。

その結果、ブラジルの守備の要、キャプテンのTシウバは、通算2枚目のイエローをもらい、準決勝に出場できなくなってしまった。この結果は南米サッカーの光と影の象徴だ。彼らの悪しき伝統“削りあい”という影の部分が、開催国ブラジルを覆った。

セルフ・コントロールに失敗したブラジルの選手たち

そればかりではない。GLから決勝トーナメント(T)を通じて、ブラジル選手の異常な興奮ぶりが目に付いた。PK戦勝利による涙、コロンビア戦におけるファウルの多発などなど、開催国のプレッシャーに自制(セルフ・コントロール)がきかなくなる寸前まで追い詰められた感があった。

ブラジルの選手の精神状態は、引っ張られすぎて切れる寸前のゴム紐のようなものだったのではないか。そしてドイツ戦である。試合開始早々、どちらかといえば、ブラジルは興奮状態がプラスに働いて、好調のように見えた。よく言われる、「試合の入り方としては悪くなかった」というやつだ。ところが、セットプレー(前半11分)でドイツに先制点を奪われたところで、ブラジルの選手たちの精神状態は、興奮状態から不安もしくは焦りへと変わりつつあったのではないか。そして前半23分に失点すると彼らの緊張、不安、焦りは一挙にしかも重層的に高まり、ゴム紐はぷつんと切れた。つまり、瓦解した(29分までの6分間で4失点)。

結果論として、ブラジル大敗の分析は合理的に説明がつく。サッカーは、けして非論理的ではない。しかし、ブラジルが序盤で先制点を上げていたら、ブラジル選手の興奮度はエネルギーに変換していたかもしれない。その結果、大敗したのがドイツだったかもしれない。どちらに転ぶかは、神のみぞ知るところなのだ。

南米サッカーの秘められた力=堅守

ブラジル大敗の翌日行われたオランダ-アルゼンチン戦は、前日とは実に対照的な試合となった。両チームともに昨日の試合の衝撃を引きずって試合に臨んだようだ。そのことを一言で言えば、“恐怖”だろう。両チームとも過度な攻撃性を抑制し守備的になった。アルゼンチンはオランダのリアクション・サッカーを警戒し中盤を省略、オランダの3バックの両側のスペースにロングボールを供給する作戦に出た。中盤からの攻撃はメッシ一人にお任せ。そのメッシに対して、オランダは最大3人で守った。

オランダも得意のリアクション・サッカーを封じられ、しかも、頼みのロッベンがサイドのスペースに走りこまないため、チャンスがつくれなかった。この試合のファウル数は25(オランダ15、アルゼンチン10)、イエローは3(オランダ2、アルゼンチン1)だった。前出のブラジル-コロンビア戦と比べれば、ファウル数は半分以下。いかに接触プレーが少なかったかがわかる。“削りあい”を回避し、ケガ及び先制点を恐れた。

アルゼンチンの守備の要、ハビエル・マスチェラーノの好プレーも特筆されるべきだ。この選手、身長はそう高くないが、粘り強さ、スタミナ、走力、判断力、ポジショニングに優れていて、オランダの決定機をことごとくつぶした。体格に恵まれない日本人が模範としたい選手の一人だ。

両チームがリスク回避のマネジメントを優先したとはいえ、南米の伝統である堅守が、フィジカルのオランダを止めた試合だと言える。メッシばかりに目を奪われがちなアルゼンチンだが、南米特有の守りのDNAをいかんなく発揮した。ブラジル-ドイツ戦とは異なる、緊張感のあるいい試合だった。

決勝戦はドイツ有利だが、筆者はアルゼンチンに勝ってほしい

条件からすれば、決勝戦(日本時間・14日早朝)におけるドイツ有利は動かない。準決勝はブラジルに90分の楽勝。しかも休養日は、対するアルゼンチンより1日多い中4日。ブラジル相手の大勝は選手に自信を与えたはずだ。アルゼンチンはオランダと延長戦(120分)を戦っての中3日。これは苦しい。

それでも、アルゼンチンに希望があるのは、メッシが元気でいることだ。いまのところ、故障、ケガの情報はないし、コンディションも悪くなさそうだ。守備の要のマスチェラーノも健在だ。準決勝のブラジルは、ネイマール(攻撃の要)、Tシウバ(守備の要)を欠いてドイツに敗れたが、アルゼンチンはどちらの要も試合に出場できる。オランダを封じたアルゼンチンの守備が崩壊しなければ、僅差の勝利が期待できる。もちろん、決勝点はメッシの信じられないプレーによる得点というわけだ。

筆者は、アルゼンチンに優勝してもらいたい。なぜならば、W杯の歴史を振りかえると、30年ウルグアイ大会=ウルグアイ優勝、50年ブラジル大会=ウルグアイ優勝、62年チリ大会=ブラジル優勝、70年メキシコ大会=ブラジル優勝、78年アルゼンチン大会=アルゼンチン優勝、86年メキシコ大会=アルゼンチン優勝、94年アメリカ大会=ブラジル優勝と、北中南米開催のW杯では、南米勢が優勝しているからだ。この地勢的サイクルからすれば、今回南米ブラジル開催の優勝国は、アルゼンチンでなければならない。

南米開催のW杯において、欧州(ドイツ)が優勝することはあり得ない。ここでドイツが優勝すれば、サッカーの覇権は欧州ということになってしまう。そんな事態だけはなんとしても避けなければならない。がんばれ、アルゼンチン!

2014年7月6日日曜日

W杯、ベスト4をかけた死闘

南米対決となったブラジル―コロンビア戦は、壮絶な戦いとなった。その前に行われた欧州対決、ドイツ―フランス戦が規則に基づく競技であるならば、南米対決は規則に基づく戦闘のように思えた。

展開は序盤で先制点を上げたブラジルが優位。だが試合内容は点差とは関係ない。両チームの個々の選手同士がせめぎ合う、潰し合いだった。とりわけブラジルのネイマールとコロンビアのロドリゲスに対するブリッツは厳しかった。

この試合を裁く主審が競り合いに寛容で、イエローカードをなかなか出さない。Jリーグの審判だったら、イエローが何枚だされたかわからない。だが、両チームがこの試合の主審の笛を基準として争った代償は、勝ったブラジルにとって、大きなものだった。ブラジルのエース・ネイマールがコロンビアの選手の後ろからのチャージを受けて背骨を骨折し、試合に出られなくなってしまったのだ。

ネイマールが受けたバックチャージは、TV映像(のビデオ)を見る限り、それほどのものに見えなかった。打ち所が悪かったのだろうか。もちろん、チャージしたコロンビアの選手にイエローは出ていない。プロレス技のフライングニーバット、空中飛び膝蹴りのような格好だった。ビデオで見る限り、バックチャージだからイエローの対象だろう。

南米サッカーの守備は厳しい。南米は攻撃陣に多彩な技を繰り出すタレントが豊富だから、守備陣も自然と厳しくならざるを得ない。やらっれっぱなしだったら、選手を続けられなくなる。守備の選手が生き残るには、きわめて厳しい環境のようだ。

こんな試合を見せられると、日本代表の試合ぶりのおとなしさが際立ってしまう。日本選手はサッカーは上手なのだろうが、生き延びるためのサッカーをした経験はないのではないか。海外組といっても、海外クラブをクビになったら、Jリーグに戻ってスターでいられる。J1がだめならJ2・・・引退すれば解説者、コメンテーター、タレント・・・と生き延びられる。日本代表に選ばれ、W杯に出ればそれで安泰なのだ。

南米選手の堅い守備のDNAが、W杯という晴れ舞台でも呼び起こされる。勝つために何をするのか、負けたコロンビアだが、彼らが「自分たちのサッカー」をしたことだけは、間違いない。

2014年7月4日金曜日

サッカー日本代表への提言

ブラジルW杯はベスト8が決定。5~6日(日本時間)の朝にベスト4が決まる。ベスト8には、グループリーグ(GL)各組の首位チーム(ブラジル、コロンビア、フランス、ドイツ、オランダ、コスタリカ、アルゼンチン、ベルギー)が残った。コスタリカ以外は順当な結果だ。コスタリカ以外ならば、どこが優勝してもおかしくない。

世界の代表選手は闘争心が旺盛

GLから決勝トーナメント(T)における出場国のサッカーを見ていて感じるのは、日本代表のそれとの違いだ。パス、クロスおよび選手の走りにおけるスピードの違い、競り合いの強さの違い、高さの違い、持続力の違い・・・いわゆるフィジカルの違いだ。そして忘れてはならないのが、日本以外のチーム(選手)の集中力の高さだ。勝とうとする意思の強さは、代表選手のプライドの高さに直結している。一言でいえば闘争心の違いだ。

終盤になると足を痙攣させる選手も目に付く。味方、敵を問わず、動けなくなった選手の脚を伸ばしてあげるシーンは、おなじみの光景になっている。日本のGL3試合において、脚が痙攣するまで走った日本人選手はいたのだろうか。管見の限りだが、見かけなかった。脚を痙攣するほど走らなかったのか、鍛錬しているので痙攣しないのか、筆者は前者だと感じている。

「リアクションサッカー」が今大会のキーワード

以前の拙コラムで書いたことだけれど、世界のサッカーのトレンドは明らかに、フィジカル重視になってきている。攻守の切り替えの速さ、裏に飛び出す速さ、ゴールに向かう速さ、いわゆる走力(のスピード)は、現代サッカーの必要絶対条件の一つになっている。もちろん、パス、クロスも速い。速いパスをうまくトラップする技術も必要だし、クロスに合わせられる身体的強さ、反応・判断力も求められている。

攻守の切り替えが速いということは、カウンター攻撃が主流だと換言できる。GLでパスサッカーのスペインを粉砕したオランダの監督が、自らのサッカーを「リアクションサッカー」と臆面もなく表現した。その「リアクションサッカー」は、Jリーグではネガティブな古い戦法だと言われていて、そこからの脱却、すなわち、自分たちが仕掛けるサッカーを目指していたから皮肉なものだ。その影響は日本代表が掲げた「攻撃的サッカー」にも言える。日本はいつの間にか、一周遅れのトップランナーになっていたのだ。間抜けな話だ。

ファンファーレ監督の言うところの「リアクションサッカー」は、相手がボールをもった瞬間から攻撃が開始される。相手ボールを奪う強いプレス、たとえ奪えなくともミスを誘発し、マイボールにしたその瞬間、攻撃が始まる。相手ボールをマイボールにする確率は、守備に人数を割くことだ。それが5バックの採用だろう。

日本代表選手となる条件 

ボールを奪ったならば、それを一気に相手ゴールまで運ぶ。この一連の動作を書くことは簡単だけれど、それを90分間続けることは極めて難しい。持続力の強さが必要だ。これらを総じて「リアクションサッカー」と呼び、それを可能にする基盤が選手のフィジカルの強さということになる。

日本代表がこのトレンドに乗ることは必要なのだろうか。もちろん、このトレンドに乗らなければ日本は世界で勝てない。今後、日本のサッカー選手が日本代表となる条件の第一は、強いフィジカルをもっていることとなる。

CBの重要性

「リアクションサッカー」の説明としては、ここまでで半面が終わったにすぎない。残りの半面は、守りの強さだ。もちろんその要となるのは、センターバック(CB)。CBで重要な要素は、第一に「高さ」ということになろう。例外もある。16強に入ったチリだ。チリは先発全員が身長180cm以下という特異なチームだった。そんなチームがないわけではないが、日本のフィジカルエリートの体格の平均身長に鑑みて、180~190cm台のCBを育成することはそれほど難しくない。むしろ、チリのようなDFをつくることの方が困難だろう。Jリーグならば、神戸の岩波拓也が代表クラスのCBになる可能性を秘めている。

ボランチの弱体化が日本の敗因の一つ

守備において重要なのが守備的MFだ。守備的MFでチーム力は決まると言っても言い過ぎでない。もちろん、強いフィジカルが求められる。

日本がブラジルで惨敗した要因の一つが守備的MFの選手の代表選考にあった。ザッケローニが日本代表を率いてから、W杯予選、親善試合を重ねるうち、人材が豊富といわれる日本の中盤に変化が起きていた。長谷部(キャプテン)・遠藤で鉄壁だと思われていたこのポジションに、コンフェデ大会あたりから綻びが生じていたのだ。

第一は、長谷部のケガ、第二は遠藤の衰えだ。ザックジャパンは「本田のチーム」だと言われるが、全体から見れば、「長谷部のチーム」だ。その長谷部が長期離脱し、本番にはいちおう間に合ったものの、GL3試合にフル出場してチームを牽引するまでのフィジカルの回復は無理だった。遠藤の場合も、アジア地区予選終了後、急激に衰えを見せ始めた。そこで若手の山口、青山を起用して親善試合に臨んだが、完成するに至らなかった。ボランチのポジションにおける筆者の序列は、ナンバー1に細貝萌、2位山口、3位青山であったが、ザッケローニは細貝を評価しなかった。

本田と心中せざるをなかったザッケローニ

ザッケローニは日本代表監督に就任して以来、パス回しを基本にした「攻撃サッカー」を戦い方のコンセプトにしたが、それは本田を中心にしたチームという意味でもある。長友、香川がいる左サイドを基点として、中央の本田が決定的な仕事をするというイメージだろう。そのような組立には、守備的MFの遠藤の攻撃的センスが不可欠だった。つまり、本田と遠藤は有機的関係なのだ。

この本田中心のイメージは、第一に前線のセンターフォワード(CF)にボールを集めるポストプレーの可能性を排除した。2014W杯に向けて、日本代表におけるワントップの候補選手としては、大久保、豊田、ハーフナー、佐藤寿、川又らが挙がって当然だったが、ハーフナーの場合は本田が意図的に代表選考を妨害したとの情報も流れている。そのため、日本のワントップは柿谷、大迫、大久保に落ち着いたが、3選手とも似たようなタイプで、ポストプレーに迫力を感じさせないことに共通項が見いだせる。しかも、大久保の代表選出は、W杯開催の直前だった。ザッケローニは本大会直前、本田の調子が上がらないことに焦り、急遽、大久保を代表に選んだのだと思う。

それでも大久保は本番のコートジボワール戦、ギリシャ戦においてトップではなく、サイドで使われた。本田のイメージは、サイドでできた基点に自分が積極的に絡み、▽自分が得点を上げること(この形は、初戦のコートジボワール戦で実現している。)、▽決定力のある右サイドの岡崎に決定的パスもしくはクロスを上げること、▽相手ファールを誘って自分がフリーキックを決めること――の3パターンだったに違いない。いずれのシーンも自分をビッグクラブに引き上げる原動力となる。本田の上昇志向(=利己心)にチームが利用されるということだ。

一方、世界のサッカートレンドは、日本のW杯前最後の親善試合ザンビア戦の勝ち越し得点シーンであるボランチ(青山)からトップ(大久保)への最速パスのような速い攻めの流れにシフトしていた。ザッケローニはそのことにおそらく気が付いていた。気が付いていながら、(青山のように)FWに速いパスを供給できるセンスをもった守備的MFを攻撃の基点にするサッカーを構築することができなかった。時間がなかったのだ。ザッケローニは、本大会に臨んだ日本代表チームの欠陥を承知していたと思う。たぶん、コンフェデ杯のころには、これではだめだと感じていたと思う。だが、いまさら遠藤~本田に象徴される「攻撃サッカー」を更新するサッカーを身に着ける時間がないことも承知していたのだろう。ザッケローニは本田の回復を信じて、彼との心中を決意した。

日本はコートジボワール、ギリシャには勝てた

結果論でなく、日本が入ったC組はコロンビアが群を抜いていて、残りの日本、ギリシャ、コートジボワールの力は拮抗していた。しかもコートジボワール戦、ギリシャ戦は日本に有利な形で試合が展開していた。コートジボワール戦では先制できたし、ギリシャ戦では相手に退場者が出るという幸運に恵まれた。

勝利に執着できなかった日本代表の精神的弱さ

そればかりではない、この2チームはチームづくりとしては古風で、コートジボアールには組織力が欠如し、ギリシャには攻撃に係る戦力・戦術が欠如していた。つまり、本大会のベスト8に残ったチームが持つ規律、組織力とチーム・バランスが欠如していた。それでも日本が勝てなかったのは、日本選手に闘争心とフィジカルが欠けていたからだ。脚が痙攣するほど、走らなかったからだ。勝負に対する執着心、攻撃性、集中力が不足していたからだ。チームのために献身するという意識が希薄だったからだ。

本田がコンフェデ杯ころから、「個の力」を重視した発言をしだしたころから、日本代表のサッカーは何かを失った。サッカーは個人の上昇志向の道具ではない。中心選手の中に、自分を高く売るために代表を利用しようという魂胆が見え隠れするような者がいれば、チームは弱体化する。

結論として言えば、これからの日本サッカーを背負うことができる人材に必須の条件は、「個」よりも「チーム」の勝利のために献身する精神をもった者の出現ということに尽きる。個人の夢を第一義にする利己的存在ではなく、チームへの献身を第一義とする精神性を発揮できる存在ということになる。ビッグクラブへの道は、その結果として自ずとついてくるものだ。

そのような人材を育成するためには、日本代表として、興行的親善試合を減らし、勝負にこだわった試合をできる限り多くセットし、勝つための訓練を積み重ねるしかない。

2014年7月1日火曜日

7月

2014年が半分すぎた。

国内はあわただしい。

集団的自衛権容認を閣議決定するファシズム安倍政権。

憲法も議会も民意も無視するこの男、

日本をどうしたいというのだ。

こういう状況になってくると、やはり、党の必要性を思い知らされる。

最後は権力闘争、権力奪取の手段を問わず、党がなければ先には進まない。

<自立>、マルティチュード、サバルタン・・・

と言っても、反ファシズム運動には、党の存在が不可欠のように思える。

マスメディアの報道姿勢も不可解。

完全に安倍政権にコントロールされている。

どんな取引をしたのだろうか。




さて、7月の猫の体重測定記録。

Zazieが4.3キロ(前月比-200g)、Nicoが5.9キロ(同-200g)。

二匹とも200g減ったか。


2014年6月27日金曜日

サッカー日本代表をめぐる危機的言語空間

サッカーW杯ブラジル大会グループリーグ(GL)が終了した。日本は1分け2敗の勝ち点1で、C組の最下位に沈んだ。十分予測されたこととは言え、残念な結果である。勝負に勝ち負けはつきものだから、負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手、関係者の今後の一層の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。

「自分たちのサッカー」という超主観主義

「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。

ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。

選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。

この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。

戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの

「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。

オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。

逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。

サッカーはフィギュアスポーツとは異なる

「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。

また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。

フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。

現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間

結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。

本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。

本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。

親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手

日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。

とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。

日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。

そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。

大手代理店主導の「代表バブル」の終焉

日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。

日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。

2014年6月24日火曜日

雷が怖い猫たち

雷が鳴り響くや、猫たちが寝そべって寝ていた筆者に飛び込んできて、そのまま寝てしまった。

Zazieは胸の上、Nicoは足の間。

定位置である。



2014年6月22日日曜日

閉幕しない小保方劇場――小保方が現場復帰?

「STAP細胞」問題で小保方が論文の取下げを表明。あとは理研の処分発表を待つばかりと思われたが、ここにきて問題はより複雑化してきているようだ。

状況証拠は固まった?

いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。

6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。

6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。

さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。

厳正処分といいながら検証実験参加とは?

ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。

TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。

それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。

小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か

それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。

下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。

はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。

理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。

2014年6月20日金曜日

犬も歩けば疲れる


ちよいと太りすぎかな、この犬。

@Sendagi

2014年6月13日金曜日

西村主審の笛がブラジル国家を救ったかもしれない--サッカーW杯開幕

サッカーW杯ブラジル大会が始まった。開幕試合は主催国ブラジルとクロアチア。ネイマールの活躍でブラジルが3-1で勝った。

W杯は「代理戦争」ではない

サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。

ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。

ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。

このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。

サッカーがいちばんうまい国はどこか

サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。

西村主審の笛がブラジル国内を安定化?

冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。

ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。

この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。

しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。

ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策

もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。

2014年6月10日火曜日

6月の課題

当月が三分の一終わったいま、月間の課題を書くのはおかしな話だが、書いておく。

スピノザ精読である。

『神学・政治論』『エテイカ』

2014年6月6日金曜日

小保方劇場いよいよ終幕か――明かされた小保方マジック(錬金術)

いろいろと話題を提供してきた、理化学研究所と小保方晴子による「STAP細胞」騒動もいよいよ終幕に近づいたい。「STAP細胞は、ありま~す」と絶叫した小保方晴子もついにギブアップ。論文取下げに同意した。

小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)

小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。

(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。

(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。

遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。

さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。

「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?

それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。

筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。

笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。

つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。

笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。

「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。

平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊

それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。

恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。

筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。

そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。

2014年6月1日日曜日

6月の猫


今日から6月。暑い。猫もバテ気味。

体重測定の結果を記録しておく。

Zazieが4.5㎏で先月比-0.1kg、

Nicoは6.1㎏で同じく-0.6kg。

2か月前(4月の体重)に戻ったみたいだ。

2014年5月28日水曜日

AKB48の握手会は「フーゾク」的

人気アイドルグループのAKB48が握手会というイベントに出演中、メンバー2人がノコギリで暴漢に襲われる事件が起きた。無防備の女性を刃物で襲撃するという卑劣な犯行で、許しがたい。犯人は被害者に謝罪し、深く反省し、刑に服してほしい。

握手会は「フーゾク」的営業

さて、事件は事件として、握手会というイベントから、AKB48が抱える2つの問題点が見えてくる。まずは、その仕掛けだ。筆者はファンと握手会をつなぐ仕掛の内容を報道で知って、驚きを禁じ得なかった。

TV報道によると、AKB48の全国握手会の場合、シングルCD初回盤(限定版)に封入されている、「イベント参加券」を使うらしい。全国のいくつかの場所で行われており、“メンバーとファンの直接的交流の場であって、とても大事なもの”と、その位置づけが説明されている。確かにそのとおり。ファンがアイドルである若い女性メンバーと握手し、言葉を交わすことができるとは、まさにかけがえのない場であろう。なぜならば、日常生活において、たとえば年頃の男子高校生が、通学途中の電車でいつも会う可愛い女子高生に思いを寄せたとしよう。その男子高校生がいきなり、女子高校生に握手を求めたとすれば、それは犯罪に近い。痴漢行為に間違えられて不思議はない。

一方、AKB48の握手会の場合、ファンはTV映像や遠いステージでしか認識できないメンバーが、実際に自分の目の前に現れ、握手できる。これは、ファンにとって、貴重な体験だろう。ファンという立場ゆえに許される、特権的行為にほかならない。

だが、この特権的行為は、先述のとおり、握手券(=「イベント参加券」)の入手によって可能になる。報道によると、握手券1枚でメンバーと握手できる時間は概ね3秒。握手会の会場では、ファンは受付で握手券(の枚数)を差し出し、そこでメンバーとの握手時間が確認される。前出のとおり1枚なら概ね3秒、それを超えて手を握っていると、「はがしや」と呼ばれる警備員がやってきて、制限時間を超えて握手するファンを排除するらしい。

長時間握手したいファンは当然、AKB48のCDを大量に買い込むことになる。CD1枚で3秒ならば、1分間メンバーの手を握りたければCD20枚を購入する計算だ。AKB48のCDの値段はよくわからないが、かりに1000円だとすると総額2万円、つまり、1分間の握手の値段は概ね2万円ということになる。

この仕組みは「フーゾク」とかわらない。しかもかなり“法外”な価格設定だ。「フーゾク」の頂点であるソ●プ●ラ●ドの場合、おそらく60分であのサービスを受けて、1万5千円が相場だろう。とはいえ、「フーゾク」の業界における価格は、各人の欲望の対象にみあって設定されるものだから、「相場」「平均」は無意味という考え方もある。各人の嗜好に沿った価格が設定されるわけだから、AKB48の熱烈なファンにとって、メンバーとの握手3秒で1000円、1分ならば2万円は当然、高いとはいえないという論理だ。

だがそれでも筆者には、AKB48の握手会商法は悪質だと思える。その理由は、AKB48のプロモート側が、“握手会はファンとの直接的交流の場”という嘘にある。筆者の感覚からは、握手会はCDを買わせるための「フーゾク」的営業活動にうつる。もちろん、ファンはそんなことは承知のうえで、ファン各人の欲望充足のために敢えて仕掛にノッテいるのだから、他人がとやかくいうべきではない。AKB48のメンバーとの握手のために自分の全財産をつぎこんだとしても、それはけっこうなことであって、とめることはできない。だが、その仕掛が「フーゾク」的営業であるならば、それなりのリスクは覚悟しなければならない。「フーゾク」の業界というのは、欲望の中でも過激な性衝動を対象としたものだからだ。

しかも、看過できないのは、メスメディアがAKB48握手会を“ファンとの貴重な交流の場”と、AKB48のプロモート側の嘘を無批判的に報道する愚かさだ。AKB48をプロモートする側が握手会をそのように位置づけようとも、メディアはそれを真に受けて報道することはいかがなものか。握手会がAKB48のメンバーの肉体的接触を媒介としたCDの販売促進だとなぜ、いわないのか。もちろん、マスメディアに限らず、AKB48のCD販促が違法だとはいえないし、ファンに参加するなともいえない。だが、握手会商法は、AKB48のメンバーの人格をひどく損ねているように、筆者には思えるし、この事件をまつまでもなく、彼女たちをひどく危険にさらしているように思える。この危険性については次に述べる。

スターとファンが近づくことの危険性

二番目の問題点は、スターとファンとの距離に関する。このたびの事件は、いまのところ(5月28日時点)の報道では、AKB48の特定のメンバーを狙ったものではないとされている。だが、真相はわかっていない。たとえ、今回の事件が無差別的暴力事件の類型だったとしても、だからといって、握手会が容認されるわけではない。

なぜならば、ファンがスターに近づきすぎると、そこには思わぬ危険を招くからだ。今回の事件を機に、AKB48のプロモート側がファンとの交流イベントの開催を中止したことは幸いだ。AKB48にあっては、今後一切、握手会等の交流イベントをやめることが望ましい。若い女性を不特定多数と接触させないファンとの交流の方法は、いくらでもある。

一般に、スターとファンの間には、絶対に越せない溝を設けるべきだ。スターとはファンにとっては幻想的存在であり、それゆえ、スターをプロモートする側は、ファンをむやみに近づけてはいけない。ファンがスターに抱く感情は、無垢なものばかりとは限らない。スターへの偏愛が屈折した、危険な傾向をもってしまうことを否定できない。勘違い、思い違い・・・から、特異な感情が醸成され、爆発することもある。

それがどのような結果を招くかについては、映画『ザ・ファン』(ロバート・デニーロ主演)が描き出している。ファンがスターに近づきすぎると、思わぬ悲劇(犯罪)を引き起こす可能性が十分すぎるほどあり得る。

2014年5月24日土曜日

駒込富士神社

江戸時代、富士山信仰で名高い駒込富士神社。

富士山に模した、小高い塚の上に本堂が建っている。(本堂は鉄筋コンクリートで風情はない)

 近くの鷹狩場(現駒込病院)、この地域の特産物の茄子と併せ、

 一富士、二鷹、三茄の正夢の言い伝えが生まれた。









2014年5月23日金曜日

古河庭園~飛鳥山公園

好天に誘われ、近場に薔薇を見に行く(古河庭園)。




青淵文庫(飛鳥山)


青淵文庫(飛鳥山)
晩香蘆(飛鳥山)
紙の博物館

同上

2014年5月18日日曜日

鎌倉市海水浴場命名権事業の愚行――名称変更しなかった豊島屋は素晴らしい

鎌倉市(松尾崇市長)は新たな財源確保を目的として、同市が保有する公有財産、物品、印刷物、WEB ページ等に民間事業者等の広告を掲載する事業を開始した。このたびその一環として、同市にある3か所の海水浴場のネーミングライツ(命名権)を公募し、命名権者と名称が決定した。

愚かな話である。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。海水浴場の名前といっても、それは地名である。地名は大地に刻まれた刺青ともいわれるくらい、歴史学、民俗学にとって重要な指標である。地名を失えば、その地域の成り立ち、堆積された記憶、人々の所縁を失う。柳田国男、谷川健一ら知の巨人たちが、地名の重要性を訴え続けてきた。そのことを知らない鎌倉の市長以下同市公務員たちは、“財源確保”という錦の御旗の下、いくばくかのはした金のために、地名という重要な財産を売り払おうとした。許されない暴挙である。

同市のHPによると、この事業は鎌倉行革市民会議が中心になって立案したらしい。同委員会の構成は、北大路信郷(明治大学専門職大学院ガバナンス研究科教授=専門委員)を会長として、以下、副会長に田渕雪子(行政経営コンサルタント=同)、坂野達郎(東京工業大学大学院社会工学専攻准教授=同)、友田景 (ビズデザイン株式会社取締役=同)、一ノ瀬美和子(市民委員)、稲垣康明(市民委員)、倉岡明子(市民委員)となっている。[*敬称略]

おそらくこの委員の面々には、柳田や谷川らが提唱してきた地名の重要性の言葉は届いていない。この面々には、歴史・民俗のもつ価値・重要性が理解されていない。それらを探る手がかりの一つ(=地名)を一度失ってしまえば、この先、とりもどすことの困難さもわかっていない。いまの鎌倉市長以下、同市の行政に携わる公務員に、日本のみならず世界的に貴重な歴史都市・鎌倉を任せられるのか、おおいに疑問が残る。

だが、“不幸中の幸い”が起こった。鎌倉市海水浴場のネーミングライツを獲得した株式会社豊島屋(久保田陽彦社長)が、3か所(「材木座海水浴場」「由比ガ浜海水浴場」「腰越海水浴場」)の名称を変更しなかったのだ。豊島屋の決断は素晴らしい。称賛されるべき快挙である。豊島屋の社長の英断に比し、同市が行った事業の姑息さがいかにも対照的である。賢明な民間事業者の手によって、行政の暴挙・愚挙が阻まれた。

それにしても理解できないのが、鎌倉市の暴挙・愚挙に対し、マスメディアが何の反応も示さなかったことである。地名に対する無理解がそうさせたのか。同市が掲げる“財源確保”という建前に沈黙したのか。財源確保は重要なことだけれど、かけがいのない財産を勝手に処分してもらっては困るのである。

2014年5月13日火曜日

『黒潮の道(「海と列島文化」第7巻)』

●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6311円(+税)

本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。

同地域には、源氏・北条氏が当地の水軍の協力を得て、武士政権を樹立した鎌倉が含まれるが、本書では政治史に係る記述は少なく、前出の各地域における黒潮との関わり――主な産業である漁業と漁撈儀礼、地域文化及び地域民俗信仰等――を採集し、その意味を問うものとなっている。


縄文時代は黒曜石の生産地

同地域が日本史において最初に特記される事項は、黒曜石をめぐる交易だ。黒曜石とは火山活動によって形成された黒色のガラス質火山岩のこと。先時時代、縄文時代を通じて、主としてナイフ型石器や石槍、石鏃などの石器の素材(石材)として利用された。日本列島における黒曜石の原産地は40か所ほどといわれるが、うち、伊豆七島の神津島の砂糠崎・恩馳島が本書「黒潮の道」に位置している。神津島の黒曜石は200㎞以上の遠隔地に運搬されていることがわかっている。このことは、先史時代の交易空間の広大さを実証する。近年、縄文時代遺跡の発見事例の増加に伴い、神津島産黒曜石が発見される頻度が高くなり、関東にとどまらず、石川県まで神津島産黒曜石が運ばれていることが判明している。神津島産黒曜石は、古代文化形成に伊豆諸島がはたした役割の代表的事例の一つといえる。

流人の地

中近世になると、伊豆諸島は流罪に処せられた罪人等が流入することとなり、同地域が独特の文化を醸成する契機となった。ちなみに、伊豆諸島がわが国の記録に初めて現れるのは、文武天皇3年(699)、讒言によって妖惑の罪を受けた役小角が伊豆諸島へ流刑されたという『続日本記』の記事だという。また、三宅島の島名の由来となった多治比真人三宅麻呂が養老6年(722)、伊豆島に遠流の刑に処せられている。最も名高いと思われる流人は鎮西八郎源為朝だろうか。彼は平安末期、保元の乱(保元元年/1156)で敗れ伊豆大島に流され、『吾妻鏡』によれば、この地で工藤介茂光に攻め滅ぼされている。だが、後世、この不世出の英雄を死なすにはしのびないとする島民たちによって、為朝は伊豆諸島各島を平定し、やがては琉球王にまで仕立てられている。現在でも、伊豆諸島各島にかならず為朝神社とその伝説がある。

漁撈と民俗

この地域の民俗の特性としては黒潮がもたらす水産資源に関連した漁撈儀礼がまず挙げられる。今年(2014年5月半ば)は、黒潮がもたらす海の幸の代表、鰹(カツオ)の水揚げが悪いという。今日、その原因の探索については、海洋学、気象学等が駆使されるが、近代以前の人びとにとっては、カツオが漁場から遠ざかったのは、超越的存在(神)の意志によるものと理解された。超越的な存在への畏怖、畏敬、感謝が黒潮の民俗宗教となって今日に至っている。具体的には、豊漁祈願や海難事故を忌避するための信仰・神事、漁船の正月乗初め、模擬漁撈とその芝居化等だ。また、水死体(ムエン)を漁の神、エベスサンとして祀る習俗(ムエン供養)もある。もっとも、水死体を祀る習俗は日本列島共通の観念であり、この地に限ったことではないが。

物忌みの神事

伊豆諸島神津島には、旧暦1月24日から26日にかけて、ニジュウゴニチサマと呼ぶ行事がある。一般の村人にとっては、ふつうの歳時習俗と同じく、家ごとの行事だ。これを仕舞正月という。24日と25日の夜は、「二十五日さま」というおそろしい神が村の中をめぐるといって、村人たちは家の中にこもる。村人たちは前日までに供え物をつくったりして神をむかえる準備をし、24日は仕事を休みその日の夕方から忌みごもりに入る。一方、村の氏神の物忌奈命神社の神主と、4人の祝は神事を行う。このような神事は大島、利島、新島、三宅島、御蔵島にもある。来訪神の信仰だ。

神津島、三宅島では、「忌の日」に、神々が島の山に集まるという。来訪神は大島ではヒイサマ(日忌さま)、利島ではカンナンボウシ(海南法師)、新島では海南法師が釜をかぶってくるという。御蔵島では24日の夜訪れる神をキノヒノミョウジン(忌の日の明神)と呼ぶ。三宅島神着では25日をキノヒ(忌の日)と呼ぶ。

ところで、超メガ都市・東京の近場で手軽なリゾート地として名高い熱海には、大楠の神木と梅の存在で多数の観光客を集める来宮神社がある。来宮(キノミヤ)の「キ」が「忌」であるとすると、これは漢語だ。前出の島々でいわれている「キ」の呼称も「忌」であるとすると、島にも熱海にも、中国的な陰陽道の知識があったことになる。もっとも忌の宮は、伊豆半島を中心に周辺地域にも多く分布していて、熱海の来宮はその一つで、古く走湯山権現(伊豆山神社)に「来宮明神」があったことが『走湯山縁起』巻二にみえている。肉、酒を忌む縁起が伝えられているが、これは仏教の影響だろう。

「キノミヤ」にまつわる肉や酒を忌む縁起は、列島各地において広く人々が実践していた、ものを忌む行為が、後年、仏教、神道によって教理化され、忌の宮(キノミヤ)信仰となって今日に至ったものと推定される。
11月23日は、大師講などとも呼ばれ、神来訪の伝えが広くみられる日である。朝廷などの新嘗祭や、その根底にある冬至祭にも相当する、一年のうちでも、最もたいせつな折目ではなかったかといわれている。その日が忌の宮精進の日であることは、きわめて興味深い。伊豆半島などの忌の宮で、禁を犯すと火難にあうというのも、火伏せの信仰の裏と表である。伊豆半島の忌の日が1月24日であったのも、愛宕信仰の縁日が24日であったことと無関係ではあるまい。「忌の日」が、11月の下弦の行事からひと続きであった可能性は、この点からも出てくる。
日本の旧暦は、立春を1月の指標にする中国歴であるが、中国でもかつては、冬至を新年の指標にする歴法が行われていた。ヨーロッパの暦がずっとそうであるように、北半球の温帯域の文明では、太陽がいちばん衰えて再生する冬至が、新年に最もふさわしい日であった。日本でも、朝廷の大嘗の日、後世の新嘗祭が、本来の新年儀礼であったと思われる。新嘗は、新たに獲れた穀物の祝いで、新嘗を神に捧げ、人々とともにいただく収穫儀礼であるが、それが冬至祭のかたちをとり、一年の切れ目になっていたらしい。(P376)
地方の新嘗については、伊豆半島のほか、下総、南武蔵、三浦半島南端、新潟県北蒲原郡、琉球諸島、奄美群島等にも散見される。なかで北蒲原郡では1月24日の夜におそろしい神霊が訪れる「オッカナノバンゲ」という忌みごもりの習俗がある。この夜、蓑笠を着て屋根の上にあがると、化け物の姿が見えるとか、逆さになって見ると、一年のうちに死ぬ者がわかるとか伝えられている。これを岡見(物見という地方もある)という。岡見、物見に併せて、吉兆占いをするところが多い。この習俗は、神津島、三宅島、琉球諸島、奄美群島にある。
ドイツなどのゲルマン諸族では、12月25日のクリスマスから1月6日の三人の博士の日までの12日間の夜を、「十二の夜々」と呼ぶ。キリスト教ではクリスマスの行事になっているが、古代ゲルマンの冬至祭を基盤にした新年であった。このとき、この世とあの世の往来ができるといい、死者や神の出現を表す行事があり、自分の将来をはっきり目で見ることができるといって、占いや予言をしたという。これは「忌の日」の伝えにきわめて近い。ゲルマン諸族でも、岡見は新年儀礼だったのである。(P381)

黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11

2011年3月11日、この地域は東日本大震災・大津波・福島原発事故という未曽有の大惨事に見舞われた。この地は黒潮(暖流)の北限にあたり、親潮(寒流)とぶつかりあう。そのため、自然界の諸領域において混合的特徴が見られる。たとえば、漁業資源においては、カツオ、マグロといった黒潮の幸と、サケ、マス、タラといった親潮の幸の両方が捕獲され、漁撈文化の多様性をかもしだす。さらに南北の宗教、婚姻形態、「蝦夷征討」の痕跡とアイヌ語地名の現存といった具合に、南と北が併存する。

当然のことながら、漁撈信仰、海や魚にまつわる伝承も多種多彩であった。ところが、3.11の影響で沿岸集落の多くが壊滅的被害を被った。物理的被害もさることながら、この地に伝えられていた民俗・文化の被害についてはいま、どのような状況にあるのだろうか。被災地の人口流出も止められないという。この先、われわれ日本は、黒潮の道の北限の文化をまもることが、できた、あるいは、できる――のであろうか。