●高橋哲哉[著] ●講談社現代新書 ●720円+税
いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉が日本の教育問題を論じている。筆者は教育にあまり関心がない。多くの人と同じように学校は好きだったけれど、授業やテストが嫌いだったし、教育と聞くだけで胡散臭さを感じてしまう。師にも縁がないし、もちろん、弟子や教え子もいない。
本書が論じている教育とは、もちろん、そういうレベルの「教育」ではない。教育とは、国家(政治・行政)が学校制度をとおして国民に植えつける価値形成のことであり、さらにいえば、国が個人の人間形成に与える影響のことだ。
日本には教育基本法があり、日本の教育の運営の根幹をなしている。教育基本法は、戦前大日本帝国が行っていた臣民教育の反省を中核として制定されたものだ。戦前の教育は、いまさら繰り返すまでもなく、恐ろしいものだった。教育勅語、修身が代表するとおり、アジア諸国を侵略し日本国民を無益な死に追いやった元凶だった。戦前の教育の特徴は、国家に隷属する臣民の養成にあり、その教育の「成果」により、日本は焦土と化し、310万人以上がなくなった。さらに、侵略されたアジア諸国の犠牲者は2千万人を超えるともも言われくらい、惨憺たるものだった。間違っても、あのころの教育に帰ることがあってはならない。
ところが、いまの日本では驚くなかれ、教育基本法の改正が目論まれ、学校の現場では国家斉唱・国旗掲揚が強制され、それを拒否した教師、生徒には処分が課されるという。さらに、ショービニズム的「愛国心」教育が学習指導要領等の行政権限で強制されているという。
これにはマスコミも手を貸している。たとえば、未成年者、とりわけ児童・生徒の凶悪犯罪については、統計的にはいま現在、減少安定期にあるにもかかわらず、増加傾向にあるかのような報道が一般化していることで明白だ。
ある保守系政治家が、「児童生徒の凶悪犯罪の“増加”は、今日の教育に問題がある」とか、「教育基本法のある箇所に、少年犯罪を増加させるような記述があるので、同法を改正する必要がある」という発言をすると、マスコミはそれをそのまま報道してしまうという。
真のジャーナリズムならば、そのような発言を掲載する前に、犯罪統計を調べて、いま現在、少年犯罪は増加していない、と保守系政治家の「発言」を虚言としてさばかなければいけない。また、教育基本法の原文を当たり、そのような記述は同法には見当たらないので、これもまた虚言である、と報じなければいけない。しかしながら、日本の報道機関はそれをせず、政治家の「虚言」を「意見」として、取り上げてしまう。日本のジャーナリズムは、保守系政治家・政党の広報を担っているというわけだ。
教育基本法の改正がいまなぜ、保守系勢力にとって必要なのか――その答えは、もちろん、新国家主義の台頭による。国家が国民を自由にコントロールできる教育、反戦平和主義を「時代遅れ」として退け、ことあらば周辺諸国と一戦交えることを辞さずという心構えを持たせる教育、そんな「普通の国」づくりを彼等が目指そうとしているからだ。「愛国心」教育も同じだ。国家と国民を絶対不可分の関係に固定させ、国難には国民の犠牲を厭わないような、「愛国心」の醸成が意図されているのだ。
著者は、日本の保守勢力が進めている恐ろしい「教育改革」の実態を暴き、「愛国心」教育のウソを衝く。
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2005年6月17日金曜日
『異端カタリ派』
●フェルナン・ニール[著] ●文庫クセジュ ●951円+税
カタリ派とは一般にキリスト教の異端の1つとされる。中世、現在のフランス南部の都市・トゥールーズを中心に大きな勢力を維持していた。
本書は、カタリ派とは何かという問から発し、13世紀、カトリック教会が差し向けたアルビジョア十字軍と呼ばれる軍事介入とその後の異端審問により、その勢力が一掃されるまでの解説書だ。もちろん、カタリ派の入門書の1つなのだが、後述するとおり、かなり独断的な論証もある。
本書は、カタリ派をマニ教の派生宗教と位置づける。マニ教とは、3世紀ごろ、現在のイランで生まれた。開祖はマニ(マネス)。ゾロアスター教、古代哲学、キリスト教の3大潮流を総合した、グノーシス派の影響のもとに生まれた宗教だ。グノーシスとはギリシャ語で認識の意味。
ゾロアスター教は紀元前3千年紀の古代イラン文明に起源をもつとされる宗教。マヅダ教と同義。紀元前6~7世紀ごろ、ゾロアスターという人物によって体系化されたといわれている。善悪ニ神教だ。
ゾロアスター以降のマヅダ教になると、その基本概念が善の原理と悪の原理の永遠の闘争と説明されるようになる。善の原理はオルムッドないしアフラマヅダに体現され、悪の原理はアーリマンないしアングラマイニュの形をもって現れる。闘争の過程で両勢力は交互に優劣を繰り返し、すべての生命はこの闘争の結果に他ならないとされるが、究極の到達点はアーリマンの滅亡で、一神教を志向する。
善悪二神の分離の流れを踏襲したのがグノーシス派及びマニ教を形成し、一神教に傾斜していったのがカトリック(キリスト教)と大雑把にはいえるのかもしれない。
ところが、本書の訳者解説によると、カタリ派がマニ教の系列にあるかどうかは、証明されていないという。訳者によると、カタリ派は、カトリックに比べて、より禁欲主義的な傾向が強いというくらいしかわかっておらず、本書のようにカタリ派をマニ教と直接的に結びつける資料はいまのところ発見されてない、というのだ。
さて、そのカタリ派とは、「清浄」を意味するギリシア語・カタロスが語源。カタリ派の痕跡は、11~13世紀、フランス南部、北イタリア、ドイツ、フランドル、スイス、スペインの各所で認められているが、とりわけ、フランス南部に大きな勢力を持っていた。フランス南部はラングドックと呼ばれ、フランス北部のカトリック勢力の支配が及ばない地域で、宗教はもちろん、言語、文化、政治等々あらゆる分野で独立を保っていた。
フランス北部に不服従の姿勢をもっていた南部地方権力を一掃するため、フランス王とカトリック教会(インノケンティウス三世)は共謀して、異端カタリ派撲滅を理由に、「アルビジョア十字軍」30万人を組織。1209年、ラングドックに攻め込み、最初のカタリ派掃討のための軍事行動を行った。
南部の地方抵抗勢力は、「アルビジョア十字軍」により屈服。カタリ派はその後のカトリックによる異端審問で一掃され、14世紀には信者不在に至るが、彼等が立てこもり最後まで抵抗したのが、「モンセギュ―ル城」という天然の要塞だ。著者であるフェルナン・ニールは土木技術者で、この城を実際に測量し、それがマニ教の太陽崇拝の儀式を行う神殿としての機能を持っていた、という説を展開している。ところがこれも訳者によると、一仮説に過ぎないという。
マニ教とカタリ派の関係については、はっきり分かっていないとはいうものの、ゾロアスター、グノーシス派、マニ教の流れが、中世南フランスに残存していた、という著者の仮説を筆者は信じたい。
カタリ派とは一般にキリスト教の異端の1つとされる。中世、現在のフランス南部の都市・トゥールーズを中心に大きな勢力を維持していた。
本書は、カタリ派とは何かという問から発し、13世紀、カトリック教会が差し向けたアルビジョア十字軍と呼ばれる軍事介入とその後の異端審問により、その勢力が一掃されるまでの解説書だ。もちろん、カタリ派の入門書の1つなのだが、後述するとおり、かなり独断的な論証もある。
本書は、カタリ派をマニ教の派生宗教と位置づける。マニ教とは、3世紀ごろ、現在のイランで生まれた。開祖はマニ(マネス)。ゾロアスター教、古代哲学、キリスト教の3大潮流を総合した、グノーシス派の影響のもとに生まれた宗教だ。グノーシスとはギリシャ語で認識の意味。
ゾロアスター教は紀元前3千年紀の古代イラン文明に起源をもつとされる宗教。マヅダ教と同義。紀元前6~7世紀ごろ、ゾロアスターという人物によって体系化されたといわれている。善悪ニ神教だ。
ゾロアスター以降のマヅダ教になると、その基本概念が善の原理と悪の原理の永遠の闘争と説明されるようになる。善の原理はオルムッドないしアフラマヅダに体現され、悪の原理はアーリマンないしアングラマイニュの形をもって現れる。闘争の過程で両勢力は交互に優劣を繰り返し、すべての生命はこの闘争の結果に他ならないとされるが、究極の到達点はアーリマンの滅亡で、一神教を志向する。
善悪二神の分離の流れを踏襲したのがグノーシス派及びマニ教を形成し、一神教に傾斜していったのがカトリック(キリスト教)と大雑把にはいえるのかもしれない。
ところが、本書の訳者解説によると、カタリ派がマニ教の系列にあるかどうかは、証明されていないという。訳者によると、カタリ派は、カトリックに比べて、より禁欲主義的な傾向が強いというくらいしかわかっておらず、本書のようにカタリ派をマニ教と直接的に結びつける資料はいまのところ発見されてない、というのだ。
さて、そのカタリ派とは、「清浄」を意味するギリシア語・カタロスが語源。カタリ派の痕跡は、11~13世紀、フランス南部、北イタリア、ドイツ、フランドル、スイス、スペインの各所で認められているが、とりわけ、フランス南部に大きな勢力を持っていた。フランス南部はラングドックと呼ばれ、フランス北部のカトリック勢力の支配が及ばない地域で、宗教はもちろん、言語、文化、政治等々あらゆる分野で独立を保っていた。
フランス北部に不服従の姿勢をもっていた南部地方権力を一掃するため、フランス王とカトリック教会(インノケンティウス三世)は共謀して、異端カタリ派撲滅を理由に、「アルビジョア十字軍」30万人を組織。1209年、ラングドックに攻め込み、最初のカタリ派掃討のための軍事行動を行った。
南部の地方抵抗勢力は、「アルビジョア十字軍」により屈服。カタリ派はその後のカトリックによる異端審問で一掃され、14世紀には信者不在に至るが、彼等が立てこもり最後まで抵抗したのが、「モンセギュ―ル城」という天然の要塞だ。著者であるフェルナン・ニールは土木技術者で、この城を実際に測量し、それがマニ教の太陽崇拝の儀式を行う神殿としての機能を持っていた、という説を展開している。ところがこれも訳者によると、一仮説に過ぎないという。
マニ教とカタリ派の関係については、はっきり分かっていないとはいうものの、ゾロアスター、グノーシス派、マニ教の流れが、中世南フランスに残存していた、という著者の仮説を筆者は信じたい。
2005年6月5日日曜日
『蛮族の侵入』
●ピエール・リシェ[著] ●文庫クセジュ ●951円(+税)
376年、世界最強と思われたローマ帝国内に蛮族(ゲルマン系ゴート族)が侵入を開始。その後、ローマ帝国は東西に分裂、やがて西ローマ帝国は滅亡する。その後、東ローマ帝国の支援によりローマは一時期、再興をみるが、最後の蛮族、ランゴバルト族の侵略を受け蛮族の再支配を受けることになる。そのとき、ローマ(カトリック教会/ローマ教皇ステファヌス二世)は、蛮族の一派・フランク王国(ピピン)に援助を求める。
756年、支援の要請を受けたピピンはランゴバルト族を撃破し、回復した領土を聖ペテロに寄進する。
800年、小ピピンの息子・シャルルマーニュは、教皇レオ三世によって、皇帝として戴冠される。これをもって、“古代の終わり、中世の開始”といわれている。
本書は蛮族の侵入からシャルルマーニュの戴冠までの450年間弱の歴史をまとめたもの。蛮族の侵入から西ローマ帝国の滅亡、そして中世世界の成立を、▽ローマの内的弱体化と、▽遊牧系騎馬民族のフン族の圧力によるゲルマン族の移動という周辺情勢の変化、――を併せて、初心者向きに解説してくれる。むろん、ゲルマン系諸族の特性等についても、じゅうぶんな説明がある。
この出来事は、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれ、高校の世界史でも学習するものだが、不思議なことが多い。たとえば、現在のフランスに該当するガロ=ローマ地域に侵入したゲルマン民族の比率は、先住民のわずか5%を占めるにすぎなかったという。たった5%のゲルマン人がフランク王国を樹立したということが理解しにくい。
もう1つは、ヨーロッパの東北部を元郷とするゲルマン系のバンダル族が、なんと、北アフリカに移動して、わずか100年程度ではあるが、現在のチュニジアあたりに王国を築いたことだ。いったいぜんたい、ゲルマン民族とはいかなる民族なのか。
さて、ゲルマン諸族はローマ帝国内に侵入後、しばらくはアリウス派キリスト教を信仰していたのだが、やがてヨーロッパの大半を支配することになる西ゴート族(スペインに定着)、フランク族(フランス・ドイツ・イタリアに定着)が、カトリックに改宗する。このことも、世界史上の大事件の1つといえる。ローマは滅びたが、ローマ教会は蛮族への布教を通じて、全ヨーロッパに勢力を拡大したのだ。ローマ教会生き残りの戦略も生々しい。
本書読了後も、筆者には「ゲルマンの謎」が深まるばかり。西欧史については、もっともっと勉強が必要ということか。
376年、世界最強と思われたローマ帝国内に蛮族(ゲルマン系ゴート族)が侵入を開始。その後、ローマ帝国は東西に分裂、やがて西ローマ帝国は滅亡する。その後、東ローマ帝国の支援によりローマは一時期、再興をみるが、最後の蛮族、ランゴバルト族の侵略を受け蛮族の再支配を受けることになる。そのとき、ローマ(カトリック教会/ローマ教皇ステファヌス二世)は、蛮族の一派・フランク王国(ピピン)に援助を求める。
756年、支援の要請を受けたピピンはランゴバルト族を撃破し、回復した領土を聖ペテロに寄進する。
800年、小ピピンの息子・シャルルマーニュは、教皇レオ三世によって、皇帝として戴冠される。これをもって、“古代の終わり、中世の開始”といわれている。
本書は蛮族の侵入からシャルルマーニュの戴冠までの450年間弱の歴史をまとめたもの。蛮族の侵入から西ローマ帝国の滅亡、そして中世世界の成立を、▽ローマの内的弱体化と、▽遊牧系騎馬民族のフン族の圧力によるゲルマン族の移動という周辺情勢の変化、――を併せて、初心者向きに解説してくれる。むろん、ゲルマン系諸族の特性等についても、じゅうぶんな説明がある。
この出来事は、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれ、高校の世界史でも学習するものだが、不思議なことが多い。たとえば、現在のフランスに該当するガロ=ローマ地域に侵入したゲルマン民族の比率は、先住民のわずか5%を占めるにすぎなかったという。たった5%のゲルマン人がフランク王国を樹立したということが理解しにくい。
もう1つは、ヨーロッパの東北部を元郷とするゲルマン系のバンダル族が、なんと、北アフリカに移動して、わずか100年程度ではあるが、現在のチュニジアあたりに王国を築いたことだ。いったいぜんたい、ゲルマン民族とはいかなる民族なのか。
さて、ゲルマン諸族はローマ帝国内に侵入後、しばらくはアリウス派キリスト教を信仰していたのだが、やがてヨーロッパの大半を支配することになる西ゴート族(スペインに定着)、フランク族(フランス・ドイツ・イタリアに定着)が、カトリックに改宗する。このことも、世界史上の大事件の1つといえる。ローマは滅びたが、ローマ教会は蛮族への布教を通じて、全ヨーロッパに勢力を拡大したのだ。ローマ教会生き残りの戦略も生々しい。
本書読了後も、筆者には「ゲルマンの謎」が深まるばかり。西欧史については、もっともっと勉強が必要ということか。
『靖国問題』
●高橋哲哉[著] ●ちくま新書 ●720円+税
著者は靖国問題を次のように整理する。
靖国をめぐる「感情の問題」では、靖国のシステムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」にあること。
「歴史認識の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識問題の一部にすぎず、本来日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきこと。
「宗教の問題」では、これまで首相や天皇の靖国参拝を憲法違反としたり、その違憲性を示唆した司法判断はいくつかあるが、合憲とした確定判決は1つもないことを確認し、靖国神社を「非宗教化」することは不可能であること。また、「神社非宗教」の虚構こそ、かつて「国家神道」が猛威を振るったゆえんに他ならなかったこと。
「文化の問題」では、死者を祀ることが日本の伝統であることはそのとおりだが、歴史的には、敵も味方も祀ることが一般的であること。靖国が兵士及びそれに準ずる者だけを戦没者としてを祀ることは、政治的行為であること。また、戦死者を祀ったり追悼したりする儀式は、世界共通であるが、国民国家の成立以降に始められたにすぎぬこと。
以上の著者の整理は妥当であり、立論に誤謬はない。戦争は国内問題ではない。植民地戦争で戦死した兵士を英霊とすることは、侵略され植民地化されたた側の痛みを共有しない。だから、「靖国」が一国の問題として、閉じられて論じられることはありえない。
筆者は、いまの中国共産党政府がチベット、ウイグル新疆地区等で行った、また、まさにいま行っている弾圧を不当だと考える。中国には、日本の侵略戦争を批判する資格はないと思う。けれども、だからといって、日本の侵略戦争が正当化される理由にはならない。
中国共産党政府の立場は現実的である。中国共産党政府は、中国国民が日本の植民地戦争で被害を受けたことに留意しなければならない立場にある。中国国民には、反日感情が強い。日本政府の代表者が靖国に正式参拝することに耐え難い感情をもっている。けれども、中国と日本は、経済を中心に友好的な関係を結ぶ必要も感じている。そこで、中国共産党政府が示した靖国問題の落としどころは、A級戦犯分祀だった。日本人一般が靖国に祀られ参拝することまでは文句は言わない、首相が一般戦没者を参拝することもかまわない、けれど、A級戦犯をそこから外してくれ、それなら、中国国民も文句を言わない、というのが中国の内政~外交のメカニズムだ。そこで合意するかどうjかは、外交の選択であり国益の問題である。感情や文化や宗教の問題ではない。きわめて世俗的な問題なのだ。
筆者は、中国が示した靖国見解は現実的なものだと思う。日本が中国と経済を中心に友好的な関係を築くうえで、A級戦犯の分祀が実現しないのなら、首相の参拝をしないことの方が賢明だ。しかし、こうした外交の合意点は、靖国問題の一部である。そのレベルの議論に固執していては、靖国問題の本質から遠ざかる。
マスコミにおける粗雑な靖国議論に比べて、本書はきわめて良質な「靖国論」である。本書を読まずして靖国問題を語ることは許されまい。
著者は靖国問題を次のように整理する。
靖国をめぐる「感情の問題」では、靖国のシステムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」にあること。
「歴史認識の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識問題の一部にすぎず、本来日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきこと。
「宗教の問題」では、これまで首相や天皇の靖国参拝を憲法違反としたり、その違憲性を示唆した司法判断はいくつかあるが、合憲とした確定判決は1つもないことを確認し、靖国神社を「非宗教化」することは不可能であること。また、「神社非宗教」の虚構こそ、かつて「国家神道」が猛威を振るったゆえんに他ならなかったこと。
「文化の問題」では、死者を祀ることが日本の伝統であることはそのとおりだが、歴史的には、敵も味方も祀ることが一般的であること。靖国が兵士及びそれに準ずる者だけを戦没者としてを祀ることは、政治的行為であること。また、戦死者を祀ったり追悼したりする儀式は、世界共通であるが、国民国家の成立以降に始められたにすぎぬこと。
以上の著者の整理は妥当であり、立論に誤謬はない。戦争は国内問題ではない。植民地戦争で戦死した兵士を英霊とすることは、侵略され植民地化されたた側の痛みを共有しない。だから、「靖国」が一国の問題として、閉じられて論じられることはありえない。
筆者は、いまの中国共産党政府がチベット、ウイグル新疆地区等で行った、また、まさにいま行っている弾圧を不当だと考える。中国には、日本の侵略戦争を批判する資格はないと思う。けれども、だからといって、日本の侵略戦争が正当化される理由にはならない。
中国共産党政府の立場は現実的である。中国共産党政府は、中国国民が日本の植民地戦争で被害を受けたことに留意しなければならない立場にある。中国国民には、反日感情が強い。日本政府の代表者が靖国に正式参拝することに耐え難い感情をもっている。けれども、中国と日本は、経済を中心に友好的な関係を結ぶ必要も感じている。そこで、中国共産党政府が示した靖国問題の落としどころは、A級戦犯分祀だった。日本人一般が靖国に祀られ参拝することまでは文句は言わない、首相が一般戦没者を参拝することもかまわない、けれど、A級戦犯をそこから外してくれ、それなら、中国国民も文句を言わない、というのが中国の内政~外交のメカニズムだ。そこで合意するかどうjかは、外交の選択であり国益の問題である。感情や文化や宗教の問題ではない。きわめて世俗的な問題なのだ。
筆者は、中国が示した靖国見解は現実的なものだと思う。日本が中国と経済を中心に友好的な関係を築くうえで、A級戦犯の分祀が実現しないのなら、首相の参拝をしないことの方が賢明だ。しかし、こうした外交の合意点は、靖国問題の一部である。そのレベルの議論に固執していては、靖国問題の本質から遠ざかる。
2005年5月5日木曜日
『フランスの「美しい村」を訪ねて』
●辻 啓一[著及び撮影] ●角川書店 ●875円+税
本書は、パリ在住の日本人写真家が「フランスでも最も美しい村100選」というフランス観光局公認の村々を取材・撮影したもの。雑誌『マリークレール日本版』に連載した記事を大幅加筆して編集したという。「美しい村」に公認されるためには、電線を地中化しなければいけないなど、厳しい基準を満たさなければいけないらしい。
本書では、(1)パリ近郊、(2)アルザス周辺、(3)ブルゴーニュ周辺、(4)ローヌ・アルプ・プロヴァンス、(5)ミディ・ピレーネ周辺、の5地区・26村が紹介されている。26の村々のなかで筆者が訪れたことがあるのは、コンクだけ。ほかの村々については名前さえ知らなかった。
これらの村々は日本における知名度は低いものの、中世の面影を色濃く残し、古い教会(多くはロマネスク様式)、石積みの建物、石畳の舗道等々で構成されたところばかりだ。むろん、村には、十分な観光施設が備えられているとは言えないけれど、雰囲気はある。また、名所・旧跡というほどのスポットがあるわけではないけれど、いかにも“ヨーロッパ”という景観を残していて、村を訪れた人は、中世にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるに違いない。
著者はそんな村で暮らすアーチストやホテルのオーナーを紹介しつつ、村の特産料理やワインに舌鼓を打っている。長いゴールデンウイーク、東京でくすぶっている筆者にはうらやましい限り。著者は、このような村の滞在は2日間で十分だというが、筆者には行きたいようないきたくないような、判断に迷うところもある。というのも、景観としては魅力的だが、霊気や怨念といった、歴史的な重みにやや欠けるような気がするからだ。
本書では、(1)パリ近郊、(2)アルザス周辺、(3)ブルゴーニュ周辺、(4)ローヌ・アルプ・プロヴァンス、(5)ミディ・ピレーネ周辺、の5地区・26村が紹介されている。26の村々のなかで筆者が訪れたことがあるのは、コンクだけ。ほかの村々については名前さえ知らなかった。
これらの村々は日本における知名度は低いものの、中世の面影を色濃く残し、古い教会(多くはロマネスク様式)、石積みの建物、石畳の舗道等々で構成されたところばかりだ。むろん、村には、十分な観光施設が備えられているとは言えないけれど、雰囲気はある。また、名所・旧跡というほどのスポットがあるわけではないけれど、いかにも“ヨーロッパ”という景観を残していて、村を訪れた人は、中世にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるに違いない。
著者はそんな村で暮らすアーチストやホテルのオーナーを紹介しつつ、村の特産料理やワインに舌鼓を打っている。長いゴールデンウイーク、東京でくすぶっている筆者にはうらやましい限り。著者は、このような村の滞在は2日間で十分だというが、筆者には行きたいようないきたくないような、判断に迷うところもある。というのも、景観としては魅力的だが、霊気や怨念といった、歴史的な重みにやや欠けるような気がするからだ。
2005年5月4日水曜日
『物語 カタルーニャの歴史』
●田澤耕[著] ●中公新書 ●780円+税
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
カタルーニヤとは現在スペインがフランスと接する、地中海沿岸の地域。バルセロナが「首都」に当たる。この地域ではいまでもカタルーニヤ語が話され、マドリードを中心としたスペインとは異なる文化圏だといわれている。
そもそも、スペインが統一されたのは中世末期から近世の初めの時期。スペインの歴史は、連続した1つのアイデンティティで括れない。こうした複雑さは欧州ではスペインに限らないけれど、スペインはその複雑さでは群を抜いている。
なので、スペインの歴史を大雑把におさえておこう。
まず、イベリア半島に先住していていた民族はアフリカ系のイベロ人と呼ばれた。その後、印・欧語族のケルト人がやってくる。ケルト人はイベロ人と混血して、セルティベロ人と呼ばれ、現在のスペイン人の祖先になった。やがて、ケルト勢力はローマに滅ぼされ、この地はラテンの支配を受けるようになる。そのローマ人はゲルマン系諸族の侵入により滅亡し、ゲルマン系の一派である、西ゴート族がこの地の支配者となる。西ゴートはローマからキリスト教をもってくる。しかし、イスラム勢力の台頭により、西ゴート王国は滅亡、イベリア半島はイスラムの支配を受け、キリスト教勢力は北部に追いやられてしまう。しかし、北部に残されたキリスト教勢力が巻き返しを図り、レコンキスタ(祖国回復)が開始される。カタルーニヤはアラゴンと連合して、この時代から、現在のスペイン内部で独立した勢力となり、中世初期からから近世のはじめまで、カタルーニア・アラゴン王国として繁栄した。
ところが、15世紀、中世が終わり近代への黎明期、北部のカスティーリア王国がスペインの覇権を握り、やがて、スペイン=ハプスブルク帝国としてイベリア半島を統一、新大陸を含めた大帝国を築く。カスティリーア王国=スペインハプスブルク帝国の成立とともに、カタルーニアは衰退した。それでも、カタルーニヤは文化的に独立した地域として、独自性をかろうじて、保持することができた。
カタルーニヤの滅亡を決定づけたのは、現代のスペイン内乱であった。本書は中世のカタルーニヤの歴史書であるため、この内乱については詳しく触れていない。
カタルーニヤが滅亡した主因は、スペイン内乱で共和国支持を打ち出し、フランコ=ファシスト側と対立したことであった。スペイン内乱は、共和国側の敗北で終わる。そして、戦後成立したフランコ独裁体制の下、カタルーニヤは徹底した弾圧を受けることになる。中世のカタルーニヤの繁栄とファシスト=フランコ政権下の弾圧――どちらも重要な歴史である。(本書は前者に限定した内容となっているので、スペイン内乱とカタルーニヤについては、カタルーニヤの近代史・現代史を読む必要がある)
国民国家が言語、宗教、民族といった歴史的な諸要素を基盤としているようでいて、実は、借り物(幻想)であることは、よく知られている。いまのスペインを歴史的共同性からみれば、1つの国民国家として成立する根拠はない。カタルーニヤの歴史は、国民国家が不完全な共同体であることを象徴する。スペインが分裂するのか、それとも、EUという超国家の発展が、国民国家の枠組みを撤廃して、逆に歴史的共同体を復活させることに向かうのか、ヨーロッパがいま、おもしろい。
『世界のイスラム建築』
●深見奈緒子[著] ●講談社現代新書 ●740円(税別)
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。
イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。
イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。
ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。
さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。
イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。
第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。
第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。
第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。
第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。
(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。
(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。
(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。
第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。
①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。
第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。
たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。
イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。
イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。
今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。
2005年3月31日木曜日
『ケルト映画紀行』
●武部好伸[著] ●論創社 ●価格不明(古本)
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
本書は、ケルト民族、ケルト文化をテーマにした映画の舞台となった、アイルランド、ウェールズ、コンウォール、マン島、スコットランドを旅行した印象をまとめたもの。その地にちなんだ映画の粗筋、名場面、俳優、監督の紹介や、その地の人々とのふれあいもあり、また、簡単なケルト民族、ケルト文化の解説もある。
さて、アイルランド系移民の多いアメリカでは、北アイルランドを舞台にした政治闘争及び反英武装闘争を展開したIRAにちなんだ映画が多数つくられている。北アイルランドとイングランドの対立の根源には、宗教上の対立があると言われ、そのような図式で映画がつくられている場合もある。また、映画は娯楽媒体なので、アクション映画に仕立てられたものもある。こうした映画を「ケルト」という概念で括ることは難しい。また、現代アイルランド社会を描いた映画の中には、ケルト民族やケルト文化との連続性でとらえられないものもある。このことは、アイルランドの現代における社会現象について、ケルトという概念にどこまで還元できるのか――と換言できる。
アイルランドの基層民族はケルト人だ。ケルト民族はローマ、ゲルマンに圧迫された、幻の民だ――こうした見方は、ケルトロマン主義を醸成する。現代アイルランドの諸事象が、ケルトという魅力的な「概念」ばかりで過剰に説明され、アイルランド経済、アイルランド社会の現実を歪めるのではないか――そんな疑問も残る。
2005年3月21日月曜日
『十字軍』
●ジョルジョ・タート[著] ●創元社 ●1400円

私が注目したのは、十字軍遠征に伴うイスラム教徒の殺害をだれがどう合理化したのかだった。つまり、キリスト教の教えの中に、異教徒抹殺の信仰的基盤が根ざしているのかどうか――この問については、本書資料編の聖ベルナールがテンプル騎士団の修道士たちに向けて行った、「良心的参戦拒否者に対する説明」を読むことによって、解答を得られる。
聖ベルナールは本来、修道士の集まりだったテンプル騎士団を軍隊化する過程で、戦闘に参加することを拒否しようとした良心的宗教者に対して、軍事活動=異教徒殺害は、神の教えに適うというような意味の説明を行った。以降、異教徒に対する虐殺、拷問、略奪などの暴力が神の名において許されたと解釈できる。
聖ベルナールの「説明」は、西欧の侵略主義の根拠となって、その後の南仏のカタリ派弾圧=アルビジョア十字軍や、近世の新大陸植民地化、アジア・アフリカの植民地化、そして今日の米国のアフガン、イラク戦争にまで続いていくことになる。
西欧のキリスト教は基本的に侵略主義であると考えてさしつかえない。軍事的にそれが実現できないときには、彼らは西欧に引きこもって時を待つ。十字軍から今日まで、西欧側からの侵略の歴史は、その繰り返しだった。西欧のキリスト教は、十字軍以前と以降では、根本的に異なるものだと考えなければいけない。だから、聖書に「汝、殺すなかれ」と書かれているから、キリスト教は平和主義だと考えてはいけない。そんな幻想を抱いている人は、聖ベルナールの「説明」を読んでほしい。キリスト教が、この「説明」の誤謬を指摘したという事実は、管見の限りない、のだから。
2005年3月12日土曜日
『アラブが見た十字軍』
●アミン・マアルーフ[著]/牟田口義郎[著] ●ちくま学芸文庫 ●1500円+税
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
十字軍とは、ローマ帝国崩壊後、中原ヨーロッパ世界の混乱を経て政治的安定期を迎えたゲルマン系諸族のアラブ侵略をいう。十字軍の中心勢力がゲルマン系のフランク族=フランク(王国)であったため、十字軍はアラブから「フランク」と呼ばれた。キリスト教に帰依したフランク王国はローマ教皇と共同でイスラムに奪われたキリスト教の聖地・エルサレムを「奪回」するため、当時地中海の覇権をアラブ勢力と争っていたベネチア、東ローマ帝国(アラブから「ルーム」と呼ばれた)と協力して、地中海沿岸エジプト、シリア、アラブ、トルコ(セルジュークトルコ)を侵略して植民地化し、エルサレム王国を建国する。
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。
2005年1月5日水曜日
『物語 イタリアの歴史Ⅱ』
●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●740円+税
本書は前書『イタリアの歴史』の続編のようなタイトルで、記述の方法も同じである。各時代の歴史のキーパーソンについて語りつつ、「イタリア」の歴史を辿る。もちろん、物語といってもフィクションではない。一見すると、直前に紹介した前著の続編のようだが、以下の点で趣を異にする。
前書は「イタリア」各地を舞台にしていたのだが、本書はローマにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)を舞台とし、そこで暗躍した人物を物語る設定になっている。
トップに登場するのは、聖天使城を建造したローマ皇帝ハドリアヌス。ハドリアヌスは政治家であることはもちろんだが、建築家でもあり、ありとあらゆる芸術に通じた賢帝だったという。彼の時代、ローマは最も安定していたとも言われている一方、同性愛者として知られ、その生涯は謎に満ちている。
彼が築いたこの城がどういう目的で築かれたのか私はよく知らない。が、後世、陰謀渦まく、歴史の裏舞台となったことを知る。
さて、本書から「イタリア」通史を理解することはできない。その理由は、舞台を聖天使城に限ったため。登場する場所が限定されたため、登場人物が時間的に間が空きすぎる。同城を舞台に活躍した人物が「イタリア」の歴史に決定的な役割を果たしたとも言い難い。
加えて、出版・編集上の問題もある。登場する人物のたとえば、メディチ家については、前書と重複する記述もある。本書を読めば、「イタリア」の歴史が一部・二部で完結するという期待を抱いた読者を裏切った面も否定できない。私見では、その責任は著者にではなく、本題を『イタリアの歴史Ⅱ』と題して販売した、出版・編集サイドに帰すると思う。
出版・編集サイドが、「イタリア」の歴史の続編が読みたいという前書の読者からの希望を真摯に受け止めたのならば、こういう形の出版になるはずがない。前書が優れていただけに、本書を受け持った出版・編集サイドの歴史に対する姿勢が残念でならない。本書はあくまでも、聖天使城をめぐる歴史のサイドストーリーなのであって前書を補完・補遺するものではない。
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本書は前書『イタリアの歴史』の続編のようなタイトルで、記述の方法も同じである。各時代の歴史のキーパーソンについて語りつつ、「イタリア」の歴史を辿る。もちろん、物語といってもフィクションではない。一見すると、直前に紹介した前著の続編のようだが、以下の点で趣を異にする。
前書は「イタリア」各地を舞台にしていたのだが、本書はローマにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)を舞台とし、そこで暗躍した人物を物語る設定になっている。
トップに登場するのは、聖天使城を建造したローマ皇帝ハドリアヌス。ハドリアヌスは政治家であることはもちろんだが、建築家でもあり、ありとあらゆる芸術に通じた賢帝だったという。彼の時代、ローマは最も安定していたとも言われている一方、同性愛者として知られ、その生涯は謎に満ちている。
彼が築いたこの城がどういう目的で築かれたのか私はよく知らない。が、後世、陰謀渦まく、歴史の裏舞台となったことを知る。
さて、本書から「イタリア」通史を理解することはできない。その理由は、舞台を聖天使城に限ったため。登場する場所が限定されたため、登場人物が時間的に間が空きすぎる。同城を舞台に活躍した人物が「イタリア」の歴史に決定的な役割を果たしたとも言い難い。
加えて、出版・編集上の問題もある。登場する人物のたとえば、メディチ家については、前書と重複する記述もある。本書を読めば、「イタリア」の歴史が一部・二部で完結するという期待を抱いた読者を裏切った面も否定できない。私見では、その責任は著者にではなく、本題を『イタリアの歴史Ⅱ』と題して販売した、出版・編集サイドに帰すると思う。
出版・編集サイドが、「イタリア」の歴史の続編が読みたいという前書の読者からの希望を真摯に受け止めたのならば、こういう形の出版になるはずがない。前書が優れていただけに、本書を受け持った出版・編集サイドの歴史に対する姿勢が残念でならない。本書はあくまでも、聖天使城をめぐる歴史のサイドストーリーなのであって前書を補完・補遺するものではない。
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2005年1月1日土曜日
『物語 イタリアの歴史』
●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●860円+税
強大だったさしものローマ帝国が東西に分裂。西ローマ帝国の成立をみるが、その前後、北方から、いわゆる蛮族の侵入が始まった。この混乱の時代から「イタリア」に統一勢力は存在しなくなり、分裂状態が続くことになる。
西ローマ帝国滅亡以降の「イタリア」の歴史というのは、きわめて複雑だ。本書を一読しただけでは、なにがどうなったのか、体系的に理解することが難しい。そもそも、「イタリア」という統一的な地域(国家)概念が形成されたのが、つい最近のことなのだから。
本書は、分裂した「イタリア」が国民国家として統一を迎えるまでのおよそ1500年の歴史を、各時代のキーパーソンの活動を踏まえて辿った歴史物語である。もちろん物語といっても、フィクションではない。
かの地が複雑な歴史をたどった第一の理由は、ローマ教会総本山の存在だろう。そのローマ教皇ですら、ローマに留まり続けたわけではない。一時期、南フランスのアビニヨンに移動したくらいだ。このことは、欧州列強がローマ教会に影響力発揮した結果だが、その逆も多い。
さて、蛮族の侵入後、かの地の支配者となったのはゲルマン系の東ゴート族だった。その東ゴートが東ローマ帝国に滅ぼされ、同系のランゴバルト族が支配権を確立。ところが、ランゴバルト族の支配もつかの間、フランク族のカール一世がこの地を統一する。カール一世の背後には、それを望むローマ教皇がいた。
その後、ノルマン族、イスラム勢力、マジャール族等が「イタリア」侵入を果たすが、10世紀、この地に侵入したオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝となり、支配者となる・・・と書き続けていたのだは、書評にならない。
中世以降はフィレンツェに代表される都市が群雄割拠し、ルネサンスを迎えたことはよく知られている。その都市国家も衰亡、オスマントルコ、フランス、スペイン、ハブスブルク(墺)といった欧州各国が「イタリア」を、全域的に、そして、部分的に、かつ、直接的に、間接的に、支配することになる。
「イタリア」の歴史は、欧州諸勢力に蹂躙され続けた歴史と言える。本書を手がかりに欧州の戦争の歴史から何を学ぶべきなのか。ローマ教会とは何であったのか。
たとえば、われわれはいまの日本を独立した民主国家だと考えている。が、よく見れば、米国の軍隊が駐留し、日本は米国の圧倒的な軍事的支配下にある。この状態は「イタリア」の都市が、当時強大な軍事力を誇ったフランスの支配下にあった状況と似ている。安全保障上の対等性とは、日米双方の軍隊が双方の国家に駐留することだ考えられるが、日本の軍隊(自衛隊)が米国本土に駐留することになったならば、米国民はどのような反応を示すだろうか。
米国に「NOと言える日本」になるためには、日本のオールドライトが考える以上のリスクと、米国の抵抗を覚悟しなければいけない。彼等の勇ましい発言ほど、簡単なことではない。安全保障の名を借りた米国の支配を日本人はどう、考えるべきなのか。
国益とか国際関係の認識というのは観念的なものではなく、人々の経験から導き出されるものなのだろう。日本は国際関係において、欧州ほど経験を積んでいない。両者には、プロとアマほどの格差がある。戦後(敗戦)の総括にもそのことが現れている。だからといって、戦争の経験を積むことはできない。
歴史を学ぶことの重要性の1つとして、戦争を擬似体験することが挙げられる。たとえば、「イタリア」のシチリアはマフィア発祥の島として名高いが、この島の支配者がどれだけ交代したかを知ることは無駄ではない。ざっと数えるならば、ギリシア・ローマ・ゲルマン・ビザンチン・イスラム・ノルマン・ナポリ・フランス・スペイン・・・この島には幾重もの異なる文化の痕跡が残されているという。行って見る価値はありそうだ。
強大だったさしものローマ帝国が東西に分裂。西ローマ帝国の成立をみるが、その前後、北方から、いわゆる蛮族の侵入が始まった。この混乱の時代から「イタリア」に統一勢力は存在しなくなり、分裂状態が続くことになる。
西ローマ帝国滅亡以降の「イタリア」の歴史というのは、きわめて複雑だ。本書を一読しただけでは、なにがどうなったのか、体系的に理解することが難しい。そもそも、「イタリア」という統一的な地域(国家)概念が形成されたのが、つい最近のことなのだから。
本書は、分裂した「イタリア」が国民国家として統一を迎えるまでのおよそ1500年の歴史を、各時代のキーパーソンの活動を踏まえて辿った歴史物語である。もちろん物語といっても、フィクションではない。
かの地が複雑な歴史をたどった第一の理由は、ローマ教会総本山の存在だろう。そのローマ教皇ですら、ローマに留まり続けたわけではない。一時期、南フランスのアビニヨンに移動したくらいだ。このことは、欧州列強がローマ教会に影響力発揮した結果だが、その逆も多い。
さて、蛮族の侵入後、かの地の支配者となったのはゲルマン系の東ゴート族だった。その東ゴートが東ローマ帝国に滅ぼされ、同系のランゴバルト族が支配権を確立。ところが、ランゴバルト族の支配もつかの間、フランク族のカール一世がこの地を統一する。カール一世の背後には、それを望むローマ教皇がいた。
その後、ノルマン族、イスラム勢力、マジャール族等が「イタリア」侵入を果たすが、10世紀、この地に侵入したオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝となり、支配者となる・・・と書き続けていたのだは、書評にならない。
中世以降はフィレンツェに代表される都市が群雄割拠し、ルネサンスを迎えたことはよく知られている。その都市国家も衰亡、オスマントルコ、フランス、スペイン、ハブスブルク(墺)といった欧州各国が「イタリア」を、全域的に、そして、部分的に、かつ、直接的に、間接的に、支配することになる。
「イタリア」の歴史は、欧州諸勢力に蹂躙され続けた歴史と言える。本書を手がかりに欧州の戦争の歴史から何を学ぶべきなのか。ローマ教会とは何であったのか。
たとえば、われわれはいまの日本を独立した民主国家だと考えている。が、よく見れば、米国の軍隊が駐留し、日本は米国の圧倒的な軍事的支配下にある。この状態は「イタリア」の都市が、当時強大な軍事力を誇ったフランスの支配下にあった状況と似ている。安全保障上の対等性とは、日米双方の軍隊が双方の国家に駐留することだ考えられるが、日本の軍隊(自衛隊)が米国本土に駐留することになったならば、米国民はどのような反応を示すだろうか。
米国に「NOと言える日本」になるためには、日本のオールドライトが考える以上のリスクと、米国の抵抗を覚悟しなければいけない。彼等の勇ましい発言ほど、簡単なことではない。安全保障の名を借りた米国の支配を日本人はどう、考えるべきなのか。
国益とか国際関係の認識というのは観念的なものではなく、人々の経験から導き出されるものなのだろう。日本は国際関係において、欧州ほど経験を積んでいない。両者には、プロとアマほどの格差がある。戦後(敗戦)の総括にもそのことが現れている。だからといって、戦争の経験を積むことはできない。
歴史を学ぶことの重要性の1つとして、戦争を擬似体験することが挙げられる。たとえば、「イタリア」のシチリアはマフィア発祥の島として名高いが、この島の支配者がどれだけ交代したかを知ることは無駄ではない。ざっと数えるならば、ギリシア・ローマ・ゲルマン・ビザンチン・イスラム・ノルマン・ナポリ・フランス・スペイン・・・この島には幾重もの異なる文化の痕跡が残されているという。行って見る価値はありそうだ。
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