2009年10月12日月曜日

『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□党派に吸収された全共闘活動家

下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。

しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。

新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。

11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。

□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)

1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。

「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。

「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。

つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。

そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。

同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。

同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。

□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。

彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。

また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。

本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。

□著者(小熊英二)の“結論”について

著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。

1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。

一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。

著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。

上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。

そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。

だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。

次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。

2009年10月11日日曜日

猫その2


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2009年10月10日土曜日


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2009年10月7日水曜日

板マネキン



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2009年10月3日土曜日

『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□新左翼・全共闘運動研究の集大成

本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。

本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。

1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
 
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。

1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。

一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。


□東大闘争は特異事例か

著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。

東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。


  1. 院生・助手等といった特異な(観念的傾向が強い)階層が中心となった闘争であったこと
  2. 大学の自治に守られた、抑圧の少ない闘争であったこと=その結果、▽主体の形成、学生活動家の自己否定(論)が意識レベルから思想・運動論レベルに転じたこと、▽機動隊導入による封鎖解除が土壇場までためらわれたこと、▽治外法権と化した構内を舞台に、内ゲバ(新左翼―日本共産党、新左翼党派間)がエスカレート(過激化)したこと
  3. 共産党(民青)が闘争に強く関与したこと。併せて、新左翼と日本共産党(民青)が全面的にかつ暴力的に対峙したこと
  4. 事態収拾に文部省(当時)、自民党の強い介入があったこと(入試中止)
  5. 戦後民主主義、進歩的知識人の思想的立場に問題が波及したこと


(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。

新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。

一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。

「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。

東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。

新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。


□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。

ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。

東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。

日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。

体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。

大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。

東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。

換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。


□東大は「革命ロシア」か

一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。

東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。

本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。

さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。

「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。

1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)

2009年9月23日水曜日

彼岸花


近くのU公園に彼岸花がたくさん咲いているというので、見にいった。花は盛りを過ぎたようで、美しくはなかった。


その後ろには大仏の頭。不思議な顔である。


帰り道、寛永寺によったら本堂が開いていて、公開法要が行われていた。本堂の中を初めて見た。






寛永寺の近くの浄明院に寄る。

2009年9月22日火曜日

読書計画変更

先般、『海と列島文化』全10巻シリーズを読破すると宣言しておきながら、わけあって、『1968』上下巻(小熊英二[著])を読むことになった。

同書も相当なボリュームである。内容は、1960年代後半から1970年初頭にかけて起った、「全共闘運動」の研究である。

同書読了後、『海と列島文化』第2巻からの再読を開始する。

『1968』を今年中に読み終えることができるかどうか・・・

2009年9月21日月曜日

『日本海と北国文化(「海と列島文化」第1巻)』

●網野善彦ほか(著) ●小学館 ●6,627円(税込)


日本は海に囲まれた島国。そのため、外界(外国)との交流が阻まれてきたという話をよく聞くし、日本は稲作中心の農業国だともいわれる。どちらも、日本についての常識的説明だと思われているのだが、根拠を欠いた俗論である。

古代(いまでもそうであるが)、海路は物流の大動脈である。また、農業以外を生業とした日本列島人が、それぞれの神を戴き、地域的権力(武力・統治力)をもち、中央政府と同調、また、拮抗した関係を築いてきた。海に生きる人々は、土地に縛られない、高い流動性をもって暮らしていた。あるネパール人は、「海に囲まれた日本が羨ましい」と筆者に言った。彼らは海(港)をもたないから、重要な物資をインドの港を経由して自国に持ち込む以外ない。そのネパール人は、インドへの依存度が高いことを嘆いたのである。

本書は「海と列島文化・全10巻」の第1回配本(1990)で、日本海と北国を扱っている。かつて日本列島の日本海側は“裏日本”と呼ばれ、冬は寒く豪雪となり夏は短く、「暗い」というイメージが支配的であった。いつの日か“裏日本”という呼称は使用を禁ぜられ、日本海側と呼ばれるようになった。また、日本海沿岸のいくつかの都市で拉致事件が発生したことでもわかるように、そこは大陸、朝鮮半島と一衣帯水である。日本列島の政治の中心地は長らく近畿にあり、17世紀以降、関東(江戸・東京)に移ったものの、ユーラシア大陸との接点という意味において、日本海沿岸の重要性はいまも昔も変わっていない。

さて、日本海を舞台とする海上交通の歴史は、古代以来の出雲(いずも)と越(こし)の二大勢力地域との交流があり、そこに大陸との直接交渉の窓口という特異性がある。本書には、そのことの具体例として、筆者が初めて知ったことが多数記述されている。たとえば、▽山形県最北の飛島という小島が、高麗、渤海、粛慎(みしはせ)、靺鞨からの諸外国使節を迎え入れていたこと、▽海驢(みち/日本アシカ)猟を生業としていた能登(舳倉島)の民、▽北の海の武士団・安藤氏、▽蝦夷地でアイヌを奴隷化した紀州・栖原家、▽蝦夷の民の3類(日ノ本、唐子、渡党)、▽金山で栄えた佐渡の相川の善知烏(うとう)神社祭礼。無秩序の混沌とした様子がうかがえる。相川には、全国から芸能の者が集まったという。いずれも、稲作を生業とした、「日本人」のイメージとも、かつて、日本海が“裏日本”と呼ばれていたイメージとも異なっていて、ダイナミズムとモビリティにあふれている。

2009年9月19日土曜日

LEVON HELM




久しぶりに、CDを購入した。リヴォン・ヘルムの「Dirt Farmer」「Electric Dirt」の2枚である。リヴォン・ヘルムは、筆者がこよなく愛した「THE BAND」の3人のヴォーカルのうちの一人であり、「THE BAND」ではヴォーカルとドラムを担当した。

「THE BAND」については、多くを語る必要はないだろう。ボブ・ディランのバック・バンドを務めたことが世に出るきっかけとなった。飛躍のきっかけとして、ハモンド・オルガンの名手・ガース・ハドソンがメンバーに加入し、音楽性における飛躍を成し遂げたことも挙げられよう。

「MUSIC from BIG PINK 」が大ヒットを記録。さらに、彼らの楽曲である「The Weight」が映画『Easy Rider』中の挿入歌として使用されメガヒットし、以降、ロックバンドとして安定した地位を築いた。その間、いくつかの伝説的コンサートも行った。彼らの解散コンサートの模様が、「THE LAST WALTZ」という記録映画となっていることはよく知られている。

「THE BAND」は有名になったけれど、メンバー同士は不仲だったといわれている。中でも、リード・ギターのロビー・ロバートソンとリヴォンは仲が悪く、「THE LAST WALTZ」がロビー主導で撮影されたことをリヴォンは快く思っていなかったという。ボブ・ディランはロビーのギターを賞賛したけれど、リヴォンは、ロビーのギターを“数学的”と評している。(『Levon Helm and the story of THE BAND』)リヴォンの土臭さと相容れないものがあったのだろう。

解散後、ロビーが抜けた「THE BAND」が来日したとき、筆者はもちろん、聞きにいった。そのとき、なぜかツインドラムの構成で、コンサート終了後、リヴォンはスタッフに肩を担がれステージから退場した姿が痛々しかった。

前出の「THE BAND」の3人のヴォーカルとは、リヴォンのほか、リチャード・マニュエル(ピアノ他)とリック・ダンコ(ベース)であるが、二人とももうこの世にいない。残ったリヴォンも咽頭ガンを患い、歌うことができなくなった、といわれていたのだが、奇跡の復活を成し遂げた。

復活後の最初のCD(2007)が、「Dirt Farmer」で、リヴォンの娘のエミー・ヘルムが、ハーモニーヴォーカルで参加。このアルバムは全曲ガチガチのカントリーで、マンドリン、フィドル、アコースティックギターをバックに、リヴォンが切々と歌い上げている。咽頭ガンの手術の影響であろうか、リヴォンの声はかすれ気味に聞こえるのだが、それがかえって哀愁を増している。

「Electric Dirt」は復活後の第二弾(2009)。こちらは、▽ブルース、▽アイリッシュ・トラッド、▽「THE BAND」時代が思い出されるロック、▽カントリー、と多様である。やはり、娘のエミー・ヘルムがハーモニーヴォーカルで参加している。ホーン(アルトホーン、チューバ、テナーサックス、トロンボーン、ソプラノサックス)を交えた重層的サウンド、力強さを増したリヴォンの声と、前作よりパワーアップしている。最終曲は、60年代の懐かしのプロテストソング「自由になりたい」(I wish I knew how it would feel to be free) 。さて、リヴォンはこの名曲をどんな風に料理したのでしょうか。

さて、過日、某FM局でリヴォンのこの曲がかかったのを偶然聞いたのだが、そのときのDJがこんなエピソードを披露してくれた。親日家の彼は、しばしばコンサートのため来日した。彼は、東京から福岡までの移動に新幹線を使用するよう頑強に主張した。もちろん、長時間の移動は非効率的であるし、体調にも影響をする。しかし、リヴォンは譲らなかった。

新幹線が広島に着き、停車時間が過ぎて発車したが、リヴォンは車内にもどっていなかった。心配したスタッフから連絡を受けた関係者が広島市内を探しまわり、リヴォンを見つけたとき、彼は広島の街中を泣きながら彷徨っていた。「俺たちアメリカ人が、この街(広島)にあんなひどいこと(原爆投下)をしたんだ・・・」

2009年9月11日金曜日

9.11

いまから8年前(2001)、米国ニューヨークのワールド・トレード・センター・ビルに旅客機が突っ込み、多数の死者が出た(「9.11事件」)。犯人はアラブ系イスラム原理主義グループの者だと言われている。米国ブッシュ(当時)大統領は以来、「テロとの戦い」を宣戦布告し、「ブッシュの戦争」を始めた。この事件の発生と並行して米国経済は活況を呈し、グローバリズム、新市場主義が世界を席巻した。

日本においては、小泉が首相に就任し、「構造改革」路線を掲げた。その結果として、日本経済も米国経済の活況に牽引されるようにミニバブルが発生し、米国流の金融の「高度化」の必要性が叫ばれた。しかしながら、昨年秋の米国のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックにより、世界同時金融不況が発生し、いま、米国、欧州、日本等が不況に喘いでいる。

この間、09年に米国では共和党政権から民主党(オバマ大統領)に政権交代し、日本も自民党から民主党への政権交代が成就している。そして、新市場主義、グローバリズム(米国流)が見直され、緩やかな保護主義と社会民主主義、環境保護主義が台頭し、世界的共通認識となりつつある。また同時に、米国・ブッシュ政権下、日本・小泉政権下で発生した格差の拡大と貧困層の増大に関して、見直し・反省・是正の機運が高まっている。

「9.11事件」は幾重にも悲劇が積み重なった事件である。ビル崩落で犠牲になったNY市民はもちろんのこと、その後の「ブッシュの戦争」の犠牲になった、戦闘地域市民、そして兵士たち。

同時に、「9.11事件」に並走した経済の歪みによって、貧困に至った市民たち。福祉切捨てによって、悲惨な生活を強いられた弱者たち。数え上げたらきりのないくらいの犠牲者が累々としている。

こうした累々たる犠牲者の発生の主因を、「9.11事件」にだけ帰せようとは思わない。けれど、結果論から言えば、米国が事件の発生を未然に防いでくれたら、と思うばかりである。米国ほどの軍事大国(軍事的情報収集力という意味において)が、なぜ、事件を未然防止できなかったのか・・・悔やまれてならない。

マイケル・ドイル(プリンストン大学国際関係研究所所長)に、「民主主義国家間の戦争は発生しない」(Michel Doyle, Kant, liberal legacies and foreign policy )という預言がある。軍事力に規定された「バランス・オブ・パワー」の國際関係論を超える預言として、筆者は、その到来を夢想する者である。「9.11事件」が筆者の夢想の到来を、少なくとも、10年遅らせた。

2009年9月4日金曜日

教会

昨日、伯母の葬儀のため、荻窪のA教会に行った。海外旅行ではカトリック教会に入ることが多い。その一方で、日本の教会に、しかも葬儀という宗教儀礼で参列したのは初めての経験だった。

伯母がキリスト教徒であったという記憶はない。入信したのかもしれないが、もしそうならば、自らの死を意識してからだろう。死因はすい臓ガンで、本人がそのことを告知されたのは、死の1月ほど前であったという。

生前、伯母は一人娘(筆者の従姉妹)が住む八丈島に長期間滞在していた。

2009年8月23日日曜日

挑戦

いよいよ大作『列島と海』全10巻の読破に挑む。本書は、網野善彦、谷川健一らの歴史学者・民俗学者が編集人となっていて、日本列島(日本国ではない)と海に関する研究を集大成したもの。第1巻は、「日本海と北国文化」。

「日本」及び「日本人」というものに対して抱く共同的イメージというと、稲作に象徴される農業に一元化される傾向にある。しかし、日本列島には、狩猟、漁業、商業、製造業…から芸能、宗教関係まで、さまざまな生業に従事する人々がいて、独自の法、掟、信仰等をもっていた。1960年代後半から、多様な日本像を再生する研究が、歴史学を中心に盛んになってきた。本書もそのような流れの中からうまれた。

挫折せずに読み終えることができるだろうか。

2009年8月22日土曜日

久々に二日酔い

昨晩、学生時代の旧友と久々に集まり、職場(市ヶ谷)近くで飲んだ。

これまた久しぶりに、ホッピーを調子よく飲んだためだろうか、今朝は頭痛とムカムカで起きられない。

ホッピーに白と黒があることを初めて知った次第。

2009年8月19日水曜日

『新編 明治精神史』

●色川大吉[著] ●中央公論社 ●絶版



明治維新(1868)をもって日本の近代化が開始されたことに異論は少ない。さらに、それが日本の民主化の開始ではないことにも異論はないはずだ。明治維新後、20年余を経過し、(欽定)憲法制定、(帝国)議会開設といった、表面的な議会制民主主義の体裁が整えられていったものの、国民による国民のための政治制度が定着するのは、アジア太平洋戦争の敗戦(1945)の後、すなわち、維新から数えて77年後ということになる。

■豪農層――自由民権運動の隠れた主役

欧米文化の急激な流入が、明治維新の大きな特徴の1つだ。19世紀末、欧州の主要国は市民革命を終えており、さらに、米国は英国の植民地から独立を果たしていた。維新後の日本には、市民革命の理念を説いた思想書が数多く輸入されていたし、翻訳も進められていた。維新後、欧米の進んだ技術の受け入れと同時に、欧米の啓蒙思想、政治思想、議会制度等の民主主義の紹介が進んだ。

その一方、明治10年前後、松方財政による重税とデフレ進行により、日本経済は深刻な不況に陥った。そして、不況の影響を最も強く受けたのが農民層で、彼らは維新後に台頭した金融業者から莫大な負債を負い、困窮に喘いだ。そのような中、封建時代から伝統的に農民層の上に立つ豪農層が、自由民権運動を担う一団として、運動の表層に現れるようになった。彼らは、徳川時代末期に自ら設立した教育機関である「塾」を基盤として、草の根レベルで、欧米の民主主義理念を研究し、欧米の民主主義を日本に定着させようと、働きかけた。彼らは維新革命を成し遂げた「英雄的」な薩長等の出身者とは接点をもっていない。中央においてはまったくの無名の者であり、後年においても、歴史の闇に埋もれてしまった者が多い。本研究は、彼らに光を当て、明治という時代に生きた、若き民権運動家の精神を蘇らせようとする試みである。

■民衆蜂起と自由民権運動

不況下、二つの勢力による、新政府打倒の機運が盛り上がった。その1つは、不平士族・豪農を主体とした「自由民権運動」であり、もう1つは困窮農民による武装蜂起だ。前者は、「西南の役」「佐賀の乱」に代表される士族集団による武装蜂起が挫折した後、国会期成同盟を契機として、政党を中心に政治闘争化した。後者は各所で起こった「困民党」の武装反乱に代表されるような、自然発生的民衆抵抗運動だ。自由民権運動と農民の武装抵抗反乱は、無関係ではないが、同一のものでもない。自由党解党により自由党員と困民党指導者が結合し、組織された暴力として武装蜂起に至ったケースもあるが、そうでないものもあった。留意すべきは、本研究が自由民権運動そのものの研究でもなければ、困民党等農民武装蜂起に関する研究でもないということだ。本研究は士族と農民の二つの勢力と微妙な関係を保った、豪農層の研究である。この点を踏まえないで本書を読むと、著しい不満を覚えることになる。

■明治初期の東京近郊多摩地域

本書は、東京郊外の多摩地区を拠点にした、2人の明治の青年の行動の軌跡を追った章から始まる。2人の青年とは、北村透谷と石坂公歴(まさつぐ)だ。2人は同時期、同地域(東京近郊多摩地区)において、わが国における自由と民権の実現の志を抱きながら、やがて袂を分かち、まったく別の道を進むこととなった。北村透谷は、彼が入党していた自由党が党の方針として武装蜂起を選択したときに離脱、以来、民権の志を内面化、精神化し、文学創造の世界に入っていった。彼は、明治維新後の民権と国権の問題を知識人の問題としてとらえ、知識人としてそれを思想化しようと試みた。しかし、享年27才の若さで自殺。彼が試みた思想の内面化のテーマは宙に投げ出されたまま、しかも、その問題意識を受け継ぐ者が不在のまま、前に進む事がなかった。

一方の公歴は目標とした自由と民権の実現のための活動から召還した後、官憲から逃れるため、米国カリフォルニアに亡命、明治政府を外から批判した後、米国開拓を志し、サクラメント地方に入植するも失敗、その後、米国を放浪した挙句、太平洋戦争の最中(1944)、カリフォルニア州のマンザアナの日本人収容所にて客死を遂げた。透谷は文学者として歴史に名を残したが、一方の公歴についてはまったく、知られることなく、歴史の闇に埋もれてしまった。本研究の意義の1つは、名も知れぬ活動家の半生を素描することによって、日本の民主主義運動の始原の活力を現代に蘇生することにある。

著者(色川大吉)の研究方法の特徴を大雑把に言えば、徹底したフィールドワークに基づいた点だろう。複数の研究者集団が手分けして広大な多摩地区の豪農を一軒一軒あたり、古い資料を採集し、収集した新資料と既存資料とを照合しつつ、それまで知られていなかった明治期の活動家を世に送り出すとともに、活動家を類型化し、その類型の中に日本近代の課題と希望(展望)を探る形をとっている。フィールドワークの間接的成果として、八王子市の古民家から、千葉卓三郎、深沢権八らによって起草された、「平民憲法」の発見も挙げられよう。

本書(新編)が刊行されたのは1973年だが、著者(色川大吉)が旧編(『明治精神史』)を世に出すためにフィールドワークを開始したのは1960年代初めに遡る。そのころといえば、安保闘争直後の前衛的政治運動の退潮期に当たる。安保闘争に取り組んだ日本の知識人の多くが、その敗北によって、思想的虚脱状態に陥った。著者がこの研究に没入した根底には、虚脱し停滞する日本思想の再生、とりわけ、日本の民主主義再生のため、維新期という近代の始原に回帰することにおいて、新たな光明を見出したいという願望と意気込みがあったはずだ。本書を読む者は、本研究の隅々から、明治時代の民権思想の歴史研究に従事する研究者(色川大吉)の熱意と矜持を感じるはずだ。日本の民主主義思想の萌芽を模索する、研究者(色川大吉)のエネルギーを受けとめるだけでも、本書を読む価値がある。

■豪農層研究における総合性の欠如

本書第3部「方法と総括」において、著者(色川大吉)自らが本研究への批判をまとめている。その中で注目すべきは、本研究の対象地域を多摩に限定した根拠が必ずしも明確でないという批判である。豪農層が日本各所において、自由民権運動を領導したのかどうかも、本研究からは明らかでない。だから、多摩とその他の地域とのネットワークの存在の有無も明らかではない。徳川時代の政治・経済の中心であった江戸の近郊である多摩という地域特殊性が、豪農の民権運動参入を育んだのかどうか、いわば、地域特殊性が北村透谷、大矢蒼海、石坂公歴、大矢正夫、村野常右衛門、秋山国三郎らを輩出したのかどうか。もし、そうならば、多摩の風土とはいかなるものなのかが、本書からはうかがい知れない。風土性を明らかにしていないという意味において、本研究には総合性が欠如している。

■豪農層の思想的限界

前出のとおり、本研究が発表された後に寄せられた不満・批判が、本書におさめられていて、著者(色川大吉)が寄せられた批判に答える形をとっている。それを読む限りにおいては、豪農層の思想的限界が本書に対する不満と重なり、本研究批判を加速した感がある。こうした不満と批判は、主に「マルクス主義」陣営側から、プロレタリア革命を志向する観点で発せられたように思う。左翼側からの、自由民権運動(もちろん本研究が発見した豪農層のものを含めて)の限界に対する批判は根強い。当時自然発生的に勃発した農民蜂起と、民権運動が結合するに至らなかったのは両者の限界であるが、どちらかというと、民権運動の限界性として認識されている。しかも、自由民権運動家の多くが、明治20年代において、超国家主義に吸収されてしまったことをたいへん口惜しく思うのである。もちろん、豪農層、士族に限らず、自由民権運動が歴史的に規定された運動であることは仕方がないことであって、後年の我々がいくらその限界性を批判しても始まらないのではあるが。

本研究に対する不満不平ではないが、筆者は明治維新(革命)を否定的にとらえる立場に立つため、豪農層の国家観・民衆観に失望を感じている。明治維新及び維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が捏造した維新史観、人物史観が大衆的に浸透していて、日本の近代化を客観的に評価する試行が国民レベルで妨げられている。筆者は、維新革命、維新政府(指導者)、維新期の自由民権運動家(抵抗勢力)を含めて、明治人の精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信している者である。であるから、司馬遼太郎のように、維新革命を絶対的に肯定する立場(=「栄光の明治政府」という見方)に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、「栄光の明治政府」を相対化する意味において、本研究は最も重要な研究論文の1つであると確信する。本研究は維新政府に抵抗したといわれる、自由民権運動家のうちの豪農層の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしようとする試みだと換言できる。

■豪農層民権家の横顔

しかし、シニカルに言えば、本研究のように自由民権運動(家)をいくら因数分解してみても、日本の民主主義、人民の権利獲得の道筋は見えてこないのではないか。自由民権運動とは、維新政府の権力が脆弱な明治10年前後に発生した、支配層内部における権力内闘争にすぎなかったのではないか。士族、豪農層とは、筆者からみれば、支配層内反対派である。だから、人民(people)による革命運動(ブルジョア市民革命)ではないし、もちろん、労農(プロレタリアート)による階級闘争でもない。維新革命を市民革命と規定するか否かに問題を還元することも、不毛である。

自由民権運動の担い手たちは、西欧を範としたモダニズムに基づき、議会制度や国会開設を望み、維新政府に異議申し立てを行った。ところが、明治20年前後を境として体制を整えた維新政府の強権化と、対外的緊張により高まった愛国主義により、彼らの民権運動は天皇制国家と臣民を待望する、超国家主義思想に収斂していった。

ところで、本書を読めば、このことは彼らの転向でも変節でもないことがよくわかる。けっきょくのところ、自由民権運動の担い手である士族・豪農層には、民衆の生活の困窮が視界にとどまることはついぞなかったのである。なぜならば、維新直後の日本社会とは伝統的階級社会のままであり、維新政府が身分制度を撤廃したところで、一夜にして平等社会が出現するわけもなかったからだ。士族や豪農層といった、社会の上層の青年に限り、学問の機会が与えられ、西欧の社会思想や政治制度が受け入れられ、反政府運動に参加する道が開けたのである。本書から、自由民権運動家である、豪農層のプロフィールを概観してみよう。

豪農層とは、根本的には漢籍の素養を下地して、西欧の近代思想を受け入れた者たちである。彼らが身につけた漢籍における理想的知識人像とは、草深い郊外に蟄居し、自然とともに時を過ごす隠者である。隠者とは、清貧を旨とするから、彼らの価値観からすれば、維新期に勃興した経済的自由人――新技術を駆使した製造業起業家、あるいは、近代的商業、金融業(参入)者(もちろん維新政府と特別な関係を有した「政商」を含めてだが)――を認めることはできなかった。認めないどころか、そのような者を軽蔑すらした。

しかも、彼らの配下にある農民は困窮に喘いでいる。農民層はとりわけ、金融業者から莫大な負債を負っていた。この惨状は資本の本源的蓄積によるものであるのだが、豪農層は国士(憂国の徒)として、農民困窮の事態を招き寄せた松方財政政策=維新政府及び新興ブルジョアジー(金融業者)に対して攻撃を開始した。とはいえ、軍事力は維新政府にあり、武装蜂起もできない。となれば、彼らに残された道は、反政府に賛同する者を集め、西欧の新思想を受容しそれを掲げて政道を説き、難解な言語で維新政府を攻撃する演説家=自由民権運動家となることだけだった。

自由民権運動というが、彼らは本来、民主主義者・人民主義者であるわけではない。彼らは、幕末から維新期に強まった過激な勤皇思想を十二分に受容していた。だから後年、彼らは、民権運動から召還して愛国的、排外主義的侵略主義者(帝国主義者)となった。豪農出身者、士族出身者を問わず、自由民権運動家は、維新政府の強権化、維新政府の富国強兵の進展とともに、必然的に天皇制超国家主義者として、自らを純化することが可能だった。維新政府の殖産興業が次第に現実のものとなり、日本中に工場が設立されるようになったとき、小作農民は土地を追われ、都市プロレタリアートに移行し、工場労働者として従事した。そのころ、明治政府は教育勅語、軍人勅語等を整備し、日清戦争に勝利していて、次なる国家的目標として、条約改正と新たな帝国主義戦争(侵略戦争)の開始を準備していた。自由民権運動はもちろん終焉していて、国士的運動家は、愛国的国家主義者へと変身していった。

以上が、明治の自由民権運動家の大方の精神の推移であり、それが大正・昭和を経て軍部主導の天皇制超全体主義国家の完成につながっていく。自由民権運動がこうした後年の不幸な歴史の抵抗体とならなかったことが、残念でならない。

2009年8月12日水曜日

最近の読書

『1Q84』(村上春樹〔著〕)を読んだ後、『道の手帖・谷川雁 詩人思想家、復活』を読み、読後、触発されまま、谷川雁のいくつかの評論等を読み直したりしていた。

そしていま、『新編 明治精神史』(色川大吉〔著〕)を読んでいる。同書はその本文はともかく、資料・引用が擬古文であるため、最初は辛かった。しかし、読み進んでいくうちに段々と慣れてきて、いまでは円滑に読み進むことができるようになってきた。

本書に引用された明治期知識人の擬古文、いわゆる、“書き下し文”というものは、文体として思想理解の空疎さを促進するような機能をもっているように思う。明治初期の知識人が漢籍の教養をもっていたことはよく知られている。筆者の感想では、西欧の論文が“書き下し文”で翻訳されたとき、あるいは、明治初期の知識人が西欧の思想についてコメントするとき、この文体が、誤訳・誤理解というよりも、原文のとても重要な何かを大きく損なうものとして、あるいは、肝心なものを置き忘れさせてしまうようなものとして、機能するように思えてならない。少なくとも、原文に対して、正しく即さない作用を及ぼすような気がしてならない。

日本語における漢字と“かな”の問題を直感で簡単に論じることはできないものの、少なくとも、明治初期の知識人は、西欧の諸思想をいまとは異なる精神性で受け止めてしまったことだけは確かだと思う。浅学の筆者には、その受け止め方の度合いにおいて、書き下し文・文体がどこまで影響したかは析出できないものの・・・

明治維新、維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が誤った歴史観、情報を大衆的に与えてしまっていて、日本近代史の相対的評価が妨げられてしまっている情況にある。同書は維新政府に抵抗したといわれる自由民権運動家の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしている。筆者は維新革命、維新政府(要人)、維新期の知識人(抵抗勢力)を含めて、彼らの精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信しており、司馬遼太郎の絶対肯定的=栄光の明治政府観に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、栄光の明治維新観を相対化する意味において、本書は最も重要な研究論文の1つであると確信している。

そればかりか、同書は、政権交代が囁かれる現代の政党のルーツに触れることも可能である。少なくとも、麻生太郎、鳩山邦夫のそれぞれの祖父・吉田茂と鳩山一郎は、自由民権運動の流れを受けて後年、政治の舞台に登場した者であり、いわば、当事者に近いのである。明治は遠くなりにけり――ではないのである。いずれについても、読後、詳しく書きたい。

2009年7月30日木曜日

男だって虹みたいに裂けたいのさ




というのは、谷川雁の詩の一節である。

日曜日、虹が2つ見えた。

2009年7月26日日曜日

絶不調に

土・日はいつも、午前中にスポーツクラブに行って汗を流すことにしている。

土曜は、胸、背中、脚、日曜が肩、腕、腹といった感じ。

昨日(土)は、ベンチ、背中、脚とも力が入らない。ガス欠のような感じで、重さが伸びない。

今日(日)は休むつもりだったが、軽めで、ストレッチの感覚で筋トレをやり、クールダウンで水中歩行と、脚のストレッチをやってきた。

ところが、家に帰る途中、歩き始めてから数分後、右脚に鈍痛。先週の火曜日、雨の日、トルコ料理、ビール、ワインを飲んで帰宅途中に出た痛みと同じものだ。

脚の付け根あたりの筋肉が壊れた感じだ。普段はなんでもなく、ちょっと歩くと痛みが出る。

安静しかないかな。

2009年7月23日木曜日

『帝国以後―アメリカ・システムの崩壊』

●エマニュエル・トッド (著)       ●藤原書店   ●2500円(+税)


アメリカこそが、世界にとって問題となりつつある

「アメリカ合衆国は、世界にとって問題となりつつある。」(P19)本書はこう書き出されている。刊行は2002年9月、米国がイラク侵攻(2003年3月)を行う前の年に当たる。その前年に「9.11事件」があり、米国はアフガニスタン侵攻(2001年10月)を開始していて、イラク戦争準備中であった。

“テロとの闘い”に向けて高揚した米国のようすが世界中に報道されるなか、フランス人の著者(E・トッド)は、アメリカ・システムの崩壊を明言した。実際のところ、以降の米国は、2008年秋のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックに始まる経済危機に見舞われ、今日、その経済・社会は混迷を極めている。本書は、そういう意味で、「米国の没落=帝国以後」を予言した感がある。

2009年、ブッシュが退任し、オバマが国民の期待を集めて新しい大統領になったものの、いまのところ、オバマ大統領の内政・外交政策はあまり明確でなく、米国が真に「Change」したかどうかはよくわからない。本書に従い、1990年代から2001年の「9.11事件」に至る本書の分析を現段階で読み込むことは、過去の名著を読むことではない。本書は、米国=帝国の崩壊が明確になったいまだからこそ、改めて意義をもつ。

「9.11事件」発生後の世界については、冷戦時代と変わらず、米国の存在を抜きにして語ることはできない。米国は、その友好国に対して、共産主義国家群の脅威に代わって、テロリズム(概ねイスラム圏と規定)や、イラン、北朝鮮の脅威に備えて、協力して対峙しなければならないと主張し続けている。友好国である日本、西欧、オセアニア等の先進国は、そのことにほぼ同調してきた。

米国を考慮しない世界平和構築の道筋が描けないものの、だからといって、米国が世界にいくつか現存する脅威に対し、総括的(帝国として)に拮抗しながら、世界秩序を維持する者であり続ける(米国=帝国による世界統治)という見解も成り立たない、というのが、著者(E・トッド)の見方である。

自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である

さて、著者(E・トッド)の世界観は、フランシス・フクヤマとマイケル・ドイルの立論に依拠している。フクヤマは、「歴史は意味=方向を持ち、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である」と、また、ドイルは、「自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である」という法則を導いた。トッドは両者の法則に賛同しつつ、その動因として、「識字化と出産率の低下という2つの全世界的現象が、民主主義の全世界への浸透を可能にする。」(P62)という法則を導き出した。ただし、世界には識字化と出産率の低下が認められない地域が残っていて、しかも、高い識字率が社会に定着するまでの過渡期において、その社会は軋みのように、暴力、内乱等の発生を伴うとも言っている。この考え方は、ポーランドの人口動態学者グナル・ハインゾーンが唱えた、「ユース・バルジ」の概念に近い。だが、著者(E・トッド)の世界観からすると、世界は今後、いくつかの地域においてなんらかの軋み、痛みを伴いつつも、民主主義の浸透と定着に伴い、戦争の発生の少ない、安定化に向かうことになる。

ところが、米国、とりわけ、ブッシュ前大統領の時代においては、イラクに侵攻し、パレスチナにおけるイスラエル軍の暴力を容認し、イラン、北朝鮮に軍事介入をほのめかし、さらには、イスラム圏のウズベキスタンに米軍を駐留させ、アフガニスタン、パキスタンに対して警戒心を募らせた。さらに、タリバーン、アルカイーダといったグローバルなテロリズム勢力との間断のない闘いを掲げ、軍事的警戒を緩めないでいる。米国は、唯一の世界帝国として、今日、世界を脅かす「暴力」「テロリズム」と対峙する責任を全うするといい、その温床となる(と米国が規定する)イスラム国家に軍事的侵攻を準備し続けるのである。

帝国の崩壊――経済的依存、軍事的不十分性、普遍主義の後退

著者(E・トッド)は、帝国(米国)のシステム崩壊について、「経済的に依存し、軍事的には不十分、そして、普遍主義的感情の後退」(P176)という、3つの観点を挙げる。

(1)米国が抱える巨額の貿易赤字

米国経済が自ら生産することなく工業製品は輸入に依存し、貿易赤字に窮しつつ、2008年秋までは、順調のようにみえた。米国は消費国として、世界の工業国から製品を輸入し続けていた。米国経済の順調の要因について、著者(E・トッド)は、世界中の金融資本の流入の増大によって支えられてきたという。世界のマネーが、米国に流入する理由は、米国が安全な投資先であるという思い込みと、金持ちのための国家(米国)という仕組みによる。米国がつくりだした金融のルール、会計基準をもち、世界最大の軍事装置という切り札をもっているためでもある。

(2)演劇的軍事行動

米国が核保有を含み、世界で最強の軍備を誇るということは通説に近い。しかし、米国社会は、他国を守るための帝国の戦争遂行の結果として、若い米国民兵士の犠牲者を出し続けることを容認しない。著者(E・トッド)は、ベトナム戦争後の米国の軍事行動を、「演劇的」軍事行動と呼んでいる。第一次イラク戦争、アフガン侵攻、イラク侵攻もそうであった。「演劇的」軍事行動とは、米国が負ける(もしくは米軍兵士に多大の犠牲を出す)可能性のある勢力を相手に選ばないということである。現在のところ、米国が勝てる相手がイスラム圏である理由は、イスラム圏諸国の軍事力が極めて脆弱なためである。ブッシュ政権の時代、米国が敵視したのは、イラク、イラン、キューバ、北朝鮮等であるが、キューバ、北朝鮮は小国であり、イラクの軍事力は米国の軍事力と比較すれば非対称的である。核武装を終えたイランは、(今年の大統領戦後、都市の若者を中心に混乱がみられたものの)、基本的には安定化に向かっている。著者(E・トッド)にいわせれば、世界の脅威とはなりえない国々ばかりなのである。

(3)普遍主義の後退

「悪の帝国」とか「悪の枢軸」とか、その他諸々のこの地上の悪の化身についてのアメリカのレトリックは、あまりの馬鹿馬鹿しさで――時とその人の気質によって――笑わせもするだろうし怒鳴らせもする。しかしこれは冗談で済ますべきものではなく、真剣にその意味を解読しなければならない。それはアメリカの悪への脅迫観念を客観的に表現しているのだ。その悪は国外に対して告発されるが、現実にはアメリカ合衆国の内部から生まれているのだ。(P170)


では米国社会内部に生まれている悪とは何かということになる。それを一言で言えば、普遍主義の後退ということになる。≪帝国というものの本質的な強さの源泉の1つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。(P146)


普遍主義の対極には、差異主義がある。差異主義がアングロ・サクソンの統治の仕方の特徴だという見方もあるし、著者(E・トッド)もそれを認めている。大英帝国ではそうであったと。しかし、著者(E・トッド)は、「アメリカのケースは、普遍主義と差異主義という対立競合する2つの原理に対するアングロ・サクソンの二面性を極端かつ病的な形で表現している」(P149)と断言する。

米国の歴史には常に他者が存在した。そして、それらを壊滅させるか隔離する。最初はインディアン(アメリカ先住民)、そして黒人である。インディアンと黒人を排斥することで、アイルランド人、ドイツ人、ユダヤ人、イタリア人移民が(アングロ・サクソンの)同等者に取り込まれた。そして、日系人(アジア)、ヒスパニック、アラブ人・・・が、順送りに排斥・統合されてきている。この差異主義が、黒人大統領・オバマによって断ち切られるかどうかは今後の動向を見なければ、なんともいえない。少なくともブッシュ政権までは、世界のイスラム諸国に向けられた敵意は、米国社会内部のアラブ人に向けられているものに同調している。第二次世界大戦中、日系人が強制収容所に隔離されたことと変わらない。

ユーラシアとアメリカ

著者(E・トッド)は、ユーラシア(旧大陸)とアメリカ(新大陸)が対立軸に至るとはいわないまでも、歴史の長短を指標に、相容れないものと感知しているかのように思う節がある。とりわけ、ロシアとヨーロッパの接近を予言し、現に本書刊行後、急速に両者は接近した。

一方、先のG8では日本とロシアの接近は阻まれ、「領土問題で進展なし」が大々的に報じられた。ロシアはいまだ、日本の敵なのである。だが、ヨーロッパに近づいたロシアを警戒する米国が、G8を舞台に両者を明確に切断した結果だといえなくもない。日本はいまだに、崩壊する帝国のよき僕である。

イスラム圏が識字化と出産率の低下という動因をもって安定化するのならば、自由主義的民主主義国家が世界を覆うことだろう。米国の軍事的役割は今以上に低下し、戦争のない世界が実現するのだ。そのときこそ、F・フクヤマの「歴史の終わり」がやってくることになる。

2009年7月22日水曜日

『1Q84(1・2)』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●各1800円(+税)




『1Q84』(村上春樹[著])を遅まきながら、読み終えた。報道によると、本書刊行時においては、書店で品切れ状態が続いたという。筆者も村上春樹のファンで、数少ない同世代作家として、デビュー以来、愛読してきた。エッセイ、翻訳等を除いて、小説についてはすべて読んできたはずである。

しかし、ある時期のある作品をターニングポイントにして、あまり熱心な読者ではなくなってしまった。それが『海辺のカフカ』であったかもしれないし、それ以前のものだったかもしれない。

熱が冷めた理由がこちら側にあるのか、作家の側にあるのか、あるいはその両方にあるのか定かではないのだが、ここのところの村上作品に関しては、読み始めた途端に、“ああ、またか”という落胆のような感想を抱かずにはおれない。

ご承知のとおり、最近の村上作品は、現実社会の規範、法、道徳等を逸脱していることが前提となっている。荒唐無稽なファンタジーであり、関係性といったものが都合よく剥離されている。またその一方で、物質(商品)、歴史、感情、欲望といったものはリアリティーを失っておらず、両者のバランスが実に巧みであり、読者はリアリティーとファンタジーが混淆した“村上ワールド”を無理なく受け入れることができる。そのことを「仮想現実」(バーチャル・リアリティー)と表現してもかまわないのかもしれないが、小説という媒体の特徴として、TVゲームよりは現実の度合いが強まっているのではないかと思われるが、そのことはたいした問題ではない。

■1Q84=1984はいかなる記号か――

『1Q84』という本題がジョージ・オーウエルの『1984』に符合することは明らかである。同書は1949年に書かれたもので、1984年という近未来がスターリン主義もしくは全体主義に支配された様子を描いた。本書は、2009年から1984年という過去を描いたわけで、「Q」は同書のパロディの気分を持ち合わせている。つまり、オーウエルの予言は外れたと。

本書は前作に引き続き、知的エンターテインメント小説である。教養主義的レトリックが組み込まれていて、本書を読み終えた者には、さまざまな解釈が可能となる。筆者が知る限りでは、本書発刊後において、下記の解釈がなされていると聞いている。

▽魯迅の『阿Q正伝』の「Q」と、本題の1「Q」84の「Q」の符合が意味するものは何かという議論
▽この小説中で『空気さなぎ』をことあげした、ふかえりという少女を共同体の権力の一方の極である宗教的権威、すなわち、『魏志倭人伝』中の卑弥呼(巫女)に代表される女権に喩え、国家の起源を暗示するとの解釈
▽本書内に出てくるカルト教団の“リーダー”と主人公の一人・青豆とのやりとりの中に、前出の“リーダー”が『金枝篇』を引用しながら自らの死を望む展開は、文字通り、王権論そのものであるとの解釈
▽本書内の小説『空気さなぎ』のさなぎ=繭(まゆ)は、折口信夫が唱えた“真床追衾”をイメージすることから、天皇の生と死に関わりなく、天皇霊を絶え間なく継承する、日本の天皇制の起源を暗示するとの解釈

ほかにもあるようだが、それらを拾い上げてみても、本書の書評になりえないと思うので、例示にとどめたい。

さらに、読者が共有する歴史的記憶を喚起する本書の記述は、読者に対して、強烈なインパクトを与える道具として機能する。前出のカルト教団は、小説では、新左翼残党→「タカシマ塾」→「さきがけ」→「武闘派」と「コミューン派」へ分裂、武闘派→「あけぼの」→武装蜂起で壊滅、「さきがけ」は教団を設立――という変異を辿るのだが、この変遷は、新左翼(毛沢東主義派=連合赤軍)運動、山岸会、オウム真理教という反体制運動を連想させる。実際に存在した反体制集団を連想させるものを小説に登場させることは、読者の心中に理屈抜きの“おぞましさ”を喚起する効果がある。同様に、青豆の親が入信していた「証人会」は「エホバの証人」という宗教団体を連想させる。このように、現実と虚構が、作家のセンスによって微妙に調合されたのが、本書の全体的特長といえる。

“1984”とは、オウム真理教から喚起された年号(記号)だと解釈できる。前出の「さきがけ」は、著者(村上春樹)が、オウム真理教を意識したものである。オウム真理教は1984年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)が後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めたときである。著者(村上春樹)は、オウム真理教が1995年に起こした無差別殺人テロ「地下鉄サリン事件」の被害者等を取材し、『アンダーグラウンド』をまとめている。      

■欲望を肯定した結果、もたらされたもの

面白い小説だと思う、だが、危険な兆候も示している。この小説では、全開された欲望が物語の基底をなし、それが議論も懐疑もなく許容されているからである。

本書の面白さは、奔放なイメージにある。登場人物は、それぞれの欲望に規定され、道徳、善悪、倫理、法を超えてしまう。主人公の一人・青豆という女性は必殺仕置人である。彼女は、DV(ドメスティック・バイオレンス)に傷つけられた女性の復讐のため、男たちを殺害することが裏の仕事になっている。

もう一人の主人公、小説家志望の天吾という青年は、ふかえりというカルト教団のリーダーの娘がつくった話をリライトする内なる欲望に耐えられず、小松という編集者の企てに乗ってしまう。編集者小松も、世の中を騒がしたいという欲望のまま、天吾に不法行為をそそのかす。他の登場人物も概ね同様である。本書に登場する人物すべてが、道徳、善悪、倫理、法を超える。

そもそも、それらは欲望がもたらすリスクを制御するためのものだ。この小説は、共同体と個人が交わす法(手続き、規制)、セルフ・コントロール(道徳、倫理)を無視することをもって前に進む。この小説の主な登場人物は、一般的な性道徳を逸脱していて、そのことは欲望が全開されたことの象徴的表現だともいえる。

それだけではない。主人公の一人・青豆の幼馴染の親友(大塚環)、同じくシングル・バーで知り合った(あゆみ)、もう一人の主人公である天吾のセックス・フレンドの人妻(安田恭子)、カルト教団から逃亡した少女(つばさ)、そして最後には、主人公(青豆)までが死んでしまう。なぜ、女性の登場人物ばかりが「生きられない」のか。この作家の女性観が投影されているのかもしれない。

この小説では、法を超えた欲望が登場人物の置かれた環境に大きな揺らぎを与える。規制、社会的制裁、圧力等の関係がもたらす諸問題を簡単に捨象することが可能であるから、登場人物は自由である。たとえば、殺人はいとも簡単な行為となっている。19世紀のロシアの小説では、社会にとってまったく意味のないと青年が確信する高利貸しの老婆の殺害と、それによってもたらされた殺人者の青年の罪の意識が、長編小説を構成した(『罪と罰』)。ところが、一方の21世紀の“ムラカミ・ワールド”では、殺人の罪と罰が問われることはなく、女性主人公の属性の1つにしかすぎなくなってしまっている。簡単に人を殺せるスキル(技術)が、主人公の重要な属性になっている。そのことは、特別なパワーを付与されたテレビゲームのキャラクターと同じようなものであり、エンターテインメントとして、読む人に癒しや快楽を与える。

■パラレルワールドは後半、メルトダウン

この小説の特徴の1つは、「パラレルワールド」にある。2人の主人公、青豆と天吾の物語が交互に繰り返される。そして、2つの物語が重なり合い、やがて、青豆と天吾の純愛というテーマが浮上する。

青豆は、少女をレイプし続けるといわれている宗教団体の教祖(=リーダー)を殺害するというミッションを受け、リーダーと対峙する。リーダーは、自分が殺されることの交換条件として、青豆の命を差し出せ、そうでなければ、天吾を殺す、と青豆に迫る。青豆は、天吾を救うためリーダーの提案を受け、リーダーを殺害した後に自殺する。前出のとおり、純愛は貫徹される。

一方、それとはまったく別に、物語の後半では、天吾の出生の秘密と父権というテーマが唐突として出現する。それは、この小説のパラレルに展開された大部分の物語のどちらにも重ならない。青豆と天吾の双方の未来に関しては、リトル・ピープルという説明のない存在が関与している(らしい)と考えるしかないのだが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。というのは、リトル・ピープルに係る説明が一切なされないからである。

収拾のつかないままの“イメージ”が、作家によって小説の中に投げ込まれる。そして、まったく無媒介的に、説明のないまま、物語は終わる。天吾の父の死の床に、さなぎ(繭)に包まれ、10代の青豆が再生するという場面をもって。

こういう終わり方は、無責任な感じがする。作家が物語に関与するキャラクターを創造したならば、それらが果たす機能や役割を読者に明らかにするのが普通だと思う。この小説の場合、リトル・ピープルという説明のつかないキャラクターが、異物のように残される。それが作家の意図なのか、収拾のつかなかった結果なのかはわからない。説明できないもの、超越的なものなのだ、という考え方もあるかもしれない。運命や宿命はリトル・ピープルが操っているのだから、俗人の行く末はそれに任せろといっていることに近い。それだけで片付けるとすれば、けっきょくはシニシズムではないか。この小説(の登場人物)は、現実社会の倫理、規範、経験という、法を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうだけで終わっている。読者は、小説が提示する差異を楽しみ、かつ、癒されるのだが、実際は、差異をその内部で相対化しうる、実態の同一性に支配されているにすぎないのである。読者がそうであるということは、作家もそのような内部のなかで、小説を書きあげていることになる。

2009年7月16日木曜日

暑いな

梅雨が終わり、夏が来た。しかも、いきなりの盛夏の到来である。

そんなわけで、体調が悪い。まず、原因不明で、右足のふくらはぎあたりが、夕方になると痛み出す。もしかすると、レッグプレスのやりすぎか。

次に、夕飯後すぐに睡魔に襲われる。目が覚めると、午前1時前後だったりする。そこからもう一度、寝なおしになる。

2009年7月12日日曜日

選挙

きょうは都議会選挙。清き一票を投じてきた。

まず、筆者は都知事が嫌いである。生理的に好きになれない。議会が知事に対する勢力として、知事の打ち出す政策等に抵抗してほしい。とりわけ、新銀行の愚策を粉砕してほしい。

もちろん、この選挙は、総選挙に連動している。麻生政権はうんざりなのだから、政権交代のプロローグとして、自民党・公明党には勝ってほしくない。

2009年7月10日金曜日

アーサー王とイラン系アーリア人

昨晩は、衛星放送で映画『キング・アーサー』を見た。この映画が封切られたとき、ぜひ見なければと思っていたのだが、忙しさにかまけ、気がついたときには上演している映画館がなかった。もちろん、レンタルビデオという手もあるのだが、放置したまま記憶から薄れ、今日に至ってしまった次第である。朝刊のテレビ欄で『キング・アーサー』の放映を知ったとき、落し物が出てきたようなうれしさを覚えた。

さて、この映画の粗筋やら、スタッフ、キャスト等については映画専門サイトもあることなので、ここでは触れない。筆者が“おもしろいな”と思ったのは、この映画では、アーサーがサルマタイ人で、ローマ帝国の傭兵としてブリテン島に送り込まれた重装騎兵軍(騎士団)の長という設定であったことである。

以下、『アーリア人』(青木健[著]、講談社選書メチエ)に従い、サルマタイ人について解説をしておこう。

サルマタイ人というのは、前1世紀から後1世紀にかけて、ウクライナ平原に現れたイラン系アーリア人であって、同じイラン系アーリア人のスキタイ人とは異なる。サルマタイ人は、西アジアに進出を図ろうとしたスキタイ人とは異なり、東欧へ進出しようとして、ハンガリー平原でローマ帝国と交戦し、状況によってはローマ帝国の傭兵となった。傭兵の中には、ローマ皇帝・マルクス・アウレリウスによって、ブリテン島の北方守備に送り込まれた重装騎馬兵軍もあり、現在、イギリスではサルマタイ人の遺跡が出土しているという。

イラン系アーリア人とアーサー王を結びつけた研究として、『アーサー王伝説の起源』(C・スコット・リトルトン+リンダ・A・マルカー[著])が思い出される。

「アーサー王=サルマタイ人」説というのは、フランス人の中世学者ジョエル・グリスヴァルドが唱えたもので、現代のオセット人(コーカサス人)が保持する英雄バトラスの叙事詩と、15世紀にトマス・マロリー卿によってつくられた『アーサー王の死』とが類似することから導き出されたものである。そればかりではない。アーサー王の物語で重要な地位を占める騎士ランスロットの語彙は、“ロットのアラン人”ではないかという仮説が、マルカーによって提起され、「ランス・ア・ロット」を語彙とするケルト起源説に一石を投じた。アラン人もイラン系アーリア人の一派で、4世紀後半、フン族の襲来によって西方へ飛散し、ローマ帝国内に逃げ込んだことはよく、知られている。

こうして、リトルトンとマルカーは、グリスヴァルドの説を発展的に引き継ぎ、アーサー王の物語の起源は、イラン系アーリア人の文化にまで遡れるという趣旨の、『アーサー王伝説の起源』を書き上げた。

なお、同書の原語タイトル、From Scythia To Camelotは、誤解を生じやすい。到達点である「キャメロット(Camelot)」は、アーサー王の王国、ログレスの都のことで、アーサー王はこの地にキャメロット城を築き、多くの戦いに出陣したところであるから問題はない。ところが、出発点である「スキタイ(Scythia)」が誤解のもとである。サルマタイ人、スキタイ人、アラン人はイラン系アーリア人という次元では同類であるものの、活躍した時代にはずれがある。また、“スキタイ”という地名にも普遍性がなく、スキタイ人、サルマタイ人が生活圏とした地域は、ウクライナ平原の黒海沿岸地方であって、この表現のほうが正しい。

2009年7月9日木曜日

『自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来』

● グナル・ハインゾーン〔著〕 ● 新潮選書 ●1400円(+税)

ある地域(国家)の人口動態を分析してみると、15~23歳の人口幅が大きな幅(山)=総人口の30%以上)を形づくると時期があり、その幅(山)をユース・バルジという。ユース・バルジが現れた地域(国家)では、戦争、内戦、動乱等が発生する。(もちろん、ユース・バルジが現れるためには、急激な出生数の増加が必要であるから、その前に、いわゆる、ベビーブームが起こっていることになる。)。


つまり、一人の男(父)が結婚して子供を2人以上設ければ、二男、三男・・・は相続の対象からはずされ、「ポスト」を求めて争う。「ポスト」を求めるユース・バルジは戦闘能力の高い青年層であるから、そのエネルギーが戦争、内乱、動乱等を発生する。――本書の要旨を大雑把にいえば、こんなところだろう。

古代、ヨーロッパではゲルマン民族の移動が起り、ローマ帝国の衰亡を招いた要因の1つに数えられている。民族移動の主因が人口増(本書流にいえばユース・バルジ)であったかどうかはわかっていないが、人口増だとする説も有力である。

また、10世紀から250年間にわたって行われた、西欧諸国によるイスラム圏に対する十字軍派兵の背景には、そのころの西欧における農業技術の高度化による食糧事情の安定があるといわれている。食糧事情の安定により出生率が高まり、若年人口が増加したとき、長男以外の二子、三子…らが居場所を求めて東へ動き始めた、という説明に説得力がないとは言えない。

また、本書では、15世紀に開始された大航海時代とそれに続く西欧の南北アメリカ、オセアニア、アジア等に対する植民地支配の歴史をその証明事例に用いている。本書は、西欧が世界の覇権を握ることになるエポックメーキングな年を、1493年(コロンブスの新大陸発見の翌年)に求めている。

本書による、大航海時代の西欧の人口推移は以下のとおりである。
コロンブスを生んだポルトガルの場合、100万人(1500年)から200万人(1600年)にほぼ倍増、スペインの場合、600万人(1490年)から900万人(1650年)に1।5倍の増、オランダの場合、70万人(1490年)から200万人(1640年)に3倍増、イギリスの場合、350万人(1450年)から1600万人(1600年)へと4倍強に増加しているという。(本書・P159~P170)

地球規模のパワーバランスの大転換が15世紀(1492年のコロンブスによる新大陸発見)であったという本書の指摘については、筆者も賛同したい。だが、本書も指摘するとおり、西欧が大西洋を西に目指さなければならなかった理由は、東側をチュルク(オスマン・トルコ帝国)勢力によって封じ込まれたためだ。

1453年5月29日、オスマン帝国(オスマン・トルコ)のメフメト2世によって、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡している。古代からのローマ帝国が最終的に滅亡したのだ。このことは何を意味するのかといえば、古代からヨーロッパ世界が覇権を握っていた地中海が、アジア=チュルクによって奪い取られた、ということである。西欧は、東方(地中海の覇権)を失ったから、西方(大西洋)に転ぜざるを得なくなった。そして、「新大陸」を発見したのである。が、しかし、コロンブス(西欧)が目指したのは、あくまでも東方=インドであって「新大陸」ではなかった。コロンブスが、新大陸がインドでないことを知ったのは、発見後、しばらく経ってからであった。

日本の場合、明治維新(1868)後、すなわち江戸時代(封建制社会)が終わり、近代社会が開始されたときの総人口が3,500万人であったものが、日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、中国進出を経て、真珠湾攻撃開始時(1941)における総人口は7,500万人にまで膨張していたともいう(P188)。このような人口増に伴って、当然のことながらユース・バルジもほぼ相関して増加していることになる。

また、日本では、アジア・太平洋戦争の敗戦直後(1947~1950)、ベビーブームが起こり、1960年代になって、その人口分布にユース・バルジが現れた。その世代は、日本では「団塊の世代」と呼ばれ、1960年代後半、火炎瓶、木材(当時「ゲバ棒」といわれた。ゲバとはゲバルトのこと)、投石等を伴った、過激な学生運動が引き起こされている。

日本においては、19世紀末から20世紀初頭にかけたユース・バルジ現象がアジア・太平洋=侵略戦争を引き起こし、その一方、20世紀中葉のユース・バルジ現象は、急速な経済成長と学生運動(=サブカルチャーの活性化)という、国内異変を引き起こしたことにとどまった。事象はまったくちがうものの、ユース・バルジが、日本の現代史において、特筆すべき「異変」を引き起こしたとはいえる。

米国でもほぼ同時期にベビーブームが起こり、1960年代後半、彼らは「ベビーブーマー」と呼ばれるユース・バルジとなって、公民権運動、ベトナム反戦運動等の政治運動と、自然回帰を目指したヒッピー運動と呼ばれるコミューン運動をほぼ同時期に繰り広げた。ただ、この時期、米国の場合は日本と違って、米国政府がベトナム紛争に積極介入し、社会主義国家である北ベトナムに対する軍事行動を起こしていた。米国のユース・バルジのうち、学生を中心とした上層階級は国内で反戦運動・ヒッピー運動を展開し、その一方、徴兵に応じた下層階級はベトナム戦争に従軍したのである。

さて、本書は、ユダヤ(米英)側による、ユダヤ的世界戦略に基づく、イスラム圏攻撃の正当化を目的としたものだと考えられる。

本書の趣旨を別言して繰り返せばこうなる――ユース・バルジを抱えるのはイスラム圏だ、だから、イスラム圏は、(西欧が大航海時代に行ったように)、世界制覇を目論むに違いない、だから、非イスラム圏(西欧、北米、中国、インド、東アジア)は、共同して彼らに立ち向かう努力(=武装)を怠ってはならない、と。

今日、内戦、内乱等を抱える地域(=発展途上国)というのは、国内産業が未成熟なため、弱く不安定な経済力しか持ちえず、そのため、国内に抵抗勢力を抱えることになってしまう。それらの地域の人口分布を見ると、いわゆる“先進国”とは異なるのであって、人口分布も国内の不安定要因の1つであるともいえる。発展途上国の多くがなぜ、今日のような脆弱な経済力しか持ち得ないのかといえば、本書も指摘するように、15世紀から開始された西欧側による植民地支配があり、西欧側による収奪があったことも大きい。植民地支配におけるモノカルチャー、さらに、西欧を中心とした資本主義経済の発展がグローバルな経済格差を生じさせた。そのような地域が、イスラム教圏であるところの、中東、アフリカ、アジアの多くであり、イスラム圏以外では、インド(ヒンドゥー圏)、東南アジア等(仏教圏)、南アメリカ(カトリックキリスト教圏)である。そのような地域を西欧=北に反して、「南」と称する。そして、かかるグローバルな格差を「南北格差」といいい、その問題を「南北問題」と称している。

本書は、悪意ある、反イスラムキャーンペーンの書である。本書の悪意は、ユース・バルジを今日のテロリズムと結び付けている点にある。人口減少に陥ったヨーロッパ先進国が移民を受け入れざるを得なくなった。本書によると、その移民の二世たちがテロリストになるのは、彼らの母国がユース・バルジを抱えているからだ、というのである。移民の出身地(母国=イスラム圏)の人口分布がユース・バルジを示しているから、移民の子供たちもまたユース・バルジであり、危険な存在である、と。このようにして、西欧の移民受入国の国民を、移民排斥もしくは移民差別へと煽動するのでる。本書は、“ユース・バルジ”という人口マジックを用いた、イスラム蔑視の“とんでも本”にすぎない。

2009年7月7日火曜日

大阪


昨日、大阪から戻りました。(土・日・月)

仕事場は中ノ島の某会議場。ホテルは隣接するRRホテル。高級イメージのRRホテルですが、朝食付き一泊7500~8000円とかなり値ごろ感があります。

川がきれいなところですが、ハコモノが林立して、潤いのない地域。

そんなわけで、福島駅ちかくまで歩いて、居酒屋で、牛筋(土手焼き)、バッテラをいただきました。

2009年7月1日水曜日

大須観音

尾張名古屋の注目スポットといえば、大須観音商店街でしょうか。東京の下北と巣鴨を併せたような、新旧が両立する、混沌としたところがいいです。

なんといっても大須観音


なんのお店でしょうか。


名古屋B級グルメの代表格




渋い大須演芸場



2009年6月27日土曜日

『吉本隆明1968』


●鹿島 茂 ●平凡社新書 ●1008円(+税)

1960年代後半、学生を中心とした全共闘運動及び新左翼運動の高揚期、吉本隆明の著作が多くの学生たちに読まれた。著者(鹿島 茂)は、本題の示す1968年に大学に進学した団塊の世代に属していて、その年、吉本の文芸評論に触れて心酔、以来、自分を“吉本主義者”と規定し、本書の執筆に至ったと本書内において告白している。

本題の「1968」という記号は、新左翼学生運動・全共闘運動に参加した世代からすれば、運動の最高揚期として受け止める者が多いであろうし、また、著者(鹿島 茂)のように、吉本隆明に初めて遭遇したメモリアルな年であると受け止める者もあろう。いずれにしても、「1968」は、団塊の世代にとって、そのときの情況をもっとも強く象徴する記号になっている。「1968」が意味するものについては後で触れる。

吉本隆明が当時の若者(=団塊の世代)を中心とした大量の読者を獲得し得たのは、そのときの学生運動の一時的高揚と、その後に訪れた急激な退潮という、極端に相反する情況と無関係ではない。

反日本共産党系左翼運動に参加した学生(全共闘運動を含む)たちを一括して“新左翼”と呼び、新左翼は、吉本が批判した旧左翼(日本共産党を含む世界の前衛党)と対立する立場をとった。新左翼は反日共系もしくは反代々木ともいわれた。日本共産党本部は東京・代々木に当時もいまもある。新左翼は、旧左翼として、ソ連共産党、日本共産党のみならず先進国の共産党すべてを否定した。その理由は、旧左翼=スターリン主義こそが、世界革命の阻害物だからだという理由からだ。新左翼党派の1つである革命的共産主義者同盟(革共同)は、「反帝・反スタ」を綱領に掲げた。当時の新左翼学生は、反スターリン主義という視点から、吉本隆明が文芸評論の中で展開した「転向論」における、日本共産党幹部、日本共産党系文学者及び社会学者への批判を当然のごとくに受け入れた。

しかし、本書が示すとおり、吉本隆明のスターリン主義者批判は、新左翼各派とは異なっていて、旧左翼前衛党幹部に内在する転向・非転向の問題を、新左翼のように、革命の方法論もしくはマルクス主義解釈の問題としてではなく、日本型知識人の問題として扱った。

吉本隆明が多くの若者に支持された理由は、吉本が日本共産党幹部(スターリン主義者)批判の急先鋒の立場をとったからだけではない。それよりもむしろ、学生運動の後退局面――多くの学生運動参加者が脱落したとき――彼らの離脱の正当性と、その拠り所として、吉本隆明が読み込まれたことによる。

本書では、吉本の初期評論である、転向論、高村光太郎論、「四季」派批判、ナショナリズム論(大衆の原像を含む)が扱われている。著者(鹿島 茂)が吉本の著作をいかに読んだかについて、著者(鹿島 茂)自身の出自、当時の境遇を交えて表明し解説する形式をとっていて、吉本隆明の解説書としては気負いがなく、わかりやすい。

著者(鹿島 茂)が横浜の酒屋の出身(=庶民階級)であることと、吉本が東京・下町の船大工の出身(=庶民階級)とがほぼ同一であることをベースにして、庶民階級出身者が高度な教育を受け知識を得て知識人となることで抱える二重性という概念が、吉本思想のキーワードの1つであると説明する。

吉本の初期の評論の内容については本書で解説されているので、ここでは触れない。そうではなくて、いまいちど「1968」という記号に戻って本書を考えてみたい。まず、吉本が既成左翼を過激に断罪する思想家として、「新しい左翼」に迎え入れられたのが1960年代だということ、ところが、68年を頂点にして、新左翼学生運動は退潮し、以降の吉本支持者は、学生運動から脱落した者であったということ――は既に述べた。この傾向を重視したい。

1969年以降、学生運動から脱落した者は、吉本隆明が提出した大衆の原像、生活者という概念を読みとることによって、敗北を自らに納得させたのではないか。吉本隆明を読むことによって、学生運動から離脱した後ろめたさから救われたのではないか。「1968」という記号を冠する意味はそこにあるのではないか。著者(鹿島 茂)が吉本隆明の著作に初めて触れた年だという意味だけならば、それは個人的シーニュにとどまる。

全共闘・新左翼運動から日常に戻った学生たちは、吉本によってどのように救われたのか――吉本は、本書にもあるように、前出の革共同を批判した。「反帝・反スタ」を綱領化したからといって、その前衛党がスターリニズムに陥らない保証はない。すなわち、吉本は新左翼学生が参加した、当時の新左翼=反スターリン主義を掲げた前衛党こそが、スターリン主義にすぎないことを60年代初頭に明らかにしていた。学生運動から脱落した学生たちは、自らの政治参加が必ずしも正しい選択ではなかった理由を、吉本の著作によって確認した。新左翼運動=反スターリン主義運動だと確信して参加した全共闘運動・新左翼学生運動のほうが、より厳格なスターリン主義だった。だから、そこから離脱することは、誤った選択ではない(かもしれない)と納得し得た。著者(鹿島 茂)は吉本の著作の一部を引用して、次のようにまとめている。

吉本は、(中略)スターリニスト崩れのデマゴギーよりも危険なのは、心底真面目で、どこまでもマルクス主義の理想に忠実で、すべてを耐え忍んできたことだけを生きがいにしてきた詩人・黒田喜夫のような存在であるとして次のように述べています。いささか長めですが、これは吉本思想の核の核に当たる部分ですので、しっかり読んでもらいたいと思います。


以下、『情況へ』(宝島社、1994、吉本隆明[著])から引用――

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方が根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか。(P417~P418)


詩人・黒田喜夫のところに、新左翼運動指導者の像を代入すれば、1968年以降の新左翼学生運動が辿ってしまった悲劇がそっくり、出力する。新左翼の闘い方、新左翼運動家自身の心性、闘いが目指すもの、新左翼が掲げた綱領、倫理性、そして倒錯まで・・・そのすべてが吉本によって否定できた。そうなれば、自分たちが新左翼学生運動から脱落したことは、残って闘い続けている学友に引け目を感じることなく、けして間違っていないのだ、という安堵感が得られた。学生運動から脱落し、生活者として市民社会に潜入することはいたしかたないのだ、“先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者を目指すことが解放なのだ”と。

図らずも、1970年以降、先鋭化した新左翼党派は、内ゲバ、リンチ殺人、爆弾闘争、無差別テロ等に進み、日本の反体制運動の歴史に例を見ない多くの犠牲者をだして自滅した。それは、ロシア・東欧におけるスターリン主義国家群の消滅より早かった。吉本隆明の指摘どおり、新左翼が反スターリニズムを掲げながら、旧左翼よりも急進的スターリン主義に染まっていたことは明らかだ。

さて、著者(鹿島 茂)の問題意識は初期の吉本隆明の転向論・ナショナリズム論の解説だけにあるわけではない。著者(鹿島 茂)の本書執筆の動機及び目指すものは、本書の最後の「少し長めのあとがき」において明かにされる。

著者(鹿島 茂)が目指す方法論は、自らが属している「団塊の世代」が起こした全共闘運動・新左翼運動を解き明かすことだということを、吉本の思想を絶賛した本文を終えた後の「少しながめのあとがき」において、エマニュエル・トッド、グナル・ハインゾーンという2人の人口動態学者の名前を挙げて、種明かしをする。

著者(鹿島 茂)は、吉本隆明の『日本のナショナリズム』の立論が、トッドやハインゾーンの方法論に偶然にも近いことを発見したのだと思う。吉本隆明の『日本のナショナリズム』では、明治、大正、昭和の大衆歌謡から、ときどきの大衆のエートスの変化が浮き彫りにされる。その変化とは以下のとおりとなる。

  • 明治期:欠乏の時代(近代の黎明期、貧困、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体は維持・継続)
  • 克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”に、ナショナリズムが集中。
  • 大正期:現実喪失、現実乖離、幼児記憶の時代(資本主義の高度化、成熟期)。(明治期の家族的、農村共同体が崩壊したがゆえに、現実喪失、現実乖離し、幼児記憶として家族的農村共同体を感性でとらえかえす時期)
  • 昭和期:概念化の時代(大衆のナショナリズムが実感性を失い概念的な一般性に抽象化)

明治期、農村を逃れた日本の「近代人」は都市で、克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”というナショナリズムで発露した。大正期になると、「近代人」は、逃れてきた農村の貧困の記憶、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体の体験は、幼児期の記憶や喪失感として現実乖離したものとする。さらに昭和期になると、「近代人ジュニア」にとって、親から聞かされた農村の共同体的生活が概念化=理想化され、ユートピア化する。これが、ウルトラナショナリズムとして結晶化(純化)する。農本ファシズムの成立である。ところが、農本ファシズムは、軍部・官僚の統制に基づく天皇制ファシズムに政治的には退けられ、精神的には取り込まれる。その結果完成したのが軍事ファシズムであり、軍事ファシズムの管理統制の下、日本は戦争になだれ込む。

戦後の団塊の世代の学生運動の高揚については、以下のような世代的変遷を辿る。
  • 戦前・戦中:戦前派世代(=団塊世代の親):、軍事ファシズム政権の下、天皇制ファシズム教育を受け従軍、戦争体験をする。
  • 戦後~30年代:敗戦後、戦前世代は復員。焼け跡、飢え、貧困下において生活を立て直す。アメリカ型民主主義教育開始。
  • 昭和40年代:戦後高度成長経済のもと、復員世代のジュニア(団塊の世代)が大学生に成長。識字率の高い高学歴層の出現。飢え、貧困は克服)
この団塊世代が過激な学生運動の主体、つまり、グナル・ハインゾーンがいうところのユース・バルジである。ユース・バルジとは、戦闘能力の高い15~25歳の青年層のこと。

本書では、吉本隆明の思想の解説と絶賛の終わりとともに、「団塊の世代とは何だったのか」という問いが始まり、“ユース・バルジ”という、あたかも宙吊りにされたかのような回答が現れ、終わってしまっている。もちろん、このエンディングは、著者(鹿島 茂)の続編の予告だと解釈できる。人口学、人口動態学を駆使した「団塊の世代論」に期待したい。

2009年6月26日金曜日

マイケル・ジャクソン

が亡くなった。ご冥福をお祈りします。

享年50歳は若すぎる。まだまだ、できたパフォーマーだと思う。

がしかし、筆者はマイケル・ジャクソンの楽曲として知っているのは、「スリラー」のみ。

もちろん歌えないし踊れない(笑)

いまでこそあの程度のビデオ映像はどうってことないのかもしれないが、当時はやはり衝撃的だった。

映像と音楽が一体化した新たな表現が成立したのだと思うが、あまりよくわからない。

2009年6月23日火曜日

イランの混乱は誠に残念



イランの大統領選後の混乱は、政府の統制により沈静化に向かっているようだ。

ゴールデンウイーク、筆者がイランを観光で訪れたとき、観光客の目からは、このような事態になることはまったく予想できなかった。

今年はイスラーム革命から30年の記念の年、それに大統領選挙が重なっていて、何か起るというのは結果論であって、筆者滞在中には、騒乱の気配はなかった。ガイドさんからは、優勢を伝えられていた現職大統領が再選されると聞かされていた。

確かにいま思えば、そのガイドさんの話の節々から、イラン国民が息苦しさを感じているふうではあった。でも、毎日、お祈りを欠かさないイランの人たちが、イスラームの指導者に反旗を翻すには至るまいと思っていた。

観光客には、その国の実情を知ることが難しいことを、改めて実感した。

写真は「世界の半分」と賞賛された、イラン第二の都市イスファハーンにある「イマーム広場」である。

2009年6月18日木曜日

『カラー版 イタリア・ロマネスクへの旅』


●池田 健二[著] ●中公新書 ●1000円(+税)

日本人がイタリア文化に抱く親密性は、古代ローマとルネサンスに二極化しているように思える。イタリア観光で人気のある都市といえば、おそらく、ローマ、ポンペイ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチア・・・と続くのではないか。イタリアの高級ファッションブランド購入ツアーを除くとしても、日本人のイタリアへの関心は、古代ローマ時代とルネサンス時代に集約されよう。

イタリアにも、もちろん、中世という時代がある。イタリアの中世、すなわち、ローマ帝国がゲルマン系諸民族の侵入を受け滅亡した後、イタリアの地では、古代ローマ文化とゲルマン系文化の融合が進み、さらに、ビザンツ文化の影響も加わった。こう書くと、いかにも順調に時代が進んだように思えるが、ローマ帝国滅亡後、異民族の侵入で疲弊したイタリアが活力を取り戻すのは、西ヨーロッパ地域の回復期と同様、10世紀以降のことになる。ローマ帝国の東西分裂(395)から数えて、実に500年以上を要している。

本書が取り扱うロマネスク芸術の時代とは、11世紀以降、十字軍遠征の時代(1096年から約200年間)をピークとし、その様式がゴシックにとって代わられるまでの間、すなわち、中世初期に該当する。ヨーロッパの農業が安定し、人口が増え、新たな産業が興りつつあった時代である。

ローマ帝国末期、イタリアに侵入した主なゲルマン系民族について時代を追って記すと、まず始め、フン族に追われたゴート族が2~3世紀にローマ帝国内に移動しはじめ、5世紀にはローマを一時支配するに至る。さらに、6世紀にはロンゴバルト族の侵入が始まり、ロンゴバルト王国が建国された。イタリアのロンバルディア地方という名称は、ロンゴバルト人の土地という意味だ。さらに、カール大帝が率いるフランク族により、774年にロンゴバルト王国は滅亡し、フランク王国の支配を受ける。

そればかりではない。5世紀、ゲルマン系のバンダル族がカルタゴを本拠にして、南イタリア、シチリア島を含むバンダル王国を建国している。また、12世紀、傭兵としてやってきてこの地に土着したノルマン族が、ノルマン公国を建国している。さらに、海賊として脅威を与えたイスラーム勢力や、長期にわたって介入を繰り返した東ローマ(ビザンツ)帝国(=ギリシャ勢力)の影響を加えることもできる。

“ロマネスク”の語意は「ローマ風」ということになるから、ローマ帝国のお膝元であるイタリアならば、その開花は当然のことだと思いがちであるが、ロマネスク芸術の担い手は、本家の古代ローマ芸術を担ったイタリア人ではなく、カトリックを受容した、ゲルマン系民族であった。イタリアに根を下ろした彼らは、ローマ風を基礎にしながら、彼らの出自とする北方的要素と、ビザンツ、イスラーム等の東方芸術を融合させ、ロマネスク芸術を開花させたのである。

さて、本書で取り上げられているロマネスク教会等の所在地は、▽ロンバルディア地方=ミラノ、チヴェーテ、パヴィア、▽エミリア・ロマーニャ地方(パルマ、モデナ、ポンポーザ)、▽ヴェネト地方(ムラーノ、トルチェロ、ヴェローナ)、▽トスカーナ地方(ピサ、ルッカ、サンタンティモ)、▽ラチィオ地方(サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ、カステル・サンテリア、バロンバーラ・サビーナ)、▽アプルッツォ地方(ロシィーロ、サン・クレメンテ・ア・カヴァウリア、ペテロッラ・ティフェルニーナ)、▽プーリア地方(トラー二、モルフェッタ、オートラント)、▽カンパーニア地方とシチリア島(サンタンジェロ・イン・フェルミス、カゼルタ・ヴェッキア、チェファルー)である。

その中で筆者が見たことのある建物は、ヴェネト地方のヴェネチアの離島トルチェロにあるサンタ・マリア・アッスンタ旧大聖堂のみ。ミラノ、シチリア島には行ったことがあるが、サンタンブロージュ教会(ミラノ)、サンティ・ピエトロ・エ・パオロ大聖堂(シチリア島)には寄らなかった、というよりも、その存在すら知らなかった。

というわけで、ロマネスク芸術というと、フランス、スペインを想起しがちであるが、イタリアもあなどれない。本書を手がかりにして、未知なるイアリア旅行の企てが可能となる。

なお、池田健二[著]の『フランス・ロマネスクへの旅』が同じ出版社の同じ体裁(中公新書)で刊行されているので、併せての一読をお奨めする。

2009年6月16日火曜日

イランが心配

イランが大統領選後、混乱しているようだ。報道によると、デモ隊に死者が出たらしい。筆者はゴールデンウイークにイラン観光をし、とてもいい思い出をもって帰国できた。なによりも、イランの人々が親切だったことが印象深い。 このような事件があると、「やはりイランは怖いところ」となってしまう。

写真は、ムサビ支持のデモ隊が集結したアーザーディー・タワー周辺。テレビニュースの映像で見た人も多いと思う。筆者滞在中は、車が素通りするだけで、人が集まって騒ぐような気配はまったくなかった。

2009年6月14日日曜日

インドの味





スポーツクラブの帰り、中華料理店で偶然、旧友のS氏と遭遇。
食事後、チャイを飲みに、インド料理店のDに入った。店内にはインドの調度品、神様等々が所狭しと置かれていて、異国情緒あふれている。 最近、その量が増えたような気がしないでもない。

2009年6月11日木曜日

『アーリア人』

●青木健[著] ●講談社選書メチエ ●1700円(+税)


イラン観光から帰ったばかりの筆者にとって、本書の刊行はグッド・タイミングであった。筆者はかねがね、アーリア人に関心を抱いていたし、イランを観光先に選んだのも、この目でアーリア人の国・イランを見てみたいという願望からだった。そればかりではない。これまで雑然と、断片的に仕入れてきたアーリア人に係る知識を、いつか整理したいとも考えていた。

まずもって本書読後の感想をいえば、本書は筆者の願望を満たすに十分な内容だった。アーリア人に関心を持つ人すべてに、本書(及び著者が同じ出版社から刊行した、『ゾロアスター教』を併せて)の一読をお薦めする次第である。

さて、観光中、筆者は日本語の上手なペルシャ系イラン人のガイド・Rさんに、「イランの人たちは、自分たちのことをアーリア人だと思っているのか」と尋ねてみた。Rさんは、「もちろんですよ、私たちの祖先は、ザグロス山脈の麓に住んでいて、それからイラン全土、インド、そして、ドイツに移っていったのです。」と、誇らしげに答えてくれた。

たった1人のペルシャ系イラン人の回答をもって、現代イラン人の標準的回答と断ずることは危険である。だが、筆者は、少なくとも、ペルシャ系イラン人は、自分たちのことをアーリア人の子孫だと自覚しているものと思う。ただ、気になったのは、Rさんがアーリア人の原郷を現在のイラン国内(イラン西南部)だと確信している点と、アーリア人がヨーロッパ全域に移動したのではなく、「ドイツ」という特定の国に移り住んだとしている点だ。筆者の勝手な推測だが、イランのある時期の国史教育は、アーリア人に関し、意図的・作為的改変を加えているように思える。このことについては、本書に即し、後に詳しく触れてみたい。

ペルシャ系アーリア人がイランにおいて覇権を確立したのは、3世紀、ペルシャ人の王朝である、サーサーン朝ペルシャの成立以降のことである。同朝をもってペルシャ語がイラン全土に普及する。ただし、ペルシャ人たちは自らの王朝のことを、エーラーンシャフル(アーリア人の領土)と呼んだらしい。エーラーンはイランと同じである。

イラン系アーリア人には、ペルシャ人、キンメリア人、スキタイ人、サカ人、サルマタイ人、アラン人、パルティア人、メディア人、バクトリア人、ソグド人、ホラズム人、ホータン・サカ人らがいた。それぞれの歴史については、本書に詳しい。

アーリア人の定義

本書に基づき、アーリア人を正確に定義しておこう。

近代以降の言語学の整理によると――
世界の言語は、①印欧語(インド・ヨーロッパ語)、②アフロ・セム語、③ウラルアルタイ語――の3体系に分類される。印欧語には、現在のヨーロッパ各言語、イラン語(ペルシャ語)、インド語(ヒンドゥー語等)が含まれ、アフロ・セム語には、ヘブライ語、アラビア語等が含まれ、チュルク(トルコ)語を含むアジアの諸言語は概ね、ウラルアルタイ語系に属する。余談だが、日本語はこの3体系のいずれにも属さない、謎の言語だともいわれている。

次に、近年の考古学を含む歴史学の整理を本書6Pに従って紹介すると――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。

紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そしてし、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた。

以上の言語学と歴史学の成果をまとめると、次のような結論が得られる。

▽中央アジア・イラン、インド、ヨーロッパの各言語には共通性が認められる。これらの地域の言語は、共通の祖語から派生した可能性が高い。共通の祖語をインド・ヨーロッパ語(印欧語)と呼ぶ。
▽この祖語を話していた民族のうち、中央アジア・イラン・インドに移動した人々をアーリア人と呼ぶ。がしかし、ヨーロッパ人も後世、自らをアーリア人の子孫であると自称し始めたので、アーリア人の概念は混乱していて、今日も、その混乱は続いている。

ここまでのところで、誠に残念なのは、まずもって、アーリア人及びヨーロッパ人の祖語である古代言語が、インド・ヨーロッパ語(印欧語)と命名されたことだ。正確には、インド・中央アジア・イラン・ヨーロッパ語とされるべきであったのだが、それは無理としても、せめて、インド・イラン・ヨーロッパ語と、イランを含めたならば、アーリア人という概念をユーラシア的スケールで把握することが可能となり、後世に現れた狭隘なアーリア人イデオロギーの発生を防げたかもしれない。

二点目は、中央アジア・イランに関するアーリア人の歴史研究が日本に紹介される機会が少なかったことだ。

本書は、著者(青木健)がイラン、ゾロアスター教の研究者であることから、印欧語族のうち、中央アジア・イラン系アーリア人の歴史を扱っている。インドのアーリア人の歴史については、実に膨大な歴史書、解説書が出されているので、それらと本書をつき合わせることにより、アーリア人全体が把握されることになる。

なお、近年、ヨーロッパに台頭した「アーリア主義」は、白人至上主義、有色人種及びユダヤ人差別のイデオロギーと無関係ではなく、アーリア人という本題に即するならば、まったく避けるわけにもいかないようで、著者(青木健)は、ナチスドイツにおけるアーリア主義に簡潔に触れている。ナチズムにおけるアーリア主義の詳細は、他の専門書を当たる必要がある。

イランの歴史

イラン系アーリア人の歴史を追うということは、図らずも、イランの歴史を扱うことに逢着する。ここでイランの歴史を概観しておこう。

古代、現在の中東、イラク、イラン、中央アジア――いわゆる、オリエント世界を制覇した中心勢力は、謎のシュメール文明(紀元前9000年頃)の存在はともかくとして、メソポタミア文明(紀元前3000年頃成立)~アッシリア帝国(紀元前800年頃成立)を含め、セム語系民族であって、アーリア人が主役となるのは、その後のことであった。

先述のとおり、紀元前3000~1500年頃にかけてが、印欧語族の移動時期にあたり、現在のイラン・中央アジア、アフガニスタン・インド亜大陸、ヨーロッパ方面の先住民と融合が始まった。現代のイラン人は、印欧語系の言語=現代ペルシャ語を話すという意味では、イラン系アーリア人の子孫であるが、人種としては、その後、この地を支配したアラブ系、チュルク(トルコ)系、モンゴル系の人々との融合が進んでいるため、純粋なアーリア人ではもちろんない。

紀元前546年、イラン系アーリア人の一派であるペルシャ人は、イラン高原、中央アジア一帯に住む、他のイラン系アーリア人(パルティア人、メディア人・・・)を糾合し、ペルシャ帝国をつくりあげ、ギリシャ人と覇を競った。そのようすがヨーロッパ世界・古代ギリシャの歴史書に残された。以降、西欧中心主義の近代歴史学により、ペルシャ帝国はヨーロッパ世界と対立する世界(オリエント世界)の代表格として規定されている。 ついでに、ペルシャとはギリシャ語で、古代ギリシャ人がイラン高原南西部に住むイラン系アーリア人のことをそう呼んだことに由来する。古代ペルシャ語では、「パールサ人」という。

紀元前333年、アレキサンダー大王が率いたマケドニア(ギリシャ)によってペルシャ帝国は滅亡する。ペルシャ帝国の当時の首都ペルセポリスはアレキサンダーによって破壊され、イラン高原西南部のペルシャ人の勢力の源泉地域はもちろんのこと、旧ペルシャ帝国の版図はギリシャ側に制圧された。けれど、ペルセポリスは宗教・儀礼の都であって、政治・経済の機能をもっていなかった。これをもって、イラン系アーリア人が全滅したわけではない。

226年、ギリシャ勢力の後退を受け、ペルシャ人のサーサーン朝ペルシャが成立した。同朝の管理下、イラン系アーリア人の信仰であったゾロアスター教が同朝の国教となり、布教と体系化が進んだ。また、ペルシャ語がイラン全土の標準語として普及した。サーサーン朝ペルシャの時代に、イランのペルシャ化が進んだ。

7世紀、イラン系アーリア人に大変動が起こった。アラブ人・イスラーム教勢力の侵入だ。

651年、サーサーン朝は滅亡し、イランは、アラブ人による支配を受ける。そして、ゾロアスター教はイラン全土からほぼ一掃され、イスラーム教が信仰されるようになる。イラン系アーリア人のイスラーム化が進む。

アラブ支配の開始から今日に至るまで、イランはイスラーム圏に属し、現在は熱心なシーア派イスラーム教を国教としているが、アラビア語が標準言語として話されることはなかった。そして、冒頭のイラン人ガイドのRさんのいうとおり、現代のペルシャ系イラン人はアーリア人としての自覚をもっている。

イラン人のアーリア人としての自覚というものが、古代アーリア人の帝国樹立(アケメネス朝ペルシャ)~同朝滅亡(ギリシャ勢力による支配)~サーサーン朝の復古的成立~同朝滅亡(イスラーム勢力による支配)~イスラーム国家の成立という変遷に関係なく、一貫してイラン人の意識の中に根付いているものなのかどうかは疑わしい。

そのことは、本書第4章「イスラーム時代以降のイラン系アーリア人」(P.231)にて扱われている。本書によれば、近代以降、イラン人がアーリア人意識を高揚させ始めたのは、19世紀に成立した民族主義(ナショナリズム)の台頭と不可分ではなかった。民族主義は、国民国家という概念を構成する要件の1つである。

19世紀、それまで続いたイスラーム教徒チュルク(トルコ)人支配に代わって、イスラーム教徒ペルシャ人が国家の主導権を握る。そのとき以来、積極的に導入されたのがアーリア人という国民意識であった。

1925年、パフラビー王朝が成立すると、同王朝は「アーリア人の栄光」を国民に浸透しようと努めた。パフラビー王朝の下、イランにアーリア主義が高揚する。同王朝は、ナチスドイツと親密な関係を結んだ。

アーリア主義の流れは、1979年のイスラーム勢力によるイラン革命により頓挫するが、今日のイラン国民の意識から一掃されたわけではない。ペルシャ系イラン人には、革命前の体制を懐かしがる人もいるという。

1979年、イスラーム革命以降、イランはイランイスラーム共和国として、イスラーム教に基づく国家となった。現在のところ、イランイスラーム共和国の民族構成は、人口の5~7割がペルシャ人、2~3割がチュルク系遊牧民、残り1割をクルド人等の少数民族が占める。イランは実は、多民族国家なのである。そして、国民の過半数を占めるペルシャ人の意識の中には「栄光のアーリア人」が潜んでいて、642年の「ネハーヴァンドの戦い」(サーサーン朝ペルシャがアラブ勢力に敗退した戦闘)の屈辱は忘れていない。

ペルシャ人(=イラン系アーリア人)は、7世紀以降、支配者となったアラブの宗教であるイスラーム教(シーア派)を熱心に信仰しながら、その一方で、アーリア人の栄光を忘れがたく心に秘め続けるという、大いなる矛盾の中にある。

現代イランの為政者が国を束ねるため、多数派とはいえ、アーリア主義を持ち出すと、そのほかの民族の離反を招き、分裂の危機を促進する結果となりかねない。多民族国家イランの核になるものは、イスラーム教だけなのかもしれない。

日本人にとっても、ユーラシア大陸の中央部を出自として、インドからヨーロッパに飛散した「アーリア人」は、歴史ロマンを秘めた魅力的な民族概念である。しかし、アーリア人というものは、歴史的概念であり、また、イデオロギーとなっている。民族・部族としては、清算された概念である。これをイデオロギーとして用いることは、ナチスの先例のとおり危険である。

本書を読むことにより、アーリア人に関する基本知識を整理しておくことが重要である。そうすることにより、非歴史的な、イデオロギーとしての「汎アーリア主義」が相対化され、歴史ロマンの魅力に屈する悲劇から、人類は守られる。

2009年6月7日日曜日

靴のバーゲン

朝一番で、靴のメーカー・R社のファミリーセールへ。それほどの混雑でもなく、いい買い物ができた。 家に帰ってすぐに、スポーツクラブへ。日差しが強く、とても暑かった。

ところで、考えてみれば、もう6月も半ば。一年が半分、過ぎようとしている。陳腐な表現だけれど、光陰矢のごとしである。

2009年6月4日木曜日

昨晩、仙台出張から、

帰りました。連休のイラン観光をはさみ、福岡、広島、仙台と、日本の大都市3つを訪問しました。そこで改めて感じたのは、日本の「国力」です。イランに限らず、ヨーロッパの大都市と比べても、日本の大都市は活力があり、よく整備されています。米国は、10年ほど訪れていないので、比較対象から外しますが。

とりわけ、物販のパワーは他国を圧倒しています。こんなにもモノがあふれている国は、おそらく少ないというよりも、存在しないのではないでしょうか。そのことの象徴が、コンビ二です。便利このうえない存在です。コンビニが都市型インフラとして、日本人の生活を支えているといって言い過ぎではありません。

さて、反面、日本の都市に味わいがないことも実感します。人が住むこと、暮らすことにおいて、詩情を醸し出す源泉――路地や裏町や旧市街のもつ魅力が、日本の都市から失われています。

近代日本(人)の都市観では、古いことが汚いことの代名詞になってしまいました。

2009年5月30日土曜日

「イラン旅行記」完結



先のゴールデンウイークのイラン観光の写真日記がやっと、完成しました。「乾杯」といいたいところですが、イランはアルコールが飲めません。写真は「ノン・アルコールビール」
[別冊]旅の写真集です。

2009年5月27日水曜日

休養









きょうは休養日。遅くに起きて、遅い朝食。昼食は散歩を兼ねて近くのレストランへ。途中、新規開店した機織りのショップをのぞく。古い民家等を見て、造花の店で蓮の花を購入。

2009年5月25日月曜日

復帰(その3)

朝起きると、今度は脚が痛い。屈むに屈めない。床に落ちているものを拾おうとすると、腿の裏側が痛む。さらに、二の腕がはったような感じ。というわけで、筋トレ再開の翌日は、満身創痍である。

2009年5月24日日曜日

復帰(その2)

先週、会社を離れ、浦和に2日半ほど詰めていたため、やや疲れ気味。それでも土曜日(23日)、スポーツクラブへ。インストラクターN氏の特訓を受けて、くたくたとなった。
翌日(24日)も懲りずに、スポーツクラブへ。昨日の肩がきいていて痛みが取れない。肩は小さな筋肉なので、回復も遅いのだ。しかも、久々の三頭筋が重さも回数も激減、スクワットも重さを減らしたものの、回数がいかない。
腕、脚の回復はどうも、時間がかかりそう。

2009年5月18日月曜日

復帰

きょう、トレーニングを再開。ベンチプレス、インクラインで胸、そして背中、肩をやってみた。思ったより落ちていなかったけれど、回数はいかない。元に戻すには、1月かかるかもしれない。

夜は、ギリシア人のMGさんとY子さん夫妻、新進ファッション・デザイナーのH兄妹がゲストとしてやってきて、食事をした。H兄妹は、兄がデザイナーで妹がマネジメントを担当しているとのこと。お二人とも海外生活が長かったようだ。

そんなわけで、休んだ気のしない、ややお疲れの日曜日でした。

2009年5月16日土曜日

広島




出張で広島、昨晩帰宅しました。滞在1日目は、シンガポールの首相が世界の元首の中で初めて広島を公式訪問し、被爆者の体験を聞いたとの報道が。そういえば、なんとなく、外国人が多いのかな、と。

写真の原爆ドームは世界遺産だが、何度訪れても辛い遺産。

現在の広島は、清潔で活気のある大都会。翌日訪れたお好み焼き屋さんは、安くておいしくってボリュームたっぷり。お店はお世辞にもきれいとはいえませんが、サラリーマン、ガテン系、女性一人・・・と、客層もバラバラ。鉄板の前ではみな平等、という雰囲気がいいですね。

場所は、紙屋町方面からNHK前の交差点を越えて一本目の路地を右。お勧めです。

2009年5月12日火曜日

きのうは、

旧友のS氏と山手線・田端駅近くの居酒屋・HK屋へ。新鮮な魚が売り物のこの居酒屋、男性雑誌とかで有名らしい。

店内はほぼ満員、幸いにしてカウンターが二席空いていたので、魚介類を肴に生ビール、ホッピーを飲んだ。

2件目は、地元のMにて水割りを飲みつつカラオケ。

看板まで歌って飲んで、徒歩にて帰宅。とにかく終電の心配がないので、地元はいいな。

時差ぼけはないものの、ちょっとしんどい。明日は広島である。

2009年5月10日日曜日

『新左翼とロスジェネ』




●鈴木英生[著] ●700円+税 ●集英社新書

著者(鈴木英生)は1975年生まれと若い。ちょうど、新左翼運動が最も高揚した全共闘世代の子供たちにあたる。そんな世代が、「自分さがし」というキーワードのもと、1960年代から高揚した日本の新左翼について読み解こう、というのが本書の意図の1つとなっている。

さて、「自分さがし」というキーワードだが、全共闘世代からすれば、およそなじまない言いまわしであると思う。ストライクゾーンに入っているのかどうかといえば、おおいに迷う。審判次第では、「ストライク」のコールをしないだろう。その理由については後述する。

本書にはそれとは別に、新左翼運動を若い世代に伝えるという意図もあり、こちらのほうは、十分とはいえないものの、入門書としての機能は果たしている。年代別に7分割した新左翼の歴史は大筋では正しいし、引用した新左翼関係の文献も適正である。文献一覧を見て、懐かしさを覚えた人も多いのではないか。

だが、不満も残る。「新左翼と~」という本題に則するならば、初期マルクスの『経済学哲学草稿』『ドイツイデオロギー』、レーニンの『帝国主義論』『国家と革命』といった論考に触れてもらいたかった。往時、初期マルクスの「疎外された意識」「存在が意識を決定する」「哲学者たちは世界を解釈してきたが、必要なことは世界を変更することだ」、レーニンの「帝国主義戦争を革命へ」といったフレーズが新左翼世代を呪縛した。自己否定の論理が全共闘運動の核であったことも事実だが、新左翼運動に靡いた学生大衆の思想的基盤の1つが初期マルクスの論稿であったことを伝えてほしかった。新左翼に属する学生の多くが『資本論』を読んでいないという事実は隠しようもないのだが、その反面、自分と社会の関係を初期マルクスによって規定しようとしていたことも事実なのである。

たとえば、『ドイツイデオロギー』の中のあまりにも有名な部分を以下に引用しておこう。

共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。そしてまたそれゆえに私はまったく気の向くままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも、猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。(岩波文庫版/P44)

もうひとつの不満は、往時の国際的な反スターリン主義の潮流についての記述が弱い点である。著者は、新左翼運動が日本共産党に対するアンチテーゼであることを何度も強調している。この指摘はもちろん正しいのだが、新左翼運動参加者が旧ソ連に代表される社会主義国家群を否定する、という共通の世界観をもっていたことをもう少し強調しないと、新左翼が結んだ世界像が浮かび上がってこないのではないか。

新左翼党派の1つである革共同(革命的共産主義者同盟)は“反帝・反スタ”(=反帝国主義・反スターリン主義)を綱領としていた(る?)し、共産同(共産主義者同盟)戦旗派が提唱した「過渡期世界論」も、旧ソ連・中国等を疎外された労働者国家群と規定した。新左翼は、当時、世界のおよそ半分を占めた社会主義国家群を否定したのである。反スターリン主義こそが、新左翼と旧左翼(日本共産党・日本社会党)とを峻別する指標であった。

若い世代が当時の新左翼運動を理解しにくいのは、実はこの部分なのではないか。ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)は、著者(鈴木英生)14歳のときだから、ソ連の消滅も認識されているとは思うものの、当時の旧左翼にとっては、ソ連の消滅など思いもよらなかったのであり、「スターリン批判」という形でスターリン個人を批判することはあっても、旧ソ連を筆頭とする社会主義国家群を打倒の対象とすることなど考えもしなかったのである。

新左翼の出発点は、反スターリン主義である。60年安保闘争前後、ロシア革命後のソ連(スターリン政権)が、同志トロツキーを暗殺し、多くの共産党員を大量粛清し、反政府運動参加者を強制収容所に放り込み、ソ連在住のユダヤ人等を虐殺した事実が日本の学生レベルにまで周知され始めたのである。「ハンガリー事件」「プラハの春」といった東欧における社会主義体制の亀裂も伝えられた。当時の世界は、米国に代表される帝国主義国家群と、ソ連に代表される抑圧体制国家群によって構成されている――当時の学生大衆にとっての世界――観念的なそれ――は、閉塞状態、完全な手詰まり状態のように思えたのである。

今日、ブームといわれる『蟹工船』はいうまでもなく、日本のプロレタリア文学の代表作の1つだが、同書がスターリン主義文学かどうかの検証はここではしないものの、全共闘世代が『蟹工船』を愛読書の1つに挙げることはあり得なかった。全共闘世代にとっては、今日の『蟹工船』ブームはむしろ理解しがたいものである。大雑把に言えば、プロレタリア文学は旧左翼の側に属する“文化”であり、それは“反スターリン主義”を党是とする新左翼系学生からすれば、あり得なかったからである。

帝国主義とスターリン主義という両極から抑圧された世界をいかに解放するか――こそが、日本の若者(学生)だけでなく、世界の若者(学生)にとって、共通の危機意識であった。新左翼運動は日本の左翼運動の変遷というドメスティック(国内)な動向に規定された部分もあるが、むしろ、20世紀中葉まで「希望」であったロシア革命が、実は失敗であったことが国際的に検証され、その結果としての「絶望」に規定されたものでもあった。

全共闘運動を含めた新左翼運動の高揚は、第一次ブンドの60年安保闘争敗北を受けて醸成された反スターリン主義を梃子としてもたらされた。だがしかし、反スターリン主義を掲げた新左翼がスターリニズムを克服し得たのかといえば、答えは「ノー」である。新左翼は、谷川雁の言葉を借りれば、小パルタイにすぎなかった。新左翼が批判され続けなければならない体質の1つに内ゲバ闘争(山岳アジトを志向した毛沢東主義者の連合赤軍の総括殺人もそこに含めて)がある。内ゲバやリンチ事件を招いてしまった新左翼の悲劇は、新左翼が旧左翼以上のスターリニズムを内在させていたが故であり、スターリニズムの克服は、新左翼によってなされなかった深刻な問題なのである。だから、若い新左翼研究者が留意していただきたいのは、新左翼の失敗=スターリニズム克服の困難性なのである。

今日の若い世代が全共闘世代以上の閉塞状態におかれ、孤立を強いられていることはまちがいない。がしかし、その突破の環として、新左翼の運動原理を選択肢に求めることは危険この上ない。なぜならば、新左翼がスターリニズムを克服し得なかったからである。貧困という深刻な問題に対して、連帯を求めることが誤りであるはずがないのだが、連帯のモデルとして、「新左翼」を借用することはあってはならないと思う。

スターリニズムとは何かをここで詳論することはできないが、大雑把に言えば、それは集団において発生する権力と、それに対立する個人の自由の問題であり、党と個人のそれであり、個人の想像力の自由と、集団におけるその抑圧の問題である。

では、全共闘運動はどうなのか――本書に限らずこのような類書においては、往時の新左翼運動と全共闘運動の関係をいかに整理するか――が課題となっている。新左翼運動体験者の多くは、<新左翼=党派(反日本共産党系)><全共闘=戦闘的学生大衆>と分類し、党派のオルグ(組織者)が全共闘の指導者となっていて、全共闘学生を党派に勧誘していた事実を指摘するはずだ。また一方、全共闘学生の中には、党派に属することを拒否し、ノンセクトラディカルと称して、全共闘運動だけを運動目的とした者が存在していたことも指摘するはずだ。

党派は、全共闘運動を経済闘争として位置づけた。新左翼各派は、全共闘が掲げた、たとえば、教育環境改善要求、学費値上げ反対、学生会館自主管理要求等々の盛り上がりを、労働運動における組合運動に見立て、そこに結集した学生に対し、政治的(革命的)思想を外部注入し、革命戦士として取り込もうと目論んだ。また、党派の体質は禁欲的であり、密教的集団性を有していた。

しかも党派は、学生が納める自治会費の獲得、学生生協運営がもたらす利潤=利権にも、資金源として執着した。それらが学内における内ゲバ闘争発生の主因でもあった。

前出のとおり、新左翼といえども世俗的な党派に反発する全共闘学生がノンセクトラディカルである。彼らは学内闘争における党派的締付け、内ゲバ闘争、党派間の革命論にかかわるスコラ的議論を拒否した。彼らはロックやアングラ演劇等々のサブカルチャーを運動に同伴させており、そういう意味で、現代の若者に近かった。ノンセクトラディカルの全共闘運動は、個人の倫理・良心のレベルにおける反権力闘争・良心的反戦運動、文化運動――本書に従えば実存主義的な雰囲気をもった社会的集団、という性格が強かった。だが、倫理・良心のレベルを極北において換言すれば、自己否定論に行き着くのである。

新左翼党派は、スターリニズムの克服を結党のコアに掲げながら、旧左翼以上のスターリニズムを内在させ自壊した。ならば、今日の若者は、貧困、失業、格差といった今日的問題に対し、かつて党派を拒否したノンセクトラディカル全共闘運動の組織論・運動論を援用して取り込めるかどうか――ということになるのではないか。本書の意味も、そのあたりにあるような気がする。

ノンセクトラディカルについては、幻想をもちがちである。当時の各大学には、東大全共闘議長の山本義隆、日大全共闘委員長の秋田明大をはじめ、人格的にもすぐれた指導者が数多く存在したであろう。多くの指導者が倫理的・良心的で高潔であったであろう。しかし、その極北としての自己否定論は、閉ざされた思想である。

誤解を解くことから始めなければならない。60年代後半、全国の大学で高揚した全共闘運動は、そのとき初めてつくられたものではなかった。全共闘は、本書に2度ほど紹介されている谷川雁の思想にその始原が求められる。谷川雁についてはまた別の機会に詳論を展開するつもりだが、全共闘運動は谷川が展開したサークル運動と大正行動隊にそのモデルが求められる。サークル運動とは、日本共産党が山村工作隊(=情宣部隊)を使って、文化活動を通じて地域社会に浸透し、共産党員を獲得する運動だった。谷川は山村工作隊員としての活動から自らの思想を獲得し、評論・詩作の基盤を築いた。

後者の大正行動隊とは、北九州における大規模炭鉱・三池炭鉱闘争が敗北したのち、谷川雁がその周辺の中規模炭鉱である大正炭鉱を闘争の場に求めたとき、谷川が組織した闘争集団の名称である。この闘争において谷川は既成左翼の介入を退け、炭坑労働者に対して、独自の組織論の下に自由な運動参加を呼びかけ、資本側と激烈な闘争を展開したのである。

谷川雁が示した2つの先駆的運動は、1960年のはじめにおいて敗北し、谷川は以降沈黙した。党派を離れた個人の自由な集合体が階級闘争を行った結果の敗北である。闘争は敗北したが、しかし、個人の思想性、倫理性は貫徹できた。革命的敗北主義である。大正行動隊の終わりとともに、谷川雁は思想家として第一線から退却し、生活者として、東京、長野にひっそりと住み続けた。しばしば類書にも引用されるように、全共闘運動のスローガン「連帯を求めて孤立を恐れず」とは、谷川雁の言葉である。もしかりに、当時の全共闘学生が谷川雁の運動と沈黙を理解し正しく総括していたならば、全共闘運動は持続的に発展していたかもしれない。しかし、当時の全共闘学生は、谷川雁の二番煎じ=革命的敗北主義で終わってしまったのである。そういう意味での後悔は、いましてもいい。

「自分さがし」という観点から新左翼運動を眺めることの違和感については、以上のとおりである。蛇足で言えば、谷川の沈黙は、実践者としての死の代替である。全共闘運動経験者の多くが、体験の多くを語らない事実、あるいは、匿名で語る事実は、自己否定の論理が極北として<死>をもたらすからである。爆弾闘争、アラブゲリラ、山岳ゲリラと銃撃戦・・・は、本書も指摘するように、新左翼各党派の闘争戦略の帰結ではなく、むしろ、ノンセクトラディカルの倫理性=自己否定論からくる決意主義の帰結である。決意においてあちら側に飛び移った活動家は、死、長期の獄中生活、不自由な海外生活等を強いられた。決意に至らなかった無数の無名の全共闘学生はこちら側にとどまり、生活者として沈黙した。生きている死者として、である。その間、三島由紀夫の自裁を伴った決意主義が、生きている死者に対して、過酷な告発を行った。1970年以降今日までのおよそ40年間は、自己否定を唱えた全共闘学生にとって、辛い残余の年月である。時効はない。
(2009/05/10)

2009年5月7日木曜日

イランから帰国





今日の夕方、北京経由で成田に戻りました。

イランは素晴らしいところ。

海外旅行をお考えの方は、ぜひ、この国を選択肢の1つに挙げてみてください。

観光写真は別のサイトに上げていきます。